万霊の天より圧す梅雨入かな

【小社会】雨の季節 子どもの頃はいまより、雨に親しんでいた気がする。例えば北原白秋作詞の童謡「あめふり」も、「あめあめ ふれふれ かあさんが」と始まる。❖白秋は雨の日の子どもたちの気分を「ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」とも表現した。雨への愛着、感謝も込めたのだろう。雨は稲作など農業や生活に欠かせない天からの恵みである。❖物理学者の寺田寅彦は、雨の別の効果に着目した。随筆「雨の音」にある。ローマ字表記なので改めると、「風のない夜の雨の音を、書斎の机にもたれて、じっと耳を澄まして聞いていると、なんとなく心の底まで落ち着いてくる」。実際、静かに降る雨や波の音などは癒やし効果があるという。❖きょうは暦の雑節「入梅」。それに合わせるかのように、きのうまでに四国を含む各地で梅雨入り宣言が相次いだ。九州などは早くも大雨に見舞われており、悠長に構えてはいられない状況だ。❖「天災は忘れた頃来る」は寅彦の警句とされるが、地球温暖化の影響だろう。近年は豪雨禍が全国で忘れる間もなく繰り返される。気象庁が先月発表した3カ月予報によると、西日本の6~8月の雨は「平年並みか多い見込み」。警戒したい。❖種田山頭火は詠んだ。〈梅雨の月があつて白い花〉。栗の花も雨に映える。災害が増える季節だが、雨の風情に親しむ余裕は失いたくない。それも備えあれば憂いなしを実践してこそだろう。(高知新聞・2025/06/11)(行替えは引用者)(https://www.kochinews.co.jp/article/detail/871495)

 本日は「入梅(にゅうばい)」だという。まさに気象庁の予報通りの当たり日というわけ。「雑節(ざっせつ)」という呼称はあまりなじみはありませんけれど、それぞれの「雑節日」はお馴染みのものばかり。一日の90分間ほど(朝夕食時)のテレビ視聴や、ネットの情報番組を見ていて、つくづく「表層社会」「見世物合戦」化現象が昂進していると感じます。嘘や誹謗、更には限度のない中傷の数々が、まるで空中を浮遊しているような塩梅で、とても気軽には見られないし、興味を持ってみるべき番組などではそもそもないのですね。そんな軽薄な風潮に人は傷つき、命を失うのだ。

 端(はな)から、限界のない中傷の行列がどうして放送網に引っ掛かるのか、そもそも「ネット」社会のある種の無秩序そのものが行方も定められずにあらゆるところに行きつ戻りつ彷徨(さまよ)っている。まるで、何の因果か知りませんが、悪霊の盆踊りよろしく、老いも若きも、男も女も、内外問わずにイカレているように、「時代おくれ」のぼくには感じられてきます。

 表題句は目迫秩父(めさくちちぶ)作。本名は文雄。神奈川の人(1916~1963)。梅雨入り時の、いかにも重たそうな雲の圧力は、今は亡き、無数の故人たちの、あるいは生霊・精霊たちの息遣いが、今もなお生きている生者への念押しの如くに、雲を通して、ぼくたちの頭上に覆いかぶさるのです。さらにいくつかの句を。

・世を隔て人を隔てゝ梅雨に入る(高野素十)
・生死の果なし坂や梅雨に入る(中川宋淵)
・十薬の花の十字の梅雨入かな(石田波郷)  ⁂十薬=ドクダミの別名
・我が梅雨入万両の実のなほ赤く(相生垣瓜人)

 「入梅」の言葉に違わず、朝から雨模様です。九州南部では、各所が強烈至極の豪雨の洗礼を受けたという。各地の田植えが一段落した、その瞬間にも「入梅」に似つかわしくない集中豪雨が早苗を痛めつけている様を想い、「令和コメ騒動」の笑えない茶番劇に心痛く、悲しみ深く。

 三好達治さんの「大阿蘇」(1939年刊)の前半部分を。「雨が降つてゐる 雨が降つてゐる 雨は蕭々と降つてゐる」

雨の中に馬がたつてゐる
一頭二頭仔馬をまじへた馬の群れが 雨の中にたつてゐる
雨は蕭々(しょうしょう)と降つてゐる
馬は草をたべてゐる
尻尾も背中も鬣(たてがみ)も ぐつしよりと濡れそぼつて
彼らは草をたべてゐる
草をたべてゐる
あるものはまた草もたべずに きよとんとしてうなじを垂れてたつてゐる
雨は降つてゐる 蕭蕭と降つてゐる(中略)

ぐつしよりと雨に濡れて いつまでもひとつところに 彼らは靜かに集つてゐる
もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう
雨が降つてゐる 雨が降つてゐる
雨は蕭々と降つてゐる

ひびの有無に関係なく、骨董は骨董だ

<あのころ>「幻のピアニスト」初来日 1983年6月11日 1983(昭和58)年6月11日、しばしば演奏活動を休止して「幻のピアニスト」と呼ばれたホロビッツ氏が初来日、東京・NHKホールでリサイタルを開いた。当時のクラシック音楽界では破格の平均4万円というチケットは即完売、超満員の聴衆は巨匠の円熟した演奏に聴き入った。86年に再来日し、89年に死去した。(共同通信・2024年06月11日)

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 この時の吉田さんの演奏評はよく覚えています。それ以前から吉田さんの文章は、どんなものでも必死になって探しては読んだものです。戦後の早い段階で存命だったフルトベングラーの演奏をドイツで聴かれたこと、この国でもっとも早くにグレン・グールドの演奏論を、きわめて演奏家に即した筆致で文章化されたこと、当時のラジオ放送でも西洋音楽の「現在地」を確かな感覚と文章で語られたことなどなど、一時期、音楽評論の方向に、などと夢想していた時代、吉田さんは最も確かな導きの糸でした。とても長命を保たれた吉田さんの仕事は、全集などで知ることができますが、同時代に彼の息吹を感じられただけでも、ぼくには幸運なことでした。何度か演奏会でお目にかかったことがりますが、何よりも自分の感覚を研ぎ澄ますかのように、足しげく演奏会場に通われたことだけでも尊敬に値しますし、その多くを文章に遺された功績は小さくなかったと思う。

