「溺れる者は藁をも掴む」と沈むよ

◎ 週の初めに愚考する(八拾七)~ 「AI」は、好む好まないにかかわらず、あらゆる分野・方面に進出し、領土侵犯しているでしょう。技術開発が進む前には、「遺伝子組み換え」なんて夢のまた夢と言っていた時代、ところが今やものによっては「遺伝子組み換え」以外の商品を探す方が難しい、そんな時代状況にあるようです。ぼくは、いつもパソコンに向かう時は「BGM」をかけている。大半はいわゆる「JAZZ擬(もど)き」です。これが「AI製品」だそうです。その多くがジャズ風にアレンジされた演奏で、三時間でも五時間でも聴き続けることができます。表では「AIは好かぬ」と言いながら、何時とは知らず「AI音楽」にはまっているというのかもしれない。しかし、この疑似演奏を聴いていて、ぼくのような怪しい音楽好きにもわかるのは、いかなるフレーズでも、「これはいいなあ」という瞬間がないことです。思わず、キーボードを打つ手が止まり、耳が「ナイス(How wonderful!)」と、音の連続を受け止めることがない。だから、「ながら族」を続けられるのでしょう。

 よく知っている音楽では「BGM」にならないのは、逐一音を追っかけるからです。東京に出てきて、いきなり街中の喫茶店で「クラシック」を聴きだしたころを思い出します。ぼくが入り浸ったのはお茶の水・神田界隈が多かった。大きな喫茶店で、「田園」だとか「ウィーン」などという店名でもわかるように、多くは西洋音楽のレコード鑑賞のためにお茶代を払うようなものでした。満員であろうが、誰一人声高で話すものはおらず、驚くべき静謐な雰囲気で、「これぞ、愛聴だぞ」という雰囲気に満ち満ちていました。客は好みの店の、好みの音(音響機器)で、惚れ込んだベートーベンやバッハを聴いていたのでした。ぼくも、本当によく通った。家にも小さな装置は持っていたが、やはり金を払って聞く演奏は満ち足りたものだった。

 音楽を聴いて満足するとは、どういうことかと訊かれたら、ぼくはたちどころに困る。医者に行くとか、八百屋に行くというような具体的目的があってのことではなかったからです。体調不良を抱えて医者に通えば、なにがしかの改善や快方が得られるし、それが目的で行くのでしょう。しかし、「音楽喫茶」に入り浸るのは、持て余していた時間つぶしであり、思わぬレコード(演奏)に出会えるかもしれないという偶然、微かな期待があったからではなかったか。格好をつけて言うなら、音楽を聴くことで、何かしらから「解放」されることが、たまにはあったのでしょう。ひたすら全身を耳にしてという、そんな聴き方はぼくのスタイルではなかった。本を読みながらが大半で、読書に集中していれば、音楽には心は奪われないし、その反対もあったでしょう。

 なにか、為すべき課題を果たすためとか、出された宿題を今日中に終えるのだというような、計画や予定の立っている目的があるのではなく、まさしく時間をやり過ごすとか、暇を持て余すというようなときにこそ、実は思わない「家宝」に出会うことが多いような気がしている。ぼくにとって「BGM」は目的でもなければ、関心のあるものでもなく、時間つぶし際の「伴奏(accompaniment)」のようなものでした。眠りに落ちる際の「羊が三匹…」みたいな呪文で、睡眠導入剤であったのかもしれません。思わず教師の話に惑わされて、ぐっすり眠ってしまった授業は何度あったことか。素晴らしい授業は、睡眠の妨げにならないもの、それがぼくの判断基準でした。

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【有明抄】悩み多き者よ… 目の前に深い悩みを抱えたひとがいる。そんなとき、どう向き合うべきか。臨床心理学者の河合隼雄さんによると、「プロの極意」は眠るように相手の言い分を聞き続けることだという◆自分からは何も言葉を発さず、目を閉じて話に耳を傾ける。相手が「このおっさん、ほんまに聞いてくれてるのかいな」と心配しはじめたころ、「うーん」と同意でも反対でもない相づちを打つ。そうやって、相手がもう話せないところまで聞き続ける◆心煩わすトラブルの多くは、互いに聞く耳を持たないことで引き起こされる。話を聞いてくれない。話してもわかってくれない。言葉にしたら余計、感情がこじれてしまった…。解決の糸口は河合さんのように、ただ「聞くこと」にあるのかもしれない◆近ごろは対話型の生成AIに悩みを相談するひとが増えている。いつでも何時間でも利用でき、問いかけの意図をくんで回答する「共感性」が人気の理由らしい。一方で米国では相談した少年を自殺に追いやったと裁判ざたになるなど、依存の危うさもある◆ひとの共感より、つくり物の共感が頼りにされる。「泣きながら食事をした経験のない者には、人生の本当の味はわからない」と文豪ゲーテは言った。いくら技術が進歩しても、人間にしか「人生の味」はわからない。誰かの声に耳を傾けることも、また。(桑)(佐賀新聞・2025/09/14)

 「目の前に深い悩みを抱えたひとがいる。そんなとき、どう向き合うべきか」という問題を、佐賀新聞のコラム「有明抄」氏は出されている。もちろん、答えはさまざまにありそうで、その一つに「プロの極意」を示された河合隼雄さんの話を紹介されています。この社会における「臨床心理学」を位置づけられた方で、ぼくは何度かお話を伺ったことがある。またユング研究の第一人者でもあった人。ところで、教師紛いをしていても、ぼくは「人生相談」を持ち込まれることは得意ではなかったが、多くの学生からの「諸々相談」には事欠きませんでした。もちろん、人それぞれに相性(好き嫌い)というものがありますから、「相談においで」と言って、誰もが気軽に来たわけではありません。深刻な悩みを抱えていると思っている人は多くいましたが、それがために人生がダメになるとまでは考えない人が大抵だったと思う。

 河合さんはプロ中のプロでしたから、そこで得られた知見には見るべきものがたくさんあった。「プロの極意」はひたすら、相談者の話に耳を傾ける、相談者が話し続けられるうちは余計な言葉を挟まないというのは本当のようで、しばしば「問答法」とは、「問いの中に答えがある」という意味で、ぼくは暇に飽かせて、この方法を多用していたと思う。例えば、一時間の間、相談者が55分は話す、聴き手は相づちを打つだけ。そんなことはしょっちゅうで、それで間に合わなければ、また次の機会にという始末で、そうこうしているうちに「悩みの次元」が動くことがよくありました。「ただ聞くだけ」と言っても、実はこれが本当にむずかしいのです。何とか解答を与えたいと、答え探しに夢中になると、問題の核心はどこかへ行ってしまう。つまり、人生における大半の悩みは、「霞の中にいる」状態で、いずこからかの風によって霞(かすみ)が晴れることがある。つまるところ、風待ちの姿勢(waiting for the wind)こそが極意だということなのでしょう。

 でも、多くの人は忙しい生活の中にある。「速さと効率(便利・要領)」を核として人生や生活の価値を決めているとも言えそうで、だから、速さや価値を重視しすぎる囚われ状態から、一時的にせよ解放される、そんなチャンスに恵まれれば儲けものとぼくなどは考えていました。ことわざにはいろいろな「教え」や「戒め」が含まれています。多くの場合、その教えや戒めを「逆」に取っている場合が多いのではと、ぼくはしばしば考えたものでした。「溺れる者は藁(わら)をも掴(つか)む」などと言う。とにかく助かりたい、今の苦しさから逃れたい、その一心で、何であれ、身近にあるものにしがみつくということでしょうか。「藁に縋ってどうなるものでもない」のに、それに縋る切ろうとする。そこから、ほとんどは失敗します。「溺れる者は藁をもつかむ、だから駄目なんだ」とぼくは捉えてきました。

