「一極集中」は諸悪の根源ですなあ

【余録】人口減少は過去にも起きた。縄文時代後半や平安時代。江戸時代後半にも東北や北関東で減少したそうだ。歴史人口学者の鬼頭宏さんは「文明システムの成熟化に伴う現象」と分析している(「人口から読む日本の歴史」)▲多産から少子化。早婚から晩婚化。大家族から核家族化。人口の都市集中。明治以降の日本社会の変化は工業化を軸とした現代文明の帰結でもあった。出生率の低下は先進国に共通する現象だ▲特に日本など父系が強い「マッチョな国」の出生率が低い。こう論じたのは歴史人口学の泰斗、速水融博士だ。男性優位社会で我慢を強いられてきた女性が「子どもを産むだけの人生ではない」と意思表示しているというのである。(⤵️)(愛媛県大洲市の古民家を再生したホテル。同市も「消滅可能性自治体」に該当する=2023年1月、太田裕之撮影 ⏩️)
▲700超の自治体に消滅の可能性があるという「人口戦略会議」の試算に改めて少子高齢化の日本の行く末を考える。流入人口に頼る東京など大都市の「ブラックホール型自治体」の対策が重要というが、それだけで展望が開けるわけではあるまい▲問題は「少子高齢化をどう防ぐか」ではなく「どのような成熟社会を構築するか」。鬼頭さんがこう提言したのは20年以上前だ。速水さんは浮世絵や俳句など江戸の庶民文化が花開いたのは人口減少期と指摘し、価値観の転換を求めた▲旧来の家族観や結婚観にこだわっていては次の世界は見通せないだろう。「人口減少をチャンスにするのもしないのも我々次第である」。4年前に亡くなった速水さんが著書「歴史人口学事始め」で言い残している。(⏪️ 住民が積み上げた石垣が残る群馬県南牧村の街並み。同村も「消滅可能性自治体」の一つだ=2023年6月、田所柳子撮影)(毎日新聞・2024/04/26)

 「人口戦略会議」なる民間組織が投げかけた「消滅への道へ、後何キロ(?)」が方々で議論を呼び起こしているようです。確かに新聞などは、なにかと「話題」に取り上げ、いろいろな視点から記事を仕立て上げてはいますが、果たして、どれほどの危機感を持ったうえでのことなのか、ぼくには疑問に思われます。少し日にちが遅れましたが、コラム「余録」の指摘は大いに頷(うなづ)けるもの、我が意を得たりと言いたくなった次第で、遅まき(旧聞)ながら、本日の駄文のネタにしました。

 あまり好んではいませんが、必要に迫られて「家系」図を観ることがあります。最も有名なのは「源平藤橘」と称される家柄・家筋です。もちろん、一家の興亡盛衰は、これまでに数限りなくあったことで、仮に「家門」「一族」を一国や一都市に擬(なぞら)えるとどうでしょう。興って栄え、栄えて滅ぶ、この繰り返しが「歴史」というものの核心部分であって、たった一つの「家筋」で歴史を説明することはできたとしても、長くてニ、三百年(江戸時代など)。ぼくが住んでいる町は、その「町の歴史(書)」によれば縄文以前に遡る。しかし、現行の町名になったのは、ついこの前です。他の市町村も似たようなもの。いわば「離合集散」「合併 ⇒ 消滅」蘇り ⇒ 再興」…の歴史でもあったのです。その理由は、行政単位の維持、人口増を図るためであったことはすぐに理解できます。小さな村や町が集まって一単位の自治体になる。それを繰り返して、今日に至っていると言えます。この国の総人口の推移をたどることも大切です。しかし、今は消滅してしまった市町村の人口推移を調べれば、いろいろな事実が発見できるはずです。企業は吸収合併を旨として存続を図ります。行政自治体も同じでしょう。

 一人の人間の生涯を考えてみます。誕生し、育てられ、自立し、結婚、家族を構成する、その家族も核家族となり、やがて夫婦は高齢期を迎える。夫婦揃ってか、一人家族か。いずれにしても消える存在です。一人の人間を単位にするか、一家族を単位にするか、一地域を単位にするか、一国を単位にするか。その「単位」の置き方はさまざまではあっても、生まれてしばらく存在し、やがて滅びる。いわば、それが「人間の生態系」です。絶滅危惧や絶滅を示す種族・種属(単位)は無限です。一国の歴史の内容は、いわばその国を構成している、種々の「単位」の栄枯盛衰、興亡の歴史でもあるでしょう。手を変え品を変え名を変えて「延命」を求めることに大義と言うか、値打ちがあるんでしょうか。

 専門家の著書を例にとって「余録」氏いわく。「人口減少は過去にも起きた。縄文時代後半や平安時代。江戸時代後半にも東北や北関東で減少したそうだ」と。アタリマエのことだと、ぼくなどはずっと以前から、素人なりに考えていた。そうなったから、時代区分や時代の名称が変えられてきたのです。もちろん、地名も。ここにも新旧体制間の興亡はあった。問題は「人口減少」や「少子化」の原因や理由の解明にあるのではなく、そのような現象をもたらせた趨勢をどうしたら止められるか、いや、果たして止められるのか、ということ。「集団(社会)の衰退」は、一面では必然なのだと捉えることができるはずだと、ぼくは単純に考えている。

 「消滅自治体」問題に関して。集団(自治体)の滅亡・消滅は、どこにでも、いつの時代にもあった。それが歴史の問題として見逃されがちなのは、いわゆる「市町村合併」が繰り返し行われてきたからです。詳細には触れませんけれど、弱いもの・小さいもの同士を合体させて、結果的にはより弱い大集団を生み出してきたのではなかったか。要するに「数合わせ」に過ぎなかったと、今にして思うのです。小は小なりに、中は中なりに、大は大なりに、かくしていろいろな形態が工夫をこらして生き延びようとしてきたのです。まるで植物・生物の生態系の如く、そこには人為的な摂理が働いてきた。その結果、行き着くところまで来てしまったのが現実、そんな実感をぼくは持っている。

 少子化が諸悪の根源だというような、乱暴な論を振り回す人が絶えませんが、「少子化」に至る経過や原因はどこにあるか。子どもを生む人が少ない、あるいは結婚しない若者が増えたからだ、とするなら、なぜ子どもを生まない、結婚しない人が増加したか、それにはいくつもの原因や理由があるでしょうが、一つには生活の資に十分な稼ぎがないからだということになる。だとするなら、収入増を図る手立てはいくらもありそうだが、今では相当数の労働現場では「非正規雇用」が一般的になっており、生計を維持するだけの収入を得るのは困難な状況にある。ならば、その隘路(現状)を改革するためにはなにができるか。ここに来て、政府の「雇用政策」「働き方政策」の根本改革に求めるしかないというのが大方の見方でしょう。

 この先を延々と続けることは無意味ではないにしても、堂々巡りをするばかりだと、先刻承知しているので、ここまでにします。結婚しない若者が増えたと言いますが、実際は「したくない」若者が増えたのではないでしょうか。単に経済的理由だけで「婚姻数の減少」を説明することはできるでしょう。でも、そこから外れる人たちがいることも事実です。女性の活躍する時代が、まるで両手を上げて賛成すべき事象のように受け止められています。しかし、女性の社会進出は、従来の「夫唱婦随」というか、「専業主婦」の習俗(「美徳」と見る向きもある)が壊れることを意味します。「共働き」が多くなる背景には「養育」「保育」「教育」の場面における十分な援助や体制整備が求められます。それも現状は不十分だと言う他ない状況にあります。

 この問題をどのように捉えるか、少子化に始まって、究極は「消滅自治体」の手当をどうするかになるでしょう。素人の怖いもの知らず、そんな視点からこの問題の核心を突くとすれば「諸悪の根源は一極集中にある」ということになる。何事も「一極集中(wholly directed to one thing)」はよろしくないのは言うまでもありません。権力の集中は、謀反によっていずれ瓦解する運命にある。企業における「独占(Exclusive)」状況は、これまた「恐竜の絶滅」の過程をたどるはずです。ローマ帝国などの「大国主義」も「幕藩体制」の一族支配も、やがては沈没する大型客船のごとしです。大きいことは、その「後」がないことを示すんですね。大きくなりすぎて、自らを支えきれなくなる。マンモスの自己崩壊(self-destruction)・自己消滅(self-annihilation)です。

 現下の最大課題は、過度の「一極集中」の排除、あるいは徹底した是正にあるのは、誰にも分かるはずです。長くその「非」が指摘されながら、一向に集中の傾向が改まらないのは、なぜか。過度の都市集中の結果でもある「少子化」の現状を放置・等閑視している政治行政の無作為に、その責任のかなりな部分があると思っている。これまでに他国においてもこの「一極集中」の是正に挑んだところはいくらもありますが、そのどれもが失敗だったとは言えないにしても、上首尾だったと諾(うべな)うことができないものでした。そして、いかに強権を発動して「一極集中」を廃したところで、新たな「一極」が生まれるのは避けられません。その繰り返しだと言えなくもないでしょう。政治行政がその力を振るって「一極集中」を是正できないと、どうなるか。それが現実に生じている事態です。その「事態」に何を観るかに、それよって、この国や社会の運命は大きく左右されると言えますね。果たして、未来は明るい?(まさか!)

