なんという愚かな抵抗であることか

【滴一滴】ぼっーとして蓄える 長崎県五島列島の最北部にある人口約1700人の宇久島(うくじま)は、島の半分ほどのエリアでスマートフォンの電波が届かない。地元の観光協会は不便さを逆手に取った旅をPRする▼スマホではなく豊かな自然に目を向け、海辺でハンモックを広げたり、夕焼けを眺めたりしてぼんやり過ごす。希望すれば、島に滞在する間はスマホを預かってくれる▼そんな何もしない時間への関心が高まっているらしい。「ぼーっとする大会」と名付けられた韓国発祥の催しが世界に広がり、一昨年からは日本でも開かれている▼ルールは単純。90分間、寝そべるなど楽な姿勢でひたすらぼーっとし、その間、心拍数を計測していかに心身をリラックスさせられたかを競う。スマホや時計のチェック、会話は禁止で、居眠りしても失格だ。昨年の東京大会には90人が参加。効率性が重視され、時間の価値が高まっている時代に、ぜいたくとも言えるひとときを過ごした▼ぼんやりしているのは人間にとって貴い時間で、必ず蓄えられているものがある。詩人で哲学者の故串田孫一氏は随筆「無為の貴さ」でそうつづった。では、何を蓄えるのか。畳みかけるように尋ねるものではないと、私たちの性急さを戒める▼それでも知りたいなら、日常の隙間時間にでも体験してみることだ。もちろん、スマホの電源は切って。(山陽新聞・2025/03/28)

(ヘッダー写真・「約190万年前の噴火によって誕生した宇久島。島の中央にそびえる城ヶ岳からなだらかな裾野が広がり、真っ白な砂浜が続く大浜海水浴場や、推定数百年の樹齢をもつアコウの巨樹、城ヶ岳山頂に鎮座する愛宕地蔵様など、島内には豊かな自然に抱かれたパワースポットが数多く存在している」・https://discoverjapan-web.com/article/9937

 五島列島やその近くの島々に赴いたことは一度もありませんが、早くから、ぼくは福江島や、奈留島、小値賀島(おぢかじま)には親近感を持っていました。福江島出身の大学同級生がいて、長く付き合っていたからでした。彼は同じ同級生の友人の妹と結婚をし、ぼくが住んでいた千葉市内では数分の距離に居を構えていたこともありました。ある月刊雑誌社に勤めており、何度か「埋め草原稿」の依頼があって、拙い原稿を書いたことがあった。K さんは大学に入る前には何年間か、陸上自衛官になっていた経験があった。それで同級生とはいえ、おそらく五歳くらいは年上だったと思う。いまから六十年近く前に、暇があれば、夜を徹して「国防」「戦争」などについて終わりのない議論をしたことが思い出されます。詳しい事情は分からないが、五十を前に亡くなったのではなかったか。

 Kさんを想うたびに福江島を想像(空想)してみるのがぼくの習慣になった。名留島出身のひとりの女性、彼女は島を出て後、水俣病に罹患した。その後の一家の歴史を、ある記録映画で知ることができた。偏見や差別を具体的に探る大きなきっかけを与えられたのでした。また小値賀島についても小さな奇縁がありました。20年ほど前に、平戸出身の近藤益男という教育者について小さな本を書いたことがある、その近藤さんが何度目かの転任の末に、この島に飛ばされたことがあり、そこで苦心しながら教師を続けていた、その記録(生活綴り方)にも詳しく島の状況が出ていたので、遥かな南方の小さな島のことをしきりに考えていた次期がありました。近藤さんは、おそらく、この島社会における「障碍者教育」のパイオニアと言っていいほどの実践を遺された人として、ぼくは大いに薫陶を受けたのでした。彼に関しても語りたいことはいくらもありますが、それはまた別の機会にでも。

 彼は詩人でもあり俳句(自由律句)の作者でもありました。まだ調べはついていませんが、彼の師匠は荻原井泉水で、同じ弟子には種田山頭火や尾崎放哉がいましたから、長崎のどこかで山頭火と遭遇している形跡があるのですね。これは想像の上での話ですが、自然や教育に関してどこかで、二人は語っていたのではないかと、それを考えると、苦難を背負って歩いていた二人に訪れた一時の「ボーとして蓄える」、貴重な瞬間ではなかったと妄想が働きます。近藤さんはたくさんの栄誉(賞)をえていますが、つねづね「賞なんかでは教育はできん」と言っておられた。(「かげろう、ちえたらぬ子に石ころをならべ」近藤益雄)

◎ 近藤 益雄(コンドウ エキオ)= 昭和期の教育家,障害者教育実践家,童謡詩人 なずな園創設者;のぎく学園創設者。 生年明治40(1907)年3月19日 没年昭和39(1964)年5月17日 出身地長崎県佐世保市 学歴〔年〕国学院大学高等師範部〔昭和2年〕卒 主な受賞名〔年〕文部大臣表彰,読売教育賞〔昭和29年〕,西日本文化賞,ヘレン・ケラー教育賞〔昭和38年〕,日本精神衛生連盟表彰 経歴昭和3年帰郷し、長崎県北部の辺地・離島の児童教育に従事、児童詩や生活綴方教育に専念。昭和16年「子どもと生きる」を刊行。23年田平小学校長。25年自ら校長をやめ、佐々町口石小学校に特殊学級を開設、その担任となる。かたわら28年には生活施設・のぎく寮(後に、のぎく学園)を創設、家族ぐるみで知的障害児の指導にあたる。37年口石小学校を退職し、寮を学園と改めその経営に専念。同年秋には精神薄弱成人ホーム・なずな寮(後の、なずな園)を創設、その経営を次男の原理夫婦にまかす。「のんき、こんき、げんき」を合言葉に障害児教育運動を推進した。著書に「近藤益雄著作集」(全7巻別館1)、詩集に「この子をひざに」などがある。(20世紀日本人名事典)

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 ここからが本日の主題(というほどでもないが)、どこの世界でも、とにかく例え一瞬でも「日常性」から逃避したいという、飽くなき挑戦というべきか、例えようのない愚かな試行というべきか、それを試みる人々がいます。まるで年がら年中鎖や首輪でつながれている犬が、週の内のたった一時間だけ鎖や首輪から自由になりたいと願い出て、ようやく飼い主から、束の間の「自由」を得るという、そんな仕草に似ていなくもありません。しかも自由行動の範囲は室内に限り、室外(家の周囲)には金網が張り巡らされているという始末。人間のすることやしたいことはまったくとらえどころがないと同時に、何処でも同じような得体のしれない束縛から逃げ出したいという衝動に駆られているのかもしれません。

 例を挙げればきりもないが、この劣島でもしばしば見られたのが「ノーカーデー」という代物でした。週一で、通勤用に車には乗らないという運動がありました。まだどこかにあるのかしら。あるいは、休肝(臓)日と言って、酒飲みが肝臓を労(いた)わるために、これも週一で、禁酒の日を設けるというようですが、成功した話は聞いたことがない。落語にある馬鹿話のようで、笑えないから情けないのですよ。

 ぼくはスマホを持ったことがないから、それを手放して「ぼーっとする時間」をわざわざ作る必要性を感じません。四六時中ボーとしていますから。宇久島もなんだか別のことを売りにした方がいいと思う。「ルールは単純。90分間、寝そべるなど楽な姿勢でひたすらぼーっとし、その間、心拍数を計測していかに心身をリラックスさせられたかを競う」というのですから、コンテストなんでしょうね。これに世界の心ない同士が賛同したというから、何が悲しくてスマホを持つのかと、おサルさんが訊きそうですね。そもそも「心拍数を計測して」ということをこそ断ち切らなければ。

