
二日ほど前に町役場から衆議院議員選挙の「投票所入場整理券」が届きました。投票日まで一週間ほどですから、ぎりぎりの配達です。役所が悪いわけではなく、とにかく「臭いものに蓋を」と目くらましを計った政権与党が、青臭いことばかりを呟く現首相の馬鹿たれを「羽交い絞め」にして、短期決戦に逃げ込んだ結果です。いつも通りの「常套手段」として選挙を使う。山の中に住んでいますから、近くには候補者のポスターを張る掲示板もないし、もちろん「選挙公報」も届きません。「必要ならば、役場まで取りに来てください」という姿勢で一貫しています。この町に選管はあるようなないような、そんな仕事ぶりです。

そのくせ、同じころに「あなたは高齢者でありながら、医者にもかからなければ、介護保険の世話にもなっていない。どうしているんですか」という、世話焼き(興味本位)で、いかにも心配していますと「前口上」を述べた上で、事細かな「アンケートに応えろ」という文書が届きました。(「⦿×町にお住いの高齢者で健診や介護保険サービス・通院等の履歴がみられない方を対象として、健康状態を把握したくアンケートを送らせていただきました」問合せ先 ⦿×町やくば健康保険課 健康推進係 A井・T﨑)
アンケート項目のすべてを紹介したいくらいで、はなから、高齢者(住民)を「痴遇者扱い」しています。ぼくは何かの用事で役場に出かければ、きっとあれこれ「文句」を言います。だから、そんなところとは関わりたくないのですが、まるで幼児に訊くような質問を並べて、該当する項目に「●」をつけろという。「手足は自由に動かせますか」「食事は一人で食べられますか」「一人でトイレに行けますか」「一人で着替えができますか」「玄関から外の庭や隣近所に出かけられますか」「××などからお金を一人でおろせますか」と、こういう「問診表」「長谷川式」みたいなのが34項目。(こう尋ねるのなら、最も大事な質問が欠けているのは役場仕事ですね。「この質問の文章が読めますか、理解できますか」)「親切」が悪いわけではない、しかし、高齢者をどうに見ているか、それが役場(行政)の眼鏡(偏見)というもので、この年寄(高齢者)観は、すべて間違いとは言えないでしょうが、どうも「偏見」「先入観」に類する発想が、根っこにある。

親切というか、要らぬお節介というべきか。まるで「無病息災」がよろしくないような、高齢者はすべからく「認知症的種族」だという予断と偏見がある、そんな問い合わせであり、「アンケート」の強要でした。高齢者から、税金を取るな、と政府にも言いたいね。年を取るというのは、心身面でいろいろな不都合が生じること。それを示したからと、介護や施設に入れましょう、役場に届け出ることという、隔離政策は、なんというか、適切な言葉がないような「厄介者扱い」の色彩は濃厚です。もう少し、同じことをいうにしても、別の捉え方ができないか。いつも、ぼくはそのように考えています。
役場の吏員にして、かかる意識・感覚ですから、中央省庁の官僚たちに至れば、高齢者の存在など歯牙にもかけないというべきでしょう。まして政治家にあって、誰かが困っているぞと訴えても、「それがどうした」という、人間の風上にも置けない輩が大半だと、何時にもまして腹が立ってくるのです。
*拙宅に「選挙公報」が送られてこないのは、高齢者(「住民で、健診や介護保険サービス・通院等の履歴がみられない方」)は読解力がないからだと判断しているからではないかと、嫌なことだが、ようやく気が付きました。選挙公報を読んで投票する人がどれほどいるか、要は、公正・公平の原則が阻害されているところに問題があるのです。
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そして珍しく東奥日報の「天地人」、めったに引用はしないのですが、本日は、ここに出したくなるような事柄が書かれていたので、というと失礼に当たりますけれど。いまごろ、こんな能天気な「お説」を紹介するんですかと、茶化したくなりました。まるで町役場の吏員並みといえば、両者を虚仮にしていると受け取られますでしょうね。地方の首長や議員選挙の投票率が低いのは周知の事実です。それに輪をかけるような国会議員選挙の投票率の低さです。高きがゆえに尊くはないし、低いから大騒ぎするに当たらないと、ぼくは言います。「選挙権」「投票権」に関して、どうも記者氏は誤っているのではないですか。
【天地人】衆院選の期日前投票を済ませた。小選挙区で1票。比例代表で1票。最高裁裁判官の「国民審査」もある。投票先は自分なりに事前に吟味した。票を投じるその一瞬は「しっかり頼みますよ」という投票先への願いと「権利を行使している」という緊張感が交じり背筋が伸びる。
もっとも衆院選の投票率は近年50%台まで低下。前回2021年は全国が55.93%、本県が52.93%と、半分近くが投票に行っていない。10代、20代はさらに落ち込む傾向がうかがえる。「自分の1票で世の中が変わるとは思えない」「投票先を決めるのが難しい」。本紙連載「衆院選・わがまち投票率」ではそんな声も聞こえる。
「選挙とは、端的にいえば『ひいきのチーム』や『ひいきの候補者』に一票を投じる行為です」。文芸評論家の斎藤美奈子さんが、著書「学校が教えないほんとうの政治の話」で「ひいき」という自分に近い政治的立ち位置を見つけるポイントを解説している。
なるほど今風に言えば「推し」を見つけるようなつもりで、候補者や政党を取り巻く情報と向き合うことで、政治との距離が縮まるのかもしれない。
テレビやラジオ、ネット、選挙公報、もちろん新聞も活用して。きょうまでの新聞週間の標語には「流されない 私は読んで 考える」とある。それはよりよい社会をつくるため。投開票日まであと6日。(東奥日報・2024/10/21)