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 「三代の栄耀(えよう)一睡の中(うち)にして、大門(だいもん)の跡(あと)は一里(いちり)こなたに有(あり)」「『国(くに)破(やぶ)れて山河(さんが)あり、城(しろ)春(はる)にして草(くさ)青(あお)みたり』と笠(かさ)打(うち)敷(しき)て、時(とき)のうつるまで泪(なみだ)を落(おと)し侍(はべ)りぬ」(「奥の細道」)

夏草や兵どもが夢の跡(芭蕉)
・五月雨の降のこしてや光堂(芭蕉)
・卯の花に兼房みゆる白毛かな(曽良)。

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かくも長い不在のつづく…

【いばらき春秋】帰宅するとポストに不在票があった。通販サイトで買った商品を郵便局員が昼間、届けに来たらしい▼電話で再配達を頼み、その日の夜に小荷物を受け取った。雨にぬれた局員が去り際、「ご希望なら今後置き配します」と書面を差し出した。宅配ボックスや車庫など不在時の置き配場所を郵便局に指定できるという▼平成の大合併前、商店や酒屋、魚屋も近所にあった。店主の高齢化で次々姿を消し、わが家から最寄りのコンビニまで約2キロ。車で市街地に行かないと食品スーパーはない▼コンビニなどから500メートル以上離れた場所に住み、車を利用できない人を農林水産政策研究所が推計した。買い物が困難な65歳以上の「買い物弱者」は全国に約904万3千人、65歳以上人口の25.6%を占めた。本県も約22万2千人に上る▼生まれ育った土地で暮らせるなら多少の不便は承知の上。家まで届けてくれる通販や宅配は大変ありがたく、齢(よわい)を重ねれば頼みの綱となる。物流を支える運転手が不足し、その綱が切れないかと心配が募る▼配達員の負荷を考え郵便局に置き配を届け出た。便利な都会で暮らす国の政治家は、不便を甘受してでも古里を守り続ける地方の人々に手を差し伸べてくれるだろうか。(山)(茨城新聞・2024/04/25)

 いつも話しているように、ぼくはいささか辺鄙(へんぴ)な場所に住んでいます。以前に長く勤め人をしていた時代も、通勤時間は一時間半はたっぷりかかったし、帰宅の際は「七時間」かかるのはザラでした。もちろん寄り道をしたからで、とても「素面(しらふ)」では帰れないという事情もあったからです。なぜだか、小さい頃から便利(賑やか)な都会(街中)は好きではなかった。生まれたのが能登半島だったことが深く関わっているのでしょう。学生時代は学校まで都電で二十分くらいのところ(文京区本郷)に住んでいました。上野へ十分(徒歩)、銀座へ三十分(地下鉄)、とまるで都心とも言うべき環境に十年も住んでいて、ほとほと(車や何かが)煩(うるさ)くなり、住む場所も決めないままで、千葉県に引っ越した(住所不定)。引越荷物を車に積んでから、住むところを探したという塩梅で、そのときは幸いにも、偶然「恩師」に助けて(拾って)もらった(1972年春)。というわけで、以来半世紀を越えて、不便なところを求めて住み着いたのでした。

 今の場所に来る前は、何よりも「始発駅」をという次第で、わざわざ新規営業の地下鉄を選んで、家を建てた。行きはよいよい帰りは怖い、勤めが終わると呑み屋に日参、時には終電(午前零時)を逃すことが続いたりしました。それ故に、少し早めに切り上げ、余裕を持って乗り込むようにしました。そこで困ったのは、すっかりいい気分で乗り込みますから当然、車中で眠りに入る、終点についても寝ている、駅員も誰も起こしてくれない。電車は折り返し運転。眠りから覚めて気づくと、いつもの駅の隣の駅(しかも反対方向)だったということが何度もあった。それでもこの悪習から抜けられませんでした。職住接近は、ぼくの性分にはまったく合わなかった。

 宅配便や郵便物の「不在票」についてなにか書こうとしていますが、ここまで来ると、自分が「配達される荷物」になった気がしてきます。何処から何処に動いているのか、動かされているのか、段々とわからなくなるように生きてきました。自分のことながら、つねに「所在不明」という感覚が失せなかった。それをしばしば、「ここにいて、ここにはいない」という言い方で語ったりしました。やがてそれは、教師というものの立場にかかわらせて、「教室にいるが、いない存在」として教師を規定したりしました。「不在」という名の「存在」と言っても分かるでしょうか。確かに「不在」だけれど、その「存在」は何処かにある・いるのです。何処かにある(いる)からこそ、「ここには(今は)不在」となるのですから。(「誰」から「誰」への荷物(?) 判読不能だそうです」

 ぼくの個人的な体験から言いたくなるのですが、ものを学ぶという経験は「自らが」でなければならない性格のものでしょう。「先生が教える人」「生徒は学ぶ人」という役割分担は、その意味では「学習の不成立(不在)」を示していると指摘できます。「決められたこと(知識と称する「言葉のかたまり」「記号」)」を生徒に伝えるのが教師の仕事、その伝えられたものを受け入れるのが生徒の役目。これを「銀行型教育」と名付けた思想家がいました。〈Banking Education〉と。このとき、教師は「預金者(depositor )」で、生徒は「金庫(depository)」となる。よく言ったものですね。小学生は「金庫(禁錮?)六年」、中学生は「金庫(禁固?)三年」だなんて、ね。本来、銀行業は「融資(loan」」と「預金(deposit)」の間の「利ざや(margin)」稼ぎで成り立っていました。今日のように、この「利ざや」が稼げないとどうなるか、企業として生き残ろためにあらゆることに手を出します。それでもうまく行かなければ、市場から撤退を余儀なくされる。

 学校教育産業も、官営民営問わず経営は苦しい。まして「AI」なる人工知能が幅を利かせる時代です。教師の「知識」も色褪せてくるのは避けられない。おそらく、遠からず、学校という建物(大型金庫)は不要になり、それぞれがネットを通じて「AI」を駆使するようになるでしょう。もうその傾向は出始めています。学校や教室には教師も生徒も「不在」であり、教師という存在、生徒という存在自体が「不在」「不要」になるのでしょう。つまるところ、役割分業(division of labor)の不在です。ここまで来ると、役割(role)と地位(status)で成り立つ「社会」そのものが「不在」「不要」を免れないことになるでしょう。この傾向や現象は至るところで認められています。

 まず、最小の社会集団とされてきた「家庭」の崩壊です。そこには夫も妻も「不在」勝ちであり、当然のように「父と母」も「不在」となるのは必然です。その結果、今まさに「子ども不在(少子化)」が爆裂中です。社会崩壊という現象・事態は望ましいことではないでしょうが、ことの経過の中で生じてくる必然現象のようにぼくには思われる。社会という役割群同士、地位群同士で成立する前提が壊れているのですから、「社会(society)」が至るところで崩壊してくる。家族単位でなりたつ「地域社会(village)」は、早晩いずこも「限界集落(marginal village)となり、ついで「消滅集落(disappearing village)」となることは避けられません。

 ぼくが住んでいる町の人口は、本年四月一日現在、6288人です(一世帯あたりの人口は2.11人。脅威的ですね。我が家はかみさんとぼくと、猫が二十人です)。昨年の出生数は17人。年間百人超の人口減(死亡数と転出数)で、このままでは半世紀の後まで、この「社会(集団)」を維持できるとはとても考えられません。つまりは「社会崩壊」、いや「社会消滅」です。この問題は「長柄町」だけではなく、あらゆる地域で直面している問題でしょう。社会(集団)不在、住民不在であり、それは産業不在、教育不在に直結している。

 「宅急便」「宅配便」「郵便物」などの「不在票」をつらつら眺めていて、良からぬことを妄想しかけています。「かくも長き不在」とつぶやいてみて、大学に入った年(1964年)に公開された同名のフランス映画を思い出しました。詳細は書きませんけれども、招集されて戦争に出かけた夫。その長い「不在」のままに、妻はパリの裏町でカフェを営んできた。その店の前にある日、一人の男性が現れた。もしや…と、その姿を追い続け、長く帰らなかった夫だと確信する。だが、その「浮浪者(Vagabond)」は記憶を失っていた。…若いぼくには難しい映画だったと思う。暗いスクリーンの中のいくつかの影しか記憶の淵に残ってはいないのです。いわば、「記憶の不在」です。

