ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。(中略)知らず、生まれ、死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目をよろこばしむる。その主と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露にことならず。或いは露落ちて、花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或いは花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。(「方丈記」・参考文献浅見和彦校訂・訳、ちくま学芸文庫)
ぼくは吉田兼好(1283~1352)も好きですが、鴨長明(1155~1216)も、ずいぶん長い間、それなりに親しんできました。もちろん、「徒然草」や「方丈記」を好きな時に好きなように読んできたというだけのこと。そこから、たいそうな人生観や無常観を得たわけでもなく、人並みに研究してやろうなどという殊勝な心掛けももたなかった。彼らを通してぼくが学んだのは、「時世時節は変わろとままよ」、たったそればかりでした。時世(時節)とは「その時その時の移り変わり。その時その時のめぐりあわせ」(デジタル大辞泉)、それはまるで運命みたいなもので、そこに生まれ合わせたものの「悲哀」もまた、何の計らいか、ひたすらめぐりあわせであるというほかないのでしょう。
彼らが生きた時代、それは今から七百年も八百年もの昔でした。平安末から室町初期くらいです。この二人には、もちろん交流はなかったし、兼好さんは長明のファンだったかどうか、定かではない。この二人が残した「随筆」は、ぼく(ら)にとっては、またとない「生き方の流儀」の参考文献でありました。縄文や弥生時代の人々の文章が残されていたら、それもまた、ぼくには「生き方の流儀」の立派な文献となっているはずです。何が言いたいか。「時世・時節は変わろとままよ」、です。「人はいかにして生きていたか」、それはいつの時代にも変わらない定めだったというのです。彼らの生きた「世間」と、ぼくたちが生きている「世間」には、本質において違いがあるとは、ぼくには考えられない。特に、長明が生きた平安末、実に「末法」とでもいうほかないような生き地獄だった、そんなことすら想像しているのです。現代に通じますね。
つい先ほど(朝の6時半ころ)、「生ごみ」回収所までごみの袋を出してきました。微かに降っているようで、「秋雨」とまでは言えないでしょうが、「そぼ降る」という感じではありました。低気圧や前線の関係で、頓(とみ)に肌寒くなって、ひときわ季節が進んだというところでしょうか。(ただ今の室温20,2℃、湿度70%。午前7時)本日の「天風録」(中國新聞)が、しとしと降る秋雨について、なかなかなまめかしい表現(秋波)で、現下の永田町(政界)にそぼ降る(しとしと)雨(いや見方によれば、集中豪雨かもしれません)を例えに使って、直前に終わった選挙結果に蘊蓄を傾けている風情がありました。
【天風録】「1強多弱」の幕切れ この時季の雨は、しとしと降る。ひとしきり降ったかと思えば、やみ、晩秋を染め上げていく。物静かで澄んだ水面(みなも)に立つ「秋波(しゅうは)」は転じて、女性の涼しげな目元の例えになってきた▲ただ、慣用句の「秋波を送る」は生ぐさい。手元の辞書には「下心をもって誘いかける」との語釈が見える。総選挙から一夜明け、躍進した国民民主党に水面下で秋波が送られているという。議席が過半数を割った与党に加え、勢い込む野党からも▲当の玉木雄一郎代表は今のところ、双方につれないそぶりを見せている。せっかく4倍まで伸びた勢力である。来年夏には次のステップ、参院選も控える。焦って安売りする手はないのだろう▲自民党は比較第1党の座こそ辛うじて守ったものの、慣れない少数与党の切り盛りに追われるかもしれない。とはいえ、ものは考えようだ。多様な民意をくみ取り、政策本位で合意を図っていく。民主主義の王道に与野党が立ち返る転機になり得る▲「1強多弱」の政治がやっと終わった。「政治とカネ」や旧統一教会問題の温床でもあった。波乱含みの政局の向こうに、果たして春は待っているのだろうか。祈りの方が深くなる秋の暮れである。(中國新聞・2024/10/29】
衆議院議員選挙期間中は無関心を徹底したので、その結果がどうなったか、分かりませんでした。終わってみれば、「与党惨敗」だの、「立民大躍進」だのと、ネットの記事も浮かれ放題のようで、ぼくはまったく白けたままで、記事に目を向けていました。国民民主党という政党は、今回の選挙で議席を四倍に増やしたという。一躍「政局」の核になるところに祭り上げられて、党の代表は、その挙措や身振りに大時代的な雰囲気(色気)を漂わせています。四倍というからどれだけの議席かというと、「28議席」だという。元の母数は「7議席」だったから、四倍であろうが五倍であろうが、どうということもないではないかと、ぼくなどは直感してしまう。負け組・勝ち組の間を行き交った議席は、結局はいささかの変化も政治や政策に、つまりは民草の幸福にはいささかの変化をもたらさないと、現段階においても言えますね。