 コラム「滴一滴」を読んでいて、フロムという人の「自由からの逃走」を思い出していました。自由であることはあまりにも不安で寄る辺ないから、なにかに頼りたくて、多くは宗教(カルト)や政治主義(ファシズムに)ににじり寄り、多くの同行(同好)の士と交わることによって「安心感」というか、「不安からの脱出」を図るというものでした。コラム氏は面白いことを書いている。「昨年の東京大会には90人が参加。効率性が重視され、時間の価値が高まっている時代に、ぜいたくとも言えるひとときを過ごした」と。阿保草。書いている本人が、その「姿態」どういうことかお分かりでないから、平気でこんなバカ話を話題にするのでしょう。「(スマホを持たない)ぜいたくともいえるひととき」だってさ。大酒飲みが、散々苦労した末に「断酒会」に入って酒から切れて改心したという成功譚がありますが、苦労の末に身を亡ぼす人もいないわけではありません。「初めから飲むな!」

 現代では、スマホは生活必需品なのでしょう。だからそれを持たない生活は考えられないというのなら仕方がない。ぼくはそのスマホとやらに頼るのも頼られるの嫌ですから、はじめからもたないことにしている。それで生活の不便を感じたことがないのです。「毎日がぜいたくともいえるひとときも、ふたときも、みときも」過ごしていると言っていい。串田孫一さん(写真☛)写真)には若いころに何かと教えられました。彼はデカルトやアランという思想家の紹介者でもあった。「ぼんやりしているのは人間にとって貴い時間で、必ず蓄えられているものがある」、詩人で哲学者の故串田孫一氏は随筆『無為の貴さ』でそう綴った。「では、何を蓄えるのか。畳みかけるように尋ねるものではないと、私たちの性急さを戒める」とコラム氏は書かれている。ぼくに言わせれば、実は忙しそうにスマホをいじっている時間こそが、中身のない「無為」な時間なんではないですか。

 串田さんと同時代のフランス文学研究者だった渡辺一夫さん(☚写真)は、「ぼくは一生涯に何冊の本が読めるだろうか」と計算されています。一日一冊なら、五十年間、元気で健康を保てるとして、総計18250冊。でも三日に一日は用事や何かで読めない日もあるだろうから、せいぜいが10000冊ほどか。さらに病気などもあるから、もっと読めない日もあるだろうと、生涯を通して読める本は、たかだか数千冊程度などと書かれていて、ぼくは感心(驚嘆)したことがあります。本を読むことが無条件にいいことだとは限らない。今のスマホみたいな「無為の時間」を奪う凶器になることもあるでしょう。現代世界経済は「スマホで保っている」と言っても過言ではないでしょう。ということは、スマホという鎖(首輪)に繋がれて「自由からの逃走」を知らないうちに図っているけれども、自由になれない多くの人間がその経済を支えていることになるのではないですか。

 いずれ固定電話がなくなるでしょう。なくしたい人たちがいるからです。「君はどうする?」と聞かれそうですが、いささかも困らない。スマホも持たない、固定電話もなくなる。さあ、どうする。糸電話でも作るか。人とつながる方法はいくらもある。手紙やはがきもあるではないか。いや、それもやがて消える運命にあるという。そこまで来てようやく、「ぼっーとして蓄える」ものがなんであるかが、いやでもわかろうというもの。

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                                                   動画:スマホから離れる夜 ロンドンで「オフライン・クラブ」人気 【3月19日 AFP】英国・ロンドンで先月、スマートフォンを預けて、夜の2時間をクラブで一緒にゆったりと過ごそうというイベントが開かれた。イベントには150人以上の若者が参加した。/このイベントは「オフライン・クラブ」が主催。2時間の「デジタル・デトックス」チケットは発売とほぼ同時に完売するほどの人気だった。参加者の年齢層は主に20~35歳。多くの若者がネット上ではなく、リアルな世界で集まりたいと考えているようだ。/参加者は9.5ポンド(約1800円)を支払い、入り口で電源を切ったスマートフォンを預けると、本を読んだり編み物をしたりと好きなことをしながら、思い思いのひとときを過ごしていた。/イベントの主催者は取材に対し「参加者は無理やり『スマホを持たない』状況に置かれる。最初の段階でスマホを預けるので、文字通り、気が散ることはない。(中略)イベントのチケットはどこも完売している。皆、本当はスマホから離れたいと思っている証しだ」と話した。/推計によると、英国の若者は1日4時間以上スマートフォンを利用しているというが、参加者の一部からは「スマホの使用時間はもっと長い」という声も聞かれた。/35歳の参加者は「仕事のない週末は特に、1日6~8時間はスマホを使っている。スマホにとらわれているというか、ある意味、中毒みたいなものだ」と話した。/このイベントはロンドンでは昨年から開催されていて、これまでに2000人以上が参加。他にもフランス・パリやスペイン・バルセロナなど、各都市で開かれている。/ただ、皮肉なことに、イベントの開催ついては、多くの参加者がSNSを通じて知ることが多いという。(https://www.afpbb.com/articles/-/3567529?cx_part=common_focus)映像は2月13日撮影。(c)AFP・2025年3月19日   

【1月8日 AFP】英ロンドンで7日、ズボンを着用せずに地下鉄に乗る恒例のイベント「パンツなしで地下鉄に乗ろう(No Pants Subway Ride)」が開催された。/今では世界60都市以上に広がっているこのイベント。開催時期は真冬となっており、参加者はズボンをはかずに地下鉄に乗り込む。通常通りに振る舞うことがルールとなっており、乗車駅も参加者によってまちまちだ。(c)AFP・2024年1月8日 

➡➡➡「No Pants Subway Ride」の理由がよく分からない。なんでズボンを履かないで地下鉄に乗ろうというのか。この運動の動機がよく分からない。馬鹿草。これもまた、よくある「ヌード願望」の一種でしょうか。たまにズボンの前チャックを人前で開けたままで「御用」になる人がいます。恐らくそれに近い「露悪趣味」か。それともここにもある種の束縛(パンツ・スマホ)からの脱出願望があるとみられなくもありません。ノーカー、ノーパンツ、ノースマホ…。これらに共通するのは自らの身体の一部になってしまったものから、一瞬だけでも、自分を剥がしておきたいという「鎖と犬」の関係に似ているでしょう。犬はずっと自由でいたいとは思わない。食事をくれるなら(もらえるなら)、少々の束縛は甘んじて受けますよと、飼われることを受け入れている見たい。「スマホと私」も「縛られたくないけれど、縛られたい」という矛盾した(倒錯した)性癖かもしれない。それはまあ、「鳥籠の自由」を満喫しているとみなされている(かどうか、鳥に訊かなければわからない)、文鳥やインコみたいなものか。スマホの必要性はさらに高まることは間違いありません。さあどうしますか、「ぼっーとして蓄える」、そんな当たり前の生活に戻りますか。戻れますか。

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教職を選んだのは「私」です

<朝晴れエッセー>離退任式 笑顔と涙の卒業式が終わると、校内は新学期の準備が始まる。クラス分け、先生の異動、新入生…と感慨に浸る間もない。そして4月の離退任式。▶37年前、私は初任の高校で離任の挨拶をした。生徒は心温かく元気いっぱいだった。初めて担任したクラスの生徒が涙ながらに別れを惜しみ、カーネーションの大きな花束と寄せ書きをくれた。私も涙でくしゃくしゃだった。▶その後、ちょっと目立つ存在だった5人の女子生徒が「先生、ちょっとこっち来て」と私を体育館の脇に呼び出した。いつも服装検査で長いスカートやパーマを注意していた5人、最後に何か文句でも…。私を取り囲んだ5人が差し出したのは、5本だけの花の束と手紙だった。▶ユリ、バラ、かすみ草、カーネーション、スイートピーが1本ずつ。「それぞれ先生にあげたい花を選んらこうなっちゃった」。困ったような表情に私はさらに涙が止まらなくなった。▶その晩、寄せ書きや手紙を何度も読み返し、また泣いた。なんて幸せな仕事だろう、これだけ幸せな思いをさせてもらったんだもの、つらいことがあっても頑張れる。心から誓った。▶あれからいろいろあったけれど、定年まで勤め上げて思い出す熱い日である。 小室いづみ(64) 千葉県松戸市(2025/03/28 05:00産経新聞)