 ホロビッツについても若干の感想めいたものはありますが、ぼくは一貫してよく聞くことのできなかったピアニストでした。「幻の…」などと言われると、先ず敬遠したくなるのは、ぼくの大欠陥だったかもしれない。あまりにも評判が高かったりするものは極力避けたし、その反対に月並みな論評でまともに扱われなかった演奏家に、ぼくは積極的に近づこうとしたほど。いわゆる「現代的な演奏」というものがあるとして、ホロビッツのそれは二十世紀に相応しい機械的というか、ロマンティックではない硬質の演奏だったでしょうか。彼の岳父だったトスカニーニと共演したチャイコフスキーのピアノコンチェルト(1番)に遭遇して、度肝を抜かれたことを忘れません。こんな演奏があるとうことが信じられなかったのです。若いぼくには「音楽(楽曲)の冒涜」とすら思ったほどの出来事でした。まるで「ロボットの演奏」(今なら、さしずめ「AIによる演奏と言われようか)と思いたくなったほどでした。

(* Tchaikovsky: Piano Concerto No. 1, Horowitz & Toscanini (1941)・https://www.youtube.com/watch?v=hcY0kJ5j6pg

 今でも、何枚もホロビッツのレコードを所持していますが、この何十年、それを聞くことはありませんでした。(その意味でも、「<あのころ>「幻のピアニスト」初来日 1983年6月11日」の記事は、ぼくには梅雨時の「黴に取りつかれた記憶」のように、その謂いえぬニオイにおいさえも感じられてきたのです。もちろん、この親子の演奏を熱狂的に受け入れる聴衆(愛好家)がおられることをぼくは否定しません。ぼくは単なるジレッタントにすぎないんですね)         

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● ホロビッツ(ほろびっつ)(Vladimir Horowitz)(1904―1989)= ロシア出身のアメリカのピアノ奏者。20世紀を代表する巨匠の一人。生地キエフ(現、キーウ)の音楽院を卒業して1922年デビュー、国内で活躍したのち、1925年ベルリンに移って評判を高め、西ヨーロッパ各地に楽旅。1928年のニューヨーク・デビューが大成功を収め、爆発的な人気を博し、早くも不動の地位を築いた。病気のため二度にわたって長期間演奏活動を休止したが、人気はすこしも衰えず、かえって高くなったといわれる。1983年(昭和58)初来日。このときは不調だったが、1986年の再来日で実力の一端を示した。「リストの再来」と称された卓越した技巧に加え、情緒あふれる叙情的表現を得意としており、ショパン、シューマン、スクリャービン、ラフマニノフなどで独自の境地を開いた。(日本大百科全書ニッポニカ)(写真左・トスカニーニと)

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 ひびの入った骨董 吉田秀和の伝説のホロヴィッツ批判 全文を読む 音楽評論家の吉田秀和さんが亡くなって、今月の22日で10年になります。芸術の深淵(しんえん)へと柔らかい言葉で多くの人々を導いてきた巨人であり、音楽にとどまらず、文学、美術、さらには相撲まで、異なる世界が垣根なく結ばれ、新たな表現の可能性を探っていた時代そのもののような存在でもありました。/その名を最も広く知らしめたのが、1983年の「ホロヴィッツ事件」でした。世界最高峰のピアニストの晩年の演奏を「ひびの入った骨董(こっとう)」と評する勇気は、日本のみならず、世界の音楽業界に大きなインパクトを残しました。(右写真・吉田秀和さん=2007年、神奈川県鎌倉市の自宅で:朝日新聞)

 この「事件」には後日談があります。吉田さんの批評を伝え聞いたウラディーミル・ホロヴィッツその人が、「あの時の演奏は本領ではなかった」として、代理人を通じて自身の演奏テープを送ってきたのだそうです。しかし吉田さんは、「生演奏でなければ比較はできません」として聴くのを断りました。こうした芸術という世界に対するシンプルなリスペクトが、自らの心に対する偽りのない、洗練された言葉の源となったのかもしれません。その3年後、ホロヴィッツは日本で再起の名演をきかせました。(左写真・吉田秀和さんの「酷評」が出た3年後に再来日し、再起の名演を聴かせたウラディーミル・ホロヴィッツ=1986年6月21日、東京・三軒茶屋の昭和女子大人見記念講堂:朝日新聞)

 吉田さんの没後10年を機に、その「伝説の原稿」である1983年6月17日の「音楽展望」を、いま一度お読みいただければと思います。これからも随時、吉田さんの「音楽展望」をデジタルにて再掲載していきます。それぞれの芸術の世界に住まう人々と、ことばの世界に住まう人々が接点を持つ機会がかつてほど多くなくなった今という時代において、批評や評論といったものは、社会においてどのようなダイナミズムを持ち得るのか。吉田さんの問いかけは、今なお極めてアクチュアルであるように思えます。(編集委員・吉田純子)(朝日新聞・2022年5月20日 14時00分)(https://www.asahi.com/articles/ASQ5M5WJ9Q5MULZU004.html)