 藁屑(わらくず)に縋っていて、溺れているものが助かるでしょうか。縋った途端に、藻掻(もが)くことを止めてしまう。「人生相談」は、まあ藁屑の如しと言うつもりはないけれど、そんなところに助かるすべ、生きる余地(浮かぶ瀬)はあるかと、ぼくは思う。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」などとも言います。その意図するところは「溺れかかったときは、あがけばあがくほど深みにはまってしまうが、逆に、捨て身になって流れにまかせると、浅瀬に浮かぶこともある。窮地におちいったときも、事態を冷静にとらえ、物事の推移を見きわめれば、やがて活路を見いだすこともできるというたとえ」(ことわざを知る辞典)最近の「水難救助」の教えで、「溺れかかったらじたばたしない(藁を掴もうとはしない)。仰向けになって(空を見ながら)浮かぶことに徹しなさい」というらしい。そうすれば溺れることはないそうです。

 窮地から逃げ出したい、苦境から脱出したい、それはまるで「藁にも縋る」という必死さに似ています。「身を捨ててこそ」というのは、そんなに難しいことを言うのではなさそうです。「果報は寝て待て」と言うと語弊もありますけれど、ジタバタしても始まらんと、腹を決めること。「人生相談」は、読み物や見世物としてならあってもいいでしょうが、回答者の多くは「人生の成功者」を気取っているとしたら、そんな「藁屑」なんかにに縋るのはおよしなさいとぼくなら言います。まして「対話型AI」に相談するなんて、とぼくは勧めないですね。「AI」は、何のことはありません、過去に行われた「人生相談」の山中から、相談者に合いそうな既成の「回答」を選んでいるだけ。そのもとになるのは、誰かが誰かに対してやった無数の「人生相談」ですから、ぼくに言わせれば「藁か藁屑」です。人により、相談によっては、それが役に立つこともあるでしょうし、効果がみられるかもしれません。でもよく考えれば、それが役立つと判断する「相談者の思考(捉え方)」にこそ、「回答の種」があったのではないでしょうか。

 「問答(対話)法(Dialogue Method)」というのは「問い」と「答え」の繰り返しであり、それを重ねるうちに、始めた時よりも、問題の吟味が進んでいくことに目的があるのです。これをして、よりよく問うこと、そこにこそ「答え」があるのですし、その答えから、新たな問いが生まれる。これを繰り返すことで、「問題」は一層深まるのですね。大事なのは「答え」を得ることではなく、「問いを深めること」なんです。これがうまく行くと、問うこと自体が答えであったということが判然とします。要するに、「浮かぶ瀬もあり」なんですね。(「自動運転車」に乗り続けて(身を任せて)、さて何をしようとするんですか。AIと対話するのは、「自動運転車」に身を任せるみたいなもので、自分の判断や行動の放棄みたいに思われます)

◉ 河合隼雄(かわいはやお)[生]1928.6.23. 兵庫,篠山 [没]2007.7.19. 奈良,天理 臨床心理学者,元文化庁長官。1952年京都大学理学部数学科を卒業。同大大学院に籍を置きながら高校教諭として 3年間勤める。大学院では心理学を学び,1959年カリフォルニア大学に留学。続いて 1962年から 3年間スイスのユング研究所で学び,日本人初のユング派分析家の資格を取得する。帰国後,天理大学教授,京都大学助教授を経て 1975年京都大学教授。日本でドラ・カルフの箱庭療法を実践し,ユング派心理療法(→精神療法)の普及に努めた。1985年に日本心理臨床学会を設立,初代理事長に就任。1987年から国際日本文化研究センター教授を併任,1995年に同センター長となった。文学,宗教など幅広い分野で活躍し,1982年に『昔話と日本人の心』で大佛次郎賞,1988年には『明恵夢を生きる』で新潮学芸賞を受けた。2000年に文化功労者に選ばれ,2002年には民間人として 3人目の文化庁長官に就任した。(ブリタニカ国際大百科事典)

「息子の自殺は対話型AIの責任」、中毒に歯止めなし 母親が運営会社を提訴 ニューヨーク(CNN) 「そんなプラットフォームがあるとは聞いたこともないかもしれない。でも知る必要がある。私たちが後れを取っているから。一人の子どもが逝った。私の子どもが逝ってしまった」/米フロリダ州に住むミーガン・ガルシアさんは、人工知能(AI)相手に立ち入った話ができるプラットフォーム「Character.AI」のことを保護者に知ってほしいと訴える。14歳だった息子のセウェル・セッツァーさんの死は、Character.AIのせいだったとガルシアさんは確信し、運営会社を相手取って訴訟を起こした。
セッツァーさんは今年2月に自殺した。死の直前までCharacter.AIと会話していた。/「このプラットフォームは設計者があえて歯止めも安全策もテストもなしに公開した。私たちの子どもを中毒にさせて操るよう設計された製品だ」。CNNの取材に応じたガルシアさんはそう主張する。/「生きているように感じるAI」をうたうCharacter.AIが、分かっていながら適切な安全策を講じなかったために、息子が対話型AIと不適切な関係を築いて家族から引きこもってしまったとガルシアさんは訴える。フロリダ州の連邦裁判所に提出された訴状によると、セッツァーさんが自傷行為に言及しても、Character.AIは適切に対応しなかった。/子どもにとってのSNSの危険性は以前から指摘されているが、ガルシアさんの訴訟は、新興のAIテクノロジーについても保護者が憂慮すべき現実を物語る。さまざまなプラットフォームやサービスを通じて対話型AIが簡単に利用できるようになる中で、ほかのサービスに対しても同様の危機感が強まっている。/Character.AIの広報は、「自傷行為や自殺思考の言葉を引き金として全米自殺予防ダイヤルの案内が表示されるようにするなど、この半年で新たな安全対策を多数実装した」と強調した。(以下略)(CNN・2024.11.10)(https://www.cnn.co.jp/usa/35225951.html)(セウェル・セッツァーさんとミーガン・ガルシアさん/Courtesy the Garcia family via CNN Newsource) 

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秋風や屠られに行く牛の尻

【いばらき春秋】立春から数える雑節の「二百十日」が過ぎた。今年は8月31日。台風が起きやすい頃で、農業生産者にとっては忌み嫌う日の一つだ。稲の開花や生育に影を落とす。〈風少し鳴らして二百十日かな〉尾崎紅葉。少しの風程度で済めばよいが、自然は厳しい▼同じく「二百二十日」「八朔(はっさく)」とともに三大厄日として恐れられてきた▼県内でも多くの地域で稲が実り、刈り取りが進んでいる。本県の作柄は「前年並み」。雨が少なく、生長に良い晴天が続いた。と思っていたら、驚くような災害の便りが届く▼県内では台風15号による日立市内の竜巻が記憶に新しい。静岡県の過去最大級の竜巻被害を見ると、紙一重の状況に恐怖を覚える。影響は強い風雨にとどまらない。フェーン現象が発生し、高温で乾いた風をもたらす。水分が異常に足りなくなり、白く枯れる白穂の原因にもなる▼台風と言えば、2年前、13号が県北地域を襲い、線状降水帯による大雨で広く浸水被害があった。10年前の常総水害もしかり。同じ時季なので、やはり忌日なのだろうか▼新米の価格は高値模様。これ以上の出荷量の減少は避けたい。〈降り出して厄日の雨の荒れやうに〉稲畑汀子。収穫までもう少し待ってはくれまいか。(綿)(茨城新聞・2025/09/13)

