
滅多に社説に言及しなくなって久しい。どこの新聞社説も、どういうわけだろうか、「~せよ」「~するな」という説教調、命令口調で、そのほとんどが紋切型・決まり文句(a cliché )です。なぜだろうと、いつも読みながらとても訝しく思ったものでした。やがて、「社説」は書くことに意味があり、読まれること、注目されることは二の次だという世評のあることを知りました。大学生になってからでした。それはともかく。
何度も触れてきましたが、ぼくは学部を卒業して、教員免許を取得し、田舎(いなか)に帰って山間部の中学校の教師になろうと、漠然とではありましたけれど、ずっと考えていました。卒業直前になって、このまま教師になっても、たちまちのうちに「野垂れ死に」することは確実だと、自分の不勉強に発奮し(たかどうか、いまではとても怪しいが)、もう少し真面目に教職の勉強(力)をと、修士課程に入りました(これが間違いの発端だった)。結果的には、帰郷もせず、中学校の教師にもならずに、とても貧しい「教育」で知られていた、ある大学の教師の端くれになってしまったのは、返す返すも興ざめのすることで、残念至極と、自分に対して嫌になったほど。

以来、半世紀に及んで、教職課程の授業に関わってきました。当時を想えばよくぞ潰れなかったと思うほどに、自分には荷が重かった仕事でした。必要な科目(単位)を取得すれば、どの学部所属であろうが教員免許取得が可能だという「教員養成制度」の下で、それこそ教職の授業はぼくには大変な課業・課題だったと思う。開放制教員養成制度が導入されたことには意味がありましたが、その本旨に悖(もと)るような現実がいたるところで認められていたからでした。その反対に、敗戦までは「閉鎖制教員養成制度」で、教師になるには「師範学校卒」が欠かせなかったのです。その制度がいろいろな面で多くの限界や失敗をこの社会に与えたという深い反省から、開放制が採用されたのでした。趣旨は立派だったが、残念ながら実態は酷(ひど)くなるばかりだったと思う。採用試験の倍率は、現下ではほとんどなきに等しい状況にある、そんな苦境の教員養成制度、教員採用制度にあって、改革すべき点は多々あるだろうが、文科省の目指す方向は正しいのかどうか、ぼくは大いに疑問を深めています。

何事であれ、制度を変革するするにはいろいろな視点からの検討が求められますが、こと教員養成制度に関してはどうか。大いに議論を深めてほしいが、安きにつく方向を求めるようでは無意味だと、ぼくは断言しておきます。「時代の要請に合わなくなった科目もあり、硬直化した教職課程の見直しは必須だとしても、最低限学ぶべき科目まで削れば、教員養成の質は担保できなくなる」という問題点は、現行制度下においても「顕著」だと言っておきたい。少し乱暴な愚見を述べておく。資格科目・試験は、すべからく「合格」第一になりがちです。教職課程科目を素晴らしい成績で履修し終えたとしても「優秀な教員」になれるとは限らない。その反対も真です。
誤解されそうですが、運転免許証取得のために通う「自動車教習所」といっしょにしてはいけないでしょうが、違うとはいえ、相似ているところも大いにあります。教習所の成績がどれ程優れていても、実際の運転が優秀であるとは限らない。むしろ、教習所の外の運転が覚束(おぼつか)ないことはいくらもあるでしょう。免許証を取った後、いったいどれほどの運転技術に関する「訓練」が考慮されているか。現実にはまったく考慮の外で、すべてが「練習(訓練)なしのぶっつけ本番」です。教員の場合も似たようなものか。先輩教員がサポートをするという仕組みを更に充実させる方が先決でしょう。現在でも「試行期間」が設けられていますが、有名無実化しているし、初任者研修の実態は、まるで「初任者にとってはいやがらせ」であって、驚くべき頽廃だとぼくには思われていました。

少なくともこの問題に関する限り、ぼくは、本日の「社説」氏の意見に賛成します。「教職の現場では長時間労働などの重い負担が問題化しており、教員免許を取得しても多くの人が教職を敬遠し、別の職業に流れているのが現状だ」つまり、いかにシミュレーション(simulation)(模擬練習)を詳細にしたところで、「現場」の経験では十分な力にならないのは言うまでもありません。大工さんになるための「専門学校」に行ってどれだけたくさんの「講義」や「動画」を見たところで、それで、安心して住むことができる家が建てられるものでもないでしょう。どれだけの場数を踏むかが何よりも肝要です。教職もまた、教室という「現場」を経験しなければ、教育に求められる力は育たないと思う。晴れて免許をもって学校という「現場」に足を踏み入れた途端、そこは考えられもしなかった「長時間労働」「上意下達」「男尊女卑」等々の悪弊がいたるところに蔓延しているとしたら、…。

