学校にゆかないのに、莫迦か

 今の教育は、旧教育の反動的大勢からその手段方法の上には完全に近いまでに改革されつつある。学校教育あって以来、かくも児童の生活が重大視され愛護されたことはあるまいとさえ思われる。然しながら一歩を深く考察する時は、いかに完全な大仕掛な設備で愛し護られているにしても、畢竟児童は現代文明の奴隷として仕立てあげられているものに過ぎない。

 全てにわたって児童の環境(教育資料)に対して無批判である。様々な教育方法の優劣を証するものは、その実験の結果であり、その実験の結果の優劣は唯いかに児童が現代文明の奴隷として、大人でさえも驚くばかりに彼等がよく仕上げられたかに過ぎない。

 「教育とは過去の文化を伝達することなり」を嫌がった処で、まるで違った進んだらしい方法で装ったりしても事実は依然としてやっと伝達である。かくの如き教育にどうして現代資本主義的文明の生活を改造する様な人間の育成が期待されよう。資本主義的文明の奴隷として仕立てられた人間が創造するものはやっぱり資本主義的文明の繰り返しにすぎない。これではいつまでたっても人は学校へゆかない事をむしろ得意にし、「君は学校にゆかなかったのに、そんなに莫迦(バカ)なのか」という反語がいつまでも生きるであろう。 (上田庄三郎『大地に立つ教育』著作集①国土社刊。1978年) 

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 この著作(「大地に立つ教育」)が出版されたのは昭和十三(1938)年でした。時に、日中戦争の最中のこと。上田庄三郎。今ではよほども物好きでなければ「忘れられた日本人」です。高知の幡多郡出身の小学校教師であり、その後には教育批評家として先鋭な論陣を張った方です。

 彼の教育論、土の教育論とは「労働・教育」論でもありました。(これは、すでに触れたことでありますが、現在の平凡社の創立者である下中弥三郎さんの教育論にも通じるところです。また下中さんはこの島で最初の教師の労働組合「啓明会」を立ち上げた人ですが、上田さんはそれを土佐において積極的に支える活動をしたのでした)

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 「高等科の生徒とともに、村の土運びを請負いでやったこともあった。労働の間に子供たちとともに、土にまみれた手で、駄菓子を食べたり、お茶を飲んだりする間に、教案にも細目にも書かれていない、真の人間教育が行われるように思った。いっしょに働くという生活態度の中でのみ、行いの教育は実現される。教師と児童の対立では、教育はできない。教師と児童とが、より高いものの前にならんだ時、はじめて教育的関係がなりたつのである。労働という行いの前に、師弟がたちならぶ時、教科書の前に師弟が立ちならぶ時、はじめて教育的関係が成立つ。自分はすでに完成された教師であるぞというような自覚ができればもう、教師ではなくて、教育政治家になったのである。青年教師時代には、それがなかった。子供との近似生が多分にあり、特に労働の前にならんだ時は、教師などはまったく子供の労働者にすぎない。自ら水に入はいってはじめて水泳の授業ができるのである。子供の野性の中にとびこむことのできるのが、青年教師の強みである」(同上)

 上田さんの父親は「木挽(こびき)」(木材をのこぎりでひいて用材に仕立てること。また、それを職業とする人)(デジタル大辞泉)だった。彼は小学校を終えると深い山に入り、父の仕事を手伝った。教師の支援で上級学校に進みんだが、師範学校在学中も休暇になると、炭焼きをしていた。彼にとっては生活そのものが労働だった。まさしく「野性味」にあふれた時代を生きていたのです。だから、この「野性味」を奪われてしまったら、青年教師にはなにが残るというのか、それが上田さんの出発地点でした。

ミレー「木挽き」

 土に生き、自然とともに生きる教育、それはどんな教育だったか。

 「入学試験と云う四字(死字だ)の前に青息吐息で子供を苦しめて教育と称し愛と称しているのが唯今の都会地の親と教師だ。親は一番二番という囚人宜しき成績順番という虚名にありつきたい為に、教師は入学率という学校の虚名の為にだ。そうしてそれ等虚名の為には本尊たる子供は神経衰弱になろうと、肋膜になろうとてんで頓着しない狂態である。どうしてそんなに一番二番があり難いのか。仮に女の子で女学校の一番ならいい嫁の口があるとでも云う事にして見る。今でさえそうだのに子供が成長して嫁にゆく頃まで、自分の心眼で女を選ぶことが出来ず、履歴書を引張りださねば結婚しないという様な、時代おくれの婿を今からさがして置く気であろうか。そういう馬鹿げた男に言って置こう。今の様な学校で成績の一番の女とでも結婚したら木石や修身書と暮す程にも味がなく潤がなくそれでいて、帳面で拵えるまごまごした料理に小半日も待たされて然も水に醤油をかけたよりも不出来なご馳走に我慢させ続けられることを承知せねばならぬ」(上田庄三郎「教育のための戦い」上田庄三郎著作集②国土社刊。1977年)