 いたるところで「(涙の)離退任式」が行われていることでしょう。ここまで生きてきて、ぼくには、さて「離退任式」なるものがあっただろうかと不思議に思った。まったくないんですね、たったの一度も。花束や寄せ書きを貰ったことは何度かありそうです。「なんて幸せな仕事だろう、これだけ幸せな思いをさせてもらったんだもの、つらいことがあっても頑張れる。心から誓った」と、このエッセーの筆者・小室いづみさん。素敵な教師だったんでしょうね。理屈抜きに、いい仕事(教師)をされたんでしょうね、そう思う。(長いこと教師みたいなことを続けてきて、「つらいことがあっても頑張れる」という経験がぼくにはない。第一「つらいこと」なんかどこにもなかった。いやなことは腐るほどあったけれど。だから「教師紛(まが)いなんだよ、君は」と詰(なじ)られそう)

 方々で書いていることですが、すべからく「何々式」「儀式」というのもを、ぼくはつねに敬遠してきました。最近は田舎に越したせいもあってなおさらその傾向は強い。だから、今は自らの「葬式」も御免被るというところにまで至っている。「格・式」というのがダメなんですな。(「身分・家柄などによって定まっている礼儀や作法。また、身分や家柄」デジタル大辞泉)

 それはともかく、学校の教師というのは、否応なく「出会いと別れ(encounter and farewell)」を繰り返して経験します。その形はさまざまでしょうが、結局は「会うは別れの始め」ということに尽きます。もちろん、これは教師稼業に限らないこと。普段、何気なく付き合っている友人知人と、また会う日までと思いながら、気が付けば、すでに今生の別れが終わっていたということはいくらもあります。このエッセーを書かれた「先生」は、きっと公立学校の教師をされていたのでしょうから、なおさら、より多くの「出会いと別れ」があったでしょう。その中でもとりわけ初任校での「出来事」に大きな力を得たということだったかもしれません。花束や寄せ書きもその力のひとつでしょう。でも一人一人の生徒たちの「心情」が教師に届いたというべきか、その「心情」を素直に受け取ることができた教師の「感受性」(の敏感さ)というべきか、そこにはじめて「(意味のある)出会いと別れ」は成り立ったのでしょうか。

 いろいろな理由があって、誰もが仕事を選び、ともに人生を歩く同士を選び、身につまされて右か左の道を選びます。理屈を言えば際限はありませんが、いずれにしても、「自分で選ぶ」というところに大きな意味があると、ぼくは言いたいんですね。結婚するに際しても、たくさんの候補者の中から(この表現は語弊があるかもしれない)、たった一人を選ぶのは、まぎれもなく「自らの決断」です、今日では。誰かから脅迫されて結婚するという人にぼくは出会ったことはありません。計算の上で結婚するということもないでしょ、おそらく。

 しかし、その固い決断がやがて、「(やむなく)別れる(divorce)」という場面を迎えることは世の中にいくらもあります。そこで考えてみたいのは、伴侶(partner)を選んだ「自らの決断」をいかに自分が評価(始末)するかということです。端的に言うなら、「いっしょになる決断」より「別れる決断」が勝ったということでしょうが、それだけで終わらないから、こと(決断するということ)は面倒ですね。無数にある職業から教職を選んだという「私の決断・選択」に対して、いかなる姿勢が求められるのかという問題でもあるのです。この「朝晴れエッセー」を読んでぼくが痛感するのは、「これだけ幸せな思いをさせてもらったんだもの、つらいことがあっても頑張れる。心から誓った」という小室さんの「自らの選択・決断」に対する誠意・誠実を見る思いがしたからでした。「思い込んだら命がけ」という表現が浮かびました。

 37年勤め切って、なおこのような「想い」を語られる「教師一途」の歩みに、ぼくは赤の他人ながらも、ひとこと「お疲れさまでした」と言いたいような気がします。「あれからいろいろあったけれど、定年まで勤め上げて思い出す熱い日である」という感情に、自らの仕事への満足感と、これで終わりかという、一抹の寂寥感が感じられるのは当然で、ぼくがことさらにそれを言い立てたくなるのも「つらいことがあっても頑張れる」という初心の忘れ難さが彼女を励ましていたという「初心」の確かな戒めに感じるからでしょう。「教職を選んだ」という、自らの選択・決断に意味を与えた小室さんの誠意(誠実)に、ぼくは感心(「感謝」かもしれぬ)しているのです。(それにしても、このような思いを抱いて教職を務められた「教師」はどれほどいるのでしょうか)

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世の中は三日見ぬ間に桜かな

 左の写真には「1964年3月」とあります。ぼくが大学に入った年でした。その年の秋には「東京五輪」が開かれた。前年3月、ぼくはたった一人で京都から夜行列車に乗りましたが、今から考えても、おそらくいたるところから東京に向かっていた同年代の若者たちは、写真にあるような「集団就職」組の一員だったかもしれないと思うことがあります。この社会の「高度経済成長」が始まり、敗戦時のどん底から急坂を昇り詰める機動力になった人々でした。この1964年が集団就職列車のピークだったという。さすれば、中・高卒業生の大きな塊(かたまり)が、東京という未曽有の「大普請中」の雑踏の中に吸い込まれ、さまざまな「現場」で働きバチに徹してきたことになります。

 「1964(昭和39)年3月18日、集団就職列車で地方から上京する中卒者は「金の卵」と呼ばれ重宝された。高度経済成長期を迎えた都会では働き手が不足していた。この年に井沢八郎が歌った「あゝ上野駅」は、親元を離れて働く彼らへの応援歌でもあった」(左上写真は東京・上野駅に到着した集団就職の一団)(共同通信・2018年03月18日 08時00分)

 その一大群集は、時代を越えて、今また、春三月に「上野の山」に集団(個の集合)で花見に蝟集(いしゅう)し屯(たむろ)する。その多くは集団就職組の末裔たちでもあります。ヘッダー写真がそれです。その中の一員であることを、ぼくたちはどのような感情で認めることができるのでしょうか。(ヘッダー写真:昨年の「上野の山」・https://www.jalan.net/event/evt_320934/

 今から想えば、自身もひとりの「集団就職列車組」として、ぼくは往時を振り返りそうになります。この国の六十年の歴史もまた、「一本の集団就職列車」だったと見えても来るのです。所得倍増といい、「金の卵」と持て囃されて、「東京へ東京へ」と集団疎開宜しく、一極に集住する人の群れでした。それこそ鳴り物入りで急き立てられ、煽られどおしの挙句に、今や自由世界の第2位の経済大国に躍進と知るが早いか、時は巣て、得意満面の頂上から一転して頂上から降っていたことになるのが、三十年前。コラム「有明抄」氏は、そこに中島みゆきさんの「時代」を重ね、「ホームにて」を置く。ぼくなら「別れの一本杉」や「リンゴ村から」を出してみたくなる。「覚えているかい 故郷の村を」「便りも途絶えて 幾年過ぎた」と三橋美智也さんは歌い、「泣けた泣けた 堪えきれずに泣けたっけ」と彼女との別れを嘆きに嘆いたのは春日八郎さんでした。彼らもまた、文字通りの「一旗組」であり、「故郷に錦組」でもありました。劣島は「立身出世」の一大乱気流に翻弄されていたのでした。

 いろいろさまざま、それこそ波乱万丈、順風満帆、悪戦苦闘、得意満面、臥薪嘗胆。(「[名](スル)《「史記」越王勾践世家にある故事から》復讐 (ふくしゅう) を心に誓って辛苦すること。また、目的を遂げるために苦心し、努力を重ねること」デジタル大辞泉)。夢多き、また絶望も数えきれない、人それぞれの人生行路の今は「令和の御代の弥生下旬」です。

