里も山も門前雀羅に閑古鳥

【有明抄】飛び立ち距離 ひところ人気や権勢を誇っていたのに、今は落ちぶれて訪れる人もない。そんな浮き沈みを、むかしの人は「門前雀(じゃく)羅(ら)を張る」と言った。門の前にスズメが群れ遊び、網を張って捕らえたほうがいいくらい閑散としてわびしい、と◆実際にはスズメを捕まえるのは簡単ではない。そっと近づいてもすぐ飛び去ってしまう。鳥たちが外敵に気づいて逃げる間合いを「飛び立ち距離」というが、スズメはとりわけ遠く、人を寄せつけない。ヨーロッパでは手に乗ってえさを食べるほど人なつっこいというから、お国柄の違いは大きい◆警戒心を抱いたまま、相手がちょっと近づいただけで背中を向けてしまう…。人間同士にも似たような「距離」がある。昨年の推計で県内は28年ぶりに、転入が転出を上回った。外国からの労働者や留学生が増えたおかげという。そんな隣人たちとの距離は縮まっているだろうか◆コンビニのレジ、農業、工場と外国人材は暮らしに欠かせないパートナーになりつつある。人口減少と人手不足にあえぐ「門前雀羅」のこの国で、ともに生きる社会をどう描けばいいだろう◆電線に並んだ小鳥が互いの羽根をつくろっている。自分のくちばしが届かないところを、もう一羽が手入れする。仲間で弱さを補う姿に、人のいとなみを重ねてみる。思えばきょうから愛鳥週間である。(桑)(佐賀新聞・2024/05/10)

 (ヘッダー写真提供・茂原市役所:https://www.seaside-otsuka.com/bosokanko/2018/2018070602.html

 文章を読むというのはなかなか難しいですね、ということを改めて感じている。上掲のコラム「有明抄」はぼくの愛読するものの一つです。時には、「あれっ(?)」と腑に落ちないこともあるけれど、気軽に読んで楽しんでいるのです。この短文の中に使われている「門前雀羅」という熟語、出典は「史記」の「汲鄭伝」にある。「翟公(てきこう)」という人が引退した後、家の門外に雀羅(雀取りの網)を張れるほど寂れたという故事から。それほどに「権勢」を誇った人の寂れる様を言い当てたものなんですね。この言葉(漢語表現)を初めて見たのは、今でもよく覚えている。

 柳田國男さんのなにかの本を読んでいて、珍しい物言い(熟語)だと感心したのです。柳田さんは、理由があって、小中学校と、ほとんど学校に行かなかった。近所の読書家の書庫を自由に使わせてもらったおかげで、和漢の万刊の書に通じていた。驚異的な記憶力の持ち主でもあった。博覧強記という形容を背負って存在している人に初めて出会ったという感慨がぼくを柳田ファンにしたとも言えます。お礼をこめて、後年に一冊の柳田本を書くことになった。「門前雀羅」にお目にかかったのは、おそらくその時以来ではないでしょうか。すでに半世紀以上も経過しましたから、まさか、こんなところ(コラム)で出会うとはという驚きがありました。この「桑」さんという人(記者)の文章には、何度か注文をつけたり電話をしたり。本日の文章から、彼はかなりの年齢の人とお見受けしました。

 珍しい「文章表現(言葉)」に出会った喜びだけにしておけば問題はないのですが、それに加えて、いささか、疑問に思うところを駄弁りたくなりました。「昨年の推計で県内は28年ぶりに、転入が転出を上回った。外国からの労働者や留学生が増えたおかげという。そんな隣人たちとの距離は縮まっているだろうか」と書かれ、「コンビニのレジ、農業、工場と外国人材は暮らしに欠かせないパートナーになりつつある。人口減少と人手不足にあえぐ『門前雀羅』のこの国で、ともに生きる社会をどう描けばいいだろう」と続けます。

 ぼくの誤読かも知れませんが、どうも「門前雀羅」の国、日本の、ひいては佐賀県の寂れた門前にも屯(たむろ)している「雀たち」、実際は「外国人材」と受け取れないでしょうか。そう読ませようとはしてはいないか。せっかく近づいてくる「雀たち」、網を張って捕まえて逃さないようにする、魚類なら「一網打尽」とすべきでしょうね、そのためにはどうすべきかと嘆かれているようにも見えます。

 「網羅」するという熟語がありますが、この「網」は魚を獲るあみ、「羅」は雀を取るあみだそうです。人口減少を補うためには、国を上げて、あの手このの手で、外国人を「網羅」すべし。時給もかなり水準の低い国に成った今、それでも「外国人材」を「打尽」するには「電線に並んだ小鳥が互いの羽根をつくろっている。自分のくちばしが届かないところを、もう一羽が手入れする。仲間で弱さを補う姿に、人のいとなみを重ねてみる」と来る。異国の人にも優しく愛して(「Love Me Tender」)…、こう書かれる意図ははわかりますが、外国籍の人とうまくやるだけの訓練が十分でないのをどうするか。果たして「和洋」「内外」の常民同士が「仲間」になる、「仲間」であるという繊細な距離を築くことができるでしょうか。「飛び立ち距離」が必要なのは誰(和と洋の)でしょうか。

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 ところで、毎日のように出向く茂原駅近辺。往時は実に賑わったらしい。(人口減少の傾向は他地域並みに右肩下がり)ある時までは、仙台や平塚などと張り合って、「茂原七夕祭り」を誇っていました。今日でも実施はされていますが、ぼくは一度も見たことがない。人混みが嫌いだからという性分ですから、それは仕方がないにしても、とにかく、その寂れようと来たら、目も当てられないほどです。これを「閑古鳥(かんこどり)が鳴く」と言うのでしょうか。「郭公(かっこう)」は、人里離れた山で鳴くのですから、まるで寂しい山の中、そんな雰囲気が漂っていると言えば、商店街の人に叱られるかも知れません。(ぼくの居住している場所は、まさに「閑古鳥が鳴く」地であり、拙宅は、まさに「門前雀羅」状態の「荒屋(あばらや)」であります)

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 (起きがけから(本日は五時前)、いつも通りに駄文を綴ろうとしてはいたのです。しかし、このところあまり自分用の車に、車検を受けたばかりなのに、乗っていないのでバッテリー(新品)が気になり、エンジンを掛けたままで、車庫を掃除しだしていました。車庫は、まるで猫小屋同然で、車の上には足跡だらけ、棚の荷物類は蹴落としてある、まさしく乱暴狼藉の後が見え見え。シャッターの下部が少し開いているので落ち葉を含めていろいろなものが侵入する。ここをきれいにとやりだしたら、庭の落ち葉が気になり、これも掃除。枯れ葉の山がいくつもできるほど。作業をやり始めたのが、八時前。それから、簡単に朝食を取って、また続きを。(写真右はどこにあるのか、「スナック 閑古鳥」だとか。いい声が響いているでしょうね)

 一区切りつけて、水分補給を、とコップに天然水を注ぎだした途端に、立ち眩(くら)むと言うか。気分も体調も突然に悪くなった気がした。血圧が上がったせいかも知れないと、ベッドに横になって休んでいた。しばらくして、京都の友人から電話だという。Tさんという、北山杉の産地(周山)近くで製材・木工所を経営している高校の同級生。昨晩も電話がありました。「近々会いたいね」「千葉まで行ってもいいか」との話。「どうぞ、いつでも」と話が展開、奥方が銚子の温泉などに入りたいと所望されているので、その帰途にでも訪問したいと言う。今月中にも。日程が決まったら連絡を、と電話を切った。電話を切った後で駄文を書き出しました。午前十一時ころだったか。もう少し書き直したいのですが、調子がよろしくないので、本日はここまでにします)(茂原の「七夕まつり」の写真は、六年前のものです)

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〈子ども時代〉が人生を決める?