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 上田庄三郎さんがこれを書いたのも、先に引用したものとほぼ同時期でした。これをみるに、この島で学校教育が開始されて以来、常にかわらず、教師や子どもが常在していたのは「比べる教育」、「競う教育」のアリーナであり、闘争の場でした。かかる「反教育」「非教育」の万世一系は今に続いているのです。学校教育の本質は「競う」「比べる」というところにあるということです。大事なことはその「本質」を外れた地点に立つという姿勢であり態度です。それをぼくは「思想」といいたいのです。その意味では、上田さん(小砂丘さんはもちろん)は十分に「本質」を外しています。

 「学校存在の根本義は決して入学試験の準備などという様なちっぽけな情けない表皮問題にあるのではなくて、吾が最も天真なる原人の要求を培育し現代文化を至純な愛の源より見直して行こうとする処にある」

「入学試験の成績をよくする事を考えるよりか入学後卒業後迄に漸次頭角を現してゆく事を親も子供も考えねばならぬ」

 大正末期に茅ヶ崎に理想の学校をうちたてんとして土佐から上京。ものの見事に返り討ちにあう。しかしその後に、上庄さんの本領はますます発揮されることになります。以後は「プロレタリアジャアナリスト」として筆法も舌鋒もいよいよ鋭く、敵を選ばずに過激な教育批判、学校批判、政治批判をつづけました。

 高知時代には十二年間の小学校教師(十回ばかりの不意転、上司のいうことに耳を傾けなかったというかどであちこちに回された。まあ、明らかな「島流し」(いやがらせ・いじめ・人権侵害)です)を経験し、弱冠二十八歳で校長になりました。彼に校長としての管理能力があったのではなく、彼を使いこなす校長が群下には一人もいなかったからというのが、校長就任(校長にならされた)の理由だった。師範卒以来、徹底した反時代的・反権威主義的な小学校教育を実践しました。

 大地の教育を標榜しただけでなく、それを実際に「田舎」でやってみたし、都会でもやろうとして乗り出したのが茅ヶ崎での「児童の村小学校」の経営でした。子どもが十二、三人で、たった一人の教師が上庄さんだった。

 「なんと云っても人間は自然の子である、真に自然を視る目のないものは人生の落伍者である。聡明なる親はその子に貯金をしてやるよりも自己の少しの不便にたえて子供の為に絶好の自然の豊富な土地に居住して子供の肉体と精神とを剛健にし生涯の悪戦苦闘にたゆる生命力を逞しうする覚悟が必要である。さしあたり我が学園はあらゆる意味に於て子供の国としての理想郷だと云える」(同上)

「(茅ヶ崎)児童の村小学校」はこの地上にほんの一瞬だけ存在した学校ですが、その「存立の理想」「教育への願い」はいつでも求められていたものでしたし、今でも求められています。いうまでもなくこれからもまた、少しでも子どもの幸せのために「教育」に期待するものならだれでも絶やせない「灯」であるにちがいありません。

 上田庄三郎・小砂丘忠義の二人を交互に紹介する風情で「生活綴方」教育のなにがしかを述べようと愚論を重ねています。いろいろと語るべき事柄があるように思われますが、ぼくの知性という才能が著しくかけているうえに、努力するという本当の才能が皆無ですので、なんとも情けない仕儀に至っております。まあ、ほんのしばらくですから、もう少し続けてみましょう。この駄文のなかでも、ぼくがもっとも驚くというか、特筆すべきだと思うのは、二人は(高知師範学校の先輩後輩ですが)、弱冠二十歳前から教職を開始し、文字通り「若気の至り」で強烈は教育実践を敢行しようとしたことです。教育委員会の古だぬきたちが音を上げるほどの抵抗ぶりを示したのは、二人に共通する「正義感」でしたが、それはいったいどこから生まれたのか、ぼくにはもっとも関心のあるところです。教育に寄せる彼らの「義務感」はどんなものだったか、それがすこしでも解き明かせたら、望外の幸運ですね。(写真など、いずれ当時のものも含めて、新たに掲載したいと考えております)

学校優等生の標本だ

 「優等生論」

 さて、僕が赴任してまもなく子供達の間にパン(メンコ)が流行りだした。パンとは厚紙の表面に絵がいてあり、それを地面に叩きつけて相手のやつを扇ぎ倒しくらをする遊戯である。これにウソクといふのとホンクといふのとあつてホンクといへば、勝つた方が負けた方の札をとるのである。

 その札をとつたりとられたりするのが賭博に似ているからとあつて僕らが子供の頃には学校で禁止せられ、もつてる札はすつかりとり上げられ、小山の如く校庭につみあげられてむざんにやきはらわれたことがある。 

 そのパンが流行してゐるといふことは僕らは知らずにゐた所へ前々からのその学校の優等生が、忠勤顔をして僕につげにくるのだ。

 「先生、××さんはパンをうつてをります」

 「さうか、やつてもいヽぢやないか」

  するとその取まき連が口々に説明して、事情にうとき新任の教師に古来の遺風を知らさうとする。

 「パンはとめられてゐます」

 「パンはばくちのはじめだと前の先生がいひました」

 「先生、とりあげておしまひなさい、前の先生はとりあげて焼いてしまひましたよ」

 僕は前任の山の中の学校にゐた頃は、はなたれ小僧や髪をぼうぼうのばした子供や泥と垢にまみれた子供と一緒だつたのだ。それらの子供が、猿のやうにすばしこく、手も足も血だらけにして山の中をかけまはつてゐた頑健さと原始さとは身体中、手にも顔にも表はれてゐた。