【有明抄】旅立ちの春 列車の窓越しに手を振り、泣きじゃくるおかっぱ頭の中学生。ホームからもいくつも手が伸びる。写真は1960(昭和35)年春、国鉄佐賀駅(☚写真)。大都市圏へ向かう集団就職の光景だ。時を重ね、少女はいま傘寿。いかがお過ごしでしょうか?◆小社刊『自分史ノート』の一枚にある。当時、県内の3年生は1万9千人。県外就職は3千人を初めて超え、うち2千百人余が4陣に分かれて故郷を離れた。高度経済成長を支えた「金の卵」である◆中学・高校卒業者を乗せた集団就職列車は64年がピークという。延べ3千本が走り、35道県の7万8千人以上に上った。東海道新幹線開通、東京五輪開催と華々しく沸き立つ世はどう見えていたのだろう。最後の運行はちょうど50年前、75年の3月24日だそうだ◆「旅立ちの春」に変わりはない。その年の中島みゆきさんの歌〈まわるまわるよ時代は回る 別れと出逢(あ)いをくり返し…〉は今なお背中を押してくれる。2年後の『ホームにて』は都会を舞台に〈ネオンライトでは 燃やせない ふるさと行きの乗車券〉。望郷の念を抱きつつ人生の選択、決意をつづる◆進学、就職などで新天地へ。いろんな思いが入り交じるこの週、ソメイヨシノは開花宣言が出た。今、野の緑に揺れる菜の花も鮮やかだ。それぞれが歩んでいく道に、花言葉「小さな幸せ」を重ねる。(松)(佐賀新聞・2025/03/27)

 「そんな時代もあったねと いつか話せる日がくるわ あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ」 「だから 今日はくよくよしないで 今日の風に吹かれましょう」「まわるまわるよ 時代はまわる 喜び悲しみくり返し」(もちろん、これは「恋歌」でしたが、人はきっと何かに恋をする存在ですね。恋の対象は人間であるとは限らない)

 集団就職列車組もこんな時代を送ってきたのでしょう。あんな時代に思いを馳せることもあったでしょう。悲喜こもごもの人生だったが、くよくよしないで、今日の風に吹かれましょう、と歌っているはず。60年前に故郷を出て着いた、ああ上野駅。その駅のすぐ横にある上野(恩賜)公園の桜並木に、人々は「今日の風」に吹かれながらも集団花見に心を奪われているのでしょうか。

 (余談 ぼくは上京して、約十年ほど、文京区本郷に住んだ。徒歩十五分で上野公園に行けた。夕方、明け方、ぼくはどれくらい散歩がてらに上野の山、池之端に出向いたでしょうか。しかし、ただの一度として「花見時」にそこに足を運んだ記憶はない。人通りの絶えた公園内の桜木を見て回ったことは一度や二度ではないけれど)

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【筆洗】「花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ見る物かは」-。桜は満開の時、月は満月の時だけが見ごろだろうか、いや、そうではないと『徒然草』で兼好法師さんはおっしゃる。古文の授業で教わった反語の「かは」が懐かしい▼ご意見はもっともなれど、年に1度の桜となればつい逆らいたくもなるか。なるほど「散り萎(しお)れたる庭などこそ、見所多けれ」かもしれないが、やはり、満開を見逃すのが惜しくて開花の知らせを心待ちにするのは人の情だろう。盛りの桜にひとときでも気鬱(きうつ)な世を忘れたくなる▼おととい、東京都心で桜(ソメイヨシノ)の開花が発表された。時期としては平年並みだそうだ。昨年の開花は少し遅れたと記憶するが、今年の花咲かじいさんは時を違(たが)えず、灰をまいたとみえる▼浮かれついでにこんな戯(ざ)れ歌を。<桜木のもとにみなはや今朝も来も酒や花見に友の気楽さ>。朝から仲間と花見酒とはうらやましい。江戸期の作と聞くが、この歌、上から読んでも下から読んでも同じ「回文」になっている。お見事▼桜の季節にも浮かれてはいられまい。大きな被害が出ている愛媛、岡山両県の山林火災である。現地が心配である▼「花にあらし」「春疾風(はやて)」「春荒れ」。春は強風の季節でもあるが、その風が火の手を強め、消火を妨げる。桜にはかわいそうだが、乾いた山林にまとまった「桜ながし」の雨がほしい。(東京新聞・2025/03/26)

 「三日見ぬ間の桜かな」と誰もが口にしたかもしれません。実は正確には「三日見ぬ間に桜かな」であり、その上句は「世の中は」とある。作者は大島蓼太。それほどに「サクラは咲くのも早いし、散るのも早い」ということ、それは事実ですが、元の句は、自然世界(この中に「世間」も含まれる)の移り変わりも早いものですね、三日も見ないでいたら、もう桜の開花、満開なんですから、ということでした。いろいろな受け止め方ができたから、この句も長い間生き残ったともいえます。

◎ おおしま‐りょうた〔おほしまレウタ〕【大島蓼太】=[1718〜1787]江戸中期の俳人。本名は吉川陽喬。信濃の人。別号、雪中庵。桜井吏登(さくらいりとう)に師事。江戸俳壇の実力者で、芭蕉への復帰を唱え、東西に吟行し、門人の数三千といわれた。編著「雪おろし」「蓼太句集」など。(デジタル大辞泉)

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 さて、兼好さんの登場です。コラム氏は、桜の盛りをこそ愛でたいと、よくよく願っておられるようです。

 「花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ見る物かは」を引いて、コラム氏は、いやそうではなく、花は盛りが一番と、「やはり、満開を見逃すのが惜しくて開花の知らせを心待ちにするのは人の情だろう。盛りの桜にひとときでも気鬱(きうつ)な世を忘れたくなる」とおっしゃる。いかがでしょう。ぼくは兼好さんに手を上げますね。満開よりもその数歩前、花なら蕾(つぼみ)、人間だってそうではないですか。人生の花盛りは人それぞれですから、一概には言えませんが、これからという時期がいいようにぼくは思う。

 「哀れに情け深し」「男・女の情も、偏に逢ひ見るをば言ふ物かは。逢はで止みにし憂さを思ひ、徒なる契りを託ち、長き夜を一人明かし、遠き雲井を思ひやり、浅茅が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ」と、さも兼好さんは自らの経験に裏打ちされた「男女の仲」の奥行きの深さを語ります。ぼくにも、数少ないとはいえ、かかる経験らしいものはありました。「偏に逢ひ見るをば言ふ物かは」というのは兼好氏。「逢はで止みにし憂さを思ひ」とは、さては兼好さん、思いを寄せる「愛しき人」がいたのですね。「浅茅が宿に昔を偲ぶ」とは、「いよっ、この色男」と言いたくもなりませんか。

 花は盛りに、月は隈無(くまな)きをのみ見る物かは。雨に向ひて月を恋ひ、垂れ籠めて春の行方知らぬも、猶、哀れに情け深し。咲きぬべき程の梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書にも、「花見に罷(まか)れけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障る事有りて、罷(まか)らで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣れる事かは。花の散り、月の傾(かたぶ)くを慕ふ習ひは、然る事なれど、殊に頑(かたく)ななる人ぞ、「この枝、かの枝、散りにけり。今は見所無し」などは言うめる。
 万(よろづ)の事も、始め終はりこそ、をかしけれ。男・女(おとこ・おんな)の情(なさけ)も、偏(ひとへ)に逢ひ見るをば言ふ物かは。逢はで止みにし憂さを思ひ、徒(あだ)なる契りを託(かこ)ち、長き夜を一人明かし、遠き雲井を思ひやり、浅茅(あさぢ)が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ。
 望月の隈無きを、千里(ちさと)の外まで眺めたるよりも、暁近く成りて待ち出でたるが、いと心深う、青みたる様(やう)にて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、打ち時雨たる叢雲(むらぐも)がくれの程、又無く、哀れなり。椎柴(しいしば)・白樫(しらかし)などの、濡れたる様なる葉の上に煌(きら)めきたるこそ、身に沁みて、心有らん友もがなと、都恋しう覚ゆれ。
 すべて、月・花をば、然のみ目にて見る物かは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨(ねや)の中(うち)ながらも思へるこそ、いと頼もしう、をかしけれ。(「徒然草 百三十七段)