「トラウマ」神話論〕…メディアが犯罪を報道するとき、〈子ども時代〉の経験とその後の行動には当然因果関係があるとする姿勢なのである。幼児期とその後の育ち損ないとのあいだには因果関係があると、深く信じられているので、恐るべき〈子ども時代〉以外の影響が、ほとんど無視されているのだ。/ この種の因果論的な推測には数多くの例があるが、なかでも『シュピーゲル』誌の法廷ルポルタージュが目を引く。若い母親ギゼラ・ホーフマンは、一歳半になる息子トビアスを蹴って、生命にかかわるほどの重症を負わせ、その傷がもとで息子は死んだ。そのルポは、きわめて印象深い。つまり、「〈子ども時代〉が人生を決める」というテーゼが、これ見よがしに宣伝されているのだ。ギゼラ・ホーフマンは息子が苦しんでいるのを見ても、医者を呼ばず、途方に暮れた彼女が電話した夫も、なにもしなかった。赤ん坊が死ぬと、両親は死体をゴミ袋に入れて、ゴミ収集車に「処分」してもらう。それから二人はマスコミの前で涙さながらに、まことしやかな誘拐話を訴える。二人が犯行を認めたのは、数日後、話にほころびが出たからである。
 ドイツ中の人が、この誘拐話に鼻面をひきまわされ、真相がわかるとショックをうけた。なぜこんなむごいことが起きたのか。なぜこの若い母親は、自分の赤ん坊が苦しみながら、死んでいくのを傍観し、助けを呼ぶこともできなかったのか。この『シュピーゲル』のレポーター、ギゼラ・フリードリクセンには答がわかっている。彼女の報告は、若い母親の「悲惨な〈子ども時代〉」のせいにしているのだ。暴君でアル中の父親も、ひねくれ者で自分勝手で疲れはてた母親も、娘のギゼラを十分には支えられなかった。自分自身が愛情と保護に憧れていたギゼラには、自分の赤ん坊に必要な注意を注ぐことができなかった。つまりは、ギゼラ・ホーフマンがもっとましな〈子ども時代〉を送っていたら、小さなトビアスは生きていただろう、というわけである。(ウルズラ・ヌーバー『〈傷つきやすい子ども〉という神話』丘沢静也訳、岩波現代文庫版。2005年。単行本は1997年08月刊)(ヘッダー写真:NPO法人 Bridge for Smile:https://www.b4s.jp/

 この社会に生きていると、おぞましい事件や事故を見聞することは日常茶飯事に類します。異常なあるいは異様な事件・事故に対して「日常茶飯」というのはいささか穏当を欠きますが、現実には、事件や事故の記録や報道は日々大量生産され、日々大量消費されている、それが当たり前の風景になっているのです。事件や事故の一報を目にし耳にするが、その衝撃は瞬時に消えて、新たな事件や事故に応接するという慌ただしさで、やがて、ぼくたちは事件や事故の「一回性」に慣れてしまうのでしょう。しかし、それぞれの「事件」「事故」の個別性・固有性、あるは一回限りの出来事性を知れば知るほど、ぼくたちは人間、あるいは人間性の深部で何が行われているのか、ほとんど驚愕すべき事柄ではあるのですが、それに意識が及ぶこともなく、時間は過ぎていくのでしょう。

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(NPO法人B4Sは、〈親を頼れない子どもたちが、社会へ羽ばたく時に直面する「安心の格差」と「希望の格差」を乗り越え、未来へ向かう勇気を持てるような支援をカタチにする〉ことを活動の目的にした任意団体。小生も、このNPO法人のささやかな支援者の一人です〉

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 「トビアス殺害事件」とそっくりな、痛ましい出来事は、もちろんこの社会に限ったことではなく、至るところで、有り触れた日常の「一コマ」のように生じています。ぼくはめったにテレビは見ないし、新聞もごく一部分(しかもネット)にしか目を通さないので、その一部分で触れられる範囲でしか、このような「子ども時代」神話論のような「お説」には出会わない。類似の事件は溢れていますし、この社会ではとにかく、「事件」や「事故」をいともやすやすと消費してしまうのです。まさしく「消費社会(consumer society)」ではあるのです。消費に多忙な社会に住む人間は、いろいろな事柄について神経鈍麻を避けられないのではないでしょうか。

 ぼくがヌーバーのこの本(翻訳、原題は「Der Mythos vom fruhen Trauma」)を読んだのはもう二十年近くも前になります。この社会でも、同種の事件が起こったとして、それがどのように扱われているか、その詳細を知ることがほとんどできてはいません。でも、記事の出来・不出来はともかくとして、その多くは「シュピーゲル」の記者の描くような仕儀になっているのは想像に固くはない。「〈子ども時代〉が人生を決める」というのは、いかにも受け入れやすい判断・断定(見立て)でしょう。生まれ・育ちが人生を左右するというのは当たり前ですけれど、どんな「子ども時代」を過ごしたか、それが後の人生(の幸不幸・成功失敗)を決定してしまうというのは、しかし、どういうことなのか、それをじっくりと捉え直す必要がありそうです。(右はE.プレスリーの死を伝える現地の新聞)

 「氏より育ち」という俚諺があります。解説は不要でしょう。「家柄や身分よりも、育った環境やしつけのほうが人間の形成に強い影響を与えるということ」(デジタル大辞泉)と解説されます。しかし、よく考えてみれば「氏」も「育ち」も、つまりは家柄や身分というものであれ、それもまた一つの偽りのない環境ではあるのですから、「氏も育ちも(いっしょ)」と言うべきなのではないかと、ぼくなどは愚考しています。このヌーバーの本の中でのもっと興味ある部分は以下のような問題に触れていたことでした。

 ヌーバーはミュンヘンのテレビ局でフリーのジャーナリストとして働いた後、大学で心理学を学び、以降は心理学関係の雑誌の編集に関わり、執筆活動を展開しています。上に紹介した著書の冒頭に、きわめて印象的な記録を書いています。

 一九三五年一月八日、ミシシッピ州チュペロで繊維工場の女工だったグラディスは双子の男児を出産した。しかし飲んだくれの夫とともに極貧の生活に追われ、喜びに浸るどころではなかった。彼女の同僚たちは出産祝いをお金でもっていっても、飲兵衛の酒代になるだろうからと、二枚の毛布を送った。/ それから三十年後、元同僚だった女性がグラディスの家に行ったときの様子をジャーナリストのアドラーに話したことから、一大センセーションが起こった。毛布を抱えて家に入った彼女はその場の様子をじつに鮮明に覚えていて、事細かに話した。/ みじめな家具調度、出産でぐったりした母親、その隣に赤ん坊が一人、そしてテーブルの上のあのボール紙の靴箱。靴箱に近づいたとき不吉な予感がした。そして予感が的中したとき、彼女はなんと驚いたことか。もう一人の赤ん坊は死んでいたのだ。死んでボール紙の靴箱のなかに転がっていた。グラディスの話によると、もともと生きてはいなかった。ジェシー・ギャロンは死産だった。双子の片方であるエルヴィス・アーロンは、対照的に、はちきれんばかりに元気な赤ん坊だった。…/ エルヴィスの人生は幸せにはじまったが、長くはつづかず、悲劇的な結末を迎える。一九七七年、四十二歳のときに心臓発作で死んだが、その前からすでに何年にもわたって過食症と麻薬中毒で、みずから組織的に生命を破壊してしまっていた。世界中のロックン・ローラーファンは、偶像の死を悲しんだ。エルヴィス・プレスリーは死んだ。/ もしも、双子の弟が死んでいなかったら、もしも彼が適切なセラピーを早い段階で受けていたなら、…彼は「幼児期トラウマ」を克服できていたかどうか。それはだれにもわからない。「子どもの頃の経験がその後の人生に大きく影響することを、つまり〈子ども時代〉の力を、われわれはみんな、程度の差はあれ信じているのではないだろうか」(ヌーバー・同上)(左はプレスリーの「生家」とされるもの)
● プレスリー(Elvis Presley)生没年:1935-77= アメリカの大衆音楽が生んだ戦後最大のスター。南部黒人音楽の中心地メンフィスで貧しい白人労働者家庭に育ち,黒人のリズム・アンド・ブルースをまねて歌ったのが,ロックンロールの創始者の一人としての栄光につながった。1954年に初めてのレコード《ザッツ・オールライト・ママ》を録音した。それがきっかけで広く認められ,56年に《ハートブレーク・ホテルHeartbreak Hotel》の大ヒットを放ち,ロックンロールのブームを世界中に巻き起こした。その後も《冷たくしないで》《ラブ・ミー・テンダー(やさしく愛して)》などの大ヒットを連発。58年から60年までの兵役による活動中断後は映画出演が多くなり,歌手としても幅広い層を狙った保守的な行き方へと転換した。すでに映画界へは1956年《やさしく愛して》でデビューしていたが,60年代にはドン・シーゲル監督による《燃える平原児》(1961)のほか,ヒット曲をからめた《ブルー・ハワイ》《ガール!ガール!ガール!》《ラスベガス万歳》など多くに出演した。これらの多くは明るく健康な好青年が,恋と冒険に活躍する単純なストーリーで,興行的には成功したものの,しだいに衝撃力が弱まった観があった。しかし,68年以降,テレビの特別番組や,ラスベガス・インターナショナル・ホテルのショーで成功を収め,同じショーを記録した映画《エルビス・オン・ステージElvis On Stage》(1970),ホノルル公演の世界宇宙中継など華やかな活動で王者復活の話題をまいた。しかし過酷なスター生活のなかで健康をむしばまれ,42歳で死去した。(改訂新版世界大百科事典) 

