〈夫婦は親しきを以て原則とし、…〉

【有明抄】いい夫婦であるために 結婚式で新郎新婦が交わす三三九度は、大中小3枚組の杯が使われる。祖先に感謝する「過去」と、2人が愛を誓い合う「現在」、そして一家の安泰を願う「未来」の意味が込められているのだとか◆夏目漱石は明治29(1896)年、英語教師として赴任した熊本で結婚した。質素な挙式だったせいか、杯がひとつ足らなかった。のちに妻からそれを聞かされた漱石は「道理で喧(けん)嘩(か)ばかりして、とかく夫婦仲が円満に行かないわけがわかった」と苦笑したという◆たとえ杯がそろっていても、「未来」は見定めがたいものである。近ごろ同居20年以上の離婚が目立つという。離婚件数そのものは減少しているというのに、「熟年離婚」は過去最多で全体の4分の1を占めた◆以前は夫の定年がきっかけだったのが、50代で管理職の肩書が外れ給料が下がる「役職定年」が広がり、危機は案外早く訪れる。きょうは語呂合わせで「いい夫婦の日」。この人を選んで間違いはなかったか。この人を大切にしてきたか。わが胸に問うてみるのが、危機回避の一歩になると信じたい◆漱石は新婚の門下生にこんな手紙を書き送っている。〈夫婦は親しきを以(もっ)て原則とし、親しからざるを以て常態とす〉。仲むつまじくありたいと願っても、ままならないのが日々の暮らしである。とかくに人の世は住みにくい…か。(桑)(佐賀新聞・224/11/22)

 誰にとっても、人生の日々はいつでも新しい経験で、前に向かっている限り、お手本がないんですね、「初体験」。日々過ぎ去る生活の背後には「後悔」や「恨(うら)み」や「辛(つら)み」の鬱蒼とした山が築かれていく。瞬間、瞬間が初めて尽くしというのも、考えれば恐ろしいことであり、奇怪なことでもあります。だから、多くの人は、希望や期待、あるいは忌避の感情をこめて「歴史は繰り返す」という「真情」をひき交々に腹に収めてきたに違いありません。自慢から言うのではなく、また後悔の念が言わせるのでもありません、取り返しがつかないという偽りのない現実に対する、慄然とした告白として「結婚五十年を迎えた」と、我ながら驚きをもって感じている。

 かみさんと同じ家に五十年、一緒に住んできたというのは、まるでお伽噺のようでもあり、いやいや、それは「怪談」に違いないという感覚があります。つまりは「信じられない」「恐怖に満ちた」という話。漱石さんの夫婦関係については、彼自身が書いていたり、彼の周りにいた人が書いていたり。ぼくにも思い当たる節があるような「行き違い夫婦」だったと思う。ある評論家が「不機嫌の時代」という著書を書かれたが、おそらく漱石や鴎外は「不機嫌派」の代表だったかもしれない。その経緯や内容を話せばきりがありませんから、止めておきますが、次々に生まれてくる子が「女児」ばかりだったと、漱石氏は極めて不機嫌そうに語っている。夫婦仲もうまくなかったのはどちらに原因があったのか。漱石は「三々九度の盃」が一枚欠けていたから、「夫婦円満ではなかった」と納得していたかどうか。

 ぼくは三十前で結婚した。かみさんは五歳年上。それは結婚後に知った。結婚式はしないつもりだったが、義理の母になる人に怒られ、急いで段取りを考えた。偶然にぼくの師匠格だった耳鼻科の医者が「カトリック教会」の神父さんと昵懇だったので、その教会で式を挙げることになった。その際、神父さんから、君たちは「信者になるといいね」と誘われたが、体よく断った。披露宴もしないとだめと念押しされたので、その場を探さなければならなかったが、これも誰かの伝手(つて)で、教会と目と鼻の先の「山の⦿ホテル」に決めた。と、出だしから見本も手本もない出発ぶり。漱石の談ではありませんが、ぼくたちは「三々九度」をしていないから、とにかく「喧嘩」ばかり、その合間に「夫婦ごっこ」を演じてきたというありさまでした。そして、気が付けば「結婚五十年」。先日、双子の子ども(娘たち)が食事に誘ってくれた。よく行く寿司屋で「五十年」を祝ってくれたのです。「それにしても、よく続いたね」と、図星を指す。遠慮も配慮もないんだな。

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 「人生は朝から始まる」と、ぼくはある哲学者の教えに徹底して倣ってきました。つまりは毎朝、ぼくは生き方・生活をやり直してきたのだ。この哲学者はフランスの高校教師だった人で、毎日の授業に際しては、生徒たちに「質問」「意見」を黒板に書いておくように言って、それを見、答えながら授業に入ったという。ある日の授業で黒板を見ると、「人生に価値があるか」とか、「生きている意味が分からない」という一端(いっぱし)の人生否定に流れる「懐疑派(the Skeptics)」に被(かぶ)れたような「謬見(びゅうけん)」が書かれていた。それを一瞥、生徒の板書を一気に消して(だったと記憶している)、哲学教師は <La vie commence le matin.> と書いた。(ぼくが教師の真似事をしている時代の一時期、「朝はどこから来るかしら?」と書いていた)

 結婚前にこの哲学教師の逸話を知って、ぼくは、これを胸に刻んだ。確かに始まりは朝だ。毎日かならず朝が来る。天文の常識からすればなんでもないことでしょう。でも、心も暗く落ち込んだままに夜の帳(とばり)に包まれて、きっと明日の朝は来ないと疑わないのですが、夜明けになると鳥が啼く、虫の声もする。ある時期まで、ぼくは典型的な「夜型」だったが、そ逸話を知ったころを挟んで、すっかり「朝方」になった。ぼくは勤め人時代は、何十年となく「朝三時起床」だった。そして一人で、朝シャワーを浴び、朝食を取り、授業の準備をして、七時前には家を出る。もちろん、かみさんは寝ている。夜は、いろいろと悩ましいことや不快なことが日中にはあったので、きっと「呑み屋」に立ち寄ることにして素面(しらふ)を捨てた。その日の終電(夜中の零時)がぼくの「指定席」でした。家に帰ると、かみさんはまだ寝ている。いったい何時間寝るんだろう、この人はと、ずっと不審に思っていた。学校が休みでない限り、ぼくはかみさんの顔を明るいところで見たことがありません。

 〈夫婦は親しきを以(もっ)て原則とし、親しからざるを以て常態とす〉と、漱石先生は自らの体験を述べられている。原則と状態(現実)はきっとそういうものでしょう。ぼくにはよく腑に落ちるのです。「仲よき事は美しき哉」と書かれた絵が呑み屋の「トイレ」に飾ってある。「つまずいたっていいじゃないか にんげんだもの」というのもあった。実篤さんだって、みつをさんだって、自らの経験(実感)を書画にしたためたに違いありません。夫婦と雖(いえど)も、人間関係の一つのあり方です。こうでなければ、ああでなければという「定型」ではなく、それぞれが「自分流」を作っていく、その後ろに夫婦の歩いた道が、同道した時間に応じて、できるのでしょう。後に続くものはいない。

