
<あのころ>戦時下の軍事教練 銃後の守り強要 1942(昭和17)年1月28日、太平洋戦争が始まって間もないころ、かっぽう着姿で銃を担いで行われた軍事教練。国家総動員体制がとられると国民生活の全てが戦時一色となった。学校や地域で派遣将校や国防婦人会などを中心に「銃後の守り」が強要され、竹やり戦闘訓練やバケツリレーの防火演習が盛んに行われた。(共同通信・2025/01/28)
年齢だけのことを言うなら、ぼくは写真のような「物騒」な、しかし背景を知ってみれば「滑稽」な、そんな馬鹿気た時代に生まれた(1944年)ことになっています。「狂気と冗談」が真面目に手を結んでいた時代。馬鹿と阿呆が竹槍で「鬼畜米英」打破を妄信させられていた(本気で考えていたとは思えない)、信じることを強いられていた時代だった。ぼくの連れ合いは、ぼくよりも五年前に戦時下の東京都内(台東区)で生まれている。やがて、母親の実家のあった「新潟に疎開」したらしい。ぼくが生まれたのはおふくろの疎開先(彼女の郷里だった石川県鹿島郡中島町・現七尾市)だった。ぼくには「あのころ」の記憶はない。しかし、「敗戦後」という食糧不足(飢餓)の時代、ようやく飢えをしのいでいたことは記憶している。でも、それが当たり前の日常だと、疑いもしなかった。これが人間の生活なんだ、と。

やがて、親父の仕事場のあった京都に移住し、市内を転々としながら、高校を卒業した。その当時、街には「戦時中」「敗戦後」が溢れていた。「わたしが一番きれいだったとき」と詠った茨木のり子さん(1926~2006)の詩は、多くの人に同じように誤読されて、とても有名になった。ぼくもどこかで引用しています。のり子さんが「一番きれいだったとき」、それは自身が「頭はからっぽ」で、「ふしあわせ」で、「とんちんかん」、そして「めっぽうさびしかった」、そんな時代だったと自白しています。二十歳の時が「敗戦」だった。のり子さんは、女学校時代、校内の「軍団指揮者」で、生徒全員の隊列を指揮して「かしらあ、右い」などと、それこそ裂帛の気合いをかけていた。その時が「一番きれいだった」なんて、「屈辱そのもの」と自覚するのが詩人。「きれい」というのは「純粋」、「真水」みたいなもの。「純粋無垢」って、どいう状況を指すのでしょうか。(それは「美」とはちがうでしょう)
わたしが一番きれいだったとき (茨木のり子)
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした
わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達がたくさん死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった
わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった
わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った
わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり
卑屈な町をのし歩いた
わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった
わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった
だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
ね

個人でも企業でも、国家であってさえも、いつだって「狂う」、心底から「発狂する」ことは珍しくない。誰か一個人が発狂しても被害は方々に及ぶが、戦時中というのは「集団発狂」「集団催眠」時代でもあって、発狂の輪から逸脱、覚醒することは許されないのだ。「お前だけが狂わない(正気になろう)なんて、許さないぞ」と四方八方から圧力がかかる。「竹槍」で戦闘機は落とせないし、バケツリレーで「焼夷弾による火炎の渦」を消すことはできない、それぐらいは誰だって知っている。でもみんなで「無智」「無謀」になることが国家命令であるなら、その「集団発狂」の渦中(火中)に飛び込み、立派に狂人の役割を、瞬時に演じられるのだ。(小・中学校時代、学校や教室には「軍事教練」大好き大人がたくさんいた。竹槍・バケツリレーに優等賞を取った女性教員もいた。学校には「戦時」があった、そんな、仮初(かりそめ」の平和の時をぼくは過ごしていた)

ぼくが大学に入ったのは昭和39(1964)年4月だったが、教室には、戦時下の「軍事教練担当教員」が授業を担当していた。授業はお粗末の極みだったが、人間性は淡泊な人、おそらく「悪人」ではなかったでしょう。こんな「善良」「善人」でも悪用されると、学校も戦場になるのだと思う。もちろん、ご本人の「善良性」も怪しいものだったにちがいない。小心で気弱な「善意」はいつだって「悪意」に席を譲るのですから。「撃ちてし、止まん」の突撃精神は、一夜にして「自他を愛せよ」となるのに、いささかの抵抗もなかった。狂気が冷めれば、元の善人(黙阿弥)ということだったでしょう。「あのときはどうかしていたんだ」と言ってすましてしまう。やがてまたまた、「欲しがりません、勝まつでは」となるにちがいありません。「国家」というものは単なる箱だと思えば、国民は「箱入り」となるが、この箱そのものが、時には強制力や命令を発するから油断がならない。
ぼく個人の感覚では、今日、あからさまな「軍事教練」は学校からは排除されたかに思われます。でも、気が付かないだけで、これまでとは別種の「軍事教練」が行われているとも考えられます。「学校の名誉」だか、「郷土の名誉」だか知らないが、とにかく「競争に勝つ」ための人生なんて、何時でも「軍事教練漬け」だと言えなくもないでしょう。はたして、ぼくたちに「一番きれいだったとき」があったのでしょうか、あるのでしょうか。「醜悪」「醜態」「醜聞」「醜名」…。ぼくたちの住む現実には、至るところが「醜」に満たされ、晒されていませんか。「善意の人」の本心は「醜悪奸邪(しゅうあくかんじゃ)」だということになるのがしばしばです。

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

わたしが一番きれいだったとき、それは自分が「世間」をまったく知らなかった、「自分(自我)」をまったく持っていなかった時だったと、茨木さんは自白(告白)しています。「賢くなる」というのは、いわば「器用」や「要領」を身につけることです。だから「空っぽ」「とんちんかん」こそが美しいと思う・思わされることこそ、なんとも悔しいではないか、そういう「懺悔」と「悔悛」を、着実に、誠実に我が身に受けいれることが、自分の再生への道を開くのでしょう。
「自分はなんと愚かだったか」「死ぬほど恥ずかしい」「耐え難い屈辱」という自らの経験の自覚が、自らの蘇りにつながる、のり子さんはそう白状しているんじゃないですか。<Idiot Beauty>という自身の状況の無自覚に対する「怨嗟」というか、「臍(ほぞ)を噛む想い」がこの詩に露出しているのです。だからこそ、その後に「自分の感受性くらい」という「反省文」というか、「懺悔」を書くほかなかったんですね。(左写真は茨木さん。「私の一番きれいだったとき」でしょうか)(日経新聞・2021年7月10日)
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aの音訳。『大毘婆沙論(だいびばしゃろん)』巻136の譬喩(ひゆ)的説明によると、「2人の成人男子が何本ものカーシー産絹糸をつかんで引っ張り、もう1人の成人男子が中国産の剛刀でもって一気にこれを切断するとき、1本の切断につき64刹那が経過する」と述べられている。2人の男がかりに5000本の絹糸をつかんだとすると、剛刀による一瞬の切断で5000×64刹那の時間が経過するから、1刹那の短さが想像されよう。『大毘婆沙論』同所の科学的説明によると、1昼夜=30須臾(しゅゆ)、1須臾=30臘縛(ろうばく)、1臘縛=60怛刹那(たんせつな)、1怛刹那=120刹那である。1昼夜を24時間として計算すると、1刹那は75分の1秒になる。仏教哲学では「刹那」は、物質的、精神的、なかんずく精神的な現象の瞬間的生滅を説明するときに使われる。なお、今日の「刹那主義」ということばの概念は仏教のものではない。(日本大百科全書)





















