夏も間もなし七十八夜

 本年の「八十八夜」は皐月朔日(5月1日)だそうですから、さしずめ、今日あたりは「夏もすぐ来る七十八夜」ということになります。文字通り、「野にも山にも若葉が茂る」ような季節の只中にあります。そして、わが荒れ庭にも青葉若葉が茂りに茂っている。また、この数日の間に、近辺の農家はすっかり田植えを済ませていました。うっかりしていて、その「作業中(working)」にまったく出会わ(え)なかったのはどうしたことか。まるで「隠密裏に」、各農家一斉に「自動田植え機(automatic seedling planting machine)」を働かしたとしか思えません。驚嘆すべき機械の威力ですね。ぼくは田植え前の「水張り」にすっかり気を取られていたのです。気づけば、稲作仕事(農業)は丸ごと「田植え工場」と化していたのでした。今ではドローンやロボットが大活躍です。そこにはほとんど「人間不在」です。「いい時代」と言うべきか、ぼくには口から出すべき言葉がない。

 (ヘッダー写真「クボタのたんぼ」:https://www.kubota.co.jp/kubotatanbo/rice/

 おそらく、遠からず自宅でテレビなどを観ながら、リモートコントロールで田植えも除草も稲刈りもすべてが進められる日が来るでしょう。いや、もう来ているのだ。中東やウクライナで戦われている「戦闘(人殺し合戦)」で駆使されている軍事技術の農作業への転用なんですな。是非善悪の問題以前に問われるべき事柄がいくつもありそうです。コメディ番組を見ながら、仲間と食事を摂りながら「ミサイル弾」や「核弾頭弾」の発射ボタンを押している、それがまぎれもない現実(になり、なりつつある)です。「戦場で戦死する」画面はまるで見せかけ(仮想)。救われないのは、ロボット(半導体・チップスというコメを主食とする)(それは人間不在・人間不要でもある)によって発射されたミサイル等の直撃を受ける犠牲者です。自動機械による「殺戮戦争」、不適切な表現だが「戦い」そのものが、堕落し退廃しているとしか言いようがありません。

 遠い昔のことですが、少年期のぼくも、一人前に田んぼに入って「田植え」の真似事(手伝い仕事)をさせられました。一面に水の張られた田に足をいれる、その感触は不思議なものでした。当時は農耕用に牛などを使っていたので、一日の仕事が終わると、泥に塗(まみ)れ汚(よご)れた牛を川に連れて行き、身体全体を洗った記憶も、ぼくの手足の感触(人・牛一体)とともに残っている。おふくろの実家があった能登地方(現七尾市)での一コマです。今回の大地震によって、一体どれほどの田植えができているのか、大いに気がかりです。

 方々で「地震」が続いています。災厄は避けられないが、その被害を少なくすることは可能なはず。そこにこそ政治や行政の関心が払われるべきだが、驚くべき無関心なのは、大きく言うなら「愚民」「棄民」などという人民愚弄・蔑視を得意中の得意とする人間どもが、その任に当たっているということだと思う。人民にとっては「不幸中の不幸」ではないでしょうか。

 ドローンが種まきをし、ロボットが田植えをする、更にはルンバが除草をし、ロボットが稲刈りをする。挙げ句に、ものを食うロボットまで出現する時代の趨勢。そのすべては「自動運転(人間不在)」で、農家の人たちは自宅にいてモニターを見ながらボタンを押したり、スウィッチのオン・オフに触れるばかり。まさに時代は、「AI時代」に入ったのでしょう。既にあらゆる領域で「AI」は人間の手と頭を離れて活動している。ほんの数日間の「油断」だったが、ぼくが今年の田植えのシーンを見られなかったのは、きっと「AI田植え機」が夜間作業をしたからだったかも知れないと、今更のように思ってみる。そして、ひょっとして、見なかったことが幸いだったかも知れないと、ぼくは逆に考えているのです。

 「人間不在」は「人間不要」の時代を暗示も明示もしているだろう。「少子高齢化」は必然なんですね。大変な努力と工夫を重ねて、人間という種族は「人間不在」や「人間不要」の時代の到来を必死で求めてきたのだった。何処かの何かが狂っていると言うべきだし、なんのために学校や教育に金をつぎ込むのか、人間が人間地震の存在の必要性を減じるための飽くなき努力をしているなんて。まさに「本末顛倒」という事態をぼくたちは経験しています。いったい、誰がそれを望んでいるのか。(⏩️はタイはチェンライの田植え風景)

 「人間の存在しない世界(地球)」を、ぼくは想像も想定もすることができない。

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「徒然に日乗」(537~543)

◯2024/04/21(日)終日晴れ。午前中は除草作業。道路沿いの植え込みの下草が大きく伸びていたので、今シーズン初めて刈払い機を用いる。もう十年ほど使っているもので、やや劣化が進んでいる。これがなければ、とても草刈り時には作業は間に合わない気もする。まだまだ除草作業が始まったばかり、この先が思いやられる。▼夜九時半すぎに、T氏から電話。「かみさん」が上京されたと言うので、少しは重しが取れたのか、かなりの時間を無駄話で付き合ってしまった。「自分は歳を取った」という意識が強すぎるのは彼の性分だろうか。言っても始まらないことしか(とは言わぬが)口にしないというのは、あまり褒められた性格ではない。「悲観主義」の典型だと、つくづく思って付き合っている。▼夜分の早い段階から降雨。この数日は雨天や雨天模様が続くらしい。庭作業は中断か。(543)

◯2024/04/20(土)好天とはいえないまでも、薄曇りで穏やかな陽気。午後には連日の草取り。なかなか時間がかかりそうだが、最後までやるほかあるまい。予想以上に体力が失われているのが、はっきり自覚され、この先が思いやられる。少しばかりは筋肉を取り戻さねばならないだろう。卯月も二十日過ぎ、連休前には庭の草取りは終了したい。その後には、屋根や樋の掃除等が待っているし、さらにその先にはトタン屋根の張り替えか、ペンキの塗り直しもある。なかなか、先が思いやられる。▼今か今かと気をもんでいた(?)のだが、気がつけば、あちこちで「田植え」が終わっている。作業中を見逃したのは残念。この一日・二日の出来事。近辺の農家は一斉に期日を決めて田植えを進めたのだ。驚くべき、右へ習えだし、それはコメ作りのイロハの「イ」なのだろう。それにしても、機械化の効率や能率は驚嘆すべきものがあると、改めて驚いている。稲を植えている場面をまったく見なかったとは、なんと迂闊なことだったか。(542)

◯2024/04/19(金)晴れているが、風強し。昨日に続いて、筍(タケノコ)を採る。隣家のIさんからも頂く。本日は前庭の植え込みに、少しばかり頭を出していたもの。まだ何本かありそう。昨年はあまり熱心には掘り出さなかったが、今年もどうなるか。子どもたちや親戚に送りたいが、郵送代が安くないのが、困る。まだ、季節は始まったばかり。おそらく本年は「豊作」に当たっているのかも知れない。▼都知事の「学歴詐称」問題が、再燃している。「虚飾の女帝」とでも言うべき御仁だろうか。こういう女性が存在しているのだから、わからないものだ。政界遊弋術に著しく長けていると言うべきか。そんな見え透いた「虚飾の女」に手もなく載せられる(ひっかかる・捻られる)男が阿呆だと言うべきか。いずれにしても、「学歴詐称」は紛れもない事実だろう。当方が関知すべき問題ではないが、それにしても「選挙」とはなんだろうかと、改めて、「真贋」の判断もつかない選挙民が、無数に存在しているという、出発点(制度の根幹)の「脆さ」を見せつけられている気がしている。(541)