プレスリーの評伝などを読むと、いかにも「貧困」「虐待」「不衛生」などと言うべき否定的な育児環境がいやになるほど描かれます。それだけひどい環境で生まれ育ったにも関わらず、プレスリーは「ロックの王」になり、大成功を勝ち得たかちとったというのでしょうか。いや、輝かしい人生を歩こうとしていたさなかに、「病魔」に襲撃されて、不幸な生涯を閉じたと言いたいのでしょうか。親は子どもにとって、どういう存在か、改めて問うまでもないことのようですけれど、「親はなくとも子は育つ」というくらいですから、一定の年齢(人によって相違はあろう)になって自立してしまえば、「子ども時代」ははるかな光景に退いてしまう。貧しかったから不幸になり、裕福だったから幸福に生きられたと、まるで「自然現象」のように「人生」を説明することは可能であっても、それだけの話し、高いところから低いところに流れるのは水に限るというわけ。逆境というのを「苦労の絶えない生活・人生」を指すとするなら、それもまた、人それぞれの感じ方受け止め方があるでしょう。他人から見れば「順境」であっても、当の本人にはそうは受け止められないということはいくらもある。

 ここまで来ると、「成功した人生」「人生の成功」、その中身こそが問題になるのではないでしょうか。何を成功とするか、一定の尺度や目盛りがあるはずもないのです。いくら貯めても、求め続ける「守銭奴」はいる一方で、「食うに困らなければ」という倹約家もいる。問われるのは「生き方の中身」であり、その姿勢や態度こそが、生きる値打ちや評価を決めるとも言えそうです。社会の評価も大事だけれど、腐敗堕落した社会から評価される事自体、死ぬほど恥ずかしいと感じている人もいます。「親はなくとも子は育つ」というのが常識の教えるところなら、ぼくはそれに対して「親はあっても子は育つ」と相対峙する方途を選んでほしいと、結婚前の、あるいは結婚早々の若い人に言いかけてきました。そして親になりたての人には特に、声を大にして言ってきたのでした。子どもは親の持ち物ではないし、親は子どもの飾り物ではない。どこかで、なるべくなら高校生くらいの段階で相互不可侵」の関係ができることが望ましいと、常々考えて来ました。

 あまり好きではない言葉の代表格は何でしょうか。そんな事を考えたことはあまりあませんが、しばしば耳にすることが多く、聞きたくないなあと感じさせられた言葉に「親ガチャ」や「毒親」があります。もちろん、子どもの側から捉えられた「拒否したい親像」の種々相の一、二でしょう。「ガチャ」にコインを入れても何がでてくるかはわからない、品物は選べないということから、子どもだって「親」を選ぶことはできないのだという、一種の「賭博」か何かのように親子関係を言い当てようとしたのでしょうか。また、「毒親」という言葉がいつ頃から使われ出したのか、ともなく常用する辞典には「俗に、子供に悪い影響のある親。児童虐待に該当するする行為で子供を傷つけたり、過干渉・束縛・抑圧・依存などによって子供の自立をさまたげたりする親」(デジタル大辞泉)とありますから、かなり昔から通用していたのでしょう。

 どちらも、子どもにとって、だから反対に「どんな親の子」であり、「どの家で生まれるか」、それが一大事ということを指すのでしょう。(小さい声でしか言えませんが、親からすれば「こんな子を生んだつもりはない」「子どもは選べない」と言いたいこともあるでしょう)今流行りの「世襲」ですが、職業や仕事を受け継ぐということはいつの時代にもあったし、古いことはいいことだという風潮も残っているでしょう。でも、それは極めて限られた場合にしか当てはまらない。「老舗」とは「しにす(仕似す/為似す)」で、似せてものごとをすすめる、そこから「家業を継ぐ」に至ります。仕事や技能は似せてできるでしょうが、生きることは、どうか。できそうに思わないではありませんが、それぞれの選択や判断で生きる他ないのです。

 「二世・三世」政治家の弊害が著しく指摘されますが、それもこれも「政治家個人」の無能・無知の故であり、はたまた精進の足りなさのゆえであって、とまでは言えるでしょう。だから、どこで生まれようが、みんないっしょと言うつもりはないのです。頑張れば、努力すれば、誰だって成功する、そんな寝言は通用しないことは今も昔も変わらない。ぼくは学校教師の口癖となっている「誰だって、やればできる」を認めたことは一度もない。問題は、「誰だって」にあるのではなく、「できる」に存すると考えてきました。子どもと付きあうには、もっと繊細な心持ちがいるんじゃないですか。学校(暗闇)時代、「計算」ができる、「暗記」ができるというつまらない「成績」に問題をすり替えてほしくないと思うばかりでした。

 教育にかかわるさまざまな問題が身のまわりに満ちあふれています。問題行動、発達障害、いじめ、児童虐待、…。それらに対して「教育者」「有識者」と目される人びとはたくさんの発言をしています。そのどれもが間違いであるというのではないし、みんな正しいというのでもありません。「人を見て法を説け」と言われるように、「人それぞれ」をまず認めなければ始まらないでしょうし、さらに言うなら「機に因りて法を説け」ということでもあるでしょう。こうすれば、ああすればというのは「談義説法は出家の生計」ですよ、とぼくなら言い捨てますね。どんなにありがたいお経や説法も、結局は坊主の生活のためというのです。教師は、どうでしょうか。まして親たるものは、「一般的なお説」でお茶を濁していいんですかと注文したいね。何事も「できる範囲で」、そして「無理をしないで」子どもの歩く道を汚さない、掃除位はしておいてほしい、それが肝要です。

 「この『シュピーゲル』のレポーター、ギゼラ・フリードリクセンには答がわかっている。彼女の報告は、若い母親の『悲惨な〈子ども時代〉」のせいにしているのだ。暴君でアル中の父親も、ひねくれ者で自分勝手で疲れはてた母親も、娘のギゼラを十分には支えられなかった。自分自身が愛情と保護に憧れていたギゼラには、自分の赤ん坊に必要な注意を注ぐことができなかった。つまりは、ギゼラ・ホーフマンがもっとましな〈子ども時代〉を送っていたら、小さなトビアスは生きていただろう、というわけである」(「〈傷つきやすい子ども〉という神話」)(新聞のレポーターと「子殺しの毒親」が「ギゼラ」とは紛らわしい)

 (注 ウルズラ・ヌーバーはプレスリーの貧苦と成功、そして幸せの最中での急逝に関して「もしも、双子の弟が死んでいなかったら、もしも彼が適切なセラピーを早い段階で受けていたなら、…彼は『幼児期トラウマ』を克服できていたかどうか。それはだれにもわからない」と書く。そして「子どもの頃の経験がその後の人生に大きく影響することを、つまり〈子ども時代〉の力を、われわれはみんな、程度の差はあれ信じているのではないだろうか」とも書いています。生まれ育った環境が、順境であれ、逆境であれ、いずれにしても「子ども時代が人生を決める」という神話を、大なり小なり多くの人は信じているのかどうか。そうだとも思われますが、ぼくには答えはわからない、「子ども時代」が人生の決定打だとは必ずしも言えないと思うけれど、確かにあの「子ども時代」があったからこそ、あんなに成功した「人生」を送ったのだと見られる人もいるのは確かです。