● 吉田秀和【よしだひでかず】= 批評家。日本の音楽評論を批評の域に高める優れた批評的エッセイを残した。東京日本橋生まれ。外科医の父が小樽の病院長に就任したため,少年期を小樽で過ごす。小樽市中学で伊藤整に英語を習う。旧制成城高等学校をへて1936年東京帝国大学文学部フランス文学科卒業。成城高校時代に,中原中也からフランス語の個人教授を受けた。小林秀雄,大岡正平らとも交遊関係があった。1946年,《音楽芸術》に《モーツアルト》を連載,本格的な批評を始める。1948年,斎藤秀雄らと〈子供のための音楽教室〉を開設,初代室長となる。〈子供のための音楽教室〉は後の桐朋学園音楽部となり,小澤征爾ら多くの優れた音楽家を輩出した。1957年,柴田南雄らと20世紀音楽研究所を設立,所長となる。1988年水戸芸術館館長に就任,1990年,すぐれた芸術評論に贈られる〈吉田秀和賞〉(吉田秀和芸術振興基金主催)を創設した。その間,音楽のみならず,和洋の文学,美術についての該博(がいはく)な知見を踏まえて,芸術全般にわたって精力的に批評活動を続けた。独,仏,英語に通じ,翻訳も数多い。《吉田秀和全集》第1期,第2期(全24巻,1975年―2004年,白水社)が刊行されている。文化功労者(1996年),文化勲章受章(2006年)。(日本大百科全書ニッポニカ)

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む可し幾計 秩父殿さへ 寿まふとり

【卓上四季】相撲を愛した 取材した相手の第一印象をずっと覚えていることがある。15年ほど前に初めて話を聞いた元横綱の白鵬もそうだった▼「北海道は涼しくていいですね。(モンゴルと)似てるから」。こちらの記者証を目にすると、声をかけてくれた。猛暑の名古屋場所。厳しい朝稽古を終え、くつろいでいる。綱を張ってしばらくたっていた。やさしい笑顔で穏やかに語る様子は好青年そのものであった▼その後の歩みは言うまでもない。史上最多の優勝45回をはじめ、前人未到の記録を打ち立てた大横綱となる。八百長など大相撲の不祥事が相次ぐなか、一人横綱として土俵を支えた。双葉山ら先人に学ぼうとする姿勢が際立った▼慢心があったか。乱暴な取り口や言動で品格を問われる場面もあった。現役引退後は後進の育成をめざしたものの、弟子の暴力問題を放置し自らの部屋の閉鎖に至る。ついにきのう相撲協会を去った▼「相撲に愛され、相撲を愛した25年でありました」。会見での発言に偽りはなかろう。ジュニア大会「白鵬杯」を成功させ、東日本大震災の被災者を励ました。相撲への強い思いを阻んだ壁はなにか▼平成以降、横綱が幾人も角界を離れた。協会は再び貴重な人材を失ったことになる。組織で力を発揮してもらう道はなかったのだろうか。10年、20年先の角界の姿が気がかりだ。(北海道新聞・2025/06/10)

 相撲は国技だという。柔道も国技だといわれている。そうなんでしょうか。そうでない気もします。「国技」とはどいうものなのか。いかにも相撲は国技らしい風儀を大事にしてきましたが、ぼくの見立てでは「運動版歌舞伎」みたいなもので、型(姿)を大切にした見世物(興行)だという気がします。それがまるで「格闘技」のようになったのも現在の大相撲の、ある種の袋小路にはまり込んだ一因であったかもしれません。何百人もの人間集団が、小さな「相撲部屋」を構成して一門を名乗り、その一門対抗の「はだか歌舞伎」(興行)だといってもいいかもしれない。相撲の歴史は古いのでしょうが、明治以前は「勧進元」が差配した見せ物興行だったでしょう。

 ぼくが小学生の頃、今から七十年ほども前のこと、年に四場所の本場所はラジオ中継が主だったし、それなりに楽しみになっていました。贔屓の相撲取りは何人もいましたね。名前を出せばいくらでも出てきますが、地味なタイプのお相撲さんがほとんどでした。そんな昔から、やはり「八百長」が噂されていました。勝負に「八百長(手加減)」はつきものと言えば、人間のすることですから、時には加減をしたり、腰が引ける(相手に同情する)こともあるでしょうが、その「八百長」が金になるとしたら、いささか事情は異なるでしょう。現在の相撲協会の歴史の中でも「八百長」が理由で相撲協会から追放された力士はいたのです。もちろん、当の協会は「現在、八百長なんか絶対にない」と公式見解を出しています。しかし、それはどうでしょう。力士も生身の人間、ひたすら勝つこと、真剣勝負にいのちを懸けているといいたいところですが、なかなかどうして、…。 

 いつだったか、元関取が「まともに勝負したら、怪我は当たり前、死人も出るよ」と語っていたのが印象に残っています。ここまでが前口上。

 「優勝45回」の元横綱白鵬が相撲協会から身を引いた(引かされた)。理由はいろいろでしょうが、相撲協会の「格式(しきたり)」を厳守できなかったから、それが第一の理由でしょう。この何十年、ぼくは相撲を観なくなっていましたから、今回の「騒動」にもあまり関心は持たなかった。結局は、ある種の「排除の論理」が奏功したということではなかったか。白鵬(にかぎらず)、外国籍関取に対する相撲協会の「人種差別」や「外国人への偏見」がなかったとは思えない。逆に言うと、排除され差別されているという、常日頃の感情が、いざという大事な場面で表に出るということが根底にあったかもしれない。大相撲も「礼に始まり、礼に終わる」という「礼儀」が過度に尊重される。同じ釜の飯を食った同士が、体を張った真剣勝負という「見世物」を興行するものだと、はっきりと割り切ってしまえば、それほど深刻な事態にもならなかったのでしょうが、「国技」が重きをなしているのですから、「お目溢(こぼ)し」はできなかったのかもしれません。「相撲に愛され、相撲を愛した25年でありました」とはご当人の言葉ですが、「相撲」の中身が問われるべきだったでしょうね。

 チームプレーが肝心要のプロ野球においても、過去に何度か「八百長試合」が事件になり問題となった。それに関与した選手で、「球界から永久追放」を受けた者も何人か出ました。勝負事には、おそらく「手加減」というものは避けられないのでしょう。なぜか。それを「材料」にして賭け事が成り立つからです。競馬や競輪、競艇などの「公営ギャンブル」でもしばしば「不正疑惑」が問題になることがあります。有り体に言うなら「八百長」があったということでしょう。そんな勝負の世界でも、大相撲は一種独特の集団生活を「掟」として歴史を重ねてきました。相撲界の人間はすべて男です。「部屋」という独特の共同生活をしながらの「真剣勝負」というものの維持がどれ程困難か、「日本の国技の主体」とされている「相撲社会」を見ているとよく分かる気もします。「国技の国際化」がもたらしている、ある種の「矛盾」というか「不首尾」がいろいろな難題を生み出しており、その一つの表れが「白鵬追い出し」になったのではありませんか。陳腐な結論ですが、大昔の相撲好き(ファン)の岡目八目でした。

