杯から手を離したことはなかった

「正平調(せいへいちょう)」は神戸新聞のコラム。ぼくの好きな読み物の一つでした。

 《 放哉の事を思ふと、まことに夢の如くでもあり、又、ふしぎな因縁があるやうにも思はれる。彼と私と知り合ったのは一高に居た頃である、其事を彼は「入庵雑記」の初めに書いてゐたが、一高俳句会の席上で顔を合はすといふだけで、格別ふかい交際をした訳ではなかった。当時、夏目漱石の「我輩は猫である」が評判になってゐたが、一高の校友会雑誌に「我輩はランタンである」といふ文章を書いたものがある、ランタンとは消燈後寄宿舎の廊下に吊してある油燈で、其油燈自身の見る所として、消灯後の寄宿舎の百鬼夜行する様を描いたのである。それは実に明暢自由なる達文であって、誰が書いたのだと喧しかったが、其の筆者は彼、放哉だったのである。大学時代には彼はさして勉強もせず、又、俳句もさして熱心でなかったらしい。鎌倉の円覚寺へ行って参禅をしたのは其頃だったらう。卒業後、赤門出の法学士として東洋生命保険会社に入り、累進して契約課長の椅子を占めてゐた。俳句も気が向けば作るといふ風で、決して上手ではなかった。渋谷に家があった頃、同人達が時々遊びに行っても、句の話などよりも、まあ一杯飲めといふ風で、彼はいつも長火鉢の前にトグロを巻いて、杯を手から離した事はなかったといふ。彼の妻君が非常なハデ好きで、家では朝から風呂を立て、女中が二人もゐたといふ話である。

 彼が朝鮮火災保険会社の支配人となって彼地にわたり、突然、やめるやうになったまでの事情を私は好くしらない。彼はたゞ自分の「馬鹿正直」の為めだといってゐる。兎も角、彼は非常な決心をしたので、一燈園に飛込んで来た時は──彼は其妻君さへも、どこかへ振り捨てゝ来て、全く無一物の放哉だったのである。彼が、俳句に復活し、又、彼の俳句が光って来たのは、それからの事である。

 私と彼との密接なる交渉も其から始まる。十三年の春私が京都に来て、久しぶりで彼に逢ったのは、知恩院内の常照院であった。其寺へ、彼は一燈園から托鉢に来たのが縁故となって、常住の寺男に住み込んでゐた。私が尋ねて行った時、彼は一燈園(の)制服のやうな紺の筒紬を着て、漬物桶を洗ってゐたが、前から和尚に其日は暇を貰ふ事を話してあったらしく、手拭で身体をはたいて、其手拭を又腰にさして、私と一緒に連立った。何しろ久濶を叙する意味で、其夕、四条大橋の袂の或家で一緒に飯をたベた。彼は一燈園に入て以来、禁酒をしてゐたのださうだが、今夜は特別だからと云って、禁を破って大に飲んだ事だった。其翌日、私から再び常照院を訪れると、和尚の話に「尾崎サンはもう出て貰ふ事にしました」との事、聞けば前夜、院に戻ってからもメートルをあげすぎて、すっかり和尚の感情を害してしまったらしいのである。彼の流転生活はそれからはじまる。彼は常照院を追はれて、須磨寺に行き、須磨寺を出されて(之は酒の上ではなく寺内の葛藤のまきぞへを食ふたといふ訳)、小浜の常高寺に赴き、小浜では和尚の借金の弁疏係をしてゐたがお寺其物が経済的に破綻したので、彼も居たゝまれずに京都に戻って来た。私の京都の寓居に暫くゴロゴロしてゐたのは其頃である。彼はやはり寺の下男がいゝ、とて、三哲の龍岸寺といふ寺へ行ったが、そこの和尚とは性格的に全く合はないので、又飛出して来た。さうした流転生活の初まりは、四条で酒を飲んだ事(私が、まあ今夜はよからうと飲ましたといっていゝかもしれない)に因を発するとすると、私も大に責任を感じなければならぬ訳である》(荻原井泉水「放哉の事」)