 表題句は漱石先生作です。屠場に連れられてゆく牛たちの「お尻」を読む。これまでに何度も、ぼくはこの風景(景色)を見たことがあります。千葉や茨城は牛や豚の飼育の盛んなところ。まだ首都高速を車で走っていたころ、しばしば何頭もの牛や豚が貨物車に乗せられ、都内の目的地に行くところを見たものでした。その表情や姿勢には、いかにも形容しがたいものがあったと見たのは、ぼくの思い過ごしだったか。

 漱石さんは、どこでこの様子を見たのでしょうか。記録では大正元(1912)年、四十五歳の時とある。その四年後に漱石は亡くなります。主因は「胃潰瘍」だったのでしょうが、更に重篤の痔疾にも罹患していた、お尻を並べて運ばれて行く牛たち(あるいはそれは一頭だけだったかもしれない)の尻をしげしげと見たか、あるいはその連想で自らの「痔」持ちのお尻を結びつけたのだったか。明治末から大正初年頃まで、漱石さんは胃潰瘍に苦しみ、同時に痔病でしばしば入院・手術をしている。屠場に連れられる牛(牛)の運命を自らに重ねていたとみるのは穿(うが)ちすぎかもしれない。この句に出あった瞬間、ぼくは凄絶な印象を直感した。漱石さんの「末期の目」をかんじたのだった。そこにいささかのユーモアはありそうですが、しかしやがてそれは消えてしまい、なんだか「死の哀しみ」に覆われている牛(たち)の表情を、自らの「疾病」の行く末に重ねているとも思われます。「屠(ほふ)られる牛」に吹きかかる、なんとも静かな秋の風。

 その漱石に、ほぼ同時期に書かれた「二百十日」(1906年)と「野分」(1907年)があります。時代相への強烈な批判やシニカルな視線を感じさせる、漱石その人の小説の誕生だったと思います。前著は阿蘇登山の経験を踏まえたものでした。「非人情」から「人情」への移行において、世間との強烈な摩擦を感じさせる主人公の「主義」と「生活」。「おい。いるか」「いる。何か考えついたかい」「いいや。山の模様はどうだい」「だんだん荒れるばかりだよ」「今日は何日いくかだっけかね」「今日は九月二日さ」「ことによると二百十日かも知れないね」会話はまた切れる。二百十日の風と雨と煙りは満目まんもくの草をうずめ尽くして、一丁先はなびく姿さえ、判然はきと見えぬようになった。「もう日が暮れるよ。おい。いるかい」谷の中の人は二百十日の風に吹きさらわれたものか、うんとも、すんとも返事がない。阿蘇あその御山は割れるばかりにごううと鳴る」(「二百十日」ちくま文庫漱石全集3所収)

 もう一つの「野分」は三人の作家の物語。中心は白井道也(英吾の教師を辞めて、食うためにも作家になる必要のある道也とそれを訝しく思う妻との会話に妙味があります。まだ二十歳頃、ぼくはこのような場面を読んでは、いずれ「作家」にでもなろうか、なれたらいいなあと思案していたことを遠い昔のこととして思い出すことがあります。学生の頃、いくつかの「小説まがい」を書いていたことも、恥ずかしさを伴って回想することでした。そんな我が拙い危険をを思わせる一場面です。

 「しかし天下の士といえども食わずには働けない。よし自分だけは食わんで済むとしても、妻は食わずに辛抱しんぼうする気遣きづかいはない。豊かに妻を養わぬ夫は、妻の眼から見れば大罪人である。今年の春、田舎から出て来て、芝琴平町しばことひらちょうの安宿へ着いた時、道也と妻君の間にはこんな会話が起った。「教師をおやめなさるって、これから何をなさるおつもりですか」「別にこれと云うつもりもないがね、まあ、そのうち、どうかなるだろう」「そのうちどうかなるだろうって、それじゃまるで雲をつかむような話しじゃありませんか」「そうさな。あんまり判然はんぜんとしちゃいない」「月給がとれなくっても金がとれれば、よかろう」「金がとれれば……そりゃようござんすとも」「そんなら、いいさ」「いいさって、御金がとれるんですか、あなた」「そうさ、まあ取れるだろうと思うのさ」(「野分」同上)

 という具合で、二作とも「秋風」「野分」「二百十日」「厄日」等と呼称されている季節が主題のような設定です。雑節の一である「二百十日」、本年は8月31日。その十日後が「二百二十日」です。この時期に吹く秋風を「野分(のわけ・のわき)」と呼ぶ。もちろん旧暦です。稲の開化期に当たり、農家にとっては気を揉む時期でもありました。(閑話 この「野分」を見聞きすると、ぼくにはとても親しくしていた憲法学者を思い出します。彼は六十前に亡くなったのではなかったか。知りあってから二十年ほど、よく一緒に飲んで語ったものだった。夜を徹して飲んだことも幾たびか。Hさんは「社会主義憲法」の研究者であり、ハンガリーなどの東欧社会の文化や歴史の研究ものでもありました。無恥なぼくは、彼から聞く話のこと如くが新鮮であり、かつ身に染みたものだった。ぼくより年下だったが、いかにも「好漢(goog fellow)」そのものだった。文学を愛し、音楽を好んだ、誠実かつ才能の士でもあった)

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 しかし、近年の異常気象の自然環境にあっては、「二百十日」も「野分」も、およそ想定し得ない暴れ方をします。今月7日、静岡県内各所を襲った、台風15号の影響下の強烈は突風、それは「竜巻(tornado)」と確認されたのですが、風速はなんと75メートル以上もあったとか。史上最強の風速・風力でした。ために数千の家屋が被害を受け、風圧で横倒しされた車にいた男性が死亡したほどでした。また、一昨日は、秋雨前線の働きで、都内のいくつかの河川が氾濫し、これまた家屋に甚大な被害が出ました。一時間に100ミリを超える雨量が、一瞬のスキをついて降り落ちるのですから、防御の手立てもない人間の生活圏は一たまりもないでしょう。当地でも「県内全域に竜巻情報」が出され、肝をつぶしていたのでした。

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〇 二百十日(にひゃくとおか)= 暦の雑節の一つ。立春から数えて210日目の日。太陽暦の9月1日ごろにあたる。古来、台風襲来の時期でイネの開花期にあたり、農家の厄日として注意を促すため暦に記載される。渋川俊海(しぶかわはるみ)が漁夫からこのことを聞いて1686年(貞享3)の暦から記載するようになったといわれているが、それ以前に伊勢(いせ)暦には1656年(明暦2)の暦から記載されている。立春から数えて220日目を二百二十日(にひゃくはつか)というが、暦には記載されない。(日本大百科全書ニッポニカ)

〇 の‐わき【野分】[ 1 ]〘 名詞 〙 ( 野の草を分けて吹き通る風の意 ) 二百十日、二百二十日前後に吹く暴風。また、ひろく秋から冬にかけて吹く強い風をいうこともある。のわきのかぜ。のわけのかぜ。のわけ。台風。《季語・秋 》[ 2 ] 「源氏物語」第二八帖の名。光源氏三六歳の秋八月。野分の吹き荒れたあと、風見舞にまわる夕霧の目に映じた六条院のさま、垣間見た紫上や明石姫君のさまなどを述べる。王鬘十帖の第七。(精選版日本国語大辞典)

