刺激惹起性多能性獲得細胞

 新しい万能細胞作製に成功 iPS細胞より簡易 理研

 理化学研究所などが、まったく新しい「万能細胞」の作製に成功した。マウスの体の細胞を、弱酸性の液体で刺激するだけで、どんな細胞にもなれる万能細胞に変化する。いったん役割が定まった体の細胞が、この程度の刺激で万能細胞に変わることはありえないとされていた。生命科学の常識を覆す画期的な成果だ。29日、英科学誌ネイチャー電子版のトップ記事として掲載された。

 万能細胞

 理研発生・再生科学総合研究センター(神戸市)の小保方晴子(おぼかたはるこ)ユニットリーダー(30)らは、新たな万能細胞をSTAP(スタップ)細胞と名付けた。STAPとは「刺激惹起(じゃっき)性多能性獲得(Stimulus―Triggered Acquisition of Pluripotency)」の略称だ。/ iPS細胞(人工多能性幹細胞)よりも簡単に効率よく作ることができた。また、遺伝子を傷つけにくいため、がん化の恐れも少ないと考えられる。

 作り方は簡単だ。小保方さんらは、マウスの脾臓(ひぞう)から取り出した白血球の一種のリンパ球を紅茶程度の弱酸性液に25分間浸し、その後に培養。すると数日後には万能細胞に特有のたんぱく質を持った細胞ができた。/ この細胞をマウスの皮下に移植すると、神経や筋肉、腸の細胞になった。そのままでは胎児になれないよう操作した受精卵にSTAP細胞を注入して子宮に戻すと、全身がSTAP細胞から育った胎児になった。これらの結果からSTAP細胞は、どんな組織にでもなれる万能細胞であることが立証された。/ 酸による刺激だけではなく、細い管に無理やり通したり、毒素を加えたりといった他の刺激でも、頻度は低いが同様の変化が起きることも分かった。細胞を取り巻くさまざまなストレス環境が、変化を引き起こすと見られる。/ さらに、脳や皮膚、筋肉など様々な組織から採った細胞でもSTAP細胞が作れることも確かめた。/ STAP細胞は、iPS細胞とES細胞からは作れない胎盤という組織にも育ち、万能性がより高く、受精卵により近いことを実験で示した。さまざまな病気の原因を解き明かす医学研究への活用をはじめ、切断した指が再び生えてくるような究極の再生医療への応用にまでつながる可能性がある。

 ただ、成功したのは生後1週間というごく若いマウスの細胞だけ。大人のマウスではうまくいっておらず、その理由はわかっていない。人間の細胞からもまだ作られていない。医療応用に向けて乗り越えるべきハードルは少なくない。

 万能細胞に詳しい中辻憲夫・京大教授は「基礎研究としては非常に驚きと興味がある。体細胞を初期化する方法はまだまだ奥が深く、新しい発見があり、発展中の研究分野なのだということを改めて感じる」と話す。(小宮山亮磨)

 ■山中伸弥教授「重要な研究成果、誇りに思う」/ 京都大iPS細胞研究所長の山中伸弥教授は「重要な研究成果が、日本人研究者によって発信されたことを誇りに思う。今後、人間の細胞からも同様の手法で多能性幹細胞(万能細胞)が作られることを期待している」とのコメントを発表した。

 〈万能細胞〉 筋肉や内臓、脳など体を作る全ての種類の細胞に変化できる細胞。通常の細胞は筋肉なら筋肉、肝臓なら肝臓の細胞にしかなれない。1個の細胞から全身の細胞を作り出す受精卵のほか、少し成長した受精卵を壊して取り出したES細胞(胚(はい)性幹細胞)、山中伸弥・京都大教授が作り出したiPS細胞(人工多能性幹細胞)がある。万能細胞で様々な組織や臓器を作れるようになれば、今は治せない病気の治療ができると期待されている。(朝日新聞・14/01/29)

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 「科学は、いくつかの図式、モデル、価値付け、コードといったものに従うことによってのみ、規範性を持ち、ある特定の時期に科学として実際に機能します。科学とはつまり、一群の言説のことでああり、一群の言説実践のことであって、それは、慎み深く、全く退屈で単調なものであり、倦むことなく繰り返されるものです」

