十年一日の如くという「平凡」と「非凡」

◯ 週のはじめに愚考する(拾七)~ 「十年一日」などといいます。多くは「進歩」や「発展」のない、停滞や惰性の連続を貶めるような意味合いで使われるでしょう。長い期間、まったく変わらない生活をする様を否定しているようにも聞こえます。「君は、まるで十年一日のごとく、日を送っているではないか」と。若い頃、ぼく自身もこのような「変化・進歩」のない(と見られる)生き方や状態を呪ってみたくなっていたと思う。(ヘッダー写真は「御母衣ダム完成以前の水没地域の写真から」:https://kaerigumo.jimdofree.com/) 

 なんの根拠もなく、「平凡」は「陳腐」で、それを恥じるような思いを持っていた。それがいつの頃からか、おそらくは三十過ぎてからだったと覚えていますが、「平凡」であることが、けっして「平凡」ではないことに気が付き、むしろ、それは常人(じょうじん)のよくするところではないということに驚愕したのです。「平凡」に徹すれば、「平凡」である精神を否定しないこと、それこそ「非凡」だと気がついてきたんですね。それは、平凡も非凡も同じことの「裏表」なんだ、と。

 毎日毎日いささかの変わりもなく、同じ生活を重ねるということの難しさは「三日坊主」という、厭性(あきしょう)の他者への侮りや蔑みの言葉によっても表されているでしょう。これは大事なことだから、長く続けようと決心はするが、いつも長続きしない。いい例ではありませんけれども、「日記を書く」「禁煙する」「禁酒を続ける」などはその典型かもしれない。また、「ジョギング」「散歩」なども健康のためと長く続けたいとは思うが、気がつけば、いつの間にか挫折している。ことほど左様に、一つ事を長続きさせることは「平凡」であればあるほど、考えるほどは簡単ではないという、そんな経験は、ほんものの「三日坊主」にはできない相談なのでしょう。一万日(二十七年余月)、一日も欠かさず山に登り続けた超人がいました。もちろん、仕事は別にあった。交通事故で入院中も登りつづけた。ここまで来ると、狂気そのものか。

 昨日の「筆洗」に懐かしい人の名前を見出して「ああ、佐藤さん…」と口に出していました。この人のことを知ったのは何時のことだったか。もちろん、上京(大学入学)してからで、それでも三十歳前だったと思う。ある雑誌だったかで、「壮大な計画」を実行しようとしているバスの車掌さんがいるという記事を読みました。「破天荒」「驚天動地」、「なんと酔狂な」、それでいてなんとも言い尽くせぬ驚きをぼくは感じました。中学を卒業し「国鉄(当時)」に勤務。名古屋から金沢までの長距離バスの車掌をする。御母衣(みほろ)ダム湖の底に沈む村人の思いを残した「荘川桜」の運命に深く動かされ、その感動を胸に“太平洋と日本海を桜のトンネルで結ぼう”と一念発起された。「壮途」と言うべきでしょう。あるいは、むしろ「無謀」と批判されたのだった。

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【筆洗】岐阜県白鳥町(現郡上市)に生まれ「奥美濃の桜守」といわれた佐藤良二さんの生涯は映画にもなった▼かつて名古屋から白鳥を経て金沢まで結んだ国鉄バス名金線の車掌。病で早世するまで自費で路線沿いに桜の苗木約2千本を植えた▼始めたのは、白鳥の北の飛騨の山あいに昭和35年に完成した御母衣(みぼろ)ダムのほとりで、ダムに沈んだ集落から移された桜が花を咲かせたことに感動したため。花は、電源開発のために故郷を捨てざるを得なかった住民を慰めた。山村の悲しみがあったから、奥美濃の桜守も生まれた▼佐藤さんを称(たた)え名古屋から金沢まで250キロを走るウルトラマラソン「さくら道国際ネイチャーラン」が先日、30年の歴史に幕を下ろした。最後の大会は名古屋をスタートし、佐藤さんの故郷、白鳥がゴール▼白鳥などの住民がボランティアで運営を支えてきたが、高齢化し人手確保が困難になったことが閉幕の理由という。先に民間組織が、人口減少が進んで自治体運営がたちゆかなくなる「消滅」の可能性があるとみなした744市町村を公表したが、郡上市も入っている。御母衣ダムの悲しみもあった昭和より、日本の山里は苦しくなった感がある▼佐藤さんは「花を見る心がひとつになって、人々が仲よく暮らせるように」と願っていた。それをこれからも続けるには何が必要か。試行錯誤を続けるほかない。(東京新聞・2024/04/27)

● 佐藤 良二(サトウ リョウジ)= 昭和期の市民運動家 元・国鉄バス車掌。 奥美濃の桜守。生年昭和4(1929)年 没年昭和52(1977)年1月25日 出生地岐阜県郡上郡白鳥町 経歴昭和20年16歳で国鉄に入り、41年名古屋から金沢まで、岐阜の山間部を走る国鉄バス・名金線の車掌に。「自分はどう生きるべきか」を考え続けていた時、沿線上で樹齢400年の“荘川桜”に出会ったのがきっかけで、“太平洋と日本海を桜のトンネルで結ぼう”と30万本の植樹を計画。52年難病で47歳の若さで命を失うまで、11年間に2千本を植え、“奥美濃の桜守”といわれた。59年NHKでその生涯をたどるドキュメンタリー「桜紀行―名金線・もう一つの旅」が制作され、好評を博す。62年同作品のデレクター・中村儀朋(NHK名古屋放送局)により、遺作の手記などを再構成した「さくら道―国鉄バス車掌佐藤良二さんの生涯」が出版された。平成6年には映画「さくら」(神山征二郎監督)が故郷で封切られる。また、姉のてるさんによって“桜守”の夢が受け継がれている。(20世紀日本人名事典)(⏩️写真は「荘川桜・今年のもの」:http://www.shokawa.net/introduction/452)                                                         

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 佐藤さんが「昭和35年に完成した御母衣(みぼろ)ダムのほとりで、ダムに沈んだ集落から移された桜が花を咲かせたことに感動した」、その桜の移植に尽力した人が笹部新太郎さんだった(⏪️写真)。笹部さんについては、稿を改めて書いてみたいが、この国の「山桜」を語るには忘れてはならない、怪物であり、「桜守」でした。今でも「伝説の人」のようにみなされています。若い頃、佐藤良二さんの「一念発起」を知るのと同時期に、ぼくは笹部さんについても学び始めました。親父の遺言を守り通した「平凡一徹」の人だった。「いくらも財産はあるから、勤め人などにはなるな」「人のため、世のために、全部使ってしまえ」という恐るべき「父の遺言」でした。息子は、それを忠実そのものに、使い尽くした。凄い父子がいるものですね。

 ぼく自身は貧しい「桜体験」しかなかったが、そんな人間にも、もう一人忘れられない「桜守」がいました。佐野藤右衛門さん(第十四代)です。家業は京都仁和寺居付きの植木職人で、寺の近くの「山越」に広い苗床を所有していて、その近所に住んでいた、小学生のぼくは隙さえあれば、そこ(苗床)に入り込んでは、時に、桜について佐野さんから話を聞くことがありました。

 一つ仕事をなし続けることは端倪すべからざる偉業だと思う。並外れての「厭性」であるぼくには考えるだけでも気が遠くなるのです。「この道何十年」と評される人は、たくさんいるでしょう。しかし、佐藤良二さんや、その師匠に当たる笹部さんは、職業としての「桜守」などではなかったところに、ぼくは「偉大さ」「敬意」すらを覚えるのです。樹齢何百年という桜木の寿命から見れば、人間の生涯は短すぎるし、その短い人生の中でも「余業・余技(無償の行為)(今で言うンボランティア活動)」に割ける時間は極めて限られてきます。にも関わらず、短い人生を生きて桜に繋いでいった人々に、ぼくは限りない敬意と哀惜の念を忘れられないのです。

 「十年一日のごとく」、これは、ぼくの生活(生き方)の背骨になっています。

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*少し長い蛇足 大学に入学した年にT書房の雑誌「展望」が再刊された。その第一号で「D賞」を設けたという記事が出ていました。ぼくは、その当時は「小説」の真似事を書き初めていましたので、できれば応募したいと、翌年だったかに出すつもりで書いてみたが、締め切りまでには間に合わなかった。当選作が発表されたのを後日知りました。受賞者は吉村昭さん。当時でも、すでに高名な作家だった。受賞作は「星への旅」だったと思う。1966年、大学三年生だった頃でした。長い間、「星への旅」は読まなかった、というより読めなかった。(⏪️移植後の荘川桜)

