さよならだけが 人生ならば

「週初に愚考」(第六十弐)~ 終わりと始まり、 について。高知新聞が二日続きで「さよならの季節」と「サクラの季節」と題したコラム「小社会」を掲載しています。まるで「春先の珍事(椿事)」というべきか。「さよならとサクラ」が同じ季節に重なるのも、何かの因縁。「散り際の潔さ」などと強弁する向きもあり、「さよならだけが人生」という人あれば、それに反旗を翻す人もいる。「サクラとさよなら」が二重写しになる「コラム」など、めったに読めないことだったし、そのテーマはよく考えられるべきものだと思いましたので、ぼくは誘惑に駆られたのでした。二つの「小社会」は、いずれもが、よく言えば、なかなかに「イミシン(意味深)」な人生の深度(変転)を物語っているとぼくには思われましたので、屋上屋の無駄や煩瑣を厭わずに引用かつ愚考する次第です。

 一昨日の「小社会」は大学の合否を知らせる「電文」です。「クジラガツレタ」とは高知大学に合格、つまりは高知大学は鯨だということですね、それにしても大袈裟な。ぼくは貰ったことも出したこともないのですが、今では歴史の遺物になった感があります。電報はたった一度だけ、受け取ったことがある。入学式や卒業式をサボっていたので、学部当局から「シュッセキサレタシ」とかいうのものを。さすがの、「オコトワリシマス」との返信は出さなかったが。「電報文」にはそれぞれの大学の地域性が出ていて、悲喜こもごもの「サクラチル」「サクラサク」でしたね。進学率が高止まりしている今では、多くの若者にとって「大学の門」は、まことに有り難くない「青春の門」となった感がありますが、よくよく見ると、「門」(「裏門」も含めて)があるようで、実際には「錯覚」だったということに入学後に気付く人も多くいるのではないでしょうか。昨日のコラム氏は、例の唐の于武陵(うぶりょう)の「勧酒(「お酒をどうぞ」)を出しました。本家よりも物真似(翻訳)の方が有名になった、まことに井伏鱒二さんは見事な邦訳をされたものでしたね。この「勧酒」については、駄文製造者も何度か取りあげています。

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【小社会】サクラの季節 「クジラガツレタ」。年配の方ならピンとくる方も多いはず。かつて高知大の入試で合格者に送られた電文だ。昭和の時代、合格発表を見に来られない受験生に、大学の学生自治会などが請け負った合格電報の一つ。▶中でも最も有名な電文は、「サクラサク」か。諸説あるが1956年、早稲田大で初めて使われた。「アカモンヒラク」(東京大)、「マリアノカネガナル」(長崎大)、不合格では「ミチノクノユキフカシ」(東北大)、「ゲンカイノナミハアラカッタ」(九州大)…。地域の風土も感じさせるさまざまな電報が各地から打電された。▶それが平成も半ばになると、インターネットの普及で大半の大学がホームページに合格の受験番号を掲載。2005年の本紙記事には「高知大学でも十年ほど前から電報の請負が姿を消した」とある。▶氏名発表から番号発表、電報からインターネットへ。時代は移ろい、キャンパスの掲示板前で先輩学生が合格者を胴上げする姿も消えつつある。▶ただ合格発表の光景は変わっても、受験生の「明暗」は今も変わることはない。デジタル空間には10代の切ないつぶやきがあふれる。「全部自分のせい。どうすればいいのか」「頭が真っ白で全然わかんない」▶そんな若者たちにことしの桜はまぶし過ぎるかもしれない。が、サクラが咲いた人にも、散った人にも芽吹きの季節はまた同じように巡ってくる。来年は満開の笑顔を。(高知新聞・2025/03/22)

 (時代の推移とともに消えてゆくものは多いが、そのかなりな部分を「換骨奪胎」とはいえ、きっと復活(ルネサンス)するでしょうね。「復古」がなければ、行き先も消えると思うんでしょうね。人間社会の進展など、あまりあてにはできないですね)

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【小社会】さよならの季節 お彼岸に入っても寒い日が続いていたので、春もやや慌てたか。高知市はきのう、日中の最高気温が25・8度まで上がり、初夏を思わす陽気になった。街では半袖姿の人も見かけた。▶これには桜も大慌てに違いない。高知城の標本木は平年の開花がちょうど3月22日。訪れると、一輪も咲いていなかったが、つぼみがずいぶんと膨らんで、開花が近そうだった。▶慌ただしいといえばいま、人の世も同じだろう。転勤や就職、進学などで引っ越し準備に追われている人が少なくない。長年住み慣れた土地や親しい人たちとの別れの季節でもある。この時季によく取り上げられる漢うぶ量唐の于武陵(うぶりょう)の作品「勧酒」がある。▶別れを惜しんで「花発多風雨 人生足別離」とつづった。花の咲く頃は風雨が多いように、人の一生には別ればかりが多い。現代語に訳せば、そんな意味になるだろう。作家の井伏鱒二はかつて、「人生足別離」にこんな訳を付け注目された。「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」▶無常感が一層広がり、なんとも切なくなるものの心に残る。どうせなら友人や同僚、家族を満開の桜とともに、華やかに、にぎやかに送り出したいものだが、間に合うだろうか。▶桜前線はまだだが、もう一つの春の使者は続々と北上している。きのうの朝、自宅の前でツバメがさえずっていた。新年度入りまであとわずか。さよならだけでなく、出会いの季節も迎えている。(高知新聞・2025/03/23)

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 「別れに一盃 吞もうじゃないか」「注いでおくれよ なみなみと」(無骨流)。「勧君金屈巵 満酌不須辞 花発多風雨 人生足別離」、これを「ハナニアラシノタトエモアルゾ」「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」(井伏著「厄除け詩集」)と、井伏さんは武士(もののふ)もどきの「今生の別離」の潔さに移し替えました。コラム氏いわく「無常感が一層広がり、なんとも切なくなるものの心に残る」と。果たしてどうでしょう。ここに感傷や別離の愁いを読むのは間違いではないでしょうが、ぼくはもっと積極的に「交わり(厚誼・厚情)」の深さを感じ取るのです。唐代の詩人の「想い」がぼくに分かるはずもありませんけれど、また逢う日まで、逢える日まで、互いに無事で生きようじゃないか、と言いたいくらいのものです。<Let’s meet again in good health>