 かくして、すべては「記憶」から消失し、やがて、それが「不在」だと口にするものさえいなくなる。これが「歴史」なのでしょうか。「消滅自治体」が盛んに論じられるが、おそらく、いつの時代でも、あるいは同じ杞憂や対策が論じられてきたにちがいない。しかし、存在するものは不在(消滅)となる、これが「運命」であると知れば、「消滅集落」に一時、わが身をおいていたという事実、それが生きるということだったと気がつくはずです。「不在」とは、「存在(するもの)の影」です。ぼくたちは、ひょっとして「影」を見て「存在」だと錯覚しているのではないでしょうか。影になっているものの「姿」こそが、ぼくたちの視界から消されているのです。「とても簡単なことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない(Le plus important est invisible」(「星の王子さま」)

 「目にはみえない」と言うからには、何によってみることができるか、それが問われているのでしょう。「心で見なくてはよく見えない」と作者は言う。「心眼」という邦語に思い当たります。難しい表現です。「物事の真実の姿を見抜く、鋭い心の働き。心の目。しんげん」(デジタル大辞泉)とは、「慧眼」「炯眼」ともされるような、人間の範囲を超えた識力なのでしょう。見えるものには見えるということなら、ぼくには「影」は存在そのものとしか映らないようです。「慧眼」とは元来は仏教の言葉で、「えげん」と読む。「一切の事物を空であると見通す智慧 (ちえ) の目」と言うそうですから、まんざら、ぼくは空理に走っているのでもなさそうですが。

 眼前にあるものは、「存在の影」であって、その影を手がかりに、ぼくたちは影になっているもの(真物)を思い描くのでしょう。「不在」とは、眼の前にはいないものを言うのであり、その「不在」は,きっと「存在」するものを暗示しているにちがいないのです。まるでプラトンの(イデヤ論)見たいな細かい理屈にはまりかけているので、本日はここで止めておきます。

 最後に、言わずもがなの一言です。この「限界集落」=やがては「消滅集落」に住みだして十年を越えました。不便なところですから、近間の店では手に入らないものはネット通販で購入する習慣がつきました。平均すると週に一回ほどでしょうか。この十年、拙宅のポストに「不在票」が入ったことは一度もない。荷物を配達する経験を、ほんの僅かな期間でしたが、大学入学後(1964年暮れ。荷物を一個運ぶと百円だった。今日も、それとあまり変わらない値段だと聞いて、なお「不在票」は厳禁と決意したことでした)にしたことがあり、この「不在」には困り果てたからでした。眼の前にはいないが、何処かにいる、そんな存在の不在。

 「不在票」を書く人の感情(気持ち)が分かるとでも言うべきか。急用などで、予定された日に不在になってしまうときは、あらかじめ連絡を取って、日時を変えてもらっている。ところで、この荷物配達時の「不在」なら、日程は変えられますけれど、どうしようもない「不在」、運命としての「不在」に対して、どうすればいいのか、それを考えると、「人間存在」、つまり「人間不在」とはなんとも不思議な現象だということに気が付きます。(⏪️ バレンタインデー当日に荷物を配達した人に「ケーキ」か何かを、受取人が贈った、それへのお礼状というべき「不在票」です)

 (追伸 忘れているわけではありません。本日は「憲法記念日」。ひょっとしたら、戦後一貫して維持されてきた「憲法」は風前の灯と言うべきなのでしょうか。多数を占める議員諸侯の、その殆どは「公金横領」を犯し、ぬけぬけと「脱税」なる違法行為に及んで、しかもなお、お咎めがないという「法の下の平等」を白昼堂々と虚仮にしているやからです。法を遵守する精神どころか、それをさらに自らの悪行に相応しいものに変えてしまおうという盗人根性、猛々しいというべきでしょう。薄汚いことおびただしい。この「憲法」に泥を塗る行為は、おそらく「売国行為」と双子だと思う。この問題だけを取り出して、丁寧に「遵法精神」以上の精神が求められる「現行憲法の現在」を、ここに来て軟化著しい脳細胞で愚考してみたい。それを元手に、少しは表に出て「愚行」に及ぼうという寸法ですよ)

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生まれて来たい環境はどこに?

 このところいくつか気になっていることがあり、その第一は「鶯(ウグイス)」です。天候不順が続いているからなのか、さっぱりウグイスが啼かない、啼き声が聞こえてこないのです。ぼくのメモでは3月21日に「初鳴き」を耳にしました。例年と比べて遅いのか早いのか。不確かな怪しい感覚から言うと、いつもよりは遅いという気もします。桜の開花が遅かったように。気候や気温とは無関係ではないでしょう。さらに気がかりなのは「初鳴き」から一ヶ月が経過しましたが、どこからも、まず聞こえてこないんですね。ゼロではないが、隣の竹林からは滅多に聞こえてこない。今年は筍(タケノコ)が豊作だと言うから、それと関係があるのかないのか。知らないのに、あまりいい加減なことも言えない。

 ウグイスの巣は、子どもでも手を伸ばせば届くくらいの低いところに造られるという。その巣が数少なかったということも考えられます。季節が変われば、開花・結実する草花の種類も変わる。まあ、あえて言うなら「silent spring」のようで、あまり気分が愉快ではありません。ぼくは鳥類などの自然の生態系についてはそれほど熱心な観察者ではありませんので、悔しいけれど、これ以上の何事も喋れないのは情けなくもあり、哀れでもあります。(ウグイスの生態を調べる気はないけれど、いわば隣の竹林の住人です。その様子が気にならないはずもないので、今少し学習してみます)

 (ヘッダー写真は日本鳥類保護連盟「ウグイスの不思議」:https://www.jspb.org/discovery8

 「ウグイスの社会は一夫多妻という雄1羽が複数の雌とつがいになる繁殖システムです。以前にホトトギスの研究をしていた際、ホトトギスはウグイスの巣に托卵して雛を育ててもらうので、ウグイスの巣探しを行ったことがあります。春から夏の終りまで、ウグイスの繁殖期は長く4月から8月まで続き、薮での調査は過酷です。特に7月や8月になると、薮に入るのが嫌になる。もう、拒否症状が出るくらいです。そんな調査を続けていると、1羽の雄のなわばりで5~7個くらいの巣が見つかります。繁殖ステージ(卵やヒナの成長段階の違い)が同じものもありますが、一夏を通して順に見つかる新しい巣も多くあります。また、捕食圧も強く、見つかる半分の巣は、既に捕食を受けて、その後も巣に卵が入ることはありませんでした。さて、一夫多妻のウグイスの雄は子育てへの協力は一切しません。造巣、抱卵、育雛は全て雌の仕事、雄の役割はなわばりを見回り、捕食者が近づくとケキョケキョ・・と、谷渡りと呼ばれる鳴き方で、けたたましく鳴いて、雌に警告すること。後はホーホケキョと囀り続け、他の雄を排斥し、新しい雌を呼び寄せ、繁殖をしてもらい、自分の子孫をより多く残すという、一本道で動いています」(上掲・既出「ウグイスの不思議」)(左・右写真は「カラスのねぐら」都市部の烏は鉄線のハンガーまで巣作りの材料に。快適な巣だと言えるんでしょうか、一度は烏に聴いてみたい)

 竹林の未整備放置は全国の問題であろうと思われますが、ぼくが住んでいる房総半島は時に大きな課題として「荒れ放題の竹林」問題が取り沙汰されてきました。竹材にはさまざまな利用価値があるようでいて、それがなかなか広がらない嫌いがあります。「竹炭」や「竹細工」はよく知られています。しかし、それは竹の種類を選ぶので、消費量は多くを期待できません。食用筍(たけのこ)の多くは孟宗竹でしょう。しかし、それを売り物にするためには、各地に競合する生産者がいますから、必要以上に商品価値を出すために資力や労力が求められます。そのような条件が揃わないままで手入れも放棄され、竹は他の植物を圧する成長力で一気に群生してしまうのでしょう。我が家の三方は、もともとは、杉と檜の植林地だったのに、いつの間にか、竹林然として植林された樹種を圧倒するまでに育っています。

 つまり、荒れ放題に任せられた竹林では「(綺麗好きの)ウグイス」は子どもを作りたがらないというのかも知れない。ウグイスには「孟母三遷」の傾向があるでしょうね。あるいは、それ以上に、卵をつねに狙っている「禽獣」がいますから、その襲撃を受けることを嫌って、移住・移動してしまったのかも知れません。いずれにしても、年々歳々、ウグイスの啼き声が聞こえなくなる傾向にあるのを否定できないのです。家の近くには乳牛用の牧場があります。すべてが牛舎内で育てられていますので、その飼料を求めて大群の烏が一日中順番待ちをしている。そして夕方の五時になると塒(ねぐら)に帰る。町の防災無線拡声器から流れる「夕焼け小焼け」に歩調ならぬ、「飛調」を合わせて、です。この数たるや、恐怖を覚えるほどです。時々、竹藪の中にある「杉の木」の上辺で巣作りをしているし、庭の手水鉢の水を飲みに来る際に、まさしく「卵」を咥(くわ)えてきて、それを石に当ててて割って食べるのだ。小さな卵の殻を見るたびに、ウグイス減少(?)の原因の一つを思ったりする。