 STAP細胞という万能細胞があらたに発見された、しかもそれが若い女性科学者によって導かれたというので、格好のニュース種になりました。今から六年前です。以来、この「事件」がいかなる経過をたどったかは周知のとおりです。詳しくは述べませんが、「科学」の歴史には、このような問題はいつでも発生している事実を教えていますし、それがぼくたちの知らないうちに消えたかと思えば、再発生しているという具合です。どこかで引用したS.J.Gouldにはこの種の問題を扱った書物があったと、あいまいながら記憶しています。

 イグノーベル賞がときには大いに話題になります。これは「発見」や「発明」にかかわる業績を、(笑いを伴って)顕彰するものです。(「イグノーベル (Ig Nobel 英語発音: [ˌɪɡnoʊˈbɛl])」とは、ノーベル賞の創設者ノーベル (Nobel 英語発音: [noʊˈbɛl]) に、否定を表す接頭辞的にIgを加え、英語の形容詞 ignoble 英語発音: [ɪɡˈnoʊbəl]「恥ずべき、不名誉な、不誠実な」にかけた造語である。公式のパンフレットではノーベルの親戚と疑わない Ignatius Nobel(イグネイシアス・ノーベル)という人物の遺産で運営されているという説明も書かれている[2]が、ノーベル賞にちなんだジョークである)(wikipedia) 

 再生医療 遺伝子操作、人工授精、その他、さまざまな問題(発明・発見)や課題が最新の科学と技術の周囲で生じています。さらにこの先も複雑で判断に迷わされる事態が起きるのは間違いありません。「科学」とは何なのでしょうか。根っこに戻って考え直したいと思います。(左の記事は朝日新聞・2014/12/18)

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「私」の前に「私たち」があるのだ

 《 脳の働きの基礎となるメカニズムに目をやれば、従来私たちの行動に与えられてきた説明がどれほど非現実的なものかが明らかになる。そうした説明は、意図的な行為と、それを実行するのに必要な純粋な体の動きとを分ける傾向にある。実際、非現実的という点では、ニューロンの活動を記録するために通常行われる動物実験の多くと変わりない。そのような実験では、動物(たとえばサル)は、厳密に指定されたタスクを実行するようにプログラムされた小型ロボットと見なされる。一方、与えられた食べ物などを動物が好きなときに取れるという、動物行動学的な設定でニューロンの活動を記録すれば、運動系が皮質レベルでは一つひとつの動きばかりでなく行為そのものともかかわっていることが明らかになる。考えてみてほしい。ヒトについても、まさに同じことが言えるではないか。私たちは目的もなく腕や手や口を動かすことはめったにない。手を伸ばしたり、つかんだり、噛みついたりするときには、対象物があるのが常だ。

 こうした行為は、目的指向のものであって、たんなる動きではない以上、私たちが周囲の世界を経験するときの土台を提供し、対象物が私たちに持つ当面の意味合いを、その対象物に付与する。知覚プロセスと認知プロセスと運動プロセスの間の厳密な区分は、はなはだ人為的なものだ。知覚はかつて考えられていた以上に複合的で、行動の力学の中に組み込まれているように思える。そればかりか、「行動する脳」は何よりもまず「理解する脳」なのだ。これから見ていくように、それは実際的・前概念的・前言語的な理解の形式ではあるが、だからといって、その重要性が薄れるわけではない。というのは、私たちのすばらしい認知能力の多くがそこに基礎を置くからだ 》

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コモン・マーモセットの側頭葉FST(半ミラーニューロン:他者の運動・意図にのみ反応する細胞)
神経結合を生体内で観察する生体内結合可視化技術を用いて、FSTの神経結合から前頭葉下部のミラーニューロンの位置を同定した概念図。自己の運動・意図のみに反応するニューロンは前頭葉に存在すると考えられる。(https://www.ncnp.go.jp/press/press_release151210.html