 (ヘッダー写真は「1923(大正12)年、ナショナル ジオグラフィック10月号に掲載された阿蘇山の写真」撮影者は、20世紀初めに阿蘇を撮影して歩いた英国人写真家ハーバート・G・ポンティング」(https://www.kokoro1986.com/the-210th-day/

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 この時期(二百十日・二百二十日頃)に詠まれたであろう俳句を、順不同に、時代を問わず、ぼくの好みに任せて、思いつくままに列挙引用してみました。(実に芸のないこと、夥しい。恥ずかしいですね)(意に満たぬ、いちいちの解説や解釈はしません。読む人の好みに応じて、です)

鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉(蕪村)
秋風やひびの入りたる胃の袋(漱石)
骨立を吹けば疾む身に野分かな(〃)
この夕野分に向いてわかれけり(〃)
四里あまり野分に吹かれ参りたり(〃)
世のそしり人のあざけり野分かな(万太郎)
芒の穂二百十日も過ぎにけり(子規)
漆黒の雲急ぎすぐ厄日かな(樋笠文)
降り出して厄日の雨の荒れやうに(稲畑汀子)
青空の雨おほつぶに厄日来る(木津柳芽)

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嘘も方便、番茶も出花です

 当人は意識しているかどうかはさておいて、「虚実取り混ぜて」というのが人生のおおよその相場になっているような気がします。もちろん、そういうのは「虚」が実害を及ぼしたり、罪になるような場合は別物とぼくは考えている。しばしば「嘘も方便(A lie is a convenient way)」と言われます。嘘を推奨しているのではなく、何でもかんでも「本当」を言うことばかりでは救われないという、ある種の「緩衝材」が人生には必要で、そのための「方便としての嘘」はあるだろうし、その効用は馬鹿にはできないということだと、ぼくは受け止めてきました。

 どんな嘘も許されるというのではなく、「方便のための嘘」もときには必要というのは仏教が元(出典)になっています。「(方便とは「upāya」仏教用語)。原義は近づく,到達するの意。仏陀が衆生を導くために用いる方法,手段,あるいは真実に近づくための準備的な加行 (けぎょう) などをいう。転じて『嘘も方便』などの用例にみられるように,目的のために用いられる便宜的手段などをいうこともある」(ブリタニカ国際大百科事典) つまるところ、「方便」とは、「仏が衆生を悟りに導くために用いる手だてをいいます。…うそをつくことはよくないことですが、相手や将来のことを考えて、物事を円滑に運ぶためには、時と場合によって許されるとする考え方です」(ことわざを知る辞典)ある人々にはとても都合のいい解釈ではないでしょうか。

 それを踏まえて再考すると、どうなるか。人を騙して利益を得るとか、相手を貶めるために嘘をつくというのは仏教ではなくとも認められないのは言うまでもありません。勉強の振るわない子に、「君は才能があるんだ」「こんなところでうろうろしているような人じゃないよ」などというのは、大人が子どもに言うべき嘘の中でも最良のものとぼくは考えてきた。教師の資質のかなりな部分に、子どもを「乗せる」「その気にさせる」、そんな器量があるでしょうし、その効果の大部分は将来にかかって子どもの生長を促す力(励み)になる性質のものでしょう。もちろん、その反対(逆効果)も当然あります。

【春秋】うそをつくのはいつだって人間です 「科学はうそをつきません。うそをつくのはいつだって人間です」。テレビドラマの予告編で元科学捜査研究所の敏腕鑑定人が容疑者を追い詰めていた。今や警察の科捜研は犯罪ドラマの鍵を握る存在だ▼警察庁がDNA型鑑定を導入したのは1989年。当初は精度が低く参考情報の扱いだった。天文学的に技術は進化し、今は極めて高い精度で個人を識別できる▼最先端の科学技術も、扱う人間次第でその信頼は崩れ去る。有罪の裏付け、無罪の証明、あるいは冤罪(えんざい)の要因にもつながる重要な証拠が、これほどずさんに扱われていたとは▼佐賀県警科捜研の職員がDNA型鑑定の記録を改ざんし、試料をすり替え、虚偽の報告を重ねていた。7年で130件の不正には殺人未遂や性犯罪も含まれる▼「仕事が遅いと思われたくなかった」と動機を語っている。やっていないのに「やりました」と報告したのは、自分を大きく見せたかったのか。小さなうそを放置した挙げ句、取り返しがつかない事態に陥る。大なり小なり、そんな場面に遭遇した人は多いだろう▼未解決事案を多く抱えた時代、佐賀県警は事件をさばけない「さばけんけい」とやゆされた。真面目に職務に励む警察官には、聞きたくもない昔話に違いない。前代未聞の不正だが「過去の捜査や公判に影響はない」という。長年うそを見抜けなかった組織の内部調査で、済ませていい話だろうか。(西日本新聞・2025/09/12)

 本日の西日本新聞のコラム「春秋」のケースはどうでしょう。「佐賀県警科捜研の職員がDNA型鑑定の記録を改ざんし、試料をすり替え、虚偽の報告を重ねていた。7年で130件の不正には殺人未遂や性犯罪も含まれる」という。見上げた科捜研職員の悪根性というべきか。この「犯罪」を見逃し続けた組織自体も共犯であることを免れることは難しい。「仕事が遅いと思われたくなかった」「上司の覚え目出度く(と考えていた)」とは当人の「弁解」「方便」です。上司の評価、他人の評価を「実際より高く見せたかった」というのでしょう。それにウマウマと乗せられた周囲の人間はどうしていたのか。佐賀はかなり昔から、ぼくには大変に好感の持てる土地でした。何よりもぼくは江藤新平が大好きで、彼についてはまずい論文を書いたこともあります。明治期、初代司法卿だった人。「四民平等(通称「身分解放令)」を出した人でもある。佐賀の乱では、政敵大久保利通によって「梟首(きょうしゅ)の刑」に遭っています。その佐賀県警は「未解決事案を多く抱えた時代、…事件をさばけない『さばけんけい』とやゆされた」とある。

 冤罪が後を絶たないのも、この社会(国)では「さばけんけい」「さばけんさつ」が多すぎるからではないでしょうか。証拠をでっちあげるというより、事件そのものをでっちあげたのが「大河原化工機事件」でした。開いた口がふさがらない、では済まない醜態を検察は演じていたことがますます白日の下に晒されています。さらには、森友学園事件では時の首相夫婦が事件にかかわっていたとされた「公的文書」が改竄(かいざん)されるに至って、今な問題は未解決のままです。「嘘」が大手を振って、天下の大道を闊歩している、そんな日本社会の「荒んだ景色」がいたるところい見られます。ぼくたちは嘘と嘘の闇魔を掻い潜って生きて行かねばならないのです。

 ここまでくると「嘘も方便」では済まされない、「嘘こそ犯罪」「権力の嘘こそ不正」と言うべきでしょう。しかし、その取り調べに当たる警察や検察が「自己利益」「自分評価」を得るために、渾身の嘘をつくのですから、もはや打つ手は残されていないという惨状です。三権のそれぞれが「嘘も方便」をいいことに、わが世の春を謳歌しているとしたら、この国はもう「詰んでいる」となります。 最後の最後は将棋盤をひっくり返して、すべては「オジャン」というところまで来ていると、ぼくには思われるのだ。「嘘も方便」の「嘘」と、「嘘は犯罪」の「嘘」は、その中身も値打ちも違うのだということを間違いたくないものです。

〇 余談①「番茶も出花」とは、「( 番茶のような品質の劣った茶でも入れたてはうまいの意から ) 器量のよくない娘でも一八歳ぐらいの娘ざかりは美しいものであるというたとえ。鬼も十八番茶も出花」(精選版日本国語大辞典)

