「憐憫・惻隠・不愍・忠恕」などなど

◎ 週の初めに愚考する(九拾肆)~ 天気予報通りに、朝5時半時過ぎから、かなり強い勢いで雨が降り出しました。パソコンを使っている室内は気温が15℃、湿度は63%です。肌寒さを感じるほどで、油断すると風邪を引きそうです。いつも通りに早く起きて、猫たちに食事を与え、外にいる猫にも与え、さてこれからと各紙の「コラム」を読みだしているのです。よほどのニュースでもない限り、何時も各紙のコラムを順繰りに読んでいきます。まったく、興が湧かない日もあれば、どういう風の吹き回しか、いくつも読み応えのあるコラムに出会うこともあります。本日はまさに、そんな日でしたね。だから「雨が降ってきた」ということでしょうか。

 (朝5時に、当日の「コラム」が揚げられている新聞は、せいぜいが一紙か二紙。いろいろと「お家の事情」もあるのでしょう。それにしてもフットワークが重いですね、。各社はネット時代の「とばくち」にも立っていないと思う。加えて、ネットのモニター(画面)には、まったくの無秩序状態そのままに、さまざまな「宣伝・広告」が「神出鬼没」と言うのか、「乱暴狼藉」と言うべきか、出鱈目の限りで出放題・出し放題です。日に日を次いで乱脈・乱雑、実に酷くなっています。「広告・宣伝」カットのアプリもお手上げ。さらに最近ではショート動画などに、AI(sora)を使った偽造動画が溢れ出しています。さりげなく流しているものを含めれば、数限りなく、粗悪品が入り混じっているという出鱈目さです。この「無秩序(disorder/confusion/chaos)」を、いったい誰が責任をもって整理・規制するのでしょうか。このいいかげんな状況が続くようなら、今後、ぼくはパソコンを一切使わないことにしようと決めています)

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 ぼくは自分では「ノンポリ」だと自認はしているのですが、この国の現状政治に不満がありすぎるのか、いやもっと根本には「政治家」に対する嫌悪すら感じているのでしょうか、ほぼ「政治」の話にかかりきりになっている自分に、何とも言えない驚きと共に、強い「嫌悪感」をもってしまいます。昨夜は米国・ニューヨーク市長に34歳のイスラム教徒で移民者のマンダニ氏が選出されたという報道について、どういう事態が生じているのかという関心をもって、現地(から)の報道を見ていました。移民に対する嫌悪・排除の姿勢を隠さない現大統領の扇動に乗って「移民排斥」「人種差別」「アメリカ第一」を主張する向きがアメリカでも主流だとみられて来ましたが、ここにきて、どうも「潮目」が替わった、こんなひどい大統領の為すがままでいいのかどうかという、選挙民の覚醒が今回のアメリカ第一の市長選挙で生じたのだと、そんな意見が多数でした。「新市長」の存在そのものが、明白なアンチ D.T. となっている。アメリカの政治の現状は、まるで中世の「魔女狩り(witch hunt)」ーーもちろんアメリカには「中世」はないのですから、「移民排除」を「魔女狩り」と位置付けることはできないーーそんな時代錯誤の政治風潮が流れていましたが、この「狂った季節」もようやく曲がり角に来たという感慨を、ぼくは持ちました。

 「インド出身の政治学者マフムード・マムダニ教授と映画監督ミラ・ナイル氏を両親に持ち、アフリカのウガンダで生まれ、7歳からニューヨークで育ったマムダニ氏は、民主社会主義者を自称する。選挙戦では、「手が届くこと(affordable)」を中心メッセージに掲げた。そして、高額所得者や企業に新たな税金をかけ、それを原資に社会プログラムを拡充すると公約した。/数カ月前まではほぼ無名のニューヨーク州議会議員だったが、インターネットで選挙運動が盛り上がり、夏の民主党予備選で勝利した。/マムダニ氏の選挙運動は、ドナルド・トランプ大統領を含め、全米から大きな注目を集めてきた。トランプ氏は投票前の数日間、マムダニ氏を共産主義者と呼び、同氏が勝利した場合はニューヨークへの連邦補助金を差し止めると脅した。/トランプ氏は4日夜、共和党候補が敗北したのは連邦政府の一部閉鎖と、自分の名前が投票用紙になかったせいだと、ソーシャルメディアへの投稿で非難した」(BBC NEWS JAPAN・2025/11/05)(https://www.bbc.com/japanese/articles/c4gkwxnvynxo

 翻って、本邦はどうか、と振り返れば、ここはまさに「中世」への逆流現象のような動きが顕著に見られます。それを仮に「バックラッシュ」と評したらどうでしょうか。「1 はね返り。後戻り。揺り戻し。反動。2 政治的・思想的な激しい反発、反感。3 歯車の間のすきま」(デジタル大辞泉)「揺り戻し」とか「反動」という以上は、その「対象」「目標」があるはず。共産主義に対して、いわれなき拒否反応を示す、アメリカ大統領を頭目とする「政治勢力」は「保守反動」と呼ばれます。「共産主義の何が悪い」「社会主義でなぜいけないのか」と言う、まともな自己主張の前で、「保守反動」は何を、どうするのか、そんな問題が起きてきます。「リベラル」に対する「反動」がやたらに目につきますね。「リベラルのどこがアカンちゅうねん」と、言論をもって、腰を据えてま向かう必要があるでしょう。

◎ 「backlash」は「反動」「跳ね返り」や「反発」「反感」という意味の英単語である。ロープなどの物理的な反動だけでなく、政治的・社会的な出来事に対する強い反対も含んでいる。特に近年はSNSの発達やマイノリティの権利向上、人権意識の高まりなどで、後者の意味で使われる場面が増えている。この場合、「reaction(反発)」「counteraction(反動)」「resent(憤慨する)」などに近いニュアンスとなる。機械工学などの分野では「がたつき・きしみ」「緩み・遊び」という意味で使用される。品詞は名詞である。不可算名詞として扱われることが多いが、具体的な事例を説明する場合などは可算名詞として扱われる。(実用日本語表現辞典)

 我が社会でも、「男女共同参画」社会、「性別役割分業」の否定、「LBGTQ」の権利の主張、「ジェンダー制度」の是正、「高齢者世代」へ攻撃との排除、「生活保護受給者」への不寛容などなど、あらゆる方面における「政治的平等」の達成、「格差温存」の廃止や是正などが進めば進むほど、実は「バックラッシュ(反動)」が生じるのでしょう。その反動の立場・政治的主張には十分な根拠がないことがしばしばです。「外国人排除」などはその典型。外国人が増えれば「犯罪」が増加するなどと言うのは、俗耳には入りやすいだけに、容易に政治マターとして主張されやすいともいえます。これらの問題の多くは「人権問題」に数えられますし、そのような「人権擁護」「人権尊重」の態度(姿勢)に、なぜだか、快く思わない人々が腐るほどいるということですが、ぼくにはよく理解できない、そんな人々がまき散らす「無知」が蔓延しているのだと思う。適切な表現ではないでしょうが、「明日は我が身」と想像すらできない人が多すぎるということですね。

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 以下の【日報抄】の記事を読んでください。ぼくはサンドウィッチマンは知っていますが、この「番組」は見たことはない。コラム氏は言われます。「言葉や表情にわざとらしさがない。果てしなく沈んでいきかねない話題にも淡々とユーモアをまぶした言葉で応じ、笑顔を引き出す。見る側は泣きながら笑ってしまう▼言葉の力を思う」と。何でもない言葉が、思わぬ力を示すことがあります。いつも心することです、言葉は人を励ますこともあれば、傷つけることもある。同じ言葉一つ、使い方を誤れば本来の意味を損ねて、聞く人を悲しませ、苦しませもするのです。ぼくはしばしば「君はホットカーペットみたいだ」と言われたことがあります。もちろん過分の言辞だと受け止めましたが、そのような温かさを失わない「ことば」や「態度」で人と交わりなさいよという、ありがたい忠告だったと、今でも思っている。寒ければ寒いほど、「炬燵(こたつ)」や「ホットカーペット」があれば、ありがたいですね。さらに言うなら、「囲炉裏(いろり)の熾火(おきび)」のような柔らかい暖気(warm air)をなくさないようにしたいですね。

【日報抄】不定期放送なので、視聴するのはいつもたまたま。なのに吸い寄せられるように見ている。NHKのテレビ番組「病院ラジオ」は、お笑いコンビのサンドウィッチマンが各地の病院を訪ねる企画だ。闘病している患者やその家族らの話に耳を傾ける▼好感度を測るビデオリサーチ社のイメージ調査男性部門で、このコンビが大谷翔平選手らを抑えて14連覇していることに納得がいく。深刻で切実な事情を抱える人と向き合うときの距離感に敬服する。東日本大震災の被災地でもそうだった▼言葉や表情にわざとらしさがない。果てしなく沈んでいきかねない話題にも淡々とユーモアをまぶした言葉で応じ、笑顔を引き出す。見る側は泣きながら笑ってしまう▼言葉の力を思う。その影響力にたじろいだのは先日、新潟市で開かれた公的扶助研究全国セミナーでのこと。生活保護受給家庭で育った20代女性が、精神疾患のある母親との2人暮らしを語った▼幼少期からあらゆる辛抱を重ねて母を支えてきたという。ある夜、パニック障害で救急搬送された病院に付き添った。そこで言われた。「もっとお母さんの面倒見てあげなよ」。無理解が胸を刺した。自分の存在を否定された気がした▼かといえば、こんな日も。役所で平静を失った母親が大声を出した。職員が女性にささやいた。「大丈夫だよ。みんな分かってるから。大変だったね」。温かかった。「言葉は人を殺しもするし、人を明るく照らして救いもする」。女性はそう語っていた。(新潟日報・2025/11/09)

