人はみな、ヘロデになって…

 悪い習慣はつづくもので、おそらく三十年以上もラジオの深夜放送を布団にはいって聞いています。もちろん耳栓(イヤホン)をしながらで、時には耳から外れたまま朝をむかえる時もあります。この何年かはほぼ十時には寝床につく。気性は至って短い、いや起床でした。これも決まったようにいまなら六時前後です。日の出前が定番。朝日(新聞じゃない)がみられるときは茶を飲みながら五分でも十分でも飽きずに眺めています。あるいは鳥(その多くはウグイス》の声が合図の時期もあります。拙宅は海から30キロほど離れていますが、標高が約百メートルほどの丘の上にあるので、まあまあの日の出が拝めます。

 以下の駄文は十五年も前に書き散らしておいたもので、いままた、当時の震撼とさせられた精神の状況(震え)がまざまざとよみがえったので、恥を忍んで再録しておこうと考えた次第です。

 (ぼくはあまり文章を書くのが好きではありませんが、野暮な理由で駄文でも書けという注文というか、強制がたまにありました。おそらく三十になるかならないか位からでした。文章のイロハもわからず、段落のつけ方、引用の仕方、はては句読点の打ち方など皆目わからないままで引き受けさせられたりしました。その際、ほとんどは見様見真似で、他人の書き方なり文章法を、まるで剽窃まがいに取り入れたりしたものでした。後年になって、話し言葉のままに文章を書くという癖のようなものがついてしまい、以来ずっと「です、ます」で通してきた。「である」「する」という表現がしっくりこなくなったような気がしたのです。(丸山真さ男という人も『日本の思想』だったかで、そのような問題に触れていたような気がしますが、記憶違いかもわかりません)普段通りの話し言葉というようなものが、ぼくの場合には書き言葉になったといえそうです。「言文一致体」がどんなものだったか、今ではその細部は知る由もないのですが、この書き方(まあ「生活綴り方」というべきかも)を、我流の言文一致表現とでもいっておきます。これ以降のは文章はできるだけ普段の話し言葉で書きつけることになりそうだという「断り」の挨拶でした)

《数日前のことでした。夜中の三時だったかのニュースで、夢うつつの耳にとどいたのは、徳島県阿南市に住む母親が二人の子ども(男児と女児)をダムの貯水池に放り投げて殺したという事件でした。いったいそんなことがあるのだろうか、とうつつに夢を見ているのだと思ったようだ。「ひとりずつ投げ込んだ」と自首してきた母親が語ったというのです。背筋が寒くなるような、それでいて作り話を聞いているような、やりきれない気持ちに襲われたのは事実でした。どうしてこんなことが?この世にあってたまるか》

《(同じラジオ番組で)四時すぎ。わたしの意識は幽玄の世界にはいったままでした。「心の時代」というテーマで、一人の神学者が「すべてはヘロデになってしまったのか」という意味のことを話していました。イエスが生まれたとき、東からきた博士たちがエルサレムにきて、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、その方を拝みにきました」時のユダヤの大王であったヘロデは彼らに「ベツレヘムに行くように」と命じたので、博士たちは東方で見た星を追いながら、ベツレヘムにやってきた。その星は幼子(イエス)の生誕の地上でとまったのです》

《ヘロデはこの話をきいて、ベツレヘム周辺で生まれた二歳以下の男児を一人残らず殺してしまった。このオレがユダヤの王なのに…。それは許しがたいことだ、と。イエスはヨセフ、マリアとともにエジプトに逃げて助かりました》

《ひとはみなヘロデになってしまったのか。親が子を殺し、子が親を殺す。夫が妻を殺し、妻が夫を殺す。友が、また友を殺す。子どもが子どもを殺す。たがいに殺戮しあう。なぜ?カネのため、恨みのため、衝動におそわれて。殺す理由みたいなものはいくらでもある。殺すのは誰でもよかった、と。殺したいから殺す。それ以上でも以下でもないのでしょうか。救いのない時代です》

《どのような意識がわが子を殺すところにまで、母親を導いたのか。この女性は元教師であったという。教師だったというところに何か意味があるというのではありません。でも、それ以外の職業についていたら、ここまで追い込まれることはなかったといえるのかどうか。大人も子どもも、ヘロデとなり、自分の地位(属性)を奪おうとする人間を殺さなければ、自分は心を安んずることができなくなった、そんな酷薄な時代にわたしたちは生きている。殺さなければ、殺されるのだ、と》

