
【斜面】満足感を取り戻そう どんな時に人は投票に行こうと思うのか。その問いにこんな答えがある。自分の票を投じた候補者や政党の勝利でもたらされる利益と、選挙への参加で得られる満足感を足したものが、投票に行くための時間や労力を上回った時だ―と◆投票制度を長年研究する松林哲也さんの著書「何が投票率を高めるのか」で知った。現実には支持する人や党が必ず勝つとは限らず、1票の影響も小さい。それでも大勢が投票に行くのは、民主的な手続きに加わることへの満足感が大きいからだという◆各種選挙の投票率の低調が言われて久しい。1950~60年代にほぼ7割を超えていた衆院選も低下傾向が続き、2012年以降の過去4回は5割台に落ち込んでいる。選挙制度が変わり、期日前投票が導入され、投票できる年齢が18歳以上に引き下げられたが、復調が見えない◆東西冷戦の終結でイデオロギーの対立が薄れ無党派層が増えたとの指摘がある。一方で国のあり方を変える重要な政策が国会の熟議を経ず次々に決定されている。声が届かないと感じ、投票に価値を見いだせなくなった有権者が増えているのではないか◆きのう衆院選が公示された。自民党の派閥裏金事件で政治の信頼は揺らぎ、物価高は収まらず、災害が相次ぐ。世界では硝煙がたちこめる。有権者が投票を放棄してしまえば、この国で“新しい戦前”がますます鮮明になるだろう。1票を無駄にせず、政治を国民に取り戻す機会にしたい。(信濃毎日新聞・2024/10/16)

これまでに、いったいどれくらいの回数の選挙(投票)(国政と地方政治の)に出かけたでしょうか。二十歳からの六十年間、年に一回とは言わないけれど、二年に一回と計算すれば、三十回。ごく初期の頃、まだ学生だったか、投票せずに棄権した記憶(一回か二回か)があります。だから、野球の打率で言えば、軽く9割は越えているでしょう。自慢しているのではない。コラム「斜面」氏の紹介されているような「民主的な手続きに加わることへの満足感が大きいからだ」というような、そんな殊勝な理由など、ぼくにはいささかもない。ぼくにとっての「参政権」とは、端的にいうなら「政治に参加すること」「政治参加の権利の行使」にほかならない。国政であれ、地方政治であれ、その権利の行使の仕方にはいろいろな形態がありえます。本来なら、自らが、選挙に出て政治活動をする必要があっても、いろいろな理由でそれができないので、自らの「代わり」「代理」を選ぶ、その選挙権を行使する、それが何よりの理由でしょう。いわば、「あなた任せの政治」です。

選挙・投票に出かけて一票を投ずる、その結果得られるのは「満足感」だったことは一度もない。そんなことあるはずもないでしょう。結果的には、いかなる政治や政治家も、必ず腐る・堕落する、その腐る・堕落する政治に参加することから「満足感」が出てきますか。第一に、ほとんど毎回投票するけれども、ぼくが選んだ候補者はめったに当選しないのですから、満足が得られないのは当たり前。いや、「君は当選しない候補者を選んでいるのだ」と言われそうで、あるいはそうかもしれない。何度も当選(議員が職業と化している人)しているのに、少しも政治がよくなった気がしないのですから、当選の常習者を選ばないのは、それなりに理屈に合っています。学級委員選挙でも生徒会の選挙でも、とにかく「選挙」と名の付くものに、それに立候補するのは、小さい時から大嫌い、こんなことをします、あんなことをしますと、まるで「しますの安売り」をするような人間にはなりたくない性分だと思えます。これは小学生以来の、ぼくの持病・痼疾みたいなもの。やたら、誰かに頭を下げるのは実に嫌なこと。