 深く考えたことはありませんが、なぜかしら何となく好きな言葉がいくつもあります。「惻隠の情(心)」とか「憐憫の情」もそれらの一つです。特に「惻隠の情」については、若い頃に「孟子」に出会って以来、よく考えもしないうちに心にこびりついてしまいました。「中国,儒教の主張の一つ。孟子によれば,人の身体に四つの手足があるように,心のなかにも惻隠(そくいん)(あわれみいたむ心),羞悪(しゆうお)(悪を恥じ憎む心),辞譲(譲りあう心),是非(よしあしを見わける心)の四つが本来的に備わっていて,これら四つの芽生え(四端)を,それぞれ仁,義,礼,智という完全な徳へとたいせつに育てあげねばならないという(《孟子》公孫丑上篇)。朱熹は仁義礼智を〈性〉(本性)とし,〈四端〉とはそれらが〈情〉として外に現れ出た〈緒〉(端緒,いとぐち)だと解釈する(《孟子集注(しつちゆう)》)。…」(世界大百科事典・旧版)

 社会の中から、このような「心」「情」というものが失せるとなると、ひとえに他者との競争に走るほかないでしょう。弱肉強食(law of the jungle)、優劣(quality)をめぐる他者との争闘です。今時の社会に、最も欠けているのが、「熾火(おきび)」のような柔らかい暖かさですね。器械に必要な「グリース(grease)」、つまりは潤滑油のようなものです。いまはこの「熾(お)き」はほとんど見られなくなりました。(おき【燠・熾】 赤くおこった炭火。おきび」デジタル大辞泉)

 (「子曰、「人皆有不忍人之心。先王有不忍人之心、斯有不忍人之政矣。以不忍人之心、行不忍人之政、治天下可運之掌上。所以謂人皆有不忍人之心者、今人乍見孺子將入於井、皆有怵惕惻隱之心。非所以內交於孺子之父母也、非所以要譽於鄉黨朋友也、非惡其聲而然也。由是觀之、無惻隱之心、非人也。無羞惡之心、非人也。無辭讓之心、非人也。無是非之心、非人也。惻隱之心、仁之端也。羞惡之心、義之端也。辭讓之心、禮之端也。是非之心、智之端也。人之有是四端也、猶其有四體也。有是四端而自謂不能者、自賊者也。謂其君不能者、賊其君者也。凡有四端於我者、知皆擴而充之矣、若火之始然、泉之始達。苟能充之、足以保四海。苟不充之、不足以事父母。」「『孟子』35公孫丑上」)

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法螺吹きが鳴らす「犬笛」って?

【斜面】誰でも聞こえる犬笛 犬笛は人に聞こえない高音を出す笛。周囲の邪魔にならず犬を訓練するのに使う。転じて特定の集団のみが意味を理解できる言葉も「犬笛」と呼ぶ。問題なのは、政治家などが中立に見える言葉で真意を隠し、支持者を誘導する行為だ◆始まったのは1960年代の米国とされている。公民権運動で人種差別的な言葉を公にできなくなる中、政治家が巧みに意図を伝える手法として広まった。対立候補の政策をゆがめて黒人優遇策のように思わせて、支持率低下を図った手法などが有名だ◆以来約60年。トランプ米大統領ら政治家が支持者をあおって、敵を攻撃させる犬笛が目に余る。今回も典型か。日本維新の会の藤田文武共同代表だ。公設秘書が代表の会社への税金還流疑惑で、報じた共産党機関紙しんぶん赤旗記者の名刺の画像を反論とともにSNSに公開した◆氏名や職場の住所、電話、ファクスが明瞭だ。藤田氏は「公開情報」とするが、電話などの個人攻撃を誘発する意図は犬笛ならぬ「号令」に近い。個人情報をさらすことで取材を萎縮させ疑惑も曖昧にする。連立与党代表の行動として妥当ではあるまい◆昨年の兵庫県知事選では候補者に根拠なく批判された県議が個人攻撃されて、自殺する事態も。言語哲学者ジェニファー・ソール氏は著作で、政治家は犬笛を指摘されても「否定する」とした上で、対抗措置として、犬笛に気がついた側が問題を訴え続けることを挙げる。忘れずにいたい。(信濃毎日新聞・2025/11/08)

 当の政治家の記者会見(4日)なるものを見ました。どういうつもりで会見を開いたのか、ぼくには「開き直り」「恫喝」「発言(取材)封じ」という、仕返し宣言に聞こえましたし、見えました。つまり、連立与党の一方の代表は「墓穴を掘る(digging one’s own grave)」という勇ましい、けれども演技を間違えた「舞台」を公開したということでした。「犬笛」ならぬ、「負け犬の遠吠え」でしかなかったと思う。自らの公設秘書(公務員)が代表をしている「会社」に、いわば「公金(税金)」を、判明している分でだけで、およそ2千万円超を支出していたというのは、裏金作り(公金流用)ではなかったかという疑いがあるという報道に、ほとんど解明の姿勢がないままに、「赤旗記者は共産党員」、「しんぶん赤旗は機関紙」、「記者の取材は犯罪(不法侵入)に当たる」など、言いたい放題の八つ当たりをした挙句に、疑惑を一層深めるだけの「努力」をされたわけ。「墓穴を掘った」と言う所以です。こんなのが「政治権力」にありついているのですよ、大阪府の有権者さんたちよ。(ヘッダー写真は「維新」:https://youtu.be/T9fZw-5LHmk?si=YqrmijapdsH0g8Ch)(「諸君、狂いたまえ」は吉田松陰の言とされるが、出典不明。松陰は確かに「狂っていた」けれど、だからといって、公党代表が「狂いたまえ」と、自他に「狂人のすゝめ」を命じてどうするんです?)(この「政党ビラ」も、問題の公設秘書氏が代表の「会社」を経由して作られたものだったのでしょうか)

 地方の一政党ではなく、国政を担う「連立政権」の一翼を占める公党の代表にしては、珍しく「押し(ドス)が利いた」出(いで)たちと振る舞いでした。「いでたち」という語には「立身出世」「栄達」という素晴らしい、晴れがましい意味も含まれているんですね。菊池寛だったかは「末は博士か大臣か」という書を遺しましたが、その例えで言うなら、この御仁、教師をしていた経歴もあり、会社経営もされていたというのですから、「末は校長か、大社長か」というところでしたが、あるいは、今や文字通り「大臣・総理大臣」も夢ではないところまで上り詰めた逸材。兄ちゃん、こんなところで「墓穴」を掘っててええんけ。(それにしても、言うこと、為すことが汚いし、セコイよ。国会議員がここまで堕落しきってしまうと、もう手に負えないというか。「叩けば埃(ほこり)が出る」とも、「脛に傷もつ」とも言いますが、これ以上、埃も傷も見たくない、早く身を引いてほしいね、という気になっています)

 ある評論家は、この政党紛(まが)いの、維新集団を「半グレ」と名付けている。連立のもう一方は「やくざ」とも。したがって、くだんの評論家・K氏の説によると、この国の政治は「やくざ」と「半グレ」によって牛耳られていることになります。なさけないけれど、「その通りである」とぼくも納得しますし、それに加えて「反社カルト集団(N党)」と「反社カルト教団(旧統一××)によりかからなければ立ちいかなくなっている政党同士。深刻を通り越して、重篤な病(大和狂う病)に罹患、回復の見込みが立たないというべきか。それはすなわち、この日本の病状でもあります。

 最近、やたらに耳にする「犬笛」という言葉。兵庫県のS知事が、本来の意味を持たせて使っていると、誰にも分るように指摘したのは、おそらくネットメディアの一つであるA.T.の編集長Oさん(元朝日新聞社員)だと思います。兵庫県では現知事が職員の訴えた、知事による「パワハラ問題等」を「公益通報」と認めないどころか、直ちに通報者を探し出したうえで、停職処分にしたことから異常事態は始まりました。(「通報者」だった県職員は、その後に自死された)県知事は「公益通報者保護法」の主旨(理念)を一切認めず、自らの正当性をひたすら主張するだけの姿勢を一貫して取り続けている。その理由は、この知事を熱烈に支持する硬軟両派の応援があるからです。さまざまな機会に知事は事実(真相)の解明を求められながらも、終始それを拒否し、有象無象の支援者に向かって「犬笛(並の人間には聞こえない超音波)」を鳴らし続けてきました。その効果(悪影響)もあってか、すでに何人かの犠牲者(「公益通報者」を含む)が出ています。この知事の姿勢や態度は、思わぬ影響力を持って、劣島の多方面に「犬笛」現象を齎してきました。(紛れもない犯罪者です。この知事も「維新」一派の半グレ、いや全グレですかね)

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◎ いぬ‐ぶえ【犬笛】1 犬などの動物の訓練に用いられる笛。人間の可聴音よりも高い周波数の音を出し、目的の動物だけに聞かせることができる。2 (比喩的に)政治家が、特定の支持層だけに分かる言い回しを用いて、思考や行動を操作すること。「犬笛政治」(デジタル大辞泉)