*ヘッダー写真「勧進大相撲土俵入之図 歌川国芳画」:東京都立図書館)(https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/sumo/page1-1.html

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◉ 国技=一つの国の特有な武術、または趣味を発揮した技能、芸能のことで、日本では相撲(すもう)をさしていう。しかし近年の日本野球でも「野球を不朽の国技」とすることが野球協約にうたわれているが、野球ファンにもその趣旨は普及していない。日本において「国技」の初出は、江戸時代の化政(かせい)期(1804~30)に隆盛をみた囲碁を武士階級が国技と称したことがある。1909年(明治42)6月、東京・本所両国の回向院(えこういん)境内に相撲常設館が完成した。当時常陸山(ひたちやま)・梅ヶ谷(うめがたに)の両横綱が並び立ち、大相撲は黄金時代の隆盛を迎え、江戸時代からの掛け小屋から、雨天でも興行できるようになった。この開館式の式辞文中に「相撲は日本の国技」とあって、常設館が「国技館」と命名された。以後、相撲は国技という名称でよばれ、『国技』という相撲専門誌も刊行された。/ いま世界各国で国民的競技national sportsの名称でいわれているスポーツは各種ある。アメリカのフットボールと野球、トルコのレスリング、イギリスのサッカー、クリケット、モンゴル(蒙古(もうこ))のモンゴル相撲、スェーデンの体操と徒歩競技、ブラジルやスペインのサッカーなどがあげられよう。しかし、これらが国技といいうるかは明確でない。古代インドでは、格闘技が盛んであったため、一地方では「力士(りきし)国」と称したことが釈迦(しゃか)伝の経本に出ている。古代エジプトでも、水泳が国民各層に広く行われた時代があった。古代ギリシアもレスリングを市民の体育とした。(日本大百科全書ニッポニカ)

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 (表題句は芭蕉。「この翁塚は、荒川総合支所の裏を通るかつての秩父往還沿いにある。安政2年(1855)建立、自然石の碑には「む可し幾計 秩父殿さへ 寿まふとり(昔きけ 秩父殿さへ すまふとり)」と記されている。
 芭蕉句集によると、元禄4年(1691)の作であり、『古今著文集』には秩父殿(畠山重忠)がその頃、関東に名高い「長居」という相撲取りを負かした話があり、これを詠んだものと思われる。」翁塚 芭蕉句碑:秩父市HP:https://www.city.chichibu.lg.jp/4434.html

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米食った犬が叩かれず糠食った犬が叩かれる

【北斗星】米価を下げるため随意契約で放出された政府備蓄米が、5キロ当たり税抜き2千円程度で大都市を中心に店頭販売され、争奪戦になっている。今後販売する店舗や数量が拡大する中、狙い通り米価全体を下げられるかが焦点だろう▼備蓄米は不作などへの備えだったが、価格高騰を受け流通に支障がある場合も放出できるようになった。子ども食堂やフードバンクへの無償提供にも使われている▼本県には江戸後期に民間による「備蓄米」の仕組みがあった。1829年に生活困窮者救済のため、久保田(現秋田市)の商人・那波三郎右衛門祐生らが「感恩講」を設立。秋田藩の賛意を得て、資金を集めて年貢の徴収権を認められた知行地(農地)を買い入れ、そこから毎年生じる年貢を備蓄、運用し救済事業を展開した▼平時から生活困窮者にコメを提供し、33年の天保の大飢饉(ききん)では延べ43万人に配ったという。民間福祉事業の先駆けという現代の評価もある。久保田をきっかけに感恩講は県内各地に設立された。現在も児童保育などの事業に取り組む▼今回の米価高騰を巡っては、この半年間でひとり親家庭の88%が経済的事情などからコメを買えない経験をしたという東京の民間団体の調査結果がある。「子どもの体重が減った」との声も多く上がっているといい、切実な状況が伝わってくる▼価格高騰はコメだけにとどまらない。長引く物価高に対し、収入の伸びがないといった困窮している家庭への支援が急務だ。(秋田魁新報・2025/06/08)

 任意に集めた最近のコメ小売り店の風景(下の写真)。久しく見られなかった異様な光景ですが、どうしてこんな事態が生じたのか。来る日も来る日も「コメ不足」と煽るばかりのマスメディア。本当に「コメが足りない」のでしょうか。余っているんじゃないですか。ふざけた流通絡繰(からく)りによって引き起こされた「米騒動」と言ってしまうにはあまりにも癪ですね。一体全体、この社会の「主食の確保」において何が起こっているのか、熟知している集団がいるにもかかわらず、誰もその理由を明らかにしないのはなぜだろうか。

 毎年およそ700万トン余の米が生産され、いくつかの流通経路を介して、そのほとんどが市場に回される。万が一の凶作・災害などに供える「備蓄米」(4年を限度に確保)は別途政府によって確保される。昨年産の米収穫量のどれくらいが、実際に市場に出(し)たのか出(さ)なかったのか、現段階では限られた数値しか示されないが、大きな災害や不作・凶作があったわけでもないのに、どうしてかかる事態が生み出されたか。関係者の多くは、口を噤(つぐ)んでいる。そして、問題は今や、別次元に移され、ひたすら新米農水大臣の政治的パフォーマンスによる「政府備蓄米」の「廉価放出」一色に塗りつぶされている。下手な芝居は止めてくれないか。