 この井伏調に対して、若かった寺山修司さんは「さよならだけが 人生ならば 人生なんかいりません」と反抗しました(「「幸福が遠すぎたら」・「ポケットに名言を」に所収 1973年)。いわでものことと、後年には詩(詞)のこの部分を削除しましたが、気持ちは変わらなかったでしょう。ぼくには、いかにも寺山さんらしくない情緒が漂う詩情であると思われますけれど、いやいや、むしろ、ここにこそ寺山さんの「思想(本領)」があるのだとも直感している。「さよならだけが 人生ならば また来る春は何だろう はるかなはるかな地の果てに 咲いている野の百合何だろう」(「幸福が遠すぎたら」寺山修司)、「感傷過剰」、陰々滅々の真情溢れんばかり。この詩は「さよならだけが人生ならば」というタイトルで「六文銭」がレコードを出しました、作曲は小室等さん。ほぼ同時期には、寺山さんの秘蔵っ子だった(と思われた)カルメン・マキさんも。(いずれも「他に換えがたい」出来具合だと思う)

(「さよならだけが人生ならば」六文銭 19743年:https://www.youtube.com/watch?v=YWgmRZSLkfU)                                         (「さよならだけが人生ならば」カルメン・マキ 1969年:https://www.youtube.com/watch?v=TDy_axc7Jd0

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 駄文の主旨は「終わりは始まり」であるということです。、同じことのようで「始まりには終わりが」潜んで(埋め込まれて)いると。どんなものでも「始原」「発端」がありますね。始まりがなければ始まらない。始原とは原始のことで、ぼくたちは何も考えないで「原始時代」などという。何かが終わったからの「原始」だったのではないですか。そこには尽きない、自然現象の条理や事情が無際限に含まれているのですが、それはさておいて、終わりの源は始まりだと、誰もが、あるいは動物・植物(生命一般)はすべからく、自らの終わりを知っているから、次代に自分のなかの何者・何事かを遺す定めにあるのだと思う。生命全体だって、その中には「終焉」が刻印されている、そのことの微かな直感が「サヨナラダケガ人生だ」と言いたくもあり、「さよならだけが 人生ならば 人生なんかいりません」と言ってみたくなるのではないでしょうか。井伏さんも寺山さんも、この「科白」を吐いたのはまだ、三十代だった気がします。

 大学に合格しようが、不合格であったにせよ、そのことで人生の重量も値打ちも少しも変化はないのだと、気が付くことはとても大切ではないですか。仮に「人生の意味」「人生の価値」という言葉を使うとして、大学への合格・不合格によって、意味や価値が増したり減ったりすると考えてしまう、そんな世間流通の軽薄さ・通念をぼくたちはいつとは知れず自らの中に持ち込んでしまう。学校・社会教育の賜物と言っておきます。人生において、あるいは人生を営む場としての社会において、当たり前に大学が存在し始めたのはたかだか百五十年前。大学の存在しなかった歴史は無限ですね。今もなお、半数の人は大学には足を踏み入れていません。この事実は重くはないですか。大学の湯無で測られる人生って、どれほどのものですかとぼくは問たいですね。

 コラム氏は「(大学入試に不合格だった)そんな若者たちにことしの桜はまぶし過ぎるかもしれない。が、サクラが咲いた人にも、散った人にも芽吹きの季節はまた同じように巡ってくる」という。どうあっても「合格」が人生に不可欠のように言いたそうですが、視野狭窄ですね。ぼくも人並みに「大学」(だと公認されていた)に入った、だから、そこを出た。入る時になかったもので、出るときに得たものは何だったか。反対に、入る時に持っていて、出るときに失っていたものは何だったか、それを考えると、ぼくにとっての大学とは、必要不可欠なものではなかったと断言できます。二十歳前のぼくに欠けていたのは、見知らぬ幻だった「大学」に対する幻想・妄念を、自分の手で壊さなかったことだったと思います。「大学」について云々できるのは「大学に在学した経験」があったからですから、その意味で、ぼくには「(大学は)他山の石」だったと言えます。

◎ 「他山の石」とは「よその山から出た、つまらない石。転じて、自分の修養の助けとなる他人の誤った言行」(デジタル大辞泉)「自分の石をみがくのに役にたつほかの山の石の意。転じて、自分の修養の助けとなる他人の言行。自分にとって戒めとなる他人の誤った言行」(精選版日本国語大辞典)(「詩経―小雅(しょうが)・鶴鳴(かくめい)」の一節。「他山の石、以て玉を攻(みが)くべし」から)

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「孤愁」を救うか、ラジオ流の語り

【有明抄】ラジオ放送100年 西欧で庶民が自分の時計を持ち始めたのは18世紀の産業革命のあと。工場で働くようになり、工場主が大時計の針をごまかして余計に働かせようとするのを防ぐためだったとか。日本では大正時代、腕時計が普及した。近代化とは時間にとらわれることでもあった◆そのころ、うぶ声を上げたのがラジオである。ちょうど100年前の大正14(1925)年3月22日、関東大震災の爪痕が残る東京で放送が始まった。「ただいまから11時30分をお知らせいたします。50秒前、40秒前、30秒前、20秒前、10秒前、あと5秒」…鐘がカーン◆それまで多少のズレは当たり前だった「時刻」が家庭で正確にわかるようになった。いつでも好きに読める新聞とは違い、そのときにしか聞けない放送番組は、人びとの時間感覚を大きく変えた(竹山昭子『ラジオの時代』)◆スマホで全国のラジオが繰り返し聴けるようになった今、もう時間にとらわれることもない。テレビの登場でお茶の間から遠のいたラジオは「みなさん」から「あなた」へ語りかける存在に変わった◆ラジオタレントを自認した永六輔さんは書いている。〈この声を信じよう、この人は嘘をつかないという頼られ方ができるように、毎日のラジオを続けてきた〉。そんな頼れる言葉を届けているか。同じ歴史の長いメディアとして、ちと耳が痛い。(桑)(佐賀新聞・2025/03/22) 

 ぼくが大変に世話になった先輩に耳鼻科の M 医師がおられた。旧制熊本五校から九大医学部を出て、都内で医業を継いだ人でした。ぼくは上京して間もなく、喉に変調をきたしたので、近所の耳鼻科医に診てもらった。その縁でぼくはクラシック音楽を聴き始めたのでした。いわば旧制高等学校卒業者らしい雰囲気のあった人だった。医師夫妻は、ぼくたちの結婚の立会人になっていただいた。その医師が「ぼくは大大正14年生まれで、親が付けた名前が<ラジオ>だったが、あまりにも奇妙な名前なので、「ラ」の上の横線を取って「フジオ」になったんだ」と言われたことがありました。(ある時期から、ぼくには理解できないような事柄があって、ぼくの足はM医師からは遠のいてしまいました。恩知らずだったと、自らを責めています)