◯ ウグイス(うぐいす / 鶯)bush warbler [学] Cettia diphone= 鳥綱スズメ目ヒタキ科ウグイス亜科の鳥。ウメの花が咲くころ人里近くでホーホケキョ(法、法華経)と鳴き始めることから、ハルツゲドリ(春告鳥)ともよばれ、親しまれている。秋から春にかけては平地や低い山で過ごし、チャッチャッという声(笹鳴き(ささなき)という)を出しながらやぶを伝っていくので、このころのウグイスをヤブウグイス(藪鶯)ということがある。夏に山の中でさえずっているときに何かに驚いて、ケッキョー、ケッキョーと鳴きたてるのを「鶯の谷渡り」という。形態・生態 ウグイスの分布は比較的狭く、日本と、アムール川(黒竜江)から揚子江(ようすこう)にかけての東アジアにのみ産する。日本では小笠原(おがさわら)諸島、南西諸島などにも分布している。渡りについてはよくわかってはいないが、樺太(からふと)(サハリン)南部、南千島、北海道では夏鳥であり、海を越えて渡るものがあることは確かである。本州以南のものは、平地に漂行する程度の、ごく小規模な移動をするものが多いと考えられる。(⤵️)
雌雄同色で、上面はオリーブ褐色(いわゆる鶯色)、下面は汚白色。雄が一回り大きく、全長約16センチメートル、雌は約13センチメートル。繁殖期のウグイスは、山地の大きな樹木の生えていない明るいササやぶを中心に生活し、巣はササの枝、または低木の地上1メートルぐらいのところにつくる。巣の外形は、ササの葉を絡ませた球形で、横に丸い入口があいている。卵の数は4~6個で、鳥の卵としては珍しく光沢のある赤褐色。営巣場所の決定、巣づくり、抱卵、育雛(いくすう)はすべて雌だけが行い、雄はもっぱら縄張り(テリトリー)の防衛にあたる。/食物は四季を通じて、昆虫類、クモ類がおもで、低木やササを飛び移りながら、体の上にある枝や葉の裏側を見上げて獲物を探し、伸び上がって、または飛び上がって捕まえる。冬には熟したカキなど、植物質のものも多少とる。ウグイスの好む明るいササやぶは、日本の自然では山火事や崖(がけ)崩れのあとの裸地にのみ一時的に生じるもので、いずれは森林に変わっていき、ウグイスはすめなくなる。しかし現在の日本では、森林の伐採や林道の建設などによって、図らずもウグイスの好む環境づくりに人為的な力が働いている。(日本大百科全書・ニッポニカ)

 まるで荒唐無稽なことと一蹴されるようなことを考えています。ウグイスの「子」は、今のような環境には生まれてきたいとは思っていないのではないか、と。卵子や精子に何事かを望んだり望まなかったりする神経(感覚・感受性)があるとは思えませんから、おそらく、「本能の仕業」として、ウグイスの雌・雄が「受精」したくなる環境ではないと、真っ先に「生殖」を控えたとは考えられないか。人間だって、こんな人口稠密(ちゅうみつ)な都会地では子どもは生み(産み)たくないと、身につまされて、男・女は直感することはありそうだし、その意図が働いて「受精」したくないと「卵(以前)」は直感するかも知れぬ。

 人間の世界の「少子化」は、人間だけで終わらないのであって、人間の住む環境内の動物たちも、それに応じて「少子化」を来していると、ぼくは考えてみる。これはあくまで、ぼくの勝手な愚想です。身近な生物がいなくなる、あるいは遠からずいなくなると危惧されてきたのは、理由のないことではないでしょう。人間自身が、ある時期(近代・現代とされる、この百年~二百年)に集中的かつ継続的に自然環境を破壊し続けた。それが「進歩」なんだと錯覚し、その実は「破壊」であると気が付かなかったのは「ヒューマニズム(人間中心主義)(唯我独尊)」のお粗末さだったが、それだけでは終わらなかったことに気がつくには、更に時間を要した、それが「今日の実情」だといいたいですね。

 この駄文を書いている今(午前八時前)、家の前方で「ウグイスの一声」が届きました。「ここにいるよ」と教えてくれたのかな。先ほどゴミを出しに行くとき(午前六時半)、家の前の電線に烏が藁屑(わらくず)を咥えて、長さを揃えているようなんですね。いずれの世界も生存競争が激しいのか、仲間内での仕事が多すぎるのか。人間と同様、ウグイスも烏も子を生み育てるのは雌(♀)であって、雄(♂)は何処で何をしてるのか)

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 田舎だから、都会地では感じられない「自然環境」の変化や変容を肌で実感できます。それはいいことばかりではなく、むしろ忌避したくなるような光景に出会うこともあります。この二週間ほどの間で、近所のすべての田んぼに稲の苗が植えられました(これを「稲植え」と言わずに、「田植え」というのは面白いと言うか、何処か変ですね。大根の種苗を蒔いたり植えたりするのを「畑植え」とはいわない)(さらに余計なことをいう。人間が手で植えたから「手植え」、それが「たうえ」になって「田植え」と書かせるようになったのです。「ておる」は「手折る、それが「手折る・たおる」になったのと同じ)手植えならぬ「機械植え」はあっという間の出来事で、今年は、たったの一度も「田植え(機械植え)」に遭遇しなかったのは、迂闊でもあり驚きでもありました。更に気になるのは、昨年よりももっと「休耕田」が増えていることです。この近辺では、耕作しない田んぼには他の穀類などを蒔かない(植えない)のです。あるいは法律か何かで「耕作放棄地」に何かを植えたり育てたりしてはならぬと決められているのか。

 それはともかく、間もなく農薬散布期が来ます。ぼくたちは無関心だからか、どれくらいの頻度でどんな農薬を散布するのか、知らないでも平気でいます。ぼくはこの地に越して来てからは、「隠れ(ステルス)農協員」で、毎月「農協だより」が届けられます。それを暇な折に見ていると、年中農薬が散布されていることに気が付きます。この近所の農家で「無農薬」を実施しているところはないのではないかと思うほど、大々的に散布します。ある種の農薬はドローンで、別の種類は従来方式の機械散布で、という具合です。何が言いたくて、こんな「農薬」の「散布」を書き出したか。先に書いた、春から夏の「ウグイスは何処へ」と同じように、秋の「気配」の配達屋さんだった「赤とんぼ」がすっかりいなくなったのはどうしてか、それを見てみたかったから。田植え、除草(農薬散布)、稲刈り、そして「夕焼け空が真っ赤っか」という、安易な連想を働かせたいと考えたからです。ところが、農薬散布で「ヤゴ」があらかたいなくなった。つまりは駆除されたのです。親になるトンボがやられた(絶やされた)ということでもあります。

  近所の田んぼでは農薬散布は専用の小型ヘリ(最近はドローンらしい)で実施しますから、その半月ほど前には散布地帯の道路側には「散布日時」などの看板が出ます。「危険ですから、近寄らないでください」と。もちろん、これは米作りには欠かせない必須の作業です。だから、それを止めるべきだというのではありません。現実に、散布された農薬はまちがいなしに駆除すべき「虫たち」を攻撃するでしょう。しかし大量に撒かれた農薬は田んぼの水に溶け込み、その水はいずれは用水路を流れていきます。今の用水路は、土ではなくコンクリートですから、そこに生育していた虫たちもいなくなりました。ゲンゴロウもアオガエルも、そしてトンボの子であるヤゴたちも。この農薬散布がもたらす結果は、それが人間の生活には必要な作業であっても、それ以外の虫たちや鳥たちには有害であって、その生存に関わる、それをどうするかという問題は忘れられていいのですか、という埒もない問題にこの数年間悩まされているのです。