  「すべて、月・花をば、然のみ目にて見る物かは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨(ねや)の中(うち)ながらも思へるこそ、いと頼もしう、をかしけれ」と兼好節は冴えています。わざわざ雑踏を彷徨(さまよ)わなくてもいいではないか。自分の眼で見てからでなければとは、いかにも無粋な、と言いたかったかもしれません。「百聞は一見に如かず」と世間は真らしくいうけれど、「百聞」があってこそ「一見」の価値が生まれるのであって、それがなければ、…。そのように兼好さんは言いたそうです。「花は盛りに、月は隈無(くまな)きをのみ見る物かは。雨に向ひて月を恋ひ、垂れ籠めて春の行方知らぬも、猶、哀れに情け深し」と、事の初めに戻ります。「哀れに情け深し」、これが奥行きですね。

 (追伸 なただ今延焼中という、岡山や愛媛さらには宮崎の山火事の鎮火が一瞬でも早く進むことをひたすら祈ります。サクラだ、花見だと浮かれるのもいいけれど、そんな気分の世間にあって、「花粉」と「黄砂」と突風に、僻地(へきち)の住人も泣かされているのです。夜中早朝を問わず、家の外では猫が喧嘩をしている。どこの猫であれ、怪我をされてはたまらないので、「喧嘩両成敗」とばかり、ぼくは飛び起きては蹴散らしに出かけます。これもまた「我が春の風物詩」かいな。本日は零時過ぎにしばらく、また三時ころに、もう一度起こされて、喧嘩の仲裁にと、熟睡も爆睡もできませんでしたから、こんな駄文に、とは言わない)

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水いたって清ければ則ち魚なし

<あのころ>スターにあこがれ 宝塚歌劇への試験 2010年03月26日 08時06分共同通信   1933(昭和8)年3月26日、宝塚音楽歌劇学校の入学試験風景。14年に桃太郎の歌劇「ドンブラコ」の初演以来、宝塚少女歌劇の人気が上昇。小夜福子、葦原邦子の男役コンビが支えるレビュー黄金時代を迎え、劇団員は300人を超えた。翌年には東京宝塚劇場もオープン。(日本電報通信社撮影)(「日本電報通信社」は、現在の「電通」の前身で、満州事変で生まれ、今日の,貪欲な企業精神の片鱗を見せた。恐ろしい会社ではあります)

 左上の写真は92年前の3月、宝塚音楽歌劇学校の入試風景だという。第何次試験かに合格した受験女性の表情も、試験官の食い入ような眼差しも、いまでは見られない風景でしょうか。それとも、時代は変われど、似たような景色は何処にもあるのだといえるようにも思われてきます。これを男尊女卑とは言わないでしょうが、「男社会」の一コマであることには変わりはないようで、それなら、いつでも見慣れた景色ということにもなるでしょう。二年前のタカラヅカ歌劇団員の団員に対する「いじめ」が発端となった一人の女性の自死事件、大変な騒動にはなりましたが、その後の経緯はよく分からなままで、報道もすっかり止んでしまいました。事の経緯はともかく、上級生の下級生へのさまざまな対応の、かなりな部分が「いじめ」「パワハラ」と認定され、劇団側は事件の発端となった事実に対し、それを認め、遺族側にに謝罪したと報じられています。(詳細は報じられているのでしょうか)

 まさか、いまの入学試験で、百年近く前の「入学試験風景」がみられるとは考えられませんが、果たしてどうでしょうか。小学生のころは、しばしばテレビ中継されていたこともあって、ぼくは相当にタカラヅカを観劇したものでした。上の記事に名前が出てくる「小夜福子」「芦原邦子」をはじめ、かなりの数の宝塚出身の映画俳優を贔屓にしていました。それだけ、女性の役者やスターと呼ばれる存在を供給していたのが宝塚だったということの証明だったでしょう。その一方で、「団員の団員による団員へのいじめ」にまつわる楽しくない話もたくさん聞きました。今でもテレビなどで活躍している多くの女性タレントや女優さんからの、その種(加害・被害)の経験談話も耳にしました。閉じられた集団における暴力事件の事例には事欠かないのです。

 西の宝塚が「女の闇の園」だとすれば、東には角界という「男社会の闇の世界」があります。言わずと知れた大相撲(相撲部屋)です。これもある時期までは、ぼくはかなり熱中したものでしたが、中学を卒業するころからはほとんど関心が消えました。いろいろと自分でやることが増えたのも理由の一つでした。巷間囁かれているのが「八百長相撲」、相撲協会はこの言葉を忌み嫌って、「無気力相撲」と言い換えていますが、同じことです。ほとんどの元力士が「八百長経験者」だと囁かれているのを知ると、宝塚と同様に、興味も関心も雲散霧消してしまう。「見世物(興行)」、「プロレス(ショウ)」なのだと思えば、どうにか面白く見られるのかもしれません。加えて、大相撲の社会(角界)には「暴力」が蔓延っている事実は否定できません。八百長・暴力・博打などなど、堅気の社会ではとっくに「ご法度」になった諸々の悪行がいまなお行われている社会が、世間の強い支持(贔屓・ファン)で栄えているとするなら、この社会はどんなに暗い社会だろうという気もします。(高校野球などにも、いつだって同じような「暴力」事件が絶えないのは、集団の性質によるのでしょう。上下関係が主となっています。信賞必罰という「制裁」の横行も)

 (集団内における優勢派の体質が徐々に集団の性格や特質を造る。それがさらに進むと、個々人の体質は集団の伝統(慣習)となり、決定的な力を発揮するのでしょう。それが、ある時期までは集団を格付ける「順風美俗」と称賛されていたのかもしれません。しかし、時代の進展は、そのような「蛮行風俗」を看過しなくなったともいえます。軍隊のイロハを見れば、特定の集団に、その特色が色濃く反映されているのがわかります。学校における「いじめ」も、大なり小なりこのような特質があるのではないでしょうか。と同時に「村八分」的な歴史にも影響されているはずです。集団を維持するための防衛本能のようになっているでしょうね)

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<速報>「劇団に全て責任」宝塚劇団員急死で遺族側が合意書を締結、阪急HDが謝罪 宝塚劇団員急死 宝塚歌劇団(兵庫県宝塚市)の宙組劇団員の女性(25)が昨年9月に急死した問題で、阪急阪神ホールディングス(HD)と傘下の歌劇団が28日、大阪府豊中市内で記者会見し、パワハラにより心理的負荷を与えたことを認め、遺族側と最終合意したと発表した。遺族に対して、角和夫会長ら阪急阪神HD幹部が直接面会し、謝罪したことも明らかにした。/会見した阪急阪神HDの嶋田泰夫社長は「亡くなられた劇団員に心より哀悼を申し上げますとともに、ご遺族に深くおわび申しあげます。取り返しのつかないことをしました。劇団に全て責任がある」と頭を下げた。/遺族側が主張する上級生らからの15件のパワハラについて、これまで歌劇団側は半分を認める姿勢を示すにとどまっていた。歌劇団側は具体的にどの行為を認めるのかも明らかにせず、合意時の公表方法について否定的な姿勢を示したことなどから、両者の協議が続いていた。(產經新聞・2024/3/28 16:14)