 吉村さんの作品で深く動かされたのは、その後に出された「水の葬列」だったと思う。黒四ダムが話題になっていた時期、ダムの底に水没する村人たちの「無言の行為(振る舞い)」が、とても不気味・凄烈に思われたのでした。ずいぶん後になって「星への旅」を読んで、ぼくは頭を金槌で殴られるほどのショックを受けた。以来、「小説」を書くなどとは言え(言わ)なくなった。

 当時、この国は「高度経済成長」期に入っており、電源開発は喫緊の課題だった(原発設置はまだ)。御母衣ダムは黒四ダムの直前の大工事でした。その際に大きな話題になったのが、「荘川(しょうかわ)桜」の移植だった。これを一人で受け入れたのが笹部新太郎さんであり、その「荘川桜」の見事さに打たれて、たった独りで、仕事の合間をぬって「桜のトンネル」を作る決意をされたのが佐藤良二さん。いわば、「笹部から佐藤へ」の因縁が「飛騨の桜守」を多くの人々に記憶させたのでした。(⏩️東名高速道建設)

 それ以降も「高度経済成長」という魔物は、この国のあらゆる場面に出没した、幹線道路、新幹線、高速道路などなどの建設は、それこそ「日本劣島」を完膚なきまでに改悪・改変してしまいました。「ダム湖底に水没」したのは、村の家屋や自然環境だけではなかったし、新幹線や高速道路建設で立ち退かされたのは、生活の基盤だった土地や家屋だけではなかった。それは「人間の生活」そのものであり、「人々の紡いできた歴史」それ自体だったと言わなければならない。単に桜が綺麗であるとか、桜の開花が見事であるるというのではなく、「桜の森の満開の下」に「人間の生きた証(死体)」が埋められているという安吾さんの、そんな思いがぼくには「桜」を見るたびに過(よぎ)るのです。

 もちろん、これは決して「桜」にかぎったことではなく、さまざまな場面における「歴史の否定」や「歴史の改竄」に繋がるのではないかという恐れを抱くのです。「文明という名の暴力」「時代の圧力」です。ぼくが上京したのは1963年3月だった。東京都内では「首都高速」建設の真っ只中。当時、ぼくは森鴎外の「普請中」という小説を読んだばかりだった。その後、長い間、頭の中には「普請中(Under construction)」という言葉がこびりついてしまった。「普請」するのは「破壊(destruction)」の後だとわかれば、それは無条件で喜ぶものではなくなったのです。ダム湖の底に沈むのは「土地や家屋」だけではなく、そこで生きて暮らしていた「人間の生活」「歴史」そのものも含まれる。まるで「生きたままの埋葬」だったと思った。(⏪️首都高・日本橋)

 上京以来、六十年近くが経過しますが、この劣島は今なお「普請(破壊)中」の看板を高々と掲げては、その周囲を無数の魑魅魍魎が蠢(うごめ)いている。浅ましい限り、とぼくには写ります。浮かれ気分で見ることができないのは「桜花」ばかりではありません。「時代遅れ」になるのもまた、ぼくの生き方の方法(文化・思想)です。他人はいざ知らず、ぼくにとって過剰な「アップデート」は危険ですね。

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いつも「民主主義」はある・あった

【筆洗】戦後間もなく、文部省が子どもら向けに『民主主義』と題した教科書を作った。復刻版を読むと民主主義は単なる政治の制度ではなく、民主主義の根本精神たる「人間の尊重」が大事だと教えている▼「人間の尊さを知る人は、自分の信念を曲げたり、ボスの口車に乗せられたりしてはならないと思うであろう」。信念を曲げ理不尽な命に従うことは民主主義の対極のようだ▼「民主主義は、家庭の中にもあるし、村や町にもある。それは、政治の原理であると同時に、経済の原理であり、教育の精神であり、社会の全般に行きわたって行くべき人間の共同生活の根本のあり方である」▼そこに民主主義はあったのか。愛知県東郷町長、岐阜県池田町長が職員にハラスメントを繰り返したとそれぞれ第三者委員会に認定され、辞職を決めた。前者は「死ね」などと暴言を浴びせるなどし、後者は頻繁に女性職員の体を触った▼両町とも町長に対する職員の萎縮を各第三者委に指摘された。ボスにものを言えぬ空気。副町長以下は事実上無力で人の尊厳は損なわれ続けた。選挙の洗礼を受けた人も無謬(むびゅう)にあらず。トップが誤った時にそれをただせる組織をどうつくるのか、議会も知恵を絞りたい▼先の教科書は「人間の生活の中に実現された民主主義のみが、ほんとうの民主主義」と唱える。職場の風通しの良さも民主主義の体現である。(東京新聞・2024/04/26)(ヘッダー写真はHBC:https://www.hbc.co.jp/tv/yaji-democracy/

 今更のように「民主主義とはなにか」と問うのはいかがですか。無意味と思われますか。あるいは、そんなものは「手垢にまみれた代物」と唾棄すべきでしょうか。この言葉を使う(口にする)のをいたく嫌う人がたくさんいることをぼくは知っている。「えっ、あの人までもが?」と驚くようなこともあります。もちろん、この「民主主義」という言葉を「時代遅れ」の洋服か鞄(カバン)のようにみなす人が驚くほどいるのを知らないではありません。確かに、それは集団生活に必要な、ある種の潤滑油のようなものであると言えるでしょうから、それが失われると、一集団(社会)内の人間関係に齟齬が生まれ、どうにもギスギスしてしまう。集団が分裂・対立したり、上下の序列によって「支配と被支配」「命令と服従」という強制的な階級・階差が出来上がることもあるでしょう。困るのは、「それで結構」と言い募る人々がいることです。「今だけ、金だけ、自分だけ」という「新自由主義」とかいう教条、いわば「唯我刹那主義」に侵されている人々が。

 コラム「筆洗」に引かれている戦後の社会科教科書「民主主義」については、この駄文集の中でも(何処かで)触れています。いまも手にとって読むことができるし、この教科書を書いた人々も判明しています。もちろん、教科書に書かれているから、「民主主義」は存在するというものではありません。その反対に、「民主主義」というお手本(教科書)がないから、その社会には「民主主義」は存在しないということもできないでしょう。もっとはっきり言うなら、「民主主義」は言葉ではないということです。その言葉を知らないから「民主主義」はないとは言えないでしょう。しばしば「戦後民主主義」と語られてきました。戦争中は国家・軍国主義だったが、敗戦後には一転して「民主主義国家」に変わったのだと繰り返し語られてきた。以下に、当の教科書「民主主義」から、大切な部分を引用しておきます。

 「人間の尊さを知る人は、自分の信念を曲げたり、ボスの口車に乗せられたりしてはならないと思うであろう。同じ社会に住む人々、隣の国の人々、遠い海のかなたに住んでいる人々、それらの人々がすべて尊い人生の営みを続けていることを深く感ずる人は、進んでそれらの人々と協力し、世のため人のために働いて、平和な住みよい世界を築き上げて行こうと決意するであろう。そうして、全ての人間が、自分自身の才能や長所や美徳を十分に発揮する平等の機会を持つことによって、みんなの努力でお互の幸福と繁栄とをもたらすようにするのが、政治の最高の目標であることをはっきりと悟るであろう。それが民主主義である。そうして、それ以外に民主主義はない」

 ここには、民主主義の何であるか、その一部ではあっても、はっきりと書かれています。再言しますが、書かれているから、それが大事なのではありません。ましてや、「民主主義とはこういうものだ」と考えるだけでは足りないとぼくは思う。「自分の信念を曲げない」「他者の生き方を尊重する」、誰もが自らの能力を発揮する「平等な機会」を持つべきであるとされています。現実にはなかなか実現されてはいないが、よりよい社会を作るためには、そのような諸々の目標を掲げて(それを実現するために)進んでいく必要があると言っています。それが、それこそが「民主主義」である、と。

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 「王様は裸で歩いているよ!」/子供がそう叫んだ瞬間、周囲にいた警官やSPたちが子供を包囲して手や口を押さえ、無理やりに沿道から引き離しました。群衆たちも気にしません。王様は何事もなかったかのように裸で行進を続けます。/2019年7月15日、札幌で安倍晋三首相(当時)が演説を始めたとき、「安倍やめろ!」とヤジを飛ばした男性と増税反対を訴えた女性を警察官が拘束し、さらに現場から強引に引き離した。/その瞬間を映した短いニュースは僕も観た。その後、本作『ヤジと民主主義』の監督でHBC(北海道放送)報道部の山﨑裕侍から映画化を考えていると聞いたとき、短いテレビドキュメントならともかく映画は無理じゃないかな、と思ったことを覚えている。(以下略)(森達也「北海道警の安倍ヤジ排除問題を追う『ヤジと民主主義』が見せたメディアの矜持」:NEWSWEEK・2023年11月28日)(https://www.newsweekjapan.jp/mori/2023/11/post-72.php