 「この人を選んで間違いはなかったか。この人を大切にしてきたか。わが胸に問うてみるのが、危機回避の一歩になると信じたい」と、コラム氏は軟(やわ)なことを言っていますね。「間違っていた」「大切にしてこなかった」という疑念が、当然のように、日々の中で現れないはずもないのです。もちろん、これはぼくの偶感です。「間違っていた」「大切にしてこなかった」と思ったところで、取り返しがつかないのです。取り返しはつかないけれど、やり直すことは可能だというのが「人生は朝から始まる」「朝はどこからくるかしら?」ですね。「毎日がやり直し」と重たくとらえる必要なない。「おはよう」が朝の始まりを告げてくれるのです。今だって「お休み」などとは、ぼくはまず言わないけれど、「おはよう」は欠かさない。今では、猫たちにも「おはよう」と声をかけている。「ニャー」と答えてくれる。

 まだ昨日の課題が頭に残っています。「人生はのこぎりの刃」みたいだと。当たり前ですが、夫婦は二人。似たり寄ったりだけれど、例えてみれば「縦挽きのこごり」と「横挽きのこぎり」で一セット、そんな両刃のこぎりみたいなもの。「木目」に合わせてのこぎりを使う。ぼくにはよくわからないが、夫婦は何十年いっしょにいても、同じようにはならない、同色には染まらない。似ているようで違うんですね。つまり縦挽き用と横挽き用の両刃があるのこぎりみたいなもの。ひとは一人では生きていけないのは、誰かときっと関係を結んでいるということです。夫婦、親子、兄弟などというのは家族です。加えて、友人、知人、先輩などといった近い関係(級友・同僚など)もあります。

 どんな関係も、基本は「わたしとあなた」になるでしょう。その二人(一対・いっつい)の関係(素数)が複数個で、入り混じっているのが集団です。大事なのは「わたしとあなた」という祖型(archetype)がぐらつかないことです。家庭の崩壊が叫ばれる時代。しかし、どこまで行っても「わたしとあなた」に還元・解消されない人間関係はないと、ぼくは考えている。その「付き合い」を貴重なものと思えるかどうか、それを学んだのは「夫婦」関係からでした。五十年を超えてなお、その関係はこじれるし、壊れかける、そんな危険性を冒して、人間は夫婦になるのですよ、それはまるで「冒険」であり、少しでも油断すると、墜落したり、衝突死したり。きわめて「危険」なんだ。

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 人生はのこぎりの刃のようなもの

 小さいころから「大工仕事」を見るのが好きでした。近所に「建前」があると、わくわくしながら現場に急いだ。日がな一日、家づくりの作業を目を凝らしてみていたものでした。疲れてくると、そこにおいてある材木の上で寝てしまう。「大きくなったら何になる?」と問われたら、いまなら「おっさんだろ」と答えるでしょうが、その昔は「なんといってもカーペンター」と宣言していた。家(もの)つくりの仕事なら何でも見物するのが好きだった。屋根・壁・水回りなどは言うまでもなく、どんな仕事も目を皿のようにして見ていた。ぼくが小学校に行きだした(昭和二十四、五年)ころまでは、田舎(能登中島町、現七尾市)では村を挙げて、成人は家づくりに参加していた。土を固くする「タコ」(左写真)を村人が組になって打ち下ろしていたり。大工仕事もその多くは素人がしていた。素人(しろうと)は玄人(くろうと)だった。棟上げ(上棟)式にはお菓子やお餅を屋根の上から放り投げて、それを周りで見ているものが争って取ろうとした。そんな景色が幻のように浮かんでいます。

 「家づくり」「物づくり」の実像が脳裏に刻まれたせいか、長い間、「大工」さんになりたがっていました。結局は、惰弱な人生に時間を浪費する生活になじんでしまったわけですが、そんなダレた日々でも、ちょっとした容れ物や、犬小屋程度のものは自分で作るようになっていた。要するに、大工さんの真似事です。以来、家にはいつだって大工道具一式があった。鋸(のこぎり)、鉋(かんな)、鑿(のみ)その他、まるで下手の横好きで、飽きもしないで、何かと道具箱を開け閉めしていた。その習癖は今も続いている。六十の手習いならぬ、八十の大工まがいです。さすがに、このところはめっきり体力が衰えて、以前ほどではありません。それでも、いや、だからこそか、鋸の「目立て」などに興味を示しています。刃物を研ぐ、鋭くするということですけれど、そんな暇があるなら、「おのれを磨け」と横から声が聞こえてくる。

 ぼくの持っているものは、市販の安価なものがほとんどですが、それでも、一応は鋸です。手に取って、つくづく眺めている。不思議というか、精妙な作り物で、本当に感心する。「横挽き」「縦挽き」が一本になっている「両挽き鋸」も何本かありますが、何とも精巧に作られている。このところ嵌(はま)っているのが「目立て」、難しいですね。懸命にやって、かえって刃を駄目にすることがある。包丁や鉋研ぎも同じです。「この道はいつか来た道」と謡われてきましたが、ぼくはいつだって、ここで道を失う、路頭に迷う方でした。鋸も安物だし、砥石(といし)も安い、だから上手に研ぎものができないのも道理と勝手に納得しているが、やはり、この道何十年という経験が腕を磨かせてくれるのでしょう。電動工具など、ぼくにはご法度で、素人も玄人も「簡単で便利」と使いたくなりますが、ぼくは身を入れることはない。要するに「玄人が素人」になっているんでしょうね。自動車の運転も、オートマティックよりもマニュアルがなつかしい、今だって乗ってみたい。そんな「時代おくれ」な、ぼくは「老いた河島英五」ですよ。(昨日は「時代」の、「悪女」の中島みゆきさんだった)。

 さて、何が書きたいか。コラム「人生はのこぎりの刃(のようなもの)」に、ぼくは衰えた頭を打ちつけられています。さっぱり「いわんとすること」がわからないのだ。「添」さん曰く「人生はのこぎりの刃」と。その心は? 押しても駄目なら挽(ひ)いてみな、ということか。余談です。欧米の人が鋸や鉋を使うのをよく見ます。挽くのではなく、押すんですね。初めて目にした時には驚いた。西と東、南と北、そう、まさしく正反対だった。ここで言われているのは「人生はのこぎりの刃」ですから、押す挽くではない。人生はのこごりの刃というのは、どういう例えなんですか?