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 現役の勤め人の頃、しばしばいろんな人から質問を受けました。「学校からいじめをなくするにはどうしたらいいか?」「いじめがなくなることはあるか?」と。もちろんぼくには「答え」などはありませんでしたから、いつだって「ノーコメント」を通していました。そうしてたどり着いたのは「いじめをなくすには、学校をなくせばいいではないか」と放言するに至った。嘲笑されたのがオチでしたけれど、中(あた)らずといえども遠からずで、「いまある学校が、学校の表情(姿)を変えればいいではないか」と言いたかったのです。暴力の雰囲気をなくするためには、教師の権威主義、点取り競争、詰め込み教育、そして何よりも結果主義(序列化)という学校の心棒を変えることしかないように思った。その気持ちは今も変わっていない。(ということは、学校からいじめもパワハラもセクハラも、いささかも変わらずにほとんどが従前どおりということです)小さな空間に閉じ込められ、競争を強いる、そして分類(「できる・できない」)のために篩い分ける、こんな学校の堅苦しい、狭苦しい、度し難い価値観を捨てればいいではないか、そんなことを盛んに言いふらしてきました。

 残念ながら、どんな集団にあっても「いじめ」「暴力」はある。上下関係が明らかであればあるほど、「いじめ」は熾烈を極めるでしょう。極端なことを言えば、一つ家の中でも「いじめ(虐待)(暴力)」は絶えないのですから、逆に、それに向かうには正攻法では負けますので、「いじめ」や「暴力」を往(い)なす・去(い)なす「知恵」「本能」をつけることでしょう。「攻撃を簡単にあしらう。また、自分に向けられた追及を言葉巧みにかわす」(デジタル大辞泉)要は、取り合わないだけの体力(胆力)と知力(防御力)を育てておくことは極めて大事。無防備では、一面において弱肉強食である、この社会にあって他者と伍して生きるのは辛すぎるでしょう。

 ぼくに処方箋があるわけではないのは、自分でも先刻承知しているけれど、現実の「いじめ」や「暴力」に無関心を装うことは、無力な人間であるぼくでも潔しとはしないのです。「半グレ」や「暴力団」には、まず太刀打ちできないけれど、それなりの防御力を備えておけば、少々の「いじめ」「暴力」にはなんとか相向かうことができるかもしれない。

 「考(かんが)える」というのは「か・むかう」です。「か」は接頭辞ですから、相手(対象)に向かうことが原義。つまりは「いなす」「うっちゃる」というのも、相手に対する一方法であり、攻撃には攻撃という以上に、あるいは奥の手になるかも。大きな勢力をバックに攻めてくるような場合もあります。そんな時は、…。「君子(も淑女も)、危うきに近寄らず」に限ると思う。君子や淑女とは、危うきに近寄らない判断(決断)ができる人のこと。相手は「泣く子と地頭」かどうかの見極めは大切ですよ。

 「水清くして魚住(棲)まず」といいます。あまりにも水がきれい(純粋)であれば、そんなところに魚は住めないというのでしょう。この「諺」のような表現にはいろいろと出典もありそうですが、その本意は「純粋な水(H2O)のように、高潔すぎるような人には、誰も寄ってこないというのが本当らしい。だから、少しばかり汚れている方が、他者も近寄りやすいというのでしょうか。もっと言うなら、純粋に水素と酸素だけで成り立つ「水」が、現実の生活裡には存在しないように、どんなにきれいだ、純粋だとみられている人にも「汚れ」や「欠陥」があるということのようです。つまりは「弱み」「短所」です。お互い「弱みを持った人間同士」という感情がそこに流れていれば、生きるのはいくらか楽になるかもしれない。一点を争い、一秒を競うなどというのは、下等・下劣な競争・闘いではないですか。(もっと言いたいことがあるのですが、ここまでに。チャンスがあれば続きを。風が出てきました。花粉が飛び交っている。ただ今、午前7時過ぎ)

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老樹の味わいは尽くしがたし

【余録】歌川広重の浮世絵、名所江戸百景「千駄木団子坂花屋敷」には満開の美しい桜が描かれている。東京都文京区の団子坂には植木屋が「花屋敷」を構え、春は桜、秋は菊人形の名所だった▲植木屋の拠点だった駒込の染井村(現豊島区)から一部が移った。英植物学者のフォーチュンは団子坂や染井を見て回り「世界のどこへ行っても、こんなに大規模に、売物の植物を栽培しているのを見たことがない」と記している(幕末日本探訪記)▲大名屋敷が並ぶ江戸では壮麗な庭園で植木職人が腕を振るい、庶民も花や盆栽を楽しんだ。江戸末期に染井の職人たちが売り出した新種とされる桜がソメイヨシノ。桜の名所、奈良・吉野の名を取り、人工交配で作り出されたという説が有力だ▲高知、熊本に続き、東京でも桜の開花宣言が出された。ソメイヨシノは通常実がならず、接ぎ木で広まるため、どの木も遺伝子が同じクローン。同じ地域なら一斉に開花する。開花宣言や桜前線が成立するのもそれゆえという▲江戸で隆盛した植木屋の一部は関東大震災で被害を受けて埼玉に移った。インバウンド客にも人気の高い「大宮盆栽村」だ。4月に開村100年を迎える街には景観を考えて植栽されたけやき通りやもみじ通り、さくら通りがある▲「日本人の国民性のいちじるしい特色は……みな生来の花好きであるということだ」。フォーチュンは貧富の差なく園芸を楽しむ姿を称賛した。桜シーズン到来で気持ちが高まるのも自然なことかもしれない。(毎日新聞・2025/03/25)

 桜にも自ずからなる歴史があるということ~荘川桜(樹齢約450年と推定)雑感(序)

 「開花宣言」など、ぼくに言わせれば「狂気の沙汰」ですね。わざわざ、気象庁などが確認して、「咲きました」「もう少しです」などと、誰が言い出したことか。いらぬお節介です。また、それを黙って受け入れる方も「狂気」に近い。自分の目で確かめればいいではないか。いちいち「お上」の御託宣を待つ必要などないのに、さ。散々書き散らしてきましたから、もうこれ以上はいう必要もないのですけれど、ぼくは小学生のころから、大の桜好きだった。「散り際の潔さ」を信奉して、のことではありません。まだ固い蕾(つぼみ)の時から、葉桜になるまで、それこそ自己流に堪能していました。家の周囲には桜の見物場所には事欠かなかった。何十か所とあったものですから、われしらず、桜狂いになったかと、恐ろしくなったほどです。

 物心がついてから、桜に関してものの本を読んだり、桜守(全国各地にいました)について学んだり。佐野藤右衛門さんについてもしばしば言及してきたし。笹部新太郎さんには桜の神髄を学んだ気がしています。ぼくたちは知らないだけで、この島社会には、どれくらいの桜守がいたことか、それを想うと、空恐ろしくなるほどに、さまざまな樹木、とりわけ「山桜」の神秘性(大げさではないつもり)に並ぶものはないのではないかと言いたいほど、その美しさや幽玄な佇まいに、ぼくは自分を忘れてしまいます。それにしても、笹部さんのような「超奇特」な御仁がいてこそ、後代のぼくたちは「桜がどうのこうの」と論うことができるのでしょう。日本が文明的に開化するのは、自然環境を破壊しなければありえないことだったし、それが環境に満足できない人間という存在には宿命であったかもしれません。と、同時に、この社会にひとりの笹部新太郎さんがいたということは、それ以前には無数の「ササベサン」さんがいたことの証明にもなるでしょう。

◎ 笹部 新太郎(ササベ シンタロウ)昭和期の桜研究家 生年明治20(1887)年 没年昭和53(1978)年12月19日 出生地大阪・堂島 学歴〔年〕東京大学法学部卒 経歴 生涯をかけて桜の品種改良や普及・保存にとりくみ、“桜博士”と呼ばれた。昭和34年岐阜県の御母衣(みほろ)ダム建設の際埋没の運命にあった桜を移植して話題になり、水上勉の小説「桜守」のモデルになった。晩年は神戸の自宅630平方メートルに各地の桜の種子を集めて栽培、山桜の「ササベザクラ」は兵庫県の天然記念物に指定された。没後自宅は「桜守公園」として開放されている。(20世紀日本人名事典) (註 「荘川桜とJ-POWER」:https://www.jpower.co.jp/sakura/slide/)(ヘッダー写真は、移植後の「荘川桜」岐阜県高山市)