《母親が二人の子どもをダムの貯水池に投げ込んで殺したというニュースにふるえながら、もうろうとした状態で、ああ、そういえばフレーザーの「金枝篇」にもそんな神話があったなあと、あらぬところに想念が飛んでいくようでした。聖なる森に一人の王(祭司)がいる。王の力が衰えたとみると、新たな候補者(若者)がその王を殺して、その座を奪取するというのだ。世にいう王権交代神話。わたしたちはいつとは知れぬ、遠い昔の神話時代そのままをいまだに生きているのかも知れないのです。そのとき、王とは、あるいは王権とはなんなのでしょうか》(李四)

【二十二日午前九時ごろ、阿南市内の主婦(41)が「八歳と五歳の子供二人を福井ダム貯水池に投げ込んで殺した」と阿南署に自首してきた。徳島県警捜査一課と阿南署が同市福井町鉦打の県営福井ダム貯水池を捜索したところ、供述通り男児の遺体が浮いているのを発見。小学校二年生の長男(8つ)と確認されたため、県警は同日午後九時十五分、主婦を長男を投げ込んで殺したとする殺人容疑で逮捕した。(中略)幼稚園児の長女(5つ)は同日夕までの捜索で見つかっておらず、県警機動隊や阿南署、阿南消防組合などは二十三日朝、捜索を再開する。(中略)主婦は夫と長男、長女の四人暮らし。中学校の教諭をしていたが、数年間の休職を経て二〇〇四年三月に退職している。同年九月に、徳島市内の病院で統合失調症と診断され約二カ月入院。今年六月から八月にかけても、阿南市内の病院に入院していた。県警は夫らからも事情を聴きながら詳しい経緯について調べる】(徳島新聞・05年12月23日付)

動物園は学校だという雑談

 いまどきの動物園は子どもたちの学校も顔色を失うような一芸や二芸どころか多芸に秀でた優等生が各地で覇を競っている。そのうちに各種科目の甲子園大会なるもの、あるいは共通一次試験などが開催されるかもしれない。いや、もうすでに犬や猫のコンテストが盛んになっている。という具合に、教育効果は動物たちの上に如実に表れている。成果を上げるために飼育員さんたちは教授法を極めようとし、研究会を開いて日夜励んでいるだろう。努力はきっと報われる。小生の寓居近くに「鼠坂」なる県道が走っている。乃木坂だの欅坂だのと、坂ばやりだが、いずれは素敵なネズミさんがセンターをとる「何人組」かが出てくるにちがいない。チュー目するといいな。

 ぼくは久しく動物園に行かないが、至って物臭だからというだけの理由である。理屈を言えば「人間園(社会)」の方がよほど面白い、怖い、凄い、いや理不尽な事例に事欠かないほどで、この先どこまで堕ちていくのか、それを想って気が狂いそうになる。ゆとりも遊びもなく、マジで親殺し、子殺しが続発しているという惨状。体力は十分にありそうな若者が他人の稼ぎを横取りする。老境の域に達している人間をだまして大枚を巻き上げる。たしかに応接にいとまなしとはこの状況をいう。嘘は休み休みにどころか、のべつ幕なしに衆生を虚仮にして開き直っている偉いさん(御仁)もいる。今や世界の「リーダー」だと自認しているそうだ。

 整然とした、静寂の気が満ちている動物園こそ楽天地なのだろうか。いずれにしろ、塵芥にまみれて人間界に足や首を突っ込みすぎて、いまはもうzooに出かける余裕すらないというのが本音。

 以下、閑話の中の閑話。これまで以上の与太話になるのを許していただく。(表題の「雑談」は「ざつだん」でもあるが、ここは「ぞうだん」と読みたい。そこから「冗談(じょうだん)が生まれた。「冗談だろ」と言われても困る。これは歴史的に説明されてきた話で、「雑煮」を何と読む)

 ひとはなぜ動物園に行くのか、と問うてみる。どうしても行かねばならない理由はなにか、と。即座に、理由などあるものかと一喝されそう。したがって、この愚問の解答は自明だ。「人たるもの、動物園に行くべき」と法律に書いてあるわけではない。

