尊き聖(ひじり)の言ひ置きける事を書き付けて、『一言芳談』とかや、名付けたる草子を見侍りしに、心に合ひて覚えし事ども。
一 しや、せまし、せずや、あらまし、と思ふ事は、大様(おほやう)は、せぬは良きなり。
一 後世(ごせ)を思はん者は、糂汰瓶(じんだがめ)一つも持つまじき事なり。持経・本尊にいたるまで、良き物を持つ、由無き事なり。
一 遁世者(とんぜいじゃ)は、無きに事欠けぬ様(やう)を計らひて過ぐる、最上の様(やう)にて有るなり。
一 上臈(じゃうらふ)は下臈(げらふ)に成り、智者は愚者に成り、徳人(とくにん)は貧に成り、能ある人は無能に成るべきなり。
一 仏道を願ふといふは、別(べち)の事無し。暇(いとま)有る身になりて、世の事を心に懸けぬを第一の道とす。
この外も有りし事ども、覚えず。(「徒然草」【第九十八段】)

ヘッダーの写真に出した「無常といふこと(事)」(唱和十七年発表)は、何度読んだかわからない。わからないから何度も読んだという方が正確でしょう。戦時中という「背景」が色濃く反映していると思う。それを掲出したのに深い仔細はない。ただ、これを高校性の教材にしていいんですかという懸念のようなものがあるからです。ぼくは特別に不勉強者だったから、高校時代に「徒然草」はお呼びではなかった。もちろん「一言芳談」は尚更でした。ここに敢えて出したのは、小林さんが「一言芳談」の文章を「『徒然草』の中においても遜色がない」と書かれていることに、ぼくは刺激されてきたからです。兼好の「芳談」からの箇条書きは五つ。まだ他にもあるけれど、「覚えず〈忘れた〉」と断っている。そのいちいちに注釈は要らないでしょう。「こうしたい、ああすべきだ」「それはならぬ」などとは言いますが、兼好自身が実践できたから、世の迷い人に忠告を下すというものではなかったでしょう。こうしたい、ああしたいというのは、できなかったことの裏返しです。
これまでにも何度か「徒然草」に触れてきました。その都度、念押しするように、兼好さんは「人生の達人」と称されているけれど、決してそうではないということを言ってきました。神官を望んで果たせず、文芸に精進するも身の丈にあった地位には着けなかったという、若い日の鬱屈は、おそらく晩年に至るまで続いたはずです。「時宜を得れば、きっと」と、熱い心を滾(たぎ)らせてもいた。いつの世にも存在する「栄達」「立身」、つまりは自己実現への憧憬を隠さなかった、一人の人間の全姿が、この「徒然草」に現れていると、ぼくは見てきました。もちろん、晩年に至るまで「枯れて」などいなかった。だからこそ、世間へのつきせぬ想いを断ち切ろうと足掻いたとも読めます。兼好さんは出家遁世の人ではなかった。

出家者の中には稀有な「覚者(buddha)」もいます、当然ですね。「真理を体得した人」です。でも、それはあくまでも「稀有」であって、出家者がすべてそうだというのではないでしょう。いや、出家を隠れ蓑にして「俗物」をまっとうしようという輩のほうが圧倒的に多いはずです。それは鎌倉時代でも今の世でも変わらないと思う。これを、世に「生臭坊主」という。
「しようか、すまいか」と迷ったら、まず「しない」ほうがいいのだ。「死んだ後(極楽往生)」を心に懸けようとする人は、どんなつまらぬものでも持つ(所有する)のはよくない(「糂汰瓶」とは「味噌瓶」)。お経本でも仏像でも立派なものは要らない。世捨て人は「物を持たない(執着しない)」のを最上と心がけて過ごすべし。「上臈」(高僧・身分の高い人)は「下臈」(修行の足りないもの・位の低い人)になったつもりで生きる。智者は愚者になり、富者は貧者になる必要がある。「得道」、つまりは「悟り」を開きたいと願うためには、特別に何かをするのではなく、閑暇を求めて「世の事を心に懸けぬを第一の道とす」となり、です。

● 一言芳談(いちごんほうだん)= 中世の念仏行者らの信仰をめぐる法語類を集録した書。もと一巻。編者は不詳。頓阿が編集したとの説もあるが信じ難い。『徒然草』に本書からの引用があるので、『徒然草』成立時を最下限としてそれ以前半世紀ぐらいの間(一二八〇―一三三〇)に成ったと思われる。法然をはじめ浄土信仰者三十余名の法語を百五十三ヵ条にわたって記録している。おおむね短小簡潔な法語で、名利を離脱すべきこと、無常を深く認識すべきこと、ひたすら念仏行を実践すべきことなどを説いたものが多い。収載法語数の最も多い者は敬仏(三十二条)で、以下法然(十六)、明禅(十五)、聖光(七)、明遍(七)、然阿(六)、行仙(五)の順で次第し、他は一、二条の収載にとどまる。先行の類書『祖師一口法語』と重複する項が六十三条ある。『続群書類従』釈家部所収の本(一巻)が古体と思われるが、本文は慶安元年(一六四八)の板本(二巻)の方が信頼できる。他に刊本として『日本古典文学大系』八三などがある。〈国史大辞典〉

兼好さんが坊さんだったと、ぼくには思われません。「道(方法)」を得たいと願ったことはあるでしょう。しかし、それだからと出家を選び、修行専心という流行りの法(生き方)はとらなかった。早い段階で「出世」を諦めたのにはいくつかの事情があったでしょう。しかし、だからといって仏門に入った形跡もないし、世の縁者とは疎遠を貫いたとも思われません。世間とは付かず離れず、文人・歌人としての修行に励んでいます。まして、この「徒然草」執筆の動機や経過、存命中にあるいは発表されたかどうか、疑わしいのです。公刊を目的に書かれたとも思われません。細かく言えばきりがないでしょうが、要するに、兼好という人は文人であり、批評家であった人で、世の中の不都合や矛盾、不正や不合理を鋭く射抜く正義の人(モラリスト)でもあったとは言えるでしょう。例えて言うなら、「合気道」流に生きようとした。
結論は出ない。どんな人でも、人それぞれの見られ方(世の評価)がありますから、さまざまな「人物像」がありえます。はるか昔の時代を生きたことは事実だとしても、その行脚や意識の姿は、余人には杳(よう)として知れないのは当たり前だという気もします。ぼくが「徒然草」を読み続ける理由は単純です。吉田兼好は激しく「無常」を感じつつ生きた人ではあったろうが、「無常観」を説いた人ではなかった、それだけのことです。実に安直な結びになりそうですね。いつの世にも存在する一人の人間として、彼に、ぼくは親しささえ感じている。

(余談 何事にも色気満々でありながら「悟り」を講釈する者はいる、掃いて捨てるほどいる。「政道とは誠の道を歩くことだ」と嘯(うそぶ)いて、悪を働く政治家もいる、嫌になるほどいる。それが世の中、世の常です。兼好さんもそんな世の中に生きた、当たり前の感覚を有していた人間でした。「世の事を心に懸けぬを第一の道とす」と物申して、世間を意識して生きたのではなかったか。不思議でもなんでもありません。それが「生きること」だから)
___________________________




















