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 民主主義はいつだって、どににだってあったし、あるのです。この社会に、「戦後」になって初めて生まれたもの、与えられたものなどでは決してない。自由や人権が何重にも抑圧されていた「戦時中」においてさえ「民主主義」は存在し(ようとし)ていた。だから、それがある特定の人々には目障りであり、耳ざわりだから抑え込もう、踏みにじろうとしたのです。「民主主義」が存在することが不都合だと信じている人間はいつでも、どこにでもいるのです。国や自治体、あるいは企業や学校にも。無論、小さな「家庭」にあっても、です。

 「ヤジと民主主義」という記録映画が、このところ話題になりました。まさに、現在のこの社会の「民主主義の有りさま」を見事に切り取って、ぼくたちの眼前に晒してくれました。「増税反対」「アベやめろ」と野次を飛ばしただけで、公権力に拘束され、演説会場から追放・排除された。「アベ、辞めろ」と叫び、「増税反対」と声を出す、そこにあるのが「民主主義」の「芽」です。その「芽」を刈り取ろうとするのが公権力による高速と排除ではないでしょうか。裁判の法定で、公権力は裁かれました。「民主主義の芽」は絶やされてはならない)(「ヤジ」といえども、その発言の機会を奪うことは、人権の侵害ですね)(「ヤジと民主主義」:https://yajimin.jp/

 「おかしいことはおかしい」と声を上げる。すると、かならずその「声」を踏み潰したいと考える人が出てくる。この「戦い」の中に民主主義は、確実に「息」をしているのです。もしそうであるなら、「民主主義」は奈良時代にも、いや、縄文時代にすら発見することができるでしょう。それは現代文明社会の「特権」などではないのです。「王様は裸だ」「政治家は泥棒だ」という、我々の社会の現実を指摘することが、権利として誰にも認められる必要がある。だから、事実を暴かれたくない人が「表現の自由」を抑圧しようとする。デモクラシーは「床の間の置物」などではない。あるいは「壁にかける書画」なででもありません。ぼくたちが生きている日常・現実に生じる、さまざまな不平等や不当な差別に対する「異議申し立て」そのもの、つまりは「おかしい」「正しくない」と言い当てる自由、それが「デモクラシー」の生命の源ではないでしょうか。誰にも、自分の意見(opinion・idea・view)を表現する権利があるし、それを互いに認めることができなければ、それはかなりいびつ(歪)な社会(集団)だと言えるでしょう。

 身分社会、男性優位社会という慣習(社会の仕組み)がかなり長く続いてきたのがこの島国です。それがなにかの事情で一掃されたかというと、そういうことはありえないというべきです。いつでもどこでも、「遺物」「残滓」として残り続けるのが社会の性質・民族性などと称される者、あるいは風俗・習慣とされるものです。どんなに世の中が開けたと思っても、「偏見や差別」は執拗に残り続けます。どこにか。もちろん法律や制度にも残存はするが、もっとも強く残り続けるのは、ぼくたちの「胸の内」「意識の深部」においてです。

 「選挙の洗礼を受けた人も無謬(むびゅう)にあらず。トップが誤った時にそれをただせる組織をどうつくるのか、議会も知恵を絞りたい」「(「民主主義」という教科書は)『人間の生活の中に実現された民主主義のみが、ほんとうの民主主義』と唱える。職場の風通しの良さも民主主義の体現である」(「筆洗」)

 何時だって、何処にだって「民主主義」は存在したし、存在する可能性がある、その意味は、何時でも何処でも「偏見や差別」という刃が他者にが加えられる危険性や暴力性が潜んでいるからです。それに抗う力(作用)は必ず生まれるのです。対抗や抵抗の成否は、時の情勢に左右されることはあります。「おかしいぞ」「それは間違いではないか」と異議・異論を唱えることは「人間の権利」に属します。それが頭をもたげれば、それを押さえつける暴力も生まれる。そのせめぎ合いの中にこそ、民主主義の「芽」があるのです。 

 民主主義はいつだって「芽(萌芽)」なのではないでしょうか。それを育てることは至難であり、気の遠くなる道のりを歩かねばならないでしょう。しかも「ご破算(瓦解)の危険がつねに潜んでいる。それでもなお、社会集団の構成員である一人ひとりの意識の中に、自分らしく生きるという「存在の芽」を育てる、他者との交流に欠かせない、よりよく生きようとする「誠実(sincerity・honesty・integrity)」の「発芽」につながるのではないでしょうか。人間は独りで生きているのではありません。

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Soon everything will be silent.

<新生面>消滅可能性自治体 岩手県知事や総務相を歴任した増田寛也氏を座長とする日本創成会議が、2014年に公表した報告書はセンセーションを巻き起こした▼地方で暮らす女性が30年間で大幅に減り、全国の自治体の半分が「将来消滅する可能性がある」との衝撃的な内容のためだ。「地方創生」策が打ち出されるきっかけになった▼報告書は批判もされた。『里山資本主義』などの著作がある藻谷浩介・日本総研主席研究員は、出生者が毎年減っている日本は「そもそも全体が『消滅可能性国家』のようなものだ」と話し、自治体を存続か消滅かに二分するのは誤解を生むと指摘した▼10年の時を経ておととい、「消滅可能性自治体」の新たなリストを経済界有志による民間組織「人口戦略会議」が公表した。今回の取りまとめも、この会議の副議長で日本郵政社長を務める増田氏が中心だった▼896あった「消滅可能性自治体」は744に減ったが「少子化基調は変わっていない」と分析。今回も、「日本全体の問題を自治体の問題であるかのようにすり替えるのが根本的に間違っている」(丸山達也・島根県知事)との批判がある▼確かに若年女性人口を増やそうと各自治体が似た政策をとれば、不毛な奪い合いになるだけ。それより自治体同士がそれぞれの特徴を生かして、協力する方がまだ効果的だろう。国や県には、市町村が取り組みやすくなる環境整備が求められる。何より大事なのは、当の若年女性が感じないでいい責任を感じるような風潮としないことだ。(熊本新聞・2024/04/26)

 (右上と以下2枚の写真は時事通信「タイタニック号の悲劇 写真特集」・2024/04/26:https://www.jiji.com/jc/d4?p=tin123&d=d4_mili)

 連日、各紙は「人口減少」「消滅可能性自治体(市町村)」に言及しているが、同じ情報源の垂れ流し、どれもこれも似たり寄ったりで、何が問題であるかは分かるとして、その解決・解消にはどうすればいいか、何一つみえてこないで、報道各社自体が、(記事には出ていないが)いわば「周章狼狽」「慌てふためく」ばかりという無能ぶりが目に付きます。「今のままなら、こうなりますよ」と、それだけを印刷・報告しているだけ。当の自治体はいうに及ばず、更に気になるのは、政府や行政側の徹底した無為・無策の無体ぶりです。知らぬ存ぜぬと、「洞ヶ峠(ほらがとうげ)」を決め込んでいる有り様。この「打席」における決定打はないのが分かっているから、三振・振り逃げでも狙っているのかも知れないですよ。

 問題の本質は、既に三十年以上も前から指摘されてきたのです。突然、目前に現れたものではありません。そして、もっとアホらしいのは、いつ起こるのか、何処と戦うのか、もし戦うとして何が原因となるのか、その動機や目的が皆無か不分明であるにも関わらず「来たるべき戦争」への備えとして、向こう五年間では四十数兆円、その後長期間に支払わねばならぬローンの合計は(金利を含めて)、以下ほどになるのか、それ程の大枚をいたずらに米国に支払う「魂胆」「必然性」の無節制はともかくとして、目下の喫緊課題に対して、為すすべを知らないというのは、どうしようもない為体(ていたらく)であるというばかりです。

 どれほど軍隊や軍事力の強化・強靭化を図ろうとも、守るべき「国民数」の一貫した減少は阻止できもせず、ひいては「国家」そのものが消えてしまいかねない絶体絶命の事態なんですね、国家論者・国家主義者にとっては「お家の一大事」ではないですか。

