「教員」は養成できないと知るべし

 滅多に社説に言及しなくなって久しい。どこの新聞社説も、どういうわけだろうか、「~せよ」「~するな」という説教調、命令口調で、そのほとんどが紋切型・決まり文句(a cliché )です。なぜだろうと、いつも読みながらとても訝しく思ったものでした。やがて、「社説」は書くことに意味があり、読まれること、注目されることは二の次だという世評のあることを知りました。大学生になってからでした。それはともかく。

 何度も触れてきましたが、ぼくは学部を卒業して、教員免許を取得し、田舎(いなか)に帰って山間部の中学校の教師になろうと、漠然とではありましたけれど、ずっと考えていました。卒業直前になって、このまま教師になっても、たちまちのうちに「野垂れ死に」することは確実だと、自分の不勉強に発奮し(たかどうか、いまではとても怪しいが)、もう少し真面目に教職の勉強(力)をと、修士課程に入りました(これが間違いの発端だった)。結果的には、帰郷もせず、中学校の教師にもならずに、とても貧しい「教育」で知られていた、ある大学の教師の端くれになってしまったのは、返す返すも興ざめのすることで、残念至極と、自分に対して嫌になったほど。

 以来、半世紀に及んで、教職課程の授業に関わってきました。当時を想えばよくぞ潰れなかったと思うほどに、自分には荷が重かった仕事でした。必要な科目(単位)を取得すれば、どの学部所属であろうが教員免許取得が可能だという「教員養成制度」の下で、それこそ教職の授業はぼくには大変な課業・課題だったと思う。開放制教員養成制度が導入されたことには意味がありましたが、その本旨に悖(もと)るような現実がいたるところで認められていたからでした。その反対に、敗戦までは「閉鎖制教員養成制度」で、教師になるには「師範学校卒」が欠かせなかったのです。その制度がいろいろな面で多くの限界や失敗をこの社会に与えたという深い反省から、開放制が採用されたのでした。趣旨は立派だったが、残念ながら実態は酷(ひど)くなるばかりだったと思う。採用試験の倍率は、現下ではほとんどなきに等しい状況にある、そんな苦境の教員養成制度、教員採用制度にあって、改革すべき点は多々あるだろうが、文科省の目指す方向は正しいのかどうか、ぼくは大いに疑問を深めています。

 何事であれ、制度を変革するするにはいろいろな視点からの検討が求められますが、こと教員養成制度に関してはどうか。大いに議論を深めてほしいが、安きにつく方向を求めるようでは無意味だと、ぼくは断言しておきます。「時代の要請に合わなくなった科目もあり、硬直化した教職課程の見直しは必須だとしても、最低限学ぶべき科目まで削れば、教員養成の質は担保できなくなる」という問題点は、現行制度下においても「顕著」だと言っておきたい。少し乱暴な愚見を述べておく。資格科目・試験は、すべからく「合格」第一になりがちです。教職課程科目を素晴らしい成績で履修し終えたとしても「優秀な教員」になれるとは限らない。その反対も真です。

 誤解されそうですが、運転免許証取得のために通う「自動車教習所」といっしょにしてはいけないでしょうが、違うとはいえ、相似ているところも大いにあります。教習所の成績がどれ程優れていても、実際の運転が優秀であるとは限らない。むしろ、教習所の外の運転が覚束(おぼつか)ないことはいくらもあるでしょう。免許証を取った後、いったいどれほどの運転技術に関する「訓練」が考慮されているか。現実にはまったく考慮の外で、すべてが「練習(訓練)なしのぶっつけ本番」です。教員の場合も似たようなものか。先輩教員がサポートをするという仕組みを更に充実させる方が先決でしょう。現在でも「試行期間」が設けられていますが、有名無実化しているし、初任者研修の実態は、まるで「初任者にとってはいやがらせ」であって、驚くべき頽廃だとぼくには思われていました。

 少なくともこの問題に関する限り、ぼくは、本日の「社説」氏の意見に賛成します。「教職の現場では長時間労働などの重い負担が問題化しており、教員免許を取得しても多くの人が教職を敬遠し、別の職業に流れているのが現状だ」つまり、いかにシミュレーション(simulation)(模擬練習)を詳細にしたところで、「現場」の経験では十分な力にならないのは言うまでもありません。大工さんになるための「専門学校」に行ってどれだけたくさんの「講義」や「動画」を見たところで、それで、安心して住むことができる家が建てられるものでもないでしょう。どれだけの場数を踏むかが何よりも肝要です。教職もまた、教室という「現場」を経験しなければ、教育に求められる力は育たないと思う。晴れて免許をもって学校という「現場」に足を踏み入れた途端、そこは考えられもしなかった「長時間労働」「上意下達」「男尊女卑」等々の悪弊がいたるところに蔓延しているとしたら、…。

 「政府は予算を投じて教員の配置を増やし、学級の小規模化などを進めるべきだ。今も学校現場で奮闘している教員を支えない限り、教員になりたい人は増えず、教員不足は根本的に解決しない」こんなことは分かりきっている問題点です。にもかかわらず、同じような「改革」論議を繰り返していること、そのことが文科省のお役目だということではないでしょうか。本当に「生徒個人」や「教員個人」の成長や発達を願っているなら、かかる不誠実・形式主義は起りえないことです。でも、これがこの国の「教育行政の歴史」だと言えなくもないとしたら、どうなりますか。「学校(教師)に不信感を持つ」「学校の餌食にならない」、そんな誓い・覚悟みたいなものを持ち続けて、ぼくは長い間、入学以来ずっと学校という荒(すさ)んだ「現場」に立ち尽くしてきました。(「教員養成」という言葉使いが間違っていると思う。「養鶏」「養豚」などと同列に考えている節があります。「養成」できるとしても入口(免許取得)まで、その先は「自立」「するほかないのです。自分の足で歩く」こと、それはやってみるしかないでしょう)