蛇足 上の写真、右から三番目「魂の殺害 虐待された子どもの心理学」の翻訳者は長年の酒飲み友だちだった。元気だろうか。一別以来、もう何年になるか。写真左端の「魂の殺害者」の翻訳者(大先輩、ご健在ですか)と三人で、中央線だったかの「呑み屋」(高円寺?)でゆっくり談話に及び、美味しいお酒を飲んだことを思い出します)

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こんな人たちに負けるわけには…

 転ばぬ先の杖、などといいます。「前もって用心していれば失敗することはないというたとえ」(大辞林)なんと用心がいいのでしょう。私見によれば、おそらくそんな意味では使われなかったはずです。人間は自分の足で歩きたい。だれかに頼りたくないのです。それはどんなに小さな子どもでも同じです。転ばないように手を添えると、子どもは自尊心を傷つけられたと受けとる。自分から杖をもとうとするのではなく、横から親や大人が、無理にももたせようとするのです。おそらく、節介をいましめた俚諺(ことわざ)だったとぼくには理解されます。(右写真:表彰式の国旗掲揚で敬礼するヒトラー(中央)。スタンドの観衆も全員が立ち上がりナチス式の敬礼をしている=ベルリンのオリンピックスタジアムで1936(昭和11)年8月、高田正雄本社(毎日新聞)特派員撮影)

 まちがえない、失敗しないように正解をあたえる。もらった側は、それを記憶するだけが求められる。それも試験が済むまでの間です。「与えられる不幸」というものを少しは考えたい。与えられることに慣れれば、かならず不満がでてきます。もらう一方だから、たまらない。自分でなにかしたいのに、させてもらえない不満です。自分で、自分の頭で考え、判断することを放棄してしまえば、それはひとりの人間であることのかなり重要な部分を失ってしまうことになります。「教える」は「与える」と同義で、それが教師の大事な仕事になっているところに子どもの不幸があるのではないでしょうか。もちろん、それは教師の不幸でもあるのですが。

 「感じる」ことに直結していて、しかもその人の意志(意欲の存在)を証明するものとして「考える」ちからがある。ここで、<考える>というのは、<疑う>ということです。それはまた、<自由>ということにもなる。ぼくがいつも強く願ったのは、自分にも自由(考え・疑う)の精神があるということを、それぞれの人に実感してもらいたいことでした。私たちは不自由をかこっているにもかかわらず、その自覚がはなはだ乏しいと思われるからです。まるで、鎖につながれているのに、自分は鎖の長さの分だけ自由だと信じている犬のようではありませんか。鎖が長ければ、それだけ自由だ、そう信じているのは、犬ではなく人間の方かもしれないのに。

 <自由>って、不安であり孤独であるということでもあります。だから、そこから逃げ出してしまうことになんの不思議があるものかというわけでしょう。その反対に、自分は確信を得たと思ったとたんに、そこで崩れてしまう。これしかない、と決めこんだ瞬間、その足は地面を離れてしまう。あるいは足下をすくわれるのです。徒党を組むのも不安からの逃げです。宗教集団にはいるのも安心感を得たいからです。最後は、もっとも力のある者への帰依です。

 難しいですね。自由でありたい、けれど自由は「寄る辺ない(helpless)」、それは不安そのものでもあるのです。その不安から逃げ出したいという人は、ぼくたちの想像を超えてはるかに多いのではないでしょうか。若いころから熟読してきた何冊かの本の一冊に『自由からの逃走』があります。著者はエーリッヒ・フロムでした。自由という不安に襲われて、人々は雪崩を打って「権力」(教会も含まれる)にすり寄りました。これはドイツだけのことではなかった。

*エーリッヒ・フロム=1900.3.23 - 1980.3.18 米国の精神分析学者。 元・ニューヨーク大学教授。 フランクフルト生まれ。精神分析の中での社会的要因を強調し、新フロイト主義の指導的役割を担ったユダヤ系精神分析学者。1930年より3年間フランクフルト社会学研究所に勤務し、その後コロンビア大学、ベニントン大学、’51年からメキシコ国立大学で教壇に立つ。’62年にはニューヨーク大学教授となる。「自由からの逃走」(’41年)や「正気の社会」(’55年)などの著書がある。(出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」)

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 この島では、ひとりの首班による政権が七年余もつづいています。驚くべき事態ですが、いったい何が行われて来たのでしょうか。余人をもって代えがたい人物だと衆目が一致したからの結果だとはとても思えない。「時宜を得る」という言葉がありますが、ぼくはそれにあたると考えてきました。どんなに無能であっても、取り巻き(政官財)が「無能者」を祭りあげ、そいつに「ものを言わせる儀式(腹話術)」(その舞台が国会でした)を期待通りに進めてきたのでした。その証拠に、何ら成果らしきものは皆無だし、道義の退廃には顕著なものがあったにもかかわらず、「傀儡」は気分をよくして、される(担がれる)がままに、でたらめのかぎりをつくしていたのです。「時宜を得た」のは彼らであって、ぼく(たち)ではなかったのはいうまでもありません。

 (欧州ドイツでは「ワイマールがヒトラーの生みの親」になりました。我が邦にあって「大正デモクラシーは陸軍独裁の先鞭をつけた」と言えるでしょうか。ぼくの実感では、「戦後は終わっていない」、つまりは「戦後」はすべからく「戦前」であるということですから、この邦はいまなお「戦前(戦争前夜)にあり」ということにならないか)

 この社会近時の「政治権力」は実力を行使し、暴力を使って「政権維持」を計ったのではない。それどころか、虚偽・虚言違法行為、(数を頼んだ)強硬政権維持の連続。くわえて数次の国政選挙によって「支持された結果」でした。民意とは何か、それはどこにあるのか。多数決とは?小選挙区制とは?野党は与党では?(幸いにして、「五輪」は延期(というより中止?)になりました。かりに「コロナ禍」がなければ、ベルリン五輪と重なる、まるで恐ろしくも悪い冗談でした。これからも予断は許されませんが。(折悪しくか、こういう不謹慎な政情が続くのは、この小さな島だけの問題ではありません。「地球は一家」で、家内では仲違いが絶えないのですよ)

 なぜこんなに「愚劣政治」「暴力政権」が続いたか、それにははっきりとした理由や背景がありました。(詳細は別の機会に譲る)(表向きの)権力者の条件は「無知・無能」だけ。それをいいことに取り巻きは甘い汁やおいしい食餌を堪能してきたのです。政治から大義が失われた結果の惨憺たる状況の渦中にぼくたちは喘いでいます。(右写真は「前回の都議選ではたった一回の街頭演説(秋葉原)で、『安倍辞めろ』コールを浴びせられ、『こんな人たちに負けるわけにはいかない』と絶叫した安倍首相』)(日刊現代/アフロ)(17/07/02)

 (お断り この駄文は過去(2020/06/27)に公開していたものです。当方の手違いでブログ全体(文章配列)の整理をしていた際に、手違いがあって混乱し、やがて、その修復がえらく大変であることが判明して、一旦は「ゴミ箱」に削除したままにしておいたもの。何を血迷ったか、これを改めて、再公開という愚挙に出ました。現政権は、当時よりも遥かに愚劣で凶暴で、しかもなお「小心」で、政治力は更に微小であるにも関わらず、「天運、機宜に恵まれ」、驚くべき悪政をいとも容易にやってのけている。(野球で言うなら、守備陣が牽制し合ってのポテンヒットの類だろう。そこから「自己誤認」が生まれ、「自己過信」に奔る。おそらく、あれこれの政治家と自称する連中の心中の叫びは「こんな人たちに負けるわけにはいかない」というものと断定したくなる。彼や彼女の振る舞いに「楯突く輩」はすべからく「こんな人たち」である、と。この驚愕すべき事態に止むに止まれず、駄文再掲載という無作法な仕儀に相なった次第。乞う!寛恕を)