 「いい時もあれば、悪い時もある。回り道したっていい」「人生はのこぎりの刃のようなもの」、これがぼくにはよくわ判らない。生きることの困難、しんどさを「のこぎりの刃」に託して言うつもりであるのは伝わる。確かに、人生には「いい時もあれば、悪い時もある」、だから、「のこぎりの刃」なんですか?「回り道したっていい」から、「のこぎりの刃」なんでしょうか。「わが人生を振り返ると、学校や仕事に行きたくないと思ったことが何度かあった。理由は一つではない。当時はつらくて仕方なかったが、その時があったから今の自分があると思う」(「明窓」)

 誰だってそうでしょう。ぼくなんか、「(行きたくないのは)何度かあった」どころではない。「その時があるから、今がある」と、変なことを言われますね。そんなのあたり前、じゃないかと思う。その時がなければ、今があるはずはない、でしょう。そして「のこぎりの刃」とくる。判らなんな。(余計なことです。学校に勤めていたころ、ごくたまに「学校が楽しい」と嘯(うそぶ)く学生に出会って、ぼくは腰を抜かしたことがある。「えっ、学校が楽しいって」。「いじめ」や「いたずら」が楽しいのかと思ったほど。「楽しかった」という学生に対して、ぼくはとても嫌な気がした。「ありえへんやろ」って。あるところには「変なのこぎりの刃」もあるんですね)

【明窓】人生はのこぎりの刃 51年間のわが人生を振り返ると、学校や仕事に行きたくないと思ったことが何度かあった。理由は一つではない。当時はつらくて仕方なかったが、その時があったから今の自分があると思う▼昨年度、全国で不登校の小中学生が34万人超、いじめも小中高生で73万件に上り、ともに過去最多となった。当方が子どもの頃と違うのはインターネットや交流サイト(SNS)という「世界」があること。情報があふれ、攻撃されることもある。今の時代を生きるのは大変。怒られるかもしれないが、かわいそうだとも思う▼家でも学校でもなく、安心できる居場所が欲しい。そう考えている子どもや若者は、国の調査で7割に上る。コロナ禍の2年前、新聞社が運営する子ども食堂の「店長」を務めた。ある少年が言ってくれた。「ここなら来ることができます」。調理や受付係、子どもたちと一緒に遊び、宿題もする。頼もしかった▼子ども食堂に携わり感じたのは「つながり」の大切さ。都会に比べて地域に残っているのが強みだ。幅広い年代の人が集う「第三の居場所づくり」に自治体も力を入れてほしい。ひいては最大の課題である人口減少に歯止めをかけることにつながるはずだ▼いい時もあれば、悪い時もある。回り道したっていい。「人生はのこぎりの刃のようなもの」。苦しかった時、叱咤激励してくれた先輩からかけられた言葉を思い出している。(添)(山陰中央新報・2024/11/20)

◉ 横挽鋸の歯は、裏歯(うらば)、上刃(うわば)のほかに上目(うわめ)があって、三角形でなく四辺形になっている。歯形の標準は、切削角が90度、切れ刃角が60度、裏歯と上歯のなす角は15度ほどになっている。さらに裏刃、上刃、上目の側面には、側刃(そくば)と呼ばれる45~60度の切れ刃がついている。(http://www.monotsukuri.net/wbt/wbt_daiku/d0307/d0307.htm)

 のこぎりの刃ををじっと見ている。つくづく精妙、巧妙、玄妙、そんな言葉が出てきます。実に複雑な工夫で、木を切るために、これほどの仕組みやからくり・細工が施してあるのだと思うほどに、のこぎりに感謝したくなり、ぼくの知らない鋸職人に頭を下げたくなる。これが「技」というものでしょうか。単純に「木を切る」というけれど、どんな種類の木か、それによっても使う道具は異なる。でも、その「原理」「玄理」は同じです。今は「金型」と「プレス」でいとも簡単に量産してしまっているから、その奥深い「技術」の核や真・芯に触れられなくなったのは、実に淋しいことです。(いずれ「刃物」、葉物ではない、について駄文を書いてみたい)

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 「人生はのこぎりの刃(のようなもの)」という表現は、ぼくには「謎」のままです。「いい時もあれば、悪い時もある。回り道をしたっていい」「人生はのこぎりの刃のようなもの」と続きますから、これは「丸のこ」のことを指しているのかなと思いつつ、この後、猫の悪戯のせいで、後始末をしないといけない「仏壇掃除」に気がとられて、思案は投げ首ですな。

(蛇足 昨日、はるばる福岡からと、広島から? 四人の友人が拙宅まで来てくださった。なんと七時間も続いた「鼎談・対談・座談」でしたから、いささか頭が疲れている。加えて、夜中に猫が「仏壇」に入ろうとして、線香立てをひっくり返し、中の灰をぶちまけていた。その他、多くの「仏具」「飾り物」を床に落としていた。朝起きて気が付き、掃除の途中でこの駄文を書いている。やや疲れて、頭が働かない。そのことが「のこぎりの刃」なんだろうかと愚考している。でも、判らんね)

 (昨日の七時間トーク、「夜まで生トーク」のなにがしかについては近日中に触れてみます。Oさん夫妻と長男坊、そしてアメリカ人のアーサー・ビナードさんの四人との対談)(通常は二人の間では「対談」、三人の場合は「鼎談(ていだん)」です。当方も夫婦が参加していましたので、六人組でした。それをなんというか。「対談」×3、あるいは「鼎談」×2の入り乱れ、つまりは「混戦」だったか。ここでは「ディスカッシン(discussion)」としたいですね。Discussion in the forest、そう言いたい気もするが、ぼくは喋りながら、<not see the forest for the trees>を噛み締めていました)

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そんな時代もあったねと いつか…

 ぼくは「国家」国旗」法の制定時(1999年8月)、これにかかわっていくつかの経験をしていましたから、この法案には強く反対した。法律を作れば、当たり前のように「遵守」が強いられる。強制的に国旗掲揚と国歌斉唱が求められる、しかもそれが学校教育の現場において。反教育的な「強制導入」などはあってはならないし、また政府は「そんなことはしない」と、わざわざ「見解」まで出していたが、想定通りに、実態はその逆だった。この法律制定に関して、この駄文集においても、すでに何回か触れている。制定のきっかけは、「日の丸・君が代」を学校行事(卒入学式)において導入実施したい県教育委員会と県教祖の「絶対反対」の激しい対峙の中で、一人の県立高校長が「板挟み」になり、卒業式当日の朝、自宅で自死されたという、広島での事件だった。詳細は省きますが、反対派の組合員の中に卒業生がいて、後に処分されたことがあった。その後の学校行事の度ごとに、たくさんの「法違反者」が続出し、激しい戦いが繰り広げられ、教育現場の「荒廃」に拍車がかかったのだった。各地の学校関係者の中に、知人や後輩もいて、「表現の自由」などをめぐる裁判に持ち込まれていた。

(ヘッダー写真:https://note.com/y_axe/n/n0039f908ac8d)(他の写真も同新聞より)

