彼は教えた、だからぼくは学ばなかった

【談話室】▼▽1942(昭和17)年の4月、東京から列車に乗ってきた17歳の青年は米沢駅で降りた。東北の春は遅い。鈍色(にびいろ)の空からはみぞれが落ちてきて、街は寂れて映った。この地で暮らすことを案じて引き返すことも考えた。▼▽後に戦後最大の思想家として世に知られる故吉本隆明さんだ。米沢高等工業学校(現山形大工学部)で2年半学んだ思い出が、自伝的エッセー集「背景の記憶」に収められている。都会で育ってきた青年は、街のどこを向いても見えた山並みに飽きることはなかったという。▼▽「何よりも、はじめて茶飯事のように接するようになった『自然』が、ここでは最大の師であり友人であった」。卒業後も人生の苦しい場面で「日に幾度も色どりを変える吾妻連峰の山肌を鮮やかにおもいうかべた」と記す。忘れ得ぬ風景は心のよりどころの一つになった。▼▽きょう3日から山形大などを皮切りに、県内各大学で入学式が続く。吉本さんのように、見知らぬ土地での新生活に不安を覚える人がいるかもしれない。そんな時に巡り会い、心を交わした師や友は生涯の助けになってくれるだろう。吉本さんにとっての「自然」のように。(山形新聞・2024/04/03)                                                   (ヘッダー写真は「吾妻連峰」山と渓谷オンライン:https://www.yamakei-online.com/yamanavi/yama_area.php?id=109

 再び、吉本隆明さん。でも主題は、彼「その人」でも彼の「思想」でもありません。あんまり面倒なことは書きたくないからであり、吉本さんの「偉業」は「文学的業績」「思想の達成」にばかりあるとは、今は考えていませんから。大学生の頃は、少しばかり一人前の真似事がしたくて、あるいは、「背伸び」をして、「共同幻想」だの「言語にとって美とは」などと、怪しい議論を重ねたくなるものです。でも、ぼくの記憶の中では、友人と議論をした場面がほとんどない。何人もの友人はいたし、今も付き合っている同級生は何人もいる。しかし、「学生運動の時代」だったにも関わらず、いや、「時代だったからこそ」、ぼくはそんな輪に入るのを嫌ったとも言えます。

 今、机の上には猫の本、それも吉本さんや、彼のお嬢さんたち(ハルノ宵子氏・よしもとばなな氏)が関わった本が何冊かあります。それを眺めながら、吉本さんが猫好きであることのルーツや「思想」をあれこれ考えては苦笑いしています。猫たちは「戦後最大の思想家」であろうとなかろうと、自分流に付き合っているという「猫流付き合い方」の雰囲気、そんな好き勝手な猫との付き合いに四苦八苦している「戦後最大の思想家」のやりとりがとても面白い。子どもの頃から、吉本家にはいつでも猫がいた。晩年に近い頃は「6人」もいて、それぞれに独特の性格を持っていたと言う。

 その吉本さんは、戦時中の東京を離れて、敗戦に至る時期を山形米沢で過ごされた。いわば、旧制高校生版「学童疎開」でした。その後、この国は敗戦し、吉本さんは、空襲で破壊された東京工業専門学校(母体は東京職工学校・1881年発足)に戻る。そこにいたのが、若い数学者だった遠山啓さん。彼は数学者として大きな仕事をされましたし、数学教育でも画期的な実践を遂げられた人でした。たくさんのことを、学校や教育に関して、ぼくは教えられました。(この東京工大の歴史には忘れられない人々がおられました。もっとも懐かしい名前は和田小六さん。その他を含めて、どこかで丁寧にその履歴を書いてみたいものです)

 本日の話題は「山形」です。ぼくは何度か米沢にも出かけたことがある。山形蔵王には春スキーに出かけたり、温泉を求めて旅行をしたりと、それなりに関心がありました。吉本さんは米沢工業高校に在学しましたが、その後身が山形大学工学部です。ここにぼくの後輩が教員をしている。彼については一度、どこかで触れました。幼稚園の頃からの知り合いで、小学生の頃には親御さんに頼まれて、家庭教師のようなことをしたこともある。高校を卒業したとき、ぼくのところに来て、「勉強を見てください」と頭を下げた。テニスに没頭して、高校生の頃の成績は至って振るわず、とても大学受験は覚束ないと衆目が判断。ぼくは、親御さんに「これから大学に入るには、もう二年かかります」と宣言して、その通りになった。彼が受験したのが、山形大学工学部(夜間)だった。入学以来、一念発起、成績がよろしくて、昼間部に転部。大学院に進み、流体力学だったかを専門領域とした。彼は大学に残るように言われたが、さらに東北大学大学院に進み、博士号を取得。アメリカ留学を果たし、今はなくなったT芝という企業に入社。そして、そこを退職して、現在は山形大学工学部の教授だとか。年齢は忘れましたが、六十半ばか。

 その彼から、ある時電話があり、「春休みを利用して山形大に来て、教員たちに授業(講演)をしてください」と頼まれた。懐かしい年下の友だちからだったので、二つ返事で安請け合いした。それが2010年12月のことでした。いうまでもなく、翌年三月に東日本大震災と福島原発事故が同時に発生。山形行きはオジャンになりました。その後は、ぼくも雑用があったりして山形行きは沙汰止み。それはともかく、どうして、「山形に来い」となったか、です。あるとき、K君(ぼくの後輩)が友人たちと飲み屋で集まった際に、他の仲間たちはそれなりに「偏差値の高い、進学校卒」だということが分かった。そこで、K君の出身校はどこですか?と訊かれた。彼は千葉県の八千代市に在住していた。中3段階の成績ではとても当たり前の公立高校は無理と判定された。さいわいなことに、その時に、自宅近くに「新設校」があって、彼は否応なくそこを受験した。後で知ったことだったが、「偏差値は39(?)」ということだったので、山形大の彼の仲間たちは仰天したのだ。「どうしてそんな低すぎる成績で、ここにいるんだ」となった。事情を話した所、ならば、ぜひ「その家庭教師とやらを招待して、授業や教育について話を聞こうじゃないか」となったのでした。