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 《 この種の理解は、ミラーニューロンの活性化にも反映されている。一九九〇年代の初頭に発見されたミラーニューロンは、私たちが他者の行為を認識するときばかりかその意図を認識するときにさえ、何をおいても自分の運動のレパートリーに依存していることを示している。物をつかむといった基本的な行為から、たとえばピアノでソナタを演奏したり、込み入ったダンスのステップを踏んだりするという、特別の技能を必要とするもっとも高度な行為に至るまで、脳はミラーニューロンのおかげで、自分が観察した動きを実際に自分自身で行える動きと照らし合わせられるし、それによって、その意味を正しく評価することもできる。(中略)私たちの脳は、いかなる種類の推理を働かせるまでもなく、運動能力のみに基づいて、他者の意図や期待や動機をたちまちのうちに理解できるのだ。

 ミラーニューロン系は、私たちが個人のみならず社会の一員として振る舞う能力の根本にある、経験の共有というものに不可欠に見える。単純なものも複雑なものも含めた模倣の形態や、学習の形態、言葉と身振りによるコミュニケーションの形態は、特定のミラー回路の活性化を前提としている。さらに、他者の情動反応を評価する私たちの能力も、ミラー特性を持つ特定の諸領域と相関関係にある。行為と同様に、情動はじかに共有される。私たちは、他者が体験している痛みや悲しみ、嫌悪感を知覚すると、自分がそうした情動を経験するときに関与するのと同じ大脳皮質領域が活性化する。

 ここから、私たちと他者をつなぐ絆がいかに強力で深く根づいたものであるかがわかる。換言すれば「私たち」を抜きにして「私」を考えるのは、奇妙この上ないのだ 》(リゾラッティ(上左写真)&シニガリア(上右写真)著『ミラーニューロン』柴田裕之訳。紀伊國屋書店、2009)

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 長い引用です。これに関しては注釈はしません。まずはくり返し読む、ぼくはそれを徹底してきました。そして、最後の「『私たち』を抜きにして『私』を考えるのは、奇妙この上ないのだ」というところで、これはだれが何と言おうとその通りだなと実感しきりでした。つまり「科学以前」の社会(集団)の不可欠な条件だったのです。これ(条件)がなければ、「社会集団」は生み出されてこなかったし、人間というか人類も、どこかの段階で絶滅していたに違いないのです。他者を理解するとなどと、ぼくたちは簡単に言いますが、その背後には神秘的でもある脳の働きが作用していたのです。その逆を考えれば、どんな事態が個人や集団に起こりえるでしょうか。

 現下のいたるところで見られる「偏見や差別」から生じている問題も、決してこのこととは無関係ではありません。

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今では、文字がおれに向かって…

 孤立した人間がいないのと同様に、孤立した思考(たった一人で考えるということ)もないんです。ものを考えるには、その対象が必要となりますが、さらにことばを交わしあう一人の相手がいなければならない。したがって、人間の世界はコミュニケーションの世界となるんですね。つまり、「わたし」と「あなた」と「(その間を媒介する対象」があって、はじめて「考える」という行為は成り立つということです。「medium」というものが。

 (パウロ・フレイレについてはすでにいくつか駄文を書いてみましたが、最も大事な部分を残しておきました。それが彼の「識字教育」の実践でした。大変に深刻な非識字状態に置かれていたブラジル北東部(レシフェ)の農民たちとの格闘がそれです。人間が「文字を識る」とはどういうことか、根本からその問題を明らかにしたものです。何回かに分けて、この問題について拙論を重ねたいと愚考しているのです)

*ミディアム【medium】1 媒介するもの。媒体。また、仲介者。2 中間。中位。「ミディアムサイズ」3 ビーフステーキの焼き方が、中位であること。ウエルダンとレアとの中間程度。4 生物の生息場所。生活環境。5 標本の保存液。細胞培養の栄養液。6 霊媒。(デジタル大辞泉)

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 ことばの種を播く人(あるいは識字教育について)

「ねえ君、君は最初のことばを読み書きできたとき、どんな感じをもった?」

「ことばを話せることがわかって、うれしかったな」と、かれは応えた。

 ダリオ・サラスDario Salasは、次のように報告している。(註 識字教育実践の仲間である社会学者だったと思います)