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 引用文は、尾崎放哉の死に直面しての、井泉水の追悼の辞の一部です。ぼくは下手の横好きというのか、俳句を齧ってきました。(なんでも齧るのが好きで、途中で放り出してしまうという悪癖があります)作るのも、鑑賞するのも大好きです。井泉水は正統俳句をたしなみつつ(虚子の弟子だった)、自由律俳句という前人未到の荒れ地を開拓し、放哉や山頭火がその沃野に育ちました。とくに放哉は(高校・大学の)一学年下という気安さもあり、終生の付き合いがありました。「十三年の春私が京都に来て、久しぶりで彼に逢ったのは、知恩院内の常照院であった」とあるのは、「大正十三年(1924)」のことで、尾羽打ち枯らした放哉との再会の場面です。

 翌(あす)からは禁酒の酒がこぼれる(荻原井泉水)

 久しぶりの邂逅、直後には別れ別れになる。「断酒」を決めていた放哉をたしなめて「まあ、一杯くらい、いいじゃないか」と勧める井泉水。「(放哉の」流転生活の初まりは、四条で酒を飲んだ事(私が、まあ今夜はよからうと飲ましたといっていゝかもしれない)に因を発するとすると、私も大に責任を感じなければならぬ訳である」という塩梅なんです。ぼくは井泉水もよく読みました。「自由律俳句」はそれなりの歴史があるもので、ぼくが尊敬していた近藤益雄という教育者にもたくさんの秀句が残されています。彼もまた、井泉水の筋の人でした。(以下は、光彩陸離たる井泉水の句群から、さて「星を拾う」とすれば、どんなものか。井泉水句中の「星々」です)

佛を信ず麦の穂の青きしんじつ
 
空を歩む朗々と月ひとり
 
石のしたしさよしぐれけり

●荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)=俳人。明治17年6月16日、東京・芝神明町(現港区浜松町)に生まれる。本名藤吉(とうきち)。中学時代より作句し、1901年(明治34)旧制第一高等学校に入学し、角田竹冷(つのだちくれい)の秋声会、岡野知十(ちじゅう)の半面派に関係し、のち正岡子規の日本派に参加し一高俳句会をおこした。05年東京帝国大学言語学科入学、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)の新傾向俳句運動に加わり、従来の俳号愛桜(あいおう)を井泉水と改めた。08年東大卒業。碧梧桐と11年4月『層雲』を創刊したが、季題について意見を異にする碧梧桐が大正初頭同誌を去り、井泉水は季題と定型を揚棄した自由律俳句を唱え、門下から野村朱鱗洞(しゅりんどう)、芹田鳳車(せりたほうしゃ)、尾崎放哉(ほうさい)、種田山頭火(さんとうか)らの作家を出した。句集に『原泉』(1960)、『長流』(1964)、『大江』(1971)、主著に『俳句提唱』(1917)、『新俳句研究』(1926)、『旅人芭蕉(ばしょう)』正続(1923~25)、『奥の細道評論』(1928)など。65年(昭和40)芸術院会員。昭和51年5月20日没。[伊澤元美](日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

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世界はアメリカを民主化できるか?

 《 民主主義の基本原則は、普通の人々の生に影響を及ぼす政治決定に普通の人々が発言権を持つ点だ。

しかし冷戦終結後の世界では、世界中のあらゆる地域に住む人々の生に重大な影響を及ぼす政治決定をおこなう権利を、冷戦期以上にアメリカの大統領が一人で握ってしまった。(中略)

 アメリカの民主主義は衰退している、と著書「ダウンサイジング・デモクラシー」(02年)で、M・クレンソンと・B・ギンズバーグは示唆した。現代アメリカの「シティズンシップ(市民権)」を分析したこの本で著者は次のように指摘している。

 20世紀初頭から進行しているものとして、公共領域にあるはずの政治が「権力者たちにより私益化」される現象の進行があるが、レーガンとブッシュ(ジュニア)という2大統領によってそれが急激に加速された。結果として起きたのが、無力感による市民脱政治化現象だった。そこでは主要な社会的・政治的課題への草の根的運動は困難となる代わりに、テロとの闘いやイラク侵略といった出来事で見られる無定形な愛国心の発揚に市民たちは集合的に鼓舞される、と。