〇 余談②「で‐ばな【出花】=番茶・煎茶せんちゃに湯を注いだばかりの香味のよいもの」(デジタル大辞泉)もともと「番茶」とは「一番茶」「二番茶」の後に摘んだ茶葉が原料だったので、「晩茶」の意だったとされます。近年、ぼくはもっぱら「煎茶・緑茶」しか飲まなくなり、番茶は敬遠してきました。でも「番茶も出花」という俚諺を経験してみたくなりました。

〇 余談➂ 近年、どういうわけか「抹茶」が大ブームで、猫も杓子も(日本人も外国人も)「美味しい」と浮かれ放題です。何にでも「抹茶」を混ぜる。本当に「困っちゃ」うね。「抹茶」とは「茶の新芽を摘んで精製した葉茶を、臼でひいて粉末にしたもの。主として茶の湯に用い、濃い茶と薄茶とがある。碾(ひ)き茶。散茶」(デジタル大辞泉)

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「それはおかしい」と言えますか

【北極星】40年ほど前のことである。県外で高校野球の大会を取材中、信じられない光景に出くわした。ピンチを迎えた投手の元にベンチから伝令役の選手が駆け寄り、いきなり左頰に平手打ちを見舞ったのである▼監督から「気合を入れてこい」と指示されたのだろう。当時は理不尽な根性論がスポーツの指導でまかり通っていた。多少の暴力は「愛のむち」とされていたものの、公衆の面前での行為には衝撃を受けた▼今夏の甲子園大会で広陵高(広島)が1回戦を勝った後、出場を辞退した。部内の暴力事案が背景にある。日本高野連から既に厳重注意処分を受け、公表基準に該当しないとされた案件だったが、大会直前に交流サイト(SNS)などで拡散し、生徒への中傷が激しくなった▼不祥事による開幕後の辞退は大会史上初。突然の離脱で後味の悪さが残っただけでなく、大会の公正さにも疑問が投げかけられた。注目度の高い高校野球で強豪校が起こした問題だけに、影響は大きい▼スポーツに暴力、暴言、いじめが入り込むことはあってはならない。広陵高のケースは健全な運動部活動の在り方を考える契機になるのかもしれない。日常の指導、先輩と後輩の関係などが適切かどうか問われよう▼若かりし頃、球場記者席で目撃したビンタには釈然としないものがあったが、問題視する報道はなかったと記憶している。選手を傷つける指導に対して「それはおかしい」と声を上げられなかった。今も後悔している。(秋田魁新報・2025/09/10)

 昨日は秋田魁新報コラム「北斗星」に触れようとしたのですが、その前に「負け組の星 ハルウララ」の死の報道について駄弁りたくなったので、翌日回しにしたのでした。【北極星】氏は40年前の自らの記憶を書かれている。「県外で高校野球の大会を取材中、信じられない光景に出くわした。ピンチを迎えた投手の元にベンチから伝令役の選手が駆け寄り、いきなり左頰に平手打ちを見舞ったのである」という、その場面に「公衆の面前での行為には衝撃を受けた」と書くが、当人を含めて、「信じられない光景」を目撃したにもかかわらず、一切報道されなかったという。「選手を傷つける指導に対して『それはおかしい』と声を上げられなかった。今も後悔している」と正直に告白されてもいるが、何か釈然としないものをぼくは感じたままでいる。

 (ヘッダー写真は東洋経済オンライン・2025.08.14 07:45)(https://antenna.jp/articles/27949961

 ぼくは65年以上も前には高校生として、部活として野球とラグビーをやっていた。野球は中学校時代からの続きで、野球をすることが楽しみだった。とても野球の強豪という高校などではなく、きわめてありふれた、「負けるが勝ち」組の野球部だった。つまりは同好会だった。それでも府の高野連に加盟し、公式戦を戦っていたのである。面倒だから簡単にすますが、野球に暴力は無縁を徹底していたと思う。監督もコーチも特定の人間はおらず、自分たちで計画を立ててチームを作っていた。敗戦後十五年、ようやく野球熱は盛んに生り、戦前からの強豪チームも息を吹き返していた時代。当たり前に、日常的に「暴力」は横行していたのをよく知っていた。その暴力の蔓延は野球部に限らないことで、むしろ、問題だったのは、学校における、教師の生徒への暴力はいささかの違和感もなく常態化していたし、教育に体罰はつきものと見なされていたと思う。ぼくが「学校嫌い」「学校不信」「教師忌避」に強く傾いたのは、そのような「軍隊式教育」を受け入れることは断じてできなかったからだった。学校の体質という以上に、教師や指導者の暴力に馴染んだ性向を忌み嫌っていた。(今から見れば、狂気的だったが、炎天下の練習中の水分補給が禁じられていた。が、ぼくはそれを無視して水を飲んでいた。そんなことは当たり前ではないかという態度で。野蛮が支配していた時代)

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 「学生野球の憲法」と称されてきた規約の「前文」はカント学者で文部大臣も歴任した天野貞祐氏(独協学園初代学長)(1884~198)が書いたもの。ここでいう「学生野球」は大学・及び高校の野球部活動が想定されている。今夏の甲子園大会において広島の広陵高校が一回戦勝利の後に、甲子園から姿を消して、さまざまな物議を醸した。それは今なお終わってはいない。監督による暴力(指導)、部員による暴力問題が再燃したからでもあった。高野連の段階では部員の暴力行為は「厳重注意」として、すでに決着済みだったという。まだまだ、野球と暴力、野球は暴力という問題の根は深いのである。「試合を通じてフェアの精神を体得する事」だけでは足りず、普段の練習を通してこそ。この「精神」を養うことが求められなければならなかっのではないか。

 日本学生野球憲章 前文
「学生たることの自覚を基礎とし、学生たることを忘れてはわれらの学生野球は成り立ち得ない。勤勉と規律とはつねにわれらと共にあり、怠惰と放縦とに対しては不断に警戒されなければならない。元来野球はスポーツとしてそれ自身意昧と価値とを持つであろう。しかし学生野球としてはそれに止まらず試合を通じてフェアの精神を体得する事、幸運にも驕らず悲運にも屈せぬ明朗強靭な情意を涵養する事、いかなる艱難をも凌ぎうる強靭な身体を鍛練する事、これこそ実にわれらの野球を導く理念でなければならない」(昭和21年12月21日学生野球基準要項として制定)(「日本学生野球憲章(にっぽんがくせいやきゅうけんしょう)は、1950年(昭和25年)1月22日に制定された、日本の学生野球の理念と方針を定めた憲章である。「学生野球の憲法」ともいわれる」Wikipedia)

 広陵高校の暴力事案が「厳重注意」で済まされたのには理由があった。この学校出身者が「高野連」に小さくない力を持っていたし、現学校長は県高野連の要職についていた。野球に限らず、「学生スポーツ」に暴力や暴力体質が認められるのはなぜか。突飛に聞こえるが、学校教育は日本陸軍創設とほぼ同時に始められた。明治4、5年。学校の中に軍事教練の要素が入るのは避けられなかったし、それが戦前・戦後一貫して「麗しい伝統」となって続いてきたのだった。「教師による体罰」は日常の当たり前の教育活動だったと言える。「問題に答えられないから」立たせる。宿題をやってこなかったから「体罰」、理不尽を通り越して、こんな、呆れた「巨人の星」のような場面が学校にはふさわしいと考えられていたのだ。言うまでもなく、軍隊には「序列(階級)に基づく暴力」は不可欠だった。今でも問題にされる「相撲の稽古」、しごきやいじめや暴行そのもの自体が「稽古」になっているのは、不思議でも何でもないだろう。この社会には根強く「暴力容認」の風潮が流れ続けているのだ。

