あかあかと日は難面も秋の風

【筆洗】若い人がスマートフォンに文字を打ち込む速度について、脚本家の山田太一さんが書いている。「言葉というものは、あんなに速く打たなければならないものでしょうか」▼あの速さでは、ありきたりの言葉しか出てこないのではないかというのが山田さんの心配である。「死ねば」「それ買い(それは買った方がいいの意)」など短い言葉と決まり文句だけになって「お互いの心の本当」の部分は伝えられないのではないか-▼10年ほど前の文章だが、その心配は当たっていたか。文化庁の2024年度「国語に関する世論調査」によるとSNSが普及し、略語や短い語句でのやりとりが増えるなど言葉の使い方に「影響があると思う」と答えた人は約9割に及んだ▼確かにSNS時代にあって日本語は変化した。同期入社の60過ぎの男も「りょ(了解)」やら「乙(おつかれさま)」と平気で送ってくる。そんな時代である▼「それな(その通りだ)」「おまいう(おまえがいうな)」。SNSの影響ばかりではあるまいが、言葉はどんどん短くなり、その分、愛想や柔らかさを失っていくかのようである▼仲間内ならともかく、慣れない世代はぶっきらぼうな言葉に面くらい、傷つくこともある。そういう言葉では山田さんのいう「心の本当」は伝わるまい。もしかしたら「心の本当」など誰も求めていない時代かもしれないが。(東京新聞・2025/10/01)

 スマホを所持したことがない人間ですから、この機器に関して何かを述べることには無理があるというか、資格がないというべきでしょう。だから、スマホの功罪(便・不便)を云々するつもりはありません。それを必要としないままで生きている人間に、スマホは「いいとか悪いとか」言っても、未経験ですからね。山田太一さん曰く「言葉というものは、あんなに速く打たなければならないものでしょうか」という苦言。早く打ってはならないものでしょう。あえて言うなら、ピアノの鍵盤を叩くようなもの。しかもプレストやプレスティッシモという速さで。鍵盤を叩いて音楽を奏でるには楽譜を記憶している必要がありそうです。記憶しているなら、いくらでも早く叩くことはできるでしょう。

 要領はそれと同じで、記憶している単語で、しかも簡略形にして、極めつけの短文で、それが行きつくところ。「不立文字」などとも言いますよ。それは、ある種のピクトグラムではないでしょうか。「あの速さでは、ありきたりの言葉しか出てこないのではないかというのが山田さんの心配である」とコラム氏は山田さんの気持ちを推し量っておられる。そうですか、山田さんは心配しているのではなく、「自分はしませんよ」ということを伝えたかっただけのこと。ぼくはそう思う。もちろん「国文科出身(加えて、詩人の寺山修司さんと同級生だった)」だったから、言語には一家言をお持ちの専門家だったでしょう。短く、まるで絵文字のような単語では「お互いの心の本当」を伝え合うことはできない相談です。でも、…。

 「文化庁の2024年度『国語に関する世論調査』によるとSNSが普及し、略語や短い語句でのやりとりが増えるなど言葉の使い方に『影響があると思う』と答えた人は約9割に及んだ」「同期入社の60過ぎの男も『りょ(了解)』やら『乙(おつかれさま)』と平気で送ってくる。そんな時代である」「『それな(その通りだ)』『おまいう(おまえがいうな)』」と使いたがる大人たち、それはまるで還暦過ぎて「ミニスカートをはく」ような人たちかもしれない。「いやだあ、きもい」と嫌う人もいれば、「案外いいじゃん」と喜ぶ還暦越えの人もいるでしょう。つまりは流行ですよ。「一時流行」というもので、ことばも例外ではなく、流行(はや)り廃(すた)りはあるのが当然だと、ぼくは考えています。

 ラスコーやアルタミラの洞窟の壁画よろしく、万事が絵文字で事足りるのに何の不都合もない時代を示しているのでしょう。行きつくところまで行って、そこから「再出発」するのがいい。因みに「ラスコー壁画」(左写真)は2万年前の後期旧石器時代のクロマニョン人が画いたとされています。アルタミラ洞窟壁画(右写真)は、先史時代の区分で約1万8千年~ 1万年前)、旧石器時代末に描かれたものとされています。

 「SNSの影響ばかりではあるまいが、言葉はどんどん短くなり、その分、愛想や柔らかさを失っていくかのようである」とコラム氏の杞憂は膨れます。それだって、今日に特有の現象ではないでしょう。ある地方の人の会話で「どさ」「ゆさ」というのがあって、とても有名になりました。ことばは道具だと信じ込んでいるような人も、何時の時代でもいます。道具ですから、言いたいこと、伝えたいことが用をなすなら、ことばは短いに越したことはないでしょう。もっと言えば、「みなまで言うな」ということになります。

 「以心伝心」というわけですね。「言葉や文字などを使うことなく、心と心で互いの意志や気持ちが通じ合うこと。元は、文字や言葉では表現できない奥義を、師と弟子の心を通わせることで伝えることを意味した禅宗の言葉」(四字熟語辞典online)です。究極は「顔を見るだけでわかる」のかもしれないけれど、離れていれば「絵文字(ピストグラム)」が手っ取り早いというだけのこと。そんな程度のことの伝え合いで用が足りるなら、「それな」で済ませてもいいのではないですか。犬猫にも劣る「会話力」「語学力」と言われるか。それもまた然り、です。要するに「一時流行」ですからね。

ピクトグラム(英吾: pictogram)あるいはピクトグラフ(英吾: pictograph)とは、グラフィック・シンボルの典型であって、意味するものの形状を使って、その意味概念を理解させる記号を意味する。グラフィック・シンボルは図記号とも呼ばれISOが公用語にしている。ピクトグラムの和訳は絵文字あるいは絵ことばで、「絵ことば」は1964年の東京オリンピックのアート・ディレクターの勝見勝によって積極的に使われた。ピクトグラムとピクトグラフは混同されやすいが、「-グラム」は「書かれたもの」、「-グラフ」は「書くための機器」のことであるので、ピクトグラムが正しい。(Wikipedia)

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 「慣れない世代はぶっきらぼうな言葉に面くらい、傷つくこともある。そういう言葉では山田さんのいう『心の本当』は伝わるまい。もしかしたら『心の本当』など誰も求めていない時代かもしれないが」というのはどうでしょうか。そこまで言うか、という思いがします。でも、どんなに意を尽くそうと「心の本当」を伝えることなどできないのかもしれないという気もするのです。言わず語らず、その沈黙の時間が何かを熟成させるかもしれないし、どんなに言葉を尽くしても「誤解」するのが関の山だともいえそうです。

 「ネットスラング」に気を揉むのも分かりますが、今も昔も「短文型」は受け入れられてきました。短歌や俳句の(旨い下手は別にして)隆盛は何を物語っているのでしょうか。このことを考えた方が少しは実りがあるような。「一時流行」とは、もともとは俳諧の世界で使われた言葉でした。それを芭蕉は「不易流行」と言いかえたのです。(以下は「奥の細道」より)

・草の戸も住替はる代ぞ雛の家
・行く春や鳥啼き魚の目は泪
・あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風(表題句)
・浪の間や小貝にまじる萩の塵
・蛤のふたみに別れ行く秋ぞ

◉ ふえき‐りゅうこう〔‐リウカウ〕【不易流行】読み方:ふえきりゅうこう= 蕉風俳諧の理念の一。新しみを求めて変化していく流行性が実は俳諧の不易の本質であり、不易と流行とは根元において結合すべきであるとするもの。(デジタル大辞泉)

