
◎ 週の初めに愚考する(八拾七)~ 「AI」は、好む好まないにかかわらず、あらゆる分野・方面に進出し、領土侵犯しているでしょう。技術開発が進む前には、「遺伝子組み換え」なんて夢のまた夢と言っていた時代、ところが今やものによっては「遺伝子組み換え」以外の商品を探す方が難しい、そんな時代状況にあるようです。ぼくは、いつもパソコンに向かう時は「BGM」をかけている。大半はいわゆる「JAZZ擬(もど)き」です。これが「AI製品」だそうです。その多くがジャズ風にアレンジされた演奏で、三時間でも五時間でも聴き続けることができます。表では「AIは好かぬ」と言いながら、何時とは知らず「AI音楽」にはまっているというのかもしれない。しかし、この疑似演奏を聴いていて、ぼくのような怪しい音楽好きにもわかるのは、いかなるフレーズでも、「これはいいなあ」という瞬間がないことです。思わず、キーボードを打つ手が止まり、耳が「ナイス(How wonderful!)」と、音の連続を受け止めることがない。だから、「ながら族」を続けられるのでしょう。

よく知っている音楽では「BGM」にならないのは、逐一音を追っかけるからです。東京に出てきて、いきなり街中の喫茶店で「クラシック」を聴きだしたころを思い出します。ぼくが入り浸ったのはお茶の水・神田界隈が多かった。大きな喫茶店で、「田園」だとか「ウィーン」などという店名でもわかるように、多くは西洋音楽のレコード鑑賞のためにお茶代を払うようなものでした。満員であろうが、誰一人声高で話すものはおらず、驚くべき静謐な雰囲気で、「これぞ、愛聴だぞ」という雰囲気に満ち満ちていました。客は好みの店の、好みの音(音響機器)で、惚れ込んだベートーベンやバッハを聴いていたのでした。ぼくも、本当によく通った。家にも小さな装置は持っていたが、やはり金を払って聞く演奏は満ち足りたものだった。

音楽を聴いて満足するとは、どういうことかと訊かれたら、ぼくはたちどころに困る。医者に行くとか、八百屋に行くというような具体的目的があってのことではなかったからです。体調不良を抱えて医者に通えば、なにがしかの改善や快方が得られるし、それが目的で行くのでしょう。しかし、「音楽喫茶」に入り浸るのは、持て余していた時間つぶしであり、思わぬレコード(演奏)に出会えるかもしれないという偶然、微かな期待があったからではなかったか。格好をつけて言うなら、音楽を聴くことで、何かしらから「解放」されることが、たまにはあったのでしょう。ひたすら全身を耳にしてという、そんな聴き方はぼくのスタイルではなかった。本を読みながらが大半で、読書に集中していれば、音楽には心は奪われないし、その反対もあったでしょう。
なにか、為すべき課題を果たすためとか、出された宿題を今日中に終えるのだというような、計画や予定の立っている目的があるのではなく、まさしく時間をやり過ごすとか、暇を持て余すというようなときにこそ、実は思わない「家宝」に出会うことが多いような気がしている。ぼくにとって「BGM」は目的でもなければ、関心のあるものでもなく、時間つぶし際の「伴奏(accompaniment)」のようなものでした。眠りに落ちる際の「羊が三匹…」みたいな呪文で、睡眠導入剤であったのかもしれません。思わず教師の話に惑わされて、ぐっすり眠ってしまった授業は何度あったことか。素晴らしい授業は、睡眠の妨げにならないもの、それがぼくの判断基準でした。
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【有明抄】悩み多き者よ… 目の前に深い悩みを抱えたひとがいる。そんなとき、どう向き合うべきか。臨床心理学者の河合隼雄さんによると、「プロの極意」は眠るように相手の言い分を聞き続けることだという◆自分からは何も言葉を発さず、目を閉じて話に耳を傾ける。相手が「このおっさん、ほんまに聞いてくれてるのかいな」と心配しはじめたころ、「うーん」と同意でも反対でもない相づちを打つ。そうやって、相手がもう話せないところまで聞き続ける◆心煩わすトラブルの多くは、互いに聞く耳を持たないことで引き起こされる。話を聞いてくれない。話してもわかってくれない。言葉にしたら余計、感情がこじれてしまった…。解決の糸口は河合さんのように、ただ「聞くこと」にあるのかもしれない◆近ごろは対話型の生成AIに悩みを相談するひとが増えている。いつでも何時間でも利用でき、問いかけの意図をくんで回答する「共感性」が人気の理由らしい。一方で米国では相談した少年を自殺に追いやったと裁判ざたになるなど、依存の危うさもある◆ひとの共感より、つくり物の共感が頼りにされる。「泣きながら食事をした経験のない者には、人生の本当の味はわからない」と文豪ゲーテは言った。いくら技術が進歩しても、人間にしか「人生の味」はわからない。誰かの声に耳を傾けることも、また。(桑)(佐賀新聞・2025/09/14)