 (これ以上は、書くこともありません。偏差値が低かったから、彼はびっくりするほど自己教育に精進したんですね。ものを学ぶ喜びが、彼を物理の教授にまで連れて行ったというだけの事)(「学ばされる」のではなく、「自分で・自分から学ぶ」ことがなければ、話にならないということです。彼は、自分で学ぶという「練習」「訓練」を徹底的にぼくに求められた。「ぼくは教えなかったし、教えようとはしなかった」、(彼がぼくの自宅に来ることになっていた。時には、ぼくが不在のこともあった、自分でするのが学習ですよ)だからこそ、「K君は学んだ」と言いたいのですね。この逸話は、まるで吉本隆明さんと遠山啓さんの「教育・人間関係」にそっくりです。ぼくがそれを真似たのではなく、自ら学ぶという意欲がなければ、「成績」も「学業」も見栄や世間体を取り繕う武器にはなりますが、結局は自分をごまかして生きる道しか歩けなくなるような気がしますね。他人からの評価をあまりにも気にしすぎることは、自分を失うことに直結する。このK君のような経験をした学生(ぼくに言わせれば、ぼくの後輩たち)はかなりの数に上ります。

 「何よりも、はじめて茶飯事のように接するようになった『自然』が、ここでは最大の師であり友人であった」。卒業後も人生の苦しい場面で「日に幾度も色どりを変える吾妻連峰の山肌を鮮やかにおもいうかべた」と記す。忘れ得ぬ風景は心のよりどころの一つになった。(「談話室」)吉本さんの人生の背景がこの「自然」「環境」にあるように思い、なぜだか嬉しくなったことを、今も思い出している。

 悪質な学校教育の結果、「学ぶ」が「学ばされる」となっていることに気が付かないまま「成績優秀」なんだろうね。中身のない、あるいは内容空虚・浅薄な「成績優秀」が腐るほどいる、いや、実際には腐っているのが、この社会でしょう。腐臭、紛々です。だからマスクを外せない。率直に言うなら、学校の最大の功績は「他人による評価」で自分を偉く見せつける、そんな弱い人間を大量に生産していることです。恥ずかしいことだし、悲しいことでもありますね。人間の弱さは完璧です。どんな富や名声や地位や学歴で、償おうとしてもまず無理です。いつだって「お里が知れる」、それをごまかすことから、虚偽が始まるんですね。「詭弁」「強弁」でしか、虚勢を張れなくなるのです。

 「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」(「ルカ18:9-14 『パリサイ人と取税人』)

 (山形・米沢・謙信・出羽三山・「奥の細道」・藤沢周平・無着成恭などなどについては、別の稿(項)で書いてみたい。あるいは佐高信さんも含めて)

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アグリカルチャーの原義とは?

【天風録】知事の言葉と知性 もーもーガーデンという牧場が福島県大熊町にある。原発事故後、山へ逃げた牛に餌を与えてきた女性が開いた。雑草が茂る帰還困難区域の農地で被災牛を放し飼いに。雑草を食べ、荒廃が進む土地や環境を守ってくれる▲女性は牛の命と向き合い、守ろうとしてきた。その姿を紹介した2年前の本紙セレクト記事を思い出したのは静岡県知事の発言に驚いたからだ。牛に携わる仕事の尊さや知性が必要であることに、思いが至らないのか▲県庁をシンクタンクに例えた知事。新規採用の県職員を、牛の世話や野菜の販売、ものづくりと違って頭脳、知性が高いと語っていた。「農家や畜産業は知性が低いのか」「ものづくりを静岡は誇ってきた」。批判が殺到するのも当然だ▲職業差別のつもりはない、新職員を励ましたかった―。弁明の一方で、「発言を切り取られ、曲解された」とも。挙げ句の辞職表明。発言追及に嫌気が差したか。幾度も失言を繰り返してきた知事の知性こそ問われる▲静岡を通るリニア中央新幹線の開業はどうなるか。河川への影響を懸念する知事が着工を認めていない。環境を守るため心砕いてきた人が、県民の心を踏みにじって県庁を去る。(中國新聞・2024/04/04)

(ヘッダー写真は「もーもーガーデン」:https://moomowgarden.or.jp/support/

 この痴事さん、ぼくは昔から知っていました。知ったのは三十年も四十年も前。あるとき、何かの国際会議で彼も(発起人だったか)参加していたから、一言二言と言葉を交わした。見るからに「いけ好かない」という印象をぼくは持った。彼も、ぼくに対して、同様の印象を持ったろう。おそらく、「いけ好かない」はぼくの「偏見」だったと思わないでもなかった。同じ頃、彼は京都出身、それも亀岡という町の「旧家」の出だと知った。高校は当時では、京都市内一、ニを争う進学校だったから、旧帝大組かと思っていたら、豈図らんや「都の西北」だった。その後は紆余曲折というのか、右顧左眄というのか、とにかく「鼻持ちならない(disgusting)」、その人品を遺憾なく発揮して、自分を売るためには、生来の向日性を隠さなかった。風見鶏でもああった。彼がよく買われたというのは、それだけ、この社会の「知性」というものが歪んでいる証拠ではなかったか。その間、彼自身はなんだか高みに登った気になっていたのかも知れない。この手の「インテリ」は、まったくぼくの性に合わない。もちろん口にも合わぬ。「鼻持ちならない」というのは、ご当人が発する「臭気」に、相手は我慢ならぬということです。数度しか会わなかったが、その「臭気」たるや、尋常ではなかったね。

 不幸なことに、ぼくの周囲にはこの手の「鼻持ちならぬ組」がたくさんいました。よくぞ、これだけの「臭気」を撒き散らしているものだと感心しながら、ぼくはその臭気に当てられることを死にもの狂いで避け通してきた。しばしば「盗人猛々しい」と世間では言われます。また「盗人も戸締り」ともいいます。彼をみると、そんなあられもないことの葉を想起します。この「痴事」は、それに加えて、往生際が悪すぎる。偽物の知性派の特技は、つねに展開する「弁解」「弁明」の醜悪さ・性悪さでしょう(「三分の理」かも)。「職業差別のつもりはない、新職員を励ましたかった―。弁明の一方で、『発言を切り取られ、曲解された』とも」、ここまで来ると醜態も極まれり。つかぬことを耳にした。こんな御仁に「退職金が六千万とか七千万とか」静岡県民は鷹揚ですね。この「愚挙」は選挙民の仕業なんですがね。