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人が棲まなくなると家はたちまちに

 「蔦のからまるチャペルで祈りを捧げた日 夢多かりしあのころの思い出をたどれば なつかしい友の顔が一人ひとり浮かぶ 重いカバンをかかえてかよったあの道 秋の日の図書館の ノートとインクの匂い 枯れ葉の散る窓辺 学生時代…」(「学生時代」平岡精二(詞・曲)/ ペギー葉山(歌)1964年)この曲はよく知っていたし、平岡さんもペギーさんもよく聞いていたのでした。大学に入った年に発売され、大流行していたものでした。舞台は今もある青山学院で、平岡、ペギー両氏も通ったことのある場所だった。当初は「大学時代」という曲名だったが、まだ大学進学が普及していなかったというペギー氏の指摘で「学生時代」に変更されたと言います。因みに1964年の大学進学率はおよそ15%だった。まだ大学がある種の「幻影」の時代だったかもしれません。ぼくの実感は、実にはっきりしていて、わざわざ東京まで来ての大学進学は「大きな間違いだった」という素朴な感情でいっぱいになっていた。この感情は、今もなお、残り続けてきましたね。

 歌謡曲の「学生時代」は、本日の主題とは無関係だと、一応は言っておきます。しかし、そのおおよその衰退現象は大学と雖も、時代の趨勢とは無関係ではないし、人口減少の荒波は至る所で、港湾や岸壁を破壊し、海岸線を侵食しているという意味では、国や社会の屋台骨を朽ちらせていることに無関心ではいられません。人でも家でも町(街)でも国でも、時間をかけて坂道を登り、頂上に着いたと思えた瞬間にはすでに下り坂に踏み込んでいるというのが実情だったでしょう。登れば必ず降(くだ)る。登りが急坂であれば、降りは、それに輪をかけたように激しくなるものでしょう。この国の人口の推移をたどれば、近代化を短時日で達成しようとし、急坂を汗水たらして登り切って、更にこの先もと思い込んだ瞬間が下り坂の始まりでした。その後、降り坂はずっと続いています。

【北斗星】♪つたのからまるチャペルで―と始まる「学生時代」は故ペギー葉山さん以降、多くの歌手により歌い継がれてきた。秋に紅葉したつたに彩られた洋館はさぞ風情があることだろう▼ただ、つる性の植物が茂りっぱなしの空き家となれば全く別物。詩人の故茨木のり子さんの作品「廃屋」は「つるばらは伸び放題」で、「戸さえなく」なった「山中の廃居」の朽ち果てたありさまを容赦なく描く▼15年ほど前、仕事で県境近くの山村集落を訪ねた。山あいの田んぼを維持し、清流を活用してワサビ栽培やイワナ養殖にも取り組んでいた。集落まで車で往復した際、所々に廃屋を目にして胸が痛んだ。集落の高齢化はさらに進んだことだろう▼秋田市郊外でも最近、「売物件」の札が立つ空き家をよく目にする。一方で立て札こそないが、全体の様子から人の出入りが途絶えていることが察せられる家屋も珍しくない。市街地にクマが出没する昨今、全く手入れされていない庭の草むらに野生動物が潜んでいないかと不安がよぎる▼1人暮らしの親が介護施設に入所後、実家を10年余りも空き家にしていた知り合いもいた。空き家にはそれぞれ事情があることはよく理解できる▼茨木さんの詩は「人が/家に/棲(す)む/それは絶えず何者かと/果敢に闘っていることかもしれぬ」と結ばれる。高齢化の波を受け、果敢な闘いを続けられなくなる家屋は増え続けるだろう。地方自治体だけでなく、国の問題として知恵を絞りたい。(秋田魁新聞・2025/09/29)

 コラム氏は書く。「15年ほど前、仕事で県境近くの山村集落を訪ねた。山あいの田んぼを維持し、清流を活用してワサビ栽培やイワナ養殖にも取り組んでいた。集落まで車で往復した際、所々に廃屋を目にして胸が痛んだ。集落の高齢化はさらに進んだことだろう」と。限界集落(marginal villages)と呼ばれ、消滅集落(vanished villages)と称される町や村は留まるところを知らぬ勢いで増加しています。その半面で、都会への一極集中(concentrated)はまるで、田舎を捨て去り、逃げ出す人々の溜まり場(hangout spot)のように増加の一途をたどり、ここでもまた、さまざまな問題を生み出しています。都市も人も同じように歳(年)を取ります。社会インフラの老化(硬直・機能不全)傾向には目を覆うばかりのものがあります。「都市が栄える」「田舎は朽ちる」という合わせ鏡は、年々歳々著しい対照現象を映し出しているのです。そして、この合わせ鏡現象を「打開する」、そんな政治や行政はまず施されていないのです。

 コラム氏は茨木のり子さんの「廃屋」を引用されます。家のことを「住まい(housing)」と言うほどですから、「住まわない」になると、家々は一瞬のうちに荒廃する。「たちまちに蚕食される/何者かの手によって」「何者かの手荒く占領する気配」「人が家に棲む それは絶えず何者かと果敢に闘っていることかもしれぬ」と詩人は書く。住むとは生活するということ。生活するとは、住まいに息吹をかけ、人間の存在している気配を漲(みなぎ)らせることです。逆に、人が住まなくなるというのは、家から「生活」の匂いが消えることであり、それに替わって「荒涼」「荒廃」の気が迸(ほとばし)ることでしょう。それを、「自然に帰る(還る)」と言い換えてもよろしい。

 人間の生活は、可能な限りで「自然臭」「野性味」を脱してきました。快適と便利が人間の生活価値となったのは、つい最近だったけれど、脱自然が進めば進むほど、実は人間の心持の不安や落ち着きのなさが露見するのは避けられないことでもあった。若いころに読んだパスカルの「パンセ(随想録)」に、「壊れた家は悲惨ではない」とありました。なぜか、廃屋は「自分が悲惨であることを知らないからだ」というのがパスカルの理解でした。自分がどんな状況にあるかを自覚できなければ、それは愉快でも不快でもない、あるがままなんですね。人跡未踏の「自然界」には地震が起ころうが、津波が襲おうが、そこには災害もなければそれを悲しむ存在もいない。自然災害というのは、ことばの文(あや)で、そこに人がいなければ、それを災害と考えるものもいないのですから、「自然災害」ではなく「自然現象」とでも呼ぶほかないのです。これは災害だという存在、これは悲劇だと自覚することができる存在は、おそらく人間が筆頭でしょう。

 詩人は「人が家に棲む それは絶えず何者かと 果敢に闘っていることかもしれぬ」と結ばれています。「何者」かというのは「自然回帰(return to nature)」「自然へと引き戻す引力の働き」という現象でしょう。卑近な例で言うなら(不謹慎であることを承知で)、2011年3月の福島原発爆発事故で、「放射能汚染」地域が拡散・拡大し、今なお足を踏み入れることが困難な地域が存在しています。住居は荒れ果て、農地も荒廃するに任せています。「自然に帰った」と言うべき事態・状況でしょう。人間の生活の痕跡が失せると、原初の自然が回復するのでしょうか。つまりは、人間が「文化」や「文明」というものを武器にして「自然を破壊」(開発)してきたこと、その(文化・文明)生活が消滅すると、たちまちのうちに元の自然(野生)状態に戻るというのでしょう。

  「廃屋」

 人が
 棲まなくなると
 家は
 たちまちに蚕食される
 何者かの手によって
 待ってました! とばかりに

 つるばらは伸び放題
 樹々はふてくされて いやらしく繁茂
 ふしぎなことに柱さえ はや投げの表情だ
 頑丈そうにみえた木戸 ひきちぎられ
 あっというまに草ぼうぼう 温気にむれ
 魑魅魍魎をひきつれて
 何者かの手荒く占領する気配
  
 戸さえなく
 吹きさらしの
 囲炉裏の在りかのみ それと知られる
 山中の廃居
 ゆくりなく ゆきあたり 寒気だつ
 波の底にかつての関所跡を見てしまったときのように

 人が
 家に
 棲む
 それは絶えず何者かと
 果敢に闘っていることかもしれぬ

 存在するすべてのものには「年齢」「経年」があります。人でも物でも、機械でも自然でも。それぞれの「対象物体」には「耐用年数(寿命)(lifespan)」というものがあるでしょう。これは自然界においても妥当します。樹齢数千年と言われる樹木がいくらも数えられています。もっと言えば、地球という惑星もまた「耐用年数」という限界があるはずです。人間はどうか。今日では声高に「人生百年時代」と称されています。実際に百歳を超えてなお健康で人間らしい生活を営むことができている人の数は増加傾向にあるという。

