【金口木舌】勢いづく不寛容 何か変だと思っても、それが自分とは考えない。相手を変だと決めつける。独善的な「モノサシを固定化した瞬間に人は不寛容になる」という。解剖学者の養老孟司さんの著書「ものがわかるということ」に教わった▼自らを批判する相手を変だと考える。それが絶大な権力を手中にする人だと厄介だ。及ぼす影響も計り知れない。トランプ米大統領だ。敵対的だと判断したテレビ局に対し放送免許を剥奪する可能性に言及した▼モノサシに表現の自由といった規律の目盛りはないのだろう。あからさまな無思慮が政治で通用すると知らしめた。日本も人ごとでない。10年近く前、政治的公平性を欠く放送を繰り返す放送局に電波停止を命じる可能性に総務相が言及した▼憲法の擁護義務は国にある。表現の自由も本来は国が保障すべきことだ。表現を脅かし、萎縮させる言及は今も取り消してない▼養老さんによれば、思い通りにならないことを受け入れるのが寛容の始まり。そうして努力や辛抱、根性を学ぶという。政治もしかりだが今は裏腹。世界で不寛容さが勢いづく中、日本は無縁でいられるか。踏ん張りどころだ。(琉球新報・2025/09/25)

「寛容は+」で、「不寛容は-」、そんな印象(イメージ)を持っていませんか。いつだって、ある種の「思想」に対して、寛容と不寛容という「矛盾した思考」が、ぼくの中で対峙・対立しながら共存しています。「相手のいうことは変だ」と自分は考えるが、同時に相手もまた「こいつは変だぞ」とみていることはいくらもあるでしょう。どんな考えを持とうが、自分は相手のその思考の存在は受け入れる(否定はしない)、それこそが「寛容」だと考えてはいますが、その極端な「思考」を実践に移すとなると、話は別ということにならないか。一例として「ヘイトスピーチ」があるでしょう。「移民の受け入れは、国情からしてもやむを得ない」と考えて、その政策を実施する方向を求める人がいれば、反対に「移民は犯罪を犯すから、受け入れは反対だ」と考えるだけならまだしも、実際排斥行動に出る人もいるでしょう。
この際、自分は「受け入れ賛成」なのだから「受け入れ反対」の行動をとる人には「不寛容」になるということはあるでしょう。どんなに極論を言う人がいても、その極論(extreme opinion)は「容認しない」「同意しない」と考えるけれども、その極論(「考え」)そのものが表明されるという自由は認める(賛成・同意するということではない)、それが寛容の精神ではないでしょうか。「自らを批判する相手を変だと考える」ことは構わないが、「敵対的だと判断したテレビ局に対し放送免許を剥奪する可能性に言及した(実際にそうした)」大統領の行為には、ぼくは断固反対します。思考の段階から、それを実行に移す危険性や具体性があれば、反対するということです。「寛容」は「不寛容に対して寛容であるべし」と言った思想家がいましたが、それは、いつでもだれにも妥当する真理ではないと思う。

不寛容の時代、不寛容の社会という相場が方々で定まりつつあります。「気に入らない番組を流す放送局」に政治的圧力をかける、挙句には免許制である「電波使用」を「停止」云々する、そんな事態が深く進行しているのも、この社会の現実でしょう。「政治権力を批判する」、そんな連中をテレビに出すのは怪しからんと権力者が言ったかどうか、それは別次元の話ですが、そういうかもしれない、そういうはずだと「忖度(そんたく)」すれば、おそらくテレビ局は「自己規制」「自己検閲」を働かせて、権力側に気に入られるような番組編成を行うと考えられる。この社会のメディアの多くは、悲しいかな、そんな「忖度」大好き集団となっているようにぼくには思われます。

