君死にたまふことなかれ

 ただ今、午前六時。室温16.7℃、湿度70%。ひときわ、身に染みる寒い朝。昨日は、アメリカ大統領選挙の帰趨を見極めるところまで、当地の速報番組に見入っていた。他国のことなのにと、自分でも思いながら、その行方を気にはしていた。午前の早い段階からの開票状況を見て、「おやっ、どうして伸びないのか」と怪訝に思っていた。昼過ぎには、ぼくは結果が予測できていた。結果は御覧の通り。理由や背景はいくらでも数えられます。

 ぼくは、たった一言いうばかり。彼の地には、そここまで「ファシズム(fascism)は育っていた」と。人種(民族)差別は大手を振って横行していた。やり玉に挙がったのは「移民」。アメリカから「移民」を排除して、いったい何が残ろう。「移民差別」を声高に、悪しざまに叫ぶ当事者が移民であることを忘れてはいないだろうか。加えて、女性差別の爆発。先頭に立って旗を振っていたのが何件もの「性犯罪」(強姦罪を含む)で有罪判決を受けている「候補者➡当選者」だった。それがもっとも典型的にみられたのは「妊娠中絶」禁止問題でした。「移民と女性」、それがハンディキャップになるのが、今次の選挙だったとするなら、H 候補は二重のハンディを負わされていたのだ。不誠実で不平等な、理不尽きわまる差別との「闘い」は終わらない。

 人種差別(Racism)と女性差別(Sexism)という、「人権侵害」そのものが大統領選挙の争点になったという現実には、ある種の恐怖を抱きます。敗れた候補者は、文字通りに「人種の坩堝(るつぼ)」とされるアメリカの「申し子(有色人であり、移民の子)(典型)」のような存在だった。その「申し子」をアメリカの多数の民衆は「廃嫡(disinheritance)」したのです。犯罪の告発件数が80件以上、刑法重犯の有罪件数が34件。公職(大統領)にあらざれば、即「逮捕拘束」の身だった。今となれば、すべての「犯罪」歴が解除される(無罪放免)か、そんな報道も出始めている。時代は暗さを増すなら、その中でひときわ光り輝く星々(☆彡)の出番もあるでしょう。暗ければさらに光る星(★)たち、それを、微光ですら放てなくなった星屑(stardust)であるぼくは見据えている。それぞれが光度(luminous intensity)を失わないこと、光度の強弱があってこそ、お互いが照らしあえる。

 (今朝、6時の段階で閲覧・閲読できた「コラム」の中から二つ)(ヘッダーの詩「君死にたまふことなかれ」は与謝野晶子作。明治三十七年九月、雑誌「明星」に発表。日露戦争に出生していた弟への「呼びかけ」の体裁を取った、「反戦詩」。副題は「旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて」とされていた)

 誰を選ぶかというのは、なによりも民主主義の要諦です。だから、T 候補が選ばれたことは事実として認める。それ以上にぼくには大きな問題となるのは、あの候補者ではなく、この候補者が選ばれたという事実の持つ別の側面です。「有権者が候補者によって選ばれた(候補者に引き付けられた)」ということを忘れたくない。たった一人の「大統領候補者」がファシズムを生みだし、増殖させるのではなく、たくさんの人民の中に「ファシズム」の根があり、それは育っていたという現下の「米国の土壌」、そのことに、ぼくは驚きを禁じ得ないのです。この劣島においても事情は変わらないでしょう。一朝事あれば、何時だって「ファシズム」は鎌首を擡(もた)げる。そのための「餌」はいくらでもあるのです。選挙期間中、彼の地では「アメリカ(白人)のためのアメリカ(白人)」というスローガン(幻想です)が聞こえていました。気を許していると、大声で「大和民族の美俗」を論(あげつら)う民衆は澎湃として起こるでしょう。「沖縄基地問題」の根はどこにあるか(抗議活動をしていた現地の人に対して、「黙れ、土人」と悪罵(abuse)を放った本土警察官(大阪?)がいた。どこからでも、現実にはできるはずもない「民族浄化」イデオロギー(原理主義)は沸き立つのだ。