 「農民との会話のなかで、私たちは、識字者になることの利益と満足感を表現するために、かれらが使ったイメージに衝撃を受けた。例をあげてみよう。

『以前おれたちは目が見えなかったが、今では目からうろこが落ちてしまった。』

『わしは、自分の名前の書き方を習うためだけに来た。この年になっても字を読めるなんて、思いもよらなかった。』

『これまでは、文字が小さなあやつり人形みたいに見えた。今では、文字がおれに向かって囁きかけ、文字に口を聞かせる事ができる。』

 サラスの報告は続く。

 「ことばの世界が眼前に開けるときの、農民たちの喜びを目にするのは感動的である。ときとしてかれらは、こんなふうに言ったものだ。『疲れすぎて頭痛がする。だけど、読み書きを学ばないで、ここから帰ろうとは思わない。』」

 鳥には翼がある。

 エバはぶどうを見つけた。

 おんどりが鳴く。

 犬が吠える。

 このような細切れの言語・文脈について、フレイレは次のようにいいます。

 《(それらは)たしかに言語の文脈である。しかしそれが機械的暗記や反復に堕するとき、その言語文脈は、現実とダイナミックな相互作用する思考―言語としての真の次元を剥奪される。このように思考 ― 言語としての価値を奪われているがゆえに、これらの文章は、真の世界表現たりえないのである》(「人間と世界のかかわりのなかで」)  

 ではどうして、世界を表現することのできない文章を用いるのでしょうか。それは被教育者のなかに物事(世界)を認識する力があると、教育者は見なしていないからだというのです。自分で考える能力が不在だとしかみていないというわけです。

 《この(細切れの文脈を教えようとする)著者たちは、単語を使って行うことをテキストに関してもくり返す ― つまり、学習者の意識がまるで空っぽの空間ででもあるかのように、そこにテキストを注入するわけである。これこそまさしく栄養消化の知識概念そのものであることを、再度強調しておこう》  

 「栄養消化の知識概念」とは「生徒は教師の選んだことばを詰めこまれるべきだ」という考え。

「生徒の意識は空っぽにさせられ、知るために知識を詰めこまれるか、食料を与えられる必要がある」というものです。知識というけれど、じつは石ころであるかも、ゴミであるかもしれませんね。

 対話のねらいは、どんな知識であれ(それが科学的・技術的な知識であろうと、あるいは経験的な知識であろうと)おのれの知識をその知識の源であり、かつまた、照射すべき対象でもある具体的現実とのかかわりにおいて問題化し、現実をより深く理解し、説明し、変革することにあるのである。

ブラジル北東部レシフェにて、フレイレは「識字教育」を農民に向かって実践します。(これに関してはいずれ述べる予定です。

 なるほど、4×4は16である。だがそれは十進法のなかでのみ真理であるのだとすれば、生徒は16という答えを唯一絶対のものとして頭にたたきこむべきだ、ということにはならないだろう。十進法の枠内でのこの真理の客観性は、再度問い直されることが必要なのだ。

 じっさい、学習、とくに子どもの学習において、現実との関連なしに、4×4を教えることは、まちがった抽象化となるおそれがある。(フレイレ)問題は児童とか生徒と呼ばれる人びとの現実をどのように見る(ことができる)かという、教師の側の姿勢・視線だと思う。農民に対する農業指導者のほとんどは、農民とは無知な存在であり自分たちが援助・教育してやらなければ救いようもないほどの愚か者だという徹底した蔑視であり、偏見をもっていたのです。

 これまで、この島に見られる教育の二つの流れ(スタイル)の一つ。「教師は話し、生徒は聞く」という「銀行型教育」という方法は、別名「垂直型教育法」でもありました。それは衰えることを知らずに、ただ今も繁殖中です。 

 教師が話している間、生徒は発言の機会を与えられません。問題は教師がのべつ話し続けているということです。つまり生徒は「あなた」の側におしとどめられ、「わたし」に交替するチャンスを奪われている点です。