 「犬笛が発することのできる音の周波数の範囲は、人の可聴範囲を大きく上回っている。概して、犬笛は16,000Hzから22,000Hzの音を出せるが、人の耳は良くて20,000Hzの音まで[1]しか聞き取ることができない。犬笛の中には、発する音の周波数を任意の高さ(音高)に変更できるように、スライド式の調節機構が備わっているものもある。しかしながら人に聞こえる音を出さないように調節すると遠くまで届かず、また障害物や高低差にも弱くなるので、実用になるのは人にも十分聞き取れる程度の周波数域である」(Wikipedia)

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 とするなら、S知事の熱烈支持者は数多の「犬(=兵庫犬)」ということになります。この狭い劣島にはあらゆる種類の「犬たち(「兵庫犬」を筆頭に)」が競合していることになりませんか。政治家一人一人も「自分流の犬笛」を持っているし、あるいはネット番組(YouTube)の主催者のかなりな部分も犬笛・猫笛・豚笛を鳴らしたり、吹いたりしているのが今日の状況。メディアを含めて、さまざまな界隈では、日常的に「犬笛」は吹かれ続けているのでしょう。なんとも煩(うるさ)いし、耳障りでありますね。犬族にしか聞き取れない音波を出すのが「犬笛」とされていますが、今では、誰彼なしに、聞く耳を持たない者にまで「鳴り響く」のですからたまらない。まるで劣島は「騒音公害」圏(地滞)だし、同じように各国・各地で「犬笛」「人笛」が吹かれたり、叩かれたり、それが 21世紀 霜月半ばのリアル(状態)。これ以降、更に激しい「犬笛合戦」「人笛合戦」になることは避けられそうにありません。

「犬笛」含む投稿、昨年末から急増 「使われ方が大きく変化」指摘も 1960年代の米国で使われ始めたとされる政治手法を指す「犬笛」という言葉が、兵庫県知事選があった昨年11月以降、X(旧ツイッター)上の投稿で多用されている。今年に入って増加が顕著で、県知事や政治団体代表、死亡した前県議らと関連づけた投稿が目立つ。犬笛は「分かる人には分かる言い回し」を使い、政治家が特定の層に暗にメッセージを届ける手法とされるが、専門家は「最近は使われ方が大きく変わった」と指摘する。/犬笛(dog whistle)は、人間には聞こえない周波数を出す犬の訓練用のホイッスルになぞらえた言葉。米国では人種やジェンダーといった差別意識を、露骨ではなく隠語などを用いてあおるもので、好ましくない政治戦術と評価されてきた。(以下略)(朝日新聞・2025/04/30)

 (社説)秘書企業へ発注 維新「身正す改革」こそ
 
 高市首相率いる自民党と連立政権を組んだばかりの日本維新の会の藤田文武共同代表に、「政治とカネ」をめぐる問題が浮上した。
 公設第1秘書が代表を務める会社に、ビラやポスターの印刷などを発注し、税金を原資とする政党交付金や調査研究広報滞在費などから約7年半にわたり、計約2千万円を支出していた。/藤田氏は「実態のある正当な取引」で「適法」だと強調するが、身びいきであり、公金の私物化と見られても仕方あるまい。維新は立党以来、「しがらみのない政治」「身を切る改革」を掲げ、衆院議員の定数削減を迫っているが、まずは自らの「身を正す改革」が必要ではないか。/問題は「しんぶん赤旗日曜版」(電子版)が先週、「身内へ税金還流」などと報じた。藤田氏はすぐに反論を公表したが、今週の定例会見まで、記者の質問に直接答えることはなかった。秘書の会社は実際の印刷を別の業者に外注していたが、利ザヤがどの程度あるのかなど、具体的な契約内容を明かすこともなかった。説明責任を軽んじていると言わざるを得ない。/藤田氏は同紙を「共産党のプロパガンダ紙」と断じ、「報道ではなく政治的主張」などという。確かに同紙は政党の機関紙であるが、安倍政権下の「桜を見る会」や自民党の派閥の裏金をめぐる疑惑を掘り起こすなど、報道機関としての役割を果たしてきたことは紛れもない。/見過ごせないのが、取材した記者の名刺をSNS上で公開したことだ。携帯番号やメールアドレスの一部はぼかしているが、氏名や編集部の電話番号などはそのままだ。記者への個人攻撃や嫌がらせを誘発しかねず、自身に批判的な報道を抑えようという意図が透けて見える。ただちに画像は削除すべきだ。/維新の吉村洋文代表(大阪府知事)は党の内規を改め、秘書が代表を務める会社などへの公金支出を禁じる考えを明らかにした。法令違反はなくとも、適当ではないと自ら認めた格好だ。/維新をめぐっては、両院議員総会長も務めた石井章前参院議員が9月に、国から秘書給与を詐取した罪で在宅起訴されている。身を切る改革という旗印はかすむばかりだ。/藤田氏は会見で「法的にはどこから切り取っても適正だ」と強調したが、違法でなければよいという姿勢で、国民の幅広い信頼を得ることができるだろうか。連立与党として、政策決定に深くかかわる立場になった。その責任の重さを自覚せねばならない。(朝日新聞・2025/11/07)

 「法螺吹き」が吹く・鳴らすのは「犬笛」ではなく「法螺貝」でしょ。つまりは「法螺吹き」と言う如く、一生懸命に、嘘やでたらめを口走ることです。黙って聞いていれば、とんでもない出任せを言い募る、これが今日の政治家ですか。すべてがそうだとは言いませんが、それでも大部分はそうだ、とは言えるんじゃないですか。この半グレ的集団に、どれほどの「グレた議員」が所属し、「出禁」ならぬ「除名」「離党勧告」されたか、何人かまでは覚えていましたが、今では数多くとしか言いようがありません。それにしても酷い、酷すぎですよ。これはすべて学校や家庭の(責任)問題だと言ってしまえないところに、今日の危機がありますね。学校教育の「成果・結果」を受けて家に、社会に、と卒業生は足を置いて活躍する。とするなら、今日の「点取り競争」オンリーの学校教育がその、大きな一因になっていると言わざるを得ないのではないですか。こういう「半グレ」や「やくざ」な連中が「日本を変える」とか、「日本を取り戻す」と言う、まるで大きな笊に水が一杯溜まるというような「理不尽」極まる、ブラックジョークではないでしょうか。

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「力による(ノーベル)平和(賞)」を

【余録】決して悪口を言わない女性に「悪魔をどう思うか」と聞くと「とにかく勤勉です」。欧米に古くから伝わる小話らしい。日本初のノーベル賞受賞者、湯川秀樹博士は米国の科学者から聞いたそうだ▲開催地のカナダの地名を冠した1957年の第1回パグウォッシュ会議。米ソの核開発競争に危機感を募らせた2賢人が55年に発表した「ラッセル・アインシュタイン宣言」を受け、宣言に署名した湯川博士ら世界の科学者が集まった▲「知らず知らずの間に、勤勉な悪魔の側になってしまいそうなのに気がついた人々」が「お互いに天使の味方になろうと呼びかける」「控えめながら、そういう声が発せられた」と湯川博士が振り返っている▲広島・長崎への原爆投下から80年。広島市で開かれたパグウォッシュ会議の第63回世界大会が閉幕した。来日したトランプ米大統領が「核兵器実験」を指示したばかり。その人を被爆国の首相がノーベル平和賞に推薦するという。悪い冗談のような話である▲「核爆発を伴わない」と釈明しても核廃絶の願いに背を向けることに変わりはない。ロシアも核の威嚇をためらわなくなった。中国も核兵器増強を進める。終末時計の残り時間は50年代よりも短い▲「核のタブー」が脅威に直面している。採択された「広島宣言」には危機感がにじむ。「悪魔は勤勉」。湯川博士は晩年まで口癖のように語っていたという。宣言がうたう科学者と市民社会の連携で核廃絶を願う側の勤勉さがより勝ることを示したい。(毎日新聞・2025/11/06)

 「なんとかに刃物」という。T大統領に「核ボタン」とくれば、「鬼に金棒」ではなく、「なんとかに…」とは、まさにその通り、「ご名答」となるでしょう。本邦の故元総理は、ある時期から「積極的平和主義」を叫び出していました。「武力をかざす平和」がどんなものか、ぼくは恥ずかしながら知らないままで生きてきました。武力を用いて、あるいは軍事力を翳(かざ)して「和平を」という流儀は何時の世にものさばっている「悪い冗談」、しかし「嗤えない冗談」であるのは否定できません。それに事寄せて、「集団的自衛権」など、まるで「コバンザメの短慮」みたいなもので、それで何をしようというのでしょうか。親亀がこけたら子亀がこけるから、どちらもこける前に、敵を殲滅しようではないかという、子亀の質の悪い、寸足らずの知恵の齎したものです。(やがて、この小国も「核」を保有し、「原子力潜水艦」を所有し、あの国この国の「能天気な為政者の如く」に「核を弄ぶ」ことは請け合いですから、そうなる前に、手を打ちたいもの)