 「消費者は仏様」と持ち上げられた(その実は、虚仮にされているのだ)みたいで、古米・古古米・古古古米の放出に狂喜乱舞しかねない大騒ぎ、要するに、そのような下手な芝居を庶民に演じさせなければならないほど「政治不在」という廻り舞台の裏の裏(楽屋)が見えているのにもかかわらず、「安かろう、不味かろう」の国民総出の猿芝居、いやとんだ茶番劇(farce)も、間もなく「大団円」(カタルシス)が訪れようとしています。

 中国前漢時代の故事に「舐糠及米(しこうきゅまい)」、「糠を舐りて米に及ぶ(ぬかをねぶりてこめにおよぶ)」という教訓が残されています。「《「史記」呉王濞伝から》糠をなめ尽くせば、やがては米にまで手をつける。被害が徐々に拡大することのたとえ」(デジタル大辞泉)この国は古来「瑞穂の邦」「豊葦原瑞穂国」などと美称されてきました。その美称に似合わない悪辣・無礼な手合いが「米会計」を占有してきた歴史があります。時として、その昔の「苛斂誅求」を極めた圧政家・悪代官の遺伝子が騒ぐのでしょうか。あるものをないと称して、私腹を肥やすのは誰の手口だったか。また「米食った犬が叩かれずに糠食った犬が叩かれる」という政治家稼業に直伝の「哲学」「処世訓」も健在でした。「大悪が罪を逃れ、小悪が罰せられる」というのは、どこにでもある現象でしょうか。

 同じような譬えです。猫には申し訳ありませんが、ここは庶民の身代わりとして、出番を設けました。「皿嘗めた猫が科を負う」という。これもまたいつだって、尻拭(しりぬぐ)いをさせられる、つまりは弱者が割を食うという話です。お皿に載っていた旨そうな魚は誰か(頭の黒い猫)が疾(と)うに食べてしまった後で、のこのこやってきて「皿を舐めた猫」が罰せられたというのですよ。人が好い、いや、猫が好いんですかね。

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「徒然に日乗」(771~777)

〇2025/06/08(日)朝方から少し雨が降っていたが、昼前にはすっかり晴れあがった。「梅雨入り」直前の好天だったか▶昼前に買い物、茂原まで。▶午後からは、天候回復もあり、庭作業。昨日までに選定したさまざまな枝や雑草などの焼却に取り掛かる。相当な分量に達しているが、「梅雨到来」までには大方を焼却しておきたい。植え込みや生垣の剪定等も残っているので、少なくとも燃やせる時間を見つけては減らすつもり。(777)

〇2025/06/07(土)昨日に続き快晴。午前中2時間午後2時間と庭作業に4時間を費やした。何年ぶりだろう。陽射しはあったが、日陰を選んで作業をした。その成果の第一は、夏蜜柑の木の大々的な剪定だ。相当に枝葉が伸びて、日当たりも悪かったので、思い切り剪定し、ほぼ丸坊主に近くした。これで次年度の実成(みなり)は悪くなることは確実だ。一昨日の檸檬の剪定に続く、柑橘類の整備。残りは、これまた異常に高くなった「柚子(ゆず)」一本、今後の宿題である。さらにかなり太く背も高くなった孟宗竹を計6本ほど伐採した。その始末が大事(おおごと)で、枝落としや太い幹の切断に息を切らした。屋根にかかっているスギやヒノキ、竹の枝落としもまだかなり残っているが、梅雨入りまでには間に合わなかった。落とされた枝葉の燃焼にも時間を使った。相当な量が溜まっているが、時間をかけて始末して行くつもり。予報では来週の火曜(10日)辺りが「梅雨入り」らしい。たくさんの積み残しが出たことになる。(776)

〇2025/06/06(金)朝から快晴の一日。予報では今週末か次週早々には「梅雨入り」などと報じられているが▶前回は少し多めに缶詰を購入したので、本日は10日以上の間が空いての購入。前回と同じ量を買った、約1万7千円強。これで、どれほど持つか。品を変えては食が落ちることのないように気を使っているつもり▶庭作業は本日もお休み。来週には雨が続くようなので、週末には少しは残りの作業を終わらせたいもの。(775)

〇2025/06/05(木)久しぶりの快晴。午後に庭作業。枝が伸び放題になっている木々を剪定した。前庭にある桜三本の手入れ。剪定済みの枝類を焼却するつもりだったが、昨日の降雨でまだ乾燥しきっていなかったので、少し時間をおく。陽射しが強くしかも湿気が高いので、体力を一気に奪われる。どうやら「梅雨入り」もまじか。今はその前哨だと思うほどに、じめじめむしむしだった▶高騰しているコメ問題。相変わらず絡繰り一杯の「備蓄米」騒動だ。ここにきて、備蓄米放出によって、今まで市場に出回らなかった通常米がスーパーなどの棚に出てきたという。文字通り、消費者を虚仮にした「茶番劇」そのもの。(774)

〇2025/06/04(水)雨がやんで、少しばかり陽射しが出てきた。しかし、案の定とても蒸し暑い。まるで梅雨時のような天気具合。午前中に買い物、茂原まで。午後からはずっと家の中ですることもなく時間をやり過ごしている。庭に出て何本か、気になる植木の枝下ろしをと思っていたが、湿気むんむんで、とてもその気にはならなかった。(773)

〇2025/06/03(火)昨夜からの雨が続いている。午前6時半にいつも通りに「生ごみ出し」。本日は終日自宅内に▶長嶋茂雄氏が逝去との報道。89歳だった。その昔(中学時代)は、熱心なプロ野球ファンだった。もちろん巨人。中でも長嶋さん。彼に関する最初の記憶は、立教大学時代の神宮球場で最終学年の最後の試合(1958年秋)で、8号本塁打を打ち、連盟記録を作った試合をラジオ中継で聞いていたのだ。それ以来すっかり魅せられ続けた。あらゆるエネルギーを野球に注いできた人。入団三年目で、彼はドジャーズ入団を決意し、球団に申し出たが、球団はもちろん許可しなかったという逸話が残っている。仮にそうなっていたら、その後の日本のプロ野球の様子はずっと変わっていたはずだし、大谷翔平君なども生まれていなかっただろうと思う。日本プロ野球の礎をなした人であり、MLBへの日本人選手登用(移籍)の道を開いた人だったと思う。「不世出」というべき存在だったというべきか。野球においては超一流だったが、さてそれ以外ではどうだったか。彼に素晴らしい「人間像」を望むのもどうかと思う。野球は超一流だったし、その反動はあったのではなかったか。「一将功なり万骨枯る」(適切ではないが)という表現があるが。それを問うべきだと小生は考えているのではない。(772)