 「人の話は黙って聞け」「よそ見をするな」このようにいわれない生徒はいませんね。例外はありますが、ほとんどの教室では生徒は発話・発言する権利を押さえられ奪われています。「わたし」は教師で、「あなた」の役を与えられた生徒は一方的に沈黙を強制されます。

 そのとき、生徒は教師の分身なんですね。教師のいったことをオウムがえしにくりかえす(リピート/repeat)だけなんですから。出された問題には正しい答はたった一つで、それを知っているのは教師だ、ということになってるでしょ。だから、子どもにとって「勉強」とは、教師の教えてくれる「正しい」答を憶える(リサイト/recite)ことに尽きるのです。鵜呑みにするということです。

 わたしたちは、「知ろうとする主体」(subject)と「その対象」(the object)があれば、the act of knowingは成立すると思いがちです。でもほんの少しばかり考えてみれば、それは誤りであることに気づかされます。

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「科学と技術がもたらすもの」再考

いったいなにが「嬉しい」のだろう。飛び跳ねるほど「嬉しい」という経験はぼくにはない。ぼくには何か足りないのかもしれないし、いや、「飛び上がって喜ぶ」奴の方こそ、あるものが欠けているに違いない。つまり「歴史観」「時代認識」がね、いったい、いま「五輪」に現を抜かすいとまがあるのか、という時代に。「コントロールされている」という fool のたれる「嘘」こそ「コントロール」すべきなのに。つける薬はなさそうですが、それでは衆生が困窮・迷惑するから、一瞬でも早く「消えてなくなれ」と願いますね。(何年たっても懲りない面々、面妖、面貌の開陳です)

 河北春秋 「そこまで見えを張って、オリンピックを開催する必要があるのか」。2020年の東京五輪が決まって程なく、いわき市に住む知人がメールで伝えてきた。招致関係者らの発言に怒る。「口先だけ」だと▼国際オリンピック委員会総会に出た安倍晋三首相は、福島第1原発の放射性汚染水問題が「コントロールされている」と断言した。次から次へと問題が起きているのになぜ? それが知人の言い分だ▼コントロールが本当なら朗報だが、福島県の海への汚染水流出はいつ収まったのか。ついぞ聞いた記憶がない。一体、誰が何をコントロールしていると言うのか▼「東京と福島は250キロ離れている」と発言した人もいた。仮に50キロだったらどう語ったろう。いかにも、ひとごとのようで被災地は遠くにかすむ。今のこの国では、福島はその程度でしかない▼知人の実家は、宮城県境に近い福島県浜通り地方の北部にある。ずっと国道6号で行き来してきたが、原発事故で不可能になった。真ん中辺りに福島第1原発がある▼夏の終わり、知人は許可を得て久々に車で走り抜けた。北へ向かううち、惨たんたるありさまに涙が出てきたという。国道の両側は不気味な沈黙。7年後、この地に人の声は響いているのだろうか。 (河北新報・13/09/14)

 余録 : 最近、原発事故や航空機・鉄道事故をめぐり「安全文化」という言葉をよく聞く。もし事故を起こせば多くの人命を脅かす企業や団体に、安全を守る文化がどれだけ根づいているかを問う言葉である▲この言葉は22年前に国際原子力機関(IAEA)がこう定義した。「安全にかかわる問題に最優先で臨み、その重要性に応じた注意や気配りを払うという組織や関係者個人の態度や特性の集合体」−−こむずかしいが、日本には「安全第一」という簡潔な標語もある▲同じ機材、訓練マニュアルを使う航空会社でも社により事故率が40倍も違うのは「安全文化」の差という(J・リーズン著「組織事故」)。では同じ国鉄を母体としながら、走行距離あたりトラブル発生数が他のJR各社の2〜4倍というJR北海道の場合はどうか▲もちろん寒冷地の北海道だけに、高いトラブル率も仕方ない面はあろう。だが検査で分かった線路異常が1年間も放置されて脱線事故を招き、修復を「失念していた」と説明する会社の「安全文化」とは何なのか。驚くべきは放置箇所が260を超えていたことだ▲この事故直前には運転士が自分のミスを隠すため列車の安全装置をハンマーで壊していた事件が世人を仰天させた。また列車の発煙・出火トラブルも相次ぎ、国土交通省の特別監査の続くきのうも発煙騒ぎがあった。どうも「安全文化」の底が抜けてしまったらしい▲こうなったら他社の助けを借りてでも安全対策を一から立て直すことだ。ただしJR北海道の人々には忘れてほしくない。「安全文化」の最後のよりどころは鉄道人の意地と矜持であることを。毎日新聞・13/09/25)