 音楽と猫、50年愛される喫茶店 札幌、中島みゆきさんの曲に

 「ねえ ミルク またふられたわ 忙しそうね そのまま聞いて」
 失恋話をマスターに語りかけるシンガー・ソングライター、中島みゆきさんの「ミルク32」。曲中で描かれる喫茶店「ミルク」(札幌市東区)が10月、開店50年を迎えた。ライブ喫茶として地元のバンドマンを見守ってきた店は今、看板猫たちと共に音楽と猫を愛する人々の憩いの場となっている。(共同通信=羽場育歩)
 9月下旬、窓際でまどろむ看板猫「チビ」に導かれるように扉を開くと、レコードやCDで埋まる棚を背にマスターの前田重和(まえだ・しげかず)さん(77)が静かに出迎えた。数十年来の常連や近隣の大学生らがゆったりと談笑する。初めは中島さんのファンとして来店したという山内基康(やまうち・もとやす)さん(60)は、店から子猫を譲り受ける猫ファンに。「元々は犬派だった」と笑顔でチビをなでた。
 高校時代にフォークソングを歌い始めた前田さん。日本語のフォークを広めたいと主催したコンサートの出演者の1人が、北海道出身で市内の藤女子大に通っていた中島さんだ。「既に完成されていた。歌うと別人に憑依(ひょうい)されたようだった」。その力強さに、観客は椅子に縛り付けられて立てないようだったという。
 ライブハウスが少なかった当時、歌える場所を作ろうと仲間と8カ月かけて内装を手がけたのがミルク。中島さんが歌うことはなかったが、時折訪れてココアを注文。前田さんが削る氷のかけらが服にかかった出来事も曲に盛り込んだ。
 数年後、前田さんが近くに設けたスタジオには、竹原ピストルさんやバンド「怒髪天」「サカナクション」のメンバーも通ったが、バンドマンが店に集う光景は次第に減った。一面がバンドのポスターだった壁は今、客が撮った歴代の猫の写真で埋まる。前田さんは「バンドが猫に負けた」と苦笑しながらも「いいバンドが出てくるのを待ってる」と優しく笑った。(共同通信・2024/1118)

 国旗・国歌の制定はあってしかるべきだろう、当然である。だが、それを「行政の規定通り」に導入する、そのために執拗に「強制」するのは、当たり前に反対(その当時の東京都や大阪府の「強制」ぶりを思い出せばいい)。それがぼくの態度だった。そんな折に、半ばは冗談に、半ばは「それもいいかな」と、どうしても「国歌」が必要なら、あの「時代」がいいじゃないかと、あちこちで話したことがあった。方々の学校では卒業式に「時代」を歌うこともあり、それはそれで素晴らしいことと、ぼくは思った。(写真左・前田重和氏)

 「今はこんなに悲しくて 涙もかれはてて / もう二度と笑顔にはなれそうもないけれど」

 それはさておき、共同通信をはじめ、たくさんのメディアが「ミルク」開店50周年を報じていた。その多くに目を通して、そういえばと、改めて、この報道に触れてみたくなった。四十歳少し前くらいから、かなりの期間、ぼくは「みゆき命」のような時代を過ごした。朝昼晩、そして寝ている間も、ぼくの脳内には「みゆき」が溢れていたし、時には「ミルク」もこぼれていただろう。彼女のラジオ番組には関心を持たなかったが、彼女の歌(詞)や、エッセイ、小説などにも目を通していた。そこに書かれている「詩(詞)」が「歌」に変わると、どうしてあれほどの「響き」「翳り」を生むのだろうと、ほとほと感心した。みゆきさんについても書くことはたくさんあるが、ここでは止めておく。一曲一曲についても同様。ただ一つだけ。ある時、用事があって宮城まりこさんに電話を入れたことがった。当時も流行っていたので「まりこの部屋へ電話をかけて」と謡って、大いに軽蔑された。その「悪女」にもぼくは痺れた。「お前のかみさんは『悪女』だ」という人が何人かいた。当たっているような…。

 いまでも各地で、国旗国歌を巡って「争い」「強制」「裁判」が続いているのだろうか。あるいは、誰もそんなことすら気にしなくなったのだろうか。いろいろな意味で、学校教育の崩壊過程の一面を強く示していた出来事と時代があった。

 今から五十年前のある「歌謡祭」で、ギター一本で、この曲を歌うみゆきさんを偶然見た(映像で)。彼女についていかなる知識もなかったが、ぼくは打たれた。その歌詞に。その歌唱力に。「めぐるめぐるよ 時代はめぐる 別れと出会いをくり返し」と、人生の波乱や転生が静かに強く歌われています。

 ぼくが興味を示したのは喫茶店「ミルク」を軸にした「めぐる時代」に関する報道でした。こんな時代に、こんな場所で、こんな歌があったと、多くの人たちが、その「瞬間」だけに「共存」「共在」「共時」を意識していたという、半世紀の歴史を確かめることができただけで、ぼくは幸せな感慨に浸れるのだ。その場所に、たくさんの猫たちの「現存在(Dasein)」を、「客人(Gast)たち」が積極的に承認しているのが、何とも嬉しい。(時には「J.POP.」の愉悦も)

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 まだ治療の必要はない

【海潮音】同居する80歳が近い家族が、数年前から探し物やなくし物が多くなり、同じ話や質問を繰り返すようになった。コンロを使ったままにして鍋ややかんを焦がすこともしばしばある。日々の生活がだんだんと難しくなっている◆自分の変化に気づいて大きな不安にさいなまれ、思い通りにできないことが増えてもどうすればいいのか分からず、いらだちを募らせる。多くの高齢者が経験することだろう◆認知機能の低下は発見が早いほど治療の効果は高いと専門家は口をそろえる。兆候があっても受診を拒む人も多いと聞くが、家族の認知症で苦労した本人は少しでも不安の解消につながればと専門医を受診した◆診断はまだ治療の必要はないとの判断。専門家ではないので受け入れるほかないが、機能の低下は着実に進んでおり、本人は「これからどうすればいいか」と不安が増す結果となった。早期発見、早期治療のかけ声はすれど、立ちはだかる壁は高い◆65歳以上のおよそ5人に1人が認知症を発症するとされる中、推計では鳥取県内の75歳以上の1人暮らしは2025年に2万世帯に上る。単純計算だが認知機能に不安を抱える高齢者の1人暮らしが4千世帯以上存在する見込みだ。高齢者の心と体を支える取り組みを深める必要がある。(真)(日本海新聞・2024/11/18)

 今でもそう言われているのかどうか。「うつは心の風邪」とか。これと似ていない言い方で、ぼくはあまりよく理解できなかった言葉に「障害は個性である」と。分かりそうでいて、この表現で何を言おうとしているのか、よく判らなかった。当事者に面と向かって言われたことがあったけれど、「そうですか?」と思うばかりだった。短い言葉で、もの(状況)の内容や性質を衝くのは理解されるよりは誤解される方が多いのかもしれません。「うつは心の風邪」とは、誰でもちょっと油断すると「風邪を引く」が、時には放っておいても治る、だから、気に病むことはないとでも言いたそうです。専門家の受け止め方は「うつ」と「うつ病」は違うということらしい。「うつは心の風邪」で「うつ病は心の肺炎」だとかいうそうです。しかし、実際には状態(症状)の軽重を言っているのですから、風邪だから安心で、肺炎だから心配というのも暢気すぎるという気がぼくにはします。