「政府は予算を投じて教員の配置を増やし、学級の小規模化などを進めるべきだ。今も学校現場で奮闘している教員を支えない限り、教員になりたい人は増えず、教員不足は根本的に解決しない」こんなことは分かりきっている問題点です。にもかかわらず、同じような「改革」論議を繰り返していること、そのことが文科省のお役目だということではないでしょうか。本当に「生徒個人」や「教員個人」の成長や発達を願っているなら、かかる不誠実・形式主義は起りえないことです。でも、これがこの国の「教育行政の歴史」だと言えなくもないとしたら、どうなりますか。「学校(教師)に不信感を持つ」「学校の餌食にならない」、そんな誓い・覚悟みたいなものを持ち続けて、ぼくは長い間、入学以来ずっと学校という荒(すさ)んだ「現場」に立ち尽くしてきました。(「教員養成」という言葉使いが間違っていると思う。「養鶏」「養豚」などと同列に考えている節があります。「養成」できるとしても入口(免許取得)まで、その先は「自立」「するほかないのです。自分の足で歩く」こと、それはやってみるしかないでしょう)

人によっては学校教育(就学)は必要悪だと言えるかもしれません。まったく要らないとは言えないのは当然で、今ある学校制度は「国」が出来上がってから生み出されたもの。国家運営に必要な人材や能力こそが、学校の必要を生み出したのでした。「国民皆学」が近代化の要請でもあったのでしたが、今となれば、「近代化」というものが何であり、それは人間にとっていかなる意味を持っていたかがわかろうというもの(「近代化、[名](スル)封建的なものを排して、物毎を科学的、合理的に行うようにすること。産業化・資本主義化・民主化などの視点からとらえられる」デジタル大辞泉)。さすれば、「近代化」以降の社会に必要な「学校」、求められる「人間教育」というものがもっと語られ、問題視されてもいいのではないですか。極めて限定された「学校」もある、行かないのが普通の事柄、そんな社会の景色を描いてみたいですね。
【社説】教職単位の削減 現場の負担軽減が先だ 教員免許を大学で取得する教職課程の負担軽減のため「憲法」など必修科目の廃止論が出ている。必要な単位数を減らし、教員養成系でない大学や学部の学生が教員を目指しやすくするためだ。
ただ、公私立を問わず基本的人権の尊重などを明記した憲法を学ぶことは教職の基本であり、公立校の教職員には憲法の尊重・擁護義務が課せられる。教職を志す学生を増やすには単位数の削減ではなく、過重な負担の軽減や待遇の改善を優先すべきではないか。
阿部俊子文部科学相は昨年12月、教員不足の解消のため、教職課程見直しを中央教育審議会(文科相の諮問機関)に諮問した。
教職課程は教科や教職に関する科目で構成され、1種免許(大学卒業程度)取得には59単位の履修に加え「憲法」「外国語コミュニケーション」など一般教養4科目などが必修となっている。
中教審部会では1種免許取得に必要な単位を現行の2種免許(短大卒業程度)の35~39単位に減らし、各大学の判断で4~8単位を積み増す案や、現代の教育課題に対応した科目を設けるべきだとの意見も出た。一部委員からは必修4科目廃止の提案があった。
時代の要請に合わなくなった科目もあり、硬直化した教職課程の見直しは必須だとしても、最低限学ぶべき科目まで削れば、教員養成の質は担保できなくなる。
特に憲法は、26条で教育を受ける権利を定めるなど教育に関する基本的な事項も定めている。
阿部氏は記者会見で「憲法を学ぶことは必要」と語った。教育の場を含む社会全体で人権尊重の大切さが指摘される中、教職に就こうとする人から憲法を学ぶ機会を奪うべきではない。
教職課程の単位削減分は、動画を使って教職の基礎知識や指導法を学ぶ機会に充てる案もあるが、対面ではない動画教育で十分か。教職課程の教員や学生の意見を聞き、慎重な検討が必要だ。
教職の現場では長時間労働などの重い負担が問題化しており、教員免許を取得しても多くの人が教職を敬遠し、別の職業に流れているのが現状だ。
政府は予算を投じて教員の配置を増やし、学級の小規模化などを進めるべきだ。今も学校現場で奮闘している教員を支えない限り、教員になりたい人は増えず、教員不足は根本的に解決しない。(東京新聞・2025/06/05)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/409569)

(ヘッダー写真:ウェザーニュー「タチアオイ」・2025/06/04)(https://wxrepo.weathernews.jp/report/kinki/osaka/97858888/)
IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

