 人によっては学校教育(就学)は必要悪だと言えるかもしれません。まったく要らないとは言えないのは当然で、今ある学校制度は「国」が出来上がってから生み出されたもの。国家運営に必要な人材や能力こそが、学校の必要を生み出したのでした。「国民皆学」が近代化の要請でもあったのでしたが、今となれば、「近代化」というものが何であり、それは人間にとっていかなる意味を持っていたかがわかろうというもの(「近代化、[名](スル)封建的なものを排して、物毎を科学的、合理的に行うようにすること。産業化・資本主義化・民主化などの視点からとらえられる」デジタル大辞泉)。さすれば、「近代化」以降の社会に必要な「学校」、求められる「人間教育」というものがもっと語られ、問題視されてもいいのではないですか。極めて限定された「学校」もある、行かないのが普通の事柄、そんな社会の景色を描いてみたいですね。

【社説】教職単位の削減 現場の負担軽減が先だ 教員免許を大学で取得する教職課程の負担軽減のため「憲法」など必修科目の廃止論が出ている。必要な単位数を減らし、教員養成系でない大学や学部の学生が教員を目指しやすくするためだ。
 ただ、公私立を問わず基本的人権の尊重などを明記した憲法を学ぶことは教職の基本であり、公立校の教職員には憲法の尊重・擁護義務が課せられる。教職を志す学生を増やすには単位数の削減ではなく、過重な負担の軽減や待遇の改善を優先すべきではないか。
 阿部俊子文部科学相は昨年12月、教員不足の解消のため、教職課程見直しを中央教育審議会(文科相の諮問機関)に諮問した。
 教職課程は教科や教職に関する科目で構成され、1種免許(大学卒業程度)取得には59単位の履修に加え「憲法」「外国語コミュニケーション」など一般教養4科目などが必修となっている。
 中教審部会では1種免許取得に必要な単位を現行の2種免許(短大卒業程度)の35~39単位に減らし、各大学の判断で4~8単位を積み増す案や、現代の教育課題に対応した科目を設けるべきだとの意見も出た。一部委員からは必修4科目廃止の提案があった。
 時代の要請に合わなくなった科目もあり、硬直化した教職課程の見直しは必須だとしても、最低限学ぶべき科目まで削れば、教員養成の質は担保できなくなる。
 特に憲法は、26条で教育を受ける権利を定めるなど教育に関する基本的な事項も定めている。
 阿部氏は記者会見で「憲法を学ぶことは必要」と語った。教育の場を含む社会全体で人権尊重の大切さが指摘される中、教職に就こうとする人から憲法を学ぶ機会を奪うべきではない。
 教職課程の単位削減分は、動画を使って教職の基礎知識や指導法を学ぶ機会に充てる案もあるが、対面ではない動画教育で十分か。教職課程の教員や学生の意見を聞き、慎重な検討が必要だ。
 教職の現場では長時間労働などの重い負担が問題化しており、教員免許を取得しても多くの人が教職を敬遠し、別の職業に流れているのが現状だ。
 政府は予算を投じて教員の配置を増やし、学級の小規模化などを進めるべきだ。今も学校現場で奮闘している教員を支えない限り、教員になりたい人は増えず、教員不足は根本的に解決しない。(東京新聞・2025/06/05)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/409569)

(ヘッダー写真:ウェザーニュー「タチアオイ」・2025/06/04)(https://wxrepo.weathernews.jp/report/kinki/osaka/97858888/

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「よし、あすはオレの胸を借りに来い」

 

 [時代の証言者]ミスター 長嶋茂雄<13>プロの洗礼、金田に4連続三振 
 プロに入って初めてのシーズン前のオープン戦では打ちまくりましたから、4月からの公式戦を前に、やれる、よしやってやると自信満々でした。《1958年(昭和33年)4月5日、巨人は、後楽園で国鉄(現・ヤクルト)との開幕戦を迎えた。巨人・藤田元司、国鉄・金田正一の両エースがマウンドに上がった。長嶋プロデビュー戦の巨人の先発オーダーは懐かしの名選手が並ぶ。(左)与那嶺要(遊)広岡達朗(三)長嶋茂雄(一)川上哲治(右)宮本敏雄(中)岩本尭(二)土屋正孝(捕)藤尾茂(投)藤田元司》

 開幕戦の前日、後楽園での練習を終えて外野席に回ると、ブルペンへ向かう前の金田さんがフェンスの下から手を伸ばしてきて、「よし、あすはオレの胸を借りに来い」と、私の手を強く握りました。大きな手、それに背が高い。私も179センチあるけれど、金田さんはひとまわり大きいんですよ。だから、必ず打つと、より闘志がわきましたけれどね。/さあ、開幕戦。一回裏、与那嶺さん、広岡さんが連続三振。柔らかなフォームで左腕から繰り出す速球も速いけれど、カーブの落差がまたすごい。ドロップというやつですね。(以下略)(読売新聞・2006/06/26 05:00)(https://www.yomiuri.co.jp/serial/jidai/20211102-OYT8T50037/

 この試合は、テレビで見たかどうか、記憶は曖昧だ。あるいは試合が終わった段階で、録画映像で何度も見たのかもしれないが、バットが「空を切る」「切り続ける」のを鮮明に覚えています。中学一年生の春だった。中学時代、ぼくは野球部に入り、自分なりに野球を楽しんだが、あるいは長嶋さんのいるプロ野球が好きになっていたのかもしれない。東京に出て来て住んだのが文京区本郷。後楽園球場(当時)は、徒歩約三十分ほどで、夏など、窓を開けていると球場の大歓声が家まで聞こえてきたものだった。その後、後楽園球場に出向いて何度か、王・長嶋・金田などの大選手の試合を観た。