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夕燕 我にはあすの あてはなき

<新生面>ツバメの子育て こいのぼりを見なくなった。以前は五月晴れの空を悠然と泳いでいたけれど、連休中のドライブでも数軒しか見かけなかった。寂しく感じながら道の駅に立ち寄ると、代わりにツバメが空を飛び交っていた▼軒下に、いくつも巣がかかっている。ひなが顔をのぞかせて、口を大きく開けていた。ひらりと戻ってきた親鳥はその口に虫を入れてやり、すぐに次の餌を捕りにいく。忙しそうなその姿に、頑張れと思わず声が出た▼春先に日本に渡ってきたツバメは、カラスなどの天敵を避け、あえて人の出入りの多い民家や商店、駅などに巣を作る。「ツバメが巣をかける家は縁起がいい」と言われるのは、害虫を食べてくれる上、にぎわいが絶えない証しでもあるからだとか▼人の暮らしと深く関わるツバメの子育ては、年々難しくなっているという。日本野鳥の会の調査では、農地が減った都市部ではひなの数が減り、人が減った過疎地では営巣数が減る傾向があった。新建材を使った軒のない家が多くなり、不衛生を理由に巣を撤去する人が増えたことも、繁殖に失敗する原因の一つに挙げられていた▼子育て環境の厳しさは、人の世界も同じかもしれない。15歳未満の子どもは4月時点で1401万人。43年連続で減ったが、小さな口に食べ物を運ぶ親たちの願いはいつの世もきっと変わらない▼こどもの日を挟んだ連休後半も、はじけるような笑顔に出会った。〈口見えて世のはじまりの燕[つばめ]の子〉加藤楸邨[しゅうそん]。どうか自由に健やかに、未来に羽ばたいて。(熊本日日新聞・2024/05/07)

 長い連休も終わった途端に雨模様。近所の田んぼも田植えが終わり、まさに必要な、時宜を得た雨だったかも知れません。これから秋の収穫まで、稲の成長が楽しみだと言うわけ。しかし、気になるのは年々、作付け田んぼが減らされ、いまなお「減反政策」継続中ということです。コメの銘柄も「一極集中」。たしかに以前ほど激しくはなくなりましたが、猫も杓子も「コシヒカリ」と言った状況に似たような傾向が続いているのはどうしたことか。いずれは「JA」の指導宜しきを得てのことだろうとは推察しますが、それにしても、北から南まで、その数が数品種というのはけっして「多様性」確保の観点からもよろしくないと、素人は考えてしまいます。

 「素人」と書いて「しろうと」と読ませます。「素」はとても応用の広い漢字で、思いつくままに音・訓を挙げてみると、「ソ」「ス」、「しろ」「もと」などとあり、その意図するところは実に多彩。「白い」「元」「初め」「常」「普段」「乏しい」「粗末な」「虚しい」などなど、何でもござれの多才ぶりです。この「素人」に対するのは、もちろん「玄人」、つまりは「くろうと」です。この「玄(げん)」を「くろ」「くろい」と読んでいます。「色」また、「い」「い」「奥深い」「い」などなど。あるいはそれからの連想で、「天・天」「方角北向き」と、「素」に負けず劣らず多彩であります。

 その「玄(クロ)」をつけたのが「玄鳥(げんちょう)」です。(回りくどいですね)七十二候の「清明」(初候・4月4日から4月9日まで)に「玄鳥至(つばめきたる)」とあります。燕が「玄鳥」と呼ばれているのですが、もちろんそちらのほうが古い呼称だった。黒い鳥です。この「つばめ」にも驚くほどの異称があります。わざわざ挙げませんが、それだけ、この島には馴染の「渡り鳥」だったということの証です。その「つばめ」がまったく見えなく・見られなくなった。当地で十年以上も住んでいますが、まず目にしたことがないのです。赤とんぼやゲンゴロウと同じ絶滅傾向にあるのかどうか。この島に渡ってこなくなったのかも知れません。もちろん、まったく見かけないのではなく、いるところにはいる。いつも通りに巣作り・子育て・独り立ち、やがて巣立ちを迎えて、劣島を離れる、その繰り返しを止めない地域もあるはずで、当地ばかりは燕が避けている、その理由は。

 「ツバメは日照時間の長さを感知して渡りを開始するため、天候や気温に左右されず、毎年、同じ頃にやってきます。七十二候の春と秋に二回『玄鳥至(つばめきたる)』と『玄鳥去(つばめさる)』が入っているのはそのためです。日本ではちょうど桜が満開を迎え、花びらが散り出した頃に、ツバメの姿を見かけるようになります」「インドネシアやフィリピン、オーストラリアから数千キロの旅をして飛んでくるツバメたちは、日照時間の長さから、それぞれに渡りの時を感知し、敵に見つからないように一羽ずつ、海面すれすれに飛んできます。秋は子供たちを連れて集団で帰りますが、行きは単独です」(「暦生活」:https://www.543life.com/content/seasons24/post20240405.html

 しかし、こんな当たり前の燕の「日常」がまったく見られないのは実に寂しいとぼくには感じられるのです。食べ物が著しく少なくなったのが一因でしょうか。「ツバメの子育ては約3週間。えさはほとんどが空中を飛ぶ虫です。ホバリングしたり、急転回したり、自在に空を飛び回り、子育ての時期には口いっぱいに何匹もの虫をくわえて戻り、多いときは1日に300回もえさを運ぶというから驚きです」(「暦生活」上掲)空中を飛翔する小さな虫類が驚くほど少なくなった今、燕にはこの島は子どもを育てるための最適地ではなくなったということか。「農薬」をひたすら槍玉に挙げるのも、ぼくはどうかと思っている。しかし、それが「害虫」にのみ効果があるというのならまだしも、そんなに好都合に行くものでもないでしょう。「生態系」、いわゆる食物連鎖の「鎖」が一つでも外れると、否応なしに、そのシステムに変調をきたして来るのは避けられません。

 このところ、季節を問わずに「熊出没」に悲鳴を上げているのが、人間社会です。しかし、もっと切実に叫んでいるのは「熊」の方ではないか。やたら勝手に「害獣」に決めてかかって、指名手配して、それを撲滅すれば、人間は安心して暮らせるのかも知れない。しかし、人間以外の多くの「生物」が絶滅したり絶滅が危惧される環境で、果たして人間が健康に生存できるものか。さまざまな問題が迫っている現状においてなお、人間中心主義(ヒューマニズム)を貫き通すつもりか、それが社会全体に突きつけられている課題でしょう。たかが小さな虫や鳥がいなくなっても大勢に影響はないと思っているから、現実の仕組みをかけようとはしないのでしょう。その先に何があるか、言わなくても明らかではないでしょうか。

 今、拙庭にも「カキツバタ」が花を開いています。この花に「燕子花」という漢字を当てて呼ぶことがあります。この花は新生の燕の子が空を舞い始める頃に咲きます。開花したのを見ると、まさに小燕が翼をひろげている風にもみえますね。燕の渡り個数や産卵数などの細かい調査が日本野鳥の会などで実施されています。それらを概観するだけでは、この島社会で、燕が子どもを生んで育てる数の増減を判断することは困難な状態にあると思われます。まずどのように調査するかという根本問題が立ちはだかっている。少なくとも、この数年、燕が見られなくなった地域ははっきりしています。それだけをとって環境問題を云々するのは適切だとは思わないけれど、少なくとも、ぼくが日常的に行動する範囲で、燕を季節の渡り鳥として認知できることがなくなったということだけは言えるように思われます。

 その状況をいかようにしたいのかという明確な考えはありません。いずれ、大きな問題のごく一分がぼくの生活範囲で生じているのだと考えているだけです。その小さな問題は、しかし、地球規模での大問題の欠片(かけら)であると見れば、そんなに呑気な話ではなくなります。固苦しい話はここまで。

 以下、「燕の句」をいくつか。というか、本当は一茶の句を出したかったのですが、なんと燕を詠んだ句は数百にも及ぶのではないかと思われ、肝を冷やすばかりでした。二百五十年前、一茶の周りにとてつもない数の燕が居着いたり、飛翔したりしていたさまを驚きを持って想像して見るばかりです。ここでは、自らの「風来坊」ぶりを、燕に仮託せんとした一句。義弟や継母との泥沼の相続争いを開始する直前の、静かだが、独り身の寂しさを身を以て感じていた時代だったか。一茶、四十すぎの一時期の一句です。