● やご【水=蠆】トンボ類の幼虫。水中にすみ、羽化までふつう1~3年かかる。体は円筒形でやや平たく、下唇の先端にあるはさみを突き出して小動物を捕らえる。直腸の変化した気管鰓えらで呼吸するが、イトトンボ類では尾端に3枚の鰓をもつ。やまめ。たいこむし。《季 夏》 
◯ アカトンボ 体が赤色のトンボは多数あるが,日本で狭義のアカトンボ(標準和名はアカネ)として扱われるのは,トンボ目トンボ科アカネ属Sympetrumに含まれる約20種を指す。もともと北半球の昆虫で,ヨーロッパからアジアの北方にわたって約35種,北~中央アメリカにかけて約10種が知られる。日本産の種はアジア大陸の北東部と共通のものが多い。一般に羽化したばかりの成虫では体の地色は全体黄褐色で,成熟によって赤色化するもの(アキアカネ,ナツアカネ,ミヤマアカネ,リスアカネ,マユタテアカネ,ネキトンボなど多数),黒色化するもの(ムツアカネ),青黒色で白粉を帯びるもの(ナニワトンボ)などがある。しかし雌は原則として羽化直後の黄褐色を保ち,例外的に赤化する個体がある(マユタテアカネなど)。日本でもっともふつうに知られるアカトンボはアキアカネとナツアカネで,秋の初め群れをなして飛びかうようすは古くから詩や歌に詠まれている。名まえにナツ,アキとついているが,ともに夏から秋まで見られるので季節によって区別できない。アキアカネS.frequensはヨーロッパ大陸の北方に産するタイリクアキアカネの日本列島型で,形態や習性にもだいぶ違いがある。(⤵️)
東京付近では6月下旬ころにいっせいに羽化し,ときに群飛していずれかへ飛び去る。その行動は詳しくはわかっていないが,平地から山地に移り,7,8月の盛夏には山地の高所,ときに3000mくらいまでにわたって多くの個体が認められる。ここで秋がくるまで摂食生活を過ごし,温度の低下とともに雄は赤色化し,しだいに低地に下がっていく。しかし羽化した場所に戻るかどうかは確かめられていない。成熟個体は平地で交尾産卵(打水産卵)する。雌雄ともに12月の上旬まで生きのびるものがある。卵は水底で冬を越し,翌春温度の上昇とともに孵化(ふか)して1齢幼虫となる。幼虫は小動物を食べ,9回くらいの脱皮をして,6月末には水辺の植物にのぼって羽化する。体長約4cm。ナツアカネS.darwinianumもほぼ同様な生活史をたどるが,これは長距離移動を行わない。おそらく森林の樹上または林中に散って夏を過ごし,秋には美しく赤色化して再び水田などに現れる。体長約4cm。日本と中国中部にだけ分布する。(改訂新版世界大百科事典)

 「夕焼け 小焼けの 赤とんぼ」、「追われて泣いたのはいつの日か」。この問題は夏が過ぎる頃に、再度愚考することにします。

蛇足 昨晩九時ころだったか、福岡の田舎から友人(年下の女性)が電話をかけてきた。もう四十年も付き合っている元彼女(今、他人妻)からです。何事かと尋ねると、詩人のアーサー・ビナード(Arthur Binard)さんが「電話したい」と言っているという。彼とは二周りも年齢が違う。早くからぼくは大ファン(の域を超えているかも知れない)で、掛け値なしに何かと教えられた。囚われのない思考とその態度、「思い立ったら吉日」というばかりの行動力。言うまでもなく、相当な勤勉家(a diligent worker)です。若い教師(先生ではなく「後生」として)のように見なしていた彼からの電話でした。こんな奇特な(物好きな、か)アメリカ人もいるという発見、それが三十年も前の経験だった。ぼくにはとても新鮮だった、もっと言うと、それは、彼を介しての「日本語再発見」だった。昨夜は、一時間以上も話したでしょうか。そのことについても、「他人妻」についても、いずれ稿を改めて)

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加害者は誰で、被害者は誰なのか

 大学に入学した頃、既に「水俣病」の原因(チッソ工場海中排水による有機水銀中毒)は特定されていました。しかし、会社側や政府はそれを潔く認めようとはせず、八方手を尽くしてチッソと病気の因果関係を否定し続けていた。その間には、学術調査と称して実に怪しい面々(主に有力大学の専門家たち)が、珍説や奇説を吹聴していたことを覚えています。中には、戦時中に水俣湾に投下された爆弾が原因であるという、驚くべき妄説を言い張った大学教授もいた。決め手は原因企業だったチッソ付属病院の院長だった細川一(はじめ)氏が「34年10月、工場廃液を混ぜた餌をねネコに食べさせ(ネコ400号の実験)水俣病が発生したことを工場幹部に報告した」(20世紀日本人名事典)ことだったが、「会社は実験禁止を通告」し、未解決のままでいたずらに時間が過ぎたのでした。紆余曲折を経て、漸く会社や厚生省が認めたのは戦後もかなり時間が過ぎた73年3月だった。(左上写真は原田正純氏)

(ヘッダー写真は「チッソ水俣工場の排水で汚染され、現在は美しさを取り戻している水俣湾=11月26日、熊本県水俣市)」西日本新聞・2020/12/10 6:00)

【新生面】水俣病68年 記者にとって、かつて赴任して働きながら暮らした地域は特別な場所だ。その後どう変わっていったか、ずっと気になっている▼「人口戦略会議」が先日公表した「消滅可能性自治体」のリストに水俣市が入っているのを見て、何とも言えない気持ちになった。水俣市ほど地域振興を渇望し、実践してきた自治体は少ないはずなのに▼政府・与党が水俣病未認定被害者の救済策をつくる際、併せて約束してきたのが地域振興だった。地域全体が癒やされなければ真の救済は果たされない。行政も被害者団体も認識を共有してきた▼1995年の「政治解決」の際、ある被害者団体の代表は環境庁(当時)の担当者から「解決策をのまなければ地域振興も流れる」と迫られた。「極めて不本意だが、拒否すれば地域住民を敵に回す」。代表は“苦渋の決断”の理由をそう打ち明けた▼2009年施行の水俣病特別措置法も被害者救済と地域振興がセットになっている。策定に携わった環境省幹部は、高齢化と地域経済の疲弊が進む水俣を「日本の縮図」と呼び、「水俣での(地域振興の)挑戦が日本再生の鍵を握っている」とまで語っていた▼しかし現状はどうか。被害者救済はいつまでたっても完遂されず、地域は「消滅」の危機にある。きょうは水俣病の公式確認から68年の節目の日。水俣市で開かれる犠牲者慰霊式には環境相も参列する。「地域の声を拝聴し、できる限りのことをしたい」とのことだが、いったい何を約束し、実現してくれるのだろう。(熊本日日新聞・2024/05/01)

 昨日も同じようなことがら(問題)に触れましたが、歴史の事実を隠蔽したり、捏造したりして、結果的には間違った事実を信じ込ませるという弊害を生み続けてきたのが、権力者側だったとも言えます。確かに水俣病問題は大きな山場を超えたと言われますが、今なお未認定患者問題は残されたままです。さらには胎児性被害者の問題がこれからも続きます。工場排水の海洋投棄による水銀汚染は早く、戦前から発生していました。その間、数十年も会社や政府当局は不作為を決め込んで、未曾有の大公害を生み育んでしまったのです。正式認定から68年、ぼくはこの間、ずっとこの問題に関心を持ち続けていたとは言えませんが、大筋では一貫して学習する姿勢を保とうとしてきたことは事実です。ここにおいても、それによって「君には何ができたのか」と問われれば、返す言葉もありません。しかし、問題の軌跡をたどりつつ、若い人たちに問題の所在を語り続けてきたことも、誇るべき何ものではなくとも、無関心ではなかった証拠にはなるでしょう。

 そんな素人につねに学ぶ機会を提供してくれたのが原田正純さんでした。原田さんの水俣関連の初期の著書、「水俣病」「水俣病は終わっていない」は、ぼくにとっての道標になった。地元の大学に所属しながら、地元の最大企業を告発するという原田氏の姿勢、それはまるで孤軍でチッソ城という「城攻め」をするような趣に映りました、その姿勢は研究者として当然であったでしょうが、大学当局などは、決してそれを容認はしなかった形跡は方々に認められます。科学者(医師)としての誠意が、そのまま「水俣病問題」に通用しないという理不尽を原田さんはよく語られたかどうか、ぼくにはわかりませんが、その葛藤からはたくさんのことを教えられたと思うのです。この問題は、今では原発事故による「被爆」に関する問題にそのままの姿で再来(再現)している。

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● 原田正純【はらだまさずみ】= 医師。鹿児島県さつま市出身。ラ・サール高校をへて1959年熊本大学医学部卒業。熊本大学大学院医学研究科で神経精神医学を学ぶ。1964年精神神経科助手。同年,〈水俣地区に集団発生した先天性・外因性精神薄弱:母体内で起こった有機水銀中毒による精神神経障害,”先天性水俣病”〉の研究で,熊本大学から学位授与。1972年,熊本大学体質医学研究所助教授。水俣病患者の立場にたった徹底した診断と研究を行い,水俣病研究にもっとも詳細な知見をもつ医師として,多くの患者・関係者に信頼された。生涯,環境公害の罪悪を世界に訴える活動を続けた。朝日賞受賞(2010年)。熊本大退職後は熊本学園大学社会福祉学部教授。主著に《水俣が映す世界》(1989年,日本評論社,大佛次郎賞受賞)がある。(1934-2012)(百科事典マイペディア)