 もう十数年も前になったが、ぼくはあるシンポジウムに駆り出され、愚見を述べさせられたことがあった。大阪府下の高校バスケット部における指導者の「暴力的指導」で、部員が「自死」した事件だった。ぼくは、このような機会には暴言を吐くことにしていた。部活から暴力・いじめをなくすには、部活をなくすこと、これが「最良の解決策だ」、と。「学校からいじめをなくすにはどうしたらいいでしょうか?」と訊かれ、何時だって、「それは簡単。学校をなくすこと」と嘯(うそぶ)いていました。その気分は今もなお続いている。殴られ蹴られて、何かをやらされることに、いかなる意味・価値も見いだせなかった。「体罰を受けて、ぼくはいい子になれた」とか、「監督の厳しい指導で野球が上手になった」とか。恥ずかしい限りの自分の経験を一般化してほしくないと思うばかりだった。「体罰がなくてもいい子」になれるし、「厳しい指導(暴力)がなくても野球は上手」になれるのだ。道徳やスポーツを貶めてはいないか、と言いたい。

 学生野球憲章「前文」をどう読むか。憲章だから、いいことが書かれている、それだけだともいえるし、そんなことはできるはずもないではないか、ともぼくには思われる。「たかが野球、されど野球」などといういやな表現がはやったことがある。大事なのは、「たかが野球」であって、それだけで、どこがいけないのかということ。ぼくにはそれで十分。そこに「甲子園」「勝利」「優勝」「序列主義」などという、別口の闘争意識(覇権主義)を植え付けようとするから、問題が起こるのだと思う。高校野球に限っていえば、「新聞社が高校野球を販売促進の材料に使っている」という、驚くべき頽廃が百年も続いているが、これはこれで別に論じたい。

 昔からぼくは、A新聞やM新聞は、早々に高校野球を食い物にすることを止めるべきと広言してきた。今は故人になった一人の知人が高野連会長に就任して数年経った頃、夏の甲子園大会主催新聞社の記者に「あの会長を何とかしてほしい」と冗談めかして相談されたことがあった。あまりにも「場違いな存在」だったかららしい。「あなたたちが選んだのだろうから、ぼくに持ってこないでほしい」と相手にしなかった。もっと言うなら「大のオトナたちが未成年者を商売のタネにしている」のだ。「みっともない」「醜悪すぎる」という感覚がぼくにはある。金儲けの手段(道具)にしているのだ。

 問題は「野球」だけではないということ。この国における「運動(体育)」「スポーツ」には、いろいろな夾雑物が絡まっている。そこに運動や体育が食い物にされたり、商売の手段や道具にされたりする余地(隙)が顔を出すのだ。「五輪」大会が、金塗(まみ)れになっている現状をどう見るか。「スポーツは美しい」という人がいるが、やっている本人からすれば「死に物狂い」を強いられているのだ。その根底には「強者」「勝者」「金メダル」という絶対的価値意識がある。「五輪は参加することに意義」なんかない、勝てなければ、話にならないという「勝利専制主義」だ。先のパリ五輪で、女性柔道選手が優勝を逃して、畳の上や外で号泣した場面が(世界中に)報じられた。それを観た瞬間、ぼくは「醜悪極まりない」と目を背けたものだった。それを「美しい」と感じる人がいるのかもしれぬが、同調はできかねる。スポーツは、まるで形を変えた「戦争」だと勘違いしているのではないだろうか。勝つためなら、反則もあれば暴力もあるという、そんなのはスポーツではないというのが、ぼくの拙劣な経験から身に着けた思想だ。

 「学生運動」と言うと誤解されそうで、だから「学生スポーツ」というのかもしれない。その学生運動には「内ゲバ」はつきものだったし、「学生スポーツ」にも暴力は不可欠の要素になってきた。「集団には苛(いじ)めはつきもの」ということだろうが、「いじめのない集団」もあるのだから、本来なら、そこを目指すべきなのだと思う。何が嫌(いや)だと言って、運動(スポーツ)には根性論が付いて回ること。ぼくはスポーツは嫌いではないし、ものによってはとても好きだったが、そこに「暴力」が見られたら、するのも見るのも、たちまちいやになったものだ。それは、運動に限らない。音楽コンクールで優勝、コンテストで一位などという所業に、ぼくは身を任せられないのだった。ショパンコンクール、チャイコフスキーコンクールで覇を競うというのは、文字通り「戦争」「競争」だと言いたくなる。そんなところに音楽の神(Musa)は宿らないだろうと思う。要するに「他者から評価される」ことを重大視すると、大抵は、物・事の純粋性が汚されるとみて間違いはないだろうから。その根っこにあるのは、「勝てば官軍」という覇権主義だと思う。学校教育の「根本義」にさえなっていないだろうか。

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人生も「負けるが勝ち(価値)」ですか

「負け組の星」ハルウララ天国へ 高知競馬で113戦0勝、余生を送っていた千葉の牧場から旅立つ 負けても負けてもひたむきに走り続ける姿が共感を呼び、2000年代に「負け組の星」として大ブームになった高知競馬(高知市)のハルウララ(牝馬)が、余生を送っていた千葉県御宿町の牧場で9日に死んだことが分かった。29歳だった。/1998年にデビュー。当たらない馬券が交通安全のお守りになるなど、全国的なブームになった。最盛期の2004年には日本中央競馬会(JRA)の武豊騎手が騎乗し、高知競馬場に来場者が入り切れず入場制限されたことも。結局一度も勝つことなく、06年に113戦0勝で引退した。/死んだとの連絡が牧場のオーナーから認定NPO法人「引退馬協会」にあった。(高知新聞・2025/09/10)(https://www.kochinews.co.jp/article/detail/905964)

 もう何年前になるか、この「有名馬」が御宿の牧場に来たというニュースをいろいろな報道で知りました。拙宅から御宿まで、車で一時間もかからないところだし、何度も出かけた因縁の場所でもあったので、いずれ、そのうちにお目にかかろうかなという気持ちを持っていた。毎年のように、「ハルウララは元気です」という情報を確かめながらの近年でした。「負ける」ことの意味のようなものを教えてくれたと馬だったという点でも「傑出」していたのではなかったか。何よりも負け続ける牝馬の馬主の「偉業」というか、変わらない馬への愛情だったか、話題に上るたびに、そんなことまでも感じた次第。

 (ヘッダー写真は「武豊騎手が騎乗した際のハルウララ(2004年3月22日、高知競馬場)(左写真・ファンからもらったニンジンを頬張るハルウララ(千葉県御宿町のマーサファーム):高知新聞)

 昨日亡くなったというのですから、大往生ではあったと思います。少し前に、ぼくにしては珍しく、北海道旅行の途次に浦川に出向き、谷川牧場の「シンザンマ」、その奥にあった鎌田牧場の「コダマ」という日本競馬会の名馬に因んだ牧場を訪れた逸話を書いたばかり。ぼくは競馬はまったくやらなかったが、多少の縁故があって何頭かの馬には親しく接してきました。馬との出会いは、それこそ能登半島の田舎での学校に入る前のこと。農耕馬ではなく、趣味で乗馬をする人がいて、何度か乗せてもらったことが始まり。同じ時期には、牛の世話もしたことがありました。牛馬の友というところでしょうか。