 久しぶりに笹部さんのことに触れるとなると、あれもこれもと書きたくなって収拾がつかなくなります。多くの日本人が桜好きであるという事実はまぎれもないことですが、どうしてそうなったかと問えば、まだ言葉も知らない時期から、いつでも身近にあった桜に親炙(しんしゃ)していたからということに尽きるでしょう。季節を問わず、桜の花の得も言われぬ美しさに夢うつつの中で突き動かされていたのかもしれません。春のうららかな陽光の下、あるいはそぼ降る春雨に濡れた桜花、散る音もなくひらひらと地に降る花びら。ぼくが屋外で写生をしたのは小学校に2年生頃だったと記憶している。能登中島の小学校の校庭の桜を描いた。その桃色の色濃い花びらの具合を今でも鮮明に記憶しているといいたいほど、強烈な印象が刻まれているのでした。(下の写真:https://www.jpower.co.jp/sakura/slide/

 (註 この駄文の続きは、次回以降に)

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「花は半開を看、酒は微酔に飲む」

 本日もコラム二題。昨日は各地で気温が二十五℃を超え、真夏日。そうなれば、サクラだって否も応もなく綻(ほころ)ぶほどの、季節外れの暑さでした。拙宅のある町の隣り市原市では26.9℃だったという。小生の家は市原市と二面(北と東)で接しているから、その煽(あお)りを受けたように汗ばむほどの陽気でした。久しぶりに箒(ほうき)や鎌(電動のこぎりも)を持ち出して、一瞬の庭掃除に。悲しいかな、驚くべき体力劣化に忽ちのうちに休憩に入る始末。

 「日報抄」(03・23日付)には新潟県が「信号機のない横断歩道での停止率」の悪さに一言も二言もされていました。ぼくはまったく同感ですね。コラム氏と様子が違うのは、ぼくは歩行者となって、停止してくれた運転手(車)に頭を下げる機会はあまりないということでした。たまに、そんな機会もないわけではありません。止まってくれた車に、ぼくはきっと会釈をすることにしている。時に新潟県は全国ワーストワンのこともあったそうで、隣県長野は9年連続ベストワンだという。家の近くで、近所の小学生が、数人で渡っている。停止していると、全員が頭を下げる。教師の指導よろしくを得たなと気づくが、その下げ方はさまざま。とにかく事故がないことばかりを願うのだ。「多数派が支持する選択は、さらに支持が広がるという行動心理学の現象も紹介していた」。

 一方で決していい事例ばかりはなさそうで、間道から大通りに出るときなどの「一旦停止」をほとんどしない車が目立つ。あるいは ガソリンスタンドから通りに入る時なども、例外なくといいたいほど、勝手気ままな運転が目に立つほど。「多数派が支持する選択は、さらに支持が広がるという行動心理学の現象」が機能しているということでしょうか。運転歴半世紀を超えた者からすれば、車社会の「道義」の乱れ(頽廃)は、おそらく運転する側の「道義」の未熟や腐熟・不熟に連動していると、大いに心を痛めてもいるのです。

【日報抄】最近、心がけていることがある。信号がない横断歩道を歩いて渡る際、走ってきた車が止まってくれたら、ドライバーにしっかりと謝意を示すのだ。今までよりも深く頭を下げたり、車の方を見て手を挙げたり。最初は少し気恥ずかしかったが、慣れてきた▼きっかけは、信号がない横断歩道での車の停止率に関する12月の本紙記事だ。日本自動車連盟(JAF)による毎年の調査では本県の結果は芳しくない。停止率が低く、全国ワースト1位になった年もある▼一方、お隣の長野県は9年連続全国1位。なぜ長野は停止率が高いのか。その背景を同僚記者が探っていた。現地では、大半の車が一時停止していた。人がいなくても徐行する車もあった▼歩行者は横断歩道を渡り終えた後などにお辞儀をしたり、帽子を取って会釈したり。車に感謝を伝える姿が印象的だったという。「ドライバーも『止まって良かった』と思うのだろう」という長野県庁の担当者の見立ても記されていた▼JAFの調査地点は各都道府県で2カ所。地域全体の傾向を包含しているとはいえないけれど、本県を含め全体の順位が毎年変動する中で、不動の1位の良い点はまねしてみたい。そう考えて冒頭の行動に至った▼記事は、多数派が支持する選択は、さらに支持が広がるという行動心理学の現象も紹介していた。自分の行動で「止まって良かった」と感じるドライバーがじわじわ増えて、交通安全の輪が広がってほしい。こっそり壮大な願いを抱いている。(新潟日報・2025/03/23)

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 野球に興味が湧かなくなってから久しい。自分がやらなくなったから、なおさら関心が持てなくなったのかもしれません。ただ、このところの大リーガー、O 選手をめぐる騒動は何だろうと、いささか訝しく思います。文句なく、これまでの和製メジャー選手の中でも比類のない選手であることは言うまでもなく、メジャー級においてさえ、超一流と評価されるのも不思議ではないでしょう。だからといって、年甲斐もなく熱中する気もない。コラム氏が書いている村上さん(マッシ―)(右下写真)のことはよく覚えています。ぼくが大学に入った年でしたから、それこそ、こんなことがあるものかという驚きがありました。なかなかの好投手(軟投型)で、小さな体を更に小さく曲げて投げる、まるで海老そりのようなフォームが目に焼き付いている。その後に陸続と続く後輩たちの先導役を果たした彼に、ひそかな敬意すら覚えたものでした。

 例えは悪いのですが、JPBはMBLの「二軍」のような気がして、いささかも興味を持てないでいるのです。それはそれで、実態でしょうと思えば、高校野球や大学リーグの選手たちは三軍か四軍に見えてきます。何事にも「ランク付け」があるの致し方ありませんが、等級付のない「野球」があってもいいような気も盛んにする。なんだか、野球においても、この国(社会)は「明治維新」(舶来尊重)を経験しているような錯覚に陥ります。

 以前は相撲に関して、田舎相撲の横綱は大相撲の番付では三段目とか言われて揶揄されました。その昔は各地に「好角家(角力 (すもう) の好きな人)」がたくさんいて、土俵を盛り上げていた時代がありました。そんな地方の横綱でも角界では「幕下以下」と言われるほどに実力に差があったというのです。それでいいではないですか、楽しく相撲が取れるなら。なんでも一本の尺度(物差し)で測るという風潮を、ぼくはあまり好まない。要するに、何でもかんでも「一番」と言いたがる・言われたがるのは劣等感の裏返しのようでもあり、それこそ多様性や多元性を受け付けない気分は、やがて間違いなしに「覇権主義」(勝ち負けでしか物事の値打ちを図らない姿勢)に嵌(はま)り混んでしまうと思う。もうそうなっているという声も聞こえます。一流があれば、五流もあっていい。それは「流儀」であって、序列ではないんだな。