 そのラジオが誕生して本日は「百年目」を迎えたという。例によって、昨夜からの「ラジオ深夜便」を聴いていたら、盛んに「ラジオ放送百年」を喧伝し、ついでに「ラジオ深夜便放送開始三十五年」を伝えていました。昨夜から今朝にかけて、ラジオ深夜便は、この二つの「記念日」を合わせた番組編成を取っていたようです。繰り返し駄弁っているように、ぼくはともかく、毎晩イヤフォンを耳に挿んで床に就く。その大半は爆睡しているのですが。昨晩の担当者(アンカー)もよく聞き知っている方でした。日付が変わった時間帯には、以前に「アンカー」を務めていた方が三人も登場された。驚いたのは、その三人のそれぞれが担当されていた当時の番組の内容が、ほぼ正確にぼくの記憶に遺されていたことでした。(三方とも、その前はテレビの「顔」として、重きをなしていたのであり、いわば、第一線から退いてなお、ラジオで活躍の場を持たれていたのだった)

 それを言うなら、ラジオをを聴き始めたころは、田舎から京都に出てきた当時(昭和30年)でしたが、何級スーパーとか言った受信機で電波が、文字通りに波を打って、なかなか波長が合わない聞き苦しい音を我慢し永田の愛聴だった。そんな中で一番最初に聴いたのが、NHKのラジオ劇で「お父さんはお人よし」(左上写真)というものでした。花菱アチャコと浪花千恵子のコンビ一家が織りなすホームドラマ。それを筆頭にいくつもの放送内容を覚えています。さらには落語や浪曲など、演者の語り口までほぼすべてを覚えています。いちいち名前を挙げませんけれど、いずれも名人上手と言われる人たちでした。また、海外からの中継では、メルボルンオリンピック(1956年秋)の競泳の中継放送を熱心に聞いたものです。山中毅(日本)とマレーローズ(豪州)の一騎打ち。という具合に話していけば、際限がなくなりそうです。またその当時は、兄貴に倣って「鉱石ラジオ」を自作し、電波を捉えようと屋根の上って通信電波の具合を合わせたものでした。

【余録】日本の放送は1925年3月22日、東京放送局(NHKの前身)のラジオ仮放送で始まった。アナウンサーの第一声、海軍による演奏に続き同局総裁の後藤新平があいさつで「文化の機会均等」などラジオの機能を説明した▲ただし後藤がまず強調したのは、「極力混乱と誤用を避け、乱用や盗用などの弊害を引き起こさない」戒めだった。関東大震災が23年に起き、内相などの職に就いた後藤は復興行政を担った。震災時の流言飛語などの混乱を踏まえ、正確で迅速な情報を求める社会の要請も受けての船出だった▲戦前から現在まで、100年に及ぶ放送である。53年にテレビ放送が加わり、大衆文化の担い手となった。ラジオは戦時中に情報統制の手段となり、テレビ番組は視聴率至上主義が批判されるなどの陰影も放送史は帯びている▲近年は政治との距離感や、有名タレントの不祥事を巡るフジテレビの対応のように、業界の体質やモラルも問われている。ネット社会の下、テレビ離れが進んでいる▲岐路に立つ放送である。後藤はあいさつで、事業者や聴取者が「自治的自覚」を持つ必要性も説いていた。東京放送局はやがて旧日本放送協会となり、政府は関与を強めた。後藤は新組織の総裁就任を辞退した▲茶の間に据えたテレビを家族そろって楽しむ時代が過ぎても、ネット情報があふれる中、災害などで放送が果たす役割は変わるまい。信頼と自立を失わず、視聴者にどう向き合っていくか。後藤の問いかけは、なお続いている。(毎日新聞・2025/03/22)

 だからというわけでもありませんが、ラジオ放送百年の歴史のうち、およそ4分の3近く(70年程)は聞いてきたことになります。その中でも「ラジオ深夜便」は放送開始から35年聴き続けてきた。もちろん、それは単なる惰性(習慣)であって、注意深く聞き逃すまいという姿勢ではない。それでも時には、物故された方々の「生前の声」を聴くことは楽しみでもあり、得難い学習の機会でさえもありました。ある種の講演会場のひとりの聴衆になったつもりで、たくさんの碩学の話が聞けたことはさいわいでした。その代表格は「明日への言葉」という、テレビでもやっていた番組のラジオ版でした。夾雑物なしに、自由に想像力を働かせて聴いた、非常にいい番組だったと、今では懐かしく思うほどです。現在の「深夜便」について、忌憚なく言えば、ぼくには単なる「時報」「時計」代わりのようなもの。猫に早く起こされるので、ぼくには床に入っている時間はとても貴重なもので、だから少なくとも深夜零時や1時ころまでには絶対に起きないのだと、真っ暗な寝室でラジオの時報を頼りにしているのです。加えて、毎時ごとの天気予報。これも次の日(本日)の予定を考える要素にはなっている。それにしても、NHKのラジオにまで俗悪、軽佻かつ騒々しい限りの番組がたくさん詰め込まれてきているのには驚くばかりです。もちろん、個人の感想ですから、それを何とかしろというのではない。

 文句でもなければ注文でもないのですが、ラジオと言えば「FM放送」もよく聞きました。その大半はクラシック番組やジャズなどでした。音楽番組にはそれなりに貴重なものがあっただけに、今日の若者用番組編成とでもいうのでしょうか、まったく聞くに堪えないもので、まさに昔日の感に堪えないと言っておきます。

 いつも通りに、脈絡のない駄弁に終始しています。要するに、テレビの後塵を拝していたかと思われたラジオにも意外な可能性があったことの発見は嬉しい限りですが、世は深夜ながら族の時代とあれば、ラジオの俗化も不可避であるという、一つの結論(展望)が出せそうではあります。NHKラジオだけのことでしょうか、放送の時間に穴をあけないために、以前に放送された分を再放送する割合が高くなっている。だから、昼の日中に「今晩は、今夜は…」などという語りが四六時中入るのは避けてほしいね。

 それもこれも含めて、ラジオ流の(一人称の)語りかけは、不特定多数に向けてのものではないでしょう。たった一人で耳を傾けている一聴取者(「あなた」)の「孤愁(Solitary)」を救う力があるのでしょうか。それをぼくは大いに願っているのですが。(現在、ラジオ聴取は無料)

 今朝の3時台、「日本の歌 心の歌」では、懐かしの叙情歌・唱歌集でした。明治に作られた古い歌などを聴いていると、「明治は遠くなりにけり」と草田男さんは詠まれたが、何のことはありません、ぼくにとって、いいも悪いも含めて、「明治は指呼(しこ)の間」としか思えないのです。「呼べば答えるほどの近い距離」(デジタル大辞泉)。昨夕のニュースで「西南戦争」を戦った双方の大将(同じ薩摩藩出身の西郷隆盛さんと大久保利通さん)の末裔(曾孫(ひまご)と玄孫(やしゃご)が、田原坂で、敵味方を超えた、百数十年後の握手をしている場面が報じられていました。それにしても「遺伝子とは恐ろしいもの、どちらがどちらと一目瞭然でしょ。左写真)。(西日本新聞・2025/03/21・https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1329233/