 現在、鍵となる問いは、「アメリカは世界を民主化できるか?」では決してなくて、「世界はアメリカを民主化できるか?」なのではないだろうか。(中略)

 アメリカを民主化することは、外部世界に住む者たちの希望であるとともに、義務でもある。我々の生に重大な影響を及ぼす政治決定をおこなう権利を、アメリカ合州国大統領ジョージ・ブッシュ(ジュニア)が握っているのだから。冷戦は(ほとんど)終結したのかもしれない。しかし、冷戦後の世界の民主主義への長い長い道程は、今やっと始まったばかりである》(テッサ・モーリス=スズキ「アメリカを問い直す」朝日新聞・03/12/25)

(朝日新聞・2015年12月25日)モーリスさんはイギリス生まれの日本思想研究者です。現在はオーストラリア国立大学の名誉教授。『辺境から眺める』『批判的想像力のために』など多数の著書があります。

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 アメリカは移民から成り立ったクニ、多民族社会だといわれています。一面ではそうですが、他面では多民族を超えて政治権力が一極に集中され、その少数派がアメリカを代表しているという奇異な事態を招いているのです。そのアメリカは、「自らが世界(の代表)だ」と誇示していることをみれば、うなずける話です。

 アメリカは、建前は共和国ですが、それは未熟な共和国だというのはフランスの社会学者アラン・ジョックス氏です。(それを「カオスの帝国」と呼ぶ)奴隷制に根ざす黒人差別は60年代にまで維持されたし、憲法では民兵の武装を認めてもいます。近代国家という観点からすれば、じつに歪んだ共和国だというほかないでしょう。そして、帝国の道を大股で闊歩するアメリカに引きずられるように、せわしなく小走りで横っちょに必死につきしたがう日本(の総理大臣)。(十年たっても二十年たっても、その姿勢は変わらない、変われない。変わろうとするのをアメリカは許さない。小間使いであり、打ち出の小槌の役割だけを演じるのを求められる)

 テッサさんは、アメリカにも認められる「多様な声」をすくい上げ、「草の根レベルでの社会運動を再構築し、アメリカを開かせて外部世界と再び対話させること。これは外部世界に住む我々が、常に注目し奨励し、そして熱烈に支持すべきこと」ではないかと述べられます。

 そして、アラン氏はNGOに強い期待を寄せて、つぎのように語ります。「非政府組織(NGO)は中世の騎士団にたとえていい。病者を助け、貧者に食料を配る英雄的な集団だった。新しい世界秩序の将来を見通すのが絶望的な中でNGOは、希望を見いだせる数少ない存在だ。主権国家との連携がうまく運べば、時代の大きな転換期に正しい道を切り開く可能性を秘めている」(朝日新聞・04/05/30)

「市民の時代」を想像しよう。「かたまらない」という一点で、つながりあえる人と人の関係です。「かたまり」で分断されるのではなく。「多様な声」はだれが出すのか。

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 ふた昔ほども前の「記録」を持ち出して何をする気ですか、と訝しく思われるかもしれない。「冷戦」は終結したのかどうか、形を変えて、相手を変えて、すでにあらたな「Cold War」は進行しているともいえます。かわったのは選手だけ。(いやそうではないかもしれません。対峙する旧陣営はそのままですから)

 「世界はアメリカを民主化できるか?」といったとき、その「世界」に「日本」は参加できているのか。おそらくこの島社会は「入っていない」でしょう。「世界」の除け者になっているのです。ではアメリカは「日本」を自国に入れるでしょうか。残念ですが、これも「No」です。だから、ぼくたちが居住している社会は、じつに不可思議なところなんです。その島国は前世紀の四十年代初頭には「世界」を相手に戦争を仕掛けました。その「戦後処理」というか「戦後補償」もあいまいなままで、いまもなお「戦前並み」の「劣国(あるいは大国)意識」だけは達者にあるのです。(もちろん「国民のすべてが」というのではありません)国連に再参加したというのですが、はたしてその実態はどうか。