 素人にはよくわからないけれど、何でもかんでも「病気(病名をつけること)」にしておいて、その後に治療や処方に当たる、それが「医療」なのかもしれない。たしかに、誰もが風邪を引き、その大半は数日を経ずして治る。あるいは「風邪薬を服用」して治す。でも、風邪を引かないことの方が治すよりもっと大切でしょう。治療より予防、ですね。そのことを射当てた表現に「風邪は万病のもと」があります。風邪などと軽く見ていると、思わぬ大事(結果)に及ぶぞ、という意味でしょう。「高熱」などが体力の消耗を齎し、それが原因となって、隠れていた病気を表に引き出すことになるというのです。驚きべきは、なぜ風邪を引くのか、それが今もって医学的には解明されていないこと。しかし頭が痛ければ「鎮痛剤」「解熱剤」「頭痛薬」を服用すれば治ると、我も人も考えています。ぼくは賢くないから「風邪は引かない」と心底思って生きている。引きそうだと思ったら、先ず寝る。十分に睡眠をとって「体内免疫・抵抗力(Immunity)」を維持するのです。それこそが究極の予防法、、つまりは「頭寒足熱」なのだと、たくさんの智者たちに教えられた。

 ここまで来て、駄文の意図がお判りでしょうか。引いてしまった風邪を治す方法は幾通りもある。医者にかかるのも、自分なりにやってみるのも、上首尾なら、あまり変わり映えはしない。肝心なのは「体力」の維持・回復です。そのための睡眠の必要性。しかし、風邪をこじらせて、やがて「肺炎(pneumonia)」になるとどうでしょう。一気に生命に危険が迫る。恐らく、ぼくはこれまでに「肺炎」になったことは一度もないはず。「●〇は風邪を引かない」のであって、引きかけることはいくらもあったが、大事に至らないで風邪(ウィルス・Virus)気を追い出してしまうのです。

 さて、コラム「海潮音」です。「同居する80歳が近い家族が、…日々の生活がだんだんと難しくなっている」と言われる。「家族の認知症で苦労した本人は少しでも不安の解消につながればと専門医を受診した」のは見事というべきか。自らの「衰え」を明確に自覚できたのは、家人の介護に当たられた経験があったからこそと書かれます。医者の診断は「まだ治療の必要はないとの判断」でした。そうであっても、この後の対処法はどうすればいいか、医者は教えてくれない。いや、端的に言うなら「教えられない」のです。「うつは心の風邪」だから心配することはないというけれど、「心の肺炎であるうつ病」にならないためにはどうすればいいか、医者は答えを持っていない。いや、正解はあるようでも、それは誰にでも応用できるものではないからでしょう。

 「(認知症の)早期発見、早期治療のかけ声はすれど、立ちはだかる壁は高い」と、コラム氏は困惑されています。「認知症」は病気だから、治療によって治る。今ではそれが医学界の常識でしょう。素人が何かを言うことは控えますけれど、この「認知症」診断(判断)に関して、いささか腑に落ちないところがあるので、それだけを駄弁ります。

 三、四年ほど前に、連れ合いがある疾患で入院手術が必要だといわれた。その病院で、入院中に夜中に異常をきたす患者がいるので、その心配を取り除くために「忘れ物外来」を受診してくださいと担当医に言われた。「変なの」「どういうこと?」とぼくは思ったけれど、言われるままに同病院内の「外来」を受診した。病院通いで彼女に付き添っていて痛感したのは、担当医は連れ合いが「認知症的」であると判断したのです。外来での医師の診察の前に「「長谷川式認知症スケール」を受けた。担当者は若い心理療法士でした。その検査結果をもとに診察した医師は「まだ治療の必要はない」との判断だった。MRI診断でも「脳の萎縮」は見られない。だから「このままで大丈夫ですよ」と即断。普段付き合っている人間からすれば、かなり物忘れもひどいし、それを認知症というかどうかは別にして、このままでどうしようかと思案していた時でした。医者は「もしご心配なら、少し様子を見て、また診断しましょう」といった。(ぼくは、連れ合いは医者に診てもらう必要があるとは考えていなかったし、今でもそうです)

 当時、連れ合いは八十を過ぎていました。この駄文集録でも、何度かこのことに触れましたが、それなりに症状(状態)は悪化していると思っていたし、その悪化は要するに「十分な睡眠」と「軽度の運動」の絶対的な不足から来ているとの素人判断で、そこに留意すれば、極端なことにはならないと考えていました。「認知症」というから、それは病気なのだと、誰も疑わないし、病気であれば治せるという判断が医者の側にはあるでしょう。しかし、同じ医師の職にある人でも、「認知症の薬は飲むな」「歩くだけで治る」と断言する人もいます。要するに、「老化」「老衰」だととらえているのでしょう。ぼくは医者でありませんから、面倒なことは言わない。人間も八十過ぎれば(ここは個人差があります)もの忘れが嵩じるし、今まで出来ていたことができなくなる、でも、それは「病気」ではないだろうさ、そう思っていたし、今もそうです。誰もかれも、そうだと、ぼくは言うつもりはない。現在は何とか生活に困難をきたしてはいないけれど、この数年後にどうなるかは、医者にもわからない。そう言っているぼく自身がどうなるか、知れたものではないのです。(それにしても「認知症」の服用薬が市販されました。医師の診断に基づいて服用とあります。一例として、年間三百万円ほどは必要という。なんですか、これは。次の薬会社の売り上げ上昇のねらい目は、「認知症」なんですな。凄いことになっている、医・薬共同統一戦線は。それに加えて政治も隊列に入っている)

 先に出した表現でいうなら「うつは心の風邪」であり「うつ病は心の肺炎である」という、それに倣(なら)えば「物忘れは脳内の風邪」であり、「認知症は脳内の肺炎」とでも言っておきましょうか。その前に、「心」の実態は不問にするわけにはいかない。つまりは「うつ」も「うつ病」も、医学的判断では脳内物質の分泌異常であると、今日ではされていますから、今日の「認知症」診断に重なります。この先は、面倒な議論が欠かせませんが、本日、ただ今はそれを続ける気分にはなっていません。結論は出せないのは承知していますが、まず、この段階でぼくが言いたいのは、誰もが知っていて、誰もが罹患する「風邪(感冒)」に関してさえ、その原因がまだ解明されていない、だから風の処方にも「人それぞれ」「症状それぞれ」という捉え方が大事で、一般化した上でなら、いくらも説明はできるけれど、大事なのは、それぞれの症状毎の診断(判断)を待つほかないのです。ぼくはそう考えています。

 「認知症」に関しても状況は同じです。明確に病因が特定される病気である場合もあるでしょうし、病因が解明されない「症状」もあります。だから、その対処法は「症状それぞれ」だということです。加えて、認知症と言われるものは、大なり小なり「老化」「老衰」に起因しますから、まるで <X+Y=Z> のように、未知数の寄せ集めで、この方程式は医者ならだれでも回答できるとはいえないのです。他の別の仕事と似ていませんか。

 ぼくの連れ合いも経験したように「まだ大丈夫です。もう少し様子を見ましょう」という医者の見立ては、「診断」なんですか。「まだ治療の必要はない」というのは診断なんでしょうか。「打つ手がない」というのではありませんか。「今は『うつ』ですから、心配はいらない」「『うつ病』になったら、治療しましょう」と言われて、当人や周りの人間はどうすればいいのか。