 タイタニック号が今まさに沈没しつつあるのに、競って一等船室を目指して攀じ登っていたという、乗客の行動を笑えない、国家単位の恐ろしさと愚かさを、ぼくはこの現下の状況に対する各当局者の姿勢にみるのです。「国家百年の計」とはよく言ったもので、少子化も超高齢化も加速度を加えて進行しているのに、その難題を五年か十年で解決できるという能天気はいないでしょう。しかし、「今さえ、自分さえ」幸せ(上首尾)なら、「後は野となれ山となれ」という刹那主義が横行瀰漫している現状では、事態の悪化は超高速度で一気に進むだろうと、ぼくにはみえます。

● タイタニック‐ごう ‥ガウ【タイタニック号】(Titanic) イギリスの豪華客船。総トン数四万六三二八トン。一九一二年ニューヨーク港に向けて処女航海中、四月一四日ニューファンドランド沖で氷山と衝突し沈没。乗船者二二〇八人中一五一三人の犠牲者を出す世界最大の海難事故となった。国際的に決められた救難信号「SOS」がこのときはじめて発信された。(精選版日本国語大辞典)

 一年前に、同じ課題に対する超党派の「議員連盟」が問題の所在を明らかにしていました。この数日間の報道では見られなかった問題の深刻度をいくつかの視点から検討した様子が伺えます。ある意味では衝撃的でさえありました。曰く「出生数減、最低100年は止まらない」人口数は2008年(1億2800万人)がピークで、その後は減り続ける。専門家は「このままいけば恐ろしいほど減り、90年後には年間出生数は18万人になってしまう」と指摘し、「(近未来は)人口激減社会」だと断じていました。このような状況は「決定的な労働力不足」をもたらす。具体的には「介護職」「物流業」では致命的な打撃を受けると指摘される。誰も明らかにしないが、今日静かに深く進行している問題、それが「多死社会」で、昨年は156万人余。これを防ぐ手立てはないのが当然。つまりは「社会制度」も「社会秩序」も崩れ去るがままという窮状にあるんですよ。

 「死亡する人の数は平成元年と比べるとおよそ2倍、この20年でも1.5倍に増えています」ここから直結してくるのが「火葬場不足」です。「(死亡者は)今後も増え続け、2040年には約167万人に達する見込みです。こうした中、人口の多い都市部では亡くなった家族をすぐに火葬することができず、12日間待ったという人も出ています」(NHK「多死社会」:https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230625/k10014108761000.html

 やがては、冗談ではなく、火葬場のコンビニ化が生まれるに違いありません。もちろん、墓場にする土地の余裕はない。

 近い将来の動向が可視可できているにもかかわらず、政治の無作為は目を覆うばかりです。ことの発端は「人口減」ですが、それが引き起こす問題は多方面にわたっており、どれ一つとして、関連のないものはないのに、その糸口にすら手が届いていないのです。「消滅可能性自治体」というけれど、実態は「国家消滅」そのものがすでに始まっているということです。「異次元の少子化対策」という法螺はよしてくれといいたい。ぼくに言わせれば、並み居る大臣連・官僚輩は、危機存亡時においても「異次元の無能者」だということ。

 人口激減、今後20年が「一番きつい」 近未来に起きる「介護難民」「多死社会」
 岸田文雄首相は17日の記者会見で、少子化対策に関し「時間との闘い」と強調した。政府が対策に乗り出してから30年。有効な手を打てずに少子化は加速し、昨年の出生数は見込みより11年も早く、統計開始以来初の80万人割れとなった。近未来に人口が激減する社会が到来するのは避けられず、識者は少子化対策とともに、社会機能を維持する対策の必要性を指摘する。(井上峻輔)
◆出生数減、最低100年は止まらない
 「出生数の減少は最低でも100年は止まらない。今から少子化対策を講じても、人口減少が進むことを前提として、社会をどう機能させるかの対策は即座に求められる」
 14日に国会内で開かれた超党派の「人口減少時代を乗り切る戦略を考える議員連盟」(野田聖子会長)の設立総会で、講師に招かれた一般社団法人・人口減少対策総合研究所の河合雅司理事長は訴えた。
 日本の人口は、2008年の1億2800万人をピークに減少に転じた。22年9月時点で1億2500万人だが、国立社会保障・人口問題研究所が17年に示した将来人口推計によると、標準的なシナリオでは53年に1億人を切り、2110年に5300万人程度と半分以下に落ち込む。
 42年までは、65歳以上の高齢者が増え続ける一方で、15〜64歳の生産人口年齢が急減し「一番きつい20年間」(河合氏)になるという。
 河合氏は、出生数はシナリオより悪い減少幅で推移していると指摘。「このままいけば恐ろしいほど減り、90年後には年間出生数は18万人になってしまう」と危機感を強調し、近未来を「人口激減社会」と表現した。(下に続く)
◆わずか7年後、荷物の35%が配達できない
 人口激減社会では、労働力が減って内需や経済が縮小し、生活サービスや社会保障の量や質が低下する恐れがある。
 例えば介護では、サービスを受けられない「介護難民」が増えかねない。淑徳大の結城康博教授(社会保障論)は「5年後に団塊の世代が80歳を超えると、介護が必要な人が一気に増え、介護人材が不足する」と指摘。年配の職員が引退する一方で人材確保は難しく、孤独死や介護離職が増える可能性があるという。
 物流への影響も大きい。野村総合研究所が1月に公表した推計では、働き方改革を含め運転手不足が深刻化し、わずか7年後の30年に国内で35%の荷物が運べなくなる。研究所の小林一幸氏は「このままでは配達できない日が増え、配達料金も値上がりする地域も出てくるだろう」と語る。
◆識者が警告する「不都合な真実」
 高齢化が進んだ先にあるのが「多死社会」だ。国内の年間死亡者数は21年が約144万人で、推計では39〜40年にピークの168万人に達する。
 横浜市では既に火葬の待ち日数が長期化し、65年に市内の死亡者数が今より3割ほど増えると予想。現在、市内で5カ所目の公営斎場の建設を計画中だが、死亡者数に対応できるのは56年ごろまでだという。
 近い将来の姿が見えているにもかかわらず、これまで政府や国会が十分に対応してきたとは言い難い。超党派議連は議論を本格化させるが、河合氏は「あと数年で東京都の人口も減り始め、東京が経済をけん引するスタイルも通用しなくなる。極めて不都合な真実を正面から受け止めて政策を考えなければならない」と警告している。(毎日新聞・2023/03/18)

 日本劣島の「住人」が消えてゆくのは自然であり、必然でしょう。その傾向・動静を誰も止めることはできません。「生まれること」の深いところで「死ぬこと」が宿されている、それが「いのちの運命」であるということです。しかし、その生と死を巡って、いかにも不自然な傾向が否定できないのが、今日の様相ではないでしょうか。「環境汚染」が進行していて、それは「環境破壊」にまで行き着いています。「気候変動」という呼称は、実態が見えないような作為が感じられる。拙い持論ですが、環境破壊の程度を測るメモリ(尺度)は至るところに存在しています。

 その昔、レイチェル・カーソンは「沈黙の春」を書きました(1962年)。もう六十年以上も前です。この間、沈黙を強いられてきたのは「春」ばかりではなかったと思う。いわば、年がら年中「沈黙」させられたもの(絶滅種)は数え切れないほどだったと思う。そして、ここに来て、やがてはあらゆる地球上の「生命ある存在」が沈黙を強いられるのかも知れません。誰も「声を出す」ものはいなくなる、暗黒の世界です。(カーソンのこの本の評価は一定していません。それは当然で、「農薬」によって「利益」を得る人間が大勢いる限り、何時だって、それに対する批判者は攻撃の的になるのは不思議ではないでしょう。これは今だっても起こっている、あらゆる世界で進行形で生じている「攻と防」であるのです)

 この社会の「未来の担い手」である十代・二十代・三十代の死因の第一位は「自殺(自死)」です。もちろん、その理由は多様でしょう。しかし若い命を生ききれない・生ききらないままで亡くなるにはそれ相応の動機や原因がある。それをここでいうことはできませんけれど、社会全体が深い魔の闇に覆われている、魔の手に握られているという、いい知れぬ恐ろしさの混じった感想を持ってしまいます。未婚化、少子化、若年自死傾向など、どれ一つとっても忽(ゆるが)せにできない課題であり、短兵急に解決される可能性は皆無であると言わなければならない。「未来が塞がれている」という閉塞した絶望感に襲われているのです。その昔、水俣病の原因が未解明であったとき、空を飛ぶカラスが突前落下したり、多くの猫が身体を震わせながら海中に飛び込んだりするという異様な現象が多く見られました。現地では、「猫の自殺」と大騒動になったことがあります。