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また空の青さを言って梅林

想像超える〝群馬の絶景〟に4.4万人驚たん 「めっちゃ綺麗」「桃源郷ってこんな感じなのかな」

「群馬の梅林が想像を超えてきた」
そんな呟きと共に投稿された絶景が、X上で注目を集めている。
「群馬の写真だけを撮ることを制約と誓約にしている」というフォトグラファー・もちづき(@mochi1photo)さんが2025年3月11日に投稿したのは、写真いっぱいに広がる梅林。
白い花とピンク色の花が作り出すコントラストが絶妙で、なんだかこの世の物とは思えないほどの美しさだ。
だが、これは確かにこの世の――群馬の風景らしい。
Jタウンネット記者は14日、もちづきさんに詳しい話を聞いた。(以下略)(https://topics.smt.docomo.ne.jp/article/jtown/region/jtown-365006?redirect=1)Jタウンネット3/21(金)8:00 

 まだ関越自動車道ができる以前だったか(1975年8月には川越IC〜東松山ICまでが開通)、おそらく50年近く前から、ぼくは毎冬のようにスキーに出かけていました。ほとんどは群馬か長野で、その大半は万座温泉スキー場でした。多くは親子四人で、三泊四泊の泊まり込みでしたから、荷物はふんだんあった。そしてスキー道具も人数分揃えての旅行でした。最も時間がかかったのは、17号線を通って行った時でした。それ以外は、今ではルートは曖昧になりましたけれど、よく吾妻川沿いを通りました。

 そのときに、時季にもよりますが、いつでも満開の桃の花に圧倒されていたことを記憶しています。もともと、ぼくは写真機(カメラ)を持たないで旅をする人間でしたから、いい景色は自分の眼の裏に残しておこうという考えで、その鮮やかな色彩にはそれこそ驚嘆したものでした。運転中に近くの山の中腹などに桜が見えると、何とか、その桜めがけては昇って行って、ゆっくりと花の美しさと匂いを堪能したものです。

 本日の駄文を書きあげてから、ネットを見ていると思わずめ眼を奪われたのが、この「群馬の絶景」でした。世の中にはさまざまな好事家やプロがおられますが、この「梅林」をカメラで切り取られた方も、その一人に間違いないようです。いつも言うことですが、ぼくは写真を見ているだけで、十分に満足する。写真家も凄いと思いますし、その写真家に、自らを写させる「梅の木たち」も見事です。さぞかし、年間を通した「手入れ」は大変なものがあるのでしょうね。暫し、梅の木の咲きぶりに見惚れていました。

・また空の青さを言って梅林(小池万里子)

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仰げば尊し和菓子の温

 卒業式が酣(たけなわ)です。あらゆるところで、それぞれの「卒業」を祝う、あるいは記念する行事が行われていることでしょう。「卒業(そつぎょう)」とは、「業を終える」という解釈があります。英語でいうなら<graduation>、あるいは<commencement>というらしい。この<commencement>はフランス語にもあり、そちらは「終わる」「終える」という以上に「始める(commencer)」という語感が強く、ぼくはいつでもそちらの使い方を好んでいました。「何かが終わる(終える)」は「何かが始まる(始める)」ですね。いずれにしても、三月は「卒業シーズン」です。自分でも奇妙なことに思われるのですが、ぼくには「我が卒業式」の記憶が皆目ない。もちろん「卒業証書」なども、一枚も残っていない、見たこともない。だから、時々、ぼくは各学校を卒業したのだろうかと「不安」というか「怪訝」な思いになることがあります。恰好よく言うなら、「終える」より「始める」方に関心があったということでしょう。

 「卒業」ついでに愚論を一つ。今では誰も不思議に思わないようですが、ぼくの印象では、ある時期から「卒業式」ではなく「卒業証書授与式」という看板を掲げるところが私立・公立校を問わず増えているように感じます。どうでもいいこと、でもそこにはどんな違いがあるのでしょか。授与・授賞などというと、授ける側からの表現でしょ。証書を「授ける」「与える」ということです。面倒な議論はしたくないのですが、校長が「証書」を「授ける」というのでしょう。元をただせば、授与者は校長なんかではなかった。記念すべき、本邦初の「学位授与式」がおこなわれたのは、東京(帝国)大学でした。明治32年のこと。卒業者に証書を渡し、成績優秀者には「恩賜の時計」が与えられたという。「授与式の濫觴(らんしょう)・発端(ほったん)です。だから、卒業式には「国旗(天皇を象徴しているらしい)」が付いてくるのでしょう。(卒業式の記憶がぼくには残っていないのは、そんなところに「参加」「参与」したくなかったということかもしれません)

 大半は三月に、ある段階を「卒業」されますが、なかには学期の途中で「卒業」されることがあります。この場合の「卒」は「にわ(かに)」「突然」ということでしょう。突然に業を終える。つまりは解雇とか解職に遭うというのでしょうか。脳卒中とは、突然に脳の血管が破れるという謂いで、卒中は「突然、中(あた)る」です。同じように「卒倒」というのがあります、いきなり倒れる。その意味での「卒業」です。ここで、例の高知教育界の「退職教員」再論です。(初任者の女性教員がキャバクラでアルバイト」、それを咎められて「退職」(解職でないのは、おそらく退職金等が出る処分だからでしょうか。一年目ですから、大した額ではありませんが)

【小社会】先生という仕事 熱血教師ドラマの代表格の一つに2000年代に放送された「ごくせん」がある。任侠(にんきょう)一家に育った教師が問題児たちを導く物語。仲間由紀恵さんが主役の「ヤンクミ」を演じた。▶その中に、水商売のアルバイトが発覚して追い込まれる同僚先生の回がある。同僚はヤンクミと生徒らの支えで退職を回避。これを機に教師としての自覚が芽生えて…。▶高知市の女性教員がキャバクラで副業して処分されたとの報道に、この話を思い出した。ドラマのような事態が身近にあるとは。▶ただ、彼女の属人的問題と断じてよいものか。採用1年目。給料の物足りなさと認識の甘さを口にした。多くの若い教員に通じる現実でもある。退職に至ったのはドラマのような支えが周囲にいなかったからかも。興味本位で見がちな話題だが、提起することは多い。▶それにしても、近年の教員不祥事の多さには目を覆う。おかげで、今月末で退く長岡幹泰・県教育長には「不祥事」の印象が濃く重なる。長岡さんといえば66年ぶりの教員出身の教育長。現場の受けは良かったようだが、では不祥事の多発はたまたまか。後任も教員出身だ。在任期間をしっかり振り返ってもらいたい。▶昨日は教員異動の発表もあった。節目の春なのに、不祥事や採用難でどこか影が差す。いっそ「ごくせん」を見返すのも一考か。荒唐無稽な設定だが、先生ってやっぱりいい仕事だな、そう思えるドラマでもある。(高知新聞/2025/03/21)