● チッソ(株)の水俣工場は1927年から68年の間,アセトアルデヒド合成工程から出る有機水銀を含んだ排水をたれ流し,これによって水俣病がひき起こされた。排水中の有機水銀が魚介類に蓄積され,それを食した人々が発病したもので,すでに1959年熊本大学医学部の調査・研究によってその原因が明らかにされたにもかかわらず,チッソ側はこれを否定,政府も熊大説を採用しなかった。69年6月,29世帯112人の水俣病患者とその家族は,チッソに対して賠償請求の訴えを起こし,73年3月熊本地裁によりチッソの過失責任が認められた。87年国と県の責任を初めて認定した水俣病第3次訴訟熊本地裁の判決以後,同様の判決が相次ぎ,95年国を含めた全面的な和解が成立した。(改訂新版世界大百科事典)

● 水俣病【みなまたびょう】= 1940年代初めごろから熊本県水俣市で発生しはじめ,1956年5月公式確認された有機水銀中毒。新日本窒素肥料(チッソ)水俣工場でアセトアルデヒド合成に用いた無機水銀の一部がメチル水銀となり,これを含んだ工場廃液で汚染された魚介類を摂取したことが原因とされる。症状は聴力・視力障害,言語障害,手足のふるえ・しびれ,運動失調,精神症状など。その後,1962年ごろから新潟県阿賀野川流域にも昭和電工鹿瀬工場からの排水が原因で多数の有機水銀中毒患者が発生しはじめ,1965年5月公式に確認された(新潟水俣病)。政府は1968年に水俣病を公害病と認定,水俣病患者の認定は,熊本,鹿児島,新潟の3県および新潟市に設置されている水俣病認定審査会が行った。1977年環境庁によって認定基準が厳格化された。認定を受けるため申請した人は1995年6月までに1万3116人。このうち認定者は2949人だった。そのため未認定患者たちは国,県,チッソを相手取り水俣病の発生・拡大の責任を問う訴訟を各地で続けてきたが,1995年11月までに判決が出た6件では,熊本地裁の判決2件と京都地裁判決1件の計3件が行政の責任を認め,東京地裁判決,新潟地裁判決,大阪地裁(関西訴訟)判決の計3件はこれを否定した。(⤵️)

 原告患者たちは高齢化が進み〈上級審で判決が確定するまでの長期裁判は避けたい〉として1989年12月ごろから和解を求め,各方面に働きかけた。これを受けて東京地裁,福岡高裁など4地裁が国,チッソ,熊本県に対し,それぞれ和解を勧告。チッソと熊本県は勧告に従うこととしたが,国は一貫して和解を拒否。1994年6月に発足した村山富市内閣は,1995年9月未認定患者に対し一律260万円の一時金を支払うなどの最終解決案を水俣病患者5団体に提示,5団体は10月,これを受け入れた。他方,関西訴訟では,大阪高裁(2001年4月),次いで最高裁(2004年10月)がそれぞれ国と県の責任を認めた。なお水俣病の認定基準が司法と行政の間で異なるとして議論が起こっている。(百科事典マイペディア)

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 日本の「公害」第一号とされるのが足尾銅山鉱毒事件でした。明治初期から始まった「近代化」はいろいろな方面で急速に西欧化していく道筋を描き、その途次で多くの課題を積み残したままで進んでいったのです。足尾鉱毒事件は、およそ一世紀を経て、なお未解決のままで結論もみえないままで、「谷中村」の水没でケリが点けられたのです。田中正造の身命を賭した抗議運動も、結局は一敗地に塗れたものでした。水俣湾は埋め立てられ、現在は「エコパーク」(下写真右)なる公園地となっています。谷中村は埋め立てられ渡良瀬川湧水地とされ、その呼称も「ハートランド」(下写真左)だという。汚染された海や川を埋め立てれば、一大公害の痕跡が消え去るという、信じがたい、冗談にもならぬ信仰があるのでしょうか。今もなお、無数の公害が拡散され、やがてその被害が顕現することになるのでしょう。

 これまでもこれからも、国家の横暴が続く限り、「公害」という名の人民圧殺の暴力、自然環境破壊という「暴戻(ぼうれい)」は手を変え品を変えながら生み出されてきたし、生み出されることでしょう。そのとき、加害者が誰で、被害者が誰であるかが、巧妙にも隠されてしまうという「魔術」「陥穽(罠)」が仕掛けられていた・いることに、ぼくたちは無関心でいてはならないのです。

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● 足尾鉱毒事件【あしおこうどくじけん】= 栃木県足尾銅山鉱毒流出で1880年代後半から渡良瀬(わたらせ)川沿岸農地が汚染された公害事件。地元からの数次の建議,上申にもかかわらず改善がみられなかったため,1897年以来たびたび農民が大挙上京して抗議行動を起こし警官と衝突,一大社会問題となった。代議士田中正造は1891年に議会に訴えて世に被害の惨状を知らせたが,さらに被害民の鉱毒反対運動が大弾圧をうけると,1901年天皇に直訴した。直訴は失敗したが,これを機に世論は沸騰し,社会主義者やキリスト教徒らの支援が活発化した。これに対し政府は1902年鉱毒調査会を設置し,鉱毒問題を治水問題にすりかえて,事態の鎮静化をはかった。おりから世論の関心が日露戦争へ向かう中,甘言と強権により下流の谷中村を破壊し,ついで渡良瀬川改修工事に着工,田中正造の死などによって鉱毒問題は表面上終わった。しかし汚染源対策が不十分なため,鉱毒被害も足尾山地の荒廃もやむことはなかった。(百科事典マイペディア)

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「耳を貴び目を賤しむ」 

 毎日毎日が、歴史の節目になる出来事の連続です。それこそが「歴史」というものでしょう。「それが自分になんの関係があるというのか?」という疑問が起こる人は、知的に賭けていると思う。端的に言って、「ベトナム戦争」は、今の自分には無関係だといい切れる人は、この劣島に限定してもなかなか存在することは難しいでしょう。政治的色気が気色悪いほどの、奈良県選出のT議員は、かねてより「朝鮮半島植民地化になんの責任も感じない」と断言してきました。ぼくは、「そうですかあ?}というばかり。この手の人間が政治家であることは犯罪の一歩手前のような感情に襲われます。この劣島は「ベトナム戦争」には一切無関係、そういいたい人は「現実に生きていない」とも言えるでしょう。アメリカ空軍や海兵隊兵士が、沖縄基地から大挙して「ベトナム空爆(北爆)」に出かけていったが、それはアメリカ軍の話で、「善良な私たちの知ったことではない」と言っていた人が、時を経て「台湾有事は日本の有事」だと言い募る。まるで「戦争ゲーム」を戦っている感覚は、言うまでもなく「道義」「道徳」の退廃だと思うし、政治的痴者だと言っても構わないだろうと、ぼくは考えています。

〘あのころベトナム戦争終結 首都サイゴンに無血入城 1975(昭和50)年4月30日、ベトナム戦争が終結した。南ベトナムの首都サイゴンにソ連製戦車を先頭に解放軍が入城、北ベトナム軍兵士が臨時革命政府の旗を掲げた。南政府のズオン・バン・ミン大統領は放送で無条件降伏を宣言、フランスとのインドシナ戦争から30年にわたる戦火にようやく終止符。(UPI=共同)(共同通信・2020年04月30日 08時00分)(ヘッダー写真も)
● ベトナム‐せんそう〔‐センサウ〕【ベトナム戦争】= ベトナムの統一をめぐる戦争。1960年に結成された南ベトナム解放民族戦線が、1961年、北ベトナムの支援のもとに南ベトナム政府に対して本格的な抗争を開始し、1969年には臨時革命政府を樹立。その間、1963年には米国が全面的に軍事介入したが、1973年の和平協定により撤退。1975年、サイゴンが陥落して南ベトナム政府は崩壊。1976年、南北ベトナムの統一が実現した。第二次インドシナ戦争。(デジタル大辞泉)                                                     ● インドシナ戦争=第2次大戦後,旧フランス領インドシナ(ベトナム,ラオス,カンボジア)に起こった対フランス(第1次。1946-54),対アメリカ(第2次。1960-75。ベトナム戦争とも呼ぶ)民族革命戦争の総称。1978年1月以降のベトナム・カンボジア戦争,79年のカンボジア内戦と中越戦争を第3次インドシナ戦争とすることもある。(改訂新版世界大百科事典)