「目の前に深い悩みを抱えたひとがいる。そんなとき、どう向き合うべきか」という問題を、佐賀新聞のコラム「有明抄」氏は出されている。もちろん、答えはさまざまにありそうで、その一つに「プロの極意」を示された河合隼雄さんの話を紹介されています。この社会における「臨床心理学」を位置づけられた方で、ぼくは何度かお話を伺ったことがある。またユング研究の第一人者でもあった人。ところで、教師紛いをしていても、ぼくは「人生相談」を持ち込まれることは得意ではなかったが、多くの学生からの「諸々相談」には事欠きませんでした。もちろん、人それぞれに相性(好き嫌い)というものがありますから、「相談においで」と言って、誰もが気軽に来たわけではありません。深刻な悩みを抱えていると思っている人は多くいましたが、それがために人生がダメになるとまでは考えない人が大抵だったと思う。
河合さんはプロ中のプロでしたから、そこで得られた知見には見るべきものがたくさんあった。「プロの極意」はひたすら、相談者の話に耳を傾ける、相談者が話し続けられるうちは余計な言葉を挟まないというのは本当のようで、しばしば「問答法」とは、「問いの中に答えがある」という意味で、ぼくは暇に飽かせて、この方法を多用していたと思う。例えば、一時間の間、相談者が55分は話す、聴き手は相づちを打つだけ。そんなことはしょっちゅうで、それで間に合わなければ、また次の機会にという始末で、そうこうしているうちに「悩みの次元」が動くことがよくありました。「ただ聞くだけ」と言っても、実はこれが本当にむずかしいのです。何とか解答を与えたいと、答え探しに夢中になると、問題の核心はどこかへ行ってしまう。つまり、人生における大半の悩みは、「霞の中にいる」状態で、いずこからかの風によって霞(かすみ)が晴れることがある。つまるところ、風待ちの姿勢(waiting for the wind)こそが極意だということなのでしょう。

でも、多くの人は忙しい生活の中にある。「速さと効率(便利・要領)」を核として人生や生活の価値を決めているとも言えそうで、だから、速さや価値を重視しすぎる囚われ状態から、一時的にせよ解放される、そんなチャンスに恵まれれば儲けものとぼくなどは考えていました。ことわざにはいろいろな「教え」や「戒め」が含まれています。多くの場合、その教えや戒めを「逆」に取っている場合が多いのではと、ぼくはしばしば考えたものでした。「溺れる者は藁(わら)をも掴(つか)む」などと言う。とにかく助かりたい、今の苦しさから逃れたい、その一心で、何であれ、身近にあるものにしがみつくということでしょうか。「藁に縋ってどうなるものでもない」のに、それに縋る切ろうとする。そこから、ほとんどは失敗します。「溺れる者は藁をもつかむ、だから駄目なんだ」とぼくは捉えてきました。
藁屑(わらくず)に縋っていて、溺れているものが助かるでしょうか。縋った途端に、藻掻(もが)くことを止めてしまう。「人生相談」は、まあ藁屑の如しと言うつもりはないけれど、そんなところに助かるすべ、生きる余地(浮かぶ瀬)はあるかと、ぼくは思う。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」などとも言います。その意図するところは「溺れかかったときは、あがけばあがくほど深みにはまってしまうが、逆に、捨て身になって流れにまかせると、浅瀬に浮かぶこともある。窮地におちいったときも、事態を冷静にとらえ、物事の推移を見きわめれば、やがて活路を見いだすこともできるというたとえ」(ことわざを知る辞典)最近の「水難救助」の教えで、「溺れかかったらじたばたしない(藁を掴もうとはしない)。仰向けになって(空を見ながら)浮かぶことに徹しなさい」というらしい。そうすれば溺れることはないそうです。