 百歳人口が、まさに十万人になろうかという時代に、ぼくたちは共時・生存しています。そのすべての人が健康で丈夫な生活を営んでおられるかどうか。この一方で、高齢者の急激な増加によって「認知症(dementia)」(「老化という自然現象」)とされる症状(状態)に支配される人も急激に増加しています。「廃屋」と「認知症者」を同一視するのは論外であると、筆者も考えますが、しかし、現実を直視するなら、あながち荒唐無稽だともいえない事情(事態)もあると思われます。「壊れた家は悲惨ではない」というパスカルのことばの含むところは、「自分は悲惨であると知ることができない」からだというのでした。自分の状況・状態を自覚するかしないか、とても大きな差異があるでしょう。

 識字教育の実践において大きな成果を記(しる)した、ブラジル出身の教育学者は、農民との対話の中で、「あちらにある森の中に一本の松がある。そこは『世界』だと言えるだろうか」と一人に質問した。問われた農民は「『これが世界だ』という人間がいなければ、そこは世界ではない」と答えたといいます。農民たちが永い間、地主に「搾取され、支配され、抑圧されていた」時、「これが搾取である」と地主との関係を言い当てる表現を持たなかったがゆえに、「搾取」「支配」「抑圧」こそが当然(自然)の日常であって、地主のおかげで自分たちは生きていられると、思い込まされて(思い込んで)いたのです。状況や事態を言い当てる言辞を持つことこそ、支配・抑圧関係を破るきっかけになった。支配階級からすれば、迷惑なことだったでしょう。無知蒙昧な農民が「目覚めた」のですから。これを「教育」というなら、あらゆる段階の「無知の状態」からの解放をこそ、ぼくたちは果たさなければならないのではないでしょうか。「学歴」に終始する教育なんか、糞喰らえ、ですね。

 表現はひとまず置いておいて、「自分は認知症」であるという自覚を失わないことはとても重要だし、果たして、それは可能なのかという大きな課題がぼくたちに課されていると思う。「無知」に陥る落とし穴は、日常のいたるところに準備されています。「認知症」で困るのは、罹患しているご当人ではなく、周りにいる人びとであるのがほとんどなのだ、ということを熟考したい)

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「禅問答」ではなく、「腹芸」なんだ

 電力会社と原発設置県知事との「会談」はしばしば「禅問答」などと呼ばれてきました。その説明はコラム「日報抄」で述べられている通り。ぼくに言わせれば「出来レース」「八百長」ですよ。まるで歌舞伎「勧進帳」の如くで、いかにも「会談」をしているように見せるが、その実は「怪談」だったりするのがほとんどです。有り体に言うなら、それは、なにより知事選に当選するためには「電力会社票」が入らなければ知事の座はおぼつかないのですから、だから、有り体に言うなら「腹腹芸」なんだ。知事になるためには、嘘でもいいから「原発設置・稼働大賛成」が、候補たる資格の不可欠条件です。仮に反原発を訴え、苦労して当選したとして、その後の知事職継続は困難を極めるでしょう。反原発を訴えて当選した知事の多くは非業の離職を遂げているのが何よりの証拠です。

 (ヘッダー写真はNHK「東京電力の小早川社長は21日、小林喜光会長と新潟県庁を訪れ花角知事と会談しました」2025年1月21日)

 「禅問答」は修行僧(雲水)と師匠のやり取りで、大悟の師と無知の雲水では勝負にならないのが相場。とるすなら、電力会社社長と知事は、ぼくに言わせれば「同志」「同胞」であって、そこはそれ、「言わず語らず」で話(原発容認)はついているのです。これをいうなら、ぼくは「腹芸」、しかも「真っ黒な腹芸」と言いたいですね。これを言うのも憚られるほどに、できているんですよ。いわば現代版「勧進帳(かんじんちょう)」です。「源義経主従が山伏姿で奥州に落ちて行く途中、安宅関に至り、弁慶は勧進帳(今風に言うなら、クラウドファンディング募集の趣意書)を読みあげ、さらに、疑いをはらすために主(義経)を打ちすえ、無事通過する」、歌舞伎十八番の一つにあります。恐らく、これも役人(富樫)たちは弁慶・義経一行だと見破っていた節があり、見て見ぬふりをする。一種の八百長ですね。「今は疑ひ(うたがい)晴れ候ふ(そうろう)。とくとくいざなひ(い)通られよ」東電社長になるくらいの人物、原発設置県の知事になるくらいの人物は、何時だって、阿吽の呼吸で「勧進帳(白紙)」を演じているのです。お互いが「厄介者の原発」があればこそ、ウィン・ウィンでいられるからです。いかにうまく芝居をするか、観客もこれが「八百長」「勧進帳」だと知っているのは、彼等にも、幾分かの利得は回ってくるからです。

【日報抄】禅問答とはもともと禅宗の修行の一つを言う。修行者が疑問を問い、師匠が答え、高尚な会話になる。しかし、私たちには難しすぎて理解しにくい。転じて、筋の通らないやりとりを指す意味になったようだ▼原発という難解な問題だからか。時々、禅問答を連想するような話に戸惑う。先日、東京電力の小早川智明社長と柏崎市の桜井雅浩市長が面会した時もそうだった。注目されたのは原発再稼働後の一部廃炉だ▼社長は「廃炉を含む最適な電源構成の道筋を確実に付ける」と回答したが「廃炉を約束したものではない」と強調した。一方、市長は「確実な一部廃炉への意思表明だ」と評価した。つじつまの合わない会話をどう受け止めればいいのか。水面下の調整もあったようだが、はたから見ていて理解に苦しむ▼原発再稼働問題を巡って、市長は花角英世知事の言葉にかみついた時もある。「禅問答を繰り返す時期ではない。政治家の判断がなされる時期だ」と不満をあらわにすることもあった▼禅問答と批判された知事は再稼働受け入れ可否の結論を出していない。判断材料とする公聴会や県内首長との懇談会が終わり、最後の県民意識調査が残る。判断を示すのは10月末以降になるという▼柏崎刈羽原発は東日本大震災の後、長らく動いていない。早く再稼働させたい国や東電の考えはさておき県民が納得のいく落とし所を探ってほしい。原発という難しい問題だからこそ分かりやすい議論を期待したい。主役はあくまで県民だ。(新潟日報・2025/09/29)

 だから、こんなところで「禅問答」を持ち出すのは、どういうことかと、ぼくは訝る。あえて言うなら、それは「蒟蒻問答」ではないでしょうか。コラム氏も、この会談(怪談)が「八百長」「勧進帳」であることを先刻承知で「禅問題ですね」と、話の本筋を逸らすための楽屋話を持ち出しているのです。新潟日報が「反原発」であるはずも、いられるはずもないからです。批判的言辞を弄するのが記者の才能・腕前。読者にバレないように書くのはなかなかの芝居であって、まるで「大相撲の勝負」みたいなもの。これを八百長と騒ぐのは「野暮」言われるのがオチ。「みなまでいうな」という話ですね。勝負(取り組み)の前に「話(かた)」はついているんですね。

 これぞ、「禅問答」か、あるいは「腹芸」の熟練達成か。「柏崎刈羽原発は東日本大震災の後、長らく動いていない。早く再稼働させたい国や東電の考えはさておき県民が納得のいく落とし所を探ってほしい。原発という難しい問題だからこそ分かりやすい議論を期待したい。主役はあくまで県民だ。」コラム氏は「県民の納得」する「落としどころ」があると考えておられるんですか。「分かりやすい議論」ができると考えているのですか。原発問題の「主役は県民」とは、「嘘だあ」、という声が頻りだけれど。