 今日の前に囀つてゐる子供の顔の何とのつぺりしてゐることか。おまけに着物の袖に手をひつこめて、ふうふういつて身体を前屈みにしあがつて、いやにへらへらと先生に親しげに笑ひかける。正しく学校優等生の標本だ。

 「ところで、君たちはパンをしたくないのだね」

 「えヽ、ちつともしたくありません」

 「さうか、したくないのならしないがあたりまへだ。だが××君らはそれが面白いから、したいのだらう」

 「でも、先生、パンはとめられてゐますもの」

 「なぜ、とめられてるのだね」

 「パンは、バクチのはじめだから」

 「おや、君たちはバクチといふものを知つてるのかね」

 「知りません」

 「なんだ、知らないのか、知らないのに、そんなに恐ろしいのか」

 「けれど、先生がさういひました」

 「あヽさうか、だが考へてみたまへ。本当はしたくないならいヽが、したいけれど先生がとめたからやめるといふのは僕はきらいだ」

 それから僕は、バクチが投機、射倖的な遊びであるに対し、パンは角力や剣道と同じく技術と力量とで堂々と戦ふ勝負ごとであることを話してきかした。

 「ぢや、先生、僕らもやつていヽのですね」

 「おや、君たちもやつてみたくなつたのかね」

 「やつてかまはんなら、僕らもやりたいです」

 子供たちの次には村会議員といふ村の長老からも抗議があつたが、それがみんながみんな「バクチのはじめ」をふりまはして来るのだ。「バクチのはじめ」といふやうなお札の空文句で僕らは動くものではない。

 自分の生活を極度に節約圧縮して、先生のきもちを巧みに忖度し、うまくさきまはりして愛くるしい笑顔をし、忠実な犬となりきれば学校優等生といふものになる。一度び 学校優等生といふものになれば将来学校優等生といふ立場を失ふまいとそれのみに固定してしまつてますますへんなものになつてくる。全く仕様のない存在である。

 だれかの機嫌をとり、だれかの御用をつとめることより教へてゐなかつた昔日の学校にこのいやな優等生がゐたことは当然の話である。といふのは、この話はもうよほどの昔のことなのだ。(小砂丘忠義「綴方生活」1931年1月号)

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 小砂丘さんの生家は貧窮の極みでした。父親の仕事(木こり、炭焼きなど)のために広い山野を遊び場にして暮らしていました。小学校を終えると、ひとえに教師の勧めで高等小学校へ、さらに師範学校へと進みます。1913(大正2)年に、高知師範学校に入学しました。(その二年先輩だったかに上田庄三郎さんがいました)

 「一体私はうけてきた師範教育をありがたいとはそんなに思わぬ代わりに全然之を牢獄の強制作業だったとも思わぬ。ただ時がまだ、官僚気分のぬけきらぬ、そして、自然主義前派の馬鹿偶像礼拝の気の濃い時だったので、今考えて、まだまだ修業の足りない教師のいたことは事実である」(『私の綴方生活』)

 1917(大正6)年4月、郷里の出身校であった杉尋常高等小学校に赴任します。師範学校の四年間はけっして快適なものではなかった。また杉小学校時代も周囲の理解を得られなかった。それはあまりにも彼が自尊独立の気概が強かったからでもあるし、逆に「教育の世界」が因循姑息を絵に描いたように頽廃していたからでもあった。いつに変わらぬ学校教育の風景があったのです。

 出る杭は打たれる。小砂丘さんは師範時代から打たれつづけていたといっていい。「しかしそれが何だろう」という姿勢は生涯にわたって失わなかった。なぜか。いわずと知れていることです。腐りきった教育界を根底からつき崩そうとしたからです。そのために教師になったというのですから。

彼は足かけ九年の教師生活中に学校を七回も変わりました。その実、無理にも変えられたというのが本当でしょう。あまりにも器量が大きかったからで、その器量を嫌うばかりで、使いこなす校長や視学(教育委員会の役人)がいなかったのです。

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あまりさへ疫癘うちそひて

 「世の中飢渇して、あさましき事侍りき」

 「また、養和のころとか、久しくなりておぼえず。二年が間、世の中飢渇して、あさましき事侍りき。或は春、夏日照り、或は秋、大風、洪水などよからぬ事どもうちつづきて、五穀ことごとくならず、夏植うるいとなみありて、秋刈り、冬収むるそめきはなし。

 これによりて、国々の民、或は地を捨てて、境を出で、或は家を忘れて、山に住む。さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行はるれども、さらにそのしるしなし。京のならひ、何わざにつけても、みなもとは田舎をこそ頼めるに、たえて上ぼる物なければ、さのみやは操もつくりあへん。念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとくすれども、さらに目見立つる人なし。たまたま交ふる者は、金を軽くし、粟(ぞく)を重くす。乞食、路のほとりに多く、憂へ悲しむ声、耳に満てり」

 養和は1181年から82年まで。二年の間、世に飢饉がおこり、すさまじいできごとが続いた。春夏は日照り、秋には台風に洪水、穀物が実ることもなかった。秋の収穫や冬の取入れの賑わい(そめき)はみられなかった。(ヘッダー写真は三康図書館所蔵『方丈記絵巻』:https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20220905-OYT8T50094/)