◯2024/04/18(木)駄文を書いた後、段ボール類や、先日来の植木剪定で出た枝葉を燃やす。今にも降り出しそうな天気具合。昼過ぎまで雨が降り出さない前に草取り。まるで進まないが、やれる範囲でしておきたいと思う。早朝から、隣の竹林ではタケノコ掘りが。例年のごとく、何人かがやってきては掘り出しているようだ。当方も、庭の一隅に頭を出していたのを掘り出し、夕食の材料に。▼夕刻からは小雨だったが降り出してきた。花時が終わった途端に冷たい雨が続くのも、いいような悪いような。近所の田んぼではすっかり水が張られて、いよいよ田植え目前のよう。(540)

◯2024/04/17(水)午前中は庭の草取り。なかなか捗(はかど)らないが、のんびりゆっくりとやる他ない。できれば夏前には書庫と車庫の屋根のトタンの張替えや、あるいはペンキの塗替えまではしておきたい。思うようにはいかないが、できる範囲で進めておきたい。午後から少しは雨が降った。予想よりは遥かに少量だったのは助かる。▼暗くなる前に、少しばかりのものを買うために茂原まで。例によって、牛乳や食パンなど。▼午後十一時過ぎに四国(高知と愛媛)で大きな地震があった。震度は6弱だとか。ここにも近間に伊方原発がある。「危険」を放置しているのに、政治家や関係者は誰も動こうとはしない。それにしても、台湾を含めて、あまりにも地震が続きすぎている。嫌なことだが、よほど大きな規模のものが来ないかと恐れてもいる。(539)

◯2024/04/16(火)朝、6時半にゴミ出し。昨日に続き、快晴。駄文書き殴り作業が終わったところで、前庭の雑草取り。ゆっくり進めているので、昨日のような段取りで、前庭の植え込みの半分ほどが終了。生け垣にするべく「ベニカナメモチ」がいい具合に育ってきた。残り部分も同じ木にするかどうか考えている。ヒバか何かが植えられているが、植え込みには適していないようで、すっかり植え替えたいと思う。2時間の作業がいささかきつすぎる。▼午後の四時過ぎにペットボトルとアルミ缶出しのため収集所に。月に一回(第三水曜日)、猫缶が相当に貯まるので、一回も休めないが、最近は、いくらか缶詰の消費量が減っている。それだけ、別の「ドライフード」を与えているせいもあろう。かかる費用はむしろ高くなっているかも知れない。(538)(⏩️「除草のルンバ」)

◯2024/04/15(月)昨日に続いて、前庭の植え込みの草取り。びっしりと生えていた。作業のやりがいがあるというもの。三分の一ほど草取りをして、その後は、やたらに枝が伸びてしまった「金柑(きんかん)」の枝下ろしをした。この木の剪定にはあまり詳しくはないので、時期も切り下ろす枝の塩梅も無視して、思い切り刈り込んだ。おそらく「柚子」と変わらないだろうという予想が当方にはあるから、込み入った枝や徒長枝は切り取り、背丈もほぼ同じように揃えた。果たして、この結果はどうでるか。次年度が楽しみ(いや、恐怖)。▼数日前からパソコンの調子(具合)がよくない。特に「スピーカーの音量」が勝手に低くなり、やがてミュート状態になる。どれだけ直しても、すぐに同じような状態になる。色々と試しているが、まだよくわからない。あれこれやっているうちに直ってくれるといいのだが。(537)

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女も男も大学に行くな

〈週のはじめに愚考する〉(第拾六)~  何年前になるだろうか。京都の地下鉄に乗っていて、いろいろな広告ポスターを見ていて、何大学のものだったか、記憶が消えたのは残念ですが、驚くようなポスター(記事)を見ました。おそらく、「大学はあなたのような人の来るところではない」というものだったと思う。「あなたのような」という表現内容は頭の中では消えてしまいましたが、ぼくの印象では「自分が何をしたいか分かっている方」や「他人に教えてもらいたいという根性のない人」だったような気がするのです。とにかく意表を突く、逆説的な「大学教育のすすめ」だったと思う。(当時もぼくはスマホも何も持たない人間だったので、写真には残せなかった)「何をしたいかわからない人は、是非どうぞ」、そんな大学への勧誘は今も健在です。最後部のポスターに「◯✖大学はやりたいことが見つからない学生を歓迎します」とある。なんだか、大学というのは「迷子の迷子の子猫たちゃん」の入所する隔離施設で、背筋がゾッとしてきます。ぼくも、そんな「寒冷地」に学生時代を含めて、半世紀もいたのですから、心身が深く傷ついていないはずはないね。

 ところで、この社会において女性に対して大学が「門戸を開く」のは、漸く戦後(1945年8月以降)のこと。新制大学発足の時期でした。もちろん、それ以前にも「女専」(女子専門学校=女子大と名乗ったところ)がいくつかありました。ぼくが大学に入った頃(昭和四十年代初め)、盛んに「女子大生亡国論」が喧伝されていました。それを言い出したのはW大学の近世文学研究者だったT教授。いろいろな理屈はありましたが、受けを狙った放言に変わりはなかったと思う。今や、女性がいなければ、大学は経営的にも成り立たない時代。これこそ、隔世の感というものでしょう。

 (ヘッダー写真は「言葉の力。神戸女学院大学が伝えたかったメッセージとは。」:https://hotozero.com/enjoyment/kobe-c_koho/

 ある時期から、女性の大学進学率が男性を越えたこともあった。だからどうだというのではないし、それで「大学教育」が充実したかというのでもない。ぼくは四十数年も共学大学の教員(のマネみたいなこと)をしていたので、それなりに事情はわかっているつもりでしたが、既存の大学制度における「四年間」はいずれにしても、誰にも長すぎると痛感していました。同じ授業内容を二年に短縮したほうが遥かに効果が上がるし、学生にとっても自分を知る時期が明確になるだろうという感覚を持っていた。それだけに「短大」というものを、ぼくはかなり「依怙贔屓(えこひいき)」をしていました。世間では「短大」は中途半端な、女学校。あるいは「卒業は花嫁道具」などという非難がつきまとっていた。

 ある時期、友人の短大(女性)教員に相談を受けた。もう二十年以上も昔になる。「T女子短大」は長い間、老舗(しにせ)の看板を張っていたが、この数年は募集定員が満たされないで大変な状況になっている。ついては「四年制大学」に改組したいが、いくつかの問題があり困っているから、相談に乗ってほしいということでした。経営者(渋沢某さん)に会って話を聞いたりしましたが、ぼくの意見は単純。「短大のままで」というものでした。しかし、そのときの選択は「四年制大学」だった。「学長」候補者がアメリカから来ていたので、その人とも会いました。だが、開学して数年を経ずして閉学(廃校)になった。短期大学としても由緒のある学校だったと、ぼくは惜しんだものです。「時代に我が身を合わせる」ことは大事です。でも「我が身に時代が追いつくこと」だってありうるし、大学ならなおのこと、それぐらいの気概がほしい、そんな気もしていました。

 今では、そもそも「大学」そのものが「余計なもの」「無用の長物」になっています。中身はすっかり様変わりをしてしまったと思うばかり。だから、あえて目立つような文句を言うなら、学外からの声を上げるとして「女も男も大学に行くな」だし、中からは「男も女も大学に来るな」となろう。そこは遊園地ではないし、教習所でもないのだから。自立・自力歩行の訓練所になるべき場所です。