 「ぼくたちは日本を’民主化’できるか」が今、真剣に問われているのです。「アメリカ」の尻馬に再び乗らないために。そのためには、まず「隗より始めよ」ですよ。「自らを民主化せよ」と。

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偽りからは解放されなければ

ガレリア・西友 1992 2時間12分 製作:ガレリア・西友 監督:東陽一 原作:住井すゑ 製作総指揮:川口正志/高丘季昭
製作:山上徹二郎/山口一信 脚本:東陽一/金秀吉 主演は大谷直子、中村玉緒、高橋悦史、杉本哲太など (なお、今井正監督で、1969年にも映画化されています)

 人は、他者の苦しみ、悲しみ、憂さ、辛さ、怒り、嘆き、訴えに時として心を寄せ、共感・同感することはあっても、それらと無関係に日々の生活を過ごせるのである。それは差別・被差別の資格・立場を超えた人間というものの現実、限界である。被差別の立場にある者だけが、この現実、限界からまぬがれているはずがない。そしてこの人間の現実、人間の限界を見据えつつ、いかにしておのが生を他者との共感と連帯の世界に生きる〝生〟たらしめるかという課題もまた、差別・被差別の資格・立場にかかわりなく提起されているのである。この課題を引き受けるかどうかは、それぞれの生き方にかかわるのであって、被差別の側にあるということだけでは、この課題を引き受けていることにはならない。ここに、差別・被差別の両側から超えた共同の営みが成立する根拠がある。

 おたがいに差異を認めあいつつ、一人の「丸ごと命いっぱいの人間」として向きあい、部落差別に立ち向かう共同の営みを続けるとき。気がつけば両側を隔てていた壁が消え、溝が埋まり、差別・被差別の二項対立でない、新たな人と人との関係が生まれているに違いない。部落問題とは、結局のところ人と人との関係に帰着する以上、個人と個人との関係を人間らしいものに変えることから始めるしかないのではないか。(藤田敬一「人間と差別について考える」藤田編『被差別の陰の貌』阿吽社刊、1994年)

 上に掲げた著書に登場されている金時鐘(キム・シジョン)さんの発言を紹介しておきます。これまでにも、何度か引用してきました。金さんは詩人・評論家であり、作品には『「在日」のはざまで』、詩集『原野の詩』など多数があります。

 「差別という問題は、その差別を強いる、屈辱を強いるしくみと構造を維持しようとし、作り上げてきた、思想との対峙だと思うのですね。その思想が糺(ただ)されることによって日本の原罪が洗われてくる。日本の民主主義というのは原罪を祓(はら)うという営為を国家的には毫末もやらなかった。スイッと素通りしていることの中で差別を生ましめたものもやり過ごされている。そのやり過ごされているものに光を当てるということは、あるべき人間の尊厳が、あるべきものとして保持されることの確認行為だと思うのね」(「座談会」『被差別の陰の貌』より。同上所収)

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 以下は親子の対話です。

増田 天皇制と被差別部落は政治、支配という人為の最たるものよね。

住井 そうそう、だから人為的になにかをつくったら、それの反動、シワ寄せはどこかにかならず生まれるわけね。天皇制をつくったら、被差別部落ができるのは当然だ。だから天皇制も人為だし、被差別部落ももちろん人為的につくられたものだから、人為だから、これは偽り。偽りからは解放されなければならない。

 だから何度も言うけど、「偽り」という字は人為と書いて「偽り」。そのウソごと、いつわりごとにいつまでひっかかっているのかね。法則からいえば、人間にひとつも変わりないんですから。

 重さとか面積とか長さとか量とか、そういうものは全部測り分けて、数字でだせるのに、貴賤だけは数字では出せないからウソだということになる。

 増田 これはつくりごとだからね、架空のもの。 

住井 だから宇宙の法則にかなったものはみな宇宙の法則どおりに数字で出せる。   

増田 実際に賤の方に分けられた人たちというのは、もう徹底的に人間性を否定され、生きて暮らすことを否定されたのね。

住井 賤なんてとんでもない迷信。ウソ、科学でも何でもないのよ。

増田 その迷信によって痛められて、一方のほうは、迷信によってのうのうと生活できると。しかし、そういう構造がいったんでき上がってしまうと、人間社会というのは、それを困ったもんだ、おかしいおかしいと思いつつ、いっこうにこわそうとしない。差別する側は痛くもかゆくもないからね。