 ベトナム戦争「終結」、間もなくそれも半世紀になる、ノンポリのぼくは深い感慨を催しています。「ベトナム戦争」は、ぼくにとっては「覇権主義の欧米」「帝国主義と植民地支配」といった抱えきれない問題を突きつけられ続けてきたものです。しばしば「帝国主義からの植民地解放」という偽りの名分を「日本帝国」が興した「戦争」に被せることがあります。また「大東亜戦争」なる名称が今もなお肯定的に用いられる時代、この「ベトナム戦争」は極東の島国には無関係でないどころか、大きな因縁を持ち続けてきたということを忘れたくない。ここで詳細は述べられませんが、「戦争」「侵略」という最悪の暴力が大手を振って罷り通る時代、戦争を仕掛ける側は何時でも「聖戦」を大義にして略奪や殺戮を繰り返す、今も昔も。

 「サイゴン解放」の瞬間は鮮烈に記憶している。ぼくは三十歳だった。その後、ある時期からかなり親しく「戦場カメラマン」と目された石川文洋さんと接していただいた。彼からはたくさんの記録と物語を与えられました。現下、熾烈を極めている「ガザ侵攻」の発端が、フランスやイギリス、ひいてはアメリカの無謀な植民地経営の誤算だったことを考えれば、ぼくの中に早い段階から「欧米列強主義」というか「欧米先進文明」というものに対する幻滅が着実に兆していたことは、その背景が何であるかは判然とはしなかったが、幸いなことだったと思う。ぼくの個人的体験から見た「ベトナム戦争」というものの評価は、丁寧に考察したことはなかったが、今にして思えば欧米列強とされる国々の「覇権主義」の暴力性を戦争を仕掛けられた人民が総力を挙げて抵抗し、ついにはその暴力・圧力に屈しなかったという「人道・人権主義」の発意、発現、その一点においても学ぶべきものがあったというべきた考えてきました。どんな戦争も、にわかには与(くみ)することはできないという立場を教えられたのは「ベトナム戦争」の軌跡(歴史)からだったと思う。                                                   

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 本日の主要題目は「耳を貴び目を賤しむ(貴耳賤目)」です。この表現の言わんとするところはあらゆることに通じますし、立場の相違を越えて妥当するでしょう。新明解四字熟語辞典の解くところは「伝聞やうわさを軽々と信じて、実際に自分の目で見ているものを信じないこと。また、伝え聞いた遠くのことや過去のことは重んじるが、身近なことや現在のことは軽視すること。耳で伝え聞いたことは尊ぶが、実際に目で見たものは軽んじる意から。▽「賤」はいやしみ軽んじる意。『耳みみを貴とうとび目を賤いやしむ』と訓読する」であります。これに類する「訓え・教え」に「百聞は一見に如かず」という「訓戒・箴言」があります。それよりもさらに直接的なのが「Seeing is believing.」でしょうか。「聞くより見る」、耳より目が確かだというのではない、百の聞(ぶん・聞く)があって初めて「一見」の価値が生まれるというのでしょう。面倒なことは脇においておきます。「耳で聞く」という経験より、「目で見る」という経験の直接性の性質をいうのです。あくまでも「見る」は個人の経験です。他人からの受け売りなどではないのです。

 どなたも経験したことがあるでしょう。「漢字書き取り」の採点のテキトーさ、いい加減さを。ぼくにも二度や三度では済まない「おかしさ」「腹立たしさ」「憤り」を覚えた機会がありました。「この漢字はこう書くべき」「こう書かねばならぬ」と誰が決めたか。採点する側か、学校か。いや教育委員会か。撥ねたらだめ、撥ねないからいかんというのは文科省か。「撥ねる・撥ねない」がどうした、馬でもあるまいし。「離れてる・離れていない」と、なんともかんとも異なことばかりです。(左の「秀才」の何処が間違いなんですか)

 何よりも読めればいいんだ。先人の手紙などを読んでご覧。美しいものですよ。誤字脱字、当て字に衍字(えんじ)などなど、意が通じれば用は足りるという見本だし、形が似ていれば、それとなく読めるものです。もともと漢字は「象形」「絵」から生まれたのですから、「当たらずと雖も遠からず」が本意でしょう。小中学校時代の教室経験から、「教師は意地悪だ」とつくづく思いましたね。時代とともに「漢字表記」「読み方」も変わるし、それが「言葉は生きている」という明証でもあるでしょう。それを、これは◯、これは✖と、どうしてそんなに単細胞なのかと、ほとほと教師の器量を疑ったものです。ここでもっと大事なのは「権威」を尊重せよということ、教師の言に逆らうな、そのことこそが教育の大事なんですね。「教師の権威」というのは、国家の権威に倚りかかっているんだな。

 もう一度「貴耳賤目」を牽いておきます。目は節穴ではないし、耳は万能ではないことは、いくらでも経験しているのではないでしょうか。(右の、新「潟」の車がどうして✖か。新「型」車と言わせたいのかも知れぬが、正当性は何処にあるん?「正しい答えは教師(業者)だけが知っている」というのはとんでもない誤りだ)(この伝で行くと、今流の「WORD(文字・フォント)」は、教師から見れば、すべて「✖」ではないか。ワードで文章を書いている教師は「さぞ、バツが悪かろう」な。

 「伝聞やうわさを軽々と信じて、実際に自分の目で見ているものを信じないこと。また、伝え聞いた遠くのことや過去のことは重んじるが、身近なことや現在のことは軽視すること。耳で伝え聞いたことは尊ぶが、実際に目で見たものは軽んじる意から。▽「賤」はいやしみ軽んじる意。「耳みみを貴とうとび目を賤いやしむ」と訓読する」(デジタル大辞泉)

 もし、今ぼくが小学生であって、(上の写真にあるような)「テストの結果」を返されたら、その場で破り捨てるか、即座に教室を飛び出るか、家に帰るでしょうね。どれをとっても「厳密」に見ると✖だとするなら、教師業としては「合格」となるのだろうか。少なくとも、ここに示した「漢字テスト」の採点者、それが教師であるとするなら、まちがいなしに教師という職業人はケチくさい「権威主義者」です。誰かが言ったことは絶対だと「盲信」「過信」しているのであり、それは「誤信」だったり「迷信」だったりする場合があるのを知らないのだ。極めて狭量の感覚しか持っていないというべきでしょう。何を根拠にという、その根拠が「権威」だとしたら、卑しいし厭らしいね。

 「権威主義」とは「権威を絶対的なものとして重視する考え方。権威をたてにとって思考・行動したり、権威に対して盲目的に服従したりする態度」(デジタル大辞泉)だとなる。率直に言うなら、自らの判断力が働かない、いや判断力がないのです。そのような人が、子どもに何かを「教える」というのは狂気の沙汰だとぼくはいいたい。ぼくは長く就いていた仕事柄、入試の採点に携わっていました。さまざまな科目の採点に立ち会ってきたのです。驚くことはたくさんありましたが、漢字の書き取りで、採点する教授たちが「拡大鏡」を持ち込んでいたのには肝を潰しました。老眼だったからではない。「離れて」いるかいないか、「撥ねて」いるかいないか、長いか短いか、そんなことをいちいち確認しながら、◯か✖かを、隣の採点者と相談しながら点けていたのだ。学者として立派な「業績」のある方々でした。ぼくは興ざめしたという以上に、コイツラさえもが「セコい権威主義者」なんだと驚愕し、翻って、自らの不明を恥じたことだった。

 ある「権威に従属」すると、やがて「自分がその権威に属する」という盲信(過信・誤信・迷信)を持つに至ることは目に見えています。権威主義の無限連鎖、ですかな。その当時、これがぼくのいる職場だと、自らの「貴耳賤目」ブリを激しく悔いもし恥じもした。その「後悔」「恥辱」は今に変わることはなく続いています。「漢字の採点」に拡大鏡や物差し(「お手本」)がなければ、自らの判断力が働かないのは、死ぬほど不自由なことじゃないでしょうか。

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筍や蕗好かれたる母恋し(喜舟) 

〘夕歩道〙・旬のタケノコ。竹の根っこではなく、地下茎から伸びる若い芽。毎年この時季、地上に顔を出す。鹿などに食べられないよう、硬い皮で守られているのだが、次第にはがれ、青竹になっていく。▽その種類は、国内だけで600にのぼるとか。代表格は、江戸時代に中国から渡来した孟宗竹(もうそうちく)。直径が約20センチにもなる大型種。肉厚でやわらかく、えぐみは少なく、ほのかに甘い、すぐれもの。▽愛知県知多半島のわが家の近くには、竹林が多くあり、葉桜とツツジの季節になると、ご近所や親類からよく届く。竹冠に「旬」と書いて「筍(たけのこ)」。そんな季節の申し子を、感謝してかみしめる。(中日新聞・2024/04/27)(ヘッダー写真は「コデマリ」・「四季の花たち」HP:https://hanahana018.com/reeves-spirea/