 「先生という仕事」はかくあるべき、とは言いません。現実にさまざまな教師像が蠢いているのですから、それを四角四面の狭い範囲(土俵)に閉じめることは不可能。それぞれが自由自在に、いや人によっては法令順守専一で勤められて結構でしょう。採用一年目の女性教員、あまりにも給料が物足りなかったので、「規則」では禁止されているのを知りながら「副業」に心が動いた、「バレなければ」という心情はよく分かります。でも「バレたら」という他の方面にも気を配るべきだったかもしれませんが、終わったことだから仕方がありません。コラム氏が指摘されているように「興味本位で見がちな話題だが、提起することは多い」という一面にもっと注意を雪ぐべきだと思っている。規則違反だから処罰というんはゲイのないこと夥(おびただ)しい。この副業経験を生かしたじゅごゆをすれば、子どもたちも学ぶことが多かったでしょうに。

 不祥事が明るみに出ると、「あってはならないこと」「教師として断じて許されない」と責任者は一端(いっぱし)の口を利くのは常套(上等)ですが、埒もないことを言ってお茶を濁す(責任を回避する)、その姿勢こそが不祥事の温床となっているのではないでしょうか。時の教育長(教員出身)が、「記者会見」に姿を見せなかったと報じられていましたので、ぼくはよほど大事な要件が他にあったに違いない、あるいは「キャバクラにでも行っていたか」と揶揄しておきましたのに、どうも、この教育長にも大きな「不祥事」がありそうな(新聞テレビの)報道ぶりから見え見えでした。

 本日のコラム氏もはっきりと書かれている。「それにしても、近年の教員不祥事の多さには目を覆う。おかげで、今月末で退く長岡幹泰・県教育長には『不祥事』の印象が濃く重なる。長岡さんといえば66年ぶりの教員出身の教育長。現場の受けは良かったようだが、では不祥事の多発はたまたまか。後任も教員出身だ。在任期間をしっかり振り返ってもらいたい」と。よほど教育長の言動には目に余るものがあったのでしょう。ぼくは高知の教育界に関しては、かなり調べたことがあります。もちろん戦前・戦中・戦後を通して、です。何人もの教師たちは「県教育委員会(旧県視学)」の不当な圧力に果敢に戦い、断じて抵抗を止めなかった。具体的には両手で数えられるほどの教師たちの事績を調べたことがありますから、百年経とうが、教育界の「不如意」「不本意」「立身主義」は不易だということの証明でしょうし、それは高知だけのことではなく、また教育の世界だけに限らない「人間の弱さ」(醜さや意地汚さ、意気地なさ)に通じます。出世したい、昇進したい、偉くなりたい、給料を多く貰いたい、勲章が欲しいなどなど、どれもこれもぼくは、他人のすることですから)否定はしないが、本末の順序を忘れてしまうなら、何をかいわんやです。ぼく自身は、金輪際。このような「末」のことは忌み嫌います)

 こと「学校教育」に限定して言うなら、おしなべて、子どもや授業に興味を失えば、あとは昇進する(偉くなる、偉そうになる)ことにしか関心が湧かないのでないですか。ぼくの狭く拙い経験からでも、それは断言できます。校長や教頭(副校長)などになれば、授業は持たない。持ちたくないから校長になりたがる、どうですか。つまらない話ですが、この「つまらなさ」が学校教育を百年以上にわたって歪めてきたのです。それはとりも直さず、子どもたちを苦しめてきたことになるでしょう。高知県では次年度の教員採用試験の合格者300人弱の内、7割以上が任用を辞退したという。これも高知だけに限らないこと。給料が低いから辞退するのだというなら、それは違うと否定しておきます。「人はパンのみに生きるにあらず」です。「気位(きぐらい)」は誰にもあろうし、まして教師には欠かせない資質です。「自分の品位を誇り、それを保とうとする心の持ち方」(デジタル大辞泉)、それがなければ、人と対等・平等には交われないのですから。

 ある時期、夏休みの大半を使ってぼくは「ごくせん」「G.T.O.」「女王の教室」などを観たことがあります。いわゆる「教員ドラマ」です。荒唐無稽だったが、そこには、今では忘れ去られた教師の、荒々しいものでしたが、「気位」が香っていたと思う。生徒の側に立てば、管理職は文句を言うという筋立ては、学校教育制度開始以来いささかも変わらない学校の体質です。教師と生徒は仲間でなくてどうすんですか。芭蕉さんの「不易と流行」という表現を借りるならば、どういうことが言えるでしょうか。学校の体質、管理職の体質、それらは「古色蒼然」として「青黴(カビ)」が生えているのです。対面重視、組織防衛、それもこれも自己保身のためです。無責任という言葉を辞書で牽(ひ)くなら、「校長や教頭のこと」と出てきそうですな。

 「昨日は教員異動の発表もあった。節目の春なのに、不祥事や採用難でどこか影が差す。いっそ『ごくせん』を見返すのも一考か。荒唐無稽な設定だが、先生ってやっぱりいい仕事だな、そう思えるドラマでもある」とコラム氏。破天荒・荒唐無稽と(ドラマの主人公」に対して)言いたくなるのは、ひるがえって見るなら、どんなに教師稼業(に限らない)は杓子定規か、四角四面か、表向きは「謹厳実直」ぶるかということでしょう。だから「バレなければ」「みつからないなら」と不祥事に熱中するんじゃないですか。不祥事がいけないんではなく、不祥事が「見つかる」「バレる」から、いけないんじゃないんですか、県教育長さん。「人を殺す」とか「家に放火する」などというような重大犯罪ならいざ知らず、と言えば語弊どころか、非難の集中攻撃を享けそうですが、なに構うものか。キャバクラ経験を授業で生かす方がよほど価値があるんじゃないですか。

 教科書で学ぶのは第二義的ですよ、何よりも「現場(社会)」ですね。生きた勉強(学問)は教室では無理だと、校長だって教育長だって知っているはずですのに。


仰げば尊し わが師の恩
教えの庭にも はや幾年(いくとせ)
思えば いと疾し(とし) この年月(としつき)
今こそ別れめ いざさらば


互いに 睦(むつみ)し 日頃の恩
別れるる後にも やよ忘るな
身を立て 名をあげ やよ励めよ
今こそ別れめ いざさらば


朝夕慣れにし 学びの窓
蛍の灯火(ともしび) 積む白雪(しらゆき)
忘るる間(ま)ぞなき ゆく年月(としつき)
今こそ別れめ いざさらば

「仰げば尊し」)(➀ https://www.youtube.com/watch?v=PCgzIYNTOfE(➁ https://www.youtube.com/watch?v=ERuAlRzITX0)