窮地から逃げ出したい、苦境から脱出したい、それはまるで「藁にも縋る」という必死さに似ています。「身を捨ててこそ」というのは、そんなに難しいことを言うのではなさそうです。「果報は寝て待て」と言うと語弊もありますけれど、ジタバタしても始まらんと、腹を決めること。「人生相談」は、読み物や見世物としてならあってもいいでしょうが、回答者の多くは「人生の成功者」を気取っているとしたら、そんな「藁屑」なんかにに縋るのはおよしなさいとぼくなら言います。まして「対話型AI」に相談するなんて、とぼくは勧めないですね。「AI」は、何のことはありません、過去に行われた「人生相談」の山中から、相談者に合いそうな既成の「回答」を選んでいるだけ。そのもとになるのは、誰かが誰かに対してやった無数の「人生相談」ですから、ぼくに言わせれば「藁か藁屑」です。人により、相談によっては、それが役に立つこともあるでしょうし、効果がみられるかもしれません。でもよく考えれば、それが役立つと判断する「相談者の思考(捉え方)」にこそ、「回答の種」があったのではないでしょうか。

「問答(対話)法(Dialogue Method)」というのは「問い」と「答え」の繰り返しであり、それを重ねるうちに、始めた時よりも、問題の吟味が進んでいくことに目的があるのです。これをして、よりよく問うこと、そこにこそ「答え」があるのですし、その答えから、新たな問いが生まれる。これを繰り返すことで、「問題」は一層深まるのですね。大事なのは「答え」を得ることではなく、「問いを深めること」なんです。これがうまく行くと、問うこと自体が答えであったということが判然とします。要するに、「浮かぶ瀬もあり」なんですね。(「自動運転車」に乗り続けて(身を任せて)、さて何をしようとするんですか。AIと対話するのは、「自動運転車」に身を任せるみたいなもので、自分の判断や行動の放棄みたいに思われます)

◉ 河合隼雄(かわいはやお)[生]1928.6.23. 兵庫,篠山 [没]2007.7.19. 奈良,天理 臨床心理学者,元文化庁長官。1952年京都大学理学部数学科を卒業。同大大学院に籍を置きながら高校教諭として 3年間勤める。大学院では心理学を学び,1959年カリフォルニア大学に留学。続いて 1962年から 3年間スイスのユング研究所で学び,日本人初のユング派分析家の資格を取得する。帰国後,天理大学教授,京都大学助教授を経て 1975年京都大学教授。日本でドラ・カルフの箱庭療法を実践し,ユング派心理療法(→精神療法)の普及に努めた。1985年に日本心理臨床学会を設立,初代理事長に就任。1987年から国際日本文化研究センター教授を併任,1995年に同センター長となった。文学,宗教など幅広い分野で活躍し,1982年に『昔話と日本人の心』で大佛次郎賞,1988年には『明恵夢を生きる』で新潮学芸賞を受けた。2000年に文化功労者に選ばれ,2002年には民間人として 3人目の文化庁長官に就任した。(ブリタニカ国際大百科事典)

「息子の自殺は対話型AIの責任」、中毒に歯止めなし 母親が運営会社を提訴 ニューヨーク(CNN) 「そんなプラットフォームがあるとは聞いたこともないかもしれない。でも知る必要がある。私たちが後れを取っているから。一人の子どもが逝った。私の子どもが逝ってしまった」/米フロリダ州に住むミーガン・ガルシアさんは、人工知能(AI)相手に立ち入った話ができるプラットフォーム「Character.AI」のことを保護者に知ってほしいと訴える。14歳だった息子のセウェル・セッツァーさんの死は、Character.AIのせいだったとガルシアさんは確信し、運営会社を相手取って訴訟を起こした。
セッツァーさんは今年2月に自殺した。死の直前までCharacter.AIと会話していた。/「このプラットフォームは設計者があえて歯止めも安全策もテストもなしに公開した。私たちの子どもを中毒にさせて操るよう設計された製品だ」。CNNの取材に応じたガルシアさんはそう主張する。/「生きているように感じるAI」をうたうCharacter.AIが、分かっていながら適切な安全策を講じなかったために、息子が対話型AIと不適切な関係を築いて家族から引きこもってしまったとガルシアさんは訴える。フロリダ州の連邦裁判所に提出された訴状によると、セッツァーさんが自傷行為に言及しても、Character.AIは適切に対応しなかった。/子どもにとってのSNSの危険性は以前から指摘されているが、ガルシアさんの訴訟は、新興のAIテクノロジーについても保護者が憂慮すべき現実を物語る。さまざまなプラットフォームやサービスを通じて対話型AIが簡単に利用できるようになる中で、ほかのサービスに対しても同様の危機感が強まっている。/Character.AIの広報は、「自傷行為や自殺思考の言葉を引き金として全米自殺予防ダイヤルの案内が表示されるようにするなど、この半年で新たな安全対策を多数実装した」と強調した。(以下略)(CNN・2024.11.10)(https://www.cnn.co.jp/usa/35225951.html)(セウェル・セッツァーさんとミーガン・ガルシアさん/Courtesy the Garcia family via CNN Newsource)
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