 このデビュー試合、先発ナインの一人一人の挙措・風貌まで、ぼくはよく覚えている。この時代、とても好きだったのは宮本敏雄選手(エンディ宮本)、与那嶺氏と共に日系選手。他に何も楽しみがなかった時代とよく言われるが、そうではなく、これまでの職業野球という組織(集団)に、ひとりの新人(逸材)が入ってきて、一気に「プロ野球」という鮮烈な風を吹かせたのだった。まさしく、長嶋さんは風神の如くだったと思う。ぼくは、前年の秋の神宮球場での六大学リーグの本塁打記録を塗り替えた瞬間を聴いていたから、長嶋という一選手に釘付けになっていたのかもしれない。「川上・岩本・土屋・藤尾などし卯選手は、文字通りに「職業野球人」そのものだったと思う)

 恐らく、当時は、金田正一投手(国鉄スワローズ)の全盛時代であったかもしれない。そこに飛び込んだ新人は、圧倒的な敗北、金やんに、完膚なきまでに射留められた。初陣のその結果こそが、後の「ミスタープロ野球」を生んだのだと思う。(昨日に続いて、各紙コラムは、さらに「長嶋さん」を語っています。不世出の選手の訃報に、これまた前代未聞の応接をしていると、ぼくには見えました。

 どこで読んだ(見た)のか、「ぼくは孤独だったかもしれない。淋しいこともあった。でもね、それを決して人前では見せないことにしていたんだ。なかなか辛いことでもありましたよ」という長嶋さんの言葉を知って、ぼくは驚きもし、安心もしたものでした)

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「不世出」の野球人だった

 走攻守に華のあるプレーで魅了 空振りも絵になる長嶋茂雄さん 長嶋茂雄さんは走攻守に華のあるプレーでファンを引き付けた。プロ野球での17年間の現役生活は、色とりどりのエピソードで彩られている。/東京六大学リーグの本塁打記録を更新し、1958年に黄金ルーキーとして巨人に入団。デビュー戦で国鉄(現ヤクルト)の大エース金田正一さんに4打席4三振と派手にやられたが、打率3割5厘、29本塁打、92打点、37盗塁で本塁打と打点のタイトルを獲得し、新人王に選ばれた。スタンドに運びながら一塁を踏み忘れた9月の「幻の本塁打」がなければ、打率3割、30本塁打、30盗塁のトリプルスリーを達成していたところだった。
 昭和天皇が初めてプロ野球観戦した59年の天覧試合では、阪神の村山実さんからサヨナラ本塁打を放ち、大舞台での強さを見せつけた。その後「打倒長嶋」に燃えた村山さんとのライバル対決はファンを沸かせた。村山さんは通算1500、2千個目の節目の三振を長嶋さんから奪っている。/三塁の守備では華麗なランニングスローが見せ場だった。隙あらばホームスチールも仕掛けた。(2025年06月03日 10時47分・共同通信)(https://www.47news.jp/12669142.html) 

【筆洗】その高校生は庭の柿の木の下で毎晩、素振りをした。野球選手となり、親に楽をさせたい。この素振りには実況がつく。実況しているのは本人。「打ちました。大きい、大きい、センターバック、センターバック、逆転サヨナラホームラン」▼柿の木の実況は現実となり、若者は戦後日本に輝く大選手となった。長嶋茂雄さんが亡くなった。89歳。「栄光の背番号3」の訃報が寂しい。試合が終わり、「昭和」という名の球場を明るく照らした最後のライトが静かに消えた。そんな気になる▼長嶋さんファンの作家、ねじめ正一さんにこんな句がある。<球春は長嶋茂雄のことである>。なるほど、春が似合った。明るくさっぱりしたお人柄。プレーは華麗にしてダイナミック。長嶋さんは戦後から高度成長期に向かう日本に咲いた春の花だった▼厳しい冬に耐えて前向きに努力していればきっと良いことがある-。本塁打が、打球に飛びつく守備が、ヘルメットを飛ばしての三振までもが、あの時代の日本人をそう励ました▼長嶋さんの打撃記録を超える選手はいる。だが、長嶋さんほど国民の胸を高鳴らせ、時代の支えとなる選手は二度と現れまい▼戦後80年の年、春の花が梅雨時に散る。「巨人軍は永久に不滅です」。あなたこそが不滅である。おそらく、むこうにある大観衆の球場で、もう、三塁の守備についていらっしゃる。(東京新聞・2025/06/04)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/409335?rct=hissen

 (本日の各紙コラムは「長嶋さんへの弔意」と「輝き続けた姿への感謝と感涙」で満開でした)(山埜聡司))

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◆<57年11月3日 慶大・林投手から東京6大学連盟新記録となる通算8号本塁打> この記念すべき試合となった東京6大学野球の実況放送を、ぼくは京都で聞いていた。長嶋さんの学生時代最後の試合だったのを、ぼくは知っていたらしい。近所の友だちと一緒に遊びながら放送を流していた。実況アナウンサーの声が今でも聞こえてきそう。中学一年生か二年生のころ。七十年近く前の出来事だった。後年、たった一度だけ、神宮球場に身を運んだことがあったが、長嶋さんのことがしきりに思われた。今では信じられないことだが、プロ野球とは比較を絶して東京6大学野球が盛んだったし、人気があった。後年、ぼくは後楽園球場で何度かミスターの雄姿を見ることになるが、いつだって「野球少年」のような輝きがあった。彼は文字通り「不世出の野球人」、その存在がなければ、この社会のプロ野球は今とは全く違った寂しいもので終わっていただろう。入団二、三年目だったか、彼はドジャーズ入りを固く心に決めて球団に申し入れたが、G当局は許すはずもなかった。その意味でも「不世出の野球人」だった。この人の亡くなる日があるとは、しかもこんなに早く来るとは?「長嶋さんは永久に不滅です」(合掌)

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Does College Still Have a Purpose in the ChatGPT Age?