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 しかし、せっかく「禅問答」が引き合いに出されたのですから、有名な「公案」を一つ・二つ。その一 「隻手音声(せきしゅのおんじょう)(白隠の創始とされます)両手を打ち合わせるから音がするのであり、片手だけなら音はどうなるかという、これが「禅問答」です。両手がそろって初めて打ち合う音がする、つまり「自他合一」、あるいは「正→反→合(弁証法・Dialektik)」ということでしょうか。対象と自分が一つになることで「妙音」が出るというのです。これに似た「公案」がプラトン(ソクラテス)にもあります。両手を打つと音がするが、音が出たのは「左手」によるのか、「右手」によるのかというもの。同じことを、1+1=2となるが、どっちの1が 2 を作ったかという、まことの無理難題を吹っ掛けています。

 もう一つ。「趙州無字(じょうしゅうむじ)」~「無門関」第一則」です。「趙州和尚、因みに僧問う、『狗子(くし)に還(かえ)って仏性有りや也、また無しや』。州云(いわ)く、『無』」。趙州という大和尚に一人の僧が訊ねた。「狗(犬)」に仏性があるかどうか。趙州、答えていう、「無」と。大事なのは「あるかないか」ではなく、「無そのもの」、つまりは「真空無相」が真相なんだという。眼前の岩と我が身が一体化する、「岩」があり、「我」があるのではなく、一体化した境地、「即ち無」こそがあるべき姿なのだというらしい。

 「色即是空」「空即是色」というのかしら。「(色即是空とは)仏語。この世にある一切の物質的なものは、そのまま空(くう)であるということ。「般若心経」にある語」「(空即是色とは)仏語。一切の存在は現象であって空であるが、その空であることが体得されると、その現象としての存在がそのまま実在であるとわかるということ」(「般若心経」)(デジタル大辞泉」

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 再稼働の技術準備10月にも 柏崎6号機で不具合解消 東京電力は25日、新潟県の柏崎刈羽原発6号機で起きていた制御棒に関する不具合が20日に解消したと発表した。原子炉圧力容器底部にある「制御棒駆動機構」に不具合があったと判明したため、これを取り外して予備品に取り換える。再稼働に必要な技術的準備が10月中旬にも整うとの新たな見通しを示した。/ 制御棒は核分裂を抑える役割の重要設備。東電によると、8月25日に205本の制御棒のうち1本が引き抜けなくなる異常が発生していた。 /東電は同原発7号機の再稼働を先送りし、6号機を優先している。6号機は2017年、再稼働の前提となる国の原子力規制委員会の審査に合格。テロ対策の不備が発覚して運転禁止命令が出されたものの、その後解除となり、25年6月に燃料装填が完了している。 /同原発の稲垣武之所長は25日の記者会見で「冬の(電力)需要に貢献できれば大変いい。技術的な準備をできるだけ早くしたい」と話した。ただ再稼働は地元の同意が焦点。花角英世知事は県民の意向を見極めた上で是非を判断し「県民の信を問う」としている。(共同通信・2025/09/25)

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はら‐げい【腹芸】読み方:はらげい=芝居で、役者がせりふや動作に出さず、感情を内面的おさえてその人物の心理を表現する演技。はかりごとを言葉や行為に出さず、腹の中で企むこと。また、直接言葉で指示するのではなく度胸や迫力で物事を処理すること。また、そういうやり方。「—のできる政治家」3 あおむけに寝た人の腹の上で芸を演じて見せる軽業(かるわざ)。また、腹に顔などを書き、これを動かして見せる芸。(デジタル大辞泉)

◉ こんにゃく‐もんどう‥モンダフ【蒟蒻問答】[ 1 ] 落語。二代目林屋正蔵作。にわか坊主になったこんにゃく屋の主人が旅僧に禅問答をしかけられ、口と耳が不自由なふりをしていると、無言の行ととりちがえられるおかしさを、見立て落ちとしぐさ落ちで結ぶ。[ 2 ] 〘 名詞 〙 ( [ 一 ]から ) とんちんかんな問答、返事。蒟蒻屋問答。(精選版日本国語大辞典)

◉ 柏崎刈羽原発= 新潟県柏崎市と刈羽村にまたがる東京電力の原発。1~5号機は福島第1原発と同じ沸騰水型軽水炉、6、7号機は改良型で全7基が停止中だ。総出力は821万2千キロワットで世界最大規模。東電は2013年、原子力規制委員会に6、7号機の再稼働の審査を申請し、17年に合格した。7号機の再稼働準備を進めていたが、25年6月に核燃料を入れた6号機を優先すると方針転換した。再稼働は立地自治体の同意が必要とされ、花角英世はなずみ・ひでよ知事は態度を明らかにしていない。更新日:2025年7月12日(デジタル大辞泉)

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「徒然に日乗(865~871)

〇2025/09/28(日)午後にかみさんを茂原まで送る。要件を済ませて、帰路に。その途中でいつものスーパーに出向き、食料品を購入する。帰宅後、久しぶりに庭の植え込みの剪定や除草作業を行う。およそ2時間ほどだったが、かなり汗が出てきた。作業終了後はシャワーを浴びる。この間、25日に避妊手術をしたばかりの猫が作業中は小生のそばで、よく遊んでいた。まだ手術後、間もないので、当然のように術跡(縫合)は完治していない。10月2日に「抜糸」の予定。▶ただ今午後9時過ぎ。室温25.7℃、湿度76%。明朝には雨の予想。しかし、予想気温は30℃を超えるという。あるいは、今季最後の30℃越えかもしれないともいう。(871)

〇2025/09/27(土)ただ今午後9時。室温26.1℃、湿度61%。午後2時ころに、かみさんを乗せて茂原まで。しばらくは(運転免許証を持たないかみさんの要望に応えて、運転手を務めることになるだろう)▶高かかった血圧もやや落ち着きかけている。夕刻に測定したら、163/92/60だった。頭痛は少し緩和された感じがしている。何よりも睡眠不足がたたっているのは間違いなし。多くの日は10過ぎに就寝、翌朝2時から3時ころに、猫に起こされて床を出るので、実質は3時間の睡眠状態が続くことになる。このところ、「避妊手術」を控えていた猫の世話(管理)にも時間をとられたこともあったのも、高血圧の一因だったかもしれない。▶、ある政党の総裁選挙の有力候補者に「卑劣な行為」と称される問題が発生していたのが公然と明かされた(文集報道)。お粗末極まりない醜態が周知の事実になった。「自民党総裁選候補の小泉進次郎農相は27日、インターネット配信動画へのコメント投稿を巡り、陣営内で参考文例を示して要請していたことを受け『二度と起こらないよう、緊張感を持って最後まで戦い抜く』と述べた。自身の責任については『知らなかったとはいえ、責任は私にある』と重ねて強調した。東京都内で記者団の質問に答えた」「責任私にある」と広言することが、すなわち「責任を果たす」ことだとさ(共同通信・2025/09/27)(870)

〇2025/09/26(金)昨日に続いて、午前9時前に動物病院。昨日午後に手術をした猫の引き取りに。無事に手術も終わり、約一週間後には手術部分の抜糸をして、今回の治療は完了の予定。▶帰宅後、再度あすみが丘に出向き、猫缶の購入。どういうわけか、このところ、家の猫同士のいがみ合い(喧嘩)が絶えないのには困惑するばかり。外の猫との喧嘩が小康を保っているに反して、同士の喧嘩が頻繁で、約一匹が騒動の下になっている。家の猫の中でも「優劣争い」が行われている風に思われる。どうしたものか。▶この数日の血圧の異常な高さは、ようやく収まり、160台に落ち着いたかと思える。何かと面倒なことが重なったことも一因であり、睡眠不足もあっての高血圧状態だったと思う。この先も、十分に気を配りつつ、小康を保っていきたいと念じている。▶血圧測定:【157(最高血圧mmhg)/93(最低血圧mmhg)/63(脈拍/分)(午後3時ころ)(869)