あそぶとも ゆくともしらぬ 燕かな(去来)
夕燕我には翌(あす)のあてはなき(一茶)(文化句帖)
・夕燕我のみ翌のあてもなし(一茶)(発句鈔追加)
・夕燕我には翌のあてもなし(一茶)(版本題叢他)

(余話 「燕雀安(いずく)んぞ鴻鵠の志を知らんや」~「燕雀」などという小さな鳥(小人)の分際で「鴻鵠(こうこく)」などという「大鳥」(大人)(「鴻」はおおとり、「鵠」はくぐいで、どちらも大きな鳥)の志を知ることなんてできるものかよ、そんな「壮志」というものが陥りがちな、他者への軽侮の邪念が覗いているという点で、この警句は、小人たるぼくの好きな「表現」ですよ。「燕雀」おおいに結構、そんな気概だけは失いたくなかったですね。似たような心持ちで、ぼくは若い頃から好んできた表現に「三軍も帥を奪うべきなり、匹夫も志を奪うべからず」大軍に守られている大将(帥・すい)を失う、あるいは奪われることもある。だが、匹夫(ひっぷ)という取るに足りない、身分のない男(人間)でも、志がかたければ、どうにも仕様がないのだ、それほどに志というものは尊ばれるべきものだ、そんな意味になるでしょうか。一寸の虫にも五分の魂、です)

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主不在かくも侘しい端午節(無骨)

【有明抄】川柳で眺める「こどもの日」 大型連休はどこも人、人、人。渋滞はいやだし、人混みは疲れるし…。寝転んで手元にあった川柳の本でもめくってみる◆〈見たいもの見られた父の肩車〉谷藤ひさし。きょうは「こどもの日」。公園で、ショッピングモールで、そんな思い出が刻まれるだろう。日暮れて遊び疲れたら、メシでも食って帰るか。親も子も気分が弾む。〈家族ってこんなのかしらレストラン〉竹井紫乙◆かつては子だくさんの時代もあった。〈一匹で泳いでみたい鯉のぼり〉大家北汀。ところがいま、地域社会の現実は〈年寄りばっかりラジオ体操〉佐々木冬彦。このままでは将来、消滅しかねない自治体もあるという。〈もっと生まねば祭りみこしが上がらない〉竹岡訓恵。危機感は高まるばかり◆名指しされた自治体にも言い分はあるだろう。古川柳に〈見通しに生物知(なまものし)りの二三人〉とある。訳知り顔のもっともらしい分析は、懸命な地域の努力に水を差すだけだ、と。女性にばかり原因を求めるな、「産む道具」じゃないんだから、という声もある。〈ラブレター書かぬ息子をはがゆがり〉笹本英子。未婚男性の増加も見逃せない問題◆政府の少子化対策は功を奏すだろうか。財源の負担など国民に合意が広がっているとは思えない。〈お父さんうちにお金がありますか〉木下愛日。子どもまで心配しかねない。(桑)(佐賀新聞・2024/05/05)

 本日は「大型連休の最終日」だそうです。物価高、どこに行っても人の波。群れて群れゆく人の群れ群れ。今どきなら、きっとある「句」でしょうね、と思ったら、ありました。「いつよりか夫婦二人に子供の日」(白鳥順子)

 一日遅れの「子どもの日」に因(ちな)んで。

 やがて、「この先も私一人で子どもの日」(無骨)と、無聊(ぶりょう)( ennui・tedium)をかこつ人が、今以上に増え続けるんでしょうね。「子どもはどこへ行ったか」「はじめからいなかったのじゃないか」と徐々に自分の確信が揺らいでくるのを止めようがない。

 ところが、この「子どもの日」、旧来の「端午の節句」は「男の誕生を寿ぐ日」とされていた。鯉のぼりを立て、鎧兜を飾るなど、いかにも「男子の本懐」を慫慂する「尚武(勝負)の日」だったのは、時代社会の建付けや心構えからは致し方ないにしても、今日なお、「子どもの日」は「(男の)子どもの日」とされているのは、いかにも如何(いかが)わしいし、時代や歴史の今にそぐわないのではないですか。いや、そうじゃない「子ども」の中に「女の子」も入れればいいんだ、で済まします(?)それをこそ「矛盾」というのではないですか。(鯉のぼりを何百も挙げたり、何百キロの鯉を空中にお削がせるのは、大の大人の遊びになっている、その意味では「子どもの日」は「大人の日」です。その「大人」のも女性が入っていないとすると、この社会の「男度」の高さはかなり重症だと言うべきか。

 「人権」という言葉、その由来は「ヒューマンライト」で〈human right〉にあります。つまりは「男の右」、男性の右腕は「攻撃(正)の象徴」であり、左手は「防御(邪)」の一手でした。右は「正しい」なら、左は「正しくない」ですね。「右利き」と「左利き」の扱われ方を見れば、それがどんなものだったかがわかろうというもの。「男尊女卑」を祖型(元型)にして「人権思想」は生まれているんですね。矛盾は矛と盾、攻撃と守り。男と女。男は外へ、女は家に。今でもなお、多くは「右利き尊重」の社会じゃないでですか。あらゆるものが「右利き」優先で扱われているでしょ。

lefthanded左ききの、左手用の、左回りの、左手の、左巻きの、左撚(よ)りの、不器用な、下手な、疑わしい、あいまいな left‐handedly【副詞】疑わしく,誠意のない状態,あいまいに,不器用に, どちらにも解されて,下手に(新英和中辞典) 

● こどもの日= 5月5日。「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことを趣旨とした国民の祝日。1948年(昭和23)制定。この日から11日まで児童福祉週間が行われる。古来、男児の節句とされる端午(たんご)の節供にあたるため、女児の桃の節供雛祭(ひなまつり)の3月3日も祝日にすべきだという主張が一部では出されている。(日本大百科全書)

● 端午の節句= 「端午の節句」は5月5日にあたり、「菖蒲〔しょうぶ〕の節句」とも言われます。強い香気で厄を祓う菖蒲やよもぎを軒(のき)につるし、また菖蒲湯に入ることで無病息災を願いました。また、「菖蒲」を「尚武〔しょうぶ〕」という言葉にかけて、勇ましい飾りをして男の子の誕生と成長を祝う「尚武の節句」でもあります。(日本文化いろは事典)

・風さけて入り日涼しき菖蒲の日 (千代女)
・旅の空矢車鳴りて端午なり (貞)
・端午の日まだ見ざる子へ祷るかな( 杉山岳陽)
・老人の日なり子供の日の如く (後藤比奈夫)
・風紋に鯉幟立ちこどもの日 (西本一都)

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「徒然に日乗」(551~557)

◯2024/05/05(日)終日快晴。世間では黄金週間と言っているが、当方には無関係。勤め人時代が懐かしくもあるし、人混みに塗れる煩わしさを想い、疎ましくもなる。親子連れで、群衆の一人になるために出かけたことは殆どなかったと思う。今では、猫の世話を理由にまったく遠出どころか、家を開けることをしなくなった。▶大型連休くらいまでに庭作業を終わらせたかったが、まったく先がみえないほど。ここまで来ると、「雑草」という名の草類の逞(たくま)しさを呪うと言うより、見習いたいもの。雨が降り、好天になるという繰り返し、このところの天気(照って降って)の加減で一層成長が早い。▶まだ筍がでてくるが、我が家ではいささか食傷気味。よそにお裾分けと考えなくもないが、貴重でも珍しいものでもなく、加えて、今年は豊作だと言うので、送ることは一切遠慮している。▶思いついたら「草取り」の気分で、ほんのしばらくは腰を屈(かが)めての作業。少時間の作業だが、それでも毎日のことになると、疲れが残る(溜る)か、いささかしんどい。年齢を感じるな。(557)