 ところが、既存の学校に対してはそうはいかない。憲法にも法律にも小・中学校(義務教育)に行かせなければならぬ(行かなければだめ)と規定されている。法律の面から言っても動物園と学校は異なる。また構造というか機能の面でも両者はちがう。第一、学校には檻がないではないか。(本当にないのか)動物の調教につきものの鞭もない。まして暴力まがいの訓練もないというのは建前。学校にあって動物園に見られないのは宿題だけかしら。たしかに、今どきの動物園は学校化(教育化)してきたのも事実で、各園では毎日のように発表会があるし、「授業参観」も。だからそれに備えてはげしい訓練も行われる。教える側も教えられる側も熱心にならざるを得ない。おれは猿だ、猪だと本性むき出しでは入場料を出してきてくれない。猿でも猪でも人なみ(猿なみ、猪なみ)に励まなければ園の経営に響き、はてはわが身の生存にかかわるのだ。ここも人間の学校社会と同様の競争原理が働いている。存続競争か。

 学校と動物園のちがいはなんだろう。片方には本物の猿もいれば狸もいる。象も熊も狐も、あるいはサギさえもいる。学校にも顔つきも仕草も、あるいは声までも、ある動物にそっくりな教師(や生徒)がいるだろう。だから、この二つは同根だと言い募る人がいてもおかしくない。(いや、やっぱおかしいよ)はたして、動物園は学校なら、学校は動物園といえるか。(どういうわけだか、動物の人間化と人間の動物化が同時に進行しているさなかのように思われてならない)

 動物園が学校だなどといった手前、少々小物だが、ここでメダカの学校とスズメの学校に触れる。 元祖「めだかの学校」は神奈川県下の小田原近郊にあった。第二次大戦直後にさかのぼる。今は小田原城近くの荻窪に新設(1996年8年5月)され、名誉ある学校の伝統を墨守している。加えて、各地各所に多数の分校が現存している。メダカのブリーダーも盛業中のようだ。今では楊貴妃だの紫式部などと高貴なメダカ(名門出)が高貴ぶりを発揮し、好事家に高く評価(要するに売買)されている。日本のメダカの生態や生息状況は単純ではなく、なかなか複雑な歴史を示している。学校が創立されるよりはるか以前に、日本の各地には固有種ともいうべきメダカたちがそれぞれの固有の文化を紡いできたのである。何事にも意味があり、歴史があるという好例だが、このメダカを絶滅危惧種にしてしまったのは、やはり人間界に横溢している傍若無人な生存欲だった。

 その「メダカの学校」が創設された経緯はよく知られている。創立者で初代校長は茶木滋氏(1910-1998)である。横須賀出身だった。製薬会社勤務中に「めだかの学校」を生んだ。晩年は千葉の船橋に居住されていた。一度お会いしたような気もしている。学校創立は1950(昭和25)年。それには「みなさまのN●K」も一枚かんでいた。(詳細は省く)この学校の校歌が「めだかの学校」で中田喜直氏(1923-2000)作曲。人口に膾炙したのは「だれが生徒か先生か みんなで元気に遊んでる ♪」というくだり。中田の父は章氏(1886-1931)で「春は名のみの風の寒さや」で始まる『早春賦』の作曲家。ぼくはこの歌が大好きだ。(勝手にしろよ)

 だれが生徒でも先生でもない。階級分化などしていないと評価されたというのだ。あるいは「わたし教える人」「あなたは教えられる人」という役割分担がない、たがいが教え、学びあう。まさに平等の関係が謳われている。ほんとうにそうか。メダカの習性に照らして、そのような平等尊重の精神(?)などが考えられるのか。ぼくのところにも小さな人口池(つまりは水溜まり)があり、だれか知らないうちにメダカを何匹か入れておいてくれたのが、五年も六年も生きている。もちろん同一個体じゃない。ときに観察(授業参観)してみることがあるが、たがいに教え学びあっているとはとても思えない。想像以上に生存競争は激しそうなのである。こんどゆっくりと彼や彼女にインタビューしよう。(つづく)

教育は強制ですか(承前)