住井 しかし、こんなことがいつまで続くかね。そんなことが、偽りのからくりというか、ウソごとがね。

増田 それはね、もうすでに崩壊しつつある。戦後の憲法でもって、半分は崩壊したと思う。(住井すゑ『わが生涯 生きて 愛して 闘って』聞き手 増田れい子。岩波書店刊)

◇住井すゑ:1902(明治35)年、奈良県磯城郡田原本町生まれ。1997(平成9年)6月16日牛久沼畔にて永眠。95歳でした。著書には『橋のない川』『住井すゑ対話集』『向い風』『野づらは星あかり』『夜あけ朝あけ』『牛久沼のほとり』『九十歳の人間宣言』『人間みな平等』などがある。 

 代表作の『橋のない川』が刊行(1959年)以来何十年にもわたって読みつがれてきた理由を問われて。「人間の愚かさを遠慮なしに書いているからです。ばかな人間の話はおもしろいものです。人間社会の中で、日本の部落差別ほど、ばかげたことはない 深刻でこっけいで、考えようによっては、これは笑い話ですよね。」 「私の肩書は作家ではなくて、人間です」「人類の母親は人以上のものも、人以下のものも産まない」

◇増田れい子:1929年東京生まれ。住井さんの二女。毎日新聞社員を経て、現在はフリージャーナリスト。2012年12月12日に死去。著書に『沼の上の家』『インク壺』『人を愛するということ』等。

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 人間集団(社会)にはきっと「偏見と差別」があります。しばしば「いわれなき差別」として非難や批判が加えられてきましたが、なぜそういう事態がいつでもどこにでも生じる(引き起こされる)のでしょうか。住井すゑさんが言われています。「天皇制も人為だし、被差別部落ももちろん人為的につくられたもの」「『偽り』という字は人為と書いて『偽り』」、と。その「偽り」を集団(社会)全体が受け入れてしまうという、およそありえない状況が「偏見や差別」を生み、永続させてきたし、現に、そのために傷つけられれ苦しんでいる人が後を絶たないのです。「いわれなき=根拠のない」ものであれば、それを無条件に受け入れる姿勢や態度は断固として拒絶されれなければならない。

 それはけっして単純でもなければ容易でもない。これを越えることは苦難でもあるのです。「橋のない川」を越える(渡る)という苦行、といってもいいかもしれません。いま、世界(自分)は「乗り越える」ために苦悩にあえいでいる。ぼくたちが気づかないままで「偏見と差別」は制度化されてしまっているかもしれないのです。

 ぼくは大学に入ったばかりの頃、住井さんの本を手当たり次第に読んでいきました。浩瀚な『橋のない川』(新潮文庫第一部~第七部)を一夏をかけて読んだことを記憶しています。不条理でもある「偏見と差別」、気づかなければ、自らもその虜になってしまう。「差別という問題は、その差別を強いる、屈辱を強いるしくみと構造を維持しようとし、作り上げてきた、思想との対峙だと思うのですね」(金時鐘氏)というように、「偏見と差別」が「思想」の貌を以て堂々と闊歩するという事態にまで突き進んでしまうのも事実です。いつでもこの問題を考えつづける、具体事例に即して考察しつづける意志(意欲)を失いたくないものです。「君(ぼく・わたし)はどんな社会にすみたいのか」と。

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惚れて通えば千里も一里

 大学に入ってから、十年ほどは文京区本郷に住んでいました。目の前に「赤門」がありましたが、生憎、ぼくは「(帝)国立大学」は趣味に合わなかったし、たぶん「学力」も合わなかったと思う。その構内を無断で通って、上野池之端に出、なんども「鈴本」に通いました。ぼくが上京した段階では志ん生(五代目)は他界していました。(その代わりというと失礼ですが、圓生さん(六代目)を堪能しました。後年、ぼくが住むようになった習志野市大久保の病院で彼はなくなりました。ぼくの居住地の隣町。口演に来ていての急逝でした。1900-1979)