 今これを書いているとき、静岡県庁詰めの記者(のままだと思う)(彼女はぼくの担当する演習に出席されていたし、この痴事の後輩にも当たる)、に電話をかけてみようかという変な気が起こりかけた。彼女の最初の勤務地が静岡。すでにこの「痴事」は在任中。多分、リニア問題発端の華やかなりし頃でした。その後、原発事故後の福島県に移り、ついで山口県。そして昨年四月に再度静岡リターン。まだ「痴事」が在任中。そして、今回の「頭脳・知性」なる妄説に遭遇した。彼女の「感想」「評価」はいかがと、一瞬考えた。でも、訊くだけ野暮、訊いても無駄。恥ずかしい限りと言うばかり。この「知性・頭脳」発言の主には、決定的な「知性」が欠けている、つまりは「馬鹿は死ななきゃ治らない」、いや「死んでも治らない」と言う他ない。「可愛そうなバカ」と小声で囁いておきます。こういう人が「センターを取りたがる」んでしょうね。

 自分は賢いと自惚れている人の、その賢さは、他人を罵ることによって支えられている、他人を侮蔑することでしか得られない「プライド」、そんな程度のプライドをひけらかしては、選挙民を誑(たぶら)かしてきたのです。それをして、「自尊心」と言っていいかと、ぼくは疑う。彼はぼくより四歳年下ですけれど、それにしても「愚か」「劣等」としか表現方法がありません。彼のこの「愚劣さ」「驕慢さ」をいささかたりとも矯正できなかった「学校教育」とはなんだったんでしょうか。「学歴」というものが、ある人々には、自己破壊をもたらす凶器であることを実証していませんか。人を侮蔑することで、自分を偉ぶらせる所業をなんとしよう。(⏪️写真「もーもーガーデン・谷さつきさん」🔽も:https://moomowgarden.or.jp/

 「痴事」の生家は、亀岡の「庄屋(荘屋)」(他地方では「肝煎り」「名主」とも称された)だったという。とするなら、農業は家業ではなかったのか。「牛飼い」「稲つくり」「花造り」その他、土に軸足を置いた職業が、どれほどの知性や教養(「文化」の原義は「耕作」でした)を必要とするか、「痴事」は知らなかった、つまりは「無教養」だった。今も続いているかどうか、京都旧帝大の「教養科目」に「田植え」や「稲刈り」が導入されて、学生たちは狂喜したという事件がありました。二十年程前のことです。泥田に水着で入って「田植え」をした学生たちの喜びに、ぼくも触れたことがありました。本読みだけの知性人、本に赤線を引いている教養人というのは誰のことか。中国の言葉に「陸沈」というのがあったことを思い出しています。

蛇足 「「agriculture」の語源は、ラテン語の「agricultura」である。これは、「ager」(土地)と「cultura」(栽培)という二つの言葉が組み合わさって成り立っている。これらの言葉が組み合わさることで、土地を利用して作物を栽培するという意味が生まれる」(実用日本語表現辞典)

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 (おまけ)この「譬(たとえ)」はどこかで書いておきました。新約聖書の言葉です。「パリサイ人と税金取り」。

 「自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(「ルカによる福音書 」18:9-14 JA1955)

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惚れて通えば千里も一里

 どうしても触れておきたくなったので、これを書く。岐阜根尾谷の「淡墨桜」のこと。この桜木が世に知られるようになったのは、作家宇野千代さんの功績。彼女は、繰り返して男性を激しく愛した人として高名ですが、この桜の「再生」に賭けた執念はそれに勝るとも劣らないものがあった。宇野さんに根尾谷の桜を教えたのは文芸評論家の小林秀雄氏。彼自身もとても桜好きな人だったし、「朝日に匂う山桜花」の本家、「本居宣長」の著者です。彼が「山桜」のすばらしさを語る、その語り口には異様なものを感じたことがありました。その反動で「あんな俗っぽいのは…いずれ、文部省と植木屋が結託して」と、校庭にもあふれる染井吉野を罵る始末。その小林さんは、宇野さんの審美眼に一目も二目も置いていた。詳細は避けますが、小林さんが「ゴッホ」を書く動機になったのも宇野さんだった。ぼくは宇野千代さんの熱心な読者ではなかったが、「淡墨桜」に関しては感服しています。

 その淡墨桜が満開を迎えたと報道されました。本巣市のHPによると、満開は昨日(4月2日)だった。今では、その桜に面会するのは至難の業となった。ぼくは花時には出かけたことはないが、たった一度だけだったけれど、時期外れに一人で出向いたことがありました。もう二十年も前のこと。桜のことについては、それなりに関心もあって、色々と調べたり、見物に出かけたりと、一人前の真似事をしてきました。花時には、必ず現地に赴かねばという心つもりはなく、いい写真が「一枚」あれば、それで満足しています。さいわいに本巣市は、格好のカメラ配置でライブも見せてくれます。このところ、この他になん本か、何十本か、各地の名木とされる桜も、日ごとに気になっている始末。

 我が荒れた庭にも、大小十本ばかりの各種の桜が開花しましたので、朝な夕な、それを眺めて満足している。本日は雨模様で、今春の観桜も、好機にめぐり合うのは難しそうですね。ありがたいことに、今ではネットのライブ配信などで、各地の名桜鑑賞が可能になった。時間を見つけては、ライブ巡りをしています。

 本日は「代掻き・水張り・田植え」について駄弁ろうかと思っていたのですが、本巣市の情報に接して気が変わりました。もう南の方では田植えが始まっています。昨日は、能登半島は輪島市の「千枚田」の「田起こし」の映像を見ることが出来ました。元に戻すのに何年かかるかと、作業中の方が話されていた。一区画二~三百坪の土地が水田になり、稲作に適する「美田」となるための、孜々とした勤労を求め続けた「灌漑工事」の辛苦を思えば、「もう田植えの時期か」、などとやり過ごしてはいけないような気になります。かれこれ七十年も前になりますが、これでも小さな百姓(の真似事)をした人間です。現在の住まいの近所の田には水が張られました。田植えも間もなく。季節は確実に動いているのですね。