〇2025/09/25(木)午前9時前に動物病院へ。生後約半年の猫の「避妊手術」のため。先週(18日)にも予定されていたが、猫の体に「のみ」がたかっているので、とても預かるわけにはいかないと、フロントラインのシャワーとシャンプーで駆除して、一週間間後の指定。本日になった次第。先週よりはよほどすっきりしていたが、いくらかはいそうだった。それでも、医師は管理をしっかりして手術するという。事もなければ明朝の開院時に引き取りに。▶帰宅後、かみさんが茂原のアスレチックに行くということだったので、十時半ころに送る。(その後に茂原警察に免許証再交付と小生の新免許証申請に行くつもりだったが、体が疲れていたので、本日は中止)来週あたり、日を改めて出直すことにした。(868)

〇2025/09/24(水)ただ今午後10時50分。室温23.2℃、湿度62%。一週間前までの気候が信じられないくらいの秋日和(秋冷)。このままさらに、秋の気配は進むのだろうか。同時発生の台風は、当面は劣島への影響はなさそうだが、進路に当たるところでは強烈な暴風雨等の影響を享けそうだ。▶近所のHCで、猫用の「ゼリー状」の食糧を購入。今月初め(10/01)に「怪我」をした猫のために。帰路に、近くにある「道の駅」に寄ってみた。久しぶりの顔出しだったが、以前の賑わいはまったく見られず、どうしたのだろうか、品揃いも実に貧弱なものだった。この変化はどうしたものかと、不思議な気がした。拙宅の隣のかみさんが「店長」だ。(867)

〇2025/09/23(火)「秋分の日」だった。時に雨粒が落ちてきたりする、はっきりしない天気。気温は25℃程度で、凌ぎやすかった。湿度は60%を割っていたと思う。汗をかかないというのは、こんなに体が楽なのかと、改めて思う。▶今年の春先に家のすぐ先で水道管の水漏れがあった。緊急工事をしたが、本日、本格的なアスファルト舗装をするという連絡があった。「自動車の出入りがあるので注意してください」という案内。▶午前中だった。「国勢調査」の用紙をもって町内会の人が来られた。この地に越してきて、二回目だと思う。10月8日までが回答期限で、ネットでも記述可能だという。すでにネット調査は9月20日から始まっている。▶昼前に諸々の品物を買うために茂原まで。家から出るさまざまな塵類を入れるためのナイロンの袋(数種)を「百均」で買うことにしており、それを補充する必要もあった。その途中でガソリンの補給を。いつでも「レギュラーを満タン」にというのが小生の習慣。本日は「166/1㍑」、最近では安い方だったか。▶久しぶりにある解剖学者のネット番組を視聴した。「老いについて」という主題で、最近、彼自身が「一過性の全健忘」を経験したことを語っていた。Yさんのすべてがいいとは思わないが、大方の「身体論」「世界観」には同意するところが多いというか、大いに参考になると覗いている。(866)

〇2025/09/22(月)ただ今午後9時半。室温24℃、湿度57%。「秋冷の候」、そのものの雰囲気が漂う一日だったと思う。▶自民党総裁選挙の告示日。予想されていた5名が立候補。ほとんど興味らしいものが、ぼくの中からは湧いてこない。「嘘つき政治の権化」という看板を何十年掲げて来たか。今は、腐敗菌で汚染された「自民党の解党」の最中だと思われる。内政・外交共に関心も確信も抱かせない為体(ていたらく)で、「団栗の背比べ」候補者。はっきり言って、この程度の輩たちが国家・世界を論じること自体、笑止千万だ。定見も政見も持てないままで、漠然と「総裁」になりたい、あわよくば「総理」になりたいという願望風を出任せに吹かせている、そんな空気が充満しているようだ。▶かみさんが図書館へ行くというので、車で送る。午後、彼女から電話があり、「AUショップに行ったが、取り合ってもらえなかった」という。予想していた通りの行動で、かなり焼きが回っていると思うほかない。自分からは「思い込み」を取り除けることができないのだ。自らの作り話(想念)に振り回されているのだと思う。上書きもできなければ、リセットもできないところが苦しいのだし、気の毒に思う。免許の再交付を考えているが、この状態のままでは直ちに茂原署に行くわけにはいかないと判断している。時間をおいて、事態を十分冷静に判断できるまで待機した方がいいだろうと考えている。幸いなことに明日は官業も「休日」だ。当方の本音は「運転を止める」と言い出してくれないか、と。(865)

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「嘘か真か」わからないのは「嘘」か

◎ 週の初めに愚考する(八拾九)~ 深夜、ラジオでとても嫌なニュースを聞いた。現在、党首(総裁)選挙期間中のある政党の各候補者が、「ヤラセ投稿」「ステマ(八百長)偽装」を支持者に要請していたK候補者に対して、それぞれが「(K氏は謝罪した)私自身は『ワン自民』で建設的な議論を交わす場にしたい」「(K氏は)責任を感じて話しているのでみんなでフェアにやっていきたい」「(K氏は)責任をとって謝罪したのはリーダーとしてあるべき姿だ」「(皆さんと)同じ意見だ」と、他候補者は何とも度量の広い(擬似)寛容の精神を示されたという。「腹の中」ではまったく違うことを考えているのに。醜悪だなあ、と思う。自分たちで作ったルールさえも守れない人間が、何かの「代表」になれるのも、なんとも緩み切った組織(の体を成していない)だと言いたくなる。それが総理大臣に直結するとなると、話は別。こんな味噌が付いた人物は、まっぴらごめんとぼくは断言しておきます。

 寝ながらイヤフォンを耳にしていたぼくは、この麗しい「友情」というか、仲間友愛意識に、思わず「反吐を吐きそうなった」ほどだった。気色が悪すぎますね。「裏金・脱税(議員)問題」には揃って口を閉ざし、すでに禊(みそぎ)が済んだのだから「裏・脱議員は要職に」とか、いまは「挙党体制」「ワンティームで」党を建て直す時期とかなんとか、すべて臭いものには蓋をし、汚染物には「水をかけて除染」して終わり。「お茶を濁す」というやつですね。「 言葉をあいまいに、なにかとごまかす」というお家芸でしたな。「百年河清を俟つ」というのは、本当にある事柄なんですね。「常に濁っている黄河の濁流が澄むこと。望んでも実現しないことのたとえ」(デジタル大辞泉)、これが政治改革の本筋だということは分かりきっている。やり過ごす、時間を稼ぐ、これまた葉が年の政権党のお家芸(十八番)でありました。

 恐らく、卑怯千万の選挙妨害を企てた、根拠不明の人気者であるK候補を叩けば、非難が自分に回ってくると勘繰った節がある、それも各候補者が相談ずくでの一芝居(茶番)だったと思う。そうでもしなければ、この政党は「自壊」を更に進めると思ったか、自分だけ悪者にされたくないと考えたか。いずれにしても、愚かしい限りだと思う。今までの永田町政治にも政治家にも、ぼくはいささかの期待も持たなければ、関心すら湧かないでいます。誰が腐った政党の「総裁」になろうがなるまいが、知ったことではないとは言わぬが、勝手にどうぞ、と言うばかり。

 寄って集(たか)って「Ishiba降ろし」をした連中が、「解党的出直し」を叫ぼうが、政治改革を嘯(うそぶ)こうが、不真面目そのもの、と顔に書いてあるのだから、実に噴飯もの。こんな政党が敗戦後、ほぼ一貫して国政を壟断(独り占め)していたのだから、国民も堕落を後押ししていたのだからな、と言ったら殴打・打擲されるか。もはや国自体に余力も推力もなくなっているのが現実。屑は屑なりに、塵は塵なりに「国家存亡の危機」に名乗りを挙げてはいるが、その「音声(おんじょう)」は何処に届いているのだろうか。「サル芝居」と言えば、猿が怒ろうというもの。茶番劇だと言うなら、「臍で沸かしたお湯」で淹(い)れた「お茶」かと誰かが言うでしょう。

 「茶番はもともとは「お茶汲み当番」のことであり、つまり文字通りお茶の用意をする者(役割)を意味した。かつての芝居小屋では、下働きの役者見習いが茶番をしたが、その茶番らが暇を見つけて余興演芸に興じるようになり、その即興の芝居を茶番というようになった。これが転じて「見え透いた下手くそな」「ばかばかしい」行動を指すことになった、とされている」(実用日本語表現辞典)