 この社会(国)の「首相」や「国会議員」各位に願うことはただ一つ。「君国を売り給うことなかれ(Please don’t become a traitor)」と。

【卓上四季】「ガラスの天井」に挑む 刻一刻と更新される開票速報を食い入るように見つめていた。米大統領選である。全世界の関心を集めた選挙だけに目が離せない。だれが選ばれるかによって世界の景色が変わるのだから▼トランプ氏が返り咲き、大国のかじ取りを担うことが確実になった。激戦が予想されていた州も着実に押さえていった▼声も態度も大きい自信家だ。お世辞にも品がよいとはいえない。ビジネスにたけているかもしれぬ。けれど国を導く大統領としてはどうか。予測不能な言動が混乱を招いた1期目を思えば不安が募る▼なぜ彼は選ばれたのか。逆にいえば、なぜハリス氏は敗れたのか。物価高や中東情勢、移民問題などについて、現職の副大統領として手腕を発揮できなかった―。トランプ氏はそう主張した▼それだけではなさそうだ。女性の政治進出を阻む社会的な壁の存在である。明治大の兼子歩(かねこあゆむ)准教授は「カウボーイ的な男らしさ」が深く根を下ろすと指摘する。敵との<対決を辞さないという、理想的な白人男性像である>。トランプ氏はこれを体現する権威主義的な指導者としてアピールした、というのだ(「世界」11月号)▼ハリス氏の挑戦は一歩及ばず、初の女性大統領の誕生を阻む「ガラスの天井」を破れなかった。だが多くの支持を集めたことも事実だ。あとに続く女性はきっといる。(北海道新聞/2024/11/07)
【有明抄】アメリカのゆくえ 全国の映画館で「洋画離れ」が進んでいるという。今年上半期、ヒットの目安とされる興行収入10億円を超えた邦画は15本。対して洋画は3本だけだった◆劇場で洋画の予告を見れば、荒唐無稽なヒーローが力まかせに敵をなぎ倒す。これではねぇ…。かつて「全米が泣いた」の惹(じゃっ)句(く)に胸躍らせた世代はため息をつく◆主役は強くあらねばならない。見ている方がげんなりする、かの国のそんな価値観は大統領選びともなれば一段と鮮明になる。「私は泣いてはいけないから笑うのだ」。奴隷解放宣言で知られるリンカーン大統領さえ、そんなジョークを飛ばしている◆暗殺未遂、有権者登録で大金が当たる選挙違反すれすれの呼びかけ、投票所への爆破予告…。選挙戦をにぎわせた数々の話題は、とても民主主義の国とは思えない。米心理学会の調査では、米国の成人の約7割が大統領選に「大きなストレス」を感じていた。選ばれた「強い主役」は分断で傷ついた、かの国の現実でもある◆洋画が「あこがれ」だった遠い昔、移民出身のF・キャプラ監督は『スミス都へ行く』で民主主義の理想を描いた。味わい深いせりふがある。「あなたの常識的な正義感こそ、この国に…いえ、ゆがんだ世界のすべてに必要なのよ」。米国がなくしたもの、そして世界が失おうとしているものについて考え込む。(桑)(佐賀新聞・2024/11/07)
(*ファシズム(fascism)= 極右の国家主義的、全体主義的政治形態。初めはイタリアのムッソリーニの政治運動の呼称であったが、広義にはドイツのナチズムやスペインその他の同様の政治運動をさす。自由主義・共産主義に反対し、独裁的な指導者や暴力による政治の謳歌などを特徴とする。(デジタル大辞泉)

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if you need a friend I’m sailing right behind

【卓上四季】明日に架ける橋 窓に防弾フィルムを貼ったり、狙撃手を配置したりした投票所がある。ホワイトハウス周辺のビルや店舗ではガラス窓を板で覆い始めた。不測の事態が起きるのではないか。不安と緊張が高まる米国で大統領選の投票が始まった▼時間をかけた選挙戦で政策と人物を吟味し、多くの候補から最良の指導者を選び出す。長く民主主義のお手本とみなされてきたのが米大統領選ではなかったか▼それがすっかり様変わりしてしまった。ののしり合い、誹謗(ひぼう)中傷、うそ…。連邦議会議事堂の襲撃や、演説中の候補の狙撃といった暴力事件の記憶も生々しい▼候補2人の支持率が最後まで拮抗(きっこう)する歴史的な大接戦である。それは真っ二つに割れた米国の現状を示していよう。深刻さを増す分断と対立は、もはや後戻りできないほどにまで深まったのだろうか▼1970年前後の米国。ベトナム反戦などの異議申し立ての動きは峠を越しつつあったが、世相はささくれだっていた。そのころヒットしたのが、サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」だ▼いつも僕は君の味方だよ。君が疲れたとき、ひとりぼっちのとき、僕はこの身を投げ出そう、逆巻く波に架かる橋のように―。この歌は愛する人や友を励ますだけでなく、平和を思う歌としても浸透していった。いままさに求められる願いだろう。(北海道新聞・2024/11/06)