 民衆は土地を捨て、よそに行く、あるいは家を捨てて山に住んだ。いろいろな祈祷が始まり、特別の修法も持たれたが、効験(ききめ)もなかった。都の常で、何事も田舎を頼りにしていたのがいっかな物資は京に入ってこなかった。「さのみやは操もつくりあへん」恰好ばかりもつけてはおられないので、さまざまな宝物を捨てたり処分したりした。それでも目を止める人さえなかった。たまさか交換が調っても、「金を軽く」「粟を重く」とまるで、この島の戦前・戦後の闇物資の物々交換のようだった。物乞いは路傍に溢れ、憂い悲しむ声が耳を満たすのであった。

 今を去る八五〇年ほど前の京都の惨状ぶりを長明は克明に記しています。よく言われるようですが、長明という人は今のレポーターのさきがけで、天変地異の災害やそれがもたらす苦しみを現場から中継するかのごとくに記録しています。人生のとば口に立つ、ひとりの青年長明は年ごとにくりかえされる天変地異の異様なさまをいかに眺めたか。今風のカメラ目線で、なんともやりきれない場面をさも効果あらしめるように作為(人工)的に切り取るのではなく、いのちのはかなさ、世の政を導く貴人や貴種のどこまでも邪(よこしま)な振る舞いにときにはいかり、ときには諦念を深めながら、眼前の「あさましき事」「世の乱れる瑞相」に心を痛めていたのです。いとも簡単にいのちが選別され、あるいは捨てられるというほかない、昨今の薄情な仕打ちを片方に眺め、さらに長明の時代を遠望してみるのです。いのちの彼我の軽重を計ることはできませんが、ぼくたちは幸せな時代に生きているとは嘘にもいえそうにないのです。

 「前の年、かくの如く、からうして暮れぬ。明くる年は立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘(えきれい)うちそひて、まさざまにあとかたなし。

 世人、みなけいしぬれば、日を経つつきはまりゆくさま、少水の魚(いを)のたとへにかなへり。果てには、傘うち着、足引きつつみ、よろしき姿したるもの、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものども、歩くかとみれば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。とり捨つるわざも知らねば、くさき香、世界に満ち満ちて、変はりゆくかたち、ありさま、目もあてられぬこと多かり。いはむや、河原などには馬、車の行き交ふ道だになし」

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  昨日(20/04/21)の報道で「行き倒れ」の人があったので、病院に搬送したが死亡が確認されたといいます。死後の検査で「陽性」が認められたという。他にも複数人がいると報じられています。検査にもたどり着けない無数の感染者がいることが多くの証拠をもとに語られている。異様に(とぼくには思われます)多い専門病院の「院内感染」はこの事実(検査を受けていない、隠れ感染者の存在)を知らしめていないか。ぼくがもっとも知りたい数値や情報はどこからも届いてこない。隠されているとしか思えないが、なぜ隠すのでしょうか。木の葉が沈み、石が浮かぶとかいう世の中の異常・非情をぼくたちは眼を見開いて凝視しなければならない。

 長明を読む理由がどこにあるのか、判然としないままに、これまでぼくは何度も読んできました。だが、今回ほど、長明の「方丈記」の視点や視野がまっすぐにぼくに届いたことはなかった。人間の「欲得」は決して死なない。年齢・性別・学歴不問です。名誉欲も権力欲も、かかる人民の苦しみや悲しみのさなかにおいてこそ、むき出しになるのだとすれば、ぼくには語る言葉もない。生命よりも欲得を!生きているうちが花なんだと、あざけりの声が聞こえそうです。

 堀田善衛さん(1918-1998)の『方丈記私記』(筑摩書房刊、1971)はぼくの愛読書でした。何度読んだか。

 「私が以下に語ろうとしていることは、実を言えば、われわれの古典の一つである鴨長明の「方丈記」の鑑賞でも、また、解釈、でもない。それは、私の、経験なのだ」と、この「私記」を書き出しています。

 「(一九四五年)三月十日の東京大空襲から、同月四月二十四日の上海への出発までの短い期間を、私はほとんど集中的に方丈記を読んですごしたものであった。…/ しかし、方丈記の何が私をしてそんなに何度も読みかえさせたものであったか。/ それは、やはり戦争そのものであり、また戦火に遭逢してのわれわれ日本人民の処し方、精神的、内面的な処し方についての考察に、何か根源的に資してくれるものがここにある、またその処し方を解き明かすためのよすがとなるものがある、と感じたからであった」(「私記」)

 敗戦前の三月十日、堀田善衛さんは「東京大空襲」に遭遇された。その時の経験が克明に「私記」に記されています。「前の年、かくの如く、からうして暮れぬ」と長明が描いたこの時期、清盛は福原遷都を強行した時期でもありました。青年堀田さんと青年長明さんとの歴史の隔たりを越えた符合を、どのように評するのがいいのだろうか。