 悪い冗談、しかし嗤(笑)えない冗談が世界中で罷り通っています。昨日の毎日新聞のコラム「余録」を読んで、改めて「智慧のなさ」と「自己主張(宣伝)」が合併すれば、どんな恥ずかしいことも、どんな軽薄なことも「自分には正義」に見えるのだと思った途端に、ぼくの背筋が凍り付くのです。「広島・長崎への原爆投下から80年。広島市で開かれたパグウォッシュ会議の第63回世界大会が閉幕した。来日したトランプ米大統領が「核兵器実験」を指示したばかり。その人を被爆国の首相がノーベル平和賞に推薦するという。悪い冗談のような話である」とコラムは書く。「悪い冗談のような話」などではなく、「悪い冗談」そのものだとどうして断言しないのでしょうか。「奈良女」を応戦し手前からの手加減なら、余計なことですが、もうこのコラムの担当を下りたらどうです。(二人前の)首相(広島選出議員でもある)は、広島の地で「核の抑止力」を強弁し、「核兵器禁止条約」(2017年採択)へのオブザーバーでの参加すら拒否しました。米国という「地雷(landmine)」を踏むことを恐れた「核の抑止力」とは、当たり前に言うなら「核の脅迫力」であり、「脅しとしての核保有」でしかないのですよ。

 悪い冗談の見本である「軽薄な言動・振る舞い」をものともしない本邦初の女性首相は「かつてない歴史的偉業だ。これだけの短期間に、世界はより平和になった」という歯の浮く言葉で白々しくも「嘘飾」を真顔で受け止めたうえで、「授賞推薦」を伝えたというのだから、心が寒くなるというほかありません。横須賀の米軍基地での燥(はしゃ)ぎ様はなかったのは周知の事実でしたが、その前景にも後景にも「力による平和(PEACE THROUGH STRENGTH)」と大書した標語が掲げられていました。T 首相は、国会議員になりたての頃だったか、時の総理大臣に「勝手に謝罪しないでください」と、「村山談話」(1995年8月)を厳しく非難しました。もちろん「談話」は閣議決定されていましたし、そこに自民党の大臣も参画していた。ぼくは、こういう「居丈高な態度」をは取らない人間ですから、「勝手に推薦などしないでくれ」とは言うつもりはないどころか、(ノーベル賞委員会は)二つでも三つでも「平和賞」を呉れてやるべきだという意見の持ち主です。「力で平和が得られるならば、世界は軍隊で充満するだろう(If strength could bring peace, the world would be filled with armies)」。

 愚かなぼくの知能は、力(軍事力)ではなく、真正の智慧と誠意で行う交渉(交流)こそが、誰も傷つけない「和平」を生み出してくれると確信している。今日ただ今の世界に、心ある(勇気ある)智者は皆無かもしれません。「どうして君はそのように断言したがるのか」と問われそうですが、理由は単純明快です。智慧のないものが傍若無人にのさばりだしているからです。言うに事欠いて「力による平和」だと。この状態をたとえて、「鳥なき里の蝙蝠(こうもり)」と言いたいのですよ。「利己主義の権化」のような人物が、なぜだか【平和】【和平】を口にし、世界平和に貢献したいと、背後に武力をちらつかせながら、あるいはこれ見よがしに軍事力をかざして、そのように言う。「真実平和を願う人がいないところで、似非平和主義者がはばを利かせている」ということではないですか。「鳥なき里の蝙蝠=すぐれた人のいないところで、つまらぬ者が幅を利かす」(広辞苑)

 余計なことですが。「蝙蝠」は「翼手目の哺乳類の総称。前あしおよびその指が著しく発達し、これらと胴・後あし・尾との間にうすい飛膜が張って翼を形成する。視覚は鈍いが、声帯から超音波を発して、その反響を聞きながら障害物との距離をはかり、鳥のように飛び回る。夜行性。昼間は、後あしにある5本の指の鋭いかぎ状の爪で、木や岩などにぶら下がる。名は、蚊をよく捕食するところから、蚊屠(かほふり)と呼ばれたのが語源。(デジタル大辞泉)

しゅうだんてき‐じえいけん〔シフダンテキジヱイケン〕【集団的自衛権】=国連憲章第51条で加盟国に認められている自衛権の一。ある国が武力攻撃を受けた場合、これと密接な関係にある他国が共同して防衛にあたる権利。(→個別的自衛権) [補説]日本は主権国として国連憲章の上では「個別的または集団的自衛の固有の権利」(第51条)を有しているが、日本国憲法は、戦争の放棄と戦力・交戦権の否認を定めている(第9条)。政府は憲法第9条について、「自衛のための必要最小限度の武力の行使は認められている」と解釈し、「個別的自衛権は行使できるが、集団的自衛権は憲法の容認する自衛権の限界を超える」との見解を示してきたが、平成26年(2014)7月、自公連立政権下(首相=安倍晋三)で閣議決定により従来の憲法解釈を変更。一定の要件を満たした場合に集団的自衛権の行使を容認する見解を示した。武力行使が許容される要件として、(1)日本と密接な関係にある他国への武力攻撃により日本の存立が脅かされ、国民の生命・自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある(存立危機事態)、(2)日本の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない、(3)必要最小限度の実力を行使すること、を挙げている。(デジタル大辞泉)

◎ へいわあんぜん‐ほうせい〔‐ハフセイ〕【平和安全法制】=平成27年(2015)に成立した平和安全法制整備法と国際平和支援法の総称。日本および国際社会の平和と安全のための切れ目のない体制の整備を目的として、自衛隊法など10本の法律を一括改正し、国際平和支援法を制定するもので、平成28年(2016)3月に施行された。安全保障関連法(安保関連法・安保法)。安全保障法制(安保法制)。[補説]憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使を容認する内容であるという批判的な立場からは「戦争法」と呼ばれることがある。(デジタル大辞泉)

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 そこまでやるのか「トランプ氏をノーベル賞に推薦」 高市政権が日本の威信をかけた「涙ぐましい接待外交」 「高市早苗首相は、28日に開かれた日米首脳会談で、米トランプ大統領をノーベル平和賞の候補に推薦すると伝えた。トランプ氏の1期目の任期中に推薦を伝えた安倍晋三元首相をほうふつとさせる。対米交渉では、下手に出てご機嫌をうかがう「安倍モデル」の外交でトランプ氏に取り入るしか手はないのか。(松島京太)

安倍氏からの「最も美しい手紙」ほうふつ 「かつてない歴史的偉業だ。これだけの短期間に、世界はより平和になった」。高市氏は日米会談で、タイとカンボジアの和平や中東での停戦合意に貢献したとして、トランプ氏を称賛した。(右写真:米空母ジョージ・ワシントンであいさつし、手を振る高市首相(右)と拍手するトランプ大統領=28日、神奈川県横須賀市で)(代表撮影)

 トランプ氏はかねてノーベル平和賞の受賞に強い意欲を示している。今月9日には、今年の受賞者発表に先立って「歴史上、9カ月で八つの戦争を解決した者は私以外、誰もいない」と強調。7月にもノルウェー財務相に電話して「平和賞がほしい」と伝えたという。/トランプ氏のノーベル平和賞推薦と言えば、トランプ氏が2019年、安倍氏から「推薦した」という手紙を受け取り、トランプ氏が「最も美しい手紙だ」と喜んだことが印象に残る。(⇙)

(⇗)◆機嫌を損ねたゼレンスキー大統領は衆目で罵倒され… 高市氏はそんな安倍氏の手法を模倣したのか。安倍氏とトランプ氏がゴルフ仲間だったことを思い出させるかのように、安倍氏が使用していたゴルフクラブのパターや金箔(きんぱく)を施した「黄金のゴルフボール」も贈呈。まさに「安倍晋三づくし」の外交だった。/なぜ高市氏はそこまで安倍氏にこだわるのか。上智大の前嶋和弘教授(米国政治外交)は「『安倍モデル』の涙ぐましい接待外交は日本だけではなく、今や世界が対米交渉の手法として参考にしている。機嫌を損ねるとウクライナのゼレンスキー大統領のように衆目で罵倒される。今回の日米会談は『こんなに日本が米国を信頼しているんだ』とアピールするセレモニーとなっている」と分析する。(以下略)(東京新聞「こちら特報部」・2025年10月29日 06時00分)

 (T大統領の驚異的な「平和賞」欲しがり根性の理由は何でしょうか。ぼくの独断ですが、同賞受賞は「大統領であり続ける」のと同等か、それ以上の名誉と考えている節があります。もしそうであるならば、数多の犯罪行為で裁かれてはいます(有罪判決が出ています)が、それをして「免罪」となると、彼自身は判断しているからであり、アメリカ社会(有権者)では、「ノーベル平和賞」に免じて、犯罪を帳消しにしてもいいという、「恩赦の風」が吹くだろうという読みがあるのではないですか)

 「平和賞がほしい、ほしい、ほしい」と「裸の王様(The Emperor’s New Clothes)」は叫び続けています。「やったらどうです?」

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「すべからく(須く・須らく)」…べし

 言葉の<誤用><濫用>について 「その「漢字」の読み方が間違っている」と言われたことは何度もあります。もちろん、その使い方は誤りだと指摘されたことも数えきれないほどあったでしょう。でも、ある意味ではどうでもいいことで、それらはすべて忘れました。学校の教師に多いのでしょうけれど、「それは間違いだ」と、どうして偉そうに、自信をもって言えるのか、ぼくには不思議で仕方がなかったし、つねに疑問を抱いていました。コラム「日報抄」氏の「言葉を扱う職業に就きながら、お恥ずかしい限り」という低姿勢はなんなのだろうかと、ぼくは訝しく思った。「謙虚」「率直」だとは言えるでしょうが、さて、書いた人(記者?)の「本音」はどうだったでしょうか。時代と共に「ことば」の意味は変わるもの、それでも意味が通じるのは、ことばの力によるものです。これはなんだって同じことで、音楽であれ、絵画であれ、今昔の差は決定的ではないことを知るべきでしょう。