自民総裁選 小泉陣営の好意的コメント投稿要請に各候補者言及 自民党総裁選挙の候補者5人は27日、党のインターネット番組でユーチューバーのチャンネルと同時配信する形で、討論に臨みました。経済政策や外国人政策などをテーマに論戦を交わしました。
この中で、小泉農林水産大臣の陣営内で動画配信サイトに小泉氏に好意的なコメントを投稿するよう要請が行われていた事案について質問が出て、各候補者から言及がありました。
小林・元経済安全保障担当大臣は「小泉氏は謝罪し、再発防止に努めると言っているので私自身は『ワン自民』で建設的な議論を交わす場にしたい」と述べました。
茂木前幹事長は「小泉氏はきちんと責任を感じて話しているのでみんなでフェアにやっていきたい」と述べました。
林官房長官は「小泉氏が責任をとって謝罪したのはリーダーとしてあるべき姿だ」と述べました。
高市・前経済安全保障担当大臣は「同じ意見だ」と述べました。
また、小泉氏は、事案について改めて説明した上で「ほかの候補の皆さんにこの問いに答えなくてはいけない環境をつくってしまい、申し訳ない」と述べました。(以下略)(NHKWEB・2025年9月28日 0時02分(ヘッダー写真も)

 もう一つ。「地球は丸いか」と問われて、どう答えますかという問題。「この国の政治に正義(や誠実)があるか」と問うのに似ていなくもない。上の「総裁選(虚)」候補者の中で、最も若い(という意味は、何事にも足りないところだらけということ)候補者が、どんなに優秀で、政治的才能が豊かかと誉めそやすのは、あまりにも嘘くさいがゆえに「ネットでそう言われているのだから、きっと本当なんだ」と信じ込む愚者や狂人が出ないとも限らないということ。「近ごろはSNSの情報が正しいかどうか、メディアが検証する『ファクトチェック』も盛んだ」といわれているが、血迷うな、それが一番危ないのだということらしいから、世も末ですね。

【有明抄】地球は丸いか 本当はフクシマで原発事故は起きていない。ヒロシマに落とされたのも原爆ではなかった…。ドイツ在住の作家多和田葉子さんは、たまたま乗ったタクシーの運転手から、こんな話を聞かされた。信用できるネット情報だという◆多和田さんはこう返した。「ところで地球が本当は四角いってご存じでしたか? インターネットに書いてありましたよ」。さっき、あなたの言ったことは、これほど珍妙な話ですよ、と。運転手はキツネにつままれたような顔をしたそうである◆ひとは自分の間違いを認めたがらない。信じるものを否定する意見には目もくれず、肯定してくれる見方を好む。近ごろはSNSの情報が正しいかどうか、メディアが検証する「ファクトチェック」も盛んだが、テレビで見た視聴者がかえって事実と誤認する皮肉なケースも少なくないとか◆「移民が押し寄せる」「給食で特別扱いしている」「大規模な住宅建設を許可した」…各地で外国人政策にまつわる誤情報が広がり、社会を混乱させ、ひとを傷つけている。国際協力機構(JICA)の交流事業は撤回を余儀なくされた◆ごく一部にすぎない、声高の極端な意見がSNSで「世論」のような顔をして、間違いを「無視できない事実」に書き換えてしまう。そのうち地球まで四角にされてしまうのではないか、と気持ちがふさぐ。(桑)(佐賀新聞・2025/09/28)

 「ごく一部にすぎない、声高の極端な意見がSNSで『世論』のような顔をして、間違いを『無視できない事実』に書き換えてしまう」という状況に陥っているのは、この社会も例外ではありません。「嘘八百」というのは、すべてが嘘ということです。よく言われる「千三つ」とか「万八」などと同じで、九分九厘が嘘ということです。件(くだん)の政党総裁選挙候補者の「公約(膏薬)」を耳にするだけで、誰もが信じてしまう「嘘八百」です。「口から出任せ」ではなく、「口から嘘っぱち」とはこのこと。「ファクトチェック」は誰がするんですか。「日本を豊かな国にします」「政治に信頼を取り戻します」「だれ一人取り残しません」と叫ぶのは、国民を心底から虚仮(こけ)にし、この国を食い潰した輩・連中ですよ。「嘘から出た真(まこと)」とは「でたらめで言ったことが、はからずも実現されるさまを意味する表現。騙すつもりで言ったことが現実になる、など」(実用日本語表現辞典)「どんな真」が出てくるのでしょうか。「正体見たり枯れ尾花」とまずは言っておきます。

 そして、たくさんの唾(saliva)を用意しておくこと。眉唾(物)というでしょ。「《眉に唾(つば)をつければ狐(きつね)などに化かされないという言い伝えから》 だまされないよう用心すること。「眉唾物」の略」(デジタル大辞泉)

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しら露もこぼさぬ萩のうねり哉

 本日の誕生日の花は「萩」だそうで、「ラジオ深夜便」に教えられました。わが庭にも、草むらに一本の萩があります。「江戸小紋」などという洒落た名を持っている萩で、どこかの植木市で購入したものです。当地に越してすぐに植えたと覚えています。手入れが行き届かないので、あまり褒められた育ち方をしていないのは、まことに不憫というか、庭番の不始末ですね。

 表題句は芭蕉、元禄6(1693)年秋。門弟かつ強力な支援者だった杉風(さんぷう)の別邸「採茶庵(さいた(だ)あん)」の萩を詠んだとされます。右は巣鴨真性寺の芭蕉句碑(「題辞は「杉風萩」)とその裏の杉山杉風の句(「萩植えてひとりみならふ山路かな」)が有名だそうです。鯉屋杉風を継いだ「梅人」が寛政5(1793)年に、ここに建てた。江戸時代には巣鴨は萩の名所だったとされます。ぼくは何度となく巣鴨に足を運びましたが、ついぞ、名所の名に値する萩を観る機会はありませんでした。不勉強でしたね。奥ゆかしい萩の「うねり」を愛でたのが芭蕉なら、この方はもっと激しい萩の葉の揺れるさまを詠み上げています。

 いかにも「革新・改革派」らしいというべきでしょうか。萩の枝のしなり具合は、少々の風も受け流し、なお葉の上の白露を戴いたままという、芭蕉の読み取った風情がいいんですね。それに反して、子規さんは「しきりに露をこぼす」白萩にいちゃもんをつけているような趣もあります。寝たきりだった子規さんからすれば、その激しい運動量が羨ましかったのかもしれません。この当時はまだまだ元気でしたが。子規庵のあった根岸からはそれほど離れていない巣鴨に、子規さんは萩を観賞に出かけたことがあったかどうか。どこかに触れられていたかもしれませんが、この部分に関わるぼくの記憶はすっかり消滅しています。明治25年に上根岸に転居するのも、彼の後援者の陸羯南が住んでいたからで、その東隣に住む。下に出した句は、翌26(1893)年に作られたという。同じ萩でも、風を受け止める姿がまったく異なるのですから、妄想を逞(たくま)しくして言うと、おそらく子規先生は芭蕉句を意識していたかもしれません。

・白萩のしきりに露をこぼしけり(子規)

● 杉山杉風 すぎやま-さんぷう(1647-1732)= 江戸時代前期-中期の俳人。正保(しょうほ)4年3月生まれ。松尾芭蕉(ばしょう)の門人。家業は幕府御用の魚問屋で,深川の別荘を芭蕉庵に提供。芭蕉に「東三十三国の徘徊(はいかい」奉行」といわれた。享保(きょうほう)17年6月13日死去。86歳。名は元雅。通称は鯉屋藤左衛門,市兵衛。別号に採荼(さいだ)庵,蓑翁(さおう)など。編著に「常盤屋句合(ときわやのくあわせ)」「冬かつら」など。【格言など】がつくりと抜け初むる歯や秋の風(「猿簑(さるみの)」(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