 年表風に。1173(承安三)年、親鸞が日野の里に生まれていました。二年後の安元元年、法然は専修念仏を唱えます。安元三年、大火。1178(治承二)年、安徳天皇誕生。治承四年、福原遷都。頼朝、義仲相次いで挙兵。1181(養和元)年、清盛没。養和の飢饉。治乱興亡は人民の塗炭の苦しみをよそに、さらに打ちつづきます。

 「そうして、…安元三年の大火のとき長明は二十五歳であり、治承四年四月の大風と六月の福原遷都は長明二十八歳のときのことである。私自身もまた同じような年恰好であった。二十七歳であったのだ」

 「つづけて養和の大飢饉が来る。養和元年とは、治承五年(一一八一)七月に改元されたものであり、翌年の五月には寿永と、またまた改元されるのであるが、この二年間は実に怖るべき大飢饉・悪疫流行の最悪の年であったのだ。長明二十九歳、三十歳の時のことであり、私自身もまた自分の年恰好と、世の中の有様行末をひきくらべて暗澹たる思いをさせられた。この頃に硫黄島の軍が全滅していた」(「私記」)

  おそらく、人間の生きた時代や社会のどんなところにも「方丈記」は書かれてきたにちがいないのです。

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「朝鮮」という総和を生きる

金石範 もう一言付け加えると、私はね、この戦後生きてきたひとりとしてね、問題は生き方なんですよ。その生き方というのは、彼の場合(金時鐘)は八・十五の解放を原点にして、逆さまなかたちでこれまで一生誠実に生きてきたということ。私の周辺でも必ずしもそうじゃない場合もかなりあるんですよ。そういう意味では、やはり在日する者としてのひとつの誠実に生きる姿が彼の話のなかにでてくるじゃないですか。ただあの時こうしたああしただけじゃない、全体を、ともかく悩みながら一応誠実に生きてきたという。年取るとね、そういう思いが強いよ。そうじゃないすべての人を否定してるんじゃなくて、やはりこういう生き方もあるということですよ。

金時鐘 ぼくの場合は何も誠実に生きたということもないし、そういうかたちで評価してくださる先輩とか知人たちもいますけど、ぼくの場合はね、このような暮らししかできようのない状況を生きてきたというにすぎない。

金石範 それはその人の人間的な資質にもよるかわからんけどね、人間そうじゃない場合が多い。適当に順応して、そうでないように見せながら生きている。それが世の中だろう。私はそのようにできなかった。時鐘もそうなんだよ。

金時鐘 なぜ「朝鮮」籍にこだわるのかというと、たしかに韓国籍をとれば、もっと自由でいられるしな、金先生くらいだったらもっとよくしていられるのにと言ってくれる人もおるけど、そういう方便の問題じゃないんだな。ぼくの場合は、あれほど無道きわまりないことやって作り上げた韓国という国家体制をね、出来あがった体制の過程を身をもって知ってる者としてね、実際的に韓国のこの五〇数年というのは、もし戦争責任というのが厳密に言えることならね、植民地統治下でいい思いした連中らがな、おおっぴらに復権して政財界から芸術、教育界に至るまで重鎮におさまってきたという年月なんだよね。で、日韓関係の友好というのも、日本でも戦争犯罪者に類する連中らが自民党という権力与党の重鎮にすわって何十年来たわけでしょ。ぼくは日本で最初に出会ったのが、幸いにも金石範先生であったり、姜在彦氏といった民族意識の強い社会科学者たちだったんですが、ぼくも民族分断の単独選挙に抗った者として、「朝鮮」という総和を生きるしか方法がない。

 よく、それでお前は人間かっていう手紙を縁戚の人からもらったこともありますよ。ぼくの母の弟になる人が、日帝時に帝国大学出た何人もいないうちの一人なんですけど、お前は人でなしだと、〔韓国に〕帰ろうと思えばいつでも帰れる、私が保証する。親父やお袋が死の床に伏せっているというのに、それほどまでもアカが好きなのかと、公認会計士の叔父は会うたびになじった。ぼくは思想のために行かなかったというより、あんなことを経てきた四・三がありますから、アメリカのごり押しで出来あがった国家に帰依することはできない。では自分がずっと行きつきたかったのが今の北なのかっていうと、かつての南に負けず劣らずくらいの国に今なっている状態があって、なおさら総称の「朝鮮」に固執するわけです。決してぼくが思想が強いとか、そういうことで「朝鮮」にこだわっているんじゃなくて。これはまったく意地です。

金石範 北と南が単独国家体制になっていて、したがって北の共和国国籍とか南の大韓民国国籍とかになっているけれど、それは分断された祖国の「かけら」としての「国籍」、「片割れ」の「国籍」であって、本来的なもんじゃない。「分断の象徴」なんだ。勿論、国家体制というのがあるから、それは現実的な法的強制力をもっています。しかしそれは絶対的なもんじゃない。その現実をこえて本来的なものを求めるのがわれわれの想像力。私が「在日」をカバーする祖国統一を前提にした連邦的な準統一国家を考えるのはそのためです。私には「北」も「南」も祖国ではない。したがって「北」の「国籍も「南」の「国籍」も取得しない。統一祖国が私の祖国なんです。