 いま、アメリカに限らず、いたるところで海は荒れ、大津波が襲って来ようとしている、そんな危機に瀕している時代。今から半世紀以上も前、大国アメリカは無謀な「ヴェトナム戦争」で激しく傷ついていたし、民衆の意思は国家権力とは明確に異なっていたように思えた。この極東の小島も、戦争の余波どころか、日米安保体制の、一方の当事国として、大義のない「戦争への参加(加担)」を強いられていた。学生だったぼくは、反戦運動に立ち上がりもせず、方々をうろついていたことを、いまさらのように苦々しく思い出している。ここ三か月の間、アメリカ大統領選挙のやりきれない実態を垣間見てきて、言い知れぬもの哀しさを覚えていた。

 そんな時に、微かに聞こえてきたのが<Bridge Over Troubled Water>でした。繰り返し聴くうちに、アメリカを含めて、世界は大荒れの大海にかかっている「橋上」に置かれているかのように思われた。寄せ来る大波に翻弄され、やがて急襲するであろう「大津波(a tsunami)」に飲み込まれんとしている、そんな強迫観念にも取りつかれかけていた。大統領選挙戦のさなかの10月、アメリカ南東部各州は想像を絶する「ハリケーン」に二度三度見舞われた。激しく「分断」された大国。互いに憎み合っているのか、憎しみを巻き散らすのは誰だろう。たった一人の権力亡者の周りには、まるでその亡者を駆り立て煽り立てるように、自らの出番を凝視している悪党がいる。政治や経済を蹂躙する魑魅魍魎がいる。

 疲れ果てるままの「あなた」に<I will lay me down><I will comfort you><I will ease your mind>と、包んでくれ、心を慰めてくれる「私」は誰だろう。アメリカの大統領がだれになるか、それはこの小さな島国には、自国の総理大臣がだれになるかよりも、もっと切迫した意味を持っていると、ぼくは思い続けています。この国が「今あるような事態」に陥っているのは、国民が望んだのではなく、何よりも為政者のアメリカ一辺倒という歪んだ権力意識がもたらしたもの、そのようにぼくは見ている。だから、そのアメリカと同じように、この社会の海岸を大きな津波が襲いかけているのでしょう。「一衣帯水(narrow strip of water)」というではないか。「荒れ狂う海に架かる橋」を、ぼくたちは探している。

 Bridge Over Troubled Water(1970作)

When you‘re weary, feeling small
When tears are in your eyes
I’ll dry them all
I‘m on your side, oh, when times get rough
And friends just can’t  be found
Like a bridge over troubled water
I will lay me down

When you‘re down and out
when you’re on the street
When evening falls so hard
I will comfort you
I‘ll take your part, oh, when darkness comes
And pain is all around
Like a bridge over troubled water
I will lay me down
Like a bridge over troubled water
I will lay me down

Sail on silver girl, sail on by
Your time has come to shine
all your dreams are on their way
See how they shine,

oh, if you need a friend
I'm sailing right behind
Like a bridge over troubled water
I will ease your mind
Like a bridge over troubled water
I will ease your mind

*Simon & Garfunkel – Bridge Over Troubled Water (Audio)(https://www.youtube.com/watch?v=4G-YQA_bsOU&ab_channel=SimonGarfunkelVEVO

*Eva Cassidy – Bridge Over Troubled Water(https://www.youtube.com/watch?v=YHYW0drRwVg&ab_channel=EvaCassidy) *Elvis Presley ₋ Bridge over Troubled Water(https://www.youtube.com/watch?v=Y1KNQwpaekQ&ab_channel=8823macaron) 