端的に言うなら、自民党や公明党は確かに議席を大幅に減らしました。減らした分はどこに行ったか。「共産党」や「れいわ新撰組」に移ったというのなら、「政界に激震走る」という大異変と捉えられるところだったでしょうが、何のことはない、元をただせば、減った党と増えた党で「差し引きゼロ(ちゃら)」ではないですか。本は兄弟姉妹だったし、同じ釜の飯を食っていた「仲間」でした。だから、ぼくに言わせれば、勝ちも負けもない。そんな永田政治村の、いつも見慣れている、単なる空騒ぎにしか、ぼくには映らなかった。細かいことは言いません。その昔は、同じファミリーだったが、家族の人数が増えて、いろいろな事情で分家や家出、あるいじゃ勘当などが相次いだ。以来、やむなく党内党(つまりは派閥)に分かれているだけの話。大きな円を描けば、みんな親類縁者で、「同胞(はらから)」「一族郎党」でしかないでしょう。
だから、「自民党は比較第1党の座こそ辛うじて守ったものの、慣れない少数与党の切り盛りに追われるかもしれない」「ものは考えようだ。多様な民意をくみ取り、政策本位で合意を図っていく。民主主義の王道に与野党が立ち返る転機になり得る」と、このコラム氏だけではない、ほとんどの報道は見せかけの「与野党」を対立する政党同士と見立てているけれど、ぼくに言わせれば、わざと錯覚して事態を捏造して言っているだけ。その方がニュースとしては面白いから、ですか。もう一度言います。この国の政治の世界に存在するのは「与党と擬似与党(the government party)」であって、そこに「野党(the opposition party)」はない。共産党やれいわ新選組があるではないかと言われそうですけれど、それは「政党ですか」と訊かれれば返答に窮するほど、「政党」の体をなしていません。だからそれを「野党」と呼ぶのは、ぼくには憚られるのです。面倒ですから、細かい議論は省きますが、要するに、小さなコップがいくつかあって、それぞれが「コップの中の嵐」を経験している。外側には、その小さなコップをすべて取り込んでいる、やや大きめのコップがあるのです。だから、小さなコップの争い(嵐)も、やや大きめのコップの争い(嵐)も、出どころはいっしょ。
ひょっとして、小さなコップにはひびが入っていて、「嵐」が起こるたびに中の水が漏れて、やや大きなコップに吸収される。その反対も時には起きるでしょう。やや大きめのコップがひび割れして、漏れた水は、それを載せているお盆の上にこぼれる。分かりやすく言えば、大きなお盆の上にある大小まちまちのコップの水は、結局はいつだって同じ性質の水(H+O+O)であって、だから、くっついたり離れたり、「似たもの夫婦」とかいうのでしょうか。昨日の友は今日の敵。その反対もある。こんな出入りを繰り返してきたのが「永田村」ですよ。(共産党やれいわ新選組だって、同じ釜の飯を食ってきた仲間同士。いつの日か、この国が続いていれば、「永田村は一家、政治家は皆兄弟」ということになる時が来るかもしれません。(欧州各国の議会議員選挙をを見ていると,そんなことがしきりに考えられてきます、極右と極左は別世界の住人です。その別世界の住人が、みんなのいる街に住み着こうとしているのが欧州の現状です)
今般の衆議院議員選挙について、ぼくは終始、まったくメディアの報道を見なかった。見る気がしなかったし、それ以上にアメリカの「大統領選挙」の動向・帰趨の方が、現実の時代や社会に大きな影響を及ぼすと考えたからでした。日本の政治も、それとは裏腹の関係にあると思うのですが、あまり適切な報道がなされていたとは思えませんでした。そのアメリカでは、実に奇妙な政治現象が、大統領選挙運動を通してあからさまに見えだしてきたのです。とっくに滅亡したと思われていた「ファシズム」が、今の今まで生き延びていた、と。
ファシズムを倒して自らの存在理由を際立たせたのがアメリカ、そのアメリカの大統領選挙で、国を挙げて戦った不倶戴天の敵だった「ファシズム」が、お膝元で生まれかかっているというのは、実に見ものというか、時代が逆流しているのだと、既視感(déjà-vu・デジャビュ)に襲われている。悪態の限りを尽くした「人種(移民)差別」や「女性蔑視」の暴風圏にあるような光景が見られています。MAGAと叫んで、夢よもう一度と、口から出任せ放題に、元大統領は人民を煽(あお)りに煽っている。いたるところで<We>と<They>との、徹底した分断を図っている。いずれ、この動きは、暴力を伴った「民族浄化」や「優生思想(教条)」に収斂(しゅうれん)されて、徹底した一国覇権主義に雪崩込(なだれ)むのでしょうか。(「選挙」というけれど、一方の候補者は、「選挙」そのものを否定している)
MAGAとは「再び、アメリカを偉大に」というスローガンです。その「偉大なアメリカ」はいつ、どこにあったのでしょうか。空想夢幻の世界というほかないのですが、ありもしないことをあったと固く信じさせる(狂信させる)ことこそ、ファシズムの最大の教則・教義(イデオロギー)なのでしょう。若い時に読んだ「イデオロギーとユートピア(Ideologie und Utopie)」(1929年刊)というマンハイムの本をしきりに思い起こしています。ナチがいよいよ勃興してきかかって、長閑だった(隙間だらけの)ワイマール体制が「手籠め」にされんとしていた、まさに時節に書かれた。マんハイムはユダヤ人だった。戦後も生き延びたが、その出自のために苦悩に襲われ続けた障害でした。(一面では、ユダヤ資本に動かされているアメリカの、あるいは「大統領」になろうかという人物が、よりによってファシズムに突き動かされるというのは「悪夢」ですか、「醒酔笑」ですか)
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