これまでにも、国会議員や地方議員の肩書を持っている人間には何十人と出会ってきましたが、その瞬間に、「恐れ入りました」と頭が下がり、「及び難し」と畏敬の念を掻き立てられた御仁は一人もいない。もちろん、その不幸はぼくの側の問題ではありますが、政治家という人種は、なんという「脂ぎった」人たちだろうという驚きばかりが先に立って、とても同席も懇談もできる相手ではないという諦念が失せなかったと正直に言っておきます。「有権者が投票を放棄してしまえば、この国で“新しい戦前”がますます鮮明になるだろう。1票を無駄にせず、政治を国民に取り戻す機会にしたい」と、コラム氏は政論の正論を(毎度ながら)述べられます。それで投票に行かれる人が増えれば儲けもの。投票率は、その国や地方の民主主義や民度(選挙民の知的水準)のバロメーターといわれるか、「えっ、そうかい」と疑問を呈しておきます。翼賛選挙と言われた時代、投票率は九割以上だったかもしれない。しかし圧倒的国民の賛意を得た国会議員が集まり論じて、究極には国家を破壊し、国民を奈落の底に突き落としたではなかったか。

選挙権行使の方法はさまざまです。複数の候補者があることが大前提ですし、投票率が低いより高い方がいいというのも、理屈としては成り立つ。しかし、無投票で当選した議員・市長や町長・村長などが選挙民の全幅の信頼を得て、それがゆえに対立候補が出る幕がないということかもしれないし、その昔から「三割自治」などと揶揄されてきましたから、投票率も三割もあれば、御の字。野球でいうなら名選手並みの高い打率です。投票率が三割ではだめで、七割なら立派だというなら、「何が立派なのかを示してください」とぼくは、お説を述べる人たちにお願いするでしょう。


今回、アメリカの大統領選挙の報道を暇にあかせてみています。三週間を切った投票日(11月5日)を前に、とんでもない事態が勃発しそうです。候補者の元大統領は「当選の暁には、移民(劣った遺伝子の持ち主)を大量に束縛し、強制送還する。自分に盾突いた政治家や官僚は逮捕拘束する。必要なら国軍も出動させる」と、とんでもない発言をしています。元の側近や仲間たちで、彼から造反した人々のほとんどが「彼は根っからのファシスト」だ、「アメリカにとっても最も危険な人物」とまで口をそろえて言いだしています。彼の下で元副大統領を務めた人間を「殺害」する意図さえ持っていたといわれています。前回の選挙が無効だ、盗まれたという彼の主張を、元副大統領が受け入れなかったから、それが「殺害意図」の理由です。

アメリカの大統領選挙の投票率は高い。候補者たちの選挙活動も、逐一報道されている。それが広く認められた上で、三十数件の重罪犯でもある人物、誰かれなく「ファシスト」「レイシスト」と指摘・糾弾する人物が再び「大統領」になるかもしれないと、一方では「恐れられ」、他方では「期待され」ているのです。デモクラシーとは、失敗の連鎖の軛(の中でくびき)のなかで、辛うじて息をしているような政治の原理でしょうか。時には、国家・国民もろともに死地に赴くことは避けられない、そんな時限爆弾のような危機をはらんでいるのです。「数度の選挙」を通して、ヒトラー(及びナチ=国家社会主義ドイツ労働者党)が「政権を掌握した」のは1933年1月の出来事でした。
++++++++++

⦿(ヘッダー写真はヒヨドリバナ)【ヒヨドリバナとは】北海道から九州の各地に分布するキク科ヒヨドリバナ属の多年草。日本の在来種であり、山野の草地や林縁に自生し、夏から秋にかけてフジバカマに似た花を多数咲かせる。日本以外では中国や朝鮮半島、フィリピンなどに分布。/ヒヨドリバナという名前は、ヒヨドリが鳴く頃に咲くこと、あるいは花殻に生じる綿毛(冠毛)がヒヨドリの冠毛に似ることによる。別名はサンラン(山蘭)など。(庭木図鑑・ヒヨドリバナ)
++++++++++















