 人間が生存するためには、どんなに最新・細心の工夫や技術を駆使したところで、所与の自然環境を破壊しないことはない。道路を作り、家を立てる、海で漁をする、土地を耕し(田畑で)作物を獲る、これらはすべて、環境破壊です。何事であれ、「破壊」は必要最小限であることが望ましいのはいうまでもありません。しかし、大量生産・大量消費・大量破棄という生活サイクルは、この百年、日本劣島に限っても大回転してきました。今もなお、その愚行は止んでいないのではないでしょうか。

 その挙句の果ての「環境破壊問題」であり、「人口減少問題」ではないかと、同じことを繰り返しぼくはいい続けているのです。なぜか、ぼく自身の脳細胞が劣化していることも確かですが、しかし、個人の狂気を遥かに圧倒・凌駕する、時代や社会の趨勢、波動(狂気の風潮)というものの凄まじさを経験させられ続けてきた「わが人生・八十年だった」と思っている。その存在、風前の灯のごとき、老人輩に何ができるのではない。でも、このままで、さらに無為であることに絶えられないのも確かです。ますます、脳細胞は劣化する。身体は壊れゆく。

 何十年も前、小・中学校で児童・生徒の「自死」が多数発生し、やがてそれは「いじめによる自死」であることが明かされた。環境汚染(水俣湾の有機水銀汚染)(学校という教育環境の人為的汚染)は一瞬にして生じたのではありません。カーソンの指摘ではありませんが、春の季節になると、決まって鳴き声を上げる鳥たちがいないという事実の発見は、たくさんの誘引連鎖を伴っていたことが判明します。農薬の過剰散布が農作物を汚染し、土壌汚染をもたらし、その結果、そこに生きてきた鳥類や昆虫類を絶滅させるに至ったのです。

 「いのちの寿命」を考えるとき、今日の状況は、きわめて危機的な、しかも地球規模の危機的状況の中にぼくたちは生きていることを、畏れを以って痛感します。その一つの「現実」が「少子化」なのだと言えばどうでしょうか。(右上図はWWF「過去50年で生物多様性は68%減少」:https://www.wwf.or.jp/activities/activity/4402.html

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「ザコども」「偽装難民」「出ていけ」

<金口木舌>「ザコども」とは イギリス映画「遠い夜明け」は実話に基づき、1970年代の南アフリカの人種隔離政策を描く。差別に対峙(たいじ)する新聞社の編集長が差別される側の視点を紙面に生かすため、黒人を記者に採用する場面が印象的だ▼日本ではおかしなことが起きている。例えば、今年2月の埼玉県蕨(わらび)市での出来事。差別に反対する市民に警察官が「ザコども」と毒づき、クルド人排除のデモに抗議する市民を侮辱した▼現場の記録映像に音声が残されていた。埼玉県警は発言を認めて「今後このようなことがないよう指導を進める」と謝罪した。きっちり指導してもらいたい▼似たような言葉を思い出す。2016年に沖縄で米軍訓練場建設に抗議する市民に対し、県外の応援警官が「土人」と暴言を吐いた。その際も県警は「指導していく」と釈明したが、その言葉は守られたのか▼差別される側に寄り添わず、差別や無謀な国策に立ち向かう市民を疎んじ、暴言を投げつける。これが警察の本来の姿ではあるまい。「市民との丁寧な対話」を業務の本分に据えてはどうか。(琉球新報・2024/04/25)

(市民を「土人」呼ばわり 機動隊員、沖縄のヘリパッド建設現場https://www.youtube.com/watch?v=RN4quKDmf3s&ab_channel)(⏪️沖縄タイムス:2016.10.19)

 この数日、民間団体が公表した「744自治体『消滅可能性』」報道が一部では大いに物議を醸しています。このままでは確実に、この国は「縮小し続ける」ことは避けられないというのです。人口は減ることはあっても増加することはまずありえない、消滅候補地に選定(当選)された多くの自治体では「ジタバタ」あるいは「ホクホク」しているのかどうか知りませんが、そもそも、早くから国全体、お尻に「火」が点いているのに、その「熱さ」に無神経にも程があるような「鈍感」ぶりであっただけなのかも知れない。醜聞を撒き散らし、不祥事を蓄積しているのが国・地方を問わない政治家諸侯の「生業(なりわい)」のようなもの。かかる面倒な問題を考えるはずもなかろうと言ってしまうばかりです。三十年も四十年も前からわかっていた「少子化」「高齢化」に、摂るべき施策も取らないままで、遊んで暮らした報いが今直面している事態なのだと言えば、それだけのこと。この先、なにか良策が取られるという期待も願いもないですね。(⏩️は日経新聞・2024年4月25日 )

 「有識者でつくる人口戦略会議は24日、2020年から50年までに全国1729自治体の4割にあたる744自治体で20~39歳の女性人口が50%以上減り、消滅する可能性があるとする分析結果を公表した。(中略)同会議は、国立社会保障・人口問題研究所が昨年12月に公表した「地域別将来推計人口」から算出した。『若年女性人口が減少し続ける限り、出生数は低下し続け、総人口の減少に歯止めがかからない』という考え方のもと、50年までの30年間で20~39歳の女性人口が50%以上減少する自治体を『消滅可能性自治体」とした』(朝日新聞・2024年4月24日 13時30分)                                                                         

 何処からどう手を付けても、この国の人口減少傾向を止めることはまず不可能だと思われます。少子・高齢化が更に進むことはあっても停滞したり、中断されることはおよそ考えられないからです。ぼくが居住している町は年間に百人超の人口減少が続いています現在7千人を割り込んでいる最中)。したがって、この傾向は、町政にいかなる奇跡が起こっても、変わることはないと断言できます。おそらく「消滅候補地」に指定された地区は「何処(いずこ)も同じ秋の夕暮れ」、手に負えない、目に見えない恐ろしい「魔物」に脅かされる他ないのです。それもまた仕方がないとも言えます。この状況は「環境破壊」「地球温暖化」と無関係ではないどころか、実に密接に結びついているのです。何処から、この問題への解決策に手を付けるか、世界の叡智が集まっても、いかなる方向性もみえてきませんね。時間をかけて今日に至った問題ですから、根は深いのですよ。

 高い山に登るためには長い時間がかかります。しかし、頂上から下るには、登りの何分の一という時間しか必要ないのです。自然景観であれ、人工物であれ、「形あるものは必ず壊れる」のは真理です。「山を超えたら」もう手出しはできないのかも知れないですね。無駄な抵抗は止めたほうがいいと思うし、どんなにしゃかりきになったところで「太陽は西から昇る」ことはありえないのです。「問題の根」はあまりにも深すぎて、それを掘り起こすには天文学的時間と経費を要します。弥縫策では立ち行かないし、徹底した解決を求めるための時間はない。It’s already too late.

 (この国の人口減少問題は、例えが適切を欠くかも知れまぬが、複数学部を抱えている大学がやがては、学生数の減少で営業が成り立たなくなる(倒産の)恐れが出てきている、それと同じような事柄でしょう。同じ大学にあって、各学部同士で「受験生の奪い合い」をしているから、大学全体の受験生数は増えないことに変わりはない。時間を追うに従って、地盤沈下は避けられません。各自治体同士で移住者数を競い合うのはいいけれど、増える地区があれば減る地区もある、総数が変わらぬのは、「財布と同じ」理屈)

 同じ問題(人口減少)の裏と表であるとは思われませんけれども、この先、人口増に将来的な展望を持つためには、まず人口減少傾向に歯止めをかける必要があるのは誰にも明らかです。その方策の優先順位の一位は「出生数の増加」を図ることでしょうが、これも無理。将来の見通しがきわめて暗いのに、どうして子どもを産もうとするでしょうか。行政が強制して、「この家は、少なくとも三人産めよ」というわけにもいかんでしょ。ホタルがいなくなり、メダカが絶滅しているような環境に、人間はだけは逞(たくま)しく生きていけるでしょうか。とするなら、人口減少を食い止めるために「高齢者」を更に高齢(延命)化させるのも一方法でしょうが、無理矢理に「延命装置」をくっつけるわけにも行くまいよ。これは、まず現実的には取り得ない愚策だとされるでしょう。(⏪️⏩️図表はNHKより)