「原発事故」は津波ではなく、地震によって起きた。発生直後に「ぼくはそう直感し、その後には言ったり書いたりした」ところが、残された公文書(政府筋や東電関係)では「地震発生時、1号機は直ちに制御棒が挿入され、設計通り自動で原子炉が停止しました。1号機は地震により外部電源を全て失い、復水器などは使用できない状況でしたが、非常用ディーゼル発電機が自動起動し、非常用復水器※1による炉心の冷却が始まりました。/しかし、地震から約50分後の津波とこれに伴う浸水により、非常用ディーゼル発電機やバッテリー(直流電源)、電源盤※2等すべての電源を失いました。全ての電源を失ったことにより、非常用復水器が機能を喪失し、高圧注水系も起動できなくなりました。加えて、監視・計測機能も失ったため、原子炉や機器の状態を確認することができなくなりました。この後、圧力容器内の水は蒸発し続け、約4時間後、燃料が水面から露出して、炉心損傷が始まります」(東電記録;https://www.tepco.co.jp/nu/fukushima-np/outline/2_3-j.html
 福島第一原発は、津波の襲来前に、地震動で壊れたのであって、事故原因は「津波」ではなく「地震」だった――“執念”とも言える莫大な労力を費やして、そのことを明らかにしたのは、元東電「炉心専門家」の木村俊雄氏(55)だ。/木村氏は、東電学園高校を卒業後、1983年に東電に入社、最初の配属先が福島第一原発だった。新潟原子力建設所、柏崎刈羽原発を経て、1989年から再び福島第一原発へ。2000年に退社するまで、燃料管理班として原子炉の設計・管理業務を担当してきた“炉心屋”である。
 東電社内でも数少ない炉心のエキスパートだった木村氏は、東電に未公開だった「炉心流量(炉心内の水の流れ)」に関するデータの開示を求め、膨大な関連データや資料を読み込み、事故原因は「津波」ではなく「地震」だったことを突き止めた。/「津波が来る前から、福島第一原発は危機的状況に陥っていた」/「事故を受けて、『国会事故調』『政府事故調』『民間事故調』『東電事故調』と4つもの事故調査委員会が設置され、それぞれ報告書を出しましたが、いずれも『事故原因の究明』として不十分なものでした。メルトダウンのような事故を検証するには、『炉心の状態』を示すデータが不可欠となるのに、4つの事故調は、いずれもこうしたデータにもとづいた検証を行っていないのです。(https://www.msn.com/ja-jp/news/national/

 原発汚染水:「流出、制御下にない」 小出氏が講演

 札幌市内で講演した小出裕章・京都大原子炉実験所助教=札幌市中央区で2013年9月14日午後9時ごろ、久野華代撮影 原発の危険性を訴えている京都大原子炉実験所の小出裕章助教の講演会が、札幌市内であった。小出さんは、東京電力福島第1原発事故による汚染水漏れについて、「2年半前の事故発生時からずっと流れ出ていた。(安倍晋三首相が説明した)コントロールされている状況ではない」と批判した。

 講演は14日、医療九条の会・北海道の主催で開かれ、会場の札幌市民ホールは1500人で満席となった。/ 小出さんは、福島第1原発の現状は「1〜3号機の炉心が溶け落ちて、今どこにあるのか分からない。火力発電所なら作業員が現場で調べて直せるが、原発は高い放射線量に阻まれ、どうなっているのかすら分からない」と指摘した。/ 一方、原発から出た放射性廃棄物について「(深地層研究センターのある)幌延町は処分場の最有力候補地。始末できないまま原発を続けてきてしまった。原発は事故がなくても悲惨だ」と述べた。/ 小出さんは人工衛星から撮影した地球の写真を示し、「日本は不夜城のように写っている。湯水のごとくエネルギーを使うのが良い社会なのか。限られたエネルギーをどう使うかを考え直すことが一番大事だ」と訴えた。【久野華代】(毎日新聞・13/09/17)