◯2024/05/04(土)午前中に買い物へ。往路にスタンドに寄ってガソリン満タン。少しも値段が下がらないままで、今月いっぱいで元売りへの助成金が廃止になると言う。一体、どれくらいの燃料費になるのか。電気やガス料金も必ず値上げされるだろう。▶いつも通りに、茂原のスーパーへ。牛乳やかみさん用の「握り寿司」(「こどもの日」用記念特価で、約千円)、その他。▶総理大臣は国外逃亡よろしく、欧州や南米への逃避行。内政を放置して、やたらに外国では「大判振る舞い」の悪癖。この先「円安」の行方はどうなるのか。金融政策は袋小路に入ったまま、財政運営は無規律、使い放題。カタストロフィ一歩手前のような感じがしている。すでに日銀は債務超過しているのではないのか。嘘で成り立つ政治の世界。日銀よ、お前もか。(556)

◯2024/05/03(金)朝から好天。駄文書きが終わると同時に、庭に出て除草作業。昨日同様、気温は30度あったかも知れない。それほど暑く、草取りも早々に終わった。自宅前の町道の脇の除草と、車庫横の除草。いずれ、空き地や竹林内も除草をする予定。今年は「シロフジ」がかなりうまく咲いてくれた。たくさんの花房をつけて、その清楚さが映えていた。急ごしらえの「棚」が壊れて見苦しいせいもあって、少々は補強しておいた。いずれ、主柱もしっかり立てて、今少し見栄えのする藤棚にするつもり。少しばかり、手水鉢のそばの草を取り除いたら、相当に暑さが応えてくる。ここで一旦休憩。少しばかり休んだ後、作業を再開。二時間ほども続けただろうか。(555)

◯2024/05/02(木)朝から好天。午前中に買い物。茂原市内のいつもの店に。帰りにはスタンドでガソリンを。5月いっぱいで現行のガソリン補助金(元売りへの)が終了すると言う。円安が一向に収束する気配がみえず、政府日銀が「為替介入」を含めて二回(4月29日と5月1日)、総額7兆円だと言う。それでもなお、円安傾向は留まるところがないのは、もうこの国の金融政策には打つ手がないということが見透かされているのだ。介入資金は目下24兆円とか。金融崩壊がみえていると言うべきだろうか。▶買い物の帰路、いつものHCで猫の「ドライフード」を購入。(554)

◯2024/05/01(水)本日から皐月。庭の片隅では「白フジ」も咲いている。山吹も木香薔薇も盛んに咲き誇るがごとく。▶朝から降雨。世間は「大型連休」とか、当方にはまったく関係のない話。終日、雨が降り続いている。そのためか、猫も多くが家の中でゴロゴロしている。半分(十匹)以上がいる。家の中にもトイレは用意してあるが、二箇所では間に合わないほど、代わりばんこで使っているようだ。その掃除(汚れた砂を替える)はマメにしなければならない。▶夜の九時ころだったろうか、福岡の奥永牧ちゃんから電話があった。珍しいことだと言ったら、A.ビナードが家に泊まっているのだという。由布院での「講演」の帰りに来た(呼んだ)らしい。早速電話に出られた。どれくらい話したか、一時間以上、まるで旧知のように話すことができたのは幸いだった。滞日三十年を超えたという。いい仕事をされていると、ぼくはいつも敬意を持ってみている。なにかと教えられることもある。いずれ千葉にも来てくださる機会を期待しつつ、話を終わった。奥永一家も変わりなしという。長女は連休を利用して帰福。長男はアメリカに行っているとか。旦那も元気だった。(553)

◯2024/04/30(火)少し雨模様だったが、徐々に晴れてきた。目薬を使ったからか、少しは具合がよくなった気がする。▶午前中に、猫の食料を購入するために土気に。自宅からH.C.まではほぼ10㌔。茂原のS.C.までと同距離。車で10分ほど。通常は毎日のよう出かける。一つは必要なものを買うためであり、他は気分転換のためである。土気(千葉市緑区)への道は、途中市原市内を通る。市原市は県内では最も面積の広い自治体だそう。▶天気ははっきりしないので「除草作業」は中断したまま。午後から天気は回復したが、室内でモタモタしたまま。▶卯月も晦日。(552)

◯2024/04/29(月)朝から好天。駄文を書き終えて、朝食を食べていると、目の調子がおかしいと感じる。目眩(めまい)がすると言うほどではなかったが、焦点(ピント)が合わずに、少し対象がぼやけて見える。おそらく、これまでの経験からすれば、かなりの「眼精疲労」の症状だと判断する。できるだけ早い方がと、開店を待って薬局に出かけ、少々値の張る目薬を購入。白内障か緑内障かも知れない。目薬で症状が改善されなければ、眼科医に出かけるだろう。▶以上の理由で、本日は除草作業中断。帰宅後はずっとパソコンの前に座ったが、目薬の効能を試すためにも、短時間、布団の上で横になり、目を休めていた。それ以前にあった、目は回りそうだとか、物が霞んで見えるという症状は治まった感があった。これ以上悪化しなければよいがと思う。少しは睡眠時間を長く確保したいものだ。(551)

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似合わぬ僧の腕立て 

◯ 週のはじめに愚考する(拾八)~ 本年2月に「平和学の父」に擬せられたヨハン・ガルトゥング(Johan Galtung)さんが亡くなられた。その時には静かに想いを寄せて「平和」の願わしい姿を瞑想していました。今に及んで、彼について何かを述べる必要はないでしょう。しかし、この国の「政治指導者」たるものが、「平和」を戦争の道具にしている現状を黙って見過ごすことはできないと、ガルトゥングさんの思想と行動を我が身に引き寄せて、改めて考えてみる必要があるのを痛感しています。「平和」とは戦争などの「直接的な暴力」のない状態だけでは足りず、人種差別や自由の抑圧という「構造的暴力」もまた克服されなければならないし、そこに至るためのあるべき「平和」状態を深く考えさせられてきたし、考えさせられているのです。                                                       (ヘッダー写真「自衛隊の地対空誘導弾パトリオット(PAC3)=資料写真」:東京新聞・2023/12/22」

【余録】「これが平和なら私は平和に反対しなくてはならない」。4%の白人が支配したローデシア(現ジンバブエ)。「何十年も白人が黒人を殺害したことはない」と強調する白人政権の言い分に同意できなかった(「日本人のための平和論」)▲そこで提示した概念が「構造的暴力」だ。戦争のような「直接的暴力」がなくても人種差別や抑圧があるなら暴力と同じ。そうした暴力の行使を正当化する言論など「文化的暴力」とともに暴力を3分類した▲93歳で亡くなったヨハン・ガルトゥングさん。ノルウェーを占領したナチスに抵抗した父親が逮捕されるのを13歳の時に目撃した。「ネバーアゲイン(二度とごめんだ)」と平和研究の道を歩み、オスロ国際平和研究所を設立した▲暴力がないだけの「消極的平和」にとどまらず、信頼と協調で維持される「積極的平和」の重要性を唱えた。日本人女性と結婚し、たびたび来日。安倍晋三元首相が提唱した「積極的平和主義」を「軍事同盟が支え」と批判したこともある▲「何かを実現したければ、ビジョンを提示しなければならない」。非暴力的手段による平和実現を模索して嘲笑や黙殺を恐れなかった。「人には混沌(カオス)から秩序(コスモス)を作り出す力がある」と信じていた▲「平和」を達成しようと暴力を用い、兵士より不釣り合いに多くの民間人が殺されて報復の連鎖を生む。「平和学の父」が乗り越えようとした不条理がウクライナやガザで繰り返されている。「暴力と平和」の意味を改めて考えたい。(毎日新聞・2024/02/22)

 ガルトゥング氏の「平和は平和的手段によってしか得られない」という主張に真逆の方向から、それを否定(嘲笑)・拒絶(揶揄)したのが故安倍元総理の「積極的平和主義」という、言葉のまやかしによる「集団的自衛権行使」なる妄想に基づく「積極的暴力(戦争)肯定主義」でした。2015年に成立を強行した「安保関連法案」審議の時期に、元首相は折々に「積極的平和主義」なる論理(屁理屈)を強弁している。曰く「一国だけで自国の安全を守ることはできない時代」、曰く「自国が攻撃を受けなくても、武力で同盟国を守る集団的自衛権の行使容認」など、それは結局は「日米軍事一体化を正当化」するための理屈(膏薬)だったとしか思えない。当初は「自作自演」と想っていたが、やがて、それはアメリカからの強力な「使嗾(しそう)」「指図」であったことが判明しています。このような政治家をして「売国奴( traitor )」と呼んできたのが政治史の常識ですね。

