
◉ 「老い」について、「コラム」二題 乳幼児が育つ環境はさまざまです。しかし、よりよく健全に育つにはそれなりの条件の備わった環境や背景(家庭や地域社会を含めて)が必要であることは言うまでもないでしょう。保育園・幼稚園や学校も、その大事な育児環境の中核になるものです。これと同じように、人が老いてくると「病気」にもなり、心身の健康を損ねることになりがちです。その際、老人医療や老人ケアの制度や仕組みが十分に備わっているかといえば、残念ながら、学校・教育制度ほどにはお金も人もかけていないのが実情です。不安をいっぱいにしながら、多くの老人(ぼくも、もちろん入っている)は、仕方何に歳を取っていかざるを得ないのだと言ったら、罰当たり目と、嘲笑・非難の矢をあびるでしょうか。
(ヘッダー写真・老施協「映像作品から学ぶ介護の世界 」:https://roushikyo-digital.com/news/4421/)
自分自身が「後期高齢者」だという理解・認識が不十分だという感覚はあるものの、いつ何時病気になったり、大怪我をするかも知れない、いわば「危険水域」に入っているのをつくづく知らされてもいるし、信友直子さんの監督された記録映画のように、我が家は「老老夫婦」でありますから、どちらかが健康を損ねたら、それこそ「一大事」と覚悟・準備(心構え)はしています。子ども教育(学校教育)に「絶対」とか「確実性」というものが存在しないように、「老人介護」にも「伝家の宝刀」「奥義」があるとは思われないのです。いずれの場合も、「人それぞれ」です。教育関係も介護関係も、当事者のどちらか一方が主導権を握るものでもなく、いかなる「関係」が、両者の間に生まれるか、それが決め手になりうると、当たり前のこととしてぼくは考えている。

「天風録」に書かれている「私流のやり方があるんじゃけん」「洗濯の仕方を教えてくださいや」というのは、その典型ではないでしょうか。この「私流」というのは「生き方」と捉えてもいいでしょう。「お母さんが一番不安なんじゃけんの」と、包み込むような父(夫)の言葉が胸に刺さります。こういう言葉は、普段からの関係があって初めて出てくることを考えると、ぼくは途端に自分が不甲斐なく、不親切であることを恥じ入るばかりです。もちろん、かみさんが「認知症」になるのか、いや「お前のほうがなるのじゃ」と、今のところは先陣争いをしているつもりもありませんが、どちらであれ、そうなった場合には、長年の付き合いから作られてきた「夫婦の関係」が試される、そんな予感・直感がしきりにする、その場になってジタバタしても始まらない、その長年の関係の「延長」を歩く他にはないのですから。
「家族だけで解決しようとするのは無理がある。介護保険サービスや近所の人の声かけで救われ、母らしい生き方を支えた。社会の準備はできているだろうか」という件(くだり)で、はたと考え込んでしまうのです。子育てにもそっくり同じ雰囲気があるでしょう。その狭い枠を超えられる気安さが、残念だけれど、欠けているのが現実です。さらに、街中によく見かけた「ケアハウス」「介護施設」「デイサービス」の看板が徐々に減っている。それは一時的なものなのか、それも、…。「待機児童」の問題が、そのまま「大気老人」に被さっています。「裏金作りに現(うつつ)を抜かす」政治家に何が期待できよう。悔しいけれど、できる範囲でしかできないことを知悉しつつ、それでも、ぼくは「無理をしない」「自分たちのペースで」を、今でも心がけている。今のところは、その歩調や歩幅を変える必要もないとも想っている。