 学校は一つの制度である。この点についてはいくつかのポイントを押さえなければならないが、それについては後に触れる。ここでは「教師=教える人」と「生徒=教えられる人」という役割分担が自明の前提になっている組織であるということだけをいっておこう。「教師vs.生徒」の関係は反転しない。

 さらに急いで付言しておくが、このエッセイまがいの駄文ははホルト論ではないし、学校教育の是非を述べるものでもない。それは現役で店を張っている研究者や教育者がやるべき仕事であり、このぼくは、他には観衆がほとんど見られないうらぶれた外野席、それも球場の外にあるような原っぱにぽつねんと座している「学校・教育」の部外者であり、門外漢であると告白しておきたい。「部外者は立ち入り禁止」という張り紙が目に入るが、入ろうとしなければ、部外の者には無関係。とまあ、告知だけはしておこう。ぼくが願うのはことに当たって、すべからく部外者であり続けたいという姿勢だ。外から球場内の試合をただ見するつもりもない。入場料を払ってまで見る価値があるかどうか。ぼくには判断できないが、たぶん金は無駄にしたくないという貧乏根性に身を任せるにかぎる。学校内や教室内でどんなことが行われているのか、まんざら知らないでもないし。

 ホルトに戻る。ジョン・ホルトは大学を卒業して小学校の教師になった。熱心な教師であった彼は、だんだんと「学校改革」にエネルギーを注ぐようになった。「<学校>をなんとか変えなければ?」「子どもが生き生きするような学校はどのようにしたら作れるか?」信じられないが、こんなことをまじめに実行しようとするのだから、「マジで」と腰を引きたくなる。「魚屋で大根を求める」の類だったと思う。彼にはとてつもない経験になったはず。手にした一本のスコップで大山を掘り崩すような難行だったろう。だが、かれは賢明であった。「学校は変えられない」、それなら「自分を変えよう」と「脱学校」「非学校」を図ったのだ。

 そしてついに「学校(教育・学習)に代わるもの」を求め続けた結果、全米でも屈指のホームスクーラーの先陣を切る人となっていく。1970年代から80年代ににかけてのことだった。彼の立場はじつに明確である。「物事を成し遂げる、すなわち、主体的で目的に満ち、意味に溢れた生活および仕事」というものと、「教育、すなわち、脅しや褒美、恐怖や欲望の圧力下で行われる、人生から切り離された学習」とはまったく別物だという視点を実践や理論の核心にすえた。どうでもいいことなら教えられるが、人生にとって肝心なところはまず無理だ。

 かれは教職にありながらたくさんの著書を出版し、そのどれもがミリオンセラーになった。それだけ教育や学校に関りや関心をもつ人々がかれの主張に耳を傾け、その実践活動に参加したということだと思われる。さらに彼はハーバード大やUCLA大(バークレイ校)の招聘教師になったが、大学からはたいして支援を得られなかった。それは当然で、当の場所(学校)におりながら、自分のよって立つ足元を切り崩そうとする人間に好意を抱く学校関係者はいないだろうから。大学教授に何ができるか、できたか。かれは自らを律したともいえる。

教育は強制ですか

 Teach Your Own. ― アメリカのホームスクール(または、学校解放)運動の推進者であった John Holt(ジョン・ホルト。1927-1985)のもっとも重要な著書のタイトルです。(1981年刊。邦訳は『なんで学校へやるの』1984年刊、一光社)このタイトルに留意したい。「自身を教えなさい」とでもいうように、「自分の教師は自分なんだ」というのだ。「習うより、慣れろ」といわぬばかりに、他者から「教えられる」という学校にあってはお定まりの姿勢をはげしく否定した。世に「ホームスクール教育」「ホームスクーラー運動」と呼ばれるようになった嚆矢である。「学校」にも「学習」にもかれは見切りをつけた。

 《「学校」を変革することは可能か?―という問いに、「否」の答えを返す前に、私はより根底的な疑問を抱くようになりました。「学校」とは、たとえそれがうまく運営されるとしても、一体全体、なくてはならないものなのか、と。「学校」は学習の場として最善のところではないのではないか、と否定的な見解を持つようになったのです。ある特殊な技能教育の分野を除けば、「学校」などたいして存在価値がないのではないか、と》