 その「屁理屈」を忠実に継承したのが現総理。なんの思想も哲学もなく、もちろん恥も外聞もなくですが、自己の政権維持ためだけの「積極的強硬論」を吹聴するのである。さまざまな問題に対して、只の一度も「責任」を取らないことが政治姿勢の背骨と目される総理が「いたずらに(改憲の)議論を引き延ばし、選択肢の提示すら行わないということになれば、責任放棄と言われてもやむを得ない」と異なことを宣(のたま)う。「天に唾する」愚か者。「責任放棄」を政治信条としてきた政治家まがいがいたずらに「責任」を強調するのは、何があっても政権にしがみついていたいという卑しい魂胆の吐露ではあっても、政治哲学や政治倫理とは無関係だと、ぼくは断言する。しかも、それはアメリカの指示(支持)と後ろ盾があってのことなのだと言いたい。

 岸田首相が改憲に意欲、「議論の引き延ばしは責任放棄」…改正派集会にビデオメッセージ 岸田首相(自民党総裁)は憲法記念日の3日、東京都内で開かれた憲法改正派の集会にビデオメッセージを寄せ、「いたずらに(改憲の)議論を引き延ばし、選択肢の提示すら行わないということになれば、責任放棄と言われてもやむを得ない」と訴えた。改憲の議論に慎重な立憲民主党が念頭にあるとみられる。/首相は「現行憲法が時代にそぐわない部分、不足している部分は果断に見直しを行っていかなければならない」と述べ、改めて改憲に意欲を示した。「改憲がますます先送りのできない重要な課題となる中、国民に選択肢を示すことは政治の責任だ」とも指摘した。/自民派閥の政治資金規正法違反事件について改めて謝罪し、「政治改革と併せて、改憲という重要な課題について党派を超えて連携しながら、 真摯 に議論を行う」と語った。首相が憲法記念日の集会にメッセージを寄せるのは3年連続で、今年は自身の動画投稿サイト「ユーチューブ」にも同様の内容の動画を投稿した。(⏪️岸田首相のビデオメッセージが流れた集会)(読売新聞・2024/05/03)

 「台湾有事は日本有事」などという屁理屈は、米国の使嗾、あるいは恐喝によるとしか考えられないし、ひいては「それが自政権の命数」を決めるという計算が働いたからだとするなら、何おかいわんや。これまでも繰り返し述べてきたが、アメリカは「日本の防衛」に自らの軍事力を使うとは考えられない。まして、国力の著しい衰退を目の当たりにして、対中国有事は得策ではないという以上に、そこに踏み込むべきではないという軍事方針があるのはまちがいない。極東に「積極的平和主義」を構築するには、日米韓の軍事同盟の強化は不可欠だし、そこから生み出されたのが「集団的自衛権」という理屈の通らない妄説だった。

 世に「衣鉢を継ぐ」という。いろいろな分野の先人(師匠)の優れた業績や奥義を弟子に当たるものが引き継ぐことを指す。政治にも「衣鉢」の受け継ぎはあるのだろう。さしづめ、現総理の師匠(と本当に見做しているとは思えないが、自己都合でそう振る舞っているのだ)、それは故元総理だとするらしい。とするなら、その「業績」あるいは「奥義」は何か。そんな「お宝」があるとは思われませんが、あえてそれらしいものを探すなら「集団的自衛権」「積極的平和主義」であり、それを正当化するために強いられた「日米軍事一体化」だというほかないようです。この国の首相は内閣の評判(支持率)が悪くなればアメリカに逃亡する。逃亡先で命乞いをし、軍備増強のための武器の爆買いを約束させられてきた。どの国と戦うための「軍事拡大」なのですかと、言っても聞く耳を持たないのです。ひたすら政権延命のための「防衛策」、それが対米追随であり、…。輸出先としても、この国の経済活動の中核としても、この国を外せないのは日を見るよりも明らか。そのような隣邦を「敵国」とみなす、それは勇気とか政治判断というものではなく、ひたすら「我が身可愛さ」のあまりの「対米追随」の現れでしかないのです。ここにも「売国奴」がいます。

 「平和」のための戦争とはなんだろう。いわれなき侵略を受け、祖国を防衛するために軍事行動を起こす。その実例は「ウクライナ」です。自国を防衛することがなければ、そこに平和が生まれないどころか、国自体が消えてしまう。平和状態を樹立するための「防衛戦争」はありえます。だが現実に、この島国がどこから「侵略」される危険性があるのでしょうか。事あるごとに「中国」を敵国視するのが流行中ですが、それはアメリカからの軍事的感染に過ぎない。隣国と対立・対峙していて、自国内に「平和」があるはずもない。「平和外交」「積極平和」を希求する姿勢を持たないままで、「積極的平和主義(集団的自衛権)」を馬鹿の一つ覚えのように言っている暁に、今以上に惨めにも米国の「占領下」に沈む(敗戦直後に逆戻り)ことになるでしょう。

 政治家は坊さんではない。しかし、平和を求め、戦闘をを忌避する責任があるという点では、どちらも「平和主義者」だし、そうあってほしい。そう思えば、似ていなくもない。もちろん「宗教戦争」「聖戦」などと詐称して、教祖(宗派)の名を騙って戦いに奔走するという愚かしい宗教・宗派間の戦争が、残念ながら現実の世に絶えないのも事実です。生臭さでは類似・仲間だが、それは宗教や政治の範疇には収まりきらないので問題外。だからこそ、あくまでも「民の安寧」を祈り、「世の平和」を希求する、それをして「宗教の根拠(存在理由)」だとするなら、政治もまた、そのようであってほしいとぼくは念じている。

 その地平から「似合わぬ僧の腕立て」という「科白」が出てくるのです。

● ガルトゥング(がるとぅんぐ)(Johan Galtung)(1930―2015)= ノルウェー出身の世界的な平和学者。オスロに生まれる。1956年に数学で、1957年に社会学で博士号取得。1959年オスロの平和研究所設立、所長を務める(~1969)。1964年『Journal of Peace Research』を発刊、1974年まで編集委員長。平和学の創生期に重要な理論活動を行った。アメリカのコロンビア大学講師・助教授(1957~1960)、オスロ大学教授(1969~1977)、国連大学コーディネーター(1977~1981)、フランスのヌーベル・トランスナショナル大学学長(1984~1995)、ハワイ大学特別教授(1987~1995)、ノルウェーのトロムソ大学教授(1995~1999)、立命館大学教授(1997~1999)。国連の専門機関のコンサルタントも多数務める。1993年よりNGO「トランセンドTRANSCEND」を主宰。著者・論文多数。/戦争の不在としての「消極的平和」に対して、幸福や福祉や繁栄が保障されているという意味での平和を「積極的平和」とよんで区別した。これに対応して、平和の対立概念である暴力についても、戦争・殺人などの直接的暴力に対して、抑圧や搾取が行われている状態である構造的暴力という概念を提出し、その両者が克服されなければならないとした。構造的暴力という考え方は、平和学の対象を開発途上国が直面する困難という問題にまで広げることとなり、平和学の理論の発展に貢献した。/平和学を打ち立てたこの巨人は、該博な知識の持ち主で、対象を一面的にとらえるのでなく歴史的にも地理的にも非常に多面的に考察し、せめぎ合いの向こうにそれらを超越する新しい解決方法の地平を展望する。彼は平和学者として国際問題の紛争解決について助言・提案を行うなかで、紛争当事者との対話・議論の経験から、紛争解決ではなく、紛争転換のためのトランセンド(超越)法を編み出した。トランセンド法とは平和創造の主体形成のための方法であり、対話と創造性に基づき、紛争を非暴力的に転換していこうとする実践・訓練・研究のことである。彼が1990年代以降主宰している「トランセンド」というNGOでは、実際に紛争を調停する役割を担う人々のトレーニングを行うための各種プログラムが企画・立案されている。また、実践的にも国際紛争の診断・治療・予後といった枠組みで国際問題の解決にも貢献しようとしている。2003年からトランセンド平和大学(オンライン)が開校。(日本大百科全書)

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