 宇野千代の人生と文学 ■ 『薄墨の桜』「根尾谷淡墨桜(ザクラ)」と呼ばれる岐阜県本巣郡根尾村の淡墨桜(彼岸桜)は、樹齢1500年余で大正11年10月、由緒ある桜の代表的巨樹として天然記念物に指定されている。この淡墨桜は蕾のうちは薄いピンク、満開になると白色に変わり、散りぎわには特異の淡い墨色を帯びてくるという。
 宇野千代を淡墨の桜に結びつけたのは評論家の小林秀雄であった。小林から薄墨桜のことを聞いた千代は、根尾村へ「駆け出した」 。このとき千代、70歳である。
 昭和34年9月の伊勢湾台風で、淡墨桜はその太い枝が折れ、葉や小枝は殆どもぎ取られて無惨な姿に変わった。千代が根尾村を訪れたのは、その後遺症がそのままの昭和42年4月11日のことであった。千代は老残の痛々しい淡墨桜に心をうたれ、感想文(『淡墨桜』)を雑誌「太陽」(昭43・4)に発表するとともに岐阜県知事に訴えた。枯死寸前の老桜を救うための募金活動も始めた。その熱意を受けての岐阜県の手当の甲斐があって淡墨桜は蘇生した。その顛末を辿りながら、大料亭の老女将高雄と薄幸の娘芳乃を軸に描き出したのが小説『薄墨の桜』(のち『淡墨の桜』と改題)である。
 『薄墨の桜』は「新潮」の昭和46年1月号に第1回が発表されたあと49年11月号まで分載され、昭和50年4月、三井永一の装幀・挿画で新潮社から刊行された。水上勉は──その文章のみずみずしさもだが、自己の主題(モチーフ)を自分流の小説構造に案出して血を流す宇野さんの新骨頂を見て息を呑んだ──と嘆賞した。(NPO宇野千代生家:http://www.unochiyoseika.jp/content/unochiyo_27.html)

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*「開花状況(令和6年4月2日現在)【満開】(本巣市・https://www.city.motosu.lg.jp/0000000038.html

● ねおだに‐うすずみざくら〔ねをだに‐〕【根尾谷淡墨桜】=岐阜県本巣市の淡墨公園にあるエドヒガンザクラの枯木。高さ16.3メートル、幹囲9.9メートルで、樹齢は1500年以上といわれる。大正11年(1922)、国の天然記念物に指定された。根尾谷の淡墨桜。淡墨桜。(デジタル大辞泉)

 この淡墨桜は、桜の全種300余種の内でも名花中の上位にあると云われる品種で、蕾のときは薄いピンク、満開に至っては白色、散りぎわには特異の淡い墨色を帯びてくる。                                                    

所在地・岐阜県本巣市根尾板所字上段995
普通呼称・根尾谷淡墨ザクラ
品種・彼岸桜
和名・ムレヒガン…三好學博士  
   ウバヒガン…牧野富太郎博士  
   エドヒガン…大井次三郎博士
樹齢・1,500余年
樹高・17.3m(2019年1月測定、以下同じ)
幹囲目通り・.4m
枝張り・東西22.4m 南北24.2m
指定・大正11年10月12日 内務省天然記念物指定
(指定の事由)由緒ある桜の代表的巨樹
(本巣市:https://www.city.motosu.lg.jp/0000000302.html)

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・惚れて通えば 千里も一里  逢えずに帰れば また千里  ・惚れて通えば千里も一里  長い田圃もひとまたぎ 

 いずれも「都々逸」という表現形式。ぼくは落語で教えられました。今では車や電車がありますから、少々遠くても一走り。あるいは遠距離なんとかもあります。その昔は「吉原」は一帯が田んぼだった。志ん生は実感を込めて、自らの経験談をひと‐くさり(一齣・一闋)してから、本題に入っていました。

以下は、おまけです。

・察しておくれよ花ならつぼみ 咲かぬところに味がある  ・惚れたはわたしが重々悪い 可愛と云つたはぬしの罪  ・夢に見るよじゃ惚れよがうすい 真に惚れたら眠られぬ   

  (お後がよろしいようで。⏪️写真・太田記念美術館)

● 都々逸【どどいつ】= 俗曲の一種。最も代表的な座敷歌で,典型的な近世歌謡調7・7・7・5型をもつ。18世紀末名古屋の熱田で流行した潮来(いたこ)節に由来する。天保年間に都々逸坊扇歌が江戸の寄席で,新しい曲風で歌って以来普及。〈どどいつどいどい,浮世はさくさく〉という囃子詞(はやしことば)が,都々逸の名の起りとする説もある。(マイペディア)

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無名であっても畏れを抱かせる…

 どんなものにも名があります。「物あれば名あり」(徂徠)で、ことに「人」に関わって言うなら、さまざまな「名目(めいもく・みょうもく)」が存在しています。まずは「姓名」。誰にも「名前(例えば、大谷翔平、田中真美子など)」がありますから、少なくとも、その点で「無名」の人間はいないはずです(もちろん、この地球上、ぼくの知らないところではいるかもしれない)。しばしば「有名」とか「有名人」などと称されるのは、「世間に名が知られている人」を指すのでしょう。知られ方は二通りあって、素晴らしい業績を上げたか、あるい戦慄すべき悪行を働いたか、このような人は好悪・善悪に限らずに「有名人」でしょう。その時、問題になるのは「世間」の範囲というか広さや深さではないでしょうか。一面においては、だどんな人でも「家庭内で超有名人」だからです。(⏩️有名無名 1號 ([明45.4])-2號 ([明45.6])雅俗文庫)

 (ヘッダー写真「クボタのたんぼ」:https://www.kubota.co.jp/kubotatanbo/rice/planting/ploughing_02.html

 昔風に表現するなら「身を立て、名を成す」こと、あるいは「故郷に錦を飾る」というのはきわめて喜ばしいこととされたでしょう。身分・階級の頸木(くびき)が外れた社会なら、なおのこと「名を成す」ような人材を待望したはずですし、自らを励まして名を挙げるべく精進しようとした人も多くいたはずです。この島社会では明治維新以降がその「時代」、「立身出世」主義の濫觴だったとも言えます。学校教育はその駆動力になったのは周知の通り。まるでブレーキなしのアクセル踏み放し運転で、ここまできました。もう満身創痍の車、それがこの国ではないでしょうか。明治以前は藩における位置づけが出生の会談の役割をなしていた。その「藩歴(藩内序列)」がなくなった段階で、藩に取って代わったのが「学歴」だったという話です。