 「負けるが勝ち」という俚諺があります。今はあまり使われないようですが、時代ですかね。「負け組」を見下し、「勝ち組」に憧れるという競争社会の余裕のなさとは言えないでしょうか。「一時は相手に勝ちを譲り、しいて争わないのが、結局は勝利をもたらすということ」(デジタル大辞泉)だそうです。どういうことか、ぼくにはよく理解できないものの言いようではありますが、あるいはさらに深い含意があるのかもしれません。ハルウララは負け続けた。馬肉にされかけたこともあったが、「無事これ名馬」の通り、「113戦全敗」という競走馬の長いキャリアを輝かしい,全馬未踏の記録で終え、いろいろと怖い余生に導かれかけたりしながらも、御宿の地で大往生したのでした。さすれば、ハルウララは「名馬」であり、こよなく愛されて長生きした馬ということになり、馬の生涯の送り方としては「勝ち」だったということになるのでしょう。(右上写真:鞍上は武豊氏)

 競馬ですから「勝つために走らせる」のは馬主などの関係者であり、馬券を買うファンだったことは間違いありません。しかし、負け方が半端ではなかったことから、「負ける者の美学」というのでしょうか、それにいたく感情を動かされた多くの人たちが、この「負け続ける名馬」を放置しておかなくなった。ハルウララに聴いたのではありませんから、あるいはぼくの感想は間違っているかもしれません。恐らくこの競馬馬は「走ること」に値打ちを見出していたのではなかったか、そんな埒もないことを空想していると、なんだか「走れメロス」を思い出しました。太宰治氏の作品で有名になったメロスの運命。約束の日時までに戻らなければ、友人のいのちは保障されないという十字架を背負って出掛けたメロス。走り続けているうちに、彼は走ること、そのものの価値を実感しだしたというのです。

 ある劇団の看板演目としてこの「走れメロス」がありました(今も)。演出家のHさんや看板女優だったSさん(現劇団代表)に誘われて、ぼくは何度かこの作品を観に出かけたことがありました。その「走るメロスの心境変遷」に驚愕したものでした。演劇会場全体がメロスの走行路となっており、彼が走り続けるうちに、観客の一人がメロスの後ろについて走り出す。やがてまた一人、また一人、…と、舞台を駆け回る人がたくさん出てきて、走りながら涙を流すものまで出てくるのでした。走ることの意味というか、走ることの精神というものを体験している観客の姿に、ぼくは感心した。

 もちろん演劇の主旨から言うなら「観客の舞台動員は邪道」とされるでしょうが、それでも不思議な舞台作品だったと、今もその感動を忘れていません。同じような経験は木下順二さんの「群読 子午線の祭り」にも感じたことでした。競馬に限らず、走ることの第一義は勝つことであり、第二義は記録でしょう。でも、それらとは比べられない、心身に働きかける値打ちがあるのだとぼくは思っている。つまりは「精神の浄化(spiritual purification)」というものです。世界中で「走る」ことに憑かれた人々がいます。兼好の為だとか、老化防止のためだとかいう以上に、精神の浄化作用があるに違いないのです。

 結果として「負けるために走る」ハルウララに多くの人たちは「勝ち負けに囚われない」生き方を、「只管(ひたすら)疾走する馬」の存在に、生存競争に取り憑かれた己の精神の「浄化」「(一瞬の)解放」を感じたのではなかったか、とぼくは愚考している。勝ち負けに色分けされる人生、そんなものよりももっと別の生き方があるではないか、そんなことを「負け続けた馬」に感じとっていたと思うのです。「負けるが勝ち」というのは、なかなかに深い真理が込められていると思う。誤解されたくないのですが、「負け続ける才能」がいるし、さらに強い「意志」が欠かせないのではないでしょうか。ぼくの敬愛する哲学者は「ビリになるにも能力がいる」と言われていました。だから、誰もが「ビリ」になることができないのです。ビリになる、負け続ける能力が一時寿しく欠けていたがために、ぼくはビリにもなれず、「出ると負け」にもなれませんでした。我が無能を恨みますね

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涓滴(けんてき)岩をも穿つ

 なんどもこの駄文集録に於いて触れてきました。桐生悠々(1873~1941)。今、この島社会の大手民間新聞がほとんど新聞の使命を果たせていないどころか、むしろ、きわめて政治色・政党色の色濃い主張や主義に奔走しているかに思われる状況にあって、ぼくはいつでも「闘う(戦う)新聞人」だった桐生悠々氏の「抵抗の姿勢」に、自らの姿を映すことにしてきました。その結果、これまで繰り返し駄弁ってきたことでもあり、いまさら何かを言う必要も、その元気さえも失われて、単なる寝言のような無様な仕儀になってしまいました。その上は、ただただ彼の「新聞人の姿」に接するばかりと、飽きもしないで「言いたい事と言わねばならない事と」(昭和十一年六月)に立ち戻るのです。そこで、悠々さんは何を語っているか。

 今から45年も前に公刊された「抵抗の新聞人 桐生悠々」を折に触れて再読三読してきました。井出孫六さんの著書です。井出さんは信州のひとで、たまたまぼくの先輩で、信州人でもあった元同僚だった歴史学者・Yさんから井出さんのことをずいぶん聞かされました。井出さんは作家であり、批評家でもあった人。兄上は政権党の有力な政治家でした。優れた歌人でもあった人。孫六さんはたくさんの作品を遺されました。ぼくは熱心な読者ではなかったが、「抵抗の新聞人…」は何度読んだことか。夏バテ気味で少々疲れが残っているので、今はその内容には触れない。いずれ機会を設けて、立ち返ってみたい。

 「新聞人」としての桐生悠々の新聞人たるゆえんは「私は、この場合、言いたい事と、言わねばならない事とを区別しなければならないと思う」「言わねばならないことを、国民として、特に、この非常時に際して、しかも国家の将来に対して、真正なる愛国者の一人として、同時に人類として言わねばならないことを言っているのだ」と主張する。いかにも、新聞人は「言いたい事」を記事にするのであって、むしろ「言わねばならぬ事」を書くことにはいささかの躊躇があるのは、昔も今も変わりがないでしょう。ネット上に溢れる(新聞)記事の多くは「言いたい事=書きたい事」であって、現下の状況において、苦言を呈する、書かねばならぬことを書くという肝心の姿勢には大いに欠けているとぼくは感じ続けてきました。長年続けてきた新聞の宅配購読を一切やめてしまったのも、大半の理由はそれでした。

 今回、「首相辞任」という大きな政治的動きも、ある政党の政治家たちの政治的な行動に動かされた感は否定できないのはもちろんですけれど、いわば有力大手新聞が、この「政局」に小さくない役割を果たしたという事実を看過してはならないと思う。率直な話、有力な権力者(政治家)と組んで、意図的な政治情報を報道するなら、今回のような恣意的政治決着を生み出すことはできてしまうのです。「首相は辞めない」と言っている。にもかかわらず、ある新聞社は「首相辞任の意向を固める」と憶測・願望に基づく記事(言いたい事)を書き続けたのでなかったか。その結果、意図したとおりに「(有力政治家の政敵を)総理の座から引きずり降ろした」のだから。これが新聞の「本望」だと言えるのかという否定しようもない疑念。