 今なお、「女子大」を看板にしているところが何校もあります。ぼくは早い段階から「女子大」はまずい、「女性大学」、もしくは単に「大学」でいいでしょうと言っていました。世の中が「男」「女」だけで成り立っているのではないし、それぞれが分類・腑分けされているのでもないのですから、混在・混合状態は当然だと見ていました。高校段階まででも「男子校」「女子校」が、大きな顔をして居残っている社会ですね。なぜ、「共学」ではだめなのか。その理由がぼくにはわからない。

【新生面】女子大の日 「女は大学に行くな、」と大きく書かれた一文に目がくぎ付けになった。5年ほど前、大阪の電車内で見た神戸女学院大の広告だ▼文章には、続きがあった。「という時代があった。専業主婦が当然だったり。寿退社が前提だったり。時代は変わる、というけれど、いちばん変わったのは、女性を決めつけてきた重力かもしれない」。いくつもの選択肢がある人生を自由に生きていくために、学ぶことの大切さを伝えていた▼きょうは「女子大の日」。1901年の日本女子大学校(現・日本女子大)の開校日にちなんでいる。良妻賢母が理想とされた時代にも、民間には自立や地位の向上を目指す女性のための学びやがあった。NHKの朝ドラ『虎に翼』では、ヒロインたちが「魔女部」とからかわれながらも必死に法律を学んでいた▼戦後、最初に認可された新制大学は12校のうち5校が女子大だった。その後、女性の大学進学率は向上し、近年は理工系学部も「女子枠」を設けて積極的に受け入れている。以前と比べ、女性の学びの場は格段に多彩になった▼それなのに昨年の日本の男女平等度は世界125位。前回調査よりも下がった。その原因を考えていて、思い当たった。男性中心の社会に適応する女性を歓迎する空気があるのでは▼女子大では全ての場面で女性が中心にいる。その経験は、社会のおかしさに気付く機会になるかもしれない。女子大離れと言われるが、使命は今も生きている。新たな時代を願い学んだ、女性たちの思いと共に。(熊本日日新聞・2024/04/20)

 神戸女学院大の「ポスター」は早くから目にしていました。粋ですね、洒落ているな、やってるぜ、そんな感想を強く持っていたし、同大学の教員をしていた人(元同僚)にもいろいろな話を伺っていました。聞くと見るでは大違い、そんなことは世間では何処にだってあるのですから、だからこそ余計に「キャッチコピー」の「斬新さ」ばかりが浮き上がっていたのでしょうね。どのコピーも「大学には気をつけろ」と言わぬばかりの「大学解体」に通じるような思い切りのよさと、それでも「来たければ来い」という啖呵の潔さをぼくは感じました。依頼されて「女子大」に授業に出かけたこともあったが、特段の感想はありません。ものを学ぶというのは、なんとも地味な、時間を要する事柄でしたから、男と女を分けるなんて、そんなことはいうまでもない、あるいは人間・動物関係なしという想いが、ぼくにはあった。「共学」だけでは足りないくらいで、実際は「共棲」「共生」ですよ。

 数日前に次のような記事が出ていました。「100年以上の伝統を持つ早大ラグビー部に女子部が誕生し、18日に東京都内で報道陣向けの説明会が行われた。4月1日に創部され、ヘッドコーチ(HC)には7人制女子で2016年リオデジャネイロ五輪に出場した横尾千里さんが就任。同HCは『高いレベルでの文武両道を実現し、国内シリーズで優勝したい』と目標を語った。/選手4人でスタートしたが既に9人に増え、入部希望者もいるという。えんじと黒の横じまのジャージーに身を包んだ主将の千北佳英は、『伝統ある早稲田に女子の部ができるのは、女子ラグビーの裾野を広げるという意味でも大きな役割を担う』と話した。」(時事通信・2024/04/18)

 間もなく「女相撲部」もできるかも知れませんね。ぼくが担当していたゼミ生が「女子レスリング部」を作った時にも感じましたが、「男に追いつけ追い越せ」なのか、あるいは「女にだってできるんだ」という心意気なのか、ぼくにはよくわからないものがありました。何であれ、男ができるものは女もできると、どうしてそのように思わないのかという違和感がぼくにはあった。「運動」だからどうではなく(力比べをすれば、必ず男が勝つと決まっているものではないでしょう)、人間解放の一環として、男女の区別なくいろいろなことに挑むのが大事だと思う。すぐには無理だが、いずれ男女混合チームでラグビーの試合ができる時代が来るでしょう。運動だけかどうかわかりませんが、「女子」「男子」という呼ぶ方を未だに堂々と通用させている理由は何でしょうか。それを分けているのは誰なんでしょう。

 さて、「大学」のことです。いろいろな形態の大学があってもいい。高校卒の前に入れる大学があってもいい。飛び級大いに結構。録重からの大学もいい。卒業のない大学、それこそが「人生大学」、その昔、高田馬場という学生街で「人生大学」という点目のラーメン屋さんがあった。いい名前でしたね。ぼくにとっては、早い段階から、学校(大学も含めて)というのは、呑み屋でした。二十歳前後から入り浸りだったですね。

 あるいは「大学」なんか行っても行かなくてもいい。行かないからこそ、立派(?)に、社会で生きている人がたくさんいる。都知事さんなんかは、その典型(「女帝」(empress of vanity)」と呼び習わされているそうです。ただ、行ってもいないのに行ったと言うのはまずいでしょうね。何をするか、それに続いて、何をしているか、それが問われるんですね。だからといって、「卒業証書」も「卒業証明書」も公式に出されたものを持っていると言われても、眼の前の人間の「空虚」さは埋まらないのも事実ですから、要するに「大学って何なのだ」と言うんですか、という話です。「卒業した」と正式に認定されているからこそ、なおさらいかがわしいんですね。

 明治以前にはこの社会には「大学」はおろか、義務制の学校などは一校もなかったんですよ。更に言うと、この社会の至る所でたくさんの問題が生み出され、社会の仕組みそのものが崩壊の寸前にある、その殆どは大学卒業した人間たちによって引き起こされてきたという事実に、ぼくたちは驚いてもいいのです。ことに政治や経済の分野での大学卒歴々の、目に余る「活躍ぶり・悪辣(あくらつ)具合」には打つ手がないのではないでしょうか。

 大学に限らず、「学歴」が幅を利かせる社会は、けっして上質な社会ではないことだけは確か。ぼくは人並みに大学に入ったが、いまでは、それを深く後悔している。そんな悪処に行かなければ、もっと仕事の可能性が拓けていた、あるいは今少しはまともな人間になれたと思うからです。ぼくの敬愛する岡部伊都子さんという人(右上写真)は「学歴はないけれど病歴はたくさんある」、また「私は大学に行かなかったから、たくさん(深く)ものを考えられるようになった」と何度も言われたことがあった。悔し紛れに「ぼくは行ったけれど、ものを考えらることができています」と返しました。岡部さんの「科白(せりふ)」(指摘)は図星でしたね。

 ◯参考 今春の大学進学率、過去最高の57・7%…文科省「支援制度で経済的な理由で諦める生徒が減少」 今春の大学進学率は57・7%で、過去最高となったことが20日、文部科学省が発表した2023年度の学校基本調査(確定値)でわかった。前年度比1・1ポイント増で、8年連続で過去最高を更新した。/短大や専門学校なども含めた「高等教育機関」への進学率は84・0%。前年度より0・2ポイント増え、こちらも過去最高となった。/文科省担当者は「就学支援制度の周知が進み、経済的理由で高等教育機関への進学を諦める生徒が減少したためでは」とみている。(読売新聞・2023/12/20 22:00)