 医者も教師も同じようなものだというつもりはありません。目の前にいるのは「患者」であり「生徒」です。そこにたどり着く前は、ただの「人」ですのに。でも、その患者と言われ生徒と称される人たちは、すべては同一人ではなく、それぞれが固有・個別の心身を有していますから、固有性・個別性に対して「医学的知見」「教育的配慮」などという一般的理解で立ち向かうことはできない相談だと、それだけは断言できますね。

 「海潮音」の「真」さんにお尋ねしたいですね。この先どうされるのですか、と。もっとひどい症状が表れてきて医者にかかっても、きっと担当医師は言うかもしれません。「もう手遅れです。なぜこうなる前に来なかったんですか」って。「まだ大丈夫」は「もう手遅れ」と、多くのお医者さんは言っているんですのに、それを、知らないふりをして隠しているんじゃないんですか。この問題は、医学だけでは手に負えないことのように、ぼくには思われています。

 (ただ今、午前7時50分。室温17.0℃、湿度59%。ほんの一時間ほど前までファンヒーターをつけていました。先程、生ごみを収集所に持って行ったとき、車の室内温度は3℃でした)

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「不寛容」に「寛容」であり得るか 

【日報抄】手元の辞書は「寛容」の意味を「心が広くて、よく人の言動を受け入れること」と説明する。きょう16日は「国際寛容デー」という。数多くの国際デーがある中で、これはテーマが少し抽象的な記念日だ▼国連教育科学文化機関(ユネスコ)が1995年のこの日に採択した「寛容に関する宣言」に基づき、翌年の総会で制定された。95年はどんな年だったのか。ロシアが、独立を求めるチェチェン共和国の首都を制圧し紛争が激化した▼米国では、太平洋戦争終結50年の節目に企画された「原爆展」が中止の憂き目に。中国は地下核実験を強行し、イスラエルのラビン首相が暗殺された。日本では、1月に阪神大震災、3月に地下鉄サリン事件が発生した▼不安と不信が世界を覆った年だった。だからこそ国連は「寛容」という言葉で、文化や生き方の多様性を認め、対話による相互理解を進めるよう求めたのだろう。それから約30年。寛容の精神はむしろ薄れてしまったようだ▼ロシアやイスラエルは今も戦火の当事者だ。気候変動による洪水や干ばつなどの天災も相次ぐ。そんな中で米国ではトランプ氏が再び大統領に就く。地球温暖化を「でまかせ」と言い、移民を敵視する人である▼日本も、学校では不登校やいじめ、大人社会でもハラスメントが増え続ける。この30年でなくした最も大きなものは、寛容の心なのかもしれない。ギスギス、イライラより、ワクワク、ニコニコの時間を増やしたい。冬に向かう日々、心をぬくめたい。(新潟日報・2024/11/16)

 11月16日は「国際寛容デー(International Day for Tolerance)」でした。制定当時の国連事務総長のアナン氏は「寛容の日」に臨んでメッセージを出している。その要点を以下に引用しておきます。国連総長がこのような声明を出し、「寛容の日」を設けなければならなかった理由は、国際連合の存在そのものが証明しているでしょう。だが、その国連自体に「不寛容」が根づいているのも事実で、ときには「寛容」に対して、「不寛容の牙」を、加盟国のいくつかは隠さなかった。常任理事国の「拒否権」などはその典型です。「寛容の日」を設定すること自体、国連の無力さを世界に向けて発信したとも見られます。

 … 他の多くの不合理な態度と同様、不寛容はしばしば恐怖に根ざしています。未知のもの、自分と違うもの、他者に対する恐怖です。このような恐怖の根元には、無知と教育の欠如があります。そこから偏見、憎しみ、差別が育つのです。教育は、不寛容を予防する最も効果的な手段です。特に子どもたちにとっては、なぜ人権と人間の尊厳と人間の多様性の尊重が切り離せないのか理解するためにも、寛容について学ぶことが絶対必要です。教育自体が不寛容のウイルスに冒されていてはなりません。教育は、人々に自分たちの権利と自由が何であるか、どのように尊重されるべきかを教え、また他人が権利と自由を謳歌することを守りたいという望みを抱かせるようにするものでなければなりません。
 もし人間という家族がともに平和に暮らしたいと願うのなら、私たちは互いを知り、受け入れなければなりません。寛容を推し進めようとするいかなる努力も、その中心に人と人、異なる文化、民族の間の開かれた対話が必要です。対話なくしては、文化的多様性は脅かされます。対話なくしては、社会のつながりそのものが危機に瀕します。対話なくして平和はありえません。
 この「国際寛容デー」に際し、世界的に尊重すべき原則を私たちそれぞれが積極的に実践しましょう。寛容のための努力が私たち一人ひとりから始まるのだということを認識しようではありませんか。「国際寛容デー(11月16日)に寄せるコフィー・アナン国連事務総長メッセージ」(2002 /11/15)

 「教育は、不寛容を予防する最も効果的な手段です」「教育自体が不寛容のウイルスに冒されていてはなりません」「寛容を推し進めようとするいかなる努力も、その中心に人と人、異なる文化、民族の間の開かれた対話が必要です」多言を要しないでしょう。「教育」「学校教育」こそが、社会における「他者に対する不寛容」を助長している・きたのではないですか、そんな根本の問題意識を持ちながら、ぼく自身、微力にもならない、実にささやかな「教育経験」を重ねてきました。

 「寛容」とは「寛大」「寛仁」などともいわれ、どこまでも、ある人の「心の深さ、広さ」を指すでしょう。「度量」「器量」などともその根を同じくする「姿勢」や「態度」です。この姿勢や態度は、個人対個人により多く認められるべきでありますが、その上で、集団間の付き合い方にも求められるものです。視野を広げれば、ぼくたちの住んでいる社会においては、ますます「不寛容」そのものが増幅される傾向にあるでしょうし、国家間においても、多くの国を巻き込みながら「不寛容」という亡霊が闊歩し、「民族浄化」や「民族殲滅(ホロコースト)」を思わせるような戦闘行為に邁進しています。そのような「不寛容」という暴力の前では、人命も自然環境もまるで無意味・無価値な存在に化しています。ぼくは若いころから、「寛容は不寛容に対して寛容でありうるか」とい矛盾律(矛盾原理)のような課題を「わが愚考」のうちに持たせてきました。

 まるでガンジーやキング牧師たちの「非暴力」思想にも認められる「非暴力はいかなる暴力にも非暴力でありうるか」とい実践原理に重なるものでもあるでしょう。誤解を恐れずに言うなら、「暴力に対して、ときには暴力的であることも否定しない」というのがガンジーの態度だったと思う。「あらゆる不寛容」には「いつでも寛容の姿勢を」というのは、どうでしょう。そういう生き方は、個人であれ集団であれ、不可能ではないかとさえ思われます。「正当防衛(legitimate self-defense)」ということを真面目に考えている。戦争行為における侵略は、まぎれもなく最大の暴力であり、それに抗するための「防衛力」は、武器を用いるという点では暴力性の一面を否定できないでしょうが、暴力に対する「自己防衛」という観点では、「ある種の暴力(対抗力)」は、あくまでも認められないものではないでしょう。今なお、各地で生じている「戦闘行為」、あるいは「強権政治」などに対して、いかにして「寛容」であることを貫けるか。世界各国、あるいは人間一人一人が試されている。<Can you be tolerant of intolerance?>