 時代は確実に「生成AI」「人工知能」大躍進の波に洗われているとおもわれます。この先どうなるのかという、AI万能時代の幕開けを迎えて、あらゆる局面で、それを歓迎しながら、行き過ぎは阻止したいという矛盾(アクセル(促進)とブレーキ(抑制)の同時駆動状態)が日に日に露わになっています。内外を問わず、マスメディアは否応なしに「AI」旋風に翻弄されていると言えなくもありません。議論すべき方面は多様であり、至る所で「アクセルオンリー」、いや「ブレーキ踏み通し」という極端な事態が進行しています。数日前のBloombergの「社説(Editorial)」に、以下の記事が出ていました。ぼくはこの二、三日、それを何度も読み返して、(AI時代という)事の始まりは驚くべき新奇さ(novelty)に彩られているけれど、よく見れば、これまで何度も繰り返し経験してきた事柄の「再来(second coming)」だという印象を持ってしまいました。

 (詳論は避けますが)内外の大学は、果たしてこのAI時代に存在意義を保てるのかという、実に大きな難題に直面しているという風に見られます。「大学の存在意義」と言われて赤面しますが、いろいろな意味で「意義(異議)」があるから大学は存在しているのでしょうが、なにせ、少子化時代のただなかにあるこの国にとって、議論の順序が間違っているような気もします。このところ、各地の私立大学の学生数の確保難、学生募集停止(閉鎖)のニュースが連年のように報じられています。何しろ私立大学の半数近くが「定員割れ」を起こしているのですから、こちら「危機の時代」を乗り切る方が先決で、果たしてこの直面する課題に対して「AI」は名答・名案を出してくれるか、そちらの方にぼくは関心を持つ。

 「人工知能(AI)時代のアカデミアにようこそ」、とコラム氏は現下の問題とその当面の解決策を指摘します。大学教育の状況に関して、学生ばかりが非難(議論)の的になっていますが、果たしてどうでしょうか。非難されるべきは学生だけなのでしょうか。これまでも存在した「大学教育」の諸問題に、AIという新機軸によって、新たな問題が一つ加わっただけなんじゃないですか。昨日、横浜に住んでいる娘親子が遊びに来たが、その際に、孫が言うには、「AIに答えを求める」生徒の話が話題になっている、と。孫は中学2年生。宿題の多くは人工知能が代役を務めているかもしれないという、学校の風潮の一端を語っていました。それ以上に、教師がAIに依存していないかどうか。

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1⃣ AIが変える学びの形、ChatGPT時代に問われる大学の存在意義-社説
  多くの大学生にとって、学生生活はこれまでになく楽になっている。かつては何日もかけて調査や準備が必要だった課題も、今では数分で片づけられる。あらゆるテーマに関するエッセーがオンラインで即座に手に入り、ディケンズやデモステネスの長文を苦労して読む必要もない。チャットボットにたった一言命じれば、関連資料は瞬時に要約されて手元に届く。
  人工知能(AI)時代のアカデミアにようこそ。最近の複数のリポートで示されたように、学生が課題をAIにアウトソースするのは今や日常の一部となっている。皮肉なことに、真面目に努力している学生のほうが、AIに頼る同級生と比べて見劣りすることすらある。教授たちは、生成AIの文章と人間が書いた文章を見分けるのがほぼ不可能になっており、さらに言えば、自らもAIを使って学生の課題を評価し始めている。
  これはもはや持続可能とは言い難い状況だ。コンピューターが書いたレポートを別のコンピューターが採点し、学生も教授もそれを傍観する。その「特権」のために、親は年間数万ドルの学費を支払っている。アカデミアが多方面からの圧力にさらされている今、これは新たな危機の兆しに映る。

 AIの出現によって、大学は深刻な影響を受けているのでしょうか。「コンピューターが書いたレポートを別のコンピューターが採点し、学生も教授もそれを傍観する。その『特権』のために、親は年間数万ドルの学費を支払っている。アカデミアが多方面からの圧力にさらされている今、これは新たな危機の兆しに映る」という。ちなみに、ハーバード大学の年間授業料(学費)は、約5万ドル(2020-2021年度)から7万ドル(寮費や食事代、健康保険を含む)程度です。近年、ハーバード大学は、世帯年収が20万ドル以下の学生の授業料を無償化するなどの支援も行っています」(AI による概要)日本円で、約870万円~1015万円(1ドル145円で計算)です。これは多くの私立大学の「水準」でもあるでしょう。コンピューターの使用代金を学生も教員も支払っている、その金額のかなりの部分が授業料ということになります。(嘘か真か、「AI」は非常に電気を使うそうです)

2⃣ 大学のカリキュラムにAIを取り入れることには多くの点で合理性があり、学生の関心を高める効果も一部で示されている。また、AIはすでにさまざまな業界で、求められるスキルや仕事の進め方に変化をもたらしている。今後は、卒業生に一定のAIスキルが求められる場面も増えるだろう。生産性の向上やイノベーションの加速という観点から見ても、概して好ましい流れではある。
  しかし、大学での学びの多くは職業訓練ではない。とりわけ人文科学には、批判的思考の促進、思考習慣の形成、知的視野の拡大といった、より高次の目的がある。マシュー・アーノルドの言葉を借りれば、それは「人類が考え、語ってきた最良のもの」に触れることにほかならない。アリストテレス、アクィナス、アダム・スミスといった知の巨人たちを理解するには、AIへの一行のプロンプトでは不十分であり、時間をかけた深い思索が不可欠だ。そこから得られる学びには深い価値がある。
  こうした教育は、単なる教養主義にとどまるものではない。対立する意見を統合し、熟慮の上で判断を下す力。文学作品を評価し、批評的に応答する力。努力を重ね、現代の価値観の哲学的背景を理解する力。これらの能力は、就職に有利になるだけでなく、人間性を養い、視野を広げ、良識ある市民を育てる。

 この時代における「大学教育」の問題(課題)は何処にあるのか。もちろん、この課題も表面的のようで、世の中をうつす鏡のようで、時には変わることは当然でしょうが、変わらない「核心部分」もあります。いつでもいうことですが、大学における「学生教育」の核は、眼前に生み出されるさまざまな問題に対して「自分の頭で考える」、その考える力を養うことであると断言できるでしょう。AIに限らず、よそからの借り物(の知識)で、みずからの思考や判断の代役を果たせることはあり得ますし、あるいは、そんな大卒者によって社会は成り立ってきたともいえそうです。つまりは、暗記能力(記憶力)が学力の代名詞であり、そのような与えられた知識(記号)の正確な記憶の多寡によって「優劣」が決められてきたのです。これは何処の社会でも変わらない部分です。何も見てはいけないとされる「試験(テスト)」でいい成績を獲得することが、第一の務めとされています。