 したがって、志ん生はラジオ、テープその他で聴いたのですが、なんともいえない味わいを経験したことは、人生の幸福の一部となって今にいたりました。今でも彼の愛用の「都都逸」を記憶している。

  惚れて通えば千里も一里 長い田んぼも一跨ぎ

  人の女房と枯れ木の枝は 登りつめたら命がけ   

 (やがて、師匠の「五十回忌」がやってきます)

 どこがいいとか、何が面白いというのはあまり意味のない話で、彼の立ち居振る舞いから口演の一瞬一瞬までが、ぼくには忘れられない「芸」であったと、いまも言うことができます。ほとんど記録されたものはすべて聴いたと思う。まず、学校では絶対に教えてくれない「廓話」、ついで「人情噺」、さらに「滑稽話」と、志ん生のものはどれもこれも、比較を絶してぼくには聴きごたえがありました。「学校で教えてくんない」という口調、吉原、千住、品川などの往時の賑わい、「日本銀行発行の絵葉書」がなければどうしようもない岡場所など、地口を含めて、ぼくは入る学校を間違えたとマジで考えたことが何度もあったくらいです。(話芸というだけでは足りないものがあった「落語」の世界も、すでに崩落し崩壊して久しいのではないでしょうか。「落語」(寄席)を滅ぼしたのは「テレビ」だという指摘は当たっていると思う)you tube で「落語」(寄席)は復活するか。

 夫婦は一世 親子は二世 主従は三世 間男は四世(よせ)、だってさ。 

●古今亭志ん生=(1890―1973)本名美濃部(みのべ)孝蔵。2代目三遊亭小円朝に入門して朝太。円菊、馬太郎、武生、馬きん、志ん馬と改名し、講釈師で小金井蘆風(ろふう)、落語に戻ってまた幾度も改名し、7代馬生を経て1939年(昭和14)志ん生を襲名。『火焔(かえん)太鼓』『お直(なお)し』『三枚起請(きしょう)』『唐茄子屋(とうなすや)政談』など演目も豊富で、独自の天衣無縫ともいうべき芸風により、8代目桂文楽とは対照的な昭和落語の一方の雄であった。残された録音も多く、青壮年時代の貧乏暮らしと酒を愛した生涯は『なめくじ艦隊』『びんぼう自慢』などの自伝に詳しい。長男が10代目金原亭馬生(1928―82)、次男が古今亭志ん朝(しんちょう)(1938―2001)。[関山和夫]『『五代目古今亭志ん生全集』全8巻(1977~84・弘文出版)▽『これが志ん生だ!』全11巻(1994~95・三一書房)』(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

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あるけば草の実すわれば草の実

 「したい事をして、したくない事はしない―これが私の性情であり、信条である。それを実現するために私はかういふ生活に入った(はいらなければならなかったのである)。そしてかういふ生活に入ったからこそ、それを実現することが出来るのである。私は悔いない、恥ぢない、私は腹を立てない、ワガママモノといはれても、ゼイタクモノといはれても
 自己の運命に忠実であれ、山頭火は山頭火らしく。

 何よりも不自然がよくない、いひかへれば生活に無理があってはいけない、無理があるから、不快があり、不安があるのである」(昭和十年)

 (ヘッダー写真は「一草庵」(山頭火の終の棲家。松山市内)今は、立派な建物に様変わりしています。朽ち果てるというのも、一つの摂理ですが)

ふけてひとりの水のうまさを腹いっぱい
・雑草よこだわりなく私も生きてゐる
・月がうらへかたむけば月あかり

じつにいい気なもんだなあと感心するのです。山頭火しかり(放哉しかり)。すべってころんで、句ができたというほどに、いい気に過ぎる人生だったか。なにか彼らを妬んでいるのではありません。「無理があるから、不快があり、不安があるのである」という生き様こそ、二人の真骨頂でした。だから、そんなできもしない流儀を学ぶなど、ぼくごときにはあり得ない話です。決して妬んでいるのでも、羨んでいるのでもありません。