 では、この政権党内における政局の渦中に遭遇して「言わねばならぬ事」とは何だったか。

 悠々氏は書いている。「言いたいことを、出放題に言っていれば、愉快に相違ない。だが、言わねばならないことを言うのは、愉快ではなくて、苦痛である。何ぜなら、言いたいことを言うのは、権利の行使であるに反して、言わねばならないことを言うのは、義務の履行だからである」と。言いたいことを言うのは「権利の行使」だとするなら、言わねばならぬ事をいうのは「義務の履行」だと言われている。現下の島社会では課題が山積し、不況や貧困が予想以上に深刻化している今日、いったい「気に入らぬ首相」を辞任させるように有権者を誘導すること以外に、書くべき事、言うべき事はなかったのでしょうか。新聞人が、あり得ないことでしたが、一政治家(当事者)になったとしかいいようがありません。

 昨日、今日の各新聞の「政局に関わる記事」を見ていて、ぼくが極めて奇異に感じたのは読売・毎日の「誤報」に触れたところが皆無だったこと。「首相辞任」を早々と、号外まで打って報じた新聞社の大きな過ちを新聞人として指摘した記事がなかったのは(ぼくの見た限りで)、どうしてか、ぼくは驚く以上に、新聞人の「矜持(pride・self-esteem)」が死に絶えていることに驚愕するばかりでした。大袈裟ではなく、「新聞は死んだ(Newspapers are dead.)」というほかありません。もちろん新聞が死ぬという意味は、新聞を作る人間が、新聞が新聞であるための条件(要素)を否定しているからです。言いたい事を言う、それは、こと現実の政治に関するなら、どういうことになるでしょうか。それが今回の、マスメディアも絡んだ「政治劇」の明らかにしたことだったとぼくは考えている。つまり、端的に言うなら、多くの新聞人と称している人々は「言いたい事」「書きたい事」に終始しているということです。「反石破」でなければ、…。それは「権力を批判する」側の人間たちのなすべき言辞行動ではなかったというべきで、真っ当な感覚も判断力も失っていたということでしょう。

 と言ってみたところで、「糠(ぬか)に釘(くぎ)」「暖簾(のれん)に腕押し」「豆腐に鎹(かすがい)」でしょうか。無駄とはわかりつつ、釘は打ち続け、腕は押し続けなければならないと思う。指摘しておきたいのは、いかに無駄・無効だと言われようとも、「(新聞界の)王様は裸だ」と指摘し続ける意志(こころざし)を失わないことです。ただの不出来な老人に他ならない人間としてでも、指摘し続ける必要があると、ぼくは言いたいのです。

 「涓滴(けんてき)岩をも穿つ」というのではないでしょうか。「涓滴」とは水のしたたり、わずかばかりの水のことです。

 言いたい事と言わねばならない事と(桐生悠々)

 人動(やや)もすれば、私を以て、言いたいことを言うから、結局、幸福だとする。だが、私は、この場合、言いたい事と、言わねばならない事とを区別しなければならないと思う。
 私は言いたいことを言っているのではない。徒に言いたいことを言って、快を貪っているのではない。言わねばならないことを、国民として、特に、この非常時に際して、しかも国家の将来に対して、真正なる愛国者の一人として、同時に人類として言わねばならないことを言っているのだ。
 言いたいことを、出放題に言っていれば、愉快に相違ない。だが、言わねばならないことを言うのは、愉快ではなくて、苦痛である。何ぜなら、言いたいことを言うのは、権利の行使であるに反して、言わねばならないことを言うのは、義務の履行だからである。尤も義務を履行したという自意識は愉快であるに相違ないが、この愉快は消極的の愉快であって、普通の愉快さではない。
 しかも、この義務の履行は、多くの場合、犠牲を伴う。少くとも、損害を招く。現に私は防空演習について言わねばならないことを言って、軍部のために、私の生活権を奪われた。私はまた、往年新愛知新聞に拠って、いうところの檜山事件に関して、言わねばならないことを言ったために、司法当局から幾度となく起訴されて、体刑をまで論告された。これは決して愉快ではなくて、苦痛だ。少くとも不快だった。
 私が防空演習について、言わねばならないことを言ったという証拠は、海軍軍人が、これを裏書している。海軍軍人は、その当時に於てすら、地方の講演会、現に長野県の或地方の講演会に於て私と同様の意見を発表している。何ぜなら、陸軍の防空演習は、海軍の飛行機を無視しているからだ。敵の飛行機をして帝都の上空に出現せしむるのは、海軍の飛行機が無力なることを示唆するものだからである。
 防空演習を非議したために、私が軍部から生活権を奪われたのは、単に、この非議ばかりが原因ではなかったろう。私は信濃毎日に於て、度々軍人を恐れざる政治家出でよと言い、また、五・一五事件及び大阪のゴーストップ事件に関しても、立憲治下の国民として言わねばならないことを言ったために、重ねがさね彼等の怒を買ったためであろう。安全第一主義で暮らす現代人には、余計なことではあるけれども、立憲治下の国民としては、私の言ったことは、言いたいことではなくて、言わねばならないことであった。そして、これがために、私は終に、私の生活権を奪われたのであった。決して愉快なこと、幸福なことではない。
 私は二・二六事件の如き不祥事件を見ざらんとするため、予め軍部に対して、また政府当局に対して国民として言わねばならないことを言って来た。私は、これがために大損害を被った。だが、結局二・二六事件を見るに至って、今や寺内陸相によって厳格なる粛軍が保障さるるに至ったのは、不幸中の幸福であった。と同時に、この私が、はかないながらも、淡いながらも、ここに消極的の愉快を感じ得るに至ったのも、私自身の一幸福である。私は決して言いたいことを言っているのではなくて、言わねばならない事を言っていたのだ。また言っているのである。
 最後に、二・二六事件以来、国民の気分、少くとも議会の空気は、その反動として如何にも明朗になって来た。そして議員も今や安んじて――なお戒厳令下にありながら――その言わねばならないことを言い得るようになった。斎藤隆夫氏の質問演説はその言わねばならないことを言った好適例である。だが、貴族院に於ける津村氏の質問に至っては言わねばならないことの範囲を越えて、言いたいことを言ったこととなっている。相沢中佐が人を殺して任地に赴任するのを怪しからぬというまでは、言わねばならないことであるけれども、下士兵卒は忠誠だが、将校は忠誠でないというに至っては、言いたいことを言ったこととなる。
 言いたい事と、言わねばならない事とは厳に区別すべきである。(「畜生道の地球」中公文庫、中央公論社 1989年10月刊)

桐生悠々(きりゅうゆうゆう)(1873―1941)= 新聞記者。本名は政次(まさじ)。明治6年5月20日金沢生まれ。1899年(明治32)東京帝国大学法科卒業。博文館、下野(しもつけ)新聞社、大阪毎日新聞社、大阪朝日新聞社などを転々としたのち、1910年(明治43)『信濃(しなの)毎日新聞』主筆となる。1912年(大正1)9月、乃木(のぎ)将軍の殉死を陋習(ろうしゅう)として社説で批判し、非難攻撃を受ける。1914年『新愛知』の主筆として名古屋へ行くが、1924年退社。1928年(昭和3)ふたたび『信濃毎日』に主筆として迎えられるが、1933年8月11日付けの社説「関東防空大演習を嗤(わらふ)ふ」が軍関係者の間で問題化し10月退社。以後、名古屋郊外守山町に移り、名古屋読書会を組織、かたわら個人雑誌『他山の石』を毎月発行して時局批判、軍部攻撃を続ける。発禁を受ける回数が増えるとともに喉頭癌(こうとうがん)が悪化、1941年(昭和16)8月「廃刊の辞」を友人、読者に発送したのち、9月10日死亡。反軍ジャーナリストの壮絶な最期であった。(日本大百科全書ニッポニカ)

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