 世界の古典であれ、歴史であれ、地理や天文であっても、その教育内容は試験に出るから記憶するばかりで、試験がなければ、先ず出会うことすらない事々で学校教育は満たされているのです。「大学での学びの多くは職業訓練ではない。とりわけ人文科学には、批判的思考の促進、思考習慣の形成、知的視野の拡大といった、より高次の目的がある。マシュー・アーノルドの言葉を借りれば、それは『人類が考え、語ってきた最良のもの』に触れることにほかならない。アリストテレス、アクィナス、アダム・スミスといった知の巨人たちを理解するには、AIへの一行のプロンプトでは不十分であり、時間をかけた深い思索が不可欠だ。そこから得られる学びには深い価値がある」

3⃣ 大学側にとっての第一歩は、本腰を入れて対応することだ。多くの大学はAIに関する方針が曖昧なままであり、問題が自然と収束することを期待しているように見える。こうしたツールの使用がどのような場面で許容されるのか、また誤用や不正利用が確認された場合にどのような処分が科されるのかを明文化すべきである。理想的には、教育的な意図が明確で、教授の指導の下で活用される場合に使用は限定すべきだ。
  もう一つの有効な手段は、対面形式での評価を増やすことだ。紙とペンによる試験は、不正行為の抑止に資するだけでなく、学生が学期を通じて真剣に学習へ取り組む動機付けにもなる。同様に、口頭試問も有効な手段といえる。AIの存在を前提にした上で、大学は創造的かつ厳格な評価手法の導入を試みるべきだ。こうした対応は教授にとって負担増となるが、最終的には教育の質を守るという点で、自らの利益にもつながるだろう。
  長期的には、テクノロジーそのものが解決策の一端を担う可能性もある。ブルームバーグ・ビジネスウィークが昨年実施した調査によれば、AIが書いた文章を見分けるツールは依然として精度に課題があり、誤検出のリスクも高いとされる。しかし、大学側が取り締まりの強化に本腰を入れれば、検出ツールの市場は成熟し、ソフトウエアの精度も向上して不正の抑止につながるとみられる。すでに一部の学生は、自ら課題に取り組んだ証拠として画面録画などを活用し始めており、こうした手法が慣例化すれば、より望ましい環境の構築につながるだろう。

 ぼくは四十年以上「教師紛(まが)いの稼業」を生業にしていました。期間は長かったけれど、大学教育に関しては、何事ももなすすべなく流れてしまったという後悔(慙愧)の念ばかりが残っています。だから、このような画期的なことをしましたと自慢の種になるようなものは何一つありません。そんなぐうたら教師だったが、徹底して意識的・意図的にしたのは「教室内でレポートを書く」(何を参考にしてもかまわない。時には隣の席の人のを見てもいい)という学生の作業を一貫して続けてきたことでした。教育の目的は「、学制も教師もともどもに「少しでも賢くなることにある」と信じていました。

 年間の授業ではおよそ5~6回程度、授業で扱った問題の中から選んだあるテーマ(主題)に関してレポートを作成する。時間の制限はあるが、必要に応じて、学生によってはそれを延長することもありました。もちろん、当時はAIなどは萌芽以前の段階だったから、今風の問題はなかったともいえますが、学生自身が手持ちの材料で「思考する」「判断する」という目標だけは維持したかったからです。それで成果があったかと問われれば、あったともなかったともいえないのは、学生がどれだけの思考力・判断力を育てたかに寄るからであり、その段階では簡単には判断はできないことでしたから。

 「もう一つの有効な手段は、対面形式での評価を増やすことだ。紙とペンによる試験は、不正行為の抑止に資するだけでなく、学生が学期を通じて真剣に学習へ取り組む動機付けにもなる。同様に、口頭試問も有効な手段といえる。AIの存在を前提にした上で、大学は創造的かつ厳格な評価手法の導入を試みるべきだ。こうした対応は教授にとって負担増となるが、最終的には教育の質を守るという点で、自らの利益にもつながるだろう」

 ここで指摘されている方式はある科目では徹底してきたともいえます。「卒業論文」(8単位)作成の期間には、学生の申し出にもよりますが、5~10回は個人との対面授業を採用していた。その際に、提示された論文を学生自身がどこまで自分の思考を駆使して書いたか、それは一目瞭然というほどに明らかになるものでした。ある主題に関してたくさんの「参考文献」を漁り、その内容や問題点を自分の判断で採用したり採用しなかったりと、あくまでも学生自身の主体性が問題とされたのでした。明らかに他者の文献を剽窃したりすることも、その段階で発見することができました。

4⃣ 大学生による不正行為は今に始まったことではない。そして今後も完全にはなくならないだろう。重要なのは、不正行為を困難にし、結果に対して責任を追わせる仕組みを整えることだ。そして何より、この新しくも奇妙な時代にふさわしいキャンパスの規範を確立し始めることが重要だ。大学の将来は、まさにその取り組みにかかっているのかもしれない。

原題:Does College Still Have a Purpose in the ChatGPT Age?: Editorial(論説委員室・2025年5月28日 22:13 JST)(https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2025-05-28/SWZ063T0AFB400?srnd=cojp-v2

 この「AI導入教育問題」には決着がつくとは思えません。段階を踏むごとに新たな課題が生まれるでしょう。人間が自動車作り、それを個人が運転することから始まって、殊自動車運転に関しても、次々に新たな問題が見出されてきました。「人間は誤り犯す」ものですから、その誤りを防止するために技術の助けは不可欠です。今なら、さしずめ「自動運転」でしょうか。しかしそれでさえも「事故」が起こらないことはないのであって、いつでも人間の能力・判断力と機械(器械)のコンビネーションで物事が進められるほかないのです。道具は人間の手足(身体)の延長だとされ、それこそが文化であり、さらにその先は文明(機械力)だとされてきました。

