
【談話室】▼▽1942(昭和17)年の4月、東京から列車に乗ってきた17歳の青年は米沢駅で降りた。東北の春は遅い。鈍色(にびいろ)の空からはみぞれが落ちてきて、街は寂れて映った。この地で暮らすことを案じて引き返すことも考えた。▼▽後に戦後最大の思想家として世に知られる故吉本隆明さんだ。米沢高等工業学校(現山形大工学部)で2年半学んだ思い出が、自伝的エッセー集「背景の記憶」に収められている。都会で育ってきた青年は、街のどこを向いても見えた山並みに飽きることはなかったという。▼▽「何よりも、はじめて茶飯事のように接するようになった『自然』が、ここでは最大の師であり友人であった」。卒業後も人生の苦しい場面で「日に幾度も色どりを変える吾妻連峰の山肌を鮮やかにおもいうかべた」と記す。忘れ得ぬ風景は心のよりどころの一つになった。▼▽きょう3日から山形大などを皮切りに、県内各大学で入学式が続く。吉本さんのように、見知らぬ土地での新生活に不安を覚える人がいるかもしれない。そんな時に巡り会い、心を交わした師や友は生涯の助けになってくれるだろう。吉本さんにとっての「自然」のように。(山形新聞・2024/04/03) (ヘッダー写真は「吾妻連峰」山と渓谷オンライン:https://www.yamakei-online.com/yamanavi/yama_area.php?id=109)

再び、吉本隆明さん。でも主題は、彼「その人」でも彼の「思想」でもありません。あんまり面倒なことは書きたくないからであり、吉本さんの「偉業」は「文学的業績」「思想の達成」にばかりあるとは、今は考えていませんから。大学生の頃は、少しばかり一人前の真似事がしたくて、あるいは、「背伸び」をして、「共同幻想」だの「言語にとって美とは」などと、怪しい議論を重ねたくなるものです。でも、ぼくの記憶の中では、友人と議論をした場面がほとんどない。何人もの友人はいたし、今も付き合っている同級生は何人もいる。しかし、「学生運動の時代」だったにも関わらず、いや、「時代だったからこそ」、ぼくはそんな輪に入るのを嫌ったとも言えます。

今、机の上には猫の本、それも吉本さんや、彼のお嬢さんたち(ハルノ宵子氏・よしもとばなな氏)が関わった本が何冊かあります。それを眺めながら、吉本さんが猫好きであることのルーツや「思想」をあれこれ考えては苦笑いしています。猫たちは「戦後最大の思想家」であろうとなかろうと、自分流に付き合っているという「猫流付き合い方」の雰囲気、そんな好き勝手な猫との付き合いに四苦八苦している「戦後最大の思想家」のやりとりがとても面白い。子どもの頃から、吉本家にはいつでも猫がいた。晩年に近い頃は「6人」もいて、それぞれに独特の性格を持っていたと言う。
その吉本さんは、戦時中の東京を離れて、敗戦に至る時期を山形米沢で過ごされた。いわば、旧制高校生版「学童疎開」でした。その後、この国は敗戦し、吉本さんは、空襲で破壊された東京工業専門学校(母体は東京職工学校・1881年発足)に戻る。そこにいたのが、若い数学者だった遠山啓さん。彼は数学者として大きな仕事をされましたし、数学教育でも画期的な実践を遂げられた人でした。たくさんのことを、学校や教育に関して、ぼくは教えられました。(この東京工大の歴史には忘れられない人々がおられました。もっとも懐かしい名前は和田小六さん。その他を含めて、どこかで丁寧にその履歴を書いてみたいものです)

本日の話題は「山形」です。ぼくは何度か米沢にも出かけたことがある。山形蔵王には春スキーに出かけたり、温泉を求めて旅行をしたりと、それなりに関心がありました。吉本さんは米沢工業高校に在学しましたが、その後身が山形大学工学部です。ここにぼくの後輩が教員をしている。彼については一度、どこかで触れました。幼稚園の頃からの知り合いで、小学生の頃には親御さんに頼まれて、家庭教師のようなことをしたこともある。高校を卒業したとき、ぼくのところに来て、「勉強を見てください」と頭を下げた。テニスに没頭して、高校生の頃の成績は至って振るわず、とても大学受験は覚束ないと衆目が判断。ぼくは、親御さんに「これから大学に入るには、もう二年かかります」と宣言して、その通りになった。彼が受験したのが、山形大学工学部(夜間)だった。入学以来、一念発起、成績がよろしくて、昼間部に転部。大学院に進み、流体力学だったかを専門領域とした。彼は大学に残るように言われたが、さらに東北大学大学院に進み、博士号を取得。アメリカ留学を果たし、今はなくなったT芝という企業に入社。そして、そこを退職して、現在は山形大学工学部の教授だとか。年齢は忘れましたが、六十半ばか。