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「徒然に日乗」(568~574)

〇2024/11/17(日)今朝は一時くらいに起こされた。外に出違って落ち着かないのがいくつもいた。そのままずっと、寝ないで、一日を始める羽目に。▶兵庫県知事選挙の投票締め切りとほぼ同時に、民放は「前知事当確」を出したが、まだ海保湯が行われていないので、いささか奇妙な選挙報道だった。(パワハラなどで批判された前知事)不信任案が県議会議員全員一致で可決された知事は「失職」を選び、そのための知事選だった。選挙期間の途中から、さまざまな怪情報が流され、前知事が圧倒的に支持を得て、当選を果たす勢いだった。仮に前知事が当選したのなら、議会の全議員が「ノー」を突き付けた、その意味はどうなるのか。今度は議会が解散されるのだろうか。いったい、この県知事選挙では何が起こっていたのだろうか。冷静な分析を待って、そのうえで、選挙や選挙運動に対する問題点が検討されるべきだろう。(574)

〇2024/11/16(土)あっという間に一週間が過ぎる。本日は「国際寛容デー」だそうで、「1996(平成8)年の12月に実施された国際連合総会において、国際デーのひとつとして制定されました」「日付は、1995年11月16日、ユネスコ総会で「寛容に関する原則の宣言」が採択された出来事にちなんでいます。文化や表現の手段、人間としてのあり方といった多様性を尊重すること、受け入れることを『寛容』の定義とし、多様な社会を存続させることが目的です」(国連総会)今日の世界情勢はいたるところで「不寛容」が蔓延している。その挙句が「人種差別」「女性差別」などの抑圧政治が行われるのであり、究極は「ジェノサイド」に重なる戦争行為の敢行だ。繰り返し、あらゆる時代や社会で、この「不寛容」がもたらす蛮行に傷つきながら、「寛容の精神」でやり直しをしているようなもの。どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ。▶終日曇り空、時には小粒の雨が落ちていた。(573)

〇2024/11/15(金)終日曇り空。時に小粒の雨が降っていた。11月も半ばだというのに、フィリピン沖になんと五つの台風が発生。彼の地には猛烈な颱風が襲い大きな被害が出ている。海水温度の高さがまず異常な水蒸気の蒸発を生み、それが雨を降らせ、低気圧と暖気が合体して強烈極まる颱風を生んでいる。これを「地球温暖化」によるものと見ない理由はないと思う。スペインでも猛烈を極める大洪水が南東部を襲って多くの人命が失われている。例年だと、日本列島に上陸するような台風も、本年はそのまま直で台湾や中国大陸、あるいはフィリピンなどを直撃している。▶昼前に茂原まで買い物。昨日かみさん用の車のシートベルトが不具合を見せていたが、どういうわけだか、すっかり治ったよう。昨日普段利用しているガソリンスタンドで見てもらい、接触不良だろうからといろいろと手を施してくれたのが、時間差をもって効果を発揮したのかもしれない。また、いつ何時再発するかもしれないが。▶ただ今午後10時過ぎ。室温19.8℃、湿度71%。(572)

〇2024/11/14(木)昼前に買い物。帰宅しようと車を動かそうとしたら、シートベルトの警告ランプと警告音が消えない。恐らく、ベルトを締める際の「バックル」の中の接触不良か何かだろうと気づいたので、いったん帰宅後に、いつもの車屋に連絡して、部品交換と修理の依頼をしたうえで、部品代の支払いに出向こうとしたら、なんと「赤ランプ」も「音」も消えて、正常な状態に戻ったようだった。儲けものだったか、車屋に出向き事情を説明し、今回はいったん「保留」にしてもらった。いつまた「再発」するかもわからない。新車で買って十年目の車。八万キロ走行している。▶少し寝不足が続いているのか、眠くて仕方がない。猫たちに毎日早起きで、ひどい時には、夜半十二時前に起こされたり、午前一時前だったり。とにかく「いい睡眠」「良質の睡眠」をと、願っている。寒くなる時期、猫たちも本人も風などは引かないようにと気はつけてはいる。ただ今9時45分。室温19.7℃、湿度66%。(571)

〇2024/11/13(水)終日自宅にて過ごす。少し風もあって、まあ凌ぎやすい日だった。十一月に入ると、気忙(ぜわ)しくなるのは長年の習慣づけのようなものか。今日は、今は、これだけはぜひやっておかなければという、そんな忙(せわ)しない事柄は何もない生活で、要するに「宿題」のない学校のようなもの。何もしないで時を過ごすことがとても大事な気がする。うたた寝をするのも一つの仕事、そんなことを言うと、世間から怒られそうだが、今はできるだけ、自分の呼吸で息継ぎをしていたいのだ。(570)

〇2024/11/12(火)午後、猫缶を買うために土気まで。ほぼ週一で、購入するために通っていることになる。年間でどれくらいの費用がかかっているか、恐ろしくて計算できない。今はなんとか猫の医者にかからないようにしているが、時には怪我や事故もあるので油断はできない。数が多いというのが、何よりも問題か。また、一つが三日ほど経つても、帰ってこない。なれたもので、お腹がすいたら、平気で帰ってくる。何が起こるかわからない環境であるのも事実。昨夕は、凄い鳴き声で林の中を去っていた動物がいた。これまでにも何度か聞いているが、おそらく「キョン」なのかもしれない。鹿に似た動物で、房総半島では害獣扱いをされている。相変わらずイノシシが近所を、敷地内を含めて、掘り荒らしまわっている。夜行性でもあるというから、猫が林の中で寝ているところを襲われることもあろう。すべてが家の中でということもできないのは、それぞれが成長するにつれて、互いの相性が合う、合わないという関係が出てくる。遠慮して夜は家の外で過ごす子も出てくる。食事だけは家で食べる、それも日に二度三度と。なかなかに難しいことだと痛感している。(569)

〇2024/11/11(月)昼前に買い物、茂原まで。▶終日、曇り空で、時には小雨が落ちていた。それも昼過ぎには止んだようだ。それほど寒くはなく、寒気も一休みといったところか。▶国内では特別国会が召集され、首班指名が行われた。石破氏が選出されたという。国民民主党の代表に「不倫報道」が。当人は「おおむね事実」と認める。まるで日本版「トランプ」現象のよう。首班指名には同代表を党員一致で記名するらしい。フザケタ話だが、事実は事実。この程度の連中が国政を担っているかと思うと反吐が出る。「躍進して、浮かれていた」と代表。浮かれ方が間違っている。こんなことに触れること自体が忌まわしい。有権者はおろか、国民そのものを舐め切っているのだ。「不逞(不貞)の輩」というべし。(568)

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事故多発の「交差点」のようなもの

▣ 週の初めに愚考する(第四拾五)

