<あのころ>「ベルリンの壁」が崩壊 35年前の11月9日
1989(平成元)年11月9日、東ドイツ政府は旅行や移住のための出国を原則自由化することを決定、国民の西側への脱出を阻むために61年に築かれた「ベルリンの壁」は事実上崩壊した。検問所の周辺では、知人や親類との再会を喜び合う姿があちこちで展開された。写真は東側から壁をよじ登る市民ら。(ロイター=共同)(ヘッダー写真も共同通信・2024/11/09から)

昨日は「ガラスの天井」について愚見を駄弁りました。別名は「見えない壁」という。それは何処にもないし、何処にでもあるという、まるで「幻(まぼろし)」「あやかし」のようなもの。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」といいます。「幽霊と思っていたものは、枯れたススキだった。恐れられている人や物の実体がつまらないものであることのたとえ」(デジタル大辞泉)実際に存在しないにもかかわらず、人間の恐怖心(意識)が「幽霊」を生み出しているという、まるで「怖い御伽噺(おとぎばなし)」のようなものでした。「女性初の大統領」を目指して臨んだのに、大惨敗。それは「ガラスの天井」などという代物ではなく、日常の組織活動に大いに欠けるところがあった結果でした。「よく注意しなさい。ガラスの天井なんてどこにもないのよ」「あるのは、それを求めるあなたの意識なのです」

この「ベルリンの壁」は現実に存在した。「東西冷戦の象徴」などとまるで「レガシー扱い」されてきましたが、何のことはない。川の水の流れをコンクリートの壁で堰(せ)き止めることはできたとしても、人間の自由(意識)は物理的に囲いこむことはできなかったという証明でしょう。自らの陣地を守るために築く壁。小は「個室」から始まり、個人の敷地を取り囲む「塀(ブロック)」があり、今では米や野菜を獣害から守るための「電気柵」まで、各種取り混ぜて、さまざまな「障壁」「防護壁」があります。その歴史は古く、もっともよく知られたのが「万里の長城」で、「西戎夷狄(せいじゅういてき)」から「中華」を守護するためのものであり、今日では、南北に朝鮮を隔てる「38度線」が実存しています。

いままた、アメリカではメキシコとの境界線に「不法移民」の侵入を防ぐ壁を構築するという。自分たちが暴力で奪った土地を自らの領土(アメリカ・メキシコ戦争)にしておきながら、「移民」は認めないという不合理な話。「米国とメキシコとの間で行われた戦争。1846年、米国のテキサス併合後、国境紛争から開戦。圧勝した米国は、カリフォルニアニューメキシコを得た。米墨 (べいぼく)戦争」(デジタル大辞泉)もっと遡(さかのぼ)れば、原住民を撲滅・殲滅して、「アメリカ帝国」を作った歴史をもつ国です。「お里が知れる」(「言葉遣いやしぐさによって、その人の生まれや育ちがわかる。よくない意でいう」デジタル大辞泉)というのですか。左は、アメリカとメキシコの国境に作られた「壁」の上に乗り「壁は不要だと訴える動画を公開」したキシコ議会議員(ブラウリオ・ゲラ氏)(CNN・2017/03/04)

政権に帰り咲いた元大統領は「壁の建築費はメキシコに払わせる」と笑わせる。この「バカの壁」問題も激しく再燃するでしょう。(米墨戦争に反対したソローという人(右写真)は、そのために監獄に入れられた。こんな理不尽なことをする国には「税金を払わない」という実力行使の廉で)
西に「壁を壊す」ことに狂喜する人があれば、東には「壁を作る」ことに政治生命を賭ける人もいる。人間というのは賢いけれど馬鹿だという実証ですね。イスラエルとパレスチナの「戦争」は、実際は「壁(国境)」をめぐる領土争い。ウクラナイナとロシアもまた、「壁(国境)」の線引きに起因しています。こういう事実を突きつけられと、「権力亡者」は、自らの内部に「馬鹿の壁(征服欲)」を持っているというほかないようです。短絡して言うなら、「陣地争い」の軌跡が「人類の歴史」の重要な部分を占めているのだ。それを認めながら、言いようもない「恥辱」だとぼくは痛感している。(当地に越してきた直後、近所の人に「敷地には囲いを作る方がいい」と忠告された。今ではいろいろな動物(「害獣」だという)が自由に出入りしているし、やがては「金を出せ」と押しこむ手に負えない輩が来るかもしれない)
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(🔝はすべてAFP)【11月7日 AFPBB News】1989年のベルリンの壁(Berlin Wall)崩壊から、9日で30年。冷戦の象徴として街を東西に分断していた壁の崩壊に、ベルリン市民らが歓喜した当時を、写真で振り返る。AFPが捉えた歴史的瞬間(c)AFPBB News)(2019年11月7日 )
⦿ ベルリンの壁(Berliner Mauer)= 1961~89年まで西ベルリンを囲い込み,東ベルリンおよび周辺の東ドイツ地域との交通を遮断した障壁。ドイツが東西に分裂後の 49~61年の間に約 250万人の東ドイツ市民が西ドイツに脱出。特に熟練労働者,専門職,知識人の脱出がふえ続け,東ドイツ経済の命運を脅かす事態となった。そこで東ドイツは,東ベルリン市民の西ベルリンへの通行を遮断する障壁を構築した。壁の構築は 61年8月 12~13日の夜間に開始された。有刺鉄線とブロックによる障壁はその後,監視塔と銃座,地雷に守られた有刺鉄線付きのコンクリート壁 (高さ最大5メートル) に変った。 80年代までに,壁と電流フェンス,堡塁による障壁は 45キロに及び市を分断,その後さらに 120キロ延びて西ベルリンを囲い込み,東ドイツから完全に隔離した。こうしてベルリンの壁は,冷戦によるドイツおよび欧州の東西分断を象徴する存在となった。この間,約 5000人の東ドイツ市民が,さまざまな手段で壁を越え西ベルリンに逃げ延びた。一方,壁を越えようとして東ドイツ当局に捕えられた市民も 5000人に及び,ほかに 191人が壁越えの最中に射殺された。 89年 10月,東欧を巻込んだ民主化の波のなか,東ドイツの共産主義政権は崩壊。 11月9日,東ドイツ政府は西ドイツ (西ベルリンを含む) との国境を開放,ベルリンの壁も打ちこわされて通路ができ東ドイツ市民は西側と自由に往来できるようになった。これを境に,東西ドイツの政治的障壁としてのベルリンの壁はその役目を終えた。(ブリタニカ国際大百科事典)


(左写真・市が二分化される前に東ベルリンの自宅から西側に逃亡する市民(ドイツ・ベルリン)撮影日:1961年08月01日 AFP時事)(右写真・東ドイツ人民警察機動隊のコンラート・シューマン隊員。国境警備任務に就いていたが「ベルリンの壁」構築後、初の亡命者となった。彼が鉄条網を飛び越える姿を捉えた写真は「自由への跳躍」と題され、東西冷戦を象徴する写真の1つとなった。15.Aug.1961 (Photo by Chronos Media GmbH/ullstein bild via Getty Images)(下写真・ベルリンの壁跡を示す石とプレート(ドイツ・ベルリン) 撮影日:1999年10月21日 AFP時事)

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