 ならば、第三の方法として「外国人居住者」の増大を図ることです。この政策はいくつかの理由から、これまでは一進一退を繰り返して来ましたが、一貫して増大化の傾向にあるとも言えるでしょう。だから、この先も同じ傾向が確実視されるとは言えないところに、超えることのできな難問、隘路がありそうです。それにしても、人口減少対策として外国人の移住を画するというのは、あまり褒められない政策です。人手が足りないから、大慌てで、安い賃金で「雇おう」などという魂胆そのものが、見透かされているのですよ。その根底に「共存」「共住」という生活の哲学があるかどうか、それが問われるんじゃないですか。偏見や差別のシャワーで「待ち構える」ようでは、論外ですね。この国の「入管政策」が現状のままでは、問題を更に拡大することにしかならないでしょう。

 その点で考えるべきは第一は、この国を居住する国として選択する外国人が、はたしてどれほどいるか、それは決して楽観できない問題です。それに加えて、国力の疲弊状況がGDPの縮小や自国通貨安の継続状態を招いていることの影響をどのように見るか、です。第三に「排外主義(xenophobia)」、あるいは「無根拠自民族純粋主義(ethnocentricity)」傾向の趨勢が衰えない、恥ずかしい現状のあることです。「偏見や差別」意識・行動を以ってする攻撃対象は変遷をたどりつつも、その底に流れているのは「民族浄化」思想、あるいは根拠のない「優性イデオロギー(eugenic ideology)」にあると考えられます。各地でも、多様な排外主義の動きが見られますが、ここでは埼玉県の「川口居住クルド人排除」運動の報道を、以下に紹介しておきます。

 この問題の把握にはいくつかの視点や立場がありそうです。その一つになるかどうか、不確かではありますが、ある映画を紹介しておきます。「イギリス映画『遠い夜明け』は実話に基づき、1970年代の南アフリカの人種隔離政策を描く」(「金口木舌」)あくまでも、これは映画です。映画ですけれども、その映画の根拠になった「現実(apartheid)」があるでしょう。これ以上、多くは語りませんが、この映画を一つの材料にすれば、国内で生じている「現下の難題」を考える糸口になるのではないかと愚かにも考えているのです。                                            (Cry Freedom (1987) :https://www.youtube.com/watch?v=z_rS5OzoaKY&ab_channel=LanzBonstranza

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 「クルド人『国を持たない最大の民族』と呼ばれ、トルコ、イラク、シリアなどにまたがって居住している。トルコでは弾圧が激しく、多くの人が難民として逃れており、国連によると2011年から10年間で世界各国で約5万人のクルド人が難民認定された。日本でも埼玉県川口市や蕨(わらび)市に多く住んでいるが、国内で難民認定された例は北海道での1人にとどまる」「⏩️写真も」(東京新聞・2023年11月22日 06時00分)

(⏪️写真:「埼玉県蕨市でのデモの様子の動画の一場面。無線機のようなものを身に着けた手前左の人物が『ザコどもだから』と発言している=動画投稿サイトから」)(東京新聞・2024/04/03)

 「ザコども」発言認める 埼玉県警、デモへの抗議に 埼玉県のJR蕨駅周辺で2月にあったクルド人排除を訴えたデモを巡り、警察職員とみられる人物がデモに抗議する人々を「ザコども」と侮辱したとする市民団体の公開質問状に対し、県警が職員の発言と認めたことが19日分かった。市民団体が県警からの回答を公開した。回答は17日付。/県警は回答に「デモ行進の現場において、警察職員が発言を行ったことが確認された」と記載。「発言は県警の総意か」という質問には「職員個人による不適切な発言であり、遺憾だ。今後このようなことがないよう指導を進める」とした。(共同通信 2024年4月19日 21:22)

(埼玉県内の川口市や蕨(わらび)市などに多く暮らす在日クルド人に対するヘイトスピーチが頻発している。「出て行け」「皆殺し万歳」「偽装難民」。関係先には排除を叫ぶメールや電話があり、2月には排外主義的な主張を繰り返すデモも行われた。専門家は「ここ1年弱でヘイトスピーチのターゲットがクルド人に広がりつつある」と警鐘を鳴らす。:排外主義的な主張を繰り返すデモを警備する埼玉県警の警察官ら=埼玉県蕨市で2024年2月18日午後3時5分、田原拓郎撮影:毎日新聞・2024/3/22 11:00)

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「あー眠たかった」「よう言うたなあ」

 教師になって間もない頃(三十歳前)から、自分なりの拙い「授業」観のようなものができつつあったのかも知れません。実は気をつけるべき事柄だったと思う。その時期、ぼくは高校や中学校でもいくらかの授業経験がありました。ぼくの中には「いい授業」「よくない授業」などという実に乱暴かつ単純な「区分け」の考えがあったのは事実です。よくよく考えてみると、一言で「いい授業」と言うけれど、それは誰にとってか、第一それが問題となるし、それには見解も別れるでしょう。また、授業対象の年齢差も当然出てきます。一概に「いい授業」などとはとても言えないことに気がつくにはそれなりに時間がかかったことを今でも覚えています。ここでいう「いい授業」とは担当する側が考える授業のことで、「授業論」が立派でも実際の教室は惨憺たるもの、そんなことは四六時中あったし、それを「ズバリ」指摘されて、いたく目が冷めたことがありました。「これが授業だ(学ぶ場と機会)」と言いたくなる場面は、世に溢れているのです。

 ある授業で生意気な、出来もしない「授業」論」、「授業はこうでなければならない」などと、空虚なことを滔々と駄弁っていた。授業後に出されたレポート(あるいは、当人だけが書いた感想文だったかも知れない)に「あなたは、いい授業とは眠くならない授業だと話されたが、授業中、私の周りでは何人もが寝ていた。出来もしないことをいうのは止めたらどうか」と、女性の学生から指摘された。「仰せの通り」であり、「失礼しました」と、ぼくは恥ずかしくなった。その学生は顔は知っていた。話したことはない。何しろ、その教室には二百人を超える学生が参加していたのだ。彼女はぼくと同姓だったので、覚えるようになっていたのかも知れない。「お前の授業は眠くなるではないか」「眠っている学生がいるぞ」と教えてくれたのです。ぼくは腹が立たなかったどころか、「よくぞ言ってくれた」と、密かに感謝したものでした。「いい授業」は、ある学生たちにとっては心置きなく眠れる時間。授業に望む姿勢はさまざまでいいのだ。

 これに似た経験をもう一つ。教室での出来事ではなく、音楽ホール(東京上野文化会館だった)でのことでした。かみさん(元声楽家)といっしょに、スペイン出身のメゾソプラノ歌手の演奏会(リサイタル)に出かけた。彼女のことは、かなり前からよくレコードで聴いていたし、しばしばオペラも(映像を通じて)鑑賞していた。これはぼくの方針でしたが、大好きな演奏家が来たら、一番いい客席で視聴する、お金にはケチケチしない、そんなへんてこな姿勢を持っていたので、その時もかなり高い入場料を払って出かけました。その時の演奏会は、素晴らしいものだとはとても言えなかったし、むしろ不満が残ったほどで、よほど楽屋に行って文句を言ってやろうかとさえ思った。ところが、会場からロビーに出ようとしていたとき、その近くの座席に座っていた男性の一人が仲間に話しかけていたのが聞こえた。「せっかくの歌声を聞かないで眠るなんて」と呆れたように話しかけたら、相手は「あれだけの美人の歌声を聞きながら、ぐっすり眠れるんだから最高。安いもんだよ」と応えたのだ。ぼくは驚いたというか、こういう聴き方があるのだと感心したのだ。その男性にとっては素晴らしい「子守唄」だったろう。これがぼくの「授業開眼」の発端となったわけではないが、授業を考慮する大事な要素にはなったのでした。

 (この歌手・メゾソプラノはテレサ・ベルガンサさん。この来日公演で、ぼくは二回演奏会に出かけた。この駄文を綴りながら、彼女の歌声を回想しています。演奏会はもう四十年近くも前になるんですね。プログラム・第三曲目、ぼくはよく唱ったものでした。子どもたちも、かみさんのピアノ伴奏で唱っていました)(1933?~2022)(Teresa Berganza recital Tokyo 1986https://www.youtube.com/watch?v=Zbqu-oY5F2Q&ab_channel=LolaAlvarez