 機械(器械)と雖(いえども)も故障や事故は防ぎようがありません。交通事故や原発事故など、その具体例に困らないほどに、人間の誤謬性と機械の故障(誤作動)とが相まって事故は生み出され続けるでしょう。永遠に問題は解決されないままで進むほかないのだと思う。いわば「二律背反(antinomy)」「矛盾(inconsistency )」というものを抱えながら、人間社会は進んでいる。より少ない不幸やより小さな争いで終わるように、個々人は、自らの注意力を絶やさないで、科学技術によって生み出さ会る機器類を同伴者として集団生活を営むほかないのです。

 「この新しくも奇妙な時代にふさわしいキャンパスの規範を確立し始めることが重要だ。大学の将来は、まさにその取り組みにかかっているのかもしれない」とブルームバーグの編集者は述べられているが、ぼくに言わせれば、これは今に始まった事態ではなく、これまでに何度も何度も人間社会・人間集団は経験してきたことなんですね。現下の事態を見ていると、まるで「赤子に銃弾を込めてある拳銃を与え、危ない危ない」と心配ばかりしている人間たちの困惑を見るような気がします。何をすることが大事か、ていねいに考えたいですね。

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六月の空高く。俄かに黒雲湧き起こる

(※いわき信用組合 1948(昭和23)年、江名町信用組合として設立。1957年に磐城信用組合、1966年にいわき信用組合にそれぞれ名称を変更した。2002(平成14)年につばさ信用組合と合併。今年3月末現在の預金残高は1938億5100万円、貸出残高は1193億7800万円、自己資本比率(暫定)は19.45%、自己資本(同)は241億3千万円、組合員数(同)は4万1636人、店舗数は15店、常勤役職員数は175人。)(福島民報・2025/06/02)

 金融機関の不祥事には戦後に限っても「黒い歴史」にその足跡が刻まれてきました。様態はさまざまですが、いずれも「金融(finance)」(「財政」)を自己都合によって恣(ほしいまま)にしているという点ではすべてに共通しています。後年の大蔵大臣や総理大臣に昇り詰めるような政治家も深くかかわっていた事案なども少なくありません。昨年11月に明らかにされたいわき信金の不祥事も、その段階からは想像もできなかった、深くかつ大掛かりな信金本体(総がかり)の不正融資だったことが徐々に明らかになっています。現段階では特定個人の経営者の「長期政権」が事件の主因とされます。もちろんその通りであるでしょうが、この不正が二十年以上も隠蔽されつつ継続してきたことを想えば、歴代の経営者の職務が不正を続け、それを隠蔽することだったという、未曽有の悪質企業体質を温存してきたことにあるでしょう。

 かかる不正は、地方の一金融機関に限定されるものではなく、国の大本の金融・財政政策にも、その範(手本)を見ることができるでしょう。わが国の借金である、日銀の普通国債買い入れ残高は「2025年度末には1129兆円に達する」とされています。返す当てもない借金を積み重ね。この先どうなるか、誰一人責任ある立場で答えを用意する政治家・官僚はいないという恐ろしさです。つまり、来るべき「破綻」を先延ばしし、その事実を隠しつつ、常に借金を重ねる財政政策は「破綻するとき」まで、ほとんど注意されないままで続けられてきています。いろいろな理屈をつけて、年間に30兆円~100兆円もの借金をする国、それがこの劣島の政府・金融当局です。

 政治や政治家だけが悪いといって済むならば話は簡単。だから、彼や彼女たちには責任はないとは言うまい。政治家の最大関心は「選挙に通る」こと、議員であり続けること、そのためなら何でもありというのが政治です。官僚の最大関心事は「立身出世」です、ひたすら高みを目指す、そのためなら手段を選ばない。そんな価値観(人生観)を植え付けて来た「教育」の「悪しき成果(因業)」を、ぼくは激しく恨むものです。もちろん、そんな堕落慫慂教育の「隆盛」に、あるいは加担していたかもしれない自らの至らなさ(過ち)を隠すつもりは微塵もないのですが。

 六月の空は青く高く、雲一つないという日はまずないでしょう。一瞬とはいえ、青い空が高く高く冴えわたったと思う間もなく、一転俄(にわ)かに掻き曇り、土砂降りの中に道を失いかねない月でもあるのです。「水無月」は、水のない月なのではなく、有り余る水に恵まれすぎることもある月なんだ。

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「徒然に日乗」(764~770)

〇2025/06/01(日)午前中まで昨夜からの雨が続いた。午後からは久方ぶりに日が射してきたが、庭作業は中止。家の中で、漫然と時間を潰している▶連休前から帰宅しない猫(♂)のことが気になり続けている。ほぼ一カ月が過ぎた。とても喧嘩早い子だったので、他の猫との喧嘩かもしれないとは考えて見るが。それにしてもどこに行ったのか。このところ、近所の猫が拙宅に来たり、昨日は、別の野良が居間にあるソファで寝ていたほど。家の小値がだれも気が付かなかったよう。この猫は♂で、家の♀たちとは争うことはなさそうだが、男同士はいがみ合っている。掴まえて医者の手術をとも考えているが、とても難しそう。さて、どうするか。家の猫たちも早いのはもう6歳になる。(770)

〇2025/05/31(土)前日以来の雨が朝も降り続いている。低気圧が南海上に張り付いていて、それが雨をもたらしているのだが、当地は意外に大降りにはならなかったし、風も吹かなかったのは大助かり。けさの何時ころだったか、いきなり停電があった。しばらく待っていたら、通電したので大事にはならなかったが▶お昼過ぎに買い物で茂原まで。気温が低く、昨日と同じように肌寒さを感じたほど。さすがに暖房は点けなかったが、それなりに寒い日だった。これは梅雨のせいではないらしい。例年だと6月に入ってからの入梅だから、暦通りになるのか、この先が心配だし、いまだに台風発生の気配すらないのも不気味だと思う。(769)