金時鐘 自分で合理化できるものがあるとすれば、幸か不幸か詩をやったということでしょうかね。自分の意識を「支配」というと、物理的な気がしてぼくはいつも観念的な心情的な「差配」という言葉を使いますけどね。ぼくの意識を差配していた言葉が日本語で、自分の国の言葉は日本語を介して、プリズムが色を分けるようにして紡がれてくる。ぼくにとって「解放」とは何かというとやっぱり自分の言葉の問題ですね。だから意地があるとすれば、詩をやることであり、非人道的なことをやってできあがった国家に、今なお同調できない。ぼくは金先輩にも文京洙にもすまなく思うけど、ぼくはね、済州島好きじゃないねん、愛してるけど。(金石範・金時鐘『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学』編者文京洙・平凡社、2001年)

●金石範(キム・ソクボム)1925年、大阪生まれ。主な著書に、『鴉の死』、『火山島』、(大佛次郎賞、毎日芸術賞受賞)、『海の底から、地の底から』、『満月』、評論集に『転向と親日派』などがある。

●金時鐘(キム・シジョン)1929年、朝鮮・元山市生まれ。詩集に『新潟』、『猪飼野詩集』、『光州詩片』、『化石の夏』、評論集に『「在日」のはざまで』(毎日出版文化賞受賞)などがある。

●文京洙(ムン・ギョンス)1950年、東京都生まれ。現在立命館大学国際関係学部教授。主な著書に『ハングル教本』、『現代韓国への視点』(共著)、『アジアの人びとを知る本』第五巻(編著)など。

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 ここでいわれる「朝鮮」籍とは「韓国」籍に対応するものではありません。あくまでも総和としての「朝鮮」という国籍です。日本の敗戦後の四七年、外国人登録令によって、当時の「在日」はすべて国籍は「朝鮮」とされました。翌年、大韓民国が成立するに及んで韓国籍をとる人もいました。しかし五二年の講和条約発行前に、日本国は在日朝鮮人の日本国籍を剥奪したのです。以来、「日韓条約」締結まですべての朝鮮人は無国籍状態に置かれることになるのです。今日まで日本政府は北朝鮮を国家として認知していないために「朝鮮」籍は国籍とは認められていません。

 いまなお、「在日」問題はぼくたちの日常に厳として横たわっています。ことあるごとに、それは「差別」の根源にある歴史のなかの消えることも消すこともできない課題としてこの島社会の核心部に貫通しているのです。いずれ、このテーマについても稚拙な持論(自論)のようなものを書いてみたいと考えています。

教室のなかでの解放感

「未来につながる教室―群馬県島小学校」

 《日本じゅうの数しれない小学校の、どの校長先生が、文部大臣の参観申しこみを、にべもなくことわる勇気をもっているだろうか、そして現職の堂々たるコワモテ文部大臣のかわりに、ひとりの若い作家を歓迎するだろうか?

 今日の日本の様ざまな状況に、大臣たちをおくりこんでルポルタージュさせるという企画がたてられた。はじめ文部大臣に、地方のひとつの小学校に行ってもらうことになったが、連絡をうけたその校長先生は、かたくそれをことわった。文部大臣の参観がとくに意味をもつわけでもないだろうという判断があったわけだ。そこで、ぼくはいわば文部大臣のかわりの役割をつとめることになった。(略)

 ぼくは村の国民学校で解放されていなかった、と思う。また教室は教師を鵜匠とし、子供たちを鵜とした鵜飼のようなもので、子供ひとりひとりと教師とのあいだに束縛とにたつながりはあっても子供たち同士の横の自由なつながりはなかった。その二つが両立するなど思ってもみることはできなかったものだ。横のつながりを子供仲間でつけること、それはひそひそ内緒話をすることにすぎなかった。それはむしろ教室の敵だった。

 教室のなかでの解放感、子供どうしの横のつながりが、先生との縦のつながりをさまたげるどころか、かえってそれをおしすすめるという感覚、それだけでも、もし島小学校が日本の戦後の初等教育の一般につうずるものなら、ぼくは戦争中の国民学校教育に怯えて暗い生活をおくったものとして、戦後の新教育の小学生たちを祝福したいのである。戦後の子供の世界には暗さの種がひとつだけは少ないのだから。

「未来誕生」

 これらのことは島小学校だけの独自のものというべきでないかもしれない。しかし、僕が斎藤さんと一緒に利根川を渡し舟でわたり分校に行ってみた六年生の国語の授業には、まさに島小学校の面目があった。

 分校の六年生二十人は女の先生の指導で、チエホフ作・神西清訳「カシタンカ」という三十ペエジほどの童話をよんでいる。すでにその前の時間までに、言葉の解釈とか文章の理解とかの段階は終っている。そして、この段階までがぼくらの小学生のころの国語の授業だったのだが、島小学校での真の授業は、そこからはじまるのである》(大江健三郎「未来につながる教室」)

 作家の大江健三郎さんが島小学校を訪れたのは昭和三十七年五月で、斎藤さんが島小に着任して十年が経過していました。そして斎藤さんが境町東小学校に移られたのは翌年のことでした。斎藤さんは、この大江さんの参観とルポについて書いておられます。「作家の大江健三郎氏は、昭和三十七年五月に、雑誌『文藝春秋』の企画で二日間島小学校を参観した。そして『文藝春秋』七月号に「未来につながる教室」というルポルタージュを書いた」(斎藤喜博『可能性に生きる』)