⦿ 明日に架ける橋= アメリカ、ニューヨーク出身のポピュラー・デュオ、サイモン&ガーファンクルの曲。1970年に発表され、6週連続全米第1位、年間チャート第1位を記録した。グラミー賞最優秀レコード賞と最優秀楽曲賞を含む4部門を受賞。同名のアルバムも最優秀アルバム賞と最優秀録音賞を受賞した。ソウル歌手のアレサ・フランクリンはじめ、数多くのアーティストによりカバーされている。「ローリング・ストーン」誌が選ぶ最も偉大な500曲第48位。原題《Bridge Over Troubled Water》。(デジタル大辞泉プラス)

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青は明るくもあり、暗くもある

 なんだかんだといいつつも、季節は、一気に向寒の砌(みぎり)に。これを書いている今、午前七時半、室温は19.2℃、湿度は68%です。朝、かみさんや猫たちと「今日は寒いね」と交わす言葉も的外れではない。そんな折、本当に日々の暮らしに、いろいろなものが遠慮会釈もなしに、わが目に耳に飛び込んできます。そのいちいちに応接する気もありませんが、やり過ごす中で、何時までも心にとどまり続けるものも多い。その多くは嬉しいことや楽しいことではなく、憂鬱なこと見たくも聞きたくもないことであるのは、どうしてでしょうか。「気にかかる」のは、清々しいことよりも鬱陶しいことと、人間の心持の在りようが決めているのかもしれない。

 山の中の一軒家というほどではないが、人家はまばら。かみさんと猫たくさんの生活です。暇ができたら(まだ勤めをしている時代の願い)少しはやってみようかと、ゴルフのクラブを集めていたことがあります。全部で50本ほどにもなったろうか。ぼくはセットで買って、それを担いでゴルフ場に行くことは想定していなかった。近所の練習場に、それこそ夏休みなどを利用して、ほぼ営業時間中は入りびたり、そんな打ち込み方だった。やがて勤めを辞め、同時に現在地に越してきました。たくさんあったゴルフクラブは、ぼくに断りもしないで、かみさんが始末してしまった。仕方なしに、その後買い足した五本か十本ほどのクラブを家に放置したままでした。

 数年前から、「闇バイト」などという物騒な「盗っ人商売(強盗・窃盗の類)」がニュースになって以来、玄関と寝室に、1番、2番といったアイアン・クラブを備えるようになった。いざという時、何ほどのことができるかわからないが、「抵抗」」「反撃」だけはしてみたい。つまりは「一矢を報いる」というやつです。超高齢化社会になった今、世の中に蔓延(はびこ)のが、二十歳そこそこの「青年たち」の暗躍というか、自暴自棄というか。物騒を通り越して、やりきれない思いが募ります。「一打百万」という「一獲千金」が成功しても、それで一生食っていけるわけもない。繰り返し「一打」を続けるほかないし、やがては「打席」に立てなくなることを考えれば、汗水たらして、働くことが何よりだと気づかないのが悲しい。なにがすきで、こんな時代や社会になってしまったのか。

 同じ若者でも、コラム「談話室」で触れられている「青い春」「青い風」というのはいいですね。今はすっかり身体を動かさなくなりました。でも往年は、それこそ「野外派」、今の「アウトドア組」でしたから、野球・ラグビー・テニスと、教室に入らないでできる運動は大いに楽しみました。やがて、チィームやペアの必要な運動は卒業して、すっかり「孤独青年、野性に帰る」仕儀になった。後年、ぼくは大学院では、ジャン・ジャック・ルッソオ(1712~1778)という人について学び、そのなにがしかを修士論文にも書きました。なぜか、その理由は単純明瞭だった。十八世紀、フランスの思想家ルッソオが唱導したのが「自然に帰れ」だったからです。その「自然人」が集住して「社会」を形成すると、どうしても混乱や争闘が生じるから、そのために必須のものとして求められたのが「社会契約」で、ルッソオはそれを強く唱えて、のちのフランス革命の準備をしたとされる人でした。今から思えば、偶然の出会いだったでしょうが、やはりぼくの中には「野性」「非文明人」「自然人」の血が流れている性向が、自覚もしないままにルッソオに向かわせたのでしょう。

 それはともかく、「談話室」です。これこそ偶然の一致というべきで、今秋は、あちこちに「青の風」