「戦後」の前と後に「戦前」はある

【卓上四季】「戦後」は遠くなりにけり ナショナリズムが高まる大正期のことだ。人間愛を掲げた雑誌「白樺」の影響を受け、文芸や絵画の回覧誌「楽天」を発行したグループが旧制松山中学にあった▼伊丹十三の父、万作や後に映画監督となった伊藤大輔、俳人中村草田男、東宝などでメガホンを取った山本薩夫の兄で建築家となる勝巳らそうそうたる顔ぶれである▼岸田劉生に心酔した重松鶴之助もメンバーの一人だった。春陽会、国画会展に連続入選し、「日本を代表する一四〇人の洋画家」にも選ばれた画才である▼転機が訪れたのは童画家として伸び悩んでいた伊丹の苦境を救おうと、松山で関東風おでん屋を開業したころのことだ。かつての楽天発行仲間で、労働運動家となっていた白川晴一らの苦境を目の当たりにし、社会変革運動へ傾倒したのだった▼満州事変の勃発で軍国主義が台頭し、戦争遂行が最優先となる中、思想弾圧と人権侵害の横行が耐えられなかったのだろう。出征兵士に反戦ビラを配布したとして逮捕され、獄中で自ら命を絶ったとされる。1938年(昭和13年)の11月である。35歳だった▼重松逮捕の翌年、中村は「軍隊の近付く音や秋風裡(り)」と詠んだ。昭和初期、明治の開国期の気骨を失った世相を憂えた中村である。非戦を誓った「戦後」が遠のく現代を見たら、どんな句を残しただろうか。(北海道新聞・2025/11/02)

◎ 週の初めに愚考する(九拾參)~ 「日米首脳会談」が慌ただしく行われた。その際、米国大統領は「日本が大量の武器(軍事装備)の注文をしてくれたことに感謝する」と、会談冒頭で話し出した。総理大臣になってからまだ数日しか経ていない段階で、しかも国会も開かれていない日程で「大量の武器(戦闘機やミサイル等)発注」が為されていたのだが、誰がどこで決めたのでしょうか。「本年度の補正予算」で、と首相は言うが、国会審議はもう済んでいるのか。まったく、秘密裏に、米国大統領のご機嫌取り(媚を売るということ)のために、実に姑息な手法で物事を決めているのです。

 今から十年以上前の政権では、国の行方を決定しかねない重要な案件を、国会審議を抜きにして、つまりは「閣議決定」という異様な方法で次々に決定して行った。繰り返し駄弁っているように、もはやこの国では民主主義は機能しておらず、国権の最高機関と自称し、他称されてきた国会は骨抜きにされています。国会議員のきわめて異常なサボタージュだというべきでしょう。現内閣は、安保関連法や武器輸出三原則も「改訂」すると明言しています。さらにはスパイ防止法の制定にも言及している。ほぼ「与党」勢力となっている国会の事情を考慮するなら、どこに向かってこの国が進むのかは明らかでしょう。十年以上前の内閣が暴挙と言うべき破壊行為を国会に持ち込んで強硬に推進してきたその事情を、現首相は側近として、つぶさに見ていたのですから、その「二番煎じ」を演じているのは火を見るよりも明らかです。少数与党と言いながら、その弱体化を補って余りある「右翼勢力」が議会で多数派を形成しています。現政権だけに目を奪われていると、とんでもない事態に追い込まれるのは避けられないし、すでにその一歩、いや三歩も先に進んでいる。

 米大統領の歓心を引くためなら「体を張る」とまで言いかねない現首相です。気が付けば、すっかりこの国は米国の「植民地」になってしまったと、言いきって間違いないでしょう。「自主独立」「自尊」の気概や感情は何処に行ったのでしょうか。身分不相応の「軍事大国」になって何をするというのか。「専守防衛」の「憲法」(国のかたちを決めるもの)が聞いてあきれる。特に「先制攻撃」に傾いた、この国にもっともふさわしくない「敵基地攻撃能力」を高めるためにと莫大な税金を投入して買ったレーダーや武器類も、今では「無用の長物」と化しています。この国は米国の「ATM」だと以前にぼくは口にしていましたが、今では「植民地支配(治外法権・関税自主権の剥奪状態)」を受ける羽目になっているというべきです。

 「国防」という美名に費やされる天井知らずの税金投入。この国の「軍事大国化」を長く縛って来た、防衛予算の「GDPの1%」も、何時しか破棄され、今は2%、更に3%へと増額する旨、すでに宗主国に「約束した」と言う。この本予算に加えて「補正予算」が加わり、更に莫大な軍事武器購入費(40兆円超)のローン支払い(後年度負担)が重くのしかかってくる。何度も繰り返すことですが、莫大な軍事費を使って武器を買い、防衛効果を高めるというのでしょうが、いったいそれは何のためですか。現下、早晩、開戦に至らざるを得ない国があるのでしょうか。「台湾有事は日本有事である」と叫んでいるけれど、それは誰が言っているのか。「台湾」は中国の一部だと、日本も公然と認めている国際常識です。

 「戦後」は遠くなりにけり、と多くの人は今を語ります。それはまた「戦前」は近くなりにけり」ということになるでしょうか。現首相は盛んに「日本は戻って(帰って)来た(Japan is back)」と、意味不明のフレーズを叫んでいます。「どこに戻った(帰った)」のでしょうか。強い日本を取り戻すともいう。国力を測る物差しは何ですかと、ぼくは訊きたい。経済力? 軍事力? あるいは「国民性」「文化」も考慮されているでしょうか。「力」を求める人間は、「力」によって滅ぶか、滅ぼされるに違いありません。「働いて、働いて、働きぬく」という「やる気満々」の雄叫びは、なんのためのものですか。いろいろなことを考えて、ぼくの答えは「現下の日本社会の行方」は、もと来た道に戻るものではないということ。大きくならなくても、強くならなくてもいい。他者と仲良く、余計な諍いを生まないような生き方をする個人のように、国もまたそうであってほしいと只管(ひたすら)願うばかりです。だから、余計なことはしてくださるなと、心からの注文を出しておきます。

 その昔の中国の歴史書「十八史略」に、「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)」という逸話があります。そこに登場する農民の言たるや良し、「帝力なんぞ我に有らん哉」と。真面目に政治道を踏んでいれば、「政治権力」の存在などいささかも気にする必要もなくていいというような、そんな「政治哲学」の物語(歴史)です。

 …治天下五十年。不知天下治歟、億兆願戴己歟、不願戴己歟。問左右不知、問外朝不知、問在野不知。乃微服游於康衢、聞童謡。曰、
立我烝民、 莫匪爾極、 不識不知、 順帝之則。有老人、含哺鼓腹撃壌而歌。曰、日出而作、 日入而息、鑿井而飲、 耕田而食、帝力何有於我哉。

 (中国伝説上の聖人「尭」の即位時代のこと。自分の治世がうまく行っているかどうか、彼はとても知りたがったが、誰もそれを教えてはくれない。そこで、変装して街に出て子どもの謳うのを聞いたところ、「帝王のおかげでないものは、何一つない。みんな幸せだ」と謳っていたという。あるところでは、一人の老人がいて、口に何かを含みながら、腹を打ち、足で地面を叩きながら、何か歌っていた。

 「はく、でてし りていこ うがちてみ たがやしてらふ 帝力ていりょくなんわれらんやと」(日の出とともに田畑に出て耕し、日が沈むとともに家に帰って休む。井戸を掘って水を得、田を耕して食を摂る。帝王の威力が、どうしてわしの生活に関係があるか」と。これは神話以前の「夢物語」、中国を通してこの島国にももたらされた「為政の極致」を語るお手本(お伽噺)となったもの。こんなものをここに出して、ぼくは誰か、何かを侮るつもりも笑うつもりも毛頭ありません。ただの「お話(歴史)」に触れただけのこと)

◎ じゅうはっしりゃくジフハッシ‥【十八史略】= 中国の史書。二巻。元の曾先之撰。太古から宋代に至る歴史を「史記」から「新五代史」までの一七の正史と宋関係の史料によって記述したもの。編年史で、逸話風に書かれている。現行のものは明の陳殷が注解をつけて七巻にしたもので、日本では室町末期から江戸時代にかけ盛んによまれ、明治以後も漢文教科書として用いられた。(精選版日本国語大辞典)