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 「女は大学に行くな、」の衝撃  2018年4月、神戸女学院大学が出した交通広告が話題をさらった。同大学のスクールカラー「濃青色」に白一色の文字が潔い電車のドア横広告。「女は大学に行くな、」という衝撃的なコピーに引き付けられて最後まで読むと、4月の入学シーズンにふさわしい、大学生を励ます熱いメッセージだということがわかる。/「女は大学に行くな」なんて言われた時代に比べ、今は、自由に学び進路を選択できる。正解がない時代だから迷いも葛藤もあるだろうが、学ぶ自由の幸福を、忘れないで大切にしてほしい。シンプルなデザインだけに、言葉の力がダイレクトに伝わってくる。/これを見た人たちが、SNSで「泣きそうになった」「グッときた」「かっこいい広告」などと感想を寄せ、一気に拡散した。この広告を担当した学長室課長・樽本裕見子さんと学長室広報・松本崇さんは、「インターネットニュース、新聞、そしてテレビと取材に来られ、SNSの拡散力をまざまざと見せつけられた思い」と語る。だが、そもそもは、この広告は出す予定ではなかったという。(以下略)(https://hotozero.com/enjoyment/kobe-c_koho/

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一塵に法界あり、なお逍遥法外の境

 めったにないことですけれど、ここ二回(4月12日、19日)ばかり、都知事の会見なるものを観てしまった。魔が差したと言うべきか。なにか感想があるかと問われれば、あるはずもないというばかりです。記者会見とは言うものの、「チーム・トチョー」と称すべき、表向きは「和気藹々(わきあいあ)」の、実態はどうしようもない退廃の雰囲気が漂っていた。「お伺いします」「ありがとうございました」という、記者たちの、ある種の「下僕根性」ばかりが目に付くものでした。壇上にて睥睨(へいげい)しているのは「女帝」、しかも「虚飾の女帝(empress of vanity)」です。その威光を慮って、壇下に畏(かしこ)まっていた「召使いたち」はまともに自由な発言すら口にできないという自縄状態にあったのはなぜか。

 それぞれが「社命」を受けていて、「知事閣下」の顰蹙(ひんしゅく)を買わないようにという過剰な自己(自社)規制があったとしか思えない。相手は名うての「虚言女王」「虚飾知事」です。この異様な「会見(もどき)」を見ていて、またもや、都庁は「伏魔殿」だと痛感したのでした。「見かけとは裏腹に、かげでは陰謀・悪事などが絶えず企 (たくら) まれている所」(デジタル大辞泉)何十年かかけて、ついに「伏魔殿」の再建はなったというべきでしょう。(※都議選はなぜ7月?:東京新聞・2021年6月29日:https://www.tokyo-np.co.jp/article/113379

 (ヘッダー写真は「希望の党結党会見」毎日新聞・2017/9/27) ~ 誰だって判断を誤ることがある、証明写真に映る面々です)

 「記者会見」まがいの、この殺風景は何処かで見たような気がしました。総理大臣や官房長官などの「会見」がそうだった。一社一人一問、質問事項は事前提出、「更(さら)問い」厳禁等々、ここでも、記者たちは自縄自縛に嬉々として身を落としている。まるで「S&M の世界」(よくは知らないが)。この国の学校の教室では、「出された問い」に「正解は一つ」という神話(嘘話・絵空事)があります。そして、「教師だけが正解を知っている(それは嘘なんだが)」とも。政治の場面における景色はそれと相似・瓜二つ。「先生と生徒」という関係までが会見場でできあがっているのです。

 「教えて下さい」「質問させていただきます」「ご答弁ありがとうございました」という受け答え(にすらなっていない)は、ソックリそのまま「教室」の延長だといって間違いない。一年一組、小池クラス。会見場に陣取っていた記者諸君は、いずれ「学校優等生」だったと断言できる。要するに、教師に「丸」をもらいたがる、自主性もなく、記者魂もなく、精神の美しさもない面々だった、と。ぼくは、この社会に現下の惨状をもたらしている、ほとんどの要因は「学校教育」の責めに帰するといい続けてきました。その「責任」の一端は自分のもあることは篤と感じているのです。

 「真実を証明できるのは卒業証書」小池百合子都知事、学歴疑惑を改めて否定 定例会見で 東京都の小池百合子知事は19日の定例記者会見で、自身のカイロ大卒の学歴に対して元側近が詐称の可能性を指摘していることに「認識、前提が違っている。真実を証明できるのはカイロ大が発行している卒業証書や証明書で、記者会見などでも公表し説明している」と強調した。 問題を追及しているのは、カイロ大卒業を認める同大学長名の2020(令和2)年の声明文を巡り、月刊誌「文芸春秋」に告発記事を掲載した小池氏の元側近で都民ファーストの会元事務総長の小島敏郎氏(75)。 小島氏は、声明文作成に小池氏側が関与した可能性が高いと主張。卒業に疑義が出ているとして、小池氏がカイロ大卒と明記して都知事選などに出馬した際には、公職選挙法違反の罪で刑事告発することを示唆している。 小池氏は会見で、過去にも同様の指摘が繰り返されてきたとして「(指摘が)いつも選挙前だ」との認識を示した。その上で、卒業生として依頼され、カイロ大在校生に講演を行ったことに触れつつ、大学側から声明が出たことについて「カイロ大は(指摘が)何度も起こっていることを存じ上げておられる。対応がなされるのは当然のことだ」とした。(産經新聞・2024/04/19)

 知事が「学歴詐称」をしてきたかどうか、それはすでに明白な事実です。たくさんの人が挙証しているのですから、事件の顛末は終わっているとも言えます。黒・白は決着済みでしょう。もちろん、警察や検察が動かない以上は「犯罪・事件」にはならない。だから知事は「無実」ではなく「無罪」と頰かむりを決め込んでいるのだ。そして、事もなく、その通りになっている。ジャニーズ性加害事件は四十年にわたり隠蔽されてきました。公然の秘密でありながら、その犯罪事実は社会的に抹殺されてきたのです。関係者は「見て見ぬふり」。わざわざ、みすみす、自分の損や害になることなどに口を出すものか。

 知事の学歴詐称問題も事情は同じだと、ぼくは思っている。素人が見るだけでもわかりそうな、明らかな事実が隠され、虚言がまかり通っているのです。「見て見ぬふり(close one’s eyes to)」、都知事はそこに付け込んでいる。言い出しっぺにはなりたくなという、関係当事者の「竦(すく)み状態」に、です。

 半世紀以上も前に、ぼくは「ディプロマ‐ミル(diploma mill・degree mill)」という言葉を知りました。あるいは「学歴工場」という語も。もちろん、出どころはアメリカ。「《卒業証書製造工場の意》大学などの教育機関を自称し、学位や称号を売る団体。このような行為を学位商法という。ディグリーミル」(デジタル大辞泉)ぼくのよく知っている国語学者が「博士号」を三十万円だったかで購入したという事実が、「学位買い取り」数年後に発覚したことを、同じ職場にいて知っています。その他にも、いくつかの事例をぼくは見聞もしている。

 何も「学位工場」は外国にばかりあるのではありません。これはつまらないぼくの経験です。先輩から、「君の著書を博士論文として認める」から、学位申請をしてくれと何度か頼まれました。大学院の授業担当には博士号が必要とされていたからでした。もちろん、ぼくは言下に断った。「肩書無用」は親の遺言だとも言いました。こんな禍々(まがまが)しいことは至るところで罷(まか)り通っているんですね。「蛇(じゃ)の道は蛇(へび)」っていうんですか?ぼくに話を持ってきてくれた先輩は「文学博士」でした。(本邦大学における「学位詐称」「不正取得」に関しては文科省も、時には調査をしている。驚くなかれ、怪しいのは結構いますよ)