 じつは、早朝にパソコンに向かって駄文を書き出し、「物あれば名あり」と最初に荻生徂徠の文が口を知て出てきました。「弁道」に見られる、彼の言語哲学です。机とか椅子、あるいはバナナとか自動車などという形のあるものに名をつけたのは、ごく普通(平凡至極)の人々でした。ところが、形がないけれども、どうしてもそれがなければ、人間集団がうまく回転しないもの、一例としては仁義礼智信(道義ともいえます)などを指すでしょうが、これはよほどの哲学者(聖人)でなければ、名付けることが出来なかったのだというのが、徂徠の出発点でした。「聖人・君子」の専売哲学であり、これを「政治・政道」と、徂徠はみました。

 今風に言うなら、カツ丼とか天麩羅という食べ物の名前なら、誰だって知っているし、食べたこともあるでしょう。しかし「人権」「権利」などという言葉と、それが含む内容はどうでしょう、などど、なかなか面倒なところに踏み込みかけていたのでした。そこへ、八時ころだったか、「東電の関連会社です。植木や竹など、道路にはみ出している枝などを切る作業をしますので、車が通れなくなります。よろしく」と挨拶があった。そこで、数日前から、気なっていた林の枝葉や竹の倒れたのを片付けてしまおうと、「人権」「仁義」などは、少し脇において、掃除の仕事に取り掛かったのです。終わったのが十一時前。そして、一風呂(シャワー)を浴びて、今、駄文を書き始めたところでした。

 三日前の佐賀新聞に「無名の眼」という記事が出ていた。いいコラムだなと思って、取りのけておいたのを再び取り出し、「無名の名」とでも言うような文章を書こうという気になったのでした。コラム氏は沢木耕太郎氏を引き合いにして描かれている。もちろん、沢木さんの名前は知っているし、何冊か(『テロルの決算』『一瞬の夏』『敗れざる者たち』など)を読んだ記憶はある。だから「沢木さんは有名人」だと、直ちに言えるかどうか。五歳や十歳のこどもなら、「深夜特急」を知っているだろうか、どうでしょう。言いたいことは「有名」とか「有名人」などというのは、本を出していたりテレビに出ていたりする人、それも頻繁に、そんな尺度ぐらいしかないのではないでしょうか。沢木さんは父親を「畏れていた」という、「恐れ」ではない。きっと「敬い、かしこまる気持ち。畏怖 (いふ) ・畏敬 (いけい) の念」(デジタル大辞泉)を抱かれていたのでしょう。詳しくは存じ上げないが、父君(田澤二郎)は俳句を嗜んでおられたようです。

【有明抄】無名の眼 作家の沢木耕太郎さんは「どこかで父を畏れていた」という。畏れを感じていたのは膨大な知識。いつか対等に話せるようになるのか、追いつけるのかと思うと、絶望的になることがあった◆作家になってからも、畏れは続いた。世の中には、たとえ「無名」であっても父のような人がいる。そんな人たちの眼が知ったかぶりをして、偉そうな口をきくのをためらわせたと書いている◆作家を引き合いに出すのはおこがましいが、その心情は分かる気がする。幅広い知識や経験を持つ人、味のある文章を書く人、人の心を深く感じることができる人…。読者の中には学歴や社会的地位などにかかわらず、無名であっても畏れを抱かせる人がいて、薄っぺらな美辞麗句を並べても見透かされる◆そうした読者の眼を意識しながら、浅学非才を必死に隠して原稿と向き合ってきた。この欄を担当したのは1年に約200日、3年で600日。朝のせわしい時間に付き合っていただき、感謝の思いしかない◆沢木さんは父のような人たちの眼があったから、知っている領域以外のことを書いたり、話したりはしなかったという。新聞コラムはそうもいかず、付け焼き刃で知ったかぶりもしたが、「無名」の厳しい眼は優しさを併せ持ち、ときに励ましの言葉をくれた。思い出の宝箱に入れて、ふたを閉じる。(知)(佐賀新聞・2024/03/30)

 「世の中には、たとえ『無名』であっても父のような人がいる。そんな人たちの眼が知ったかぶりをして、偉そうな口をきくのをためらわせたと書いている」という件(くだり)に、ぼくは違和感を持った。「無名であっても」という表現に戸惑ったのです。沢木さんの著作のタイトルに「有名であれ無名であれ」という類のものが何冊かあります。おそらく彼流の「拘(こだわ)り」が「名」というものにあったのでしょう。それはそれ。それを受けて、コラム氏は「読者の中には学歴や社会的地位などにかかわらず、無名であっても畏れを抱かせる人がいて、薄っぺらな美辞麗句を並べても見透かされる」と書かれている。可笑しいなあと、ぼくは首を傾(かし)げるのです。「学歴」「社会的地位」「無名」などという語が続くと、この記者は、有名・無名をどう捉えているのかが分かりそうで、少しちがう、可笑しいんじゃないですか、と問いを出してみたくなるのです。「人間」としての判断力、主張をこそ読み取るべきであって、「無名であっても」という冗句は、ぼくに言わせれば、間違いのない「偏見」ですね。

 ぼくが若い頃に真剣に学んだ上田庄三郎(1894~1958)という土佐の教師、彼は二十六歳だったかで、小学校の「校長」にさせられ、やがて、故郷を追われた。あまりにも全うな態度を貫いたから、県視学(戦前の教育委員会)は音を挙げて、校長にした。それ以上は、辞める他ないように仕向けたのです。上田さんは、やむなく上京し、いくつかの学校に関わり、最終的には、当時では珍しかった教育評論家として健筆をふるった。その上田さんが、学校卒業以来、久しぶりに小学校の同級生に出会って話をしたことがあった。同級生は何かと世間並みの常識をひけらかしたので、「君は学校に行かなかったのに、どうしてそんなに馬鹿なんだ」と面と向かって言ったのです。上田さんにすれば、学校出は、すべからく「馬鹿にな(ってい)る」という、これも立派な偏見があったのです。生活知、知恵というものは学校ではなく、人生の最中で得ていくものなのでしょう。人間を犬や猫と同じに扱うのはよろしくないが、犬・猫は学校に行かなかった、だからこそ「賢い」と思わせられるところがあるんですね。

 「無名であっても畏れを抱かせる人」という人間理解はどうなんでしょうか。教師の真似事を半世紀もしていた人間です。その間に、たくさんの人間関係の真髄を学びました。細かいことは省きますけれど、ものを学ぶという一貫した姿勢を、ぼくは片時も忘れたくなかった。「教えてやる」とか「教え子たち」などという言葉はただの一度も使ったことがないのは、ぼくのきわめて個人的な理由からですから、それで何かを主張しようとは思いません。でも真面目に考えて、「いったい誰に何を教えられるのか」という、我がこころの最深部に頑として動かない「疑問」がつねにあったことは事実だったし、それを忘れては、ぼくの人生のかなりの部分は、一層まやかしに満ちたものになっただろうと思うのです。「教えることなんか、出来はしないさ」