〇2025/06/02(月)久しぶりの晴天。午前中に買い物、茂原まで。帰路にH.C.で猫のドライフードと蚊取り線香を購入。蚊取り線香は、外に出ると蚊が飛び交っているし、家の中にも入ってくる。常にどこかの戸をあけておいて、猫の出入り用にしているから。湿気の多い林や竹藪もあり、蚊の多さに驚かされ、悩まされているのだ▶午後の何時間かを外作業に。檸檬(レモン)の木と梅の木の剪定。さらに三、四本の南天(ナンテン)も思い切り刈り込む。紅葉や桜も剪定したかったのだが、午後三時過ぎに横浜から娘と孫が遊びに来た。本日は孫の学校では「代休」だとのことで、しばらくお茶を飲みながら話す。五時過ぎに帰路に。途中、アクアラインの「海ほたる」に寄ってみるとのことだった。(771)

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「雨の日も笑顔」にさせる「梅雨葵」

◎ 週の初めに愚考する(七拾参)~ いかにも梅雨空を思わせる曇天の朝です。もう数日もすると当地も「梅雨入り」だとか。昨日は久しぶりに長時間の庭作業に精を出した。伸びきった樹木の枝葉を剪定し、混み合って生えている孟宗竹を何本か伐採し、その後片づけに疲労が溜まってくるのがわかりました。「歳を取った」という自覚は何時でもあるものの、外に出て作業をすると、瞬時に身体の衰えがわかるので、実に情けない気分に襲われます。「今日はこの辺にして、続きはまた明日」、そんな気持ちになりながら、冷たいお茶を飲み、汗まみれになった体にシャワーを浴びる。タチアオイの「赤」が目に焼き付いてくる。

 「産経抄」では「六月病」に気を付けて、と書かれています。「梅雨入り」とは、夏の入り口でもあり、草花は思いのたけを色や背丈に表します。その「梅雨入り」が人間にとってはやけに嫌われている節があるのです。「人間の方はといえば、入社や異動など年度替わりの環境の変化に、心や体の疲れが出やすい時期だという。『六月病』と呼ばれている。▼梅雨のじめじめが影響しているのか。『鬱の入り口』とも言われるそうで侮れない」と書く。「欝の入り口」という表現、ぼくは聞いたことがあったかどうか、記憶にないのですから、あまり人の口には上らない言い方だという証明でもあるでしょう。

 確かにジメジメした天気が続くと、気分がすぐれないことがあるかもしれません。気分が滅入るのも避けられないでしょう。しかし、…。その昔、「五月病」などと言われて、入学早々の大学生の、学校になじめない、ある種の「息切れ」「動悸」を言い当てた言葉がありました。もちろん、全員が「五月病」に罹患するものでないのは言うまでもありません。中には「四月病」もあれば、「九月病」もあったろうし、今だってあるでしょう。世間で「何月病」と騒がれているから、「自分も罹(かか)ってみようか」という人もいないでしょうが、本物の病気なら話は別。多くは「気分」の動きに任せたままの「苛立ち」や「怒り」によるものであることも少なくないのです。拳を握ったままで、怒りを鎮めることは困難ですね。

 自らの気分に動かされやすい人のことを「御天気屋」というのは理由のないことではない。「《天気は、その時その時で変わるところから》機嫌や気分の変わりやすい人。お天気者」(デジタル大辞泉)と解説されている。<a moody person><temperamental>などという表現も異国にはあります。陽光が指せば気分は良好、雨が降れば気分が落ち込む。だから、ぼくはある哲学者に倣って「雨の日には笑え(笑おう)」と言い続けてきました。そう言わなければ、ぼくは気分屋そのものになる素質がありすぎたからでした。「自制せよ」とか「注意しなさい」などと他人に言うのではありません。まず自らに言ってみるのです。しとしと降る雨は、人間の力ではどうすることもできません。雨が降れば、誰もが憂鬱な気分になるかと思えば、「いい雨だ」と喜ぶ人もいます。久しぶりのお湿りで、野菜も生き返るだろうというのはお百姓でしょうか。

 降り続く雨は人間の都合でをどうすることもできないけれど、「ああ、いい雨だな」と口に出して言うだけで、憂鬱な気分はどこかに行ってしまう。「嫌なときにはいい顔を」という、そして、実際に自分でそうしてみる。そうすると、憂鬱な気分、嫌な気分の虜になるのは避けられるのです。「産経抄」氏が書かれていることはそのものズバリです。「折しも今週は梅雨前線が北上し、列島の広い範囲で梅雨入りが見込まれている。『梅雨葵』の面目躍如だ。雨とのよしみを結んだ花はほかにもある。春の長雨には『菜種梅雨』の名があり、晩秋から初冬にかけての長雨を『さざんか梅雨』と呼ぶ。▼気候変動など激しい環境の変化にさらされながら、毎年、時節を間違えることなく咲いてきた。異名が教えるのは草花の勁さにほかならない」、このコラム氏はなかなかの知性人とお見受けしました(以前から、そう思っていました)。「草花のしたたかさにあやかり、目から心身に元気を取り入れるのも手だろう」と、わが意を得たように読んでいます。