◎仰げば尊し=『仰げば尊し』(あおげばとうとし/あふげばたふとし)は、1884年(明治17年)に発表された日本の唱歌。卒業生が教師に感謝し学校生活を振り返る内容の歌で、特に明治から昭和にかけては学校の卒業式で広く歌われ親しまれてきた。ニ長調または変ホ長調が多い(原曲はホ長調)。8分の6拍子で、編曲されたものが何種類か存在する。 2007年(平成19年)に「日本の歌百選」の1曲に選ばれた。(Wikipedia)

 (表題について一言 ぼくは小さい頃から「和菓子」が大好きでした。ここにきて、その嗜好(しこう)が祟(たた)ったのか、血中糖度が高くなり過ぎました。大いに控えることにしましたが、「和菓子の温」は忘れませんということ)

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世の中よ蝶々とまれかくもあれ

 昨日は寒かった。関東各地でも積雪があったほど。当地では、ほんの一瞬、雪が舞い降りてきたが、すぐに雨に変わった。すでに春の彼岸に入ったのに(3月17日~3月23日)、寒さの洗礼を受けている気持ちでした。それに因(ちな)んで、ある時期の親子の会話。「もう彼岸なのに、まだ寒いね」「毎年よ、彼岸の入りの寒いのは」と。誰あろう、正岡子規と母との会話らしいが、それがそのまま一句になったのです。俳句は写生であり、写生の心が俳句を生む、一例でしょうか。俳句とは、そんなものですか。「毎年よ彼岸の入りの寒いのは」(「母の詞自ずから句となりて」と、子規の詞書きがある)「暑さ寒さも彼岸まで」と、誰が言ったものか、誰もが感じたままの季節感が、まだ壊されないままに表現されていた時代があったということでしょう。

 ここで言われる「暑さ」とは「残暑」(9月20日ころまでを指す)のことで、「寒さ」とは「余寒」(3月20日ころまで)ですね。本日の駄文も、「春分、二題」というところでしょうか。まことに珍しいことで、昨日に続いて「いばらき春秋」です。コラムの中をモンシロチョウが飛んでいます。「〈初蝶来(く)何色と問ふ黄と答ふ〉。高浜虚子が妻との会話をそのまま詠んだとされる」とあって、師弟の阿吽の呼吸」なのか、師の後塵を拝したのだったか。次は、あえて言わなくてもいいことです。ぼくはある時期まで虚子さんはとても好きな俳人でした。今でも、その句のいくつもを数え上げることができるほど。

 そうだったのに、あることがきっかけで以前よりも同情が湧かなくなったんですね。理由というのもつまらぬこと、彼は子規に学んで句作を始めた、余命を知っていた子規は、虚子(⇦)を後継にと望んでいたが彼はそれを断った。有名な「(都内」道灌山の別れの一夜」があります。(どこかで触れている)なぜ俳句を止めたのか、虚子は小説を書きたかったんですね。時は、いわば「自然主義小説」の黎明期でした。詳細は省きます。ぼくは彼の小説をいくつか読もうとしたが、読み通せなかった。この程度のものを書くために、虚子は情熱を燃やしたのかと、一気に興ざめがした。通俗小説にもなっていないと思いました。

 時期は忘れましたが、もう一つの理由らしきものを経験しました。どういう会合だった。ある時、虚子と(「ホトトギスの)弟子たちが集まって談笑する機会があった。その座には荻原井泉水さん(1884~1976)もいた。その一場の「情景」を井泉水氏が書いていたのを読んだことがあった。その小文は「虚子、その人となり」だったように思います。確か「虚子全集」の月報に乗っていたものだったかもしれない。それを読んで、「これが虚子さんですか?」と、ぼくは怪訝に思ったのでした。内容はつまらぬこと、むしろ弟子の井泉水氏の方に、一種の悪趣味があったのだろうけれど、虚子の実像(というほどでもない)が出ていると勘繰ったんですね、ぼくは。それやこれやで、虚子への思い入れが消えた。その途端に、子規の句まで、物足りないというか、強引であり、書き足りない写生だとまで思うようになったんですね。それまでの「熱病」が止んだのでした。(これはこれで、一つの主題ですから、子を改めて愚考します)

 「寒さで縮こまった羽に日の光を受け、体温を上げてひらりと飛び立つ。初蝶は春の訪れと共に、日なたぼっこの効果も教えてくれる」とコラム氏。もちろん、ぼくもそんな穏やかな春の訪れを希望するものです。今年は、もうモンシロチョウを見たような、あるいは夢だったか、記憶が定かではありません。史上、古くから「孤蝶の夢」という美しい逸話が残されています。荘周(そうしゅう)の逸話です。「夢か現か幻か」という、ある種の人生論、生命論でもありました。

 また、作家の司馬遼太郎さん(1923~1996)にも同名の小説「孤蝶の夢」(1979年)があります。明治維新期の、この国の「医学の曙光時代」を横切った何人かの俊才(将軍奥医師だった松本良純・順天堂開祖の関寛斎・佐渡出身の語学の天才であり医師でもあった司馬俊海など)の、まさに胡蝶の夢のような、鮮やかな生き方を描いています。ぼくの、大好きな作品でした。

◎ そう‐しゅう〔サウシウ〕【荘周】=中国、戦国時代の思想家。宋国の蒙(河南省)の人。老子とならぶ道家思想の中心人物で、個々の事物の価値や差異は見かけ上のものにすぎず、根元的にはすべて平等であるとし、自然にまかせる生き方を説いた。後世、南華真人と尊称された。荘子。生没年未詳。(デジタル大辞泉)
◎ こちょう【胡蝶】 の 夢(ゆめ)=(中国の荘周が胡蝶となった夢を見、さめて後、自分が夢で胡蝶となったのか、胡蝶が今夢の中で自分になっているのか疑ったという「荘子‐斉物論」の故事から ) 夢と現実とがさだかでないことのたとえ。その区別を超越するたとえ。また、人生のはかないたとえ。《 季語・春 》(精選版日本国語大辞典)