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 北海道新聞のコラム「卓上四季」に中村草田男さんたちが出てくる。この当時の松山中学の生徒たちの、その後の人生がどんなものだったか、ぼくには想像に余るものがあります(中村さんの中学入学は1914年)。なんとも壮観と言うか、厳粛と言うべきか。もしこのような人々に学校教育の影響が及んでいたとしたら、の話ですが。彼の代表句の「降る雪や明治は遠くなりにけり」は、自身が出た青南小学校を、卒業以来、20年ぶりで訪ねた時(昭和6年、30歳)、多くの子どもたちが校庭に出て遊んでいる、そこに雪が降り出してきたという。(…)また、大学卒業後に勤めた成蹊学園教師時代、戦場に赴く「教え子たち」に餞(はなむけ)の一句として詠まれたという、「勇気こそ地の塩なれや梅真白」がある。ぼくの深く好む一句です。句意はよくわかりません。「戦死などするな」ということだったか。梅の白さに草田男さんは何を見ていたか。そして、まったく背景の異なる、長閑な晩秋(初冬)の一瞬を詠んだ「あたゝかき十一月もすみにけり」も。昨日挙げた佐藤鬼房さんの「霜月の朔何かありさうで」とはまったく相対するというのでもないという句として、ぼくは好んでいる。この両者は俳句の世界では、おそらく相容れなかったでしょうね。

◎ 中村草田男(なかむらくさたお)(1901―1983)= 俳人。明治34年7月24日、中国福建省厦門(アモイ)生まれ。本名清一郎。東京帝国大学独文科から国文科に転じ、正岡子規(しき)を卒論とする。1928年(昭和3)『ホトトギス』を読み、翌年、東大俳句会に入り、水原秋桜子(しゅうおうし)の指導を受けた。その後『ホトトギス』の新人として台頭、評論にも活躍して1934年、同人に推される。当時の新興俳句運動には終始批判的態度を通し、日野草城(そうじょう)のモダニズムを徹底的に非難した。石田波郷(はきょう)、加藤楸邨(しゅうそん)らとともに人間探求派、難解派とよばれる。第二次世界大戦中は「自由主義者」と中傷、圧迫された。『ホトトギス』を離れ、1946年(昭和21)『万緑(ばんりょく)』を創刊、主宰。生命賛歌というべき作品が多い。社会性俳句、前衛俳句を批判して、現代俳句の指導的存在でもあった。昭和58年8月5日没。句集に『長子』(1936)、『火の島』(1939)、『万緑』(1941)など、童話に『ビーバーの星』『風船の使者』など。成蹊大学教授。母校の東京・南青山の青南小学校に「降る雪や明治は遠くなりにけり」の句碑がある。(日本大百科全書ニッポニカ)

【有明抄】戦隊ヒロインの時代 高市早苗首相あこがれの「鉄の女」サッチャー氏が英保守党で初の女性党首に選ばれたのは1975年。吉永小百合さんが新作映画で演じた登山家田部井淳子さんが女性初のエベレスト登頂を果たしたのもこの年。もう一人、歴史を変えた女性が登場した◆ペギー松山さん、といってもマニアの方しかご存じないかも。「秘密戦隊ゴレンジャー」のモモレンジャーである。男性隊員が活躍する特撮ヒーローものの世界で、それまで女性隊員は控えめに救護や通信など業務のサポート役。それが「エイヤッ」と戦いの最前線に立った◆男性の中で奮闘するヒロインは以後「戦隊ヒーローシリーズ」に受け継がれていく。結婚して子どもができたら仕事は続けられるか。親が老いたら介護も必要になるだろうし…。そんな心配など無縁の世界で、正義のために24時間を仕事にささげる彼女たち◆〈つまり、見た目は女ながら、『最も男らしい女性』なのだ〉とは、鈴木美潮著『ヒーローたちの戦いは報われたか』の指摘である。そんなスーパーウーマンだけが男性と平等に働ける、と誤った固定観念を植えつけてしまった、と◆半世紀続いたそのシリーズも終了が決まった。制作費高騰には勝てなかったらしい。劇中以上に大活躍するヒロインが現実になった時代。働き方改革で休みに入った、ならいいのだが。(桑)(佐賀新聞・2025/11/02)

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 ◎参考資料
 10年経っても「安保法制は違憲だ」 法律のプロは訴える 「閣議決定」は乱発され、民主主義は傷を負った  
 第2次安倍晋三内閣が憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使容認を閣議決定してから10年となった1日、元最高裁判所判事や元内閣法制局長官ら法律家が集まり、声を上げた。「それでも安保法制は違憲だ」。彼らが強い問題意識を持ち続けるのはなぜか。10年前の閣議決定は、日本の議会制民主主義に深い傷を与え、今も余波を広げていないか。(山田祐一郎、森本智之)
◆元最高裁判事は「国会で議論するべき問題を内閣がどんどん進めた」
 「本来、三権分立の原則がある中で、立法府である国会で議論するべき問題が、行政府である内閣によってどんどん進められてしまった」。1日、東京・霞が関の弁護士会館で開かれたシンポジウムで、元最高裁判事の浜田邦夫氏がこう問題点を指摘した。
 シンポジウムは第二東京弁護士会が主催。登壇した法律家らは2014年7月1日の閣議決定や、翌年成立の安全保障関連法が憲法に違反すると改めて訴えた。
 法案審議中の2015年9月、公述人として参加した参議院中央公聴会で浜田氏は「法案は違憲」と明言。さらに「いまはなき内閣法制局」と、合憲性のチェック機能を果たしていない法の番人を痛烈に批判した。シンポジウムでは当時を振り返り、「原稿なしで公聴会に臨んだ。そういう思いがあったので、言葉として出てきた。違憲であるという点ではいまも考えは変わらない」と述べた。
◆元内閣法制局長官は「憲法9条1項に反している」
 第1次安倍内閣時の2006年から民主党政権期の10年まで内閣法制局長官を務めた宮崎礼壹氏は、集団的自衛権の具体的な違憲性を指摘した。「憲法9条1項は、武力の行使は『国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する』と書かれている。国際紛争は他国の武力紛争に介入すること。集団的自衛権は明文に反する」と説明。さらに「集団的自衛権は憲法上許されない」とした1972年の政府答弁を挙げ「40年にわたる積み重ねがある解釈をひっくり返すことになる」。集団的自衛権を行使できる「存立危機事態」のあいまいさも強調した。
 「本来、政府のやろうとしていることについて憲法に合致しているという理屈をこねるのが内閣法制局。『権力の犬』とも言われたが、それでも、だめなものはだめだ」と断言する宮崎氏の定年後、第2次安倍内閣で閣議決定された。
(中略)
◆「議論しない」「説明しない」自民党に定着
 議論しない、説明しない、という振る舞いは、閣議決定に限らず、さまざまな政治の場面で目立つようになった。例えば予算編成で、国会審議を経ず内閣が自由に使える予備費や基金が乱用されるようになった。批判的な質問をはぐらかす答弁は「ご飯論法」と呼ばれ国会審議で繰り返される。政治アナリストの伊藤惇夫氏は「第2次安倍政権で、官邸の指示一つで全てが動くようになった結果、官邸が決めたことに批判したり注文を付けることがなくなった。議論不要論が自民党で定着し、議論する文化そのものが消えてしまった」と嘆く。
◆デスクメモ
 閣議決定は全員一致が原則だ。反対して罷免された閣僚もいる。「桜を見る会」を巡り「首相夫人は私人」という「これも?」と感じる閣議決定もあった。何かにつけて漂うのは、異論を封じ、数の力で押し切りを図る近年の政権の姿勢。民主主義が骨抜きになる危険が膨らんでいる。(北)(東京新聞・2024/07/04)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/337701)