 この時、タチアオイやアジサイは、嫌な気分に陥りかけている自分に笑顔を齎(もたら)す、自然の恵みでしょうか。「梅雨葵」「菜種梅雨」というのは「嫌なときにいい顔に」させてくれる「天恵(天啓?)」ではないでしょうか。文字通りに「天が人に与える恵み。天恩」(同前)かどうかわからないが、そう言いたくなるほどの恵みだということでしょう。つまりは「冥加(みょうが)」でもあります。「そろそろアジサイも見ごろである。色彩の競演が映える季節、雨空も悪いことばかりではない」とさらに粋なことを仰(おっしゃ)います。昨日、拙宅の庭にある何本もの木々の思い切り伸びた枝を剪定しました。その時、日陰になっていたアジサイにはかなりの蕾(つぼみ)が膨らんでいるのに気づきました。選定の仕方が正しくなかったのか、拙宅のアジサイは背丈が伸びて、2㍍にもなっている。これを切ったものかどうか、迷っているのですが、昨日はそのままにして、雨風に傷つかないように添え木を立ててやろうと思った次第。

 植物(花木)にはそれにふさわしい育て方(手入れの方法)があります。その点で、ぼくはいいかげんなままで、花木を痛め続けているのかもしれないと思っている。もう少し勉強しなければと、真面目に考えています。「六月病」にならないように、自然は六月の花木を用意してくれていると考えれば、それこそ、そのありがたさを実感できるかもしれませんね。

 (蛇足 若いころに学んでいたルッソオ(Jean-Jacques Rousseau)(1712~1788)という思想家に「プラント・アナロジー」ということを教えられた。彼はリンネ(Carl von Linné)(1707~1778)というスウェーデンの植物学者の弟子を自認していました。リンネは「動植物類」を「属名と種名」で表記する方法(二名法)を立てた人として知られています。そのリンネやルッソオは、植物を育てるのと同じような意味合いで、人間教育を考えていたといってもいいでしょう。しばしば「植木の手入れ」などと言います。その反対に「手を抜く」などともいう。「手をかける」という複雑な意味を持たせた表現さえもあります。花木を育てる(栽培する)ことと子どもを教育する両者には、驚くほど類似している点があるでしょう。両者は、そっくりそのままで互いに通じるのではないでしょうか)(朝方は泣きそうな空でしたが、先ほどから小雨が降り出してきました)(午前6時半)

【産経抄】列島は梅雨へ、「六月病」に備えを 時折歩く散歩道は、四季の巡りに応じた路傍の植生が目を楽しませてくれる。手入れが行き届いているわけではない。人の過保護を知らない草花は、その分だけ野趣に富み、素朴なたたずまいの中にも勁(つよ)さと美しさがうかがえる。▼この時節は、人の背丈よりもはるかに高いタチアオイがつぼみをほどき、濃淡色とりどりの花を咲かせている。つぼみは下から開き、上へと向かって咲いていく。<咲き登る梅雨の晴間の葵かな>夏目成美。またの名を「梅雨葵」といい、雨の気配に敏感な花と伝えられてきた。▼<花葵の花咲そむるを入梅とし、だんだん標(すえ)(先端)のかたに花の咲終るを梅雨のあくるとしるべし>。江戸後期の書『世事百談』には、タチアオイの花に梅雨の入りと明けの判断を仰げと書かれている。花の体内時計は信頼されていたのだろう。▼折しも今週は梅雨前線が北上し、列島の広い範囲で梅雨入りが見込まれている。「梅雨葵」の面目躍如だ。雨とのよしみを結んだ花はほかにもある。春の長雨には「菜種梅雨」の名があり、晩秋から初冬にかけての長雨を「さざんか梅雨」と呼ぶ。▼気候変動など激しい環境の変化にさらされながら、毎年、時節を間違えることなく咲いてきた。異名が教えるのは草花の勁さにほかならない。人間の方はといえば、入社や異動など年度替わりの環境の変化に、心や体の疲れが出やすい時期だという。「六月病」と呼ばれている。▼梅雨のじめじめが影響しているのか。「鬱の入り口」とも言われるそうで侮れない。草花のしたたかさにあやかり、目から心身に元気を取り入れるのも手だろう。そろそろアジサイも見ごろである。色彩の競演が映える季節、雨空も悪いことばかりではない。(產經新聞・2025/06/08)(https://www.sankei.com/article/20250608-YMMXL4ALANLFPKFHJVAZDM2CDY/)
(ヘッダー写真:ライトアップの試験点灯で、照らし出された三室戸寺のアジサイ=6日夕、京都府宇治市)
【天風録】夏は来ぬ 「夏は来ぬ」という童謡がある。卯(う)の花の匂う垣根に、時鳥(ほととぎす)早も来鳴きて…。明治時代にできた難しい歌を知る若者が意外といるらしい。このアニメのおかげだろう。被爆43年の夏にNHKが放映した「夏服の少女たち」▲建物疎開に動員され、被爆死した県立広島第一高等女学校1年生たちの日常を描く。遺族が語る映像を織り交ぜた作品は少女たちの日記を基にした。物資がなく古着から手縫いした夏服が完成し、記念にと先生にせがんで合唱するのがこの歌なのだ▲程なく訪れる閃光(せんこう)の場面とともに胸に刻まれる秀作はDVDにもなり、全国の平和教育の現場で生かされてきた。主人公の一人が森脇瑤子さん。あす原爆資料館に遺品の数々が託される▲その日記は既に出版されている。「明日から家屋疎開の整理だ。一生懸命がんばろうと思ふ」。被爆前日の文字に心が痛む。幼い頃からの作文や習字、愛用した万年筆やハンカチなども13年の短い生涯の大切な証しだ▲「夏は来ぬ」が載る音楽教科書も寄贈される。ただ女学校のノートは勤労奉仕ゆえか空白が目立つ。学びたくても学べないうちに無念の死を迎えた少女たちを、絶対に忘れまい。被爆80年の夏が来た。(中國新聞・2025/06/08)(https://www.47news.jp/12692140.html