その彼から、ある時電話があり、「春休みを利用して山形大に来て、教員たちに授業(講演)をしてください」と頼まれた。懐かしい年下の友だちからだったので、二つ返事で安請け合いした。それが2010年12月のことでした。いうまでもなく、翌年三月に東日本大震災と福島原発事故が同時に発生。山形行きはオジャンになりました。その後は、ぼくも雑用があったりして山形行きは沙汰止み。それはともかく、どうして、「山形に来い」となったか、です。あるとき、K君(ぼくの後輩)が友人たちと飲み屋で集まった際に、他の仲間たちはそれなりに「偏差値の高い、進学校卒」だということが分かった。そこで、K君の出身校はどこですか?と訊かれた。彼は千葉県の八千代市に在住していた。中3段階の成績ではとても当たり前の公立高校は無理と判定された。さいわいなことに、その時に、自宅近くに「新設校」があって、彼は否応なくそこを受験した。後で知ったことだったが、「偏差値は39(?)」ということだったので、山形大の彼の仲間たちは仰天したのだ。「どうしてそんな低すぎる成績で、ここにいるんだ」となった。事情を話した所、ならば、ぜひ「その家庭教師とやらを招待して、授業や教育について話を聞こうじゃないか」となったのでした。
(これ以上は、書くこともありません。偏差値が低かったから、彼はびっくりするほど自己教育に精進したんですね。ものを学ぶ喜びが、彼を物理の教授にまで連れて行ったというだけの事)(「学ばされる」のではなく、「自分で・自分から学ぶ」ことがなければ、話にならないということです。彼は、自分で学ぶという「練習」「訓練」を徹底的にぼくに求められた。「ぼくは教えなかったし、教えようとはしなかった」、(彼がぼくの自宅に来ることになっていた。時には、ぼくが不在のこともあった、自分でするのが学習ですよ)だからこそ、「K君は学んだ」と言いたいのですね。この逸話は、まるで吉本隆明さんと遠山啓さんの「教育・人間関係」にそっくりです。ぼくがそれを真似たのではなく、自ら学ぶという意欲がなければ、「成績」も「学業」も見栄や世間体を取り繕う武器にはなりますが、結局は自分をごまかして生きる道しか歩けなくなるような気がしますね。他人からの評価をあまりにも気にしすぎることは、自分を失うことに直結する。このK君のような経験をした学生(ぼくに言わせれば、ぼくの後輩たち)はかなりの数に上ります。

「何よりも、はじめて茶飯事のように接するようになった『自然』が、ここでは最大の師であり友人であった」。卒業後も人生の苦しい場面で「日に幾度も色どりを変える吾妻連峰の山肌を鮮やかにおもいうかべた」と記す。忘れ得ぬ風景は心のよりどころの一つになった。(「談話室」)吉本さんの人生の背景がこの「自然」「環境」にあるように思い、なぜだか嬉しくなったことを、今も思い出している。
悪質な学校教育の結果、「学ぶ」が「学ばされる」となっていることに気が付かないまま「成績優秀」なんだろうね。中身のない、あるいは内容空虚・浅薄な「成績優秀」が腐るほどいる、いや、実際には腐っているのが、この社会でしょう。腐臭、紛々です。だからマスクを外せない。率直に言うなら、学校の最大の功績は「他人による評価」で自分を偉く見せつける、そんな弱い人間を大量に生産していることです。恥ずかしいことだし、悲しいことでもありますね。人間の弱さは完璧です。どんな富や名声や地位や学歴で、償おうとしてもまず無理です。いつだって「お里が知れる」、それをごまかすことから、虚偽が始まるんですね。「詭弁」「強弁」でしか、虚勢を張れなくなるのです。

「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」(「ルカ18:9-14 『パリサイ人と取税人』)
(山形・米沢・謙信・出羽三山・「奥の細道」・藤沢周平・無着成恭などなどについては、別の稿(項)で書いてみたい。あるいは佐高信さんも含めて)
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