 「教室で困ってしまい考えこんでいる先生を美しく感じた体験はこれがはじめてだった」

「未来誕生」

「なぜクラスの子供たちがこのように生き生きと組織されているのか?自分の意見がのりこえられても、なぜその子供は屈辱感とともに黙りこまないのか?つねに黙ってにこにこしながら発言する子供をみまもっている、いわば陽かげの子供たちに、疎外感がないのはなぜか?」

 大江さんは数々の感嘆と驚嘆を交えてこのルポを書かれています。たくさんの教師たちが公開授業に参加していました。そのなかに明星学園の「絵の先生」がおられ、大江さんにつぎのような島小批判をされたそうです。

 「明星では授業のあいだに、先生が芸術や学問、専門の分野にすすんで自分を肥やすことができる。しかし島小学校の教師たちはモラリッシュで犠牲的な精神にみちている」

 教師はもっとエゴイスティックであるべきで、「子供のために、という考え方は古いし、このままだと島小学校の先生たちはしだいに自分を貧しくしてゆき、斉藤さんがいなくなれば永つづきはしないだろう」

 「参観の教師たちすべてが去った二日目の夕暮、子供たちが校長先生や自分たちの先生の躰にちょっとさわりにきたりしていた解放的な教員室で、斎藤さんをかこんだ先生たちとぼくはしばらく静かに話す時間をもてた。斎藤さんのいう良い教師の条件とは、頭の良い、育ちの良い、美しい教師ということだそうだが、そこに集まっているおだやかな先生たちには、確かにその印象があった。これらの島小学校の教師たちは、その全生活を教育に投入しているのだ、と斎藤さんはいった。教材を研究するために熱情をかたむけ、仲間、校長、専門家に協力をもとめ、そのうえで子供たちと格闘している教師たちなのだと。そして明星学園の先生が不安に感じたことにたいする斎藤さんの回答はじつにはっきりしていた、島小学校の先生の精神が貧困であるものか、現場で自分をつくりあげることのほかに教師になにがありえよう?」(大江)

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 ここで戦中から戦後にかけて、日本の学校教師はどのように生き抜いてきたのかという問題に逢着します。斎藤さんが言われているように、大半の教師たちは「戦争のあやまりであることを少しも知らなかった」のではなかったか。これを別の言い方で表せば、時流・時局に乗っていたということです。戦争が間違いであるということも、この戦争が無謀であるということも、ほとんどの教師にはわからなかったと思う。あまりにも深く体制のなかに入り込んでいたからです。  

 戦争中には「聖戦」に心身を捧げ、戦後になると「平和と民主主義」に命をかけた(つもりになった)のだろうと思うばかりです。それでなんの問題があるものか、という気分だったかもしれない。にもかかわらず、戦中も戦後も時局や時流に流されず、おのれの仕事に専念した教師もいたでしょう。いずれにしても、他人の言動を、後からとやかく言うことは避けます。

 斎藤さんの、まことに奇妙ですが、正直でもある(と、ぼくには思われる)回想です。

 「昭和十九年になると、村にも空襲警報が出されるようになった。そのうちに銀色の美しいB29が一機、村の上空をゆうゆうと通っていくのがみえるようになった。軍部の話では、日本は力があるから敵機の一機や二機はかまわず飛ばせておくのだということだった。大本営発表も大戦果の発表ばかりだった。だから愚かな私は、ほんとうに敵機の一機や二機はかまわずにおくのだと思っていた。

 しかし年老いた私の父はそうはいわなかった。「いくさに勝っているのなら敵の飛行機がくるはずがないではないか。負けてるからくるのだ」といいきっていた。(中略)

 このことは、私にとってはのちに痛い教訓となった。田舎にいて、しかも教師という狭い世界にいて、ツンボ(ママ)桟敷におかれたということはあるが、ツンボ桟敷におかれたということは老人たちも同じである。ところがその人たちが、みごとに事実で判断していたのに、私にはそれができなかったということは、私がまだいかにも教師であったということである。教師としての思いあがりであったということである」  

 ことさらに戦時中のエピソードにふれましたが、特別の意味があるわけではありません。普段の行動が戦争中にもそのまま出ただけだということをいいたかったんです。非常時だから、非常時用の行動があるわけではない。平常時の「教室」でやっているそのままが非常事態の「教室」でも行われるのだということです。たくさんの先輩教師が戦時中にとった行動を知れば知るほど、そのようにいえるようです。それならば、ぼくたちの生きている現在は「非常時」なのか、「平常時」なのか。

 大江健三郎さんのルポは立派な教育論であり、授業論だと、ぼくはくりかえして読んできました。ここではほんの少しばかりの引用になりましたが、詳細は「未来につながる教室」を読むほかありません。「明星の先生」が出てきます。彼は高名な教師でしたが、斎藤さんは遠慮なく批判し、大江さんも同調するのです。この時期は「明星学園」がとても元気は時代でもあったのです。(蛇足 もう何十年になりますか、大江さんに来ていただき、いろいろな話を若い人といっしょに伺う機会がありました。それ以前にもなんどかお会いし、教えられたことがありました。今は昔の話です)