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【三山春秋】▼排外主義やヘイトスピーチなど特定の人を差別するニュースを頻繁に耳にするようになった。激しく相手を攻撃する言動に触れると、いやが応でも人種や国籍を意識させられる▼こうした差別を発端にした悲惨な事件が1923年9月の関東大震災後に起きた藤岡事件である。混乱する社会情勢の中で「朝鮮人が井戸に毒を投入する」といった流言が広まった▼企業主は雇用していた14人を守るために藤岡署に保護を依頼し留置場に収容されたが、自警団が署員の制止を振り切って留置場を破壊し殺害した。朝鮮人という理由で他の3人も標的にされ、藤岡市内で計17人が命を落とした▼市史は〈朝鮮人についてのデマや情報は、人々の恐怖と敵がい心をあおっていった〉と経緯を記す。慰霊祭が今月開かれ、市は「正確で迅速な情報発信を行い、市民の安全を守る責務を改めて胸に刻む」とのメッセージを発信した▼総務省の人口動態調査によると、本県の外国人住民の割合は東京都、愛知県に次ぐ3番目である。たくさんの外国人が県内で働き、地域経済を下支えしている。異なる文化や風習を理解しようとする心を持ちたい▼慰霊祭を主催する市民団体「藤岡事件を学び伝える会」の秋山博会長は「昨年と比べて排外主義に危機を感じる」と懸念を示す。多文化共生に力を入れる本県にとって、教訓とすべき事件を決して忘れてはならない。(上毛新聞・2025/09/27)(左写真・関東大震災後、伝聞の流言などを伝える栃木県内の地域紙(写し))

 無理にこじつける気もありませんが、芭蕉が「しら露も…」を読んだのが1693年。子規の「白萩の…」句は、1893年。関東大震災は1923年。本日は2025年9月。何かの因縁があるというのではありませんが、330年前の「しら露もこぼさぬ萩のうねり」から、200年後の「白萩のしきりに露」をこぼした時期は、日清戦争前夜。その直後に子規は、陸羯南発刊の「日本」の社員となり、日清戦争の従軍記者となって出かける(途中で喀血、帰国)。やがて、1923年9月、関東大震災で、白萩どころか、劣島の大地が揺れて、「朝鮮人虐殺」という禍々しい事件が起こっています。

 ここで何かを言うつもりもないのですが、お家の事情で「排外主義」はいつだって起こりえるという、目下の風潮を想わざるを得ないと言いたいだけです。ある政党の総裁候補者の一人が「外国(中国)人が奈良の鹿を殴る・蹴る」とはけしからんと息巻く始末。言うに事欠いて、風評被害を外国人排斥に託(かこつ)けて演説する為体(ていたらく)です。「鹿に危害」は政治・外交問題なんですか。ネット上で「外国人が鹿に危害を」の複数の映像が残されています。これはこれで「事件」であり「由々しい問題」であるることは間違いありません。しかし、それを掴まえて、政治や外交の問題にする意図は何ですか。近年頓(とみ)に政治家の人品骨柄が卑しくなり、さもしくなったのは、なぜでしょうか。「排外主義やヘイトスピーチなど特定の人を差別するニュースを頻繁に耳にするようになった」(「三山春秋」)理由は、もともと「国民性の素質」であると考えられる「排外主義」が、たまたま時の世情や政情に煽られて、燃え上がったのでしょうか。

 秀吉の朝鮮出兵や明治維新直後の「征韓(朝鮮出兵)論」の奔出、さらには朝鮮半島の併合(植民地化)等々、いともお気軽に「隣国敵視」に走るのは理由があってのことですが、それは外側にあるというよりは国内(政変)事情によるところが大であるというべきで、敵視された国々ははた迷惑もいいところです。「歴史に学ぶ」「歴史を学ぶ」というのはどういうことを指すのか、徹底して考えてほしいと、無駄とは知りつつも、政治家諸君に願うばかり。

 (いつだって米国の下僕にであり続ける中、しかも完全に虚仮にされているのだから、その鬱憤の腹いせに、時には、捌(は)け口を「自分より弱い(と勘違いしている)国」に求めるんですね。「鬼畜米英」が通用しないから、「膺懲(ようちょう)するは隣国にあり」という、底抜けの愚かさです。なんとかしたいが、手がないですね。

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第3ラウンドのゴングが鳴った

【春秋】ジミー・キンメルと考える米国「らしさ」とは こんなことまで笑っていいのだろうか。そう驚き、あきれ、時に不謹慎さに眉をひそめつつも米国流ジョークをうらやましく感じてきた。政治、人種、宗教。何でも笑いの俎上(そじょう)に載せる自由は米国らしさの一つだろう▼その自由を権力が脅かす。人気コメディアン、ジミー・キンメル氏の長寿トーク番組が一時休止に追い込まれた。保守系政治活動家の射殺事件に関し、トランプ大統領支持層を皮肉った発言が保守層の猛反発を浴びた▼連邦通信委員会のトップは放送免許剥奪の可能性をちらつかせ、テレビ局は休止を決定。トランプ氏は煙たい存在であるキンメル氏の退場を歓迎した▼ここで終わらないのも米国らしさか。ハリウッド俳優ら多くの著名人が「言論の自由への弾圧だ」と声を上げた。局の親会社ウォルト・ディズニー社への批判も高まり、一転して再開へ▼休止明けの番組でキンメル氏は「重要なのは、このような番組を持つことが許される国に住んでいること」であり、権力側の一連の動きを「非米国的」と指摘した▼似た事案は日本でも。9年前の「安倍1強」政権下。当時の高市早苗総務相は、政治的公平を欠く放送を繰り返せば「電波停止」もあり得ると答弁し、政権のメディア介入だと物議を醸した▼一つの深夜番組が、言論の自由の危機を巡る騒動に発展する。これも合衆国憲法修正第1条で表現の自由を保障する「米国らしさ」か。(西日本新聞・2025/09/26)

 御多分に漏れず、アメリカ社会でもメディアの衰退は著しいと、ぼくは見ています。もちろん、その凋落ぶりは、もはや消滅寸前のメディア社会である日本の低劣さの比ではないのは言うまでもありません。彼の地の全国メディアの一角を占めているABCネットワークで放送されていたジミー・キンメルさんの「トークショウ」が政権の忌諱に触れたとかいう理由で、番組の一時中止(中断)が伝えられました。9月半ばのことでした。コメディアンの番組という以上に、テレビ局側と権力との確執が尾を引いていたということだったと思う。その経過は、昨年末に遡ります。

* ジミー・キンメルが帰ってきた!https://www.youtube.com/watch?v=c1tjh_ZO_tY

「ABCニュース、トランプ氏の名誉毀損訴訟で和解(CNN) トランプ次期米大統領が米ABCニュース電子版の記事で名誉を傷つけられたとしてフロリダ州の連邦裁判所に起こした訴訟で、14日に和解が成立した。/ABCニュースはトランプ氏の基金と博物館に1500万ドル(約23億円)を寄付するほか、弁護士費用として100万ドルを支払い、謝罪する。/問題となったのは、今年3月にABCアンカーのジョージ・ステファノプロス氏が共和党のナンシー・メイス下院議員とのインタビューで、トランプ氏は元雑誌コラムニストのジーン・キャロル氏を強姦(ごうかん)したとの評決を受けたと10回繰り返したとされる発言。/トランプ氏は同月、この発言は「虚偽で悪意があった」としてフロリダ州の連邦裁判所に訴えを起こした。/キャロル氏は1990年代半ばにトランプ氏に強姦され、同氏がこれを否定したことで名誉を傷つけられたと主張している。/陪審はトランプ氏がキャロル氏に性的暴行を加え、名誉を毀損(きそん)したとして昨年500万ドル、さらに今年初めに8330万ドルの賠償金支払いを命じる一方、キャロル氏が強姦されたことは証明できないとする評決を下した。/トランプ氏はキャロル氏を名誉毀損で反訴。これに対して判事は昨年8月、トランプ氏が広い意味でキャロル氏を強姦したと認定し、訴えを棄却していた。/トランプ氏はこれまでも複数の報道機関を訴えてきた。10月末には米CBSが放送したハリス副大統領とのインタビューをめぐり、100億ドルの損害賠償を求める訴訟を起こしている」(CNN・2024.12.15 )(https://www.cnn.co.jp/usa/35227326.html)(ABCと大統領選の「第1ラウンド」は「番組内での「強姦発言」であり、第2ラウンドは「名誉棄損」での大統領側の「提訴」でした。「強姦の有無を」争う裁判でした。そして、今回が駄3ラウンド)

