【卓上四季】恩師の手紙 行きつけの書店でエッセーの棚をぼんやり見ていた。表紙に並木の絵をあしらった小ぶりな本が気になった。回想集「落ち穂ひろい」(あけび書房)。ページをめくっていると、めったに目にしない地名が出てきた▼<北海道空知郡栗沢村上美流渡(かみみると)鉱>。美流渡はいまの岩見沢の山間部に位置する。96歳になる著者の歌人、碓田(うすだ)のぼるさんには大切な思い出につながる土地だ▼1945年の冬。国鉄長野工場の見習工だった碓田少年は美流渡に赴く。敗戦直後の極端な労働力不足を補うため、当地のちいさな炭鉱で採掘に従事した。ボタ山や炭住、共同風呂の記憶は鮮やかだ▼あの住所は、手元に残る古い手紙に記されていた。差出人は小学校の担任だった恩師である。卒業後も文通していた。先生はおしろいの香りをほのかに漂わせ、着物の帯を締め直してくれた。<どうか、少し位の悲しみ、苦しみにもまけないで>。やさしい励ましがときに届いた▼文通は互いに住所や境遇が変わっても約30年続いた。碓田さんは啄木研究者としても活動してきた。関わりのあった文学者らを本書で回顧する。冒頭を飾るのが美流渡が出てくる一編「恩師の幻」だ▼郵便料金が30年ぶりに改定され値上がりした。懐には厳しいけれど、便りだからこそ伝わることもある。懐かしい人に一筆したためようか。(北海道新聞・2024/11/13)
(ヘッダー写真は「ジャン・フランソワ・ミレー『落ち穂拾い』1855年」:エッチング,・ムステルダム国立美術館)

〈碓田のぼる(うすだ・のぼる)1928年長野県生まれ。歌人。渡辺順三に師事。新日本歌人協会代表幹事など歴任。国際啄木学会、日本民主主義文学会会員。歌集『花どき』で第10回多喜二・百合子賞受賞(1978年)。歌集に『歴史』『信濃』『くれない』、評論集に『渡辺順三研究』『火を継ぐもの 回想の歌人たち』『石川啄木と「大逆事件」』『啄木断章』『一九三〇年代「教労運動」とその歌人たち』『石川啄木と労働者―「工場法」とストライキをめぐり』など。)(上記内容は「落ち穂ひろい」刊行時〈2023年〉のものです)
「恩師」という語で、どれだけの想像力が働くだろうか。ごく常識的な理解をするなら、学校時代などに教えを受けた「先生」を指すでしょう。しかし、どんな「先生」も、すべてがだれかの「恩師」になるのではないから、そこには独特の、あるいは特別の意味が込められているに違いありません。もちろん、「恩師」は学校の先生に限らないのは言うまでもありません。そう断っておいて、さて、「君にはどんな恩師がいたか?」と尋ねられたら、たちまちにぼくは困惑する。悲しいかな、「恩師」と呼びたくなる「教師」「先生」は一人もいないからです。これはぼくの最大の不幸かもしれません。これまで八十年間生きてきて、一人として「恩師」と呼びたくなる、呼べるような存在に出会えなかったのは、返す返すも不幸の極みだといえるかもしれない。教えられた人は無数にいたし、尊敬に値すると心底思わされた人もたくさんいました。それでも、「恩師」という名で呼びたくなる存在は、たったの一人もいなかった。残念というべきか、あるいは「恩師」などと呼べるような「先人(先生)」と、当人との関係はどうだったかを考えると、一概に「恩師」呼ばわりは、ぼくにはできない相談ともいいたくなる。