〇2025/05/30(金)朝から雨模様。予報ではかなり大雨が、ということだったが、それほどでもなかったのはさいわい▶お昼過ぎに買い物。いつも通りの食材等の購入。加えて、本年度の自動車税をコンビニで納付。2台分で8万6千円余。登録年度が古くなれば、安くなってもよさそうだが、そうなっていないのが癪の種。他国に比しても高額になっているのは、車検費用や郷愁費用と同様、政治の企みだというべきだろう。文句を言っても始まらないから、支払うしかないが、やはり釈然とはしない。(768)

〇2025/05/29(木)一日中、曇天が続く。雨が降ってきても不思議ではない天候だった▶かみさんは、交通違反(最初は「駐車違反」と言っていた)で「臨時認知症検査」を受けるようにとの通知に従って、茂原駅近くの教習所で、午後1時半から講習(検査)を受講してきた。「駐車違反」程度だと認知症検査は課されないのだから、帰宅した彼女に問を出したところ、「一時停止」違反だということだった。数日前には帰宅時に道に迷ったと言っていた。十分に気を付けて、といってはいるが、なかなかこの点に関しては言うことを聞かないのは困ったことだと思う。著しく自覚に欠けているのが、気になる。自分の状況を認めたくないのだ。何度でも、早く寝る(十時過ぎに就寝を)ことを言い続けてきたが、なかなかそうならないのはどうしたことか。自覚はしていないが、彼女の思考力の退化が著しいと痛感している。(767)

〇2025/05/28(水)快適な一日。午前中に買い物。庭作業は中止。少し疲れが溜まっている。まあ、一勤一休状態か。梅雨の行方(ゆくえ)も気になるし、当方の知らないうちに、すでに入梅状態だったり、いや同時期に猛暑が来ることになっていたり、と▶アメリカ大統領の私立大学への干渉(いちゃもん)は、聞くだに見苦しい。何を狙っているか、本人もわかっていないのだろうか。気に入らないものをすべて払いのける勢いがあると思っているだろうが、それで事が運べば苦労はしないのだ▶米価問題の政治騒ぎが大きくなりそうだ。まるで手品のように、大臣が替われば、右から左へ従前(高騰前)の価格米が棚に並ぶというのだから、なんという見事な芸当か。国民を舐め切っているのだから。この先、いかなる政治闘争が続くのか、コメ問題そっちのけで、見て見たい気もするか。阿保くささが先に立って、腹に据えかねるのだ。(766)

〇2025/05/27(火)朝から曇天の一日。かなりの肌寒さを感じたほど。本日も外作業は中止。あるいはもう、関東地方も「梅雨入り」か、そんなことを思わせる天気が続く▶あまりにも身近に政治を感じるのもどうかと思う。庶民の生活に、天下国家を論じるべき政治が、土足で入り込んでくるような事態は決していいことではないだろう。地方自治も含めて、国政レベルそのものが大きく水準の下がっていることを実感させられている。農政というか、米価というか、最も食糧問題の基本そのものの政治統治・政策決定(実施)、その最大の失政は「減反政策」、その管理統括ができていなかったのはなぜか。農業離れが生じて久しいが、政治はこの傾向を傍観していたと言われても仕方がないのだ。(765)

〇2025/05/26(月)終日、快晴ではなかったが、それなりに穏やかな天候が続いた▶午前中にあすみが丘へ、猫缶等の購入のために。これまでのものに加えて、新たな商品を加えて購入した。果たしてこれまで同様に食べてくれるといいのだが▶数日前に農水大臣が替わり、新たな大臣の下に、何とも奇妙な騒々しい報道が続けられている。5kgで2000円(備蓄米)の商品が来月初旬前後に出回るという。ある筋の話によれば、この内容(情報)は、すでに前大臣の段階ですべて決められていたとされている。新大臣の「手柄」にしたうえで、次期参議院選挙に負けられない与党の深慮なんだろうか▶兵庫県知事にかかわる諸問題について、いよいよ山場(決定的段階)に来たという印象を持つ。➀公選法違反、➁公益通報者保護法違反、③その他について、容疑が深まってきたし、ここにきて、➃県知事の政治と宗教に関わる事案が発生した、憲法(第20条、政教分離の原則)違反問題が加わってきた。「お縄頂戴」「神妙に縛につけ」の時機到来か。(764)

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言葉の海を遊弋し、言葉の苑に遊山し。

◎ 週の初めに愚考する(七拾弐)~ 自宅には何冊かの「広辞苑」があります。もちろん大学を卒業してから買い求めたものですから、第三版(1983年)以降のものでしょう。浩瀚すぎ、重すぎて、気軽に利用するのに難儀しますし、一端辞書に目を移すと、引くというより読むことに熱中し、咄嗟の用に役立ったという記憶は少ないものでした。それでも、ある時期までは「広辞苑」はある種の象徴で、これを持っていないと一人前の文章が書けないやつと思われかねない風潮があったと覚えています。ぼくは今もって、一人前の文章が書けるとは思えませんから、広辞苑を普段使いの辞書にするのは遅かったし、手元に置いてからも頻繁に利用するということはありませんでした。ネット環境が整って、最も助かったのは各種の辞書がマウス次第で、自由に利用できるということでした。

 これまでで、もっとも多く利用してきたのは諸橋徹次氏の「大漢和辞典」と大槻文彦氏の「言海」「大言海」でした。下手の横好きで、ぼくは早くから漢文を読む練習をしてきましたから、「大漢和辞典」はぼくの先生だったと言えます。「言海」「大言海」は言うまでもありません。この国における本格的な国語辞典として、たった一人で、数十年をかけて編纂されたものだったから、余計に愛着が湧きました。今ではちくま学芸文庫版が出ていますが、あまりにも頁数が多すぎて、気軽に利用するには、ここでも難儀しています。