 都知事の「卒業証明書」「卒業証書」は、現に「物(ぶつ)」は存在している。だが、それで一件落着といかないのはなぜか。「学歴ミル」問題がそこにあるのだろうし、仮に当の大学自体が「卒業証書製造工場」だったとしたら、就学実態は皆無だから、それは「学歴詐称」に当たりませんかと、都知事は問われている。経歴の重要な部分に「虚偽」や「詐称」が混在していると多くの人によって論(あげつら)われているにも関わらず、都知事は驚異的な「鷹揚精神」を発揮されているのかどうか知りませんが、「名誉毀損」などという言辞を一切弄されないのは、人間ができているというのか、金持ち喧嘩せずというべきか。あるいは「藪(やぶ)蛇」を避けているのか。

 「真実を証明できるのはカイロ大が発行している『卒業証書や証明書』」と知事は繰り返される。確かに、…。しかし、その証明書類が疑われているのも事実です。事実は一つ。在学して学んだかどうかは問われないでも「卒業証書」があるのだという、世の中の常識が通用しない話なら、それは別の問題を生み出していませんか。

 ぼくも、世人の尻馬に乗って「無責任」な行為を侵しているのですが、「学歴詐称」の有無、「在学実態」の有無を言いたいのではありません。きわめて単純なことです。何十年にもわたって、都知事はあらぬ「嫌疑」を掛けられ、著しく「名誉毀損」をされ、許されない「人権侵害」をされていると思われるものですから、そのような「無礼千万」「違法行為」に対して、都知事には一言も二言も、あってしかるべしと、ぼくは思うものです。法的措置が取られないのは、何としたことか。自尊心の強い、プライドの高い都知事とお見受けしていましたから、なおのこと、この対応の異常さに驚くばかりだし、就いておられる「公職」そのものに、さまざまな「不都合」が生じてくる・いるのではないでしょうか。「国益を損なっている」とまで批判されている。

 「人の噓は我が嘘」ともいいます。よく考えもしないで、他人の言葉に載せられてはいけない、他人の言が「嘘」なら、自分も嘘つきになるぞという戒めです。だから、もう繰り返しません。卒業証書などはある、でも本当に卒業したんですか、就学の実態はあるのでしょうか、それが問われているのではないですか、「都知事閣下!」。

 蛇足:「一塵法界」、「逍遥法外」という。いかなる小さな塵(微塵)にも、きっと「宇宙」(真理か)はある。ヘッダー写真の面々を見ると痛感します、迂闊なことはできないが、それをするのが人間。人間とは「弱い」ものだなあと、嘆息するばかり。また、どこかには、いわゆる「塀」の外を自由自在に歩き回る人間もいる。「法外」とは「違法の世界」、「法」とは「dharma(ダルマ)」、「仏法」「真理」を指す。それもしかし、やがて終わることは間違いのないところですがね。(⏩️は府中刑務所の高塀)

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何度でも、「備えあれど憂いあり」と

 劣島のいたるところで地震が発生し続けています。加えて、台湾東部にも、先般大きな地震が発生しました。この劣島が載っている岩盤そのものが、方々で歪みやズレを起こしているということでしょう。そして、その次は「南海トラフ」だ「首都直下型」だと、嫌でも連想が走るのです。その昔、「地震・雷・火事・親父」と、できれば遭遇したくない「自然災害」のワーストフォーが多くの人々の口の端に上りました。近年、そのうちの一つである「親父」は絶滅したのか、ほとんどその被害の大きさが、ぼくの耳には届かなくなった。(それは、君だけに聞こえない話で、今なおその災厄に苦しんでいる親族はたくさんいるとされる)

 それでも、火事と親父から受ける災害・難儀は、なんとか防ぎようがありそうです。しかし、「地震・雷」は、今のところいかんともしがたい。就中(なかんずく)、地震は手に負えません。その襲来・奇襲に遭遇して可能な限りで被害を最小にすることだけが、唯一の防御策なのでしょう。その昔、だれ(寺田寅彦?)がいったか「天災は忘れたころにやってくる」と呑気な話ではあったが、今日(きょうび)は「忘れる間もなく、災害は襲来する」のだ。集中豪雨や台風も、その列に並んでいる。純粋に「天災」「自然災害」というものは存在しない。どこに起ころうと、そこに人間が存在していれば、それがすなわち「災害」というのでしょう。人間の住んでいない環境や地域に、どんなに激しい「地震」が起ころうとも、「これは地震だ」と言うもの(存在)がいなければ、それは単なる自然現象として扱うだけのこと。

 (ヘッダー写真は東京新聞・2022/12/18)(https://www.chunichi.co.jp/article_photo/list?article_id=602864&pid=2962118

 今般の四国に生じた地震の中心となったのは、愛媛と高知でした。愛媛では愛南町、高知では特に宿毛が激しく揺れたとされます。何年も前に宿毛に出かけたことがあります。土佐は親父の生まれたところ。彼は何年経っても「土佐弁」が抜けなかった。また大酒飲みの「いごっそう(頑固者)」で、ほとほとぼくは感心したものです。高校を卒業してすぐに家を出たので、その「いごっそう」とはあまりぶつからなかったが、地震や雷と並んで恐れられたという、その凄さ(怖さ・強さというべきか)がわかりそうでわからずじまいでした。

 それはともかく、今日の地震研究の領域では、予測はきわめて困難であることは知られています。したがって、昔も今も、来たるべき地震の発生に対しては、自己防衛という手段しか残されていないのです。本年元日の能登半島地震の発生とその後の経過を見ていると、能登のある地域には「復旧」も「復興」も存在しないことが明らかになりつつあります。人口過密都市では災厄は想像を絶しますし、過疎地ではほとんど災害の程度の如何にかかわらず、その「実相」は政治行政からは歯牙にもかけられないのです。奥能登方面の現状は、震災発生直後と殆ど変わらない、まったくの手つかず状態が続いています。いわゆる「復旧」「復興」には値しない地域とみなされているとしか思われない惨憺たる現実がさらけ出されています。これこそ「棄民政策」だと言うべきではないでしょうか。おそらく、今日の政治のボンクラどもは、首都圏(就中、東京圏)だけが(日本国)であって、その外側は、「蛮族」「劣民」の居住する地域だと見做している風があからさまです。

 劣島住民がどれほど悲惨な状況に置かれようと、政治や行政は、それこそ「見て見ぬふり」をするのでしょう。その態度は目に見えている。まず「自助」からという。その言わんとするところは「泣くも笑うも、本人次第」というわけです。「自助」ができないものには「共助」も「公助」もあるはずもないのだと言っているに等しい。ここまで来て、民衆(国民)とは、ひたすら「税金」を滞りなく「収める」収納機でしかないということに気がつく。一例は、東日本大震災後の政治・行政の姿勢・方向を見れば一目瞭然とするでしょう。「原発問題」に関しては言うまでもなく、たった一度の事故でどんなに被害者が出ようとが、「原発再稼働」はもちろん、「新増設」まで言い出していることを見れば、身の毛も弥立(よだ)つほどですよ。

 いつ何時、大地震が発生するかわからないから、そのときは「自分の命は自分で守れ」という基本方針はいささかも変わっていない。国民の不幸は目に見えているにも関わらず、政治や行政は「国民の災厄・被災? なにそれ」と、あくまでも「何処吹く風」とばかりに、国民の身の安全にはいささかの関心も払おうとはしないのです。かかる「粉飾政治」と「愚劣政治家」こそが、ぼくたちの災厄・かつ不幸の真因・元凶だと、多くの人民は気がついているでしょうか。こちら側も、政治家に負けじと「何処吹く風」なんですかあ。