 旧聞は新聞でもあるという拙論を持ち出しました。今回は、それを三つも。

 自然科学・技術をつき動かすのは科学者(個人)や消費者(個人)ではなく、国家あるいは専門家集団(軍事や経済の部門)だという点も視野に入れて課題を検討したい。「市民の時代・市民の科学」というフレーズを、科学・技術のもたらした問題(課題)を考える際のキーワードにしたい。なぜなら、科学・技術は国境や人種・民族・宗教といった国家・地域主義をこえた課題を地球上の一人ひとりの「市民」に提示しているからです。これは文系理系には全く無関係。文系だって電気を使うし、車にも乗る。つまり、科学や技術と無関係には生きられない時代や社会であるという意味です。原理も仕組みも知らないままで、猫も杓子も科学技術品を使用している時代、日常の万般に危険は張り巡らされているのです。(アクセルとブレーキの踏み間違いが多発するのはどうしてか。老化のせいにしているが、もっと根っ子に主因があります)その他、無数の危険物に囲繞された島社会。

 もろもろが武器にも狂気にもなるような代物ばかりで、それでも「やっぱ、コンビニだな」かよ、といいたくなるね。原発事故から九年が経過し、五輪開催決定から七年後のいま、事故の後始末はほとんど進捗せず、荒廃と被害は増すばかり。また五輪は幸いにも停止(ほんとは中止です)状態。人智と人為の馬鹿さ加減はとどまるところを知らず。さらに崩壊へ一直線です。少しは賢くなりたのですが。一人一人は賢くもなりますのに、集団になると、どうして狂気が勝つのでしょうか。

 「迷つて来たまんまの犬で居る」(放哉)

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愚痴じゃなけれど 世が世であれば

大利根月夜(昭和十四年) 【作詞】藤田 まさと 【作曲】長津 義司 (唄 田端義夫)
 
あれを御覧と 指さすかたに
利根の流れを ながれ月
昔笑うて ながめた月も
今日は 今日は涙の 顔で見る
 
愚痴じゃなけれど 世が世であれば
殿のまねきの 月見酒
男平手と もてはやされて
今じゃ 今じゃ浮世を 三度笠
 
もとをただせば 侍育ち
腕は自慢の 千葉仕込み
何が不足で 大利根ぐらし
故郷(くに)じゃ 故郷じゃ妹が 待つものを

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 理由は定かじゃないんですが、やたらにヤクザ・侠客・股旅ものが好きでしたし、今でも好きです。この春にブログを始めた際には、「吉良の仁吉は男じゃないか」(人生劇場)と、仁吉を取り出してみました。理由は定かじゃない。「男心に男が惚れて」というのは「名月赤城山」です。これは国定忠治・やはりやくざ者です。ぼくの意識にはいつも「やくざ」「侠客」たちが目白押しです。幼少の頃の楽しみが、まずラジオ、それに落語、浪曲、講談といった演芸が常備していました。学校に上がる前から、それに親しんでいたのが、いまに尾を引いているのかもしれない。

 なにか「部外者(アウトロー)」へのシンパシーがあるのかどうか。自分には判然としません。浪曲のある件(くだり)なら、いまでも相当に記憶しています。また、戦前の歌謡曲の十中八九は覚えています。他の記憶力はからっきしダメなんですが。拗ね者もアウトローも、出世はできないというか、世に入れられること自体が堕落じゃ、という気性で、それは大いに性格によるのではないでしょうか。