 「名折れ」といい、「名こそ惜しけれ」と言われてきました。「有名」というのは、評判になるとか、名声を得る、あるいは名誉を勝ち取ると言った意味合いが強いのかも知れません。さらに言うなら「体裁」「名目」をとても気にするということでもあるでしょう。だから、ぼくは「名より実を取れ」とか「有名にはなりたくない」などと盛んに言い触らしてきたのです。このことは、どこかで書きました。担当する演習の受講生が卒業する際に、「とにかく音楽でビッグになりたい、有名になるんだ」と盛んに言っていた。ぼくは横槍を入れるつもりで「K君、有名になるというのは、まるで交通事故に遭うみたいなものだよ」と、彼の野心に水をかけました。そのK君は、今も「路上ライブ」で活動を続けている。その世界で「有名」になっているのかどうか、ぼくにはわからない。でも好きな音楽活動(自作自演)がやれていることは、それ自体は、彼には(「有名」であれ、「無名」であれ)いいことではないかと思うのです。

 結論はありません。「有名」とは、名分・大義があることを言うのではないでしょうか。ただ、世間に名が知られるだけなら、なんということもありませんよ。「市井(しせい)に聖賢あり」といいたいですね。ぼくの大好きな言葉に「大隠朝市(たいいんちょうし)」というのがあります。読んで字のごとく、です。「大隠は市に隠る(隠棲ですね)」と。本当に優れた人は、山間僻地などにはいない。市(町)中で、当たり前に人と交わりながら暮らしているのです。夢のような話ですけれど、ぼくは「大隠(たいいん)」足りたく、「大愚(たいぐ)」足りたいと念じ続けてきました。願わくば、この先も交通事故には遭いたくないですね。

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 近所の田んぼはすっかり代掻きが終わりました。やがて田植えですね。機械仕掛けですから、早いものです。それにつれて、俳人も苦心されています。なかなか耕運機は詠み込めないのではないですか。

・一枚の代田に水のゆき渡る (高山 日出夫)

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マッチ擦るつかのま海に霧ふかし

 年度の変わり目です。老境にある身にはまず関係もないかと言いたいが、なかなかそうでもなさそうで、新年度から「値上げ」だとか「値下げ」だとか。あるいは制度・方法が変わるとか。なにかと忙(せわ)しなくなる時期かもしれません。新年度だからと、特別の思いも願いもなく、あいも変わらず普段通りの態度や姿勢で明け暮れに勤しむばかりですね。本日は、どの新聞コラムも「年度変わり」をテーマに、趣向を凝らした書きぶりでした。小生に思うところがないわけでもありませんけれど、ここでは、新旧年度(末と始)に関わるコラムを取り上げたい。それをネタに何かを書き殴る必要もないでしょう。まさに、読んで感じて、そのままに。

 「少社会」と「編集日記」の二篇です。「X(旧ツイッター)が昨年、投稿の表示回数によって広告収入が得られる仕様に。回数を稼ぐための虚偽投稿が増えたという」(「小社会」)とても嫌な時代になったと実感している。ぼくはスマホなどは持ったことはないが、その弊害が我が身に及ぶこともあるのです。「すべてが嘘」、「すべてが金」とは、この島国の政治家並の荒んだ精神譫妄状態です。金と嘘は密着不離と言うか、まるで異腹の兄弟姉妹のようで、聞くだけでも虫酸が走る。ぼくは、勤め人時代、よく学生たちに話していたことを今でも思い出す。「人間は嘘をつく」、「もちろんぼくも、だ」と。「今日(新年・新年度・新学期)からは嘘をつかない」と、また嘘を付く。でも、「今日一日だけは、嘘をつかない」と自らに約束はできるかも知れない。「今日だけは、いじめをしない」と自分に誓うことができるだろう。だから、ぼくにとって「三日坊主」はとても大切な「区切り(時間)だった」と。毎日が嘘に塗(まみ)れている政治家諸君、「今日だけは嘘から自由になる」と、自分に嘘をついてご覧。「嘘から出たまこと」は、いつ・だれにも起こりうること。

【小社会】フィクションとうそ SF作家の故・星新一さんは、他人に迷惑の及ぶうそと、楽しむためのフィクションは明確に分けるべきだという持論があった。その星さんが50年ほど前の随想に、「大汗をかいた」と書いている。▼都心の高層住宅に住んでいた頃のこと。来客があると、間近の東京タワーを指さし「こんなに近いと電波が強く、眠っていてもコマーシャルの夢を見る」。みな面白がるのに、「そうでしょうね」と感心した人が1人いた。▼慌てて打ち消し、冗談だと解説したとか。フィクションの楽しさが成立する条件の第一として、星さんは「関係者が正気でなければならない。無知であってはならず、健全な常識の持ち主でなければならない」。▼きょうはエープリルフール。ユーモアのある虚構なら楽しみたい。ただ、いまの世は交流サイト(SNS)が発達。他人に迷惑の及ぶうそも飛び交う。きょう発生から3カ月になる能登半島地震でも偽情報がかなり拡散されたようだ。▼災害時は不安感からデマが生まれる。ところが今回のデマは愉快犯とも違う要素があった、と本紙でも専門家らが指摘している。X(旧ツイッター)が昨年、投稿の表示回数によって広告収入が得られる仕様に。回数を稼ぐための虚偽投稿が増えたという。▼うそといえば、自民党の裏金事件でも真実を語っていそうにない政治家の姿を見る。いつにもまして「良心」という言葉がよぎる4月1日ではある。(高知新聞・2024/04/01)

 長い歴史の中で、ある時期から「集団」が帝国軍隊に変貌し、暴力が全体を席巻し、全体に横行する、そんな事例はいくらもあるでしょう。詳しくは例示しません。でも、事例を挙げるのに事欠かないのは、ともすると、集団は暴力を振るう「本能」や「感情」を持っているからだといいたい。いかにも学校や学級にはその恐れがあります。「宝塚」のパワハラ(虐待)自死事件。どんな人間でも、身近の他人に対して、殺意を抱くことがある。抱かれた当人はたまらないと、どうしても考えられない人間はいる。そのような強情・粗暴な人間を唆(そそのか)し奨励するのが集団を管理・掌握する立場の人間だし、そのために人命よりも組織を守ることに汲々とする。その点で、人間の弱さは完璧ですね。