投票率が低いのは、それなりの理由があります。第一、政治や政治家に無関心。「自分のこと(利害得失)だけに興味がある」と、まるで政治家のような国民が著しく増えたということ。第二に、それは自己中心になった理由みたいなもので、「自分の1票で世の中が変わるとは思えない」「自分が投票(棄権」しても、現実は同じだ」「世の中はなるようにしかならない」などというものです。その通りでしょう。有り体に言うなら、選挙は、一面では儀式です。無投票で議員や首長を選ぶことがないとは限りませんが、今のところ、国会議員になりたがる好事家が多数いるので、当然選挙となる。候補者が一人なら、選挙は無用。いずれ、今のような状態で、政治や政治家が愚かしいことばかりしていれば、選挙に出ようとか、議員になりたいなどという寝言を言う人はいなくなるでしょうから、無投票時代が来るはずです。いまだって、「選びたい候補者がいない」というのは相当にあるし、選挙に行かない人はおよそ半分です。
仮に、投票率が三割を切ったら、どうななるのでしょう。野球なら二流バッターです。国なら、三流か四流か。何流でもかまわない、大事なのは自分流、ですね。

例を挙げます。有権者が一万人だとして、投票率が5割、その十分の一の得票で当選というような事例はざらに見られます。投票者が5千人。その十分の一は500人。全体の二十分の一で投票です。得票率は5%。これで選挙が成立するんですか。問題は得票率にあるのではないでしょうか。当選させたい人、出したい人がいないような選挙でも、勝った人間が議員になるのが今のやり方です。細かいことは抜きにして、得票率が有権者数のいくらか、そこに焦点を当てて、選挙の仕組みを考えるべきでしょう。(現行規則では、衆議院議員選挙では「有効投票総数の6分の1以上」なければ当選者とはしない。仮に有効投票数が500票だったら、その6分の1以上が必要で、つまり84人以上で当選)となる)民主主義はとっくに壊れているのに、選挙の時だけ、「民主主義」云々と騒ぐのは、奇怪至極です。ぼくはしばしば「出したい人より、出したくない人を」、それが選挙の鉄則になるといいなあと愚考もし、口にもしてきました。従来は「出たい人より、出したい人を」でした。「出したい人」はいるんですか。「出たい人」「出たがり」ばかリはよくないといいながら、「出したい人」もまた、結局は「出たい人」になってしまっている、それがこの国の、言うところの政治における民主主義の現状、程度なんじゃないでしょうか。
「選挙とは、端的にいえば『ひいきのチーム』や『ひいきの候補者』に一票を投じる行為です」と然(さ)る評論家の言ですが、何時の時代のことを言っているのか。有権者の多くに「贔屓(ひいき)」の候補者」がいないから投票率が低いという現状認識が消えていますな。「なるほど今風に言えば「推し」を見つけるようなつもりで」と、コラム氏も、同病相哀れむで、頓珍漢なことを恥ずかし気もなく書いている。マジか? 「贔屓」や「推し」がどう探したって見当たらないから、投票なんかに行きたくなくなるのですよ。でも、投票率が低いことはそんなに悪いことですか。「陸・碌(ろく)でもない候補者」ばかりだったら、選びたくなる人がいないなら、まともな人は棄権します、それもまた一つの判断であり、投票にかかわる行為であって、非難されるべき筋はないといいたい。「棄権」も選挙につきもの、選挙権の範囲にある。それを徒(いたずら)に辱めるように、選挙に行かないのは「社会を悪くする」「民主主義の原理に悖(もと)る」と、いかにもかしこぶって、まことしやかに仰せでしょうが、それ(棄権という権利)も含んでの「民主主義」ではないですか。反対に「裏金」や「汚職」が判明していながら、六候補者として「投票する」選挙民には何の非難も及ばないというのは、どうでしょ。問題はないと、あえていうか。

「きょうまでの新聞週間の標語には『流されない 私は読んで 考える』とある。それはよりよい社会をつくるため」と、十年一日の意識のマンネリ化、まさしく退化ですね、この思考は。「兵庫」通りになっていないことを不問にしていて、何か言うんですか。第一、「新聞を買わない、読まない、見たくない」住民が急増している、新聞の発行部数が急減している、その理由はどこにあるか、それを問題にしないで、有権者に対して説教を垂れるといういつもの振る舞い、はたして如何なものですか。すべては連動している、それを見ないと「天に唾する」ですね。ブーメランはぼくのも返ってくることを知っていながら、そんな悪態をつきたくもなります。
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