
もう、新学期の授業は始まっただろうか。だれにも、いくつになっても忘れられない「記憶」というものがある。ぼくにもある。しかし、あっても不思議ではないのに、すっかり消えてしまっているものもある。小・中・高時代に接した数えられない教師たちとの関係と言うか、その教師たちのいろいろな場面における印象というものについて、ぼくには思い出されるような「印象」がまったくない。ある意味では寂しいことであり、別の意味では、学校や教師というものに対するぼくの接し方が如実に表れているとも言えて、それはそれで、仕方がなかったというほかない。もちろん、個々の教師との関わりに関しては、記憶は皆無ではないが、それはまるで白いワイシャツに付いたシミのようなもの。着る分にはなんの支障・影響もなかったす。
季節柄、本日は「教師の面影」二題について、です。
まずは「雷鳴抄」。この筆者の筆力なのか、それともこういう場面に及んで、読む側の想像力がたくましくなるからなのか、いずれにしてもなかなかの「記憶と記録」だったと思う。「恩師の手」が伸びてきて、「殴られて当然だと、観念する」とある。奇妙ですね、「早退の理由が嘘である」ことがお見通しだったというのかも知れませんが、だから「殴られても当然だと観念する」というのは、ぼくには腑に落ちない。その教師は四六時中、暴力を振るっていたのでしょうか。生徒(コラム氏)の期待や予想に反して、「そんなに首元を開けていたら、治る風邪も治らないだろ」といったという「科白(せりふ)」と仕草に、ぼくは教師の人柄・人間性を感じたのです。「いい教師だったろうな」と思う。言葉や仕草が、人間関係の成り立ちにはどんなに大事かということを教えています。

「近寄りがたい存在だった」というのはコラム筆者の感情で、だからこそ、教師の科白と仕草に、二度と「嘘」がつけなくなったのでしょう。まるで「親(厳父)のような」教師ではなかったか。四十年以上も過ぎた今、「恩師と呼ばせていただきたい」と、かつての生徒の一人は告白するのです。余勝手ですね、そんな恩師がいて。
ぼくも、このコラム氏と同じように「桜の祝福に包まれた新入生には、すてきな先生との出会いがあることを祈る」と、心から「祈念」の気持ちを贈りたいですね。残念ですが、ぼくには「すてきな先生」はいなかった。一人もいなかった。その理由は明らかです。「学校に信を置くな」「教師に近づきすぎるな」という、まるで「掟」のような自縄の感情で学校に相対していたからでした。要するに「恩師」という誇らしげな存在は、ぼくにはいなかったということ。そのほとんどは「反面教師」というものでした。「すてきな先生」たちではなかったが、それはぼくの至らなさのゆえで、とにかく、教えられたことは確かだった。


【雷鳴抄】恩師の手 平年よりやや遅い桜が、県内各地の入学式に花を添えている。桜の祝福に包まれた新入生には、すてきな先生との出会いがあることを祈る。大人になって振り返ると、恩師と呼ぶべき人がいたことに気づくものだ▼1980年代、県南の男子高に通った。自由な校風で、校則に縛られることはなかった。それに乗じて、服装の着こなし、頭髪も乱れ気味になっていく▼さらに、成績が振るわなかったからか、友人関係の問題か思い出せないが、早退することが、ままあった。職員室をのぞき、担任に報告する。「熱っぽくて…。早退させてください」▼何度目だったか。職員室の一角で、いつものせりふを伝えると、担任の手のひらが、顔に近づいてきた。殴られて当然だと、観念する。早退の理由が毎回同じで、稚拙過ぎた▼担任は、学生服の襟元のボタン二つとカラーのフックを止めてくれた。「そんなに首元を開けていたら、治る風邪も治らないだろ」。真っすぐに向けられた鋭い眼光には、怒りでなく、思いやりがあった。その後、二度と早退はしなかった▼すでに鬼籍に入ったその担任は、教壇に立つ前に広島の海軍兵学校に在籍していたと聞く。小柄ながらも常に背筋が伸び、固く口を結び、決然としていた。近寄りがたい存在のままだったが、恩師と呼ばせていただきたい。(下野新聞・2024/04/09)