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「坊主憎けりゃ…」は「えくぼもあばた」

【産経抄】帰ってきた「後ろから鉄砲を撃つ男」、石破前首相の振舞い この人が首相の座を退いたら、自民党内野党の立ち位置に戻って政権批判を繰り返す評論家みたいになるのだろうと予想していた。さぞや左派・リベラル系マスコミに重宝されるであろう。「仲間を後ろから鉄砲で撃つ」といわれる石破茂前首相のことである。▼高市早苗内閣が発足して10日もたたないうちに、中国新聞のインタビュー(10月28日取材、30日配信)で政権批判を展開した。公明党の連立離脱と、日本維新の会の加入については「自民党政治がいわゆる保守の路線に傾くことにすごく違和感がある」。コメ政策の転換は「不愉快な話だ」と吐き捨てた。▼元自民政務調査会調査役で政治評論家の田村重信氏は著書で自民、社会、さきがけの自社さ連立政権当時、清新さがあったというさきがけの菅直人元首相の変遷を指摘している。「(野党となり)ネガティブなことばかり口にしていると、心が負の力で浸食されてしまう。こうして菅は性格がねじ曲がり、人相もどんどん変わっていった」。▼思えば石破氏も安倍晋三内閣の地方創生担当相を終えて党内野党になり、安倍氏やその政権への批判を強めてから暗いイメージが付きまとうようになった。自民の現幹部は「石破さんも幹事長時代は迫力もあったし、もっと好印象だった」と振り返る。▼そもそも自民には、新首相がやりやすいよう前首相はできるだけ発言を慎む文化があった。にもかかわらず石破氏は、前掲の中国新聞記事で「(新政権が)正規ルールでできたのだから、党員として支えていかなきゃいかん」と言いつつ、こう宣言した。「ただ、無批判に従うということではない」。▼石破氏に首相経験者らしい大人の振る舞いを求めるのは、ないものねだりか。(產經新聞・2025/11/01) 

 「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」(「その人を憎むあまり、その人に関係のあるものすべてが憎くなるというたとえ」・デジタル大辞泉)コラム「産経抄」氏は、どんな人物なんでしょうか。大人(たいじん・おとな)でないことは誰にも明らかだし、男嫌いでもないのは「故元総理大好き」派だったことでわかります。前首相の一挙手一投足が気に喰わない(癪に障る)、あるいは箸の上げ下げ、飯の喰い方まで嫌いで嫌いでたまらないということでしょうか。ぼくも、彼の飯の食べ方は下品だと見たし、余りの汚い食べ方に、どんな育ち方をして来たかと、驚き桃の木でした。「人前で、モノを食うな」と、辺見庸さん(「もの食う人々」の著者)ならずとも指摘したくなる。食事作法を喧しく言う人がいなかったのでしょうが、それを連れ合いや子どもたちがどうして黙認して来たかという、不信の念はありますよ。でも、年端のいかない子どもではないどころか、一国の総理大臣にまでなった人だから、これは治らないものと、周りの者は諦めたのかもしれない。

(ヘッダー写真は「三夕図(さんせきず)」土佐光成筆・江戸時代・17世紀 東京国立博文館所蔵)(新古今集』の「寂しさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮れ」(寂蓮)、「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」(西行)、「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」(藤原定家))

 それにしてもコラム氏の「罵詈雑言(ばりぞうごん)」は酷(ひど)すぎると、「悪口」では人後にに落ちないかと変な自信を有する、このぼくでさえ思うのだから、何という新聞記者(ではないかもしれぬ)だろうと、更に訝りは深まるばかり。「仲間を後ろから鉄砲で撃つ」というのは本当でしょうか。物は言いよう、批判は受け取りようですよ。產經コラム氏の言い分は、まさしく言うに事欠いた「いいがかり(false accusation)」であり、その根本には「唯我独尊(vanity)」と「問答無用(no questions asked)」と言う教条(ドグマ)が同居している政治的スタンスにあるでしょう。つまるところは、独断・独裁の主と見ました。つべこべ文句は言うな、誰に対して口を利いているんだという具合に。ここにも手の付けられない「阿呆」「幼稚者」がいるという感じですね。記者にしておくのが惜しいと、ぼくは思ってしまう。「產經組の若頭」然としていて、親分を守るために鉄砲玉になる勢いがあります。その「親分」は「故元首相」であり、跡目を継いだ「奈良の女親分(姐さん)」ですね。

 今回のドタバタ政局では、メディアの果たした立ち回りは凄かった。ズボンもパンツもつけないままで、そう「素っ裸」で「石破降ろし」に駆けずり回り、「奈良の女親分」誕生に一肌(諸肌)脱いだのですよ。そんな美しくない素裸は見たくなないけれど、今なお、裸のままで永田町辺り(界隈)を闊歩している。永田町は野蛮極まる居住地ですね。恐らく、故 A 元首相に対して、あれこれのマスコミ・メディアの面々は「息を潜め」「気に入られよう」と、「忖度」教の信者になりきっていましたね。ぼくが彼を評価しないのは、そもそもの始まりからでしたが、今はそれは問うまい。強く出る者には下手(したて)に、与(くみ)しやすしと見れば、それこそ前から後ろから鉄砲をぶっ放す。いやな連中ですよ。つまり、政局は幕になってもまだ、田舎芝居の役者気取りのままで、新聞やテレビは「大根役者」を演じ続けている。どういう国なんですか。満州事変前後にも絶えて見られなかった、メディアを筆頭に、それこそ一億総痴呆状態ですな。国を亡ぼす仕業ですよ。「亡国に至るを知らざれば、これ即ち亡国也」(田中正造)。

 要するに「あばたもえくぼ」というわけ。「恋する者の目には、相手のあばたでもえくぼのように見える。ひいき目で見れば、どんな欠点でも長所に見えるということのたとえ」(デジタル大辞泉)と辞書は解説します。「惚れたが悪いか」、と開き直りもいいところだが、裸で開き直られたら、目のやり場に困る。「そもそも自民には、新首相がやりやすいよう前首相はできるだけ発言を慎む文化があった」とおっしゃるが、嘘つけ、と言いたいですね。どこの「自民党」のことか。ここまでくると、「えくぼもあばた」となるほかないようです。この夜盗・追剝のような「政治家集団」に、そんな「(発言を慎むなどという)しおらしい文化」があったかね。贔屓の引き倒しということか。「ひいきし過ぎて、かえってその人を不利にする」(同上)ことになりませんか、と言うより、すでになりかけている。

 「石破氏に首相経験者らしい大人の振る舞いを求めるのは、ないものねだりか」と產經コラム氏は当てつけがましいけれど、第一、「大人の振る舞い云々と、君が言えた義理かい」とぼくは口を開いていうまでです。產經新聞などは、身の程もわきまえないで、白昼堂々と「前首相」を前から後ろから羽交い絞めにしてまで、総裁の椅子から引きずり降ろした一味だったではないか。ぼくは「ないものねだりはしない」、產經にも読売にも毎日にも、その他同類新聞には「倫理」も「誠意」も、「社会正義」も求めてなんかいません。君たちはその程度のもんだと言う、見極めはぼくにはついているからです。「社会の木鐸(ぼくたく)」などではなく、間違いなく「唐変木(とうへんぼく)」の集団そのものです。

 総理になった「奈良の女」を見ていると、ついつい明治維新後の政権を担った政治家の苦心惨憺を想起します。❶「関税自主権の回復」、➋治外法権(extraterritorial rights )の放棄(正確には「領事裁判権」の是正)、❶と➋で、この国はアメリカの「植民地(colony)」同然であるというべきで、国の法律が及ばない米基地の原子力空母艦上で「狂気乱舞」する首相のお粗末きわまる、浮薄な振る舞いは、コラム氏たちの両眼には何とも映らなかった、よくやったと褒めたいんでしょうか。国辱ものですね。まさに国辱総理だとぼくは思う。「株高・低金利・円安」の経済・財政の三悪要素が、さらに勢いを増しているのは、外の目で見るなら、この国はすでに没落しているも同然という意味でしょう。アメリカの財務長官のスコット・ベッセント氏は「アベノミックスが間違いだったことに、早く気付け」と、日本当局に向かって、日本の国内で語っている。「祭りが済んで、日が暮れて」ですよ、「奈良の女」囲い込み軍団の諸君。