【天風録】社会の準備 呉市出身で映画監督の信友直子さんの実家にヘルパーが来た初日の出来事だ。「私流のやり方があるんじゃけん」。洗濯機前で通せんぼする認知症の母。ヘルパーは「洗濯の仕方を教えてくださいや。水道代の節約になるんじゃってね」と切り返す。完璧な主婦だった母は笑い、受け入れた▲ドキュメンタリー映画「ぼけますから、よろしくお願いします。」の信友さんがかつて本紙連載につづった。介護した父はどの言動も尊重した。「お母さんが一番不安なんじゃけんの」▲介護現場の取材で得た学びと重なった。介護福祉士がお年寄りの経歴や趣味を深く尋ね、介助や接し方に生かしていた。目からうろこだった。その人らしさまで奪われるわけではないのだと▲認知症になる人の政府推計が9年ぶりに公表された。2040年に584万人と、変わらない傾向を思い知る。一歩手前の軽度認知障害を含めると、65歳以上のおよそ3人に1人に上る▲「ぼけますから…」にもう一つ大事なことを教わった。家族だけで解決しようとするのは無理がある。介護保険サービスや近所の人の声かけで救われ、母らしい生き方を支えた。社会の準備はできているだろうか。(中國新聞・2024/05/14)
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中村桂子さん、1936年生れだそうです。現在八十八歳。たくさんの仕事をされた方で、その触りの部分だけをぼくは学んできたような塩梅です。そんな不勉強な人間ではあっても、この駄文集録の何処かに、中村さんに触れながら、人間も含まれる「生物」の姿や歴史を考えてきた気がしています。「老いを愛づる」というタイトルに、中村さんの意図が現れているように感じます。老いは経験するものであって、愛づる・憎む・嫌うものではないと、ぼくたちは思いがちです。まして、望んだわけでもないのに「ぼけますから、…」という境遇に生きているような人には「愛づる」などということは無縁だと、どうしても考えてしまいます。だが、それはは誤りではないかと、ぼくは立ち止まらされたのです。
「私流のやり方があるんじゃけん」という強い意志の言葉に、それは端的に示されているでしょう。「認知症」を患われる、全ての方がそうではないだろうという思い込みこそ、ぼく(たち)が落ち込んでいる「隘路」「袋小路」であり、それが「老いの問題」を必要以上に、針小棒大に、そして理解困難にさせているのではないかという、深い自省の念もある。
庭の草取り、こんなことにも人それぞれの姿勢や態度が出るのが面白くもあり、身につまされもする。中村さんは「年齢を重ねるうち、雑草は『また生えてくるんだから』とか、葉っぱも『明日も落ちてくるんだから』と考えが変わってきた」といわれる、環境との付き合い方の軌跡がぼくには面白く受け止められたのです。環境には有害そのものの、強烈な『除草剤」は論外で、生えてくるのを邪魔しない程度に、せっせと除草する、それぐらいのペースをぼくは崩したくない。体力は確実に落ちている、それは隠せない。「体力が衰えるのは年を取ること」だから、と受け入れるのが大事であって、老齢や弱体化に抵抗しないこと、それこそが中村さんの言われる「老いを愛づる」態度(思想)につながるのかもしれません。

これ以上は無駄に流れる駄文を綴るより、以下に中村さんのお話をうかがえる格好の「対談」が残されていますので、問題を考えるヒントや材料は、その「対談」に譲ります。
(※ 「生きものは弱いから生きのびる|生命誌研究・中村桂子 × YAMAP 春山慶彦」:https://www.youtube.com/watch?v=NvqTRrxVlB4&ab_channel)

【有明抄】やらなければと義務感にさいなまれながらも、現実から目をそらしたくなるのが、庭の草取りである。生命誌研究者の中村桂子さんは、それが若いころから苦にならず、徹底的にやらなければ気が済まなかった◆年齢を重ねるうち、雑草は「また生えてくるんだから」とか、葉っぱも「明日も落ちてくるんだから」と考えが変わってきた。以前は100%取り除いていたところを97%ぐらいで済ます。たった3%でもこの差は大きい。多少、草が残っていても、「体力が落ちた」などと嘆いてはいけない。「これでいいのだ」が大事だと(『老いを愛づる』)◆哺乳類は生まれてからの心拍数が20億回ぐらいに達すると止まってしまうらしい。それが寿命である。人間は50歳前後で20億回を迎えるが、例外的に長生きをする。進化の過程で老いた人のいる社会が安心でき、繁栄すると学んだからなのだとか。それは「ほどほど」を許容する居心地のよさだったかもしれない◆誰もが介護の世話にならず、できる限り自立した暮らしがしたいと願う。そのためには1日9000歩を目標にすればいいという研究もある。頑張ってそれ以上歩いても効果は変わらないそうである。キリのいい1万歩には届かなくても、いくらか気持ちは楽になる◆無理はしないけれど、あきらめもしない。これでいいのだ。(桑)(佐賀新聞・2024/05/14)
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