次は「天風録」の教師について。輪島高校の校長先生について、ぼくも報道で知っていました。「学びを止めるな」。ぼくはこの校長先生のブログは見たことはないが、むしろ、この校長が「お手本にしてきた先人」に引き寄せられます。「焼け野原となった戦後、チョーク1本で子どもらに語りかけ、希望の光を示した。動かぬ北極星のような存在だったらしい」、そんな教師がいたという事実にこそ、ぼくは心を奪われる。この「先人の思い出」は本当だろうかと、疑いの目を持ちながら、この文章(コラム)を読みました。ぼくは「戦時中の学校・教室」は未経験でしたから、一夜にして「軍国主義から平和主義へ」と豹変した教師たちを見ることはなかった。それでも、戦時中の「居丈高な姿勢」を頑なに堅持していた教師は多かった。だから「教師に信を置くな」という戒めが生まれたのかも知れなかった。
コラム氏が書かれている「動かぬ北極星」のような教師が、戦中派だったかどうかわからないが、その教師が「チョーク1本で子どもらに語りかけ、希望の光を示した」のは、彼(男性だったと思う)自身の体験に根ざしていたことは間違いがないのです。「北極星」は「(Polaris=恒星」と呼ぶ。「太陽と同様、自ら熱と光を出し、天球上の相互の位置をほとんど変えない星」(デジタル大辞泉)いつでも「そこにいる」という教師は、どんなに頼もしかったことでしょう。それに反して、ぼく(生徒)たちはいつだって、恒星の周りを動き回っている存在ですから、さしずめ「惑星(planet)」とも言えるでしょう。長い教育(相互作用)の間に、惑星はいつしか恒星になることがあるのでしょうか。

この輪島高校の「校長先生」はミュージシャンでもあって、生徒たちに向けて、歌でメッセージを伝えておられる。「どんな時でも学びを止めるな」と。これは震災直後の学校だったから、尚更という思いも募ります。もちろん、学ぶのは学校ばかりではない、生きている限りは「学ぶのを止めるな」というべきでしょう。彼は、いわゆる「熱い先生」なのかも知れません。ぼくには苦手なタイプですけれど、それはそれ。要するに、目に見えて「なにかを与える」というのではなく、それとなしに、互いに伝わるものがある関係が、ぼくには大切なのだという気がするのです。改めて、「動かぬ北極星」のような教師、それはどんな教師だったのでしょうか。

【天風録】学びを止めるな 手帳を開き、きょうが元日から100日目に当たると気付いた。ということは、能登半島地震からも100日を数える。明くる年に期待を込め、求めた日記帳が、心ならずも被災日記に転じてしまった人々の胸中を察する▲腹をくくった人もいる。最大震度7の揺れが襲った石川県輪島市に立つ県立輪島高の平野敏校長である。被災から3日目にブログを再開し、こう書いた。〈学ぶことを止めてはならない/それを生徒たちに伝えたい〉▲お手本にしてきた先人がいるという。焼け野原となった戦後、チョーク1本で子どもらに語りかけ、希望の光を示した。動かぬ北極星のような存在だったらしい▲♪負けない事・投げ出さない事・逃げ出さない事…。大学受験に向かう生徒たちの前で平野校長はギターをかき鳴らし、お気に入りの曲「それが大事」を歌った。そんな熱さに、ほだされるのだろう。一肌脱ぐブログ読者が絶えず、閲覧総数も既に200万アクセスを超えている▲非常時だからこそ開けた視界、腹に落ちた先達の言葉もあるようだ。校長ブログは、授かった学びの種の宝庫といえる。中でも、〈どんな時でも学びを止めるな〉の警句は一番光って見える。(中國新聞・2024/04/09)

これまでも、いつだって「✖✖の一つ覚え」のごとくにいい続けてきたし思い続けてきたこと、それは「人と人との関係(付き合い)の中に生まれるのが教育」だというものでした。学校在学中だけ、教室だけで終わるのは「教育」に似て非なるものという確信がぼくにはあります。学校を出た後も、有形無形の関係が続くなら、そこからなにかが生まれているはずです。長い付き合い(関係)そのものではなく、その関係から生み出されるであろう「相互交流」、あるいはその関係そのものが醸し出す雰囲気、実は、それこそが「教育」なのだとぼくは思い続けてきた。あるいは「父子の関係」「夫婦の関係」に擬(なぞら)えて言えることなのかも知れません。こういうことを「薫陶(くんとう)(cultivation)」というのかも知れない。「[名](スル)《香をたいて薫りを染み込ませ、土をこねて形を整えながら陶器を作り上げる意から》徳の力で人を感化し、教育すること」(デジタル大辞泉)「教育は文化です」と、これも来る日も来る日もいい続けてきました。

本日、「二つのコラム」に珍しく引き込まれたのは、付かず離れずの「関係」から醸(かも)されるものこそが「教育作用」なのだというぼくの思いが、そこには秘められていると実感したからでした。新しい人たちへ。「学校に懐(ナツ)くな、人に親しんでください」、人に対する少しばかりの「尊敬の念」を失わないように。長く交われる「親友」、喧嘩ができる友だちが、学校の中から、学校にいる間に生まれるといいね。「サチアレ!」
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