【日報抄】言葉を扱う職業に就きながら、お恥ずかしい限り。読者に小欄の言葉の誤用を指摘いただいた。今に至るまで、同じ誤用でどれほどの恥をさらしてきたことか。不明を恥じるほかない▼将棋の王座戦をテーマにした先週、〈勝負事は文字通りすべからく勝ちと負けを生む〉と書いた。「すべからく」を「すべて・例外なく・皆」の意味で使うのは誤りだった。本来は「当然なすべきこととして・ぜひとも」などを意味する▼「学生はすべからく勉学に励むべきだ」とするように、一般的に「べきだ」「べし」などを伴う。元々「そうすべくあることには」といった意味の古語「すべくあらく」を語源とする▼文化庁の国語に関する世論調査で、2020年と10年の設問になっている。「すべからく」に「すべて・皆」の意味があると思い込む人は両調査とも4割を超えた。なぜか高齢者の方が誤解する割合が高かった▼国語辞典には〈「すべて」の意に解するのは誤り〉とわざわざ注釈するものもある。三省堂の複数の辞書は、俗語に分類するなどし「すべて・例外なく」の意味も載せているが、作家の井上ひさしさんの言う通りなのだろう▼井上さんは自著「ふかいことをおもしろく」で〈言葉は少しずつ世の中に合わせて動いていかないといけない〉と書いた。その上で、元々の意味をしっかりと理解する大切さも説く。言葉の変化にルーズだと〈わけのわからない国になってしまう〉とくぎを刺す。すべからく指摘は胸に刻んでおくべし。(新潟日報・2025/11/06)

 表向きは素直・謙虚に見えても、決してそうだとは言い切れないのは(文化庁の国語に関する世論調査で、2020年と10年の設問では)、「すべからく」に「すべて・皆」の意味があると思い込む人は両調査とも4割を超えた。なぜか高齢者の方が誤解する割合が高かった」という反証ともいいたそうなものを持ち出しているからです。「須(」すべか)らく」は、もともとは「当然なすべし」「是非そうすべき」という意味合いの語だったけれど、今では「すべて」「ことごとく」という意味に使われることもかなりあるというのは、「ことば」というものの、いったい何を示しているのか。要するに「意」が通じることが何よりで、そうでなければ、ことばは無用となるはずでしょう。とするなら、「正しい使い方」「間違った使用法」は誰が決めますか。世間というか、その語を使う無数の人々の「使い方」が決めるのであって、政府や学校教師の権限を振り回すべきものでは断じてありません。当用漢字とか常用漢字(いずれも漢字使用の「目安」)としか言えないのは、万古不易ということが言語に関してはあり得ないからです。時代の差異はいくらでもありますが、その「差異」こそが、その言葉の歴史であり、意味内容です。時には「白」が「黒」になり替わるような驚くべきことも起こります。

 若いころに読み齧(かじ)っていた荻生徂徠に「学則」(享保12(1727)年刊)と題された著書があります。ぼくは学生時代に大学図書館で手にし、目にしたことがあります。そこに出てくるので有名になったのが「世は言を載せて以て遷り,言は道を載せて以て遷る」という表現でした。この経験は、学生時代のぼくの不勉強な生活の中でも特記すべき経験でした。徂徠と言う人は「古文辞」に執心した人で、儒教をよく学ぼうとするなら、そこに用いられている「古文辞」の意味をこそ丁寧に調べてからでなければ始まらないとし、その理由は「世は言を載せ以て遷(うつ)り,言は道を載せて以て遷る」からだというのです。「学問とは歴史に極まり候」とまで言いました。この曽良医学の奥儀が少しでもわかるようになりかけるにはぼくは何年も徂徠に向かう必要がありました。「変遷」「遷化」「孟母三遷」などと言う使い方に示されるように、ことばというものは一時代に、一空間に留まるものではなく、世の中は「辞(ことば)」と共に変わる、また「政治の手法=道」も言葉の変遷によって移り変わるものであると、徂徠さんは断定します。ことばは時代(使う人と)と共に変わるのは当たり前で、もし変わらなければ、「ことば」の面において、ぼくたちは「奈良」「平安」時代のままに生きていることになるはずで、また言葉は激しく変わるものだからこそ、とてつもない時間をかけて、辞書・辞典の編纂作業が、必然的に継続するわけでしょう。ことばは、とにかく生き物ですよ。だから「死滅」する者もありますし、「誕生」するものもあるのです。

 「日報抄」氏が「お恥ずかしい限り」と断られている、「すべからく」の語意・語用・誤用に関わって、すこしばかり拘(こだわ)っておきます。「須らく」の用法として、「学生はすべからく勉学に励むべし」という表現と「学生は、(例外なく)みんな勉学に励むべし」の、どこに違いがありますか、あったとして、それは決定的な違いかどうか、俄(にわ)かには判じられませんね。「当然に、学生は…」「すべて学生は…」の差異は微少。同じことだといっても間違いはなさそうです。これを、「その使い方、それは間違いだ」と言う方こそが「間違いだ」とぼくは考える。

 高校生の頃だった。国語の授業で級友が「これは全然面白い」と口にして、担当教師から「それは間違いだ。『全然』の後には、必ず「否定」が来るものだ」と友人を叱責した。教師によって、どこに「それは間違いだ」という権限・権利があるのか。ぼくは咄嗟に挙手し、「先生、それは可笑しい」と反撃したことがある。要するに級友は表現(の一部)を省略しただけで、「それは間違い」と言われる筋合いはないと思ったからです。「どうしてや?」と教師はぼくに向かって詰問した。「これは全然(ほかのものと比べられないほど)、面白い、ということや」と言って、教師をやりこめた。恐らくそれで間違いはなかったと、今でもよく覚えているのです。ことばは変わる、時と場所によって必ず変わる(徂徠流に言うなら「遷る」)。だから「これこそ正しい」などと断じる輩は捨て置くが、頑固に「正しい」「間違い」を断定する教師たちは後を絶たないのは困ったことです。漢字の書き方一つ、時代によって、ある部分を「はねたり」「はねなかったり」、「つけたり」「放したり」、要するに意味が通じれば問題はないのですよ。

 勤め先の学校で入試の採点業務に付き合わされたが、その作業の場面でも「なんとも阿保草」と口に出していったことが何度かあります。「文意」を問う問題で、百人のうち「正答はたった二人」ということがあって、教師は、「なんでこんな問題ができないのだろう」と訝し気に語っていた。ぼくは「98人が正解じゃないんですか」と言ったので、その場は白けた。「作者の気持ち」だか、「主人公はどう思ったか」という、どうしようもない設問(愚問)でした。また、「漢字の書き取り」の採点では拡大鏡を持ち込んで検証していた教師たちもいた。こんな連中とは付き合いきれないと心を決めた瞬間の一つでした。「国語」においても、3+5=8の領域(世界)を否定はしないけれど、そうではないところだってあるでしょ、そう言いたかったが、通じそうにありませんでした。

すべからく 別表記:須く、須らく
すべからく(須く)とは、元々は「当然なすべきこと」「ぜひともそうすべきこと」という意味で用いられ、昨今では「全て」「ことごとく」という意味合いで用いられることも多い表現。/「すべからく」の元々の用法は漢文の読み下しにおける読み方である。もっぱら助動詞「べし」を伴って「必ず(行う)べきだ」という義務または当然の意味を示した。「必須」の「須」の語義と捉えればよい。/昨今では必ずしも義務・当然の意味が伴うとは限らず、「例外なく全員・全体」を指すような意味合いの表現として用いられることが多々ある。これは本来の意味用法とは違っており、したがって誤用といえるが、世間的な認識はこの誤用の方がむしろ一般的となりつつある。
すべからくの用例
生徒はすべからく勉学に励むべし
教育者はすべからく私情にかられることなく公平に指導にあたることが肝要である(実用日本語表現辞典)
すべから‐く【須く・応く】
〘 副詞 〙 ( サ変動詞「す」に推量の助動詞「べし」の補助活用「べかり」のついた「すべかり」のク語法。多く下に推量の助動詞「べし」を伴って用いる ) 当然なすべきこととして。本来ならば。
[初出の実例]「若し犯過の比丘尼須(スベカラク)治す応き者あらば、一月両月苦使せしめよ」(出典:四分律行事鈔平安初期点(850頃))/「徳をつかんと思はば、すべからく、まづその心づかひを修行すべし」(出典:徒然草(1331頃)二一七)
須くの語誌
( 1 )「須」を訓読する際に生じた語。中古初期には単に「べし」とだけ読まれることが多かったので用例が少ないが、中期以後盛んに用いられるようになった。「べし」のほか、「む」や命令表現で再読する例もみられる。
( 2 )中古後期の古記録では「須…、而(然而)…」(スベカラク…ベシ、シカルニ/シカレドモ)や「雖須…」(スベカラク…トイヘドモ)のように、下に逆接で続く用例が多い。これは、「本来、当然…であるべきところだが」という文脈に用いられた平安鎌倉期の古記録特有の語法と思われる。(精選版日本語大辞典)