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石破前首相、自民のさらなる保守路線「違和感」/コメ増産方針を転換「不愉快」/核禁条約会議「オブザーバーでも参加すべきだった」【本紙インタビューで語る】 石破茂前首相(鳥取1区)は、28日に衆院議員会館で応じた中国新聞のインタビューで、3月の核兵器禁止条約第3回締約国会議へのオブザーバー参加の見送りの判断を振り返った。高市早苗首相の下で、公明党が離脱し日本維新の会が加わった連立の枠組みについて批判し、コメ政策の方針転換には違和感を語った。(秋吉正哉)
 ―石破政権の核政策をどう振り返りますか。
 今年は被爆80年。個人的にはオブザーバーでもいいから参加すべきだと思っていた。その思いは公明党の斉藤鉄夫代表とも共通していた。ただ、政府全体としてそれができるか、葛藤があった。米国に核抑止を依存していることと矛盾せざるを得ない。為政者としてやむを得ない選択だった。核保有国も参加する核拡散防止条約(NPT)体制がより実効性がある。
 私にとって8月6日は特別な日だ。小学6年の時に見た広島の被爆の記録映像は一生忘れない。今年の平和記念式典のスピーチ原稿は何度も書き直し、最後に正田篠枝さんの短歌を入れた。核の悲惨さをあれほど端的に表した歌はない。
 ―多くの中国地方選出のベテラン議員が政権を支えました。
 中国5県に内閣や自民党の重鎮がいて、そうした方々は「石破降ろし」に加担したわけでもなく、よくお支えいただいた。岸田文雄元首相とは穏健中道という立場を同じくし、政策を継承、発展させた。しゃしゃり出る人ではないが、陰に陽に存在は大きかった。
 ―高市首相の新政権をどう見ますか。
 今回の自民党総裁選では石破政権を継続してくれるという意味で、林芳正総務相、小泉進次郎防衛相を応援した。そうではない政権がスタートしているが、正規ルールでできたのだから、党員として支えていかなきゃいかん。ただ、無批判に従うということではない。
 ―公明党は連立離脱をしました。
 自民党が野党で苦しい時、一緒にやってくれたことを忘れたらいかん。維新は新自由主義的。自民党政治がいわゆる保守の路線へさらに傾くことにすごく違和感がある。
 ―コメ政策では、石破氏が掲げた増産方針を転換させますね。
 不愉快な話だ。コメは安いほどいいとは言わないが、消費者が常に求められる値段であるべきだ。(米価高騰で)コメが足りないのは証明されたようなもの。値段が下がるのはいかんので増産はやめと言われると、それは違う。(中國新聞・2025/10/30)

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朝茶は七里帰っても飲め、とは?

【有明抄】おーい、お茶 小津安二郎監督の映画『秋日和』は法事の場面から始まる。寺の控室でお茶が出される。「おっ、茶柱か。なんかいいことあるかな」。喜んだのは妻を早くに亡くした男やもめ。旧友がそれをからかう。「お寺で茶柱が立つようじゃ、死んだ細君、迎えにくるんじゃないかい」◆温かいお茶が恋しい時候になった。近ごろはペットボトルで飲むことも増え、めったに茶柱にお目にかかれない。やはり急須でいれるとおいしく感じるのは、茶葉を蒸らして時間をかけるからだろうか。人がいれてくれると余計おいしい、というのも不思議◆10月の終わりは若者ならハロウィーンだろうが、仮装がもう無理な年ごろには、しみじみと「日本茶の日」。脊振山で茶栽培を始めたとされる栄西禅師が中国・南宋から茶の種を持ち帰った日とか◆当時の茶は粉を溶かす抹茶。今や海外でラテやスムージーとして楽しまれるほど人気らしい。そのあおりで茶葉が不足するなど生産現場は戸惑う。「茶祖」もさぞ複雑な思いだろう◆そんな世間の騒がしさを忘れるのが、お茶を囲むひとときでもある。太宰治の『葉』の一節を思い出す。〈よい仕事をしたあとで/一杯のお茶をすする/お茶のあぶくに/きれいな私の顔が/いくつもいくつも/うつっているのさ/どうにか、なる〉。茶柱は立たなくとも、そう思えたらいい。(桑)(佐賀新聞・2025/10/31)

 毎日、朝一番に「お茶」を淹(い)れる。家にいる限りは、必ずと言っていいほどに「日本茶」を飲みます。もう三十年も四十年も続いている、これも「悪習」かもしれません。勤め人時代、ぼくはきっと午前3時には起きていました。それからの3時間ほどが授業の準備などに当てていた、そのお供になるのが「お茶(緑茶)」でした。仕事を辞めても、早起きは続く。猫たちが騒ぎ出すから、早い時は2時、遅くとも4時には起きて食餌を与えたり、水を取り替えたり、それなりに雑用がある。因みに、本日は4時起き。外にいる「純粋野良」にも食餌を出す。なかなか大変ですね。(左の図は「お茶の山麓園」HP:https://tea-sanrokuen.com/wp/company

 それが一段落すると、お湯を沸かしてお茶を淹れる。「淹」は「エン」、「いれる」「つける」「とどまる」「ひたす」「ひさしい」「ひろい」等々、いろいろな読み方があります。今ではほとんどが「お茶を淹れる」という使い方に限られるようです。(「①ひたす。水につける。「淹浸」 ②とどまる。とどこおる。「淹滞」「淹留」 ③大きい。ひろい。深い。「淹通」「淹博」 ④ひさしい。 ⑤いれる」漢字ペディア)「淹」の一字にも、長い歴史がありますね。ぼくが漢字に入れあげているのも、この漢字の歴史を知りたいという、ごくつまらない興味関心からでした。漢字一字から「茶」「喫茶」「栄西」「飲茶」などの、ぼくの脳内を通り過ぎていた物事などに、改めて引き寄せられるのです。

 お茶を淹れる時間もほぼ決まっています。「日の出の刻」と重なっていることがほとんどです。このところ植木の手入れをサボっているので、伸びすぎた枝などで遮られ、「朝日」を直接目にすることはありませんが、パソコンをいじっている部屋の左前方(南)に太陽が昇ってくるので、その陽光を見たり感じたりしながら、ゆっくりと、ジャズなどを聴きながら飲みます。演歌や唱歌では、お茶の時間の感覚やゆったりした調子に合わないし、お茶が不味く感じられてしまう。朝の一杯は「日本茶(緑茶)」です。かみさんは寝ているし、猫は静かにしてくれている、この「ひととき」を持つことで、今日も始まるという気がしてきます。「人生は朝から始まる」という、生活の送り方をぼくは大学生の頃に学びました。

 これもどこかで触れたことがあります、フランスのモラリストだった、高校教師から教えられました。彼はとても大きな存在だったが、長く高校(リセ)の哲学教師でした。毎日教室に入ると、事前に生徒たちが「質問」を黒板に書いてあるので、それに応えるようにして、授業を始めるのでした。ある時、一人の生徒が「人生の煩悶」を愚痴るような「問いかけ(悩み)」を板書していた。それを消しながら読んで、シャルチェ先生(筆名はアラン)が板書したのが「人生は朝から始まる(La vie commence le matin.)」でした。一日が朝から始まる、それと同じように、毎朝「人生は始まる」を繰り返しているということだったと思う。徹夜を繰り返して、懶惰(らんだ)な生活に明け暮れていたダメ人間には「寝惚け気分」をドヤされたような気がしました。つまり、ぼくにとって、朝一番のお茶は「人生の始まり」の盃のようなものだったのです。

 お茶を飲みながら、ぼくはネット上で各地新聞のコラムを読む。午前4時や5時では、ほとんどの新聞は昨日のコラムです。ネットの時代、新聞もネットで読む時代と言いながら、何とも出足は遅い。なぜだろうかと、何時も訝るのですが、おそらく「ネット新聞(デジタル新聞・オンライン新聞)」は「二番煎じ」と、新聞社自体から受け取られているのではないかと、ぼくは勘繰っています。「二番煎じ」とは「一度煎じたものをもう一度煎じることこと。また、そのもの。「—の茶」前にあったことの模倣で新味のないもの。「—のコマーシャル」」(デジタル大辞泉)もちろん、紙媒体とデジタル版では編集者も違うのでしょうが、それにしては、コラムはとても「遅番(遅版)」ですね。今のところ、コラムは無料で読める方がやや多数派ですが、徐々にそれも減ってきています。ぼくはコラムだけしか読まないのですが、そういう事情もあって、何紙かは「購読料」は支払っている。結構購読料が高いので、「コラム」の内容にとても気を使っている。500字で500円だったりします。記事一本がいくらという具合。