● テレサ ベルガンサ(Teresa Berganza)(1935.3.16 -2022.05.12)スペインのメゾ・ソプラノ歌手。マドリード生まれ。マドリード音楽院で声楽、ピアノ、オルガン、指揮法などを学ぶ。その後、ローラ・ロドリゲス・デ・アラゴンに師事。1954年音楽院主催の声楽コンクールで第一位となり、ルクレシア・アラーナ賞を受賞。’57年エクサン・プロヴァンス音楽祭でオペラデビュー。明るく澄んだ声、艶やかな美声と、コロラトゥーラの技巧で注目される。ロッシーニを得意とし、オペラ・ブッファのヒロインにうってつけで、又、スペイン歌曲も得意とする。最高のメゾ・ソプラノと認められ、’77年のエディンバラ音楽祭でのカルメン役が絶賛された。(20世紀西洋人名事典)

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 この駄文を書くきっかけになったのは「有明抄」でした。これはぼくの好きなコラムです。毎日読むのが楽しみでしたし、今もそう。コラム氏は、授業に関して「眠たい=つまらない、つまらない=授業が下手」ということが、その後に分かったと書いておられる。ぼくと同じような「授業論」を披瀝されていたので、我が意を得たり、いやその反対で、「眠くなる授業はいい授業」ではないですかと、担当者に話したくなり、新聞社に電話をかけた。幸いにも「義」さんはおられず、代わりに別の記者が出られた。雑談を交わすうちに、ある知事の「失言」という指摘にもいちゃもんを付けた。「あー眠かった」と言ったのは決して失言ではなく、正直な批評の言葉ではないですか。そもそも「失言」とは何処かの知事が使ったように「いうべきではない発言」を指すのではないでしょうか。「正直すぎるのも問題である」というのは、ぼくに言わせれば「失言」であって、つまらないものはつまらないと、どしどしいうべきでしょうと、相手構わず話したのでした。記事を書かれた記者氏によろしくお伝え下さいと、電話を切った。

【有明抄】失言の罪 中学校時代の話。穏やかな陽気の午後の授業は苦手な理科だった。先生の声が子守歌のように聞こえる。居眠りしそうになるのを何とかこらえて50分。終業のチャイムが鳴ると思わず「あー眠たかった」と大声を出した。先生が何も言わず教室を出て行った後、級友たちが口々に「よう言うたなあ」と感心しきり◆その時は深く考えなかったが、やがて「眠たい=つまらない、つまらない=授業が下手」ということを意味すると気づく。正直すぎるのも問題である。いわゆる「失言」だった◆比べる次元ではないが、静岡県の川勝平太知事が、きょうにも辞職願を提出する。新規採用職員への訓示で「県庁はシンクタンク。毎日毎日、野菜を売ったり、牛の世話をしたり、ものをつくったりとかと違い、皆さまは頭脳、知性の高い人たち」と発言した。職業差別ととられても仕方ない。過去の失言も重なっての辞職である◆職業に貴賤(きせん)はない。仕事の価値に優劣もないと思う。どの仕事も社会をうまく回すための歯車だ。言葉は心を伝える手段。逆に言えば、思っていないことは出てこない。川勝知事は心のどこかに「エリート意識」を持っているのではないか◆川勝知事以外にも失言で辞任した政治家は多い。職業に貴賎はなくても、生き方に貴賤は現れるのかもしれない。自戒しなければ。(義)(佐賀新聞・2024/04/010)

 「言葉は心を伝える手段。逆に言えば、思っていないことは出てこない。川勝知事は心のどこかに『エリート意識』を持っているのではないか」という件(くだり)には、少々不満が残るとも。この知事は「(下らない)エリート意識」の塊(かたまり)そのものですよ、なぜそうは書かないんでしょうかね」、とまで言ったものでした。コラムにはいろいろな役割があるでしょうが、風刺や批判、これがいささかでも欠けていれば、コラムは無用に帰するとまでぼくは考えている。地方紙・全国紙(このような区分けはおかしいが)を問わず、すべからくコラムは「単刀直入」「一筆両断」、さらには「正邪曲直」、時にはユーモアを忘れないで、こののような風趣があるといいなあと考えているのです。婉曲や忖度の要素があるとすれば、コラムの役割は半減すること間違いない。(ここでも、毎度のことです、妄言多謝)

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 (この駄文を綴りながら、ベルガンサさんの四十年近く前のリサイタル当日の歌声を聞いています。不思議なものですね。そのときに感じたのと同じような印象、感想が湧いてきました。曲目(プログラム)がそれなりに地味だったということもあったかも知れないが、彼女に特有の「声の張り」「艶(つや)」が足りなかったと思う。演奏会終了後に、ロビーにいた主催者側の一人に、彼女に伝言してほしい「今日の調子はどうだったのか」「疲れておられるんじゃないですか」と。後日、伝言への「感想」を電話で教えてもらったが、彼女いわく「調子は上々だった」と。ぼくはがっかりしたのでした。ぼくは何を期待していたのだろうかと、今は不思議な気がしています。もう一回、別の演奏会は素晴らしいものでした。演奏会と授業は同じでないのは確かです。でも、演奏者と聴衆の、あるいは教師と生徒の、その関係の中に生まれる何ものかがあるなら、「以って瞑すべし」だとも言えそうですね)

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「お為ごかし」は落とし穴だ

 

(以下の駄文は昨年6月23日に書き殴ったもの。それをここに再掲するのは、それだけの「価値」があるという理由などからではなく、一年前に感じたことがそのまま今も同じように感じられたので、これはぼくが歳を取ったせいからなのか、それとも、年々歳々、この社会が辿る(一方向への)傾斜・傾向は強まることはあっても弱まることはないということなのか、それを考える材料にしたいがためでした。それではなぜこの「駄文」なのかというのは、かなりの数の「駄文」をまとめていたある「カテゴリー」から別の「カテゴリー」にそっくり移動させようとして失敗し、それを元に戻そうとすると実に複雑な作業になるのが判明し、ついつい面倒になってすべてを「ゴミ箱」に入れ、そのままになっていた中から、この一つを拾ってきたからです。(ヘッダー写真は日本鳥類保護連盟:https://www.jspb.org/discovery8

 それにしても、「塵(ちり)も積もれば山となる」であり、これまでに書き連ねてきた「駄文の山」は、残された記録によれば、およそ2000個にもなるらしい、いかにも虚仮の一念といえども、それなりに馬鹿にならないね、いや空恐ろしい「塵」が舞っているのが現世だと知らしめられるようで、自分ながらに嘆息もし、苦笑もしている始末。この駄文一個が一日分に当たるとするなら、およそ二千日も毎日毎日、飽きもせずに書き続けてきたことになる。生来「自分は三日坊主」だと自認してきました、もちろん今もなお、その「飽き性」は変わらない。だから、単に「三日坊主」を間断なく、ダラダラと続けてきた挙句の数字であり、駄文はどれだけ重ねてもやはり「駄文の山」でしかないということでもあります。お粗末限りなしと、謝罪あるのみ)(2024.04.23 山埜記)

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(繰り返します。以下の文章は昨年6月23日のもの)

 つい先程、生ゴミを集積所に出してきた。ただいま六時過ぎ。本日は、今のところ曇天です。ラジオでは「明日は夏至」と喋っています。「北半球では昼が最も長く、夜が最も短い日」です。梅雨のさなかですけれど、今はもう夏です。多くの地域で、すでに「猛暑日」や「真夏日」を記録しています。ぼくの感覚では、すでに何年も、いや何十年も前からこの島は「熱帯」に移行しました。海水温が異様に高く、常時、台風や豪雨が発生する条件が揃っている地帯でもあります。また海水の高温化によって、これまで季節の魚、旬の肴として、この島では珍重されてきた魚介類がほとんど不漁です。この先の展望も暗い。それもこれも、科学工業(イノベーション)万能時代がもたらした、ぼくに言わせれば「災厄」でしょう。もちろん、その恩恵によって、生活は「便利」で「効率」が高まったことは事実。今までは自然の変化に合わせて人間が伸びたり縮んだりしていたのが、人間の身体や感覚はそのままにして、環境そのものを変えることができました。これが「科学・技術」のもたらした、人類への恩恵でもあったと言えるでしょう。それは万物の犠牲の上に成り立っている。

 これを言うことは「負け惜しみ」でもなく、まして「自慢」にするのでもありません。ぼくはこれまでに一度も「携帯」「スマホ」を所有したり、使ったりしたことはない。もちろん、パソコンは早い段階から使ってきましたから、スマホの機能の何割かは経験していることにはなります。ただ、パソコンを持ち歩いたりしない分だけが、携帯やスマホの機能の肝心な部分をぼくは経験していないとも言えます。携帯(スマホ)を持ちたいと思ったことはない。勤め人時代、仕事の関係からスマホを持てと勧められたことはあったが、持たないままで通しました。