 本日は別のことを書こうとしていましたが、【日報抄】に引き寄せられて、道草を喰った次第。その話題は、書くのも嫌になる「政治とカネ」の定番です。「身を切る改革」などと嘯いていた政党の代表の(多分、裏金つくりをしていたらしい)「公金流用(横領)」「脱税疑惑」報道についてでした。少し口をきいたこともある評論家のS氏は「自民党がヤクザ」なら「維新は半グレ」と言い触らしていますが、その「半グレ」の統領が「闇金蓄財」に勤しんでいたという(おそらく「事実」)報道が「しんぶん赤旗日曜版」で出されました。当人は「5日の党会合で、自身の『公金還流』疑惑を報じた共産党機関紙『しんぶん赤旗日曜版』に関し、『報道機関ではない。共産党の主張だ』と指摘した。『われわれの返答も恣意(しい)的に書く。記事ではなく主張だから、対抗していきたい』と語った。/ 藤田氏は10月30日、取材を受けた赤旗日曜版記者の名刺をX(旧ツイッター)で公開。赤旗側は4日、『正当な取材活動を萎縮させる』と削除を申し入れた。藤田氏は携帯電話番号やメールアドレスの一部を伏せたことを理由に『それ以外は公開情報だ』として応じていない。/ 共産党の田村智子委員長は5日、記者団に『不都合なことを取材すればこういう目に遭うとの脅しだ。そんなことを政権与党の代表がするのか』と非難。『批判を許さない危険性が言動に表れている』と断じた」(時事通信・2025/11/05)(左写真も)

 「報道機関ではない。共産党の主張だ」という、その「共産党のプロパガンダ」紙の報道で、自民党の還流闇金問題が炙り出され、それがために「連立のお相手」が「半グレ政党」に巡って来たんでしょ。知らないふりをして、実は「戦々恐々」なんですね。肝っ玉がありますかと、お尋ねしたい気もするけれど、ないのは先刻承知。強がってはいるが、「引かれ者の小唄」でしたな。「虚勢を張っているだけ」、やはり「半グレ」ですね。この手の輩ばかりが、どうして政治家風情になりたがるんですか、ぼくにはトンと理解ができないけれど、やはり「金と名誉」なんでしょうね。ぼくの印象で言うなら、「清貧(poverty)」と言う生活態度の持ち主は、並みいる政治家連からは、絶えて見られなくなりましたね。「清貧に甘んじる」のではなく、「清貧を堅持する」という思想は消えてしまったのでしょうか。そして、それは「教育」の問題ですか、「家庭」の問題ですか、それとも、…。

 この報道記事に関する「駄文」は書き終えていました。「タイトル」は「墓穴を掘る」と「人を呪わば穴二つ」としておきました。駄文と雖(いえど)も、こんな「半グレ」のセコイ裏金作りに言及したくなかったというか、気が進まなかったところに、新潟日報「日報抄」に出くわしたというわけ。「半グレ」には興味はないけれど、駄弁るネタがないならば、また明日にでも「掘った穴、二つを」ね。それにしても、❶「政治家たるものは、すべからく賤しいね」、いや、➋「政治家というものは、すべからく清廉でなければ」と言い換えましょうか。(問、「すべからく」の使い方、❶と➋、どちらが正しいでしょうか」連立は壊れ、政権は迷走必至ですね。「人を呪わば穴二つ」、それは君に対する勧告ですよ、と誰かが言っている気もするし、自覚もしていますよ)

◎ はんぐれ= 「はん‐ぐれ【半ぐれ】読み方:はんぐれ《多く「半グレ」と書く》暴力団に属さず、暴行や恐喝などの犯罪行為を行う不良集団。[補説] 名称は、暴力団を黒色、一般人を白色としたとき中間に位置するので「半分グレー」、または「半分ぐれている」からともい」(デジタル大辞泉)。

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「城下之盟」に縋っていていいのか

【金口木舌】「高み」「深化」の前に 「さらなる高み」を目指すという。「一層強化」や「深化」もあった。日米同盟にまつわる高市早苗首相、石破茂前首相、岸田文雄元首相らの発言から拾った▼登ったり、鍛えたり、潜ったり。日米同盟は忙しい。これも抑止力維持のためだが、決められたルールや約束は守れないらしい。兵士の規律が乱れている▼門限を破って基地の外を出歩く。酔って暴れて物を壊す。見ず知らずの人に危害を加える。日本の法律を犯しても、いざとなれば日米地位協定という別ルールが盾となる▼一部のふらちな兵士の悪行というなかれ。米軍は組織全体でルールを破る。騒音防止協定を無視した深夜、早朝の米軍機飛行はその一例。PFASなど環境問題にも無頓着。そのくせ「安全な水」を県や地元に要求する。一体どういう理屈をこさえたか。ご都合主義にもほどがある▼高市首相はトランプ米大統領との首脳会談で「日米同盟の新たな黄金時代を共につくる」と言ったそうな。金箔を張ったゴルフボールも贈った。失礼ながらこれには笑った。地金はとっくに出ている。「高み」や「深化」の前にやるべきことがある。(琉球新報・2025/11/05)

 「日米同盟」が、この国の「命綱」「生命線」と見なす政治家がほとんどでしょう。本当にそうかどうかは、誰の目にも明らかで、しかしながら、それは一方的な「片務同盟」で、まさしく言語の矛盾が生じている「非同盟」関係にあるのも、否定できない事実でしょう。同盟とは「[名](スル)個人・団体または国家などが、互いに共通の目的を達成するために同一の行動をとることを約束すること。また、それによって成立した関係」(デジタル大辞泉)を指すとするなら、「日米同盟」は嘘であり、空想だというべきなのが筋だと思います。双務的で同等の関係にあると法螺を吹きまわってきた政府の日米(同盟)関係の「新黄金時代」宣言をが聞いて、国民は呆れるか、それとも嘆くか。いやいや、真顔で「大歓迎と」くるか、そこまでくると、もう、「政治的発狂」は元に戻らないだろうよ。首相は「新黄金時代を」とかましているが、いったい「旧黄金時代」とは何時の事で、それはどんな関係だったのですかと、お尋ねしたいね。

 因みに、「盟」は「めい(音読み)」、「ちか(う)(訓読み)」で、「ちかう。ちかい。神仏約束をする」と辞書には出ています。それに似て非なる「城下之盟」という表現があります。中国の史書『春秋左氏伝』の「桓公一二年」に出てくる。その意味は「敵に敗北して結ばされる、最も屈辱的な講和条約のこと。または、敵の城下に攻め込んで、講和条約を結ぶこと。『城』は町を守るための城壁のこと。『盟』は講和条約のこと」(オンライン四字熟語辞典)「敵に首都まで攻め入られてする、屈辱的な降伏の約束。じょうかのめい」(デジタル大辞泉)を踏まえるなら、日米の関係は文字通り「城下の盟(誓い)」であることになります。(右下の写真は「『日米従属非同盟』関係をあからさまに推進した元首相の訪米時の記事」、20年前の出来事でした。「世界の中の同盟強調」というフレーズは、今や「日米同盟の新たな黄金時代を共に作る」に引き継がれている。ことばだけの「空々しい」、または「空しい」非同盟・従属関係)

 「同盟関係」を確認し、強調するために、どうして「首相」になった途端に、誰もが「参勤交代」よろしく訪米したがり、媚を売り(国を売り)、卑屈になり、追従までして、肩を組んでもらいたがるのでしょう。「ファーストネーム」で呼びかけ合おうと、いったいどこの首脳が、真っ先に求めるのでしょうか。中身がないから形式(見た目・上辺)を整えたがるのであって、その隷属関係は年々歳々深まりかつ高まっているというほかありません。日米「城下之盟(ちかい)」に縋(すが)っていていいのか。身の心も奪われているのに、さ。

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 「高市首相はトランプ米大統領との首脳会談で『日米同盟の新たな黄金時代を共につくる』と言ったそうな」とはコラム氏。とするなら、更に「隷属」「従属」関係は深まるということであり、更に高みに昇るということです。「なんとかと何とかは高いところに昇(りだが)る」というでしょう。「寝言は寝てから」と言っても「馬耳東風」でしょうな。とんでもない「奈良の女」もあったものですね。その「奈良女」の支持率が80%超だというから、狂気の国・国民ですね。。でも、高いがゆえに尊からず(It is not precious because it is high)、高いからこそ急降下するというのではないでしょうか。こんな「少数派内閣」、しかも歩き出したばかりの総理を、有権者の5人に4人が支持するという、「支持」という言葉の理解が進んでいないということかもしれません。「属国」「植民地化」を大歓迎する「国民」もあったものです。ぼくはできれば、国民であることを止めたいけれど、そうはいかないようですから、断じて「支持しない」一人でいようと思っている。支持するもしないも、まだ歩き出して半月(「総理」に指名は10月21日)。もうめちゃくちゃですね。