 ネット時代と言いながら、ネット上の環境は酷いもので、まるで「野蛮時代」「荒涼とした雑草地」という感がします。その中から、少しでも「光物」を探すのですから、容易ではないと痛感しています。わずか500字程度のコラムを読もうとすると、たくさんの猥雑物(広告・宣伝)をかき分けねばならないので、時には読み続けるのを諦めることもある。広告ガードのアプリを入れていますが、それを凌ぐようなコマーシャルが入り交じる。動画入りと来ているので、なかなかに面倒であり、癪にも触る。

 さて、「お茶」の話でした。「緑茶」はこの何十年、同じ銘柄というか、静岡産のものを使っています。現地に行って調達して以来、気に入って飲んでいます。それも時代の波を受けざるをえないのですね。100gの単価は、飲み始めの頃から見れば、三倍か四倍、それ以上になっています。だから、だんだんお茶が渋くなってきましたね。京都の姉が一時期、お茶の小売(店を構えて)をしていました。もちろん宇治茶を扱った店だった。その時から、ぼくはかなりお茶について勉強したつもりでした。上品なお茶の作法などは一向気にしない人間でしたが、美味しいお茶を飲みたいという気持ちは募ってきましたね。そのためもあって、ぼくは水道水ではなく「天然水」を用いて、、三十年以上も飲み続けています。「宇治茶」がもてはやされていますけれど、そのかなりの部分は「静岡産」とのブレンドが多いという。京都は盆地で、山畑地が狭いのですから、仕方がないのも事実。

 やはり「お茶は駿河」でしょうか。小さ頃からぼくは浪曲が大好きで、中でも二代目を名乗った広沢虎造さん(1899~1964)(右上)をよく聞きました。虎造節で、「次郎長伝」を何度聞いたか、それでも足りずに、ぼくはその一節を唸ってもいました。「旅 いけば 駿河の道に茶の香り」(*「広沢虎造 石松と三十石船 曲師・森谷初江」:https://www.youtube.com/watch?v=6nurno73cJw)この浪曲の中で歌われる「駿河の道に茶の香り」は、もちろん芭蕉の「駿河路や はなたちばなも 茶のにをひ」が下敷きになっています。この句にもなかなかの趣きがありました。「花橘も茶の匂い」と芭蕉が読んだのは、おそらく家々の茶畑で収穫された家茶の香り・匂いだったろうとされます。

 (蛇足 今、虎造さんの語り(口演)を聴きながら、この駄文を綴っている。一気に小学生時代が戻ってきました。七十年も前、ぼくは浪曲師になっていたのでした。学芸会で演じたこともあった。今、虎造節を耳にしながらつくづく思っています。これほどの「文化(芸術)」というものを、学校ではいかに逆立ちしても扱うことはできないということだった。このような「文化」に手をつけられない「学校」なんて、どんな意味があるものかと思っている。お里が知れてますね)(筆者に騙されたと思って、ほんの一部だけでも「石松と三十石船」のサワリを聴いてほしいですね。現代版「平家物語」ですね)

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 (ここから、「お茶」に関するなけなしの蘊蓄を傾ける順序でしょうが、それは止めておきます)

 一方、紅茶も毎日、かなりの量を飲む。今では「ティーパック」で済ましています。以前は、そうではありませんでした。だから、万事お手軽に、そんな風に変わってきましたね。若いころ(四十代頃まで)、ぼくはコーヒー党でした。中でも「モカ」が好みだった。この何十年はまったく飲まなくなりました。日本茶とコーヒーはまったく「趣向」は異なりますね。コーヒー遍歴的なことも語ればきりがありません。ある時期、ぼくは胃潰瘍に悩まされた。仕事上のストレスや何かが影響していたでしょうが、胃酸過多の上にコーヒーをがぶ飲みしていたのですから、「繊細な胃(毛細血管の溜まり場・集積所)」という臓器は悲鳴を上げた。あろうことか、一時「胃がん」という疑いをかけられたこともあり、危うく胃の全摘出という災難に遭いかけました。四十代の初めころ。それもあってか、千葉県内を移り住みつつ、人の少ないところ(環境)を求めてきました。ついには、現地住まいで落ち着いたという次第。そんな生活にはいつも「日本茶」がありました。

 諺(ことわざ)でしょうか。それともお茶屋さんの宣伝文句(キャッチコピー)だったでしょうか。「朝茶は七里帰っても飲め」と長く言われてきました。今は誰も使わないでしょうが、その昔、徒歩で旅をしていた時代、お茶(朝茶)には災難除けの霊験があって、旅に出る際に朝茶を飲み忘れたことに気づいたなら、七里(28㌔)の道のりを遠しとせずに引き返して「飲むべし」とされたというのです。また「家常茶飯」「日常茶飯」などと今でも言いますね。「茶」の入った言葉がたくさんあるというのも、それほどに「お茶」は毎日の生活の「文(あや)」(「綾鷹」ではありません)だったという証拠でもあるでしょう。 「茶茶を淹れる」「お茶を濁す」「お茶目」「お茶の子さいさい」「臍で茶を沸かす」などなど、いくらでも出てきそうです。

 ぼくが好きなのは「お茶を挽く」です。今では使われなくなったでしょうが、この表現は、古今亭志ん生さんの落語で浴びるほど学びました。「茶を挽く」とは? また、どうして「茶碗」と言ったか。「茶を入れ、または飯を盛る陶磁製の碗。特に茶の湯では、天目形・沓(くつ)形などの茶碗が用いられる。 古く、陶磁器の総称」(デジタル大辞泉)とありますから、普段の生活においても「お茶」は欠かせなかったことが伺えるようです。ここから、この社会にお茶がもたらされたことや「茶の湯」が盛んになった来歴を語る段ですが、お茶が冷めるし、茶がさらに不味くなるので、本日はここまでにして「お茶を濁す」ことにします。

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逢わなきゃよかった 今夜のあなた … 

 悪乗りが過ぎた、そんな「日米首脳会談」の紅潮・高揚した一場面でした。原子力空母の艦上で、日本の首相は、何が嬉しかったのか、はしたなくも何度も飛び跳ねていた。大量の軍事武器(兵器)を事前に注文していて、それが米大統領を喜ばせもしたのだから、両者が手に手を取ってはしゃぎ回るのはよく理解できると言いたいのですが、ぼくにはまるで「児戯に等しい」振る舞いに映りました。品のないことではなかったか、浅墓だったと思う。本日は余計なことは言わないで、二つの新聞記事(10月29日付)を引用しておきます。

 「媚を売る」という、嫌な言葉が脳裏に浮かんで離れませんでした。「媚(こび・び)」は悪い意味の言葉ではなかった。美しい様を形容もしたのです。「風光明媚」などとね。「媚眼秋波(びがんしゅうは)」などと言って、「美人の艶かしい色目や流し目のこと」と、手元の辞書にはあります。「秋波」とは、秋の静かに澄んだ水面の様子です。いかがでしたか、横須賀の原子力空母艦上の首相の挙措振る舞いは。「(媚を売るとは) 機嫌をとる。へつらう。「上司に—・ってまで出世したくない」 商売女などがなまめかしい態度を示して、客の機嫌をとる」(デジタル大辞泉)下劣とは言わないだまでも、品性は穏当ではないという点で、日米首脳は「類は友を呼ぶ」の通りだったか。「媚中」などと、日ごろは反対派を詰(なじ)る方便として駆使しておられる右翼陣営の方々、「媚米」はお見過ごしなんでしょうか。武器の爆買い、「ノーベル平和賞」への推薦その他で、どれほどの利敵政治、売国外交をすれば気が済むのだろうかと、大いに疑問とするものです。(ただ今午前7時。室温15.1℃、湿度64%)

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 <1分で解説>高市首相、トランプ氏を迎えた外交マナーが話題に トランプ米大統領の日本訪問中、高市早苗首相は「ホスト国」のリーダーとして初めて本格的に外交の力を試されました。1分で読めて役に立つ「サクッとニュース」、今回は「高市首相の外交マナー」を解説します。
Q 高市氏の動作が注目されたって聞いたよ。どんなことをしたの?
A 高市氏は28日、トランプ氏と神奈川県横須賀市の米海軍横須賀基地に移動し、米原子力空母ジョージ・ワシントンで演説しました。そのとき、米兵たちの歓声と拍手に右手を何度も突き上げて応えたのです。
Q どうしてそんなに注目されたの?
A 日本の首相が米原子力空母で演説するのはとても珍しく、ベテラン外交官からは「恥ずかしがる日本人では普通できないロックスターのような振る舞いだった」と驚かれました。
Q トランプ氏とはどんなやりとりがあったの?
A トランプ氏が「この女性こそ勝者(ウィナー)だ」と紹介すると、高市首相は満面の笑みで跳びはねるように右手を上げました。また、日米首脳会談が開かれた東京・元赤坂の迎賓館で、高市首相はトランプ氏を笑顔で迎えました。外務省幹部は「欧米人にわかりやすい発言や笑顔を含む動作が外交向きだ」と評価しています。