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【いばらき春秋】春は行きつ戻りつやって来る。寒さが続いた後で急に暖かくなった日、ふいにモンシロチョウを見かけることがある。青い空、黄色い菜の花。そのはざまで小さな白い羽がひらひらと自由に舞う▼1年で初めて見るチョウはしばしば俳句の世界に現れる。季語「初蝶(ちょう)」には冬の寒さから解放される喜びが込められてきた▼〈初蝶来(く)何色と問ふ黄と答ふ〉。高浜虚子が妻との会話をそのまま詠んだとされる。「今年初めての蝶が来たよ」「何色かな」「黄色」。終戦直後の不自由な暮らし。世情にお構いなく飛んできた春の使者に接し、心身の温まる様子が伝わってくる▼初蟬(せみ)、初霜、初鰹(がつお)…。日本人は古来、初めての出合いに感動を寄せてきた。水戸地方気象台の統計では、モンシロチョウの平年の初見日は4月3日という▼きのう県内で舞ったのは雪。一方、春分の日のきょうを過ぎると、気温は上昇し、初夏の陽気と予報される。目まぐるしい寒暖差や新生活で体調を崩しやすくなる時季。専門家は「春バテ」の対処法の一つとして、朝の日差しを浴びることを勧める▼寒さで縮こまった羽に日の光を受け、体温を上げてひらりと飛び立つ。初蝶は春の訪れと共に、日なたぼっこの効果も教えてくれる。(拓)(茨城新聞・2025/03/20)

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【国原譜】17日の月曜日は「彼岸の入り」だったが、あす20日(春分の日)から週末にかけて、墓参りのラッシュになるはずだ。昨秋のお彼岸以来だから、墓掃除も「時間をかけて念入りに」という人が大半だろう。▶気になるのは仏花の値段。通常でも、春と秋の彼岸とお盆の時期は割高になるが、諸物価高騰の折、“高値の花”となるのは避けられない。▶一方で、最近は「墓じまい」が静かに進行している。昨秋の墓参りで、実際に隣の区画から墓石が消え、地面が黒いシートで覆われているのを目撃した。ご先祖さまが安らかであるように、と祈らざるをえなかった。▶日本社会の大きな変化を受けて、生まれた土地で進学、就職、結婚、定年、そして老後―というパターンは、とっくに崩れている。両親が亡くなっても遠隔地に住む子や孫は、なかなか墓参りには行けないという現実がある。▶そのため、先祖供養を今後どうするのかという、悩ましい選択を迫られることになる。お寺も檀家制度維持に苦悩しているという。▶遠いふるさとが、さらに遠くなっていくような感じがして寂しさが募る。(恵)(奈良新聞・2025/03/19)

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 ぼくは「葬式」も要らない、「戒名」も不要にと思っている人間(まだ、「遺言」は書いていませんが)ですから、当然のこと「墓」も無用としているものです。とても小さいころから、そのように思っていました。葬式(人生の幕引き)は、この社会の諸宗派に乗っ取られたようなもの。葬式宗教と揶揄されるほどの、業者との癒着ぶりです。葬式も、今ではよほどでないと行かなくなりました。ぼくには無意味に思われる事柄に大枚をはたくのが解せないのです。また、集まって笑い興じる人たちもいるのには耐えられないから。その伝でいうと、御墓も同じこと。墓を造るのに何百万とは、これ如何に。父親が亡くなったとき、おふくろが算段して御墓を造った。菩提寺は京都市右京区嵯峨にある。もう何年も墓参りに行っていません。御墓の管理はお寺任せ。なんとも親不孝であり、不信心ですが、仕方がない。その代わりというか、自宅の自室に小さな仏壇を置き、そこに位牌(両親と祖父母の)を据えて、毎朝線香とお水を上げている。時には「供花」をも。その程度で、何か足りないものがあるとは思わないんですね。

 奈良新聞「国原譜」氏が書かれているのはその通りで、それではさて、どうしますかといっても思案投げ首。「生まれた土地で進学、就職、結婚、定年、そして老後―というパターンは、とっくに崩れている。両親が亡くなっても遠隔地に住む子や孫は、なかなか墓参りには行けないという現実がある」のですけれども、その現実に打つ手がないとすれば、あとはそれぞれが「形見」を用意して、先祖や父母の遺徳を偲ぶことができれば上々だという思いがします。「遠いふるさとが、さらに遠くなっていくような感じがして寂しさが募る」と心侘びしいことを書かれるが、おいそれとは行けない火星や金星に御墓があるわけでもない。その気になれば、日帰りで、まさに「孤蝶の夢」「蝶夢」の如くに感じられれば、何時だって亡き人たちと再会も語らいもできようというもの。

 (これを書いている今(朝7時)も、隣の竹林からは鴬がだれかに呼びかけている。ぼくにはそうは思われないが、ある人にとって、鴬は亡きおっかさんであるかもしれないでしょう。どんよりとした空の下、ギターが奏でるBGMを聴きながら、駄文を綴りながら、ぼくは「孤蝶の夢」を見ているのでしょうか)

 表題句は西山宗因作。[1605〜1682]江戸前期の連歌師・俳人。談林派の祖。肥後の人。名は豊一 (とよかず) 。別号、西翁・梅翁など。里村昌琢に連歌を学び、主家加藤侯没落後、大坂天満宮の連歌所宗匠となった。俳諧では自由軽妙な談林俳諧を興し、門下に井原西鶴などを輩出。編著「宗因連歌千句」など。(デジタル大辞泉)

 あえて「句意」を探る必要もないでしょう。「蝶々、蝶々、菜の葉にとまれ、菜の葉に飽いたら、桜にとまれ」と、まあ世間というのはまるで蝶々の如くに動いていればいいのではないかいな。いたって、軽々しいんですね、それでいいと。

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「自分には偏見がある」という意識

 偏見ということをずっと考えてきました。まずは「偏」という字。読みは「ヘン」「かたよ(る)」「ひとえ(に)」で、もっぱら「かたより、不公平な、 中正でない」、あるいは「片側・片方」を指している。代表的な使用法は「偏見(prejudice or (a) bias )」ですね。公平ではない、偏った考え、極端な意見を指します。もともとは漢字構成の「偏旁冠脚(へんぼうかんきゃく)」の一つを言う。ニン偏とかイト偏などという場合の左側の偏。因みに「旁」は漢字の右側の部分、つくり。「冠」は漢字の上部分、かんむり。「脚」は漢字の下部分、あし。

 そこから敷衍されて、真ん中ではない、偏った、外れた考え、それが「偏見」です。最近では「偏向報道」などとうるさいくらいに批判される「一方に偏した」考えや意見の横行がいたるところで見られます。「専断偏頗(せんだんへんぱ)」などとも批判されます。その反対は「不偏不党」でしょうか。どちらにもくみしない、中立・公平・公正の立場です。果たしてそんな「立場」があるのかどうか、ぼくには大いに疑問ですが。ともすればどっちつかずになるはずです。「主義や思想に拘泥しない」、「特定の党に所属しない」そんな「公平」「中立」の立場です。もし可能ならばそういう立場を取りたいものですけれど、ある集団においては、それは不可能でしょう。

 以前には「公正」「中立」だった考えや意見も、時代とともに「偏向」「偏見」などと批判されるようになることはいくらもあります。それこそが開かれた社会や文化の在り方だとされます。「時代おくれ」などとよく言われる「社会通念」「社会常識」への批判がそれに当たるでしょう。ある時期までは圧倒的に優勢な立場や考え方が、時には「時代おくれ」「偏見」とされる。しばしば「常識を持ちなさい」「常識もないのか」と言われ、またときには「そんな常識など」と否定されるべき態度や意見とされることもあります。