【小社会】球春 日本人の大リーガー第1号といえば、「マッシー」こと村上雅則投手になる。東京五輪が開かれた1964年。プロ野球・南海に入団して2年目の左腕が野球留学で海を渡った。▶マイナー球団で活躍していた初秋、メジャーのジャイアンツに呼ばれた。契約書の調印は試合開始の15分前。初登板はその日のうちにきた。それまで500人だった観客は4万人。足が震えないよう、坂本九さんの「上を向いて歩こう」を口ずさみながらブルペンを出た―。▶何となく、まだ牧歌的な時代を感じる。村上さんは翌65年まで大リーグで投げた。続く日本人選手は30年後。阪神大震災、地下鉄サリン事件、経済も後退と暗い世相の95年に、光を差す快投を見せた野茂英雄投手になる。▶さらに30年後。東京で開かれた大リーグ開幕2連戦は日本選手が5人も出場した。ドジャース大谷翔平選手の存在感。米国内の市場拡大が頭打ちの大リーグは国際戦略の柱に日本を据えたというが、まずは成功なのだろう。▶高知が生んだ藤川球児・新監督の阪神も忘れてはいけない。練習試合とはいえ、かつて自ら在籍したカブス、昨季のワールドシリーズを制したドジャースを連破。媒体には「阪神世界一」の文字が躍った。好投した投手の一言が笑える。「まだ開幕していないので」▶きのう高知城の桜も開花して、球春も本番へ。明るいとはいえない世相であっても、上を向きたくなる話題を願う。(高知新聞・2025/03/24)

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「徒然に日乗」(694 ~ 700

「花は半開を
、酒は

すい
に飲む。此の
うち
に大いに

しゅ
有り(花は五分咲きを眺め、酒はほろ酔いで止めておく。そういう中にこそ、深い趣があるものだ)」(「菜根譚―後」に出て来ることばから」(故事成語を知る辞典)(「開きつくした花を眺め、深酒に酔いつぶれて何の風情」があるものか。なにもかも満ち足りた人ほど、その事をよく知って欲しいものだ」(「今月の法話」・https://touyouji.jp/howa/

〇2025/03/23(日)快晴というべき陽気だった。気温は20度を超えていたかもしれない。隣の市原市はほぼ27℃もあったという。▶終日自宅に。庭の掃除もほとんどしていなかったので、枯葉や枯れ枝が散乱している。陽気に誘われて、ほんの少しばかり掃除をした。いまのところは「雑草」は目立つほどではないけれど、植木がかなり伸びている。時期的には問題なしとはしないが、少しは剪定をする必要があろう。また、新芽が伸びる時期でもあるのか、このところイノシシが庭の土を掘り返し、相当に表土が凸凹になっているので、これもならす必要がある。いっときにはできないが、天候と体力の様子を見ながら、気長に作業が続けられるといいのだが、びっくりするほど、体力が衰えているのに愕然としている。このところの運動不足が応えているに違いない。▶各地から「桜開花」の便りが届いている。拙宅の庭の「啓翁桜」も、鮮やかとは言えないが、いくつかの花びらを綻(ほころ)ばせている。どれくらい咲くか、他の桜木ともども楽しみだ。(700)

〇2025/03/22(土)昼前に猫缶購入のためにあすみが丘へ。家に入ることもなく、純粋に外猫として、食事だけをとりに来る猫が2匹になった。一度も触ったこともない子たちで、おそらくらしい。できれば去勢手術をしたいのだが、さてどうなるか、どうするか。▶かなり風が強く、ために花粉が大量に飛び回っているようだ。目や鼻が痒いし、詰まるし。目薬は購入したが、鼻詰まり処方の薬が必要かもしれない。今年はかなり激しい「花粉症」に悩まされている。(昨年の症状の程度は忘れている)(699)

〇2025/03/21(金)終日自宅に。昨日とは一転して好天が続いた。▶午後にT君から電話。学年末の多忙も終わった段階での連絡だった。「4月から職場を代(替)わることになった。新たな学校はT大教育学部付属の中・高校です」ということだった。大体の予測・予感はあったので驚かなかった。以前にも付属校の校長はK君だと聞いていたが、改めて電話で確認した塩梅であった。十年も現在の学校に勤続していたことには敬意を払いたい。いい仕事(子どもに大きなプラスの影響があるような)をされていたのだと判断してきたが、新たな現場でさらに進化した「授業実践」を期待したいと思う。他人に自分を誇るような軽薄さを持たない、他者に対するわずかばかりであっても尊敬心を欠くことのない、爽やかな青年たちが育つといいな。K校長にも再会したいもの。(698)

〇2025/03/20(木)本日は「立春」(の中日)。17日が彼岸の入り。暑さ寒さも彼岸までというが、果たして今節はどうか。季節外れ(にも似た)大雪が降ったところもある。一年を通して、どこかにキット集中して災厄が発生する。このような「災害の積み重ね」が、この劣島の歴史を造って来たともいえよう。▶お昼過ぎに買い物。本日は休日だったせいもあり、かなりの人出があった(と思うようになった。以前の住まい近くの繁華街でなら、どうということのない休日風景だったが)▶今から52年前の「春分の日」に、都内で我々夫婦は結婚式を挙げた。(正確には1973年3月21日)(697)

〇2025/03/19(水)早朝5時ころに「ビン・カン回収用」の袋を取りに集積所まで。自宅に戻って猫缶やその他の缶類とペットボトルを別々の袋に収めて、再度集積所に持っていく。この段階ではかなり強い雨が降っていた。夜半からは相当に激しく降っていたのだから、この時間にはやや小降りという状況ではあったが、それでもそれなりの雨脚だった。▶お昼過ぎに茂原まで買い物。いつも通りの食材等を購入して、帰宅。昨夜はネット番組で在アメリカの町山智弘氏の「現地報告」を聞いた。聞き手は独文学者・翻訳家の池田香代子さん。とても面白かった。「独裁者トランプへの道」という昨年末に出された町山氏の著作をめぐる対談。早速、その本を注文しておいた。「アメリカは南アフリカに占拠されている」という実に興味津々たる視点からのトランプ亜米利加論。イーロン・マスク、ピーター・ティール、デイヴィッド・サックスのトリオ(何れも南ア生まれか、南ア育ち)、この三人組を、世間では「PayPalマフィア」と呼ぶ。いずれもトランプ政権の重要なポストについており、三人に共通するのはファシストであり、ナチズムの信奉者、人種差別主義者だということ。五十代のナチ狂信者はトランプを突き動かしてアメリカをどこに持っていくのだろう。米国では、その過激人種主義者の振る舞いを止める者はいないのだろうか。そろそろ、トランプも焼きが回ったというべきだろう。「1 焼き入れの際の火が行き渡りすぎて、かえって刃物の切れ味が悪くなる。2 頭の働きや腕前が落ちる。年をとるなどして能力が鈍る」(デジタル大辞泉)(696)        

〇2025/03/18(火)天気は快晴。風もあまり吹かなかった。花粉の飛散がとても多く、おちおち屋外に出られないほど。▶お昼前に買い物、茂原まで出かける。人出は多かった。もう学校は春休みに入ったのだろうか。▶町役場に証明書を出してもらいに行く。毎年、当該住所に、死なないで住んでいることの証明である。企業年金受給のための「存在」確認のため。いわば「生存証明」書の発行。▶次に灯油を、いつも利用しているGSで。18㍑×2缶の購入(2142円×2)。さらに茂原のSM(スーパーマーケット)へ。毎日の食材等の購入。物価高騰が収まる気配のないのが大いに気になる。大したものを買ったわけでもないのに、5千円の出費。帰路、近所のHC(ホームセンター)で猫のドライフードとトイレ用紙等で。同じく5千円。あっという間に一万円が飛んでいく。▶帰宅後、明日の「ビン・カン」回収の準備。予報では明日はかなりの降雨があるそうだ。ところによれば「春の嵐」になるとか(695)

〇2025/03/17(月)昨夜の雨が残っており、激しくはなかったが、午前中いっぱい降り続いた。風はあまりなく、予想されていた花粉の飛散量も少なめだったが、時間の経過とともに激しくなった。夜に入って、目が空けられないほどの激しい痒みに苦しめられた。▶本日は午前1時半過ぎに起こされ、そのまま起き続けていた。このところ、しばしば、日付が変わった段階で起こされてしまう。「春眠暁を覚えず」は、猫に関しては通じないのだな。たくさんいるので、誰かに影響されて、どうしても外に出たがるようである。猫的付和雷同か。▶終日自宅内に。(694)

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