Q ほかに迎賓館でのトピックスは?
A 迎賓館の内外では、米国への手厚い「おもてなし」が徹底されました。昼食では奈良県産ナスと米産コメのグラタン、米産牛肉のステーキなどが出され、トランプ氏が好きな米フォード「F150」とトヨタ「タンドラ」のピックアップトラックも並べられました。
Q ところで、外交マナーってどんなものなの?
A 外交マナーとは、国の代表が外国の要人と会うときに守るべき礼儀や作法のことです。相手国への敬意や友好を示すために大切なのです。(毎日新聞・2025/10/29)(ヘッダー写真は「米原子力空母ジョージ・ワシントンの艦内で、トランプ米大統領に紹介され兵士たちの歓声に応える高市早苗首相(左)=神奈川県横須賀市の米海軍横須賀基地で2025年10月28日午後4時19分、後藤由耶撮影」)(毎日新聞・2025・10/29)(左写真:トランプ氏が投稿した写真、「奥様、お手をどうぞ」(トランプ氏のトゥルース・ソーシャルより))

【社説】日米首脳会談 あからさまな米国追従だ 高市早苗首相とトランプ米大統領の会談が行われた。中国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の進展に向けて関係強化を確認した。初の対面による会談で、日米友好をより深めることにはなっただろう。ただ、会談の主題の一つであった防衛力の抜本強化を巡っては、大きな影響を受ける国民への目線があったかと言えば、皆無に等しい。/高市首相は防衛費を2027年度中に国内総生産(GDP)比2%にする目標の前倒し、安全保障関連3文書の26年中の改定を表明している。
 先日のトランプ氏との電話会談で「日本は米国の対中国、インド太平洋戦略にとって非常に重要な国だ」と伝えた。あからさまな米国追従だ。/トランプ氏は、米国の対日防衛義務を定めた日米安全保障条約は「不公平だ」と主張している。「片務的だ」という言い分だ。これに対して高市首相は日本側の貢献を示そうとしたように見える。影響を最も受けるのは沖縄だ。沖縄を対中国の軍事要塞(ようさい)に見立てているのならば、到底受け入れることはできない。/アジア太平洋地域での中国の進出は覇権主義的傾向を強めており、一定の牽制(けんせい)は必要であろう。しかし、日本の役割は米中対立を緩和する平和国家としての存在感を発揮することだ。電話会談を含めて、高市首相の姿勢は米国の歓心を買うことに懸命となっていることを印象づけた。
 沖縄にとって今年は大きな節目である。米兵による少女乱暴事件から30年となった。事件に抗議する県民大会は米軍人・軍属による犯罪の根絶を訴えたが、実現していない。日米地位協定の改定も進展していない。/このような現状を打破するのではないかと期待を持たせたのが、対等な日米関係の構築を掲げた前任の石破茂首相であった。ただ首相就任後は地位協定改定に関する持論は封印し、進展しなかった。
 米軍関係の犯罪の抑止を名目に、沖縄では米憲兵隊が単独でパトロールを実施するに至っている。兵員らの身柄の拘束にも踏み切っている。民間地で外国の捜査機関が警察権を行使している現状を日本政府は「地位協定と整合」としている。
 そもそもの地位協定に問題があるが、今回の会談の結果からしても高市政権で沖縄の懸念や要望はかなえられそうにない。主権に関わる問題である。トランプ氏のノーベル平和賞への推挙などをしている状況ではないのだ。/追従的な対米関係を象徴するのは、安保関連3文書の改定の方針である。敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有を初めて明記し、22年末に閣議決定した。明らかに平和憲法の理念に反する。高市首相は安全保障環境の変化に対応するために改定する考えだ。/沖縄の軍事的な負担がより強まるのは必至だ。首脳会談での確認事項がそのまま進められてはならない。(琉球新報・2025/10/29)

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 昨日は、三橋美智也さんの「おんな船頭唄」を口ずさみたくなりました。1955(昭和三十)年発売の歌謡曲でしたね。本日は、悪乗り序(ついで)に、更にそれよりも三年前の1952(昭和27)年に発売された「ゲイシャ・ワルツ」を唄ってみたくなった。どういう風の吹き回しでしょうか。当時、ぼくは7歳か8歳。この曲の景色・雰囲気がわかろうはずもなかったけれど、こんな「世界」があるのだということは朧気(おぼろげ)ながら知っていました。能登半島にも、そんな「岡場所」は何か所はあったし、親戚の男性(おふくろの妹の「亭主」)が入り浸っていたと、幼心で人づてに聞いてもいました。もちろん、京都に来てから、この歌もすっかりぼくのレパートリー入りましたね。

 後年、大学生になってから、この「神楽坂」という花街を外から眺めたものでした。人間という存在は「賢くて、愚かしい」、そういうほかになさそうですね。同じ作詞・作曲コンビでは「トンコ節」(1949年)などと言う不埒なものもありました。理解不能だったが、よく口ずさんでいました。当時、ぼくは4歳か5歳だった。学校に適応できなかったのは自然の流れ(当然)だったでしょうね。もちろん、学校では「おんな船頭唄」や「ゲイシャ・ワルツ」などは断じて教えてはくれませんでしたよ。どうしてだったか。

「ゲイシャ・ワルツ」 神楽坂はんこ:歌
1.あなたのリードで 島田もゆれる チークダンスの なやましさ
 みだれる裾も はずかしうれし ゲイシャ・ワルツは 思い出ワルツ
2.空には三日月 お座敷帰り 恋に重たい 舞扇
逢わなきゃよかった 今夜のあなた これが苦労の はじめでしょうか
3.あなたのお顔を 見たうれしさに 呑んだら酔ったわ 踊ったわ
今夜はせめて 介抱してね どうせ一緒にゃ くらせぬ身体
4.気強くあきらめ 帰した夜は 更けて涙の 通り雨
遠く泣いてる 新内流し 恋の辛さが 身にしみるのよ
(西條八十:作詞 古賀政男:作曲)(1952年発売)

「ゲイシャワルツ」(作詞・西條八十、作曲・古賀政男、歌・神楽坂はん子)(1952年)

◎ 神楽坂はん子 (かぐらざか-はんこ)(1931-1995) 昭和時代後期の歌手。昭和6年3月24日生まれ。もと東京神楽坂の芸者。古賀政男らにみとめられ,昭和27年日本コロムビアから「こんな私じゃなかったに」でデビュー。「ゲイシャワルツ」「こんなベッピン見たことない」などのお座敷ソングをヒットさせ,映画にも出演した。平成7年6月10日死去。64歳。東京出身。本名は鈴木玉子。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)(*神楽坂はん子 – 「ゲイシャ・ワルツ 」(Geisha Waltz) (1952)https://www.youtube.com/watch?v=TYbD1RoNFGU&list=RDTYbD1RoNFGU&start_radio=1

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かわいそうなは みなしごどうし

 小学校に入学する前から、ぼくは「流行歌」(歌謡曲)にはまり込んでいました。テレビはおろか、ラジオすらまだない、そんな能登半島の中ほどに位置する田舎の村で、どうしてこんなによく覚えていたのか、自分ながらに不思議でした。恐らく、おふくろの悪影響(教育?)だったと思う。おむつをしながら、「愛」だの「恋」だの、「惚れた、晴れた」と謳っていたようでした。京都に出てきた当時(昭和三十年前後)もっとも流行っていたのが春日八郎(「別れの一本杉」)と三橋美智也(「リンゴ村から」)のものでした。いずれも「東京へ、東京へ」という、村や町を出る(捨てる)、人口流動の時代がすでに始まっていました。。彼らの歌も唄ったけれども、この人気歌手の出世物語の映画まで観たものでした。中でも、三橋美智也さん(1930~1996)がとにかく大好きでした。