 人生の達人、そんな境地に達しているとはとても思えないが、この段階にあって山頭火自身は、そう自己評価していたに違いない。

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 上に引いた文章の直前には、彼は次のような心境を語っています。

 「山行水行はサンコウスイコウとも或はまたサンギヨウスイギヨウとも読まれてかまはない。私にあつては、行くことが修することであり、歩くことが行ずることに外ならないからである。

 昨年の八月から今年の十月までの間に吐き捨てた句数は二千に近いであらう。その中から拾ひあげたのが三百句あまり、それをさらに選り分けて纏めたのが以上の百四十一句である。うたふもののよろこびは力いつぱいに自分の真実をうたふことである。この意味に於て、私は恥ぢることなしにそのよろこびをよろこびたいと思ふ。

あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ
あるけば草の実すわれば草の実

 この二句は同型同曲である。どちらも行乞途上に於ける私の真実をうたつた作であるが、現在の私としては前句を捨てて後句を残すことにする。

 私はやうやく『存在の世界』にかへつて来て帰家穏坐とでもいひたいここちがする。私は長い間さまようてゐた。からだがさまようてゐたばかりでなく、こころもさまようてゐた。在るべきものに苦しみ、在らずにはゐないものに悩まされてゐた。そしてやうやくにして、在るものにおちつくことができた。そこに私自身を見出したのである。

 在るべきものも在らずにはゐないものもすべてが在るものの中に蔵されてゐる。在るものを知るときすべてを知るのである。私は在るべきものを捨てようとするのではない、在らずにはゐないものから逃れようとするのではない。

 『存在の世界』を再認識して再出発したい私の心がまへである。

 うたふものの第一義はうたふことそのことでなければならない。私は詩として私自身を表現しなければならない。それこそ私のつとめであり同時に私のねがひである。(昭和九年の秋、其中庵にて 山頭火)

 「或る時は澄み或る時は濁る。――澄んだり濁つたりする私であるが、澄んでも濁つても、私にあつては一句一句の身心脱落であることに間違ひはない。

 此の一年間に於て私は十年老いたことを感じる(十年間に一年しか老いなかつたこともあつたやうに)。そして老来ますます惑ひの多いことを感じないではゐられない。かへりみて心の脆弱、句の貧困を恥ぢ入るばかりである」(昭和十年十二月二十日、遠い旅路をたどりつつ 山頭火)

 時に、山頭火は五十三歳。死の五年ほど前のことであります。(世上の戦争気分にも、心奪われる山頭火です)

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君はどんな社会に生きたい?

 時代は旧習を薙ぎ倒すように変転しています。ぼくたちの生活意識は、一面では新しい状況に応接することにいとまなしで、この社会の歴史(人為)の所産でもある「差別」がまったく様相を変えてきていることも事実です。これまでの差別がなくなったのか。あるいは新たな差別の出現なのでしょうか。なによりも、差別する側に立っているかも知れない「みずから」に問いつづけることが不可欠です。(個人においても集団においても、古い意識は時代とともに一新されると錯覚しますが、じつは古いものはそのまま深く意識の底に沈んでいて、いったん事あらば、それが首をもたげてくるのです。これはまるで地層のようで、深層・古層・新層という具合に、蓄積されていくのですね。これもまた、歴史の一面です)

 「偏見と差別」。それは意識の有無にかかわらず、ぼくたちに襲いかかるものです。あるいはその網の目に取りこまれてしまう危険性があります。そのような状況に対して、ぼくたちはどうすればいいのか。

 ここで、一冊の本を紹介します。角岡伸彦さんは元神戸新聞記者。現在はフリーライターとして活動されています。

 オサム君との対話

オサム 角岡さんは、部落差別を受けたことはあるの?

角岡  直接の差別はないけど、目の前で部落の悪口を言われたことはある。でも、ボクは部落出身であることを隠 していないんだよ。‼

オサム どうして?

角岡  隠すとあばいてやろうというヤツも出てくるだろう?それなら自分から言っちゃおうと思って。

オサム そっと隠しておけば部落差別はなくなるという人もいるけど…。

角岡  部落も差別も「ある」ものを「ない」というのは、おかしいよね。歴史の一部を消すことはできないよ。それに部落出身であることは恥ずかしいことじゃない。ボクにとっては、わが家の歴史だもんね。

オサム そうだよね。どうして差別はなくならないんだろう?