 「女性の母親は、過酷な労働環境とパワハラの中、全力で、笑顔で舞台に立ち、強く生きたことを誇りに思うとのコメントを出した。半年間、娘の尊厳を守りたいとの一心だったという。ただ『生きていてほしかった』とつづる母親にとって、あまりにつらい春だろう」、ぼくはこの事件の犠牲者・遺族の心情を思うと、涙を堪(こら)えきれない。人を死に追いやってまで守ろうとした「価値」はなんだったか。勤め人時代、友人が組織の上位のポストに就き、たちまちに、激職(?)のために体を壊したことがあった。「病気になってまで尽くすだけの大学・組織かね」と、ぼくは彼に辞職することを進めたが、辞めなかった。以来、「総長(社長)になろう・なりたいと思うほど、ぼくは馬鹿ではないよ」と言い触らしていました。「生きていてほしかった」声を絞る母親に、ぼくも腹の底から同感する。「お国のために」「会社のために」のような、腐った「自己犠牲」「帰属根性」は溝川(どぶがわ)に捨てなければ。人間危うきに近寄らずだね。

【編集日記】雪解川 「雪解川(ゆきげがわ)名山けづる響かな」。高浜虚子に師事した前田普(ふ)羅(ら)の句だ。冬の間にたたえられた山の雪が解け、川の流れが勢いづく今頃の時期に詠んだのだろう。春の長雨が伴えば、時に濁流となる▼野山の情景を華麗に彩るよりも、自然の壮絶さや暗たんたる気持ちなどを表現した句が多い。「寂しさや春山を描き雲を添ふ」。どこかさみしさの漂う春の山を、浮雲が慰めているよう▼宝塚歌劇団の俳優の女性が昨秋に急死した問題で、歌劇団側が上級生らによる女性へのパワハラを認めた。当初パワハラはなかったと断言し、「証拠があるならぜひお見せいただきたい」とまで言い放ったが、遺族に歩み寄った形だ▼女性の母親は、過酷な労働環境とパワハラの中、全力で、笑顔で舞台に立ち、強く生きたことを誇りに思うとのコメントを出した。半年間、娘の尊厳を守りたいとの一心だったという。ただ「生きていてほしかった」とつづる母親にとって、あまりにつらい春だろう▼女性が生前に受けた苦しみ、遺族らの悲しみや後悔など降り積もった思いが激しい流れとなり、変化を迫った。人の痛みに気づき、団員一人一人を守れる歌劇団へと変わってほしい。それが亡き人への償いだ。(福島民友新聞・2024/03/31)

「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」、当時、二十歳に満たなかった詩人の寺山修司さんが詠んだ歌です。

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「徒然に日乗」(516~522)

◯2024/03/31(日)午前中に近所のHCに猫用のドライフードを買いに。▼本日は、とにかく一日を通して暑かった。今春もっとも気温が高かったそうだ。千葉は二十五度近く、東京は二十八度超えだったという。各地の桜も一斉に咲きだした。▼本日で三月(弥生)も最後。明日からは新年度。勤め人時代の年中行事にはうんざりしながら、年度末年度初めの超多忙な時間をよく通過してきたものと、我ながら呆れている。(522)

◯2024/03/30(土)午前中に茂原まで買い物。帰路にニッサンの店舗に立ち寄り、スマートキーの修理を依頼。驚くではないか、電池を裏向きに入れていたのである。作動しないはず。ボケたものだと思う。念を入れて交換したのだが。▼一旦帰宅し、荷物を置いて、今度は別のHCに猫缶を買いに出かけた。今回は十日ぶりだったか。それにしても、缶詰を控えめにして数日間、感触と言うか、ドライフードを与えている。しかし、やはり最後は缶詰。以前にもましてよく食べる。良いことか、悪いことか。▼TansaのWさんが自由学園の授業のことを書いていた。かなり好意的に書くのは、礼儀からだと思うが、彼らの活動が高校生にいい刺激を与えているなら喜ばしいこと。(521)

◯2024/03/29(金)「花に嵐」の如く、朝から強い雨と風に見舞われる。各地での「桜開花」が遅れているとか、開花したとか、もう大騒ぎ。人間どもがいてもいなくても咲く時には咲く。散るときも同じ。大騒ぎをしている間にも弥生は月末。もはや時は四月、季節は夏といった塩梅。もうかなり前から気がついていたが、田んぼでは耕運機が入って田起こし、水張りが進んでいる。もう「田植え」間近なのだ。夕方、田んぼ道を通ると、カエルの合唱のうるさいこと。▼昨日、車検に出していたのが完成したというので引き取りに。すっかり新しくなったような出来上がり。今回はおそらく、500キロも走らなかったと思う。最近はかみさんの車をもっぱら利用している。ガソリン代の高騰も一因か。レギュラーよりも十円以上も高いハイオク車だ。車庫の出し入れも面倒と、すっかり小型車に、文字通りに便乗。セドリックは猫たちのおもちゃの感がある。遊びの道具になっているような状態。(520)

◯2024/03/28(木)曇り空。気温は低い。朝十時前、車検のために車を工場に持っていく。今回はかなりの点検修理があると言うので、二日がかり。明日の夕方に完成予定。おそらく今回が最後の車検になるだろう。初年度登録(2002年)からだから、既に二十二年が経過している)▼午前中にかみさんの姪っ子に電話。九十九里の片貝海岸で別荘を購入したとのことで、すでに原価製品等は搬入済みだと言う。暴走東武沖の郡雄圧地震が少しは収まりかけているが、まだ安心できない。内陸部だと大網や東金になるが収まってくれるのをひたすら願っている。姪っ子には「戴き物」をしたのでお礼の電話。彼女は口内の手術が四月に予定されていると言う。無事に終わることを祈る。(519)