◎ 三橋 美智也(ミハシ ミチヤ)= 昭和・平成期の歌手 民謡三橋流家元。生年昭和5(1930)年11月10日 没年平成8(1996)年1月8日 出生地北海道函館市 本名北沢 美智也 学歴〔年〕明治大学中退 主な受賞名〔年〕日本レコード大賞(歌唱賞 第4回)〔昭和37年〕,日本レコード大賞(20周年記念顕彰 第20回)〔昭和53年〕,ゴールデンアロー賞(話題賞 第16回)〔昭和54年〕 経歴5歳から各地をまわって修業を積み、9歳で北海道の民謡コンクールに優勝。昭和25年上京。29年三味線弾きをしていたところをスカウトされ「酒のにがさよ」でデビュー。30年に「おんな船頭唄」が大ヒット。他のヒット曲に「リンゴ村から」「哀愁列車」「夕焼けとんび」「古城」「達者でナ」「星屑の町」などがある。48年には民謡の地位向上のため三橋流を設立、家元となる。「北海盆唄」「花笠音頭」などのレコードもミリオンセラーとなり、総プレス枚数は1億枚を超える。(20世紀日本人名事典)

 今でも、彼が歌った曲のかなりの数をすべて歌えると思う。なぜか。学校の勉強は振るわないこと夥しかったが、歌謡曲なら、お任せくださいという調子でした。本日は「おんな船頭唄」(1955年発表)です。当時、ぼくは十歳。この曲の情景も時代背景も、その歌詞の意味も分からないままで、「美声(ボーイソプラノ)」を張り上げていた。もちろんカラオケがない時代、時には自己流のギター伴奏で歌ったりしました。 

 おんな船頭唄(三橋美智也)

1 嬉しがらせて 泣かせて消えた
  にくいあの夜の 旅の風
  思い出すさえ ざんざら真菰(まこも)
  鳴るなうつろな この胸に

2 所詮かなわぬ えにしの恋が
  なぜにこうまで 身を責める
  呼んでみたとて はるかな灯り
  濡れた水棹(みざお)が 手に重い

3 利根で生まれて 十三七つ
  月よわたしも 同じ年
  かわいそうなは みなしごどうし
  今日もお前と つなぐ舟
(作詞:藤間哲郎/作曲:山口俊郎
(1955年発売)

*「おんな船頭唄」三橋 美智也https://www.youtube.com/watch?v=xEMSXBZ-IIA&list=RDxEMSXBZ-IIA&start_radio=1)                                                                    *ちあきなおみ『おんな船頭唄』https://www.youtube.com/watch?v=NM70vojJshY&list=RDNM70vojJshY&start_radio=1

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 なぜ今日、この歌が駄弁られるのか。大した仔細はない。昨日も、日米首脳会談とやらで、メディアは持ちきりでした。とても醜悪な場面を、これでもかこれでもか、と見せられた想いがしました。なぜ、そんな感想を持ってしまったのか、説明すればいくらでも語れますが、日米関係が、いよいよ末期的症状を呈してきたことを痛感させられたからでした。現首相は故元首相の後継者をもって任じている。だから米国大統領とも、「男女の仲」ならぬ「親愛の情」で結ばれたかった、それが国益に資するというとんでもない錯覚があったのでしょう。

 奇しくも昨日、奈良地裁で初公判が開かれた「元首相銃撃事件」裁判。故元首相と米国大統領は「肝胆相照らす仲」と言われ、それこそ日米従属関係を決定的に固定させたのでした。「ドナルド」「シンゾ」の間柄を、ぼくは「類は友を呼ぶ」「同病相合われる」と称しました。とっても見苦しい男同士の関係だったからです。そして、今はもう秋。日本の首相と米国大統領の関係をどう見ますか。ぼくはあまり言いたくありません。「もっとも深い同盟関係」とやらを世界に見せつけたのではなかったでしょうか。醜悪の至りだったとぼくには思われました。

 そして、図らずも三橋さんの「おんな船頭唄」が口をついて出てきたという次第。「嬉しがらせて 泣かせて消えた」「にくいあの夜の 旅の風」とは何のこと、誰のことでしょうか。「所詮かなわぬ えにしの恋が」「なぜにこうまで 身を責める」「呼んでみたとて はるかな灯り」「濡れた水棹が 手に重い」、こんな歌詞を小学生がわかるはずもありませんが、ぼくにも直観(直感・触覚も)というものがありました。遥かな昔の感覚が、80の爺さんに戻ってきたのです。どこでだれが決めたのか、莫大な武器購入(注文)をすで申し込んでいて、米オ国の旦那はそれを喜んでいたのだ。機嫌がいいのは当たり前。そして一方は精いっぱい媚を売って(媚米というのか)、歓心を買うことに汲々としている。その媚米の態度をメディアは逐一、大いなる好感する姿勢をもって報道しているのですから、「お花畑」に蛆が湧く、です。どう見ても話にならない。いやな国になりましたね、とぼくは一人で悲しんでいるのです。 (媚(こび)=1 人に取り入って、機嫌をとろうとすること。へつらうこと。 女が男に対して色気を示すこと」(デジタル大辞泉)

 現下、この社会は「火宅状態」にあるのではないでしょうか。まさに「三界は安きこと無しなお火宅の如し」(「法華経」)です。「《「法華経」譬喩品(ひゆぼん)の「三界安きこと無し、猶なお火宅の如ごとし」から》現世は苦痛に満ちていて、少しも安心ができないということ」(デジタル大辞泉)そして「宴の後(後宴)」という言葉があります。いやまだまだ「宴は続く」のでしょうか。ソするなら、「媚態もさらに昂進中」ということになります。どうしましょうか。万時窮す(休す)、か。

◎ ご‐えん【後宴】〘 名詞 〙= ① 宮中で、大嘗会(だいじょうえ)の神祭の儀式の翌日、潔斎(けっさい)を解いたあと催される酒宴。② 大きな宴のあと、場所や日を改めたりして、さらに催される宴。③ 江戸時代、町家や遊里などで、節供、祭礼、花見などの翌日。(精選版日本国語大辞典)

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 「おんな船頭唄」を歌うのは誰でしょう。繰り返しますが、「嬉しがらせて泣かせて消えた」「にくいあの夜の旅の風」とは誰(何)のことですか。首脳会談で、大統領に精一杯の「媚態」を見せたのはどうしてですか。実に見苦しい、あさましい振る舞いだったと、ぼくだけは思っています。「対等な関係」が、どれほど空無で、歴史的媚態・嬌態であったかが明々白々に晒されたと、ぼくは勝手にみなしましたし、それは何枚かの写真を観れば、どんな鈍感者に感じられるでしょう。なんという「首相」だろうか。(米大統領は女性への性暴力で何件もの有罪判決を受けているし、なお裁判は進行中)

トランプ氏に連邦高裁も123億円賠償命令 女性作家への名誉毀損 【ニューヨーク=共同】性的暴行を巡る女性作家への名誉毀損でトランプ米大統領(79)が巨額賠償を命じられた訴訟で、ニューヨークの連邦高裁は8日、トランプ氏の控訴を退け、地裁判決の通り、8330万ドル(約123億円)の支払いを命じた。/トランプ氏側は賠償額が過大であり、現職大統領の免責特権を考慮に入れるべきだと主張したが、高裁はいずれの言い分も退けた。/原告の作家ジーン・キャロルさんは1990年代半ばに、トランプ氏にニューヨークの高級百貨店の試着室で暴行されたと2019年に回顧録などで告白。トランプ氏はキャロルさんと面識はなく、本を売るためのうそだと批判した上、SNSなどでキャロルさんの人格への攻撃を繰り返した。(以下略)(日本経済新聞・2025/09/09)(右上写真はジーン・キャロル氏)

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 この二人を、表立っても裏に回っても、「品がないね」「はしたなさすぎるよ、総理」と窘(たしな)める人はいないのだろうか。「かわいそうなは みなしごどうし」ですね、やはり。外交というものではなく、まるで児戯に等しい「程度の低い遊び(パフォーマンス)」だったと言えば、どうなりますか。浮かれていると、とんでもなく「高くつく」ものです。