 *南海トラフ地震とは 駿河湾から遠州灘、熊野灘、紀伊半島の南側の海域及び土佐湾を経て日向灘沖までのフィリピン海プレート及びユーラシアプレートが接する海底の溝状の地形を形成する区域を「南海トラフ」といいます。/この南海トラフ沿いのプレート境界では、①海側のプレート(フィリピン海プレート)が陸側のプレート(ユーラシアプレート)の下に1年あたり数cmの速度で沈み込んでいます。②その際、プレートの境界が強く固着して、陸側のプレートが地下に引きずり込まれ、ひずみが蓄積されます。③陸側のプレートが引きずり込みに耐えられなくなり、限界に達して跳ね上がることで発生する地震が「南海トラフ地震」です。①→②→③の状態が繰り返されるため、南海トラフ地震は繰り返し発生します。/南海トラフ地震の過去事例を見てみると、その発生過程に多様性があることがわかります。宝永地震(1707年)のように駿河湾から四国沖の広い領域で同時に地震が発生したり、マグニチュード8クラスの大規模地震が隣接する領域で時間差をおいて発生したりしています。さらに、隣接する領域で地震が続発した事例では、安政東海地震(1854年)の際には、その32時間後に安政南海地震(1854年)が発生し、昭和東南海地震(1944年)の際には、2年後に昭和南海地震(1946年)が発生するなど、その時間差にも幅があることが知られています。/南海トラフ地震は、概ね100~150年間隔で繰り返し発生しており、前回の南海トラフ地震(昭和東南海地震(1944年)及び昭和南海地震(1946年))が発生してから70年以上が経過した現在では、次の南海トラフ地震発生の切迫性が高まってきています。(気象庁・https://www.data.jma.go.jp/eqev/data/nteq/nteq.html

【小社会】震度以上の「揺れ」 土佐民話継承の第一人者で、昨年亡くなった市原麟一郎さんは、昭和南海地震の体験談も精力的に収集している。総勢108人から聞いた記録を1981年、「裂けた大地」の題名で出版した。◯その中のいくつかは揺れに動揺する様子を詳細に描く。「大丈夫だと高をくくっていたが(中略)だんだん強くなって、こりゃあいかんと…」。楽観から焦り、混乱へ。個々の生々しい話こそが統計以上の教訓になる。◯おととい夜の豊後水道を震源とする地震。最大震度6弱だった県西部はもちろん、それ以外の地域でも観測震度以上に動揺した人が多かったのではないか。◯なにせ高知には、南海トラフというリスクがある。人は過酷な状況に陥った時だけでなく、そうなる恐れを感じた時のストレスも大きいものだ。筆者の場合は「ミシミシ」と家がきしむ中、今にも大きな揺れが来そうで気が気でなかった。◯思えば高知は、長く大きな揺れに遭っていなかった。四国で6弱を観測したのは現在の震度階級になった96年以来初めてという。いかに「わが事」として捉えられるかが重要な防災活動にあって、これはありがたいけれど悩ましい現実でもある。この地震で県民意識はどう変わるだろう。◯「地震や津波の証言も現代の民話なんです」。市原さんが体験談集めに動いたのも、自らが昭和南海を経験した危機感からだった。ミシミシというあの不快な音を、教訓として心に刻む。(高知新聞・2024/04/19)

 宿毛市で震度6弱 M6・4 震源は豊後水道 伊方原発異常なし 17日午後11時14分ごろ、愛媛、高知両県で震度6弱の地震があった。宿毛市で震度6弱、土佐清水市や四万十市などで震度4を観測した。気象庁によると、震源地は豊後水道で、震源の深さは約50キロ。地震の規模はマグニチュード(M)6・4と推定される。津波はなかった。高知県内で震度6弱が観測されたのは初めて。/高知県は、17日午後11時45分現在、負傷者や建物の倒壊に関する情報は入っていないとしている。原子力規制庁によると、愛媛県にある四国電力伊方原発に異常は確認されていない。九州電力によると、鹿児島県の川内原発も異常は確認されていない。/岸田文雄首相は、地方自治体と緊密に連携し、政府一体となって被災者の救命救助など災害応急対策に全力で取り組むよう指示した。林芳正官房長官と松村祥史防災担当相は17日、首相官邸に入った。政府は首相官邸の危機管理センターに官邸対策室を設置した。(以下略)(高知新聞・2024/04/18)

能登半島地震のニュース・生活情報:北陸中日新聞Web

 何度でも、繰り返して言っておく、「備えあれど憂いあり」と。そして「天災は忘れる間もなく、常に起こるのだ」とも。「常在被災状況」いつだって、誰だって、大小問わずに災厄・災難を被っているのです。起こるのは自然災害ばかりではない、人災だって、その規模かつ頻度たるや、もはや度し難いほど、というほかないのです。この国や社会は、「無責任」という病魔に冒され、重篤な状態に喘(あえ)いでいる。「息絶え絶え」というのは、このぼくたちの事態を正直に言い表しているのです。

 (⏫️写真は中日新聞:https://www.chunichi.co.jp/hokuriku/k_news/r6_noto_jishin

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すさまじき孤独や象の花吹雪

「搗屋幸兵衛」の「搗屋」は「米搗き屋」「精米屋」のこと。玄米を白米にする作業、それを仕事にする人。幸兵衛さんの働きぶりは並大抵のものではなく、昼に夜に精を出して商売を盛んにしてきた。人に勧められ結婚。幸せもつかの間、あっという間に嫁は病死した。間もなく二度目の嫁(亡くなった妻の妹だったか)をもらったが、これもどういうわけだか、すぐに亡くなった。なぜだろうと、問い続けていたら、…。一念発起、やがて何軒かの「貸家」のオーナーになり、貸家業を営むまでになった。そんな苦労人の生き方を、噺家の話芸で聴いていて、ぼくは志ん生という落語家が心底分かったとは言わないが、彼の語りの根っこに貧乏や苦労が蓄積されてきたことを思わされたことだった。この演題は、なかなかの人生模様が描かれていて、ぼくの好きな話の一つでした。(内容には触れない)

【筆洗】落語の「搗屋幸兵衛(つきやこうべえ)」に幸兵衛さんが若い時の苦労を振り返る場面がある。荒物屋を始めたばかりのころ、近所の源兵衛さんからおかみさんをそろそろ持てばと勧められる。幸兵衛さん、独りでも食べていくのが精いっぱいだと断るが、源兵衛さんが説得する。「大丈夫だ。昔から『一人口は食えないが、二人口なら食える』っていうじゃないか」▼独り暮らしは何かと無駄が多く不経済だが、しっかりした相手がいれば家計を見張るので生活はかえって楽になる。そんな意味だろう▼あくまでも大昔のたとえだが、26年後の「一人口」が心配になる。国立社会保障・人口問題研究所の推計によると2050年の全世帯に占める単独世帯の割合は約44%。そのうちのおよそ半分が高齢者だそうだ▼1世帯当たりの人数は9年後の33年に2人を割り込み、1・99人となる。「家族」は少子化という荒波に長年削られ続け、ついに家庭でにらめっこさえままならぬ時代となるのか▼「一人口は」のたとえは家計の話だろうが、生きる張り合いや家族の支えのことも言っているのかもしれぬ。会話、笑い、だんらんをなくした高齢の「一人口」の心を誰がほぐし、支えとなるのか▼遠くない未来を想像して尾崎放哉(ほうさい)の<咳(せき)をしても一人>が浮かんだ。<鴉啼(からすな)いてわたしも一人>は種田山頭火(さんとうか)。孤独な放浪俳人2人に似た句のあることが寂しい。(東京新聞・2024/04/17)