 日米関係を「同盟」と呼ぶなかれ。「個人・団体または国家などが、互いに共通の目的を達成するために同一の行動をとることを約束すること。また、それによって成立した関係」という解説を受け入れるとするなら、琉球新報のコラム氏が指摘する諸事実は、「同盟」にあらず、日本はアメリカの「植民地」に他ならないということを認めるべきでしょう。東京新聞「ぎろんの森」に「『日米同盟』と言うけれど(Although it is called the Japan-US alliance,)」という記事が三年半前にありました(まさに「旧聞」に属します)。その指摘されている「内容」は「肯綮(こうけい)に当たる」と言うべきで、繰り返し読んでおきたい記事だとぼくは思っています。「『肯』は骨につく肉、『綮』は筋と肉とを結ぶところの意》物事の急所。かなめ」(デジタル大辞泉)

 卑屈(ひくつ)、阿諛(あゆ)、追従(ついしょう)、「阿(おもね)る」「諂(へつら)う」「煽(おだ)てる」等々、いくらでも上下・優劣関係に基づく「表現」を挙げることはできます。「同盟」は、どこから見ても「追従」や「卑屈」とは程遠い関係にあるでしょう。東京新聞は「同盟」という言葉は使いたくないと明言しています。「政府が近年、日米同盟という言葉を頻繁に使うようになった背景には、日本の軍事的存在感を強め、集団的自衛権を行使して、米国の戦争に参戦できるようにしたいとの意図を感じざるを得ません。九条形骸化の動きです」「『同盟』という言葉を安易に使えば、政府のもくろみを追認することになります。たかが二文字、されど二文字」「本紙のささやかな抵抗に、一人でも多くの読者が気付いてくれたら幸いです」と、それこそ必死の体であり、かつ懇願・哀訴の心情を隠していません。気概とも言うべき。「六分の侠気 四分の熱」と唄ったのは与謝野鉄幹でした。東京新聞は、まるで「ごまめの歯軋(ぎし)り」であり、「一寸の虫にも五分の魂」ですね。ぼくは一寸に足りない人間かもしれません。しかし、身の丈半分ほどの魂は失わないつもり。

 (写真上左と右は、国内の法律が及ばない米軍基地内、しかも航空母艦の上で「飛んだり跳ねたりの首相」、前代未聞の軽薄な振る舞いだ、とぼくは、繰り返し指摘し、批判したい。「唯我独尊」状態のアメリカに縋ってどうするんですか)(「独立」「自立」という国是をいささかも顧慮しない振る舞いは、おそらく心ある人には目に余るものと映ったでしょう。それを「よくやったあ」とばかり、根拠もなく大歓迎するメディア、その周辺の「右側通行者」たち。目を覚ませよと、呼ぶ声が聞こえないんですか)

【ぎろんの森】「日米同盟」と言うけれど 今週初め、日本を舞台に活発な外交が展開されました。日米首脳会談と、続く日米豪印四カ国「Quad(クアッド)」首脳会合です。/ウクライナに侵攻したロシア、軍事的に台頭する中国、核、ミサイル開発を進める北朝鮮などをにらみ、米国を中心に結束を固める狙いです。/岸田文雄首相は記者会見で「バイデン大統領とは、日米同盟の抑止力、対処力を早急に強化する必要があることを再確認した」と述べました。/また「敵基地攻撃能力の保有」を含む防衛力の抜本的強化と、防衛費の相当な増額も表明したのです。/本紙は二十四日社説「安保強化は9条枠内で」で「日米安全保障条約体制の意義は理解するとしても、専守防衛を逸脱することは許されない。抑止力や対処力の強化を、憲法九条の枠内にとどめるべきは当然だ」と訴えました。/読者からは「同盟強化には多額の予算が必要なので十分な議論が不可欠」「防衛費の増額で国民を守ると言うが、年々減額される年金を上げた方が国民を守ることになる」との声が届いています。/首相発言のように政府は日米関係を「同盟」と表現してきました。軍事同盟の代表例は、現代では北大西洋条約機構(NATO)でしょう。/ただ、東京新聞の社説では日米関係を「同盟」とすることは極力避け、「日米安全保障条約体制」と表現することを心掛けています。/日本は米軍に基地を提供していますが、憲法九条で戦争を放棄し、米国を軍事的に守る義務はありません。双務的ですが、相互防衛義務を負う他の同盟とは異なります。/かつて、鈴木善幸首相が同盟には軍事的意味合いは含まないとの見解を示し、反発した伊東正義外相が辞任したこともありました。同盟とはそれほど重い言葉です。/政府が近年、日米同盟という言葉を頻繁に使うようになった背景には、日本の軍事的存在感を強め、集団的自衛権を行使して、米国の戦争に参戦できるようにしたいとの意図を感じざるを得ません。九条形骸化の動きです。/「同盟」という言葉を安易に使えば、政府のもくろみを追認することになります。たかが二文字、されど二文字。本紙のささやかな抵抗に、一人でも多くの読者が気付いてくれたら幸いです。(東京新聞・2022/05/28)

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来ない「バス(ゴドー)」を待つ時間

 本日付の新潟日報のコラム「日報抄」を読んで、即座にぼくは、昔々の、あるかなきかの「二つの記憶」を手繰り寄せようとしました。一つはサミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」だったし、他は、それとの連想で、スーザン・ソンタグの「サラエボでゴドーを待ちながら」でした。徘徊老人と盛んに疎(うと)んじられ、いじられながら、ある老人たちは、遂に自宅に帰らないまま、杳(よう)として行方が分からなくなっいます。またいくらかの人は、誰かに会いに行くのか、どこかに出かけたまま、自宅に帰れなくなり、その行方を捜すための捜索も行われています。以前に住んでいた市では、かなり頻繁に「行方不明者」の捜索協力の防災無線が響いていましたし、その後に「無事に発見されました」という報告とお礼の無線も流されていました。現在地に越して以来、頻度は少なくなりましたが、やはり防災無線で「誰々さんの行方が分からなくなりました」という放送がごくたまに流れてきます。

 「入居者が『家に帰りたい』と言い出したら、職員はバスの来ないバス停へと誘う。ベンチに座りながらおしゃべりして、来るはずもないバスを待つ」とコラムにあります。このような「帰りたい」という感情は決して認知症者だけではなく、重い病気に罹患し、長期入院を余儀なくされた人の中にも高い確率で「家に帰りたい」という強い願望が生まれます。自分の「住処(すみか)」あるいは「塒(ねぐら)」に戻りたいという帰郷・帰宅本能が生まれているのでしょうか。「バスを待つ」というのは、どういう気持ちなのか。その昔は、ぼくも通勤にバスを利用していましたから、ややその気分は分かるつもりです。時間通りにか、やや遅れてなのかは問わず、バス停に待っていれば「バスは来る」もの。来なければクレームが出る。

 「認知症」者のために、初めから、来るはずもないバス用に「バス停」が作られている。そこでは「待つ」こと(時間)だけが目的で、「バスの来ないバス停」は作られているのです。これを「優しい嘘」と言われるそうですが、優しいか残酷かはともなく、どんな人間にも「自分を宥(なだ)める」「人や時間や場所」は必要なのでしょう。それが今日ただ今の「時代の状況」だとぼくは思う。要するに「待つだけに費やされる時間」があまりにも失われているのですよ。(これを書いているぼくは、「短気ですし、待つことが死ぬほど嫌いですから、いたいほど、その気持ち(感情)は分かるのです)この「来ないバスを待つバス停」は、おそらく人間感情の壮大な実験なのかもしれません。

【日報抄】どんなに待っても、そこにバスが止まることはない。認知症の人のためにつくられた「バスの来ないバス停」だからだ。全国の介護施設などで設置が広まる▼発祥はドイツだという。施設に入居する認知症の高齢者は、不安などから自宅に帰りたがる。バスに乗って帰ろうと、停留所を探して行方不明になることもある。そうした事案を防ぐために生み出された▼入居者が「家に帰りたい」と言い出したら、職員はバスの来ないバス停へと誘う。ベンチに座りながらおしゃべりして、来るはずもないバスを待つ。そうこうするうちに入居者の気持ちは落ち着く。認知症の人の自尊心を傷つけない「優しいうそ」だ▼県内にもこんなバス停があるだろうか。本県はバス路線が乏しい地域も多いから、自分で車を運転して帰りたいという人が多いかもしれない▼超高齢化社会は認知症社会ともいえる。国の2022年度調査では、65歳以上の3人に1人が認知機能にかかわる症状があると推計された。認知症基本法は「共生社会の実現」を掲げる。目指すは認知症になっても住み慣れた地域で暮らし続ける社会。実現には一人一人の理解はもちろんだが、土台となるのは介護人材の担保だろう。しかし、人口減少で人材は不足する▼ある認知症専門医は「自宅で最期を迎える人は減っていくだろう」と残念そうに語った。認知症の人は住み慣れた場所に帰れないのか。介護施設にも本当にバスが止まり、わが家へ連れて行ってくれる社会を描きたい。(新潟日報・2025/11/04)

 「バスの来ないバス停」に込められた「優しいうそ」…認知症の人の「帰りたい」思いに寄り添いながら守る命「日差しがまぶしいわね」。8日午後、横浜市神奈川区の住宅街にある特別養護老人ホーム「 菅田すげた 心愛の里」。玄関前に立つバス停のベンチで入居者がたたずみ、介護職員らと会話を楽しんでいた。/バス停は「鴨居駅前行き」で、実際の市営バスの標識をまねて職員が手作りした。出かけようとする入居者に、職員が「座ってバスを待ちましょう」と声をかける。/待ってもバスは来ない。30分ほど体調や天気の話をし、「お茶でもどうですか」と誘うと、「そうだね」と言って施設内に戻るという。ある職員は「バスを待つ間に気持ちが切り替わるようです」と語る。(⇙)