角岡  実はボク、子どものころ、在日韓国・朝鮮人や障害者を差別していたんだよ。

オサム エエーッ‼

角岡  ものすごく反省しているよ。差別した自分が恥ずかしくなって、「差別について考えな、あかん」と思うようになったんだ。世の中には、いろいろな差別があるよね。部落差別は、そのひとつ。別々の問題に見えるかもしれないけれど、根っこは全部つながっていると思うんだ。

オサム そうなの?

角岡  「自分は多数派」と思いたい人が、違いを見つけだして差別する…。

オサム なんか学校のいじめに似ているね。

角岡  そうだね。部落差別を考えることは大事だけれど、土台から考えないとね。人に危害を加えないかぎり、自分をありのままに出しても、だれからもいやな思いをさせられない社会が、ボクの理想なんだ。そのための最低限のルールをつくることが大事だと思う。

オサム 部落差別は自分とは関係ないと思っていたけど、「どんな社会で生きたいか」という大事な問題と関係があったんだね。ボクにできることはあるかなあ?

角岡  君はどんな社会に生きたい?その答えを考え続けてほしいな。(角岡伸彦著『とことん部落問題』所収。講談社刊。2009年)

 「どんな社会に生きたいか」という問題に答えることで、部落差別がけっして他人事ではない、まさに自分の問題となるのだという角岡さんの指摘を前にして、そこから逃げないで、ぼくたちは真摯に向きあう姿勢が求められるのです。(さまざまな差別問題がありますが)「別々の問題に見えるかもしれないけれど、根っこは全部つながっていると思うんだ」、という視座を失わないようにしたいですね。

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《 部落で生まれたことを私は自然に受け入れた。母親は家に来た銀行員にさえ躊躇なく「ここは同和地区ですねん」と言っていた。(阪神淡路大震災で)被災した未組織部落、未指定地区とは違い、わが家では部落問題はたタブーではなかった。

 中学生になり、地域や学校で部落の歴史を学び、自分の立場がわかりかけたころ、私は母親に質問したことがあった。

「お母ちゃんは差別されたことあるん?」

「私ら差別受けたことないなあ。なあ、お父ちゃん」

「なかったなあ」

 そう言ってはばからない両親は、お互い部落出身者同士である。その上、生まれも育ちもまったく同じ地域ときている。したがって私は地縁、血縁とも部落民でない要素がまったくない。いわば混じりっけなしの純粋部落民である。

 差別を受けたことがないという親のもとで育った私も、部落差別を直接的に経験したことはない。実に幸せな部落民である。それにしてもなぜ、今に至るまで部落や部落差別が残っているのか。喉に突き刺さった小骨のように、長い間、私はそのことが気になっていた。好奇心と行動力が今の十倍はあった大学時代には、部落問題を考えるクラブにも所属した。好むと好まざるとにかかわらず、青臭い言い方をすれば青春時代は部落問題とともにあった。すべての部落出身者が私と同じように部落問題を気にするわけではない。だが、就職や恋愛、結婚などで部落問題にぶち当たる人もいる。それぞれの〝被差別部落の青春〟がある》(角岡伸彦『被差別部落の青春』講談社文庫版)

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 「なぜ部落問題を学ぶ必要があるのか。語れば長い話を、小学生の読者を対象にした『オサム君との対話』で簡潔に述べた」と角岡さんはいわれます。

 当たり障りのない調子で、「どんな社会に生きたいか」に答えるのではない。問われた者として、どこまでも考えなければ、その答らしいものは見えてこないからです。「だれからもいやな思いをさせられない社会」こそが「理想」なんだというのは、どんな意味でしょうか。そんなのは理想なんだから実現しないと見るか、どこまでも求め続けることを促すところに理想の力があると見るか。理想というものは、現実に対して、人の意識を鋭敏にさせる不可思議な魔力をもつし、そうでなければ、それは空想に過ぎないのだ。

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