 (感想です。ぼくは「夕歩道」という小さなコラム(字数は270字前後)の長年の愛読者です。どんなものにも歴史があって、この新聞社(このコラム)にも、もちろん長い、あるいは消したくなるような「白・黒歴史」があります。人あるところ、必ず「陰影」が伴うのは避けられない。それは別の話題。このコラムの長所(いのち)は「短文であること」に尽きる。表現形式がやや変わりましたが、可能な限りで短く要を得て的を外さず。つまりは「簡明扼要」を旨とせんとしているところにあります。近年やや、その哲学や思想(すなわちは姿勢)が弛緩しているようで、古くからの読者としては心寂しい。「今際の念仏誰も唱える」という傾向が色濃いのはどうしたことか。ワビやサビはともかく、他に見られぬ短文に匂い立つ「山葵(わさび)」の如き上品でありつつ「香気と辛味」がいかにも欲しいところですね)

 天気がいいと庭の草取りをする。雨が降れば作業は中止。このところ、雨降りも続くし、高温・夏日も続く。だから、やたらに「筍」の成長が目に付きます。三方を檜・杉林や竹林に囲まれている鄙(ひな)の地に住んでいるので、何かと「食材」らしきものには、自然に恵まれる。畑を作り、野菜を育てるのも一興ですが、ぼくはやらない。まず、猪の食料源になるのが落ちだし、それを防ぐために防護柵やネットを拵(こしら)えるほど、執心するという気もないのです。昨日も、かみさんが「手頃なのがあるよ」と言って、草取り作業中に声を掛ける。本年は筍の当たり年らしい。一、二本も採ると、それで十分。それほどに老夫婦は食が細くなったというのかも知れぬ。このところ一日おきに「筍」「蕗(ふき)」が食卓に上る。蕗はともかく、筍は放置しておくと一気呵成に背が伸びて、驚くほどの高さになり、二・三年も経てば立派な竹林に早変わりですから、放置しておくと後で難儀をします。

 コラム〘夕歩道〙には「地下茎から伸びる若い芽。毎年この時季、地上に顔を出す。鹿などに食べられないよう、硬い皮で守られている」とあります。拙宅近辺では猪が我が物顔で、年中闊歩している。年明けの早い段階から、道路脇といわず、竹林の中といわず、旺盛な食欲のなせる技か、方々に驚くほどの大穴を掘り、土を掘り起こしては土中の「芽」を探し出すのです。目下、盛んに筍は成長中であり、気がつけば、あちこちにたくさんの大穴小穴があけられている。今どきの猪は、仕事熱心だなと思う間もなく、掘り起こした穴の側に「硬い皮」が捨てられている。この数年、この季節になると、軽トラやワゴン車で数人(数匹)がかりで夜陰だか朝霧に紛れてやってくる。最近の猪たちは車で来るらしい。他人の土地だという感受性が皆無なのが、服を着た猪どもの特性だろうかと、現下の政治家並みの「泥棒根性」を疎ましく思う。

 (余談です ぼくの感覚では「ネット時代は始まったばかり」、そんな印象がある。と同時に、人心の惑乱・惑溺はこれまでには見られなかったほどに退廃や堕落の限りを尽くそうと足掻(あが)いているとみえます。中学生や高校生くらいの男も女も区別なしに、犯罪に走り、悪行に手を染めている。政治家や政治家まがいの非道徳・不道徳には驚きはしないが、それにしても、やたらに目に付く人々の挙動や思考が「下品・下劣」でありすぎるのはどうしたことか。「刹那主義(ephemeralism)」「瞬間主義(momentaryism)」の全盛期と言うべきでしょうか。「今だけ」「自分(たち)だけ」という後先の見境のない感覚・感情人間の蠢動(しゅんどう)、跋扈(ばっこ)は目に余るが、この先もさらに「ブレーキ」のない車、「アクセルオンリー」の車(のような人間たち)が世界中を走り回るのかと思うと、矢も盾もたまらないという、当方までもが「刹那主義」に陥りそうになります。「教育」の過誤によって生み出される「悪鬼羅刹」の跳梁の止む時があるのでしょうか)

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「徒然に日常」(544~550)

◯2024/04/28(日)世間ではすでに「連休に突入」している。歴史的な「円安(昨日は158円超)」で、外国旅行は振るわないとか。輸出に頼る大企業はその恩恵を受けるが、ただそれだけのこと。国内の物価高は一向に鎮まらないままで、我ら庶民はひたすら我慢の日々を送る他に手はないのだ。夫婦二人世帯と思うのがそもそもの間違い。成長盛りの猫たちが「一クラス(20人)」分、旺盛な食欲を更に強化しつつ同居しているのだ。人間の数に換算すると「何人家族」だろうか。可愛いとか、猫派デースなどと脳天気なことは言っていられないのだ。さて、この先どう工夫するか、工夫の仕様があるか。猫と相談したいな。▼まず、この国は財政・金融の無策が長期間も続いて、至るところで、ひび割れや水漏れが発生しており、地盤が沈下・隆起している状態。生活の安定や平衡を保つことが著しく困難になってきている。まさしく「破綻寸前」という気がする。(550)

◯2024/04/27(土)曇り空、時々小雨。間もなく卯月も終わり。ただひたすら、無為に日を送る。こんな生活をぼくは望んだわけではないが、歳を取ってみれば、この他に為すべき事柄があろうはずもないと、勝手に思い込んでいる。どんな場合に使うのかよくわからないが、構えばかりは「切歯扼腕(せっしやくわん)」というところか。「歯ぎしり」したくとも、歯がないのがなさけない。(549)

◯2024/04/26(金)本日も快晴。午前中に買い物。連休開始前の一日。それ程混雑はしていなかった。世間では人によっては十日間の連休だそう。円安が一向に終わりそうにないのは、いくつかの理由があるだろう。なかなか「介入」が果たせないのは、財政当局にそれだけの方策がないのは確か。金融緩和状態は、いささかもいじれない(是正できない)のが大きい。政府や日銀にはほとんど有効な手立てがないことを、ことに外国投資家から見透かされているのだ。▼買い物から帰宅後、ほんの少し草取り。(548)

◯2024/04/25(木)昨日からは一転、終日快晴だった。駄文書きの後、少しばかり庭作業。草取りをした。まだまだ先が見えないが、諦めないで最後まで。郵便ポストに役場からの通知が。裏庭の斜面(がけ)の調査の知らせ。降雨や台風、あるいは地震などによって崖崩れが発生しないかどうかの点検調査だという。少しは石垣なり擁壁をと考えないではないが、やるとすれば大事に成りそうなので躊躇している。調査の結果を受けてから判断したい。(547)

◯2024/04/24(水)終日雨。大降りではなかったが、間断なく降っていた。本日も庭仕事は中止。お昼前に猫の「おやつ」などを買いに土気(とけ・外房線)まで。春先の長雨だろうが、中国では、特に広東では凄まじい豪雨。雹(ひょう)も降っていたし、高地からの大量の雨(濁流)で、自動車が町中を流されていた。いよいよ、手に負えない気候変動の時機到来だと思われる。地震も、再び台湾東部に襲いかかってきた。列島でも止む気配がない。対策も予防策もなく、つねに「事後」の申し訳仕事(アリバイ証明)がやられるばかり。国外に敵を定めて、「戦争ごっこ」をするという手に負えない愚策・無策の現実政治。よってたかって「国を滅ぼし」「亡国を将来」しているようなもの。呆れるほどの酷さだ。(546)

◯2024/04/23(火)小雨模様の天気。本日も「庭作業」は中止。なかなか思うようには行かないもの。少しばかり悪天候は続くらしい予報が出ている。雨が降れば、草類は思い切り伸びてくる。それでも、小雨に濡れた庭では、木香薔薇・山吹・躑躅・藤などが、それぞれの色を出して咲き出している。桜時とはまた別の趣があって、「目に青葉」という感想に、この俗物めも、人並みに浸っているのだ。▼お昼すぎ、買い物に。わずかばかりの猫の食料(ドライフードなど)、猫用トイレの砂など。いつも出かける近所のH.C.だったが、いろいろな植物や野菜類が売り出されていた。庭の手入れ用の資材も必要なので、ゆっくりと揃えてみたい。ただし、野菜や果物類は、猪の格好の戦利品だ、それを防御するほどの元気もないので、今年も作らないまま。(545)

◯2024/04/22(月)昨夜来の雨が降り続いていた。大降りではなかったが、かなりの低温だった。本日は終日自宅内に。夕刻までに雨は止んだけれど、気温はそれ程上がらなかった。この一雨で、また庭の草は伸びるだろう。もちろん、筍も。その筍は、今年は豊作だと言う。二人家族には有り余るほどの筍の山。今どき、それほど珍しくもないのになったが、何日かおきに少しばかり食べては満足している。朝採れの柔らかいのが食べられるだけで、わずかばかりの贅沢感が刺激されるようだ。誰かに送ろうにも、日にちと運賃がかかりすぎては興ざめするばかり。二十㌢ばかりの一本を送っても、運賃だけで千円ほどもかかるのは、何かの間違いではないですか。(544)

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