 (昔話。友人が勤め先ーぼくと同じ学校でしたーから携帯所持を命じられ、彼は素直(お利口)だったから、早速持ちました。この友人と長野のスキー場に出かけたことがあります。さあ、これから楽しく滑りましょう、とゲレンデに降り立った瞬間に、まるで見られていたかのように、上司から「(携帯)電話」があった。「急用があるので、すぐに職場へ」と、彼は大急ぎで、タクシーかなんかに乗ってまでして(都内へと)帰った。それを目の当たりにして、「携帯は持つものではない」と悟ったね。おちおち遊んでいられないからね。*後日談。彼いわく、「急用」でもなんでもなかったという)

 持たないからと、それで「不便」「不都合」は、ぼく自身にはなかった。他人はどう思っていたか。それを持つことが義務だとされれば、ぼくの態度も変わったかもしれません。今のところ、義務化の方向は出ていませんから、このまま「不携帯」で人生を終わりそうです。「日報抄」氏の指摘することは、極めて常識的な範囲でのお話。それをいいとも悪いとも、ぼくは思うわけではありません。しかし、少し油断すると、「全体主義」の圧力のようなものに支配されかねない雰囲気を持っておられることが、ご当人は気づいているかどうかわからないけれど、少々、嫌ですね。たしかに「時代の流行り物」から外れていると、「時代遅れ(out of date)」と言われます。まるで社会全体の足手まといのように。それでも、むしろ「遅れている」方が「まとも」じゃないかと思うこともできるのです。「便利」が何だ、そんな啖呵を切りたいと言う気もします。手を変え品を変え、「最新」に切り替えなさいと脅迫される人も多くいる。まるで、「 up of date」「up to date」 を強いられているようでもあります。「落とし穴」ですよ、どうせ。

【日報抄】80歳を越えた母親は、サービス終了期限が迫る旧型の携帯電話「ガラケー」を使い続けている。家族か友人と話すくらいで、カメラ機能もメールも縁がない▼スマートフォンに保存した写真を見せようと手渡したが、画面を軽く触る操作が難しいようだ。ガラケーのボタンのように強く、長く押してしまうから、思うように写真をめくれない。スマホへの買い替えを勧めても「無理らて」とあきらめ顔だ▼同世代は“タッチパネル恐怖症”が多いらしい。ATMも苦手で、銀行では窓口へ直行。すしや食堂チェーンではタッチパネル注文が増えているが「年寄りが行きにくくなった」と愚痴を言い合っているという▼政府のスマホ利用などの世論調査によれば、使わない、または不慣れな人は約2千万人いるらしい。70歳以上の6割近くがスマホと縁遠い。本県は3人に1人が65歳以上で、全国より7年早く高齢化が進む。デジタル時代についていけない人の手助けが必要だ。より簡単に操作できるスマホの登場も待たれる▼一方で「チャットGPT」など対話型の生成人工知能(AI)は進歩が著しい。文章や画像、音楽も指示に従い、作り出す。著作権や偽情報の発信などの懸念もある中、仕事や教育現場でスマホを通じた利用が広がる▼親しい人の死後も、残された音源があれば生成AI越しに茶飲み話ができるかもしれない。1人暮らしのお年寄りが、スマホやロボット相手にこたつで団らんする-。そんな光景が出現するのだろうか。(新潟日報デジタルプラス・2023\06/20)

 「親しい人の死後も、残された音源があれば生成AI越しに茶飲み話ができるかもしれない」「1人暮らしのお年寄りが、スマホやロボット相手にこたつで団らんする」「そんな光景が出現するのだろうか」と書かれている。そんな「光景」は、ぼくは御免被りたい、断じてお断りだな。ぼくの脳細胞に保存されている、持ち合わせの「記憶」ばかりが、「親しい人との厚情・遭遇」の通路だと考えているからです。まるで「魔法の玉手箱」のように、「スマホ」があれば、いかにも人付き合いが可能である、生者・死者を問わず実現できるとでも言っているように読めます。むしろ、そんなに便利な機器類が「人間の交際」「交流」を妨げているのではないでしょうか。スマホは「機械」であり「道具」です。機械や道具でしかないといいたい。車は便利だから、すべての人(国民)は自動車を所有すべきだ、そんな国家があれば、ぼくは逃げ出す。ただでさえ「国民」にさせられることを厭っているのに、その上に「これは義務だ」、「これは命令だ」と、まるで、投網で人間の自由を補足するかの如き振る舞いは、ぼくには許しがたいものです。「自動車所有の義務化」は、なんだか「マイナカード保険証」の携帯義務化のようで、荒唐無稽であると同時に、ぼくには著しく忌まわしい。誰がなんと言おうと「無理らて」、だ。

 「スマホのススメ」もこの当たりまで来ると「小さな親切」「大きなお世話」になるでしょう。これを「お為ごかし」という。「表面は人のためにするように見せかけて、実は自分の利益を図ること。じょうずごかし」(デジタル大辞泉)実に嫌な雰囲気ですね。「あなたのタメを思えばこそ」と、他人は言う。この台詞(セリフ)を使うのが最も多いのは誰でしょうか。大体の見当は付くでしょう。お為ごかしの常連はいつも言う。「便利」だ、「効率がいい」、とにかく「役に立つ」と。この言葉を耳にしたら、「眉唾もの」と用心するがいい。「ホンマかいな」ってね。まるで競馬や競輪の「予想屋」みたいで、もし本当に儲かる(当たる)なら、予想屋なんかするものかと、顔に書いてある。「マイナカードを作れ」「便利だ」「無駄が省ける」、こんないいものはないといいながら「二万円」(この初期投資で、すでに2兆円の税金投入)を抱き合わせること自体が臭(くさ)い、まるで「ネズミ講」だか「詐欺商売」だと、すでに証明しているようなもの。

 スマホの将来は明るいのか暗いのか。なにしろ、この「新技術」で世界経済をもり立てるという魂胆があるようですから、これからも「スマホ戦略」は衰えることはないでしょう。マスコミも、学校教育も「詐欺商法」「ネズミ講」「投資話」の片棒を担いでいることに間違いはありません。「マイナカ-ド」が義務化できない理由はおわかりでしょうか。それは「スマホ」「自動車」の所有を強制したり義務化することができないのと同じ理由です。どう甘言を弄しても、それは「無理らて!」だ。国民たるもの、すべからく「マイナカード」を持つべし、と法律を作んなさいよ。「カード」の不法所持者は厳罰に処すという法律を、だ。

 お為ごかしは、また「計算ずく」「算盤(そろばん)尽く」にも通じます。どう転んでも「テメエが儲かるよう」な仕掛けがあるのです。マイナカードもスマホも同じだな。同じ穴のムジナ、ですね。どこまで行ってもスマホは機械(道具)です。人間になり代わっていろいろなことをしてくれるから「便利」「楽ちん」です。(人間はいらないということ)だからこそ、機械には二面性(裏表・明暗)があることをゆめゆめ忘れないのが肝心です。「便利」は「アクセル」なら「不便」は「ブレーキ」です。変な喩えですけれど、アクセルのないブレーキは無用の道具(機械)だし、ブレーキのないアクセルは危険な代物。両者を上手に使いこなして初めて、道具の価値があるのです。現実に、スマホの「両面性」を、均衡を壊さないで維持している人はどれほどいるでしょうか。そこへいくと、マイナカードは機械ではないし、だから道具ではない。それがあると「便利」というものでもない。

 第一、このような「生き馬の目を抜く」ようなこすっからい時代、万全のセキュリティをやかましく「喧伝」している時代に、政府勧奨の「暗証番号」が「1234」と四桁だというのです。今どき、「四桁」だってさ。この事(インチキ臭いね)自体がもっとも危険な落とし穴ではないか。政府が導入に躍起になっている裏には「お為ごかし」「算盤ずく」があるという、隠しようのない証拠じゃないですか。(「ああしろ、こうしろ」と セキュリティをやかましく言っている会社[N✕T]が、暗証番号「四桁」のままで放置しているのは、なぜですか?)(そんなことより、「横領」「脱税」にしゃかりきになっているゴロツキどもにこそ「天罰覿面(てんばつてきめん)」が下らなければ話にならんだろうよ)

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※ 追記 案の定ですね、年々酷くなるこの社会の堕落と退廃。なんともいえず「軽佻浮薄」の国民性(ぼくも「国民」の一人だ)に拍車がかかっているようです。「木の葉が沈んで、石が浮かぶ」、そんな時代にぼくたちは生きていとる再確認。改めて、心を曲げない、折らないで生きていかなければと、つくづく痛感するね)(2024/04/23)

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