(⇗) 住み慣れた自宅とは異なる環境に不安を感じ、帰宅しようとする入居者は少なくない。バス停を活用することで、職員が入居者の前に立ちふさがったり、無理に連れ戻そうとしたりしなくていい。入居者の自尊心を傷つけず、職員の心身の負担も少ない。/バス停を設置したのは約10年前。ある入居者が玄関を出て行方不明になったのがきっかけだ。8時間後の深夜に警察に保護され、けがはなかったが、発見が遅れれば命の危険もあった。/玄関に鍵をかけるのは夜間だけのため、再発防止が課題となった。ドイツなどの欧州の介護施設で、同じように対応に悩んだ末、バス停を導入しているのを参考にした。/施設長の伊藤俊吾さん(56)は「入居者の健康や尊厳を守るため、自ら歩き、車いすで動けるよう、玄関は自由に出入りできるようにしておきたい。行方不明になる危険から守るのに、バス停は最適だ」と語る。(以下略)(写真左上「施設の玄関前に設置されたバス停は、入居する高齢者の憩いの場にもなっている(8日、横浜市の「菅田心愛の里」で)」(読売新聞・2025/09/26)

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 ずいぶん昔に見た芝居「ゴドーを待ちながら」(左写真)。(年譜を調べたら1965年12月とありました。宇野重吉さん(写真右)や米倉斉加年さん(写真左)、大滝秀治さんや下条正巳さんらが出演。大学2年生でした)観劇の記憶はほとんど失われました。「タイトル」ばかりが強烈に印象づけられたから、いまそれを思い出しているのです。二人の浮浪者は「ゴドー」を待っているが、それが誰なのか、どういう存在なのか知らない。もっと理解に苦しむのは、いったい「ゴドーは来るのかどうか」すら不明だし、彼(不明者)の存在自体も不確かです。「待ち人来たらず」と言う場合、「誰」を待っているかは待っている人には明らかです。「バスのやって来ないバス停」でひたすら待つのはなぜでしょうか。もちろん待っているのは「バス(つまりはゴドー)」ですけれど、そこでひたすら待っている人に大事なのは「来ないバス」ではなく「(来ないバスを)待つ」という行為であり、その時間の過ごし方なのではないでしょうか。「何か(何であっても構わない)を待ちながら」、これこそが、認知症者に限らずに、もっともっとあっていい時間の過ごし方ではないかと、ぼくはしきりに考えます。今風の嫌な符丁でいわれる「コスパ」や「タイパ」というものこそ、実は人間の脳細胞を破壊する凶器にさえなっているようにも見えます。

 「ゴドーを待ちながら」は、以下の解説の通りです。これがあえて「不条理劇」とされるのは、「何かを待ち続ける現代の人間の条件」を滑稽に、しかも社会風刺の棘が剥き出しにされた演劇だったからであるとするのが定説です。「無駄」なこと、「無意味」なことだと社会から非難される生活時間、社会常識や条理というものは「何物も産(生)まない時間」を否定し、排除することに急すぎます。そんな「無駄な時間」「何も生まない時間」を、まるで失われたものを取り戻すかのように大切にする態度や時間を、「ゴドーを待ちながら」においてぼくは愚考していました。「ノンセンス(nonsense)」という反語は、ぼく流に受け止めれば、世間では「意味がある」とされている物事に対して「ノー」を突き付ける、意味ありげなものの正体を明らかにして、「それこそが無意味なのだ」という叫びでもあるでしょう。「ノンセンス」には「センスを」笑い飛ばし、退けるだけの力強さがあるのだと、数々の拙い経験から、ぼくは明らかに学んだことでした。(右は「劇団東京乾電池 ET×2 第4回公演」のパンフ)

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◎ ゴドーを待ちながら(En attendant Godot)= フランスの劇作家、S・ベケットの戯曲。1952年フランス語で発表。初演は翌年パリ。著者による英訳版(1954)には「二幕の悲喜劇」と副題がついている。木が1本生えているだけの田舎(いなか)道で、2人の浮浪者が、待ち合わせの約束をした(と彼らは信じている)ゴドーを待つが、待ち人はこず、かわりに主人(ポッツォ)と召使い(ラッキー)の2人連れが通りかかる。そのあと少年が現れ、ゴドーさんは今日はこられないが明日はきっとくると伝言し、第1幕が終わる。第2幕も似たような展開をみせる。伝統的作劇法を完全に無視して、サーカスや寄席(よせ)の道化(どうけ)芝居に近い体裁のもとに、何かを待ち続ける現代の人間の条件をみごとにとらえた作品。初演時には反発や困惑の嵐(あらし)を巻き起こしたが、その後「不条理演劇」の元祖としてのみならず、現代演劇全体を革新した記念碑的傑作として、いまもその謎(なぞ)めいた魅力は衰えていない。(日本大百科全書ニッポニカ)

 「ベケットの《ゴドーを待ちながらEn attendant Godot》(1953)では登場人物がいつまでも来そうもなく,誰ともわからない人物をなぜかわからないまま待ち続ける間の暇つぶしの無意味なお喋りと遊びが延々と続くだけで終わる。すなわち,観客の目前で不条理な内容が不条理に演ぜられるのがこれらの演劇の特徴であるといえよう」(世界大百科事典・旧版)

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 ソンタグの「サラエボで…」の邦訳版が出版されたとき、ぼくは大いに緊張して読んだ記憶があります。出版に際して書かれた「解説」を引用しておきます。「戦火の下で悲惨な生活を強いられているセルビアの人々と協同して、ソンタグはベケットの『ゴドーを待ちながら』の演出をした——「上演の終り近く、ゴドーは今日は来ない、しかし明日にはかならず来るだろうという使いの言葉に続くウラディミールとエストラゴンの長い悲劇的な沈黙のとき、私の眼は涙で痛み始めていた……観客の誰一人として音を立てる者はいなかった。聞こえてくるのは、劇場の外から来る音だけであった。国連軍の武装した人員輸送車が轟音を立てて通りを走る音と、狙撃兵の銃声だけであった」(みすず書房)

◎ ユーゴ紛争(ゆーごふんそう)= ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア(現、北マケドニア共和国)も独立を宣言。1992年4月にはセルビアとモンテネグロがユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ、2003年から「セルビア・モンテネグロ」となり、2006年にそれぞれ独立国家となる)の創設を宣言して、6共和国と2自治州で構成されていた従来のユーゴスラビア連邦は完全に崩壊した。(日本大百科全書)

◎ サラエボ=ボスニア・ヘルツェゴビナの首都。ディナル・アルプスの山間盆地,ネレトバ川支流のミリャツカ川の両岸にある。町はトルコとオーストリア・ハンガリー帝国支配下でそれぞれ創建された旧市街と新市街,それに工業地帯の三つに分かれる。旧市街は中東風の職人街で,市場やモスクがある。新市街は行政・商業の中心地。第2次大戦前は絨毯などの手工業が主体であったが,戦後は重工業が重視され,金属・機械・食品工業が行われる。大学(1946年創立)がある。7世紀ころセルビア人とクロアチア人が定住。15世紀にトルコ領となり,住民の一部はイスラム教に改宗。1878年オーストリア・ハンガリー帝国領。サラエボ事件の地。1984年冬季オリンピック開催地。1992年の旧ユーゴからの独立を契機に起こったボスニア・ヘルツェゴビナ内戦によって,戦場と化した。36万9534人(2013)。(マイペディア)

ソンタグ(Susan Sontag)=生没年:1933-2004 アメリカの批評家,小説家。ユダヤ系の両親のもとにニューヨークに生まれ,シカゴ大学卒業後,ハーバード,オックスフォード,パリの諸大学に学んだ。1950年に心理学者フィリップ・リーフと結婚,59年に離婚。60年代初めから《ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス》《コメンタリー》などの雑誌に書いた評論を集めた《反解釈》(1966)によって,批評家としての地位を確立した。表題となった評論は,〈内容〉や〈解釈〉を偏重する在来の批評に対して,〈形式〉を感受する〈官能美学〉,つまり理性あるいは西欧近代合理主義に対する感性の復権を唱えたマニフェストである。以後《ラディカルな意志のスタイル》(1969),《写真論》(1977),《隠喩としての病》(1978),《土星の徴しの下に》(1980)などの評論によって,芸術と思想の諸分野にわたる前衛的批評活動を展開。〈ニューヨーク知識人〉を代表する一人である。《死の装具》(1967),《わたしエトセトラ》(1979)などの小説のほか,《食人種のためのデュエット》(1969)などの映画作品もある。(改訂新版世界大百科事典)

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(追記 もう少し駄文を綴る予定でしたが、先ほどから「浄化槽」の清掃作業が始まっており(ただ今。午前9時)、かなり騒々しいので、本日は尻切れですが(いつだってそうです)、ここで、いったん中断します。気が向けば、後日に再開します。しばらくは無駄な時間を送ります、「ゴドーを待ちながら」、ね)「待ち人来たらず」がわかっていて、なお待ちつづけることの意味を問う、いかにも不条理です。

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