【北斗星】「学校へ行きたくても行けない子もいる」。次男が不登校という県南の父親が話していた。「登校させるのは苦痛を与えること。それを分かってやらないと」とも。次男には、行かなくてもいいと伝えたそうだ▼30年も前の記憶だ。行きたくない日も親に叱られて登校した自らの経験を思い出しながら聞いていた。当時、全国の不登校の小中学生は7万人余り。「どの子にも起こり得る」と指摘されるようになっていた▼先ごろ発表された2023年度の不登校の児童生徒は全国で34万6千人。11年連続して増え、40人学級だとクラスに1・5人の割合だ。県内も1947人と8年続けて増加。少子化の折、ともに最多を更新した▼10日付本紙で、不登校になった東日本在住の小6女児(11)が心情を吐露していた。学ぶことは好きなのに、「みんなと同じ」を求められて苦しさを感じたという。「頑張っても行けない」「少しでも個性や気持ちを分かろうとしてほしかった」との言葉が切ない▼周囲と交わり切磋琢磨(せっさたくま)し、社会性を育む学校教育が重要なのは言うまでもない。ただ、そこになじめない子どもがいる。支援にまず必要なのは、一人一人の個性を認めて受け入れることだろう▼きょうは国連が定めた国際寛容デー。信条、文化などが異なる多様な人々が存在する世界では、他者を尊重する寛容さが欠かせない。寛容な教育が実践され、全ての子どもがありのままに、伸び伸びと学び、成長できることを祈りたい。(秋田魁新聞・2024/11/16)

 「学校へ行きたくても行けない子もいる」という。それはどういう状態を指すのか。あるいは「行きたくない子どもの意識」はどう働いているのか。まず第一に考えられるのは、行きたいのはやまやまだけれど、病気やけが、または家庭の事情で行くことができない(行きたいのに、行けない)ということが考えられます。あるいは「本当は行きたいのに、行けばいじめられるから」というような、学校やクラスに問題(行けない理由)がある場合が考えられます。さらに考えていけば、「行きたいのに、行けない」という心理や状況が明らかになるでしょう。そして、「行けない」理由や事情は、人それぞれですから、これが「解決法」だという決定打はないと考えるとよい。学校になじめない子どもたちはたくさんいますけれど、その理由や事情はそれぞれに異なるでしょうから、いくら「対策」や「方針」を作っても追いつかないのは当たり前。しかし、「対策」や「方針」づくりに熱心になればなるほど、出てくる意見や批判は、「学校にいけない子」「登校しない子ども」「不登校の子の親たち」に問題があるというのが、これまでの相場でしたし、これからも変わらないと、ぼくは断言します。「学校は変わらない」「学校は動かない」という前提が問題とされてもいるんですのに。

 「登校させるのは苦痛を与えること。それを分かってやらないと」父親の言。なかなかの姿勢(態度)だと思う。いろいろと失敗や過ちを重ねた結果の「それを分かってやらないと」という言葉となったのでしょう。この父親にも「学校に行かないのはよくないことだ」という「通念」が、その昔はあったのでしょうか。それを「偏見」とまで言うのは言葉が過ぎるでしょう。でも、子どもにとって何よりも「学校第一」という圧力は、小さいころからのしかかってきたのは事実。なかなか簡単ではないけれど、行っても行かなくても、好きにしなさいという親がもっと出るといい。今でも、皆無ではないでしょうけれども、そんな親は無責任という感覚は自他にあるのです。

 ぼくは長年教職の端っこに席を占めていました。不登校者が圧倒的に多くいた問題の多い大学にいたのですが、この「不登校問題」については多くの保護者や教師たちから相談を受けました。ぼくの返答は単純そのもので、嫌だという子どもに無理強いするのは賛成しない。行きたくなければ、学校に代わる「学習の機会」を考える必要がありますよ、というものでした。義務教育という時の「義務」は、親や行政側の「教育機会を保証する義務」です。その義務が、子どもの教育権を担保することになる。「来なくてもいい」と言って、それで問題の解決が進んだかどうか、ぼくには分からないが、学校や教師の理屈や「出席第一主義」が変わらないことには話にならないということだけはっきりしています。そんな窮屈な学校に変わる「代案」として多くの「フリースクール」などが生み出されました。そのどれもが成功したわけでもなければ失敗したのでもなかったでしょう。しかし、知っている限りでは「教育」という「人間の関係」においては、あるいは旧態依然の価値観を、多くの学校関係者は捨てきれなかったことは確かです。 

(教育新聞:2021/11/04)(https://www.kyobun.co.jp/article/20211104-06

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 「不登校になった東日本在住の小6女児(11)が心情を吐露していた。学ぶことは好きなのに、『みんなと同じ』を求められて苦しさを感じたという。『頑張っても行けない』『少しでも個性や気持ちを分かろうとしてほしかった』との言葉が切ない」(「北斗星」)という子ども。「不登校」にかかわる、いろいろな調査があります。もちろん、その結果は似たようなものです。どうして「学校に行けなくなったか」、当人にとっても理由ははっきりしないこともありましょうし、「いじめ」られるからという、明らかな学校拒否の理由もあります。だから、「不登校」を防ぐための処方箋も、書き方はさまざまなので、見る(診る)人によっても変わるものです。しかし、誰が見(診)ても変わらなさそうなのは、「学校」という仕組みや機能が、ほとんどの子どもたちには「抑圧」の媒体になっているということでしょう。

 細かいことはいいません。まるで「鉄板」のように、学校はその重みを子どもたちにかけます。もちろん、抑圧をかけられるのは子どもたちばかりではない。教師だって、子どもたちと同じように抑えられているという感覚から抜け出られないで困ることが多いのです。とすると、きわめて奇妙なことですが、教師も子どもも、学校によって「抑えられている」「縛られている」という感覚を持つのはなぜかという点です。学校のあらゆる機能や行動が「画一」と「規則」に束縛されているのは、誰もが経験しているところです。

 不登校(に限らず)問題に関して、有効な処方箋が、ぼくに書けるわけではありません。でも、打つ手と言うか、手がかりやヒントなら出せそうです。ある地域のある特定の交差点ではやたらに交通事故が多い。それに対処するには、自動車や歩行者の取り締まりを厳しくするのも一つの手法ですが、それ以上に「交差点の在りよう」が問題になっているケースは多いと思う。だとすれば、その構造というか造りを変えることが先決ではないでしょうか。ぼくには、どうも学校という構造は、出来の悪い、交通事故を誘発するような、見通しの悪い「交差点」に見えて仕方がない。作り方を変える、それが決定打とはいかないでしょうが、かなりの改善策にはなるでしょう。つまり、学校は、何時だって「交通渋滞」が発生し、接触事故や衝突が起こるような、そんな問題だらけの交差点なんですね。追突事故や衝突に遭わないためにはどうするか、そこには行かないことがまず第一です。二番目に、スムーズに人も車も流れるような仕組みや作り(構造)を変えることではないですか。「道徳」というのは、「人倫」という通行者(子どもたち)が通る道のことです。教育は、その「道」「倫(みち)」を事故を起こさないで、事故に遭わないで歩くための練習場なんですね。テストの点数や成績なんかどうだっていいんですよ。

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