 少子高齢化問題が、この社会のあらゆる方面における前途に暗い影というべきか、暗雲垂れ込めるような重い気分をもたらせています。たしかに、これまでの右肩上がりの社会情勢がいたるところで右肩下がりに転じて久しいのですから、呑気に構えてもいられないということなのでしょう。しかしここで、ぼくは長考一番。少子化は、あるいは高齢化はいいか悪いかという判断を、どういう立場でするか、それこそが問題ではないかと。高齢化も少子化も誰の責任でもなく、時代や社会の趨勢だという面もありますから、一概にその是非善悪を断言はできないのではないか。ところが、これまでの世論の傾向を見ていると、少子高齢化は無条件に「悪い状態」「悲観すべき傾向」と論じられすぎているように思われます。

 あまり大上段に構えてことを論評するのではない。もちろん、少子高齢化は歓迎すべきだともいうのではない。時代や社会の趨勢であり、個々人の選択の結果でもあるのだから、それを政治や経済の観点からばかり議論するのはどうですかというのです。もちろん、子どもの数が減り、高齢者の数が増加するという現象は、これまでの「人口・経済の拡大路線」を基調にした社会システムや福祉制度などの観点からすれば問題なしとはしないでしょう。だから高齢者は「集団自決」で、少子化対策は金を配ってでも「子どもを産ませ施策」を採用すべきだというのは、いかにも乱暴に過ぎるし、政治行政の無為・無策だと言うほかありません。例えば、少子化に伴い、各地で学校の統廃合が盛んに行われている(あるいは(市町村合併」も含める)。一面では当然でもあるし、その施策はたしかに間違いではないでしょうが、クラスサイズが小さくなることは(金はかかるが)、教育の質の向上という面では推奨されるべきではないか。経済合理性(経済効果や効率性)とかいう感情だけで、教育の有効性を図ることは短絡的です。

 少子化や高齢化の一因となっているのは「都市化」であり、一極集中という人口密集状態の誘導政策にあったとは、今となれば明らかです。だから都市からの離脱、地方都市への分散移住をこそ、積極的に採用すべき時期があったことを忘れたくはないのです。今からでも遅くないと言えるかどうかは大いに怪しいが、それでも都市への人口集中を避けることはいろいろな意味で、この社会の「生活」程度・水準の成熟には必要な措置だと考えられるます。一例ですが、都市への人口集中は、およそ全人口の七割とか八割とされています。その反面では「限界自治体」「限界市町村」「限界集落」の大量の露出・露見です。ここにこそ、ぼくたちは政治の不在、政治家の無能さ加減を指摘すべきでしょう。「大きいことはいいことだ」というには程というものがあるのです。 

 「筆洗」氏が出している尾崎放哉と種田山頭火の二人の俳人。その山頭火には多くの人が知っているであろう一句があります。「分け入っても分け入っても青い山 」この句の表現するところは、ほとんどが「道なき道を分け入って、どんどん進んでも青い山ははてしなく続いている。」となっている。表面を見れば、そうなのかも知れないと想います。でも、もしそうであるなら、なんともつまらない句を作ったともぼくには見えてきます。「道なき道」といわれるが、それは獣道(けものみち)でしょうか。人跡未踏の山道を「分け入っても分け入っても」、依然として「青い山」は続いていると、その山の深さに山頭火は感動したというのでしょうか。つまらないことに感動するものだと、ぼくはいいたい。この句のいのち(核)はそんなところにはないのです。この点については別のところで卑見を述べておきました。(参考 俳句の教科書https://haiku-textbook.com/wakeittemo/)(表題句は加藤楸邨作)

 「青い山」とは? 「青山(せいざん)」とも読む。この句の示すのはこちらの意だと思う。「① 樹木などが生い茂って青々としている山。青嶂(せいしょう)。青峰」「② 骨を埋める土地。墳墓の地」(精選版日本国語大辞典)「 樹木が青々と茂っている山。 《蘇軾「授獄卒梁成以遺子由」の一節「青山に骨を埋むべし」から》人が死んで骨を埋める土地。墳墓の地。死に場所。「人間いたる所青山あり*」(デジタル大辞泉)「青い山」「青山」とは、ここでいう「墓地」「死に場所」だというのです。山頭火(⏪️写真)は、浮世の交際にほとほと疲れ、家を捨てて旅に出る。四十四歳だった。熊本から宮崎への山中にあって、この句を詠んだとされます。詳しいことは避けますけれど、出家遁世を謀ったが、完全に世の中が捨てられなかった。放浪漂白の当時にあって、いつでも心を寄せ、身を預けることができる知友がいたのでした。だから、彼は安心して「放浪」できた。

*「人間いたる所青山あり」(僧げっしょうの詩「まさに東遊せんとして壁に題す」)「人間」とは「じんかん」で、「世の中」あるいは「社会(世界)」とする。号は清狂。幕末の志士の一人。「この世には、どこにだって骨を埋める場所はある」、大いに勇躍し、世界を股に活動すべきと言った趣。「青山(せいざん)」は、どこにもある、山中深くにあっても、だ。そんな「墓所」に山頭火は、奥深い山の中で出逢い、大きに感激したのだろうか。そう言えば、彼にもまた「青雲の志」があったのだ。彼は「都の西北」に学び、大隈重信とも邂逅してる。病に侵され、心なくも帰山(帰郷)したのでした。

 山頭火の心持ちは、「道なき道を分け入って、どんどん進んでも青い山ははてしなく続いている。」というのではなく、どんなに深い山の中にも、人間が存在していた証(墓所)があること、見知らぬ「人生」との遭遇に山頭火は感動したのだとぼくは思っている。世の中を捨てるのではなく、捨て切れないところに山頭火の「自由律句」が育ったといいたい。事情は尾崎放哉(⏩️写真)も同じ。誰とも繋がらないで、ぼくたちは世の中で生きることは出来ない。その当たり前の現実は、この二人の「放浪の俳人」の作品が示しているのではないでしょうか。「咳(せき)をしても一人」と詠み残そうとしたのは、放哉の人恋しさです。あるいは母親を思っていたかも知れない。一面では、心身ともに合わせて「韜晦の人」と呼びたくなるような放哉居士は、それだけ「世の中に受け入れられたかった」のは事実だったとしても、最後は、韜晦そのままの態度で、しかし小豆島の居宅だった南郷庵の隣人、漁師夫妻に己の身を安心して預けることが出来たのでした。

 コラム氏は感傷過多の人なのでしょうか。誰だって「独りで生まれ」「独りで死に」逝く。これが現実です。ぼくの読み方が間違っているかも知れないけれど、山頭火にしても放哉にしても、自分を受け入れてくれる「知友」「身寄り」の存在を肯定しています。有名無名を問わず、自らの窮状や苦悩ぶりを受け止める存在があることを疑わなかったから、稀有な句作を遺言としても後世に託したのですよ。真実、孤独に苛まれていたら、俳句を読むという「芸当( performance)」などしたでしょうか。

 「逢うが別れの始め」と言い、「袖すり合うも他生の縁」とも言います。血縁、地縁はもとより、学縁、社縁も含めて、この世に生きるとは、誰彼となく交わりつつ生きることを指します。「『家族』は少子化という荒波に長年削られ続け、ついに家庭でにらめっこさえままならぬ時代となるのか▼『一人口は』のたとえは家計の話だろうが、生きる張り合いや家族の支えのことも言っているのかもしれぬ。会話、笑い、だんらんをなくした高齢の『一人口』の心を誰がほぐし、支えとなるのか」という指摘(杞憂)はそのとおりでしょう。ぼくには否定できない。だが、生まれたら死ぬ、それもたった独りで、という運命もまた、だれにも避けられないのも事実です。でも、考えるまでもなく、犬や猫とだって、あるいは一茶のように「雀の子」とだって「にらめっこ」はできるんです。