 ここにもまた、一枚の「教師の残映」が記録されていました。

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学校はだれのものか

 「緊急事態」だからと見逃され(許され)ているのですけれども、二月末に時のPMが「全国一斉休校」を打ち出し、なんの異議も意義も見いだせないままに、「休校状態」はいまだにつづいています。これはどういうことなんだという嫌な気が今もしているのです。(公立)小中学校は、基本的には地方自治体の設置学校です。したがって、その機能停止や改廃を決める権限も一義的には「地方公共団体(教育委員会)」にあるはずです。にもかかわらず「一斉休校」という、根拠も効果も検討も検証もされないままに打ち出された「無謀な政策」は「憲法違反」に当たるというほどの問題だとぼくには思われます。(「教育の機会均等を侵す」行為、さらには…ととれますから)

 そこまでするのは大げさだという人もいるでしょうし、休校措置は妥当であったという人もいるでしょう。「休業自粛」とは趣が異なるかもしれませんし、結果として「休校」やむなしということであっても、それをほかでもない「PM」が宣言し、それに無抵抗で島全体がしたがうとき、いったい「自治体」とはなんでしょうか。政府や中央官庁の下請け行政に甘んじていること自体が「自治権」の放棄であり、「教育権」の蹂躙だというほかないのです。三割自治と揶揄されてきましたが、そんな上等なものではなかった。無自治体というアホらしい嬌態ですね、これは。「税収権」も奪われたままです。痴方交付税という「おためごかし」でお上から「いただいている」始末です。

 いったい、学校はだれのものか。子どもが学ぶ場所、子どもを教育するところ、いや教師の職場である、とんでもない、国が発展するために作られた制度だと議論は沸騰するのかも知れません。じつに奇妙な話です。学校教育が始められてから一五〇年も経過しようというのに、いまだにこのような疑問がときとして大まじめに出されるのです。(議論されるならまだしも、今ではほとんど暗黙の裡に、国家の管轄下にあるのです)

 考えてみれば、こんな疑問は不思議でもなんでもないのかもしれません。だれかのものと決めつけようとすることこそが奇妙だといえます。ひとそれぞれに、自分の立場にたって、「学校教育」を論じようとするのですから、だれもが納得する結論がでることはないといってみたらどうか。ようするに、どのような視点から学校を見る(論じる)かが重要だといってみたくなります。

 子どもの成長や発達を願う立場からみれば、学校は子ども(その関わりでいうなら、親たち)のためのものだといえます。教師がいてこそ、子どもの成長や発達に資する教育が可能となる(そのように懇望してやまない)というなら、それは教師がいなければなりたたない組織(教師の職場)であると考えられます。しかし、子どもの成長を可能にする教師の役割を容認するにしても、けっして個々人の努力や情熱だけでは一日だって維持できないのはいうまでもありません。それがじゅぶんに達成されるためには莫大な経費や施設・設備が欠かせない。

 ここまできて、学校はけっしてだれだれのものと、一義的に所有者を特定できないことがわかります。そんなことはあたりまえだといわれそうですが、この国における学校教育がつねに問題をかかえており、ときには驚くばかりの愚劣な議論が政治の領域でなされるのをみるにつけ、学校は「俺のものだ」という我が物顔の主義主張がまかり通ってきたともいえるのです。現に、通っている。

 問題は「学校」という言葉で何が含まれているかということでしょう。建物も土地も「学校」だし、教室の仕事も、子どもの学習(教育)も「学校」に含まれます。内的・外的要素を誰かが「独り占め」することは許されないという意味で、だれのものでもないというのです。

 教育の政治的中立性とはどういうことか。いかなる党派であれ、ある種の政治権力が学校教育を、どのような方法を使おうとも、支配することをいさぎよしとしない、民主主義社会のためのひとつの原理を示すものだと考えられます。国家権力であれ、一人ひとりの教師のそれであれ、はたまた子どもや親たちの意向であれ、それらが学校教育をかたよった方向に導かないためにはこの原理をないがしろにしてはならないことを教えています。

 ではなぜ、このような原理が大きな価値をもつのか、もたされているのか。いうまでもなく、特定の権力(勢力や党派といってもいい)が学校教育を牛耳り、そのあり方をきわめていびつなかたちにゆがめてしまうことがあったからです。その具体例はあげるまでもないでしょう。学校教育をみずからの思想や教義や利益のための道具とした事例は枚挙にいとまなしです。明治以降の学校教育史とは、一面ではまさしく学校・教育が政争の具とされてきた歴史でもあったし、その流れは今日においてもまったく変わりません。はからずも今回、隠されていた問題が一瞬にしろ、表に浮上したと思われたのですが、だれも何ともいわない。

 「何か(コロナ)の事情」で「休校」せざるをえないときもあるでしょう。でもそのためにはバカが「勝手に」突然「宣言」していいことにはならない。こんなことを認めていたら、次は何をしだすか。(散々今までしてきたではないか)おのれの不法行為は一切認めないという「傍若無人」の行状を一刻も早く阻止しなければならないのではないですか。「始末に負えない」ではなく、「始末に負える」としなければ。

 奇怪で魔訶不思議な国の「オキナ」の気分にぼくはなっています。