*唱歌「夏は来ぬ」~NHK東京放送児童合唱団:https://www.youtube.com/watch?v=UZQFbSaWzzg

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帝力何ぞ我に於いて有らん哉

行政機関の保有する情報の公開に関する法律(1995年5月交付)「第一条 この法律は、国民主権の理念にのっとり、行政文書の開示を請求する権利につき定めること等により、行政機関の保有する情報の一層の公開を図り、もって政府の有するその諸活動を国民に説明する責務が全うされるようにするとともに、国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資することを目的とする。」(目的)

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 よく知られてきたように「論語 泰伯編」に「たみ(民) は 之(これ)に由(よ)らしむべし之(これ)を知(し)らしむべからず」とあります。(「子曰、民可使之、不使之」) 「人民というものは、指導して従わせることはできるが、その道理を説いて理解させることはむずかしい。また、人民というものは命令によって従わせればよいので、原理・方針を説明する必要はないの意でも用いる」(精選版日本語大辞典)もちろん、これは孔子(前552〜前479)さんの政治原理、あるいは政治哲学と受け取れば、政治というものは「特別の人間(成人・君主)のなせる仕事」ということになります。無知蒙昧な人民に、いちいち手取り足取して何事かを分からせる必要などないのだ、ということでしたか。逆に言うなら、原理や理屈を説明する必要もないくらいに、政治は人民の願いや幸せに報いること、それをする人が政治家だということになります。

 都合のいいことだけ、口当たりのいいことばかりを論(あげつら)って、果たして民衆(人民)の「願い」「幸せ」に応接しているかどうかは二の次、それがこの国古来、政治家の本筋・本道になってきたし、今も変わらないというべきか。政府や官庁が保有する「情報」はだれのものか、言うまでもないのだが、それを好き放題に左右(料理)できると勘違いしている節があからさまに見て取れる、そんな世の風潮には鉄槌を下すべきだと思っている。自分たち(政治家・官僚)の「情報」なのだから、煮て食おうが焼いて食おうが勝手次第というお粗末を白昼堂々と繰り広げている、その根拠になった政治行政観・政治実践によって民衆は塗炭の苦しみを舐めている。「政治は舌先三寸」の方便に尽きるとでも勘違いしているのではないだろうかと、ぼくはいつだって勘ぐっている。嘘やごまかしが罷り通る世界に住んでいる人間には「誠実」「惻隠の情」の値打ちがわからないのでしょうね。

 何度か触れている「鼓腹撃譲」、毎日のように、当たり前に寝起きし、日が明るいうちは働く、そんな日常庶民の生活に「帝力」(権力者の影響)はどんな影響を当たられるというのか、関係ないことだ、そういう老人の話が古くから伝わっています。「善政」「太平」というものの政治の暗喩を語っていませんか。庶民が平安に暮らせるとき、政治家の権力は民の生活に干渉しないものだ、と。まるで「夢も中の夢物語」ですけれど。

〇 げきじょうか〔ゲキジヤウカ〕【撃壌歌】=《「十八史略」などにみえる故事から》中国伝説時代の五帝の一人、尭の時、老人が太平を謳歌して、大地を足で踏み鳴らして歌ったという歌。その詞は「十八史略」に「日出而作、日入而息、鑿井而飲、耕田而食、帝力何有於我哉」(日出(いで)てし、日入りて息(いこ)う、井を(うが)ち飲み、田を耕してう(くら)う、帝力(ていりき)何ぞ我においてあらんや、とある。(デジタル大辞泉)

〇 鼓腹撃譲(こふくげきじょう)=[名](スル)《中国の尭の時代に、一老人が腹鼓
を(はらづつみ)を打ち、大地を踏み鳴らし、太平の世への満足の気持ちを歌ったという「十八史略」などにみえる故事から》世の中の太平を楽しむこと。(同上)

【卓上四季】いつか姿を現す? ないと言い張っていた文書がいきなり姿を現す。霞が関では奇怪な現象が続いてきた。中央省庁における重要文書のことだ。むしろ、㊙文書というべきか。政権や官僚組織に都合の悪い問題で起きるらしい▼薬害エイズ事件をめぐる、かつての厚生省の対応は典型だろう。非加熱の血液製剤は危険と知りながら対策を怠り、多くの被害者を出した▼経緯を明らかにする文書は存在しない―。この厚生省の主張はすぐ崩れた。菅直人厚相の指示で調査を始めたとたん、省内のロッカーから文書が見つかる。国側の重い責任を示す決定的な証拠だった▼同じような展開になるかもしれない。安倍晋三政権の新型コロナ対策のひとつ、「アベノマスク」に関する問題である。国は400億円超を投じ、小さな布マスクを全戸に配ったが、どうにも評判が悪い。大量に余った▼業者や価格はどう決めたか。契約過程を記した文書を不開示とした国の決定を、大阪地裁が取り消した。文書やメールは作成も保有もしていない―。国の主張について判決は「考え難い」と一蹴した▼森友学園をめぐる開示文書の問題も頭に浮かんだ。遺族が欠落を指摘したのに対して、財務省は廃棄したと説明する。にわかには信じがたい。薬害エイズと同じく、マスクも森友も核心を突く文書がどこかに隠されてはいないか。(北海道新聞・2025/06/07)(https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1170026/
〇民は由らしむべし,知らしむべからず=封建時代の政治原理の一つ。出典は『論語』泰伯編。「人民を従わせることはできるが,なぜ従わねばならないのか,その理由をわからせることはむずかしい」という意味である。つまり,人民は政府の法律によって動かせるかもしれないが,法律を読めない人民に法律をつくった理由を納得させることは困難である,といっているにすぎない。ところが江戸時代は,法律を出した理由など人民に教える必要はない,一方的に法律(施政方針)を守らせればよいという意味に解されて,これが政治の原理の一つとなった。(ブリタニカ国際大百科事典)(右写真:「高き屋にのぼりて見れば煙たつ民のかまどはにぎはひにけり」~仁徳天皇 『新古今和歌集』 巻7-0707 賀歌)

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