 少し方向を変えます。「嫁」という字。「ヨメ」ですね。「女偏に家」と書いて「ヨメ」、元は「結(ゆ)い女(め)」と呼ばれたという説があります。家と家を結ぶ(親戚になる)「女」でした。男尊女卑という状況に関して、それは可笑しい、偏見だという意識など微塵もなかった時代。「嫁にやる」「嫁を貰う」「嫁に行く」「嫁に出す」「嫁を取る」の主語は誰でしたか。「オヨメサン」になりたいという子はたくさんいたのは、昔の話。今は「ヨメ」など、タブーになったかと思われるほどに、「嫁さん」になる人は少なくなりました。当然その反動で、「婿(むこ)さん」になれない、ならない男性も多くなった。と、呑気そうに駄弁っている、ぼくの姿勢こそが、「アンコンシャスバイアス」に絡めとられていると批判さるかもしれません。

 「自分自身が気付かずに持っている思い込みや偏見のこと」とコラム氏は書く。たしかにそのとおりでしょう。しかし、気づかないで持っている「思い込みや偏見」とは何でしょう。端的に言うなら、その正体は「社会通念」「常識」とされるものです。多くは家庭や学校、あるいは地域社会で早い段階から「刷り込まれ」るものでした。「世間知らず」「非常識」などと叱責されながら、多くの人は世間体を身につけ、社会常識に染まる、それが「大人になる」ということだったでしょう。時代が進もうが、頑としてこの「通念」「常識」を貫徹する人も出てきます。「アメリカ社会での『性』は男と女だけだ、それが政府の見解である」」という大統領まで出る始末。人種差別女性蔑視は立派な文化だと、大統領の周りに「偏見と差別」の強固な絆(鎖でできた「差別」主義の輪)が築かれています。あの国にして、どんなに「偏見」や「差別」が根深いものかを知る思いがします。

 めったにないことですが、と書けば、まがうことのない、「(抽象的な)茨城県」に「アンコンシャスバイアス」が強くかかっていると自覚している自分を認めます。それはそれとして、なかなかに読み応えのある「コラム」でした。ある大学院在学中の男性、「『彼女いるの?』。悪気のない質問に傷ついた。職場でカミングアウトした時は、望んでいない『過剰な配慮』をされてモヤモヤした」という経験談。これだけのことを講演で話す人が現れてきたことを、ぼくは大歓迎します。これまでに何十人もの「性の同一性」に苦しんでいる人に出会ってきたことか。その多くは勤めていた大学の学生でした。男性も女性もいた。そんな人々の中には、今は「LGBTQ(性的少数者)」の社会的認知のために飽くなき活動をされている人もおられる。

【いばらき春秋】最近、二つの講演会を聴いた。男女共同参画、地域活性化とテーマは違ったが、双方とも「アンコンシャスバイアス」がキーワードになっていた。自分自身が気付かずに持っている思い込みや偏見のことだ▼常陸太田市の男女共同参画講演会の講師は、LGBTQ(性的少数者)の当事者として講演活動や居場所づくりに取り組む永瀬大紀さん(28)。石岡市出身、筑波大大学院でヒューマン・ケア科学を専攻する学生でもある▼「彼女いるの?」。悪気のない質問に傷ついた。職場でカミングアウトした時は、望んでいない「過剰な配慮」をされてモヤモヤした。そんな経験や思いを等身大の言葉で話した▼福島で農産物の販売などを行う会社「陽と人」の小林味愛社長(38)は東京都出身の元キャリア官僚。東日本大震災の原発事故を契機に福島県国見町に移住し、起業した▼講演の中で「若者や女性に選ばれる地方」の要件として働きやすさ、働きがい、そしてアンコンシャスバイアスに気付くことを挙げた。自分たちの「当たり前」が地域の創造性を抑制していると指摘した▼春は別れと出会いの季節。新しい出会いの前に、古いジェンダー意識や固定観念は冬のコートと一緒に脱ぎ去っておきたい。(細)(茨城新聞・2025/03/18)

 「偏見と差別」という課題は、ぼくの人生のテーマになっています。我が生活には何時だって、この主題が中心にあった。京都時代から始まって、七十年になります。社会通念は、毎日飲む水や食べる食物のように、自分の中に摂取された。それは家庭で、学校で、地域社会で提供されたものでした。今ある社会を受け入れること、それが、自分が社会に受け入れられる条件のようでした。家でも学校でも、親や教師から教えられ、「いい子であること」が自らの存在の補償となっていたともいえます。でも、ぼくは素直な子ではなかった。徹底して自分で考え、納得を求めていたともいえる。「君の考えは可笑しい」とされるのは、「みんなとは違う」ということと同義でした。だから、「みんな同じ」が集団になじむ必要条件だったと思う。

 結局、ぼくが「反社会(集団)」「非社会(集団)」の態度を曲げなかったのは、無条件に全体に同調することを忌避していたからということになります。「赤信号 みんなで渡れば怖くない」というのは単なる「ギャグ」や「ブラックジョーク」などではなく、「社会通念」「社会規範」という古手形を揶揄し、嘲笑したものだったと思う。「みんなといっしょ」であれば、なんだって、暴力だって正当化できるという「全体主義」への侮蔑でもあったでしょう。はっきり言うなら、ぼくには、尽きない「偏見」があります。否定しても、次々に生まれ出てくる「偏見」、その正体は何かとつねに煩悶もします。だから、やみくもに「偏見」を否定するのではないし、ぼくには否定できるものでもないでしょう。自分の根っこから、次々に生まれ出る「偏見」、要するにぼくは「偏見の生みの親」であり、「偏見から生まれ出た赤子」みたいなものです。その「偏見」があるおかげで、あるいは「偏見の正体」をつきとめようとすることによって、ぼくはこれまで「偏見」に足をすくわれなかったのかもしれない、と都合よく勝手に受け取っています。この先は分からないけれど。

 「社会通念」とか「常識」というものをを欠けば、社会生活は円滑ではなくなるでしょうが、その罠にはまってしまえば、自分を失います。あなたは、どちらを選ぼうとするんでしょうか。「新しい出会いの前に、古いジェンダー意識や固定観念は冬のコートと一緒に脱ぎ去っておきたい」とコラム氏は殊勝なことをおっしゃいます。そうありたいものでけれど、古い意識や固定観念は、尽きることがないんですね。だから、それらとの「格闘」「自問自答」する、それが生きているということでもあるんでしょうね。人間は過去によって育てられる存在です。<The key to me is being aware that this is a prejudice that exists within me.>

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