◯2024/03/27(水)快晴。久しぶりの好天だ。午前中に買い物。そんなにたくさん買ったつもりもないけれど、合計は6千円(含む消費税込)。税率は8%だが、物価高で、実質消費税率は15~20%くらいのものだろう。年金生活者にとっては(も)、「苦役・苦難の時代」だ。▼夕刻、五時過ぎ。七尾市に災害支援金を送金(五十万円)。今回が第一回目となる予定。「貧者の一灯」、それも細やかな一灯である。先ごろは穴水市にも同額を寄付しておいた。この先、どれほどのことができるか判然としないが、やれる範囲で、きわめてかぼそい「一灯」でしかないが、なんとか灯し続けたい。自己満足ではなく、焼け石に水の感は否定できないが、寸志の意地というものかも知れぬ。(518)

◯2024/03/26(火)朝6時半ころに生ゴミを出しに。本日は朝から雨。「菜種梅雨」というのだろうか。シトシトではなく、かなり勢いよく降っているし、時には雷もなっている。三月、桜前線の北上を前に、雨続きで蕾は固まりつつあるみたい。▼本日は終日自宅に。何冊か、読みたい本が机の上に溜まっているので、極力それを読みこなしたい。やはり、テーマは原発問題で、その関連本が数冊か。その他、それやこれやと脳細胞の刺激剤として、無理をしないで読むのである。分厚い本は読めないし、読めなくなっている。(517)

◯2024/03/25(月)雨模様の天気で、肌寒い日が続いている。午後に買い物に。いつも通りに、朝食用の食パンと猫用の牛乳、その他。魚屋が造る「握り寿司」がなかなか旨いので、かみさんの昼食用に毎日のように買っている。本日は奮発して上寿司を二人前買った。猫が少ない時は、毎週一度は茂原の寿司屋(天津小湊からネタを毎日仕入れているという)に出かけていた。しかし、子猫も同居することが続いたので、この二年ほどは、ほとんど一緒に出かけることがなくなっている。全員がそれなりに大きくなったので、そろそろ出かけて外での食事を堪能したいと思っているところ。(516)

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それにつけても金の欲しさよ

◉ 週の初めに愚考する(拾參)~ 能登半島の地震に肝を潰したのが新年一月朔日(ついたち)。それから三ヶ月。昨日もネットで珠洲市内からの現況報道を見た。時間が止まっている。ほとんど人がいない。車もめったに通らない。水も電気も、もちろんガスも通じていないだろう。「復旧」「復興」という掛け声は遠くには聞こえるが、倒壊家屋の集中する街中はしんと静まり返っている。地震発生当時、おそらく、限界集落の「再生」は、政治行政からは望まれないのではないかと、不穏当な声を上げたが、それは現実になりつつある。能登は「我が家郷」といったが、郷里を出たのは七十年以上も前。だから、ぼくには無関係、そういうのではない。孜々(しし)として務め、営々として築いてきた人々の生活や文化、人間のこころの結びつきが一瞬にして破壊されかけ、その後の人災によって完膚なきまでに壊されている。その元凶は地震だったが、それ以上に「政治・行政」の心ない仕打ちが止めを刺そうとしているのだ。近年発生した、どこの災害地よりも「復興」の槌音が響かないのは、「臨界集落」は「限界集落」と同じことなのだからという、上からの判断からか。「能登は我が身」なのに、だ。

 この国は、骨の髄まで腐敗し、堕落していると言う他ない。執行される予算(税金)の二割・三割方が、政治家や行政側の意図的収奪に消去・浪費されていると言う。悍(おぞ)ましいとはこのことだろう。他者からすれば、笑うべきことだが、まるで「大海の一滴」にもならぬ「貧者の一灯」を灯し続けてきた。そうぼくにさせるのは、それこそ小さな意地みたいなもの。今回の「被災」に際しても、細(ささ)やかな「一灯」を灯したいと念じた。資産家や大金持ちから見れば「取るに足りない、雀の涙」だろうが、我が老夫婦の生活には致命的になるかも知れぬ出費です。あえて恥を曝せば、年収の約二割、一月地震発生以来、百万円を下らない義捐金を、能登の被災地(輪島・七尾、その他)に送付した。これからも、可能な限り続けるつもり。もちろん、「寄付」「義捐金」は、地震の被災地へのものばかりではない。シングルママや困窮家庭への寄付やその他を合わせて、泣きたくなるような少額だが、それでもぼくにとっては年収の一割は下らない、文字通りの「寸志」を送り続けている。もう少しとは思うものに、ままならない。その日暮らしの年金生活者の悲哀だ。それでも、続けたいのは「明日は我が身の上」「相身互い身」ということだからかも知れぬ。

 それはそれで、老人に許される、一種の精神の「ヴォランティア」だと愚考している。今秋まで生き延びられれば八十になろうという老骨・老残の痩せ我慢。「腐る程の横領・脱税」で私腹を肥やした「老害政治家」が次期総選挙不出馬を表明した際、引退の要因は「高齢によるのですか?」との記者の質問に「(選挙に年齢制限はあるか)お前もその歳来るんだよ」「馬鹿野郎」と口汚く罵った。問いを発した記者も、その場にいあわせた記者連中も一言も発しなかった。なぜ手元のパソコンかスマホをぶつけなかったのか、あるいは、履いている靴を「悪態の主」に投げつけなかったのか、「馬鹿野郎」。この為体(ていたらく)で、いったいどこに向かって、この島は漂流して行くのだろうか。

 かかる輩が、こんな愚劣な者たちが「政治を弄び」「社会を壟断(ろうだん)している」と痛感し、身震いしている。嘘八百というが、嘘が背広を着て闊歩しているのが実際だろう。「嘘も方便」ではなく「嘘が方便」というのだろうが、こんな愚連隊や半グレの如き政治屋を選び続ける「民衆(選挙民)」の愚昧さもなさけないこと。自らの足元を掘り崩されていることに気が付かないのだ。悲しいかな「一蓮托生」というほかないが、とはいえ、ぼくだけは死んでも、それは御免被りたいのだ。この残骸の山のような「荒廃した社会」の後始末は、一体誰がするのだろう。(弥生晦日)

 〈85歳の二階俊博氏「お前もその歳来るんだよ。バカヤロウ」次の衆院選に不出馬表明…“年齢が理由ではない”と質問記者に強調〉(2024年3月25日)(https://www.youtube.com/watch?v=Wg-p81cYigM&ab_channel=MBSNEWS

・猫を追うより皿を引け
・嘘は日本の宝
・嘘も追従も世渡り
・泥棒の逆恨み・欲に欲がつく
・それにつけても金の欲しさよ
・皿嘗めた猫が科を負う

(誰に言うのではなく、自嘲の種に)

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