 《私自身の胸に聞いてみても、現に私が知っている知識の大半は、「学校」で習ったことではないのです。集会、ワークショップ、セミナーなど、いわゆる「学習環境」とか「学習経験」という言葉で総称される場所なり機会のおかげで身につけたものでも全然ないのです》 

 《時間が経つにつれて、私の疑いはさらに深まり、「学習(ラーニング)」という言葉それ自体にも、ある種のうさん臭さを感じるようになりました》(以上、邦訳『なんで学校へやるの』(大沼安史訳)から)

 ホルトが没してから35年以上が経過した。ぼくは若いころさかんに彼の著書を読んだ。折しも日本の学校は狂乱期(「受験戦争」と称される反教育とそれが生み出した「学校・教育」の目を覆いたくなるような荒廃)にあたっていたと思う。70年代からの十数年のこと。学校は改革できると元気な老や若たちは意気込んだが、ぼくはそうじゃなかった。学校が変えられるとは思いもしなかったし、また変わってほしいとも考えられなかったから。言ってみれば、それは必要悪として飲み込む、やり過ごすものだった。学校でなにかを教える(学ぶ)なんて、ありえないと心底思っていた。それはぼくのいやな、しかも厳然として負わされた小・中・高校時代の苦々しい経験から「学んだ」(反語的にいえば)事柄だった。不幸なことであったが、学校や教師にはいつしか不信感を隠さなくなった。そしてこれまた荒廃のさなかにあった貧寒たる都市の大学に入ってから(あるいはそれ以前からも)、いずれ郷里に帰って山村の学校教師にでもなろうかと漠とした妄想を思い描いていた。そんなときにホルトに遭遇した、まさにencounter。(右写真はホルトの死を伝えるニューヨークタイムス紙。1985/09/15)

 最初はHow Children Fail.(1964年)。さらにHow Children Learn.(1967年)。辞書を片手におぼつかない読解力だったけど、懸命に読んだことを今でも覚えている。彼の主張は一貫していたというか、いや教職経験の積み重ねに応じて、大きく変化していったというほうが正確だろう。「学習の場として、学校は失格だ。それにはたいして価値などないのだ」と、ここまでは多くの人も言うことだが、かれはさらにその先を求めた。それを鮮明にしたのが、Teach your own. だった。学校制度からの解放(脱学校)宣言であったと思われた。

 ホルトはアメリカを襲った経済恐慌時代直前のニューヨークに生まれ、そのあとに二人の妹がつづいた。やがて一家はニューイングランド地方に移住し、そこで学校教育の洗礼を受けた。学校はかれにとってけっして快適な場所でもなければ、どうしても行かなければならない聖地でもなかった。生きることに必要な物事はまず学校では教えられもしなければ、学ぶこともなかったというのだ。大学(Yale Univ.)を43年に卒業し、その後、海軍に入隊。戦後の46年に除隊し、いくつかの経歴を重ね、53年にコロラド州の私立学校の教員になった。それを勧めたのは妹たちだったという。どうしてだったか。「にいちゃん、小学校の先生になるといいよ」と言われた兄は、その通りにした。

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(おそらく、この文章を書いて始めたのが、「ブログ(駄文集録)」の出発点だったと、今思い返しています。ジョン・ホルトの本を読みだしてもうかれこれ60年くらい経つ。以来、彼我の国の学校教育は迷妄を極め、衰退を止められず、今では、学校は「反人間性の砦」の感があると言ったらどうでしょう。進学校、受験校を目指して若い感情をいたずらに殺伐とさせ、その挙句に「高学歴者」が社会における政治や経済の要路に立って、個々人は言うに及ばず、人心そのものが荒んでいるという思いを、ぼくは一層深めています。

 その後もホルトのような改革心に燃えた教師が出てきて、学校再生、教育甦生のために心身を捧げて来たし、今もいることをぼくは確信しています。願わくば、学校が子どもや教師の「躓きの石」とならないことを。もっともっと、学校に質のいい「自由を」と、ぼくは切望している)(本日、この駄文(「教育は強制ですか」)を読んでくださった方がいたおかげで、ぼくはまた、自らの駄文に出会いました。言いたいことは変わらないどころか、一層切実に「教育は強制ですか」と激しく疑う次第です)(2025/02/09)

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