 辞書の効用について言うなら、人それぞれの価値があるでしょうが、ぼくはどんな辞書でも「言葉の解説」「言語の解釈」に特質があると考えてきました。よく「辞書で意味を調べる」などと言います。その「意味」とは何かという問題はあまり追及されないままです。ある辞書の説明によりますと「 言葉が示す内容。また、言葉がある物事を示すこと。「単語の—を調べる」「愛を—するギリシャ語」 ある表現・行為によって示され、あるいはそこに含み隠されている内容。また、表現・行為がある内容を示すこと。「慰労の—で一席設ける」「—ありげな行動」「沈黙は賛成を—する」 価値。重要性。「—のある集会」「全員が参加しなければ—がない」(デジタル大辞泉)(なお、ぼくがふだん、最も多用しているこの「デジタル大辞泉(小学館)」は、今月25日にサービスが終了すると告知されています。この先どうなりますか)

 おそらく「言葉の意味」というのは直接的には(上に引用した辞書による)「1」と「2」を指すのではないでしょうか。つまり、多くの場合「意味」というのは「解説的語義」、あるいは「語の解釈」だということです。だからこそ、辞書の種類によって「似て非」であり、「類似」ではあるが「同じ」ではないことになります。そこにこそ、それぞれの「辞書」の存在の意義はあるというもの。同時に、「言葉」の表す内容を探すことは、その言葉の歴史(使われ方・用法)を知ることにもなるのですから、言葉の辞書は「歴史」でもあるのですね。

 広辞苑の編者である新村出(しんむらいずる)さん(1856=1967)。南蛮貿易研究など幅広い分野に業績を遺された。言語学者。東京帝国大学時代は上田万年(かずとし)氏(この国で初めて「国語研究」の扉を開いた人)の薫陶を受ける。園地文子さんは上田氏の息女。この新村さんが小生の卒業した高校校歌の作詞家だったと、つい最近知って驚いた。在学中に謳った記憶は皆無でしたから。作曲は若かった頃の団伊玖磨さん(1924~2001)。

 ネット時代盛んなときに、果たして浩瀚かつ重々しい広辞苑が広く受け入れられるかどうか、不勉強なぼくには想像できません。新村先生には相済まないことですが、拙宅の広辞苑は、もっぱら皺が付いたり曲がってしまった紙類などを引き伸ばすための「重石(おもし)」として大いに役立っています。ずいぶん高価な「重石」ではありますが。

【小社会】広辞苑70年 
 「広辞苑」が出版から70年を迎えたという。ずっしりとした重厚感。高校進学の祝いで頂いた第2版(1969年)は今も自宅の机上にドデンと座っている。紙は赤茶け劣化も著しいが、原稿を書く時には実に頼もしい相棒となる。
 ページ数は改訂のたびに増え続けているものの、厚みはほぼ変わっていないという。「製本機械の限界である8センチに収まるようにさらに薄い紙を開発した結果」と岩波書店のホームページにある。
 7年前の改訂では約1万項目が新たに加わった。「一時の流行にとどまらず、人々の間に定着したと認められる新語を厳選」するのが基本姿勢といい、「朝ドラ」「自撮り」「がっつり」など「定着」の観点から見ても納得のワードが続いた。
 次の改訂ではどんな言葉が入るか。未掲載が話題にもなった「エモい」などは幅広い世代に定着した感もあるが、加わるとすればどういった語釈がつづられるだろう。そんな興味も湧く。
 今から20年ほど前、本紙「高新文芸」にこんな短歌が掲載されていた。〈娘の生れし記念に求めし広辞苑「量販」「介護」の言葉はあらず〉。作者の手元にあった広辞苑は初版か第2版だろうか。一冊の古びた辞書と家族の長い歳月が重なり合って感慨深い一首だった。
 「辞書は引くだけでなく読むもの」という言葉もある。週末、古い辞書を引っ張り出して、人生と重ねながら言葉の海を泳いでみるのも悪くない。(高知新聞・2025/05/30)(https://www.kochinews.co.jp/article/detail/865454)

 ちなみに、現在、ぼくが頻繁に利用している国語辞典は「新明解国語辞典」(三省堂)です。出るたびに注目を集めるのは、あるいは広辞苑とは対極の位置にあるからではないかとも思われます。「重み」よりも「軽み」を大事に、と。

 ぼくの書く(草する)ものは「文章」などと言えた義理のものではなく、はっきりと自分でも自覚している、「駄文」、であり「雑文」、それもほぼ下書き状態であります。もちろん、愚かなりと言えどもぼくの愚考したところ、愚考しているところを言葉に乗せて語る(騙る)気があるのですから、「文(ぶん)」であることは確かでしょう。でも、「それが文章」かとなると、いささか気が引けるのです。起承転結も明確でなければ、綾(文・章)などは皆無ですから、堂々と(というのも変ですが)、「駄文・雑文」の類と恥をさらすばかりですね。

 若いころから向学心など少しもなかったものですから、「勉強」「学習」に関しては実に晩稲(おくて)でした。よく大器晩成などと言いますが、ぼくなどは何処を叩いても「大器」の音色はしなかったし、せいぜいが、よくて学問の真似事をしてみようとしたに過ぎなかったと言っておきます。研究も何もあったものではなくて、「学校の教師」をしていたとは厚顔も甚だしい振る舞いで、お義理にも適職だったとは言えない酷さだったと、今になって痛感するのです。但し、本読み(読書)ばかりは好きだったから、新聞でもなんでも手当たり次第に読み切っていったことは本当だった。だから、あえて言えば、ぼくが心行くまでやりたかったのは「言葉の海を遊弋(ゆうよく)・徘徊(はいかい)し、言葉の苑に遊山(ゆさん)・行楽(こうらく)」三昧(ざんまい)に浸りきりたかったということでしたね。今からでも遅くはないのですけれども。さて、…。

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