 都会のど真ん中で「孤独」「孤愁」を託(かこ)つのではなく、それこそ「青い山(死に場所)」はいたるところにあることを忘れなければ、狐狸とともに生きることだって厭わなくなるのではないでしょうか。いずれ、あまり遠くない時期に、ぼくはそうなるような気がしています。今はその途上にあります。(⏩️写真は荻原井泉水)

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● たねだ‐さんとうか【種田山頭火】= 俳人。本名正一。山口県出身。早稲田大学中退。荻原井泉水に師事。のち出家し、主に西日本に行乞(ぎょうこつ)生活を送りながら生命を自然にゆだねる独特の自由律俳句を作った。句集に「草木塔」。明治一五~昭和一五年(一八八二‐一九四〇)(精選版日本国語大辞典)

● おざき‐ほうさい【尾崎放哉】= 俳人。鳥取生まれ。本名秀雄。東京帝国大学法科卒。荻原井泉水に師事。自由律俳句に独自の句境を生む。句集「大空(たいくう)」がある。明治一八~大正一五年(一八八五‐一九二六)(精選版日本国語大辞典)

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出したい人より、出したくない人を

【日報抄」自分から進んで選挙に立候補するのはおこがましいと尻込みした。地域の有力者に難色を示された。立候補すれば注目されるため家族や親族に反対された-。思い当たる方もいるだろうか▼暮らしに身近な存在であるはずの地方議会で、議員のなり手不足が大きな課題になっている。全国町村議会議長会の検討会が先ごろまとめた報告書は、この問題の背景に先述のような心理や事情があると指摘している▼報告書によると、民間企業の定年引き上げで、リタイア後に議員を引き受ける気力や体力が残っていないケースもある。選挙戦で地域が分断されるのを防ぐためとして、あえて無投票になるよう立候補者を調整することもある▼首長や役所の仕事をチェックし、住民の声を施政に反映させる。議会のこうした役割が大切なのは言うまでもない。ただ現実には、選挙に出るとなれば大きな壁を乗り越えなければならない▼上越、村上の市議選と阿賀野市議補選は選挙戦が展開されている。佐渡では新市議の顔ぶれが決まった。いずれも定員割れや無投票にはならなかった。壁を乗り越え、立候補にこぎ着けた人もいるのだろう。一方で、壁を前に断念した人がいたかもしれない▼議会が住民の声を反映していないと指摘されることがある。それは、有権者が地域の実情に即した顔ぶれを議会に送り出せていないことを意味する。住民本位の自治を実現するには、出馬の壁をなくしていく必要もあるだろう。問われるのは私たち有権者である。(新潟新聞・2024/04/17)

 (ヘッダー写真は「江東人情新聞」:https://note.com/ninzyo_shinbun/n/n8c103fc6068d)

 「出たい人より、出したい人を」という選挙標語がかつてありました。今でもある、かも。どなたがいい出したのか、いろいろと意見がありそうです。でも確かなのは婦人参政権運動に生涯を費やした「普選獲得運動の市川房枝」さんを忘れるわけには行かないでしょう。戦時中は大政翼賛会で、戦後は一貫して「婦人運動」に尽力した人。長く参議院議員を努めたが、この間に「出たい人より出したい人を」というモットーを文字通りに実践した人として知られた。今なお、この標語が生きているのかどうか、ぼくには大きな疑問が湧きます。「出たい人」は掃いて捨てるほどいるのはいうまでもなく、各種選挙はろくでもない人物の「自分自慢学芸会」になり下がっているし、ある時期から、ある政党が初めた「公募制」なる候補者選びが、この悪習に輪をかけてしまったのです。おそらく、今日の政治腐敗や政治家堕落は「公募制」、つまりは「出たい人探し」「でしゃばり求む」の正当な結果だと断言していいでしょう。

● 市川房枝(いちかわふさえ)(1893―1981)= 政治家、社会運動家。明治26年5月15日愛知県に生まれる。愛知女子師範学校卒業後、小学校教員、新聞記者を経歴。1918年(大正7)上京、1919年友愛会婦人部に入り、婦人労働者大会で活躍。1920年平塚らいてうらと新婦人協会を設立した。1921年渡米しアメリカの女性問題、労働問題を研究。1924年帰国してILO(国際労働機関)東京支局に4年間勤務。また同年婦人参政権獲得期成同盟会(1925年婦選獲得同盟と改称)を結成、1940年(昭和15)の解散までこの運動に取り組んだ。この間、市政浄化運動、選挙粛正運動などにも力を入れた。第二次世界大戦期には女性運動のリーダーとして国民精神総動員運動、大政翼賛会の活動に従事した。戦後、新日本婦人同盟(1950年日本婦人有権者同盟と改称)を組織、一時公職追放にあったが、解除後1950年(昭和25)会長となった。1953年参議院選挙に無所属で出馬し当選。以後1959年、1965年と連続当選、1962年には第二院クラブを結成。1971年落選したが、1974年(全国区第2位)、1980年(全国区第1位)当選。この間、理想選挙、政治浄化の先頭にたって活躍。「実践一路」の人であった。昭和56年2月11日死去。(ニッポニカ)

 だから、ある時期からぼくは投票の基準として、あえて「出したい人より、出したくない人を(見極めろ)」と、いい続けているのです。国会議員も地方議員も、基本は同じで、自分を売り込みたい人たちが出たがる。「でしゃばり」「目立ちたがり」「金の亡者」「権力志向輩」「勲章組」等々、それほど多くはなかったが、政治家と自称した人たちを身近に見てきました。それが結論となるかはわからないが、その狭い経験から、選挙に「出たい人」「当選したい人」のほとんどは、政治そのものに興味があるのではなく、いろいろと小賢しい、あるいは醜悪な目標のために「自己拡張運動」に奔走すると思えてきました。いうまでもなく、「誠実に政治の道」を歩く人も、きわめて少数ながら、いることはいる。しかし、「大河の一滴」「多勢に無勢」「悪貨は良貨を駆逐する」というばかりで、いずれは「傍若無人」「乱暴狼藉」「裏金作り」などという暴虐を政治活動と錯覚してしまう。いわば「神経麻痺」が昂じて、いつしか「政治的無神経」に罹患してしまうのがお決まりです。「醜に交われば醜怪になる」の類。それにしても、かかる輩は、すべからく「醜悪奸邪(しゅうあくかんじゃ)」の徒となるのは避けられないのでしょうか。

 何度もいいます。この社会は、いろいろな面において限度・限界を越えてしまっている。それは政治に限ったことではないでしょう。しかし、残念ながら、ことの発端も政治からであり、結果において責められるのも政治に対してである。その政治が、ほとんど「死に体政治家」に席捲され、この先においても刷新される気遣いがないのですから、後は座して死を待つばかり、いやもう、方々で死が始まっているのです。「醜悪を責められて」辞職(逮捕)や引退した議員の後釜選び(衆議院議員補選)が公示されました。「出したい人」ではなく、「出したくない人」をよくよく吟味して投票すれば、一ミリくらいはましな選挙結果になるでしょうか。どの候補者も出したくない・選びたくないなら、それもまた、一つの選挙権の行使です。すなわち「白票」、ですな。

 民主主義は膨大な時間と天文学的単位の金がかかる。「民主主義は地平線を追いかけるような活動です(Democracy is about walking toward the horizon.)」どこまで行っても、到達する可能性はないんですね。だから、諦めましょうというのではなく、求め続けることにこそ意義や値打ちがあるのだと、ぼくは考えてきた。

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