本日の「卓上四季」は、そういう「恩師」のいないぼくからすれば、羨ましい限りの「追想の恩師」でした。まず、そこに触れられている「碓田のぼる」氏にはまったく知識がない。初めて聞くお名前であり、そのお仕事ぶりでした。ぼくの無知はともかく、こういう人が同時代に生きていると知るだけでも、何か「生きる」ことの値打ちというのか、人生の深さというものを教えられます。(早速に、碓田さんの「落ち穂ひろい」他数冊を注文しました)たくさんの著作(主なものは「歌集」です)をお持ちだということも知りました。(不勉強極まるという、わが怠慢を激しく呪っています)
北海道には何度か行きましたが、ほとんどが所用だったり、観光見物だったりした。大半が車での移動でしたから、ゆっくりと土地に足を下ろして歩いたことはなかった。空知郡栗沢村上美流渡は夕張炭鉱の近くに位置しますから、おそらく従前は石炭で栄えていたのでしょうか。詳細は省略。コラム氏は当地の小学校の卒業生か、あるいは、その「恩師」は遠く離れたところから上美流渡の学校に勤務されていたのでしょうか。偶然本屋さんで見つけた著書に、なじみの地名が出ていた。そこからの連想で懐かしい「恩師の手紙」が思い出されたという。「先生はおしろいの香りをほのかに漂わせ、着物の帯を締め直してくれた」
<どうか、少し位の悲しみ、苦しみにもまけないで>(まさしく、恩師ですね!)
卒業後も三十年にわたり恩師との文通は続いたという。その「恩師」は健在だといわれているようでもあり、あるいはそうではなく、「恩師」ではない、コラム氏にとって「懐かしい人」に「一筆」と言われているかのようでもあります。このところの文意がよくわかりませんが、でも、「便りだからこそ伝わることもある。懐かしい人に一筆したためようか」と言われる、その心を慮(おもんぱか)ってみます。この数年は、一度として手紙を書いたこともないし、葉書もせいぜいが「年賀」代わりに出すくらいのもの。その昔は、一本の書状を出すにも「下書き」を作り、それを手直しし、清書して出したものです。

何とも言えずに、ぼくが羨ましいと思うのは、このような「子弟」の関係です。これまでも偉そうに、ぼくは教室の外(卒業した後)にも続く関係の中に持続する「教育の働き」があるなどと言ってきました。教室の中に限定されない、教室や学校の外に広がり繋がる「教師と子ども」の関係にもまた、教育の名で表され「交際(コミュニケーション)」があるのだと。そうは言いながら、ぼく自身は、繰り返し言ってきたように、学校にも教師にも「信」を置いてこなかった。自ら望んだことだから、それを後悔しているのではありません。ひとえに羨ましいというのは、何年たっても「面影」が消えないままに、誰かと「交流」「厚誼」が変わらないで続くということに、です。自分にとって、その関係を「恩師」と呼ぶかどうかは、当事者の問題。名称に囚われないままに、「忘れ得ぬ先生」というものも、多くの人の中には記憶されているでしょう。

(右上に出した「戸田城聖」という方をぼくは若いころに調べたことがあります。彼の師だった牧口常三郎氏に私淑し、後年、牧口氏は「創価教育学会(創価学会の前身)」を開き、戸田さんも入信。奇遇だと思うのは、牧口さんも戸田さんも北海道で「教員」をしていたことがあるのです。ことに、戸田さんは夕張炭鉱のある校区の学校に勤務されていたことがあった。それはコラム氏の通われた学校だったろうか。牧口さんは、柳田國男さんの主宰されていた、民俗学徒の集まり「郷土研究会」に真面目に参加されていた履歴があった。当時の牧口さんの風貌は、実に寡黙・実直・真面目だったと、柳田さんは書き残されいます。その牧口さんは治安維持法にかかわって拘束され、戦中の44年11月に獄死されています。戸田さんは、二代目の創価学会会長だったかと思う。一種の奇縁のようなものを感じたので、右の「恩師 戸田城聖先生」に触れた。牧口さんの「創価教育学」についても駄弁りたいが、それは稿を改めて。ぼくは何度か読んだものです。(親戚知人に「学会員」はいますが、ぼくは無信心・無信仰ものです)

何事も時代のせいにするつもりはない。まして、自筆(直筆)がまったく尊重されない時代であるからこそ、「恩師の手紙」によって、ぼくは心を打たれる思いがしたのです。誰にも負けないくらいにぼくは筆不精であり、文章を書くのは葉書一本でも苦手です。今でも、年に数回は「書簡(手紙)」を戴くが、出す返信は「ワープロ」で作成という、実に味気ないものになっています。それゆえに、「恩師の手紙」にそこはかとない「滋味」を感じた次第です。(右は「あえて不便な暮らしがいい。北海道の森(美流渡)で始めたパン屋さん」・https://colocal.jp/topics/lifestyle/ecovillage/20160225_65793.html)
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