「(独善的な)モノサシを固定化した瞬間に人は不寛容になる」という養老さん。同じく「思い通りにならないことを受け入れるのが寛容の始まり」とも。これは、自分と相手という、二人の人間の関係ならわかりやすいが、ひとりの人間の中に、こんな「矛盾」が生じることはいつだって起こり得ます。そこが面倒なところ。ぼくたちはいつだって「寛容と不寛容の間を揺れている」存在であると、ぼくは自分のことをも捉えている。事態に応じて、時には寛容に、時には不寛容にというのは、とても困難な態度ですけれど、それを間違いなく判断するのはさらに困難です。自分は理不尽な「差別」を許さないから、「差別するもの」には不寛容であるのは当然。しかも、不合理であったり、理不尽であったりする政治や法律には寛容でありたいとは思わない。そもそも「悪法(非理性的な法律)」は「悪法」として、それには反対するのが当然という立場にぼくは立ちたい。それゆえに「法を犯す」ことがあるかもしれないという覚悟はいつでもある。(例えば、かの「治安維持法」、あるいはこれからの「スパイ防止法」的なものを、ぼくは思い描いている)

「世界で不寛容さが勢いづく中、日本は無縁でいられるか」とコラム氏はいわれるが、この「日本」とは「自分」のことですから、無縁どころか、「不寛容さ」に対峙することに躊躇してはいられないと考えている。つまり、「世界で」の中に「日本」が入るのだから、「日本で不寛容さが勢いづく中、自分は無縁でいられるか」と問い直すと、無縁でいられるはずがないじゃないかということになる。(その昔「世界と日本」という奇怪な言辞が大流行しました。「日本は世界の外」にあるという妄想が、第二次世界大戦を破滅に導いたのでした。それは「日本人と人類」というくらいに荒唐無稽だけれど、時として、それを真顔で政治信条の如くに表明する、それを、ぼくは「自民族中心主義(ethnocentrism)」と呼ぶことにしています。
***

本日の駄文の中で三冊の既読文献を挙げました。ぼくがもっとも教えられたのは渡辺一夫氏からでした。彼は欧州ルネサンス期のラブレーやエラスムスの極めつけの研究者でした。若いころは、それこそ狂気せんばかりに、渡辺「痴愚神礼讃」を読んだものでした。養老氏(解剖学者)は、今でも時々ネットでご高説を拝聴している。思考にもかなり癖のある人で、ぼくは、「自分もそうなのかなあ」と反省することもあります。
++++++

〈「寛容のパラドックス」については、あまり知られていない。無制限の寛容は確実に寛容の消失を導く。もし我々が不寛容な人々に対しても無制限の寛容を広げるならば、もし我々に不寛容の脅威から寛容な社会を守る覚悟ができていなければ、寛容な人々は滅ぼされ、その寛容も彼らとともに滅ぼされる。――この定式において、私は例えば、不寛容な思想から来る発言を常に抑制すべきだ、などと言うことをほのめかしているわけではない。我々が理性的な議論でそれらに対抗できている限り、そして世論によってそれらをチェックすることが出来ている限りは、抑制することは確かに賢明ではないだろう。しかし、もし必要ならば、たとえ力によってでも、不寛容な人々を抑制する権利を我々は要求すべきだ。と言うのも、彼らは我々と同じ立場で理性的な議論を交わすつもりがなく、全ての議論を非難することから始めるということが容易に解るだろうからだ。彼らは理性的な議論を「欺瞞だ」として、自身の支持者が聞くことを禁止するかもしれないし、議論に鉄拳や拳銃で答えることを教えるかもしれない。ゆえに我々は主張しないといけない。寛容の名において、不寛容に寛容であらざる権利を。〉(カール・ライムント・ポパー 著、内田詔夫,小河原誠 訳『開かれた社会とその敵 第1部 プラトンの呪文』未来社、1945年)
++++++++
(昨日の午後から、猛烈に頭が痛い。恐らくそうだろうと判断して「血圧」を測定したら、200mmhg(ミリメートルマーキュリー)直前まで数値が上がっている。昔から血圧はそんなに高くはなかったし、偏差値は最も低かったというのに。こんなに決悪が高くなっていいだろうかという気もします。「高い数値の」理由はいくつか思い当たるので、それほど心配はしていない。なぜだか本日に限って予定が立て込んでいるが、十分に気を付けたい。つまりは無理をしない(I don’t push myself too hard.)ことだね。午前九時前には猫の「避妊手術」のために動物病院へ。先週は猫の身体に「ノミ(及び蚤の卵)軍団」がいたので、手術は延期されたのでした)
IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII










