 ジミー・キンメル氏、米テレビ放送に復帰-トランプ氏は再び攻撃 米深夜番組の司会者ジミー・キンメル氏は23日夜、テレビ放送に復帰し、保守系活動家チャーリー・カーク氏殺害に触れた自身の発言について、「若い男性の死を軽んじるつもりは決してなかった」と述べた。/キンメル氏は「自分が誰かを非難したと受け止めた人がいるなら、怒るのも理解できる」と語った上で、殺人の容疑者を「病んでいる」と表現。カーク氏の夫人エリカ氏が追悼式で犯人を許す考えを示したことについては、「私たちが見習うべき手本だ」と述べた。/ウォルト・ディズニー傘下のABCは17日、「ジミー・キンメル・ライブ!」を無期限に停止すると発表。キンメル氏はその2日前、保守派がカーク氏殺害を政治的に利用しようとしているとの見方を示していた。(中略)/キンメル氏は自身の発言を巡る論争について、自分の番組は重要ではないとした上で、「重要なのは、このような番組を持つことを認めている国に私たちが暮らしているということだ」と語った。(以下略)(Bloomberg・2025/09/24)(https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2025-09-24/T32SX8GPFHXT00)

 政権側からの横やりが入って、ABCが放送中止・中断(suspension)を決めたのが9月17日、復帰が決まった(「復帰させろとの横やり」があったかどうかは分からないが」)のが9月23日だと言いますから、その間にテレビ会社は、政権側やさまざまな方面との折衝に時間を費やしていたのでしょう。いかなる理由があったにせよ、「言論の自由」そのものを、政権側が介入し抑圧したのは事実であり、テレビ局はそれに屈したのも明白でした。この一週間の「空白」は何だったのでしょうか。以前から、大統領側は、キンメル氏は政権にとっては目障りだったし、それ以外にもマスコミが示す大統領への批判に「不快」以上の感情を持っていたのは隠せない事実でした。だから、思い切り「介入」を果たして、思い通りに番組を潰したと判断したのかもしれませんが、直後に、そうではなかったことが明らかになる。「批判はするな、潰すぞ!」と脅迫されて、おとなしく引き下がるのもまたアメリカ流だったのでしょうか。(註 ABC(American Broadcasting Company)は、 ウォルト・ディズにニー・カンパニーのディズニー・エンターテインメントの一部門であるディズニー・ゼネラル・エンターテイメント・コンテンツが運営) (右写真は「米カリフォルニア州ハリウッドのハリウッド大通りにあるエルキャピタン・エンターテインメントセンターの外で、「ジミー・キンメル・ライブ!」の放送休止に抗議するデモの参加者」(2025年9月18日撮影)。(c)Chris Delmas/AFP)

 番組復帰放送をぼくは見ました。いつになくキンメルさんは緊張していたと思う。彼らしくないとは言うまい。それにしても、これほどに硬い表情で、カメラの前で話す彼も珍しいというべきか。「番組復帰」への折衝時の内容(妥協点)がわかるような気もしました。彼の強張った情は、コメディ(comedy)がトラジディ(tragedy)になったのだから当然と言われるかもしれないが、ぼくはそうは思わない。問題とされたのはこの番組だけではないところに、アメリカ社会の政治権力の腐敗と独裁化の特質があるのです。恐らく、新聞テレビを含めたメディア社会は、権力の介入や抑圧に「戦々恐々」としているのでしょうか。何を恐れているのか。米国憲法修正第一条を頭から否定し、足蹴にすることでしか、自らの権力の強靭無比という暴虐性を知らしめることができないと短慮する現大統領の存在に尻尾を巻き、揉み手をする卑しい態度こそが、腐った権力の横暴を助長するのだということを、メディア側は、なぜ態度で示さないのだろうかと、ぼくには腑に落ちないのだ。

 腐った、邪悪な「権力」は一陣の風が立てる音にも神経を尖らせている。木の葉の戦(そよ)ぎにも苛立つのだ。「深夜のコメディ番組」で、ここぞとばかリ笑い飛ばされ、虚仮にされたと思っただけで、番組への介入という愚挙に奔った、その結果、彼等は地雷を踏んだという(命取りなるほどの過ち)ことに、悲しいかな気が付かない。そこには「政治」は存在しないのであって、腐った権力の維持のみに汲々としている姿があるだけ。「世界の(裸の」王様」は、飼い犬に手を噛まれ、使用人に寝首を掻かれるかもしれないことを恐れているのです。「バカに付ける薬はない(There’s no cure for stupidity)」という。ABC(に代表されるメディア側)vs 現大統領側の戦いは第3ラウンドに入りました。はたしてこの先、殴り合いでは規則破りの乱闘がつづくのでしょうか。それとも誰か(何か)の介在で「痛み分け」に終わるのでしょうか。これまでの戦いの経過を見ていると、おそらくどちらかが「KO」勝ち(負け)することで、当面の決着がつくだろうと思います。分断され切ったかに思えるアメリカ社会、いったい誰がその分断によるダメージを癒すことができるのでしょうか。

 彼の国では「市民戦争(Civil War)」やむなしの声(叫び)が大きくなっていると言われます。「南北戦争」の再来です。ささやかな「堤防の亀裂」でしかないキンメル問題の、この後の帰趨如何では、驚くべき展開が始まるかもしれません。これをぼくは「対岸の火事」だから言うのではなく、目下の我が国、わが社会の現実が、米国の近未来を示していると思っているから、そう駄法螺をかましたくなるのです。この社会に「(正しい意味での)言論の自由」があるか、権力批判を止めようとはしない、信頼に足るメディアが存在しますか。極端な貧富の差が放置されていませんか。排外主義がさらに先鋭化していませんか。…。どこまで堕ちるのか、「底まで、さ」という声が、闇の中から聞こえます。(*トランプ氏の国連演説 国連批判と説教と自慢https://www.youtube.com/watch?v=oTL8ShOb0DY

【筆洗】ことわざに<幽霊の正体見たり枯れ尾花>という。尾花とはススキのこと▼幽霊だと思ったものは、よく見たら風に揺れる枯れススキだったという意味から、恐怖心があると、何でもないものまでが恐ろしいものに見えることをいう。疑うと暗がりに鬼が見える「疑心暗鬼」と、言わんとすることは同じである▼とるに足らぬトラブルに見えたが、ご本人には陰謀と映り、疑心暗鬼が募っているらしい。トランプ米大統領が演説のため国連本部を訪れた際、夫人と乗ったエスカレーターが急停止し、やむなく歩くことになった。演説時のプロンプター(原稿映写機)の不調なども合わせ「妨害工作だ」と怒り国連に調査を求めたそうだ▼エスカレーターに関しては、先回りして大統領を撮影していた米政府カメラマンが誤って安全装置を作動させた可能性を国連が指摘していたが、大統領は納得していないらしい▼国連主導の温暖化対策をくさし、露骨な自国優先主義で多国間協議に関心を示さぬ人だから、嫌う国連職員は確かにいそうだけど…。国連は徹底調査するそうだ。緊張が氷解する結論が出ることを願うのみである▼疑心暗鬼がよく生まれるのは戦場で、夜、無数の鳥が飛び立つ音に敵襲かと平家が混乱に陥った伝承は有名。全ての国は幽霊でも鬼でもないと言葉で和に導くのが国連の仕事だろう。軽んじられてはいけない。(東京新聞・2025/09/26)

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