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まるたが/もえて/うつくしい…

【水や空】一本のマッチの火 古びた農学校の校舎を借り受け、知的障害児の生活指導・教育施設「のぎく寮」を開いたのは1953年11月。〈風のなかに一本のマッチの火をまもるがごとく〉。当時の決意をこんな言葉で表現している▲佐世保市出身で障害児教育の先駆者であり詩人、故・近藤益雄(えきお)。校長の職をなげうち、北松佐々町に寮を開設したのが46歳の時だった。障害児らと寝食を共にし、箸の持ち方から教えた▲原点は息子の死。長男を長崎原爆でなくした。まだ17歳。「寂しい人々のためにこの身を生かそう」。喪失感を埋めるかのように、障害児教育に傾注していく▲葛藤や煩悶(はんもん)もあった。差別や偏見が強い時代。「(障害者を集めて)金もうけしている」と中傷された。「自分は『本当の親』にはなれないという寂しい気持ちもあったようだ」と次女江口協子さん(86)。障害児らの将来を案じつつ、近藤は57歳で自ら命を絶つ▲長崎市の長崎純心大で企画展「近藤益雄というひと」が11月15日まで開かれている。写真や寮生たちの絵画などが近藤の足跡を伝える▲「この子たちのゆくすえをまもるものは、あなたたちでもない。わたしたちでもない。この世のすべてのひとの力なのです」。パネルにこんな言葉を見つけた。「火」はともっているか。近藤に問われている気がした。(北)(長崎新聞・2025/10/27)

◎ 近藤 益雄(コンドウ エキオ)= 昭和期の教育家,障害者教育実践家,童謡詩人 なずな園創設者;のぎく学園創設者。生年明治40(1907)年3月19日 没年昭和39(1964)年5月17日 出身地長崎県佐世保市 学歴〔年〕国学院大学高等師範部〔昭和2年〕卒 主な受賞名〔年〕文部大臣表彰,読売教育賞〔昭和29年〕,西日本文化賞,ヘレン・ケラー教育賞〔昭和38年〕,日本精神衛生連盟表彰 経歴昭和3年帰郷し、長崎県北部の辺地・離島の児童教育に従事、児童詩や生活綴方教育に専念。昭和16年「子どもと生きる」を敢行。23年田平小学校長。25年自ら校長をやめ、佐々町口石小学校に特殊学級を開設、その担任となる。かたわら28年には生活施設・のぎく寮(後に、のぎく学園)を創設、家族ぐるみで知的障害児の指導にあたる。37年口石小学校を退職し、寮を学園と改めその経営に専念。同年秋には精神薄弱成人ホーム・なずな寮(後の、なずな園)を創設、その経営を次男の原理夫婦にまかす。「のんき、こんき、げんき」を合言葉に障害児教育運動を推進した。著書に「近藤益雄著作集」(全7巻 別館1)、詩集に「この子をひざに」などがある。(20世紀日本人名事典)

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 ぼくは、1964年4月に大学に入学、その当時始められていた宮城まりこさんの「ねむの木学園」に大きな関心を寄せ、折あるごとに宮城さんの話を聞き、その学園のことを知りたくなったことが繰り返しありました。いつだったか、宮城まり子さんにお願いして、大学の入学式に来て頂き、新入生に向けて「教育の根っこ」の話をしていただいたことがありました。また、奇遇なことでしたが、ちょうどぼくが入学した翌月に、長崎の近藤益雄さんが亡くなられた。当時、ぼくはまだ近藤さんのことを知りませんでした。やがて「生活綴り方」教育について学ぶ中で、いろいろな歴史を知り、たくさん人物(教師たち)に出会うことになります。その中の、飛び切り引き寄せられた存在が近藤益雄という人でした。「生活綴り方」教育というきわめて日本的な「文字・言語教育」に関心を寄せることにもなりました。

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 コラム「水や空」にあるように、地元の長崎県の大学がこのような展示会を開くのは当然とはいえ、とても大切なことだと思いました。駄文集録のどこかで、わずかばかり触れていますが、ぼくは小学校時代、「特別クラス」担任の K 先生にとても大事なことを教えられたと、今でもその恩義を忘れていないつもりです。当時は、日曜日になると学校近くの先生の自宅に遊びに行ってはいろいろなことを教えられた。K 先生はおそらくずっと「知的障碍者」教育に携われておられたと思う。先生のおかげで、ぼくにはたくさんの「特別クラス」の友人がいました。あるいは、ぼくもその教室の児童であっても不思議ではなかったかと思うこともありました。

 後年(20年ほど前)、ぼくは長崎の近藤益雄さんと千葉の小学校教師・平野婦美子さんについて、小さな本を書きました。今でも読めるかもしれません。大学に入ってから、「教師紛(まが)い」になってからも、教育について少しでも知ろうとして、人並みにたくさんの本を読んだことでしたが、端的に言うなら、近藤益雄と平野婦美子、この二人の仕事をよく知り、よく学びおおせたなら、それでもう十分という気がしました。(この二人は、戦時下にあっても「文通」を通じてよく知り合っていました)

 二人の仕事を知るにつけ、教育のイロハ(要諦・ようてい)(肯綮・こうけい)に関して欠けているものは何一つないとまで思うようになったほどです。今この時代に、近藤さんや平野さんが持て囃されることはあり得ないし、あってはならないという、変に捻(ね)じれた気持ちもぼくの中にはあります。なんといっても、学校不全・教育腐敗の時代ですからね。

 教師が純粋(一途)に「子どもの仕合わせ」を祈願し、そのために何ができるかを自らの使命にした、そんな教師が生きていた時代、この国ではアジア諸国をはじめとして無謀この上ない「戦争」を仕掛けていました。やがて、彼や彼女は「生活綴り方」教育(運動)、あろうことか社会主義にかぶれていたという理由、主義者と交際していたという理由で、治安維持法に触れたということで、それなりの弾圧を受けた。これは時代の狂気でしたね。子どもの仕合わせを願い、社会から「偏見や差別」が根底においてなくなる・なくするために身命を賭した教師たちの時代にあって、この二人は、なお輝いていたと今からなら言えるような、そんな尊い仕事をした教師たちがいたことをぼくたちは忘れてはならないと思う。近藤さんは生涯、たくさんの顕彰に浴されました。そのことを指して「賞をもらったところで、賞では障碍者教育はできんもんな」というのが口癖のようだった。

 長崎新聞のコラム「水や空」はぼくの愛読するものです。このコラムに目が留まり、企画展を開催されている大学にお礼を言いたいほどです。この大学には卒業生が奉職されているので、なおさら嬉しく思った次第。福岡県内の大学にも卒業生が何人かおられるし、中高の教師もたくさんおられる。忙中閑ありと行くかどうか、「近藤益雄の仕事」の一端に触れるだけで、教師の何たるかがわかろうというものだし、教職の中身が違って見えるようになるのではないかと思う。今考えても忌々しいのは、このような教師の本分を全うしようという気概を持って仕事に当たる教師たちを「犯罪者」視して、弾圧しようとする、そんな国家権力に対して、ぼくは断じて容認できなという思いを強く持ち続けていました。だから、ぼくは無政府主義者(アナーキスト)だった、もちろん、今でも。その意味でも、教育に対して「不当な介入」をすることには断固として反対しなければならぬと、相も変わらず「覚悟」しているのです。

 蛇足 近藤さんは早くから詩を書かれていた。同時に俳句もよくされた。彼はやがて「自由律句」という俳句の道を萩原井泉水氏(1884~1976)を導き人として歩まれた。ほぼ時期が重なるのは、種田山頭火(1882~1940)です。ぼくは、長崎の地で近藤さんと山頭火氏との遭遇を空想して調べ始めたことがありますが、遂に明らかにしないままで終わりそうです。ぼくの率直な感想を言うなら、山頭火も(ここに尾崎放哉を加えたい)近藤さんも、いずれもが「淋しい人」だったという印象が強烈にあります。近藤さんには、その思いは一入(ひとしお)だったと思います。それが彼に知的障碍者教育の荒野を歩ませ、結果的には、その歩行の途中で道を失ってしまったのではないかと思う。

この子を ひざに

まるたが もえて
うつくしい おきになるまで
この子を ひざに のせていた
この子は いつか ねむっていた
ゆきが ひそひそ ふっていた(「この子をひざに」)

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