 この「大利根月夜」の歌詞(藤田まさと・1908-1982)がいいですね。藤田さんの詞であれば、なんでも結構だという気になります。「岸壁の母」なんかどうです。この平手造酒(ひらてみき)の生きざまを見ていると、ぼくは妙に尾崎放哉を重ねてみたくなるのです。山頭火じゃダメ。なぜでしょうか。どうしようもない「寂寥感」が放哉をつかんで放さない。「愚痴じゃなけれど 世が世であれば」と、放哉は何度嘆いたことか。「もとをただせば 侍育ち」とおのれの経歴を誇った時代もあった。それもこれも、いまでは夢幻の如くに雲散霧消。「一つの湯呑を置いてむせてゐる」「やせたからだを窓に置き船の汽笛」(放哉さん最晩年の作、といっても四十一歳でした)などと、いかにも恬淡として詠う風情、だったかどうか。

 なぜ、世を拗ねるか。拗ねなければおられない理由は人それぞれであり、拗ねる形もまた千差万別。ぼくなどは人一倍「ひねくれ」だから、この「拗ね者」の心持がわかる気もするのです。素直じゃないのはいけないか。素直でなければならないか。己に正直に生きれば、拗ねたり、ひねくれたりするのもまた、人の世の常とも言えませんか。正直だからこその、拗ねる・捻(ひね)くれるなんだな。(以下は、放哉の終焉地の、小豆島時代の三句)(右は従妹の澤芳衛。放哉は結婚を望んだが、彼女の親に反対され、大いに挫折したとされる)

爪切つたゆびが十本ある

鳳仙花の実をはねさせて見ても淋しい

入れものが無い両手で受ける

● 平手造酒(ひらてみき)=生年不詳 没年:弘化1.8.7(1844.9.18) 江戸後期の博徒の用心棒,無宿浪人。本名は平田深喜。名は深木,三亀とも書く。一説には流浪の末,下総国香取郡(千葉県)の名主に身を寄せ,剣術道場を開いていた浪人といわれる。天保15(1844)年利根川河原での博徒笹川繁蔵一味の召し捕りにからむ飯岡助五郎との出入りに際し,繁蔵方の助っ人として加わり斬死したとされる。後年の講談,浪曲の「天保水滸伝」では江戸お玉ケ池の千葉道場仕込みの北辰一刀流の使い手にして病の末の素浪人として描かれ,繁蔵,助五郎に劣らぬキャラクターとなって人気を博した。(高橋敏) 朝日日本歴史人物事典の解説

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歴史はくりかえすのではない

【6月19日 AFP】米交流サイト(SNS)大手フェイスブック(Facebook)は18日、今年の米大統領選で再選を目指すドナルド・トランプ(Donald Trump)大統領の陣営が同サイトに掲載した広告について、ナチス・ドイツ(Nazi)が政治犯に対して使った赤い逆三角形のシンボルを使用したことを理由に取り下げたと発表した。(AFP/2020年6月19日 5:38 発信地:サンフランシスコ/米国 [ 米国 北米 ])

 各地で「コロナ禍」が終息を見ていない現在、それぞれの地域の政治家は自らの政治生命に複雑な思いをいだいているだろうし、その取り巻き(支持者)もまた、利害が直に自分に及ぶとなると安閑とはしておられないというのも無理からぬ情念です。西に東に「政治家」の悪意や「取り巻き」の追従はとどまるところを知らないようです。ここでもまた、悪夢はくりかえし、歴史は再現させられる。過去よりももっと悪質に、残虐に、凄惨に。(一人の在日アメリカ人が言っていました、「トランプは自分(再選)のためなら、何をするかわからない、ホントに怖い」と。「選挙に負けても、退陣しないかもしれない」とも。「戦争だって起こしかねない」という恐怖を、真顔で語っていました。

 すごい人物が「指導者」になってるんだね。けっしてアメリカに限らないのが、現下の危機そのものです。東の島では「夫婦政治家」が逮捕された。この狐もどきとタヌキもどきに年間五千万からの歳費だって。気前がいいね。

 歴史はくりかえす、と言われてきました。実はそうではないのです。歴史は同じ地面の上(地上)を回っているのです。ある種の merry & hell-go-round なんだね。同じものが回っているだけなんです、衣装や姿を変えることはあっても。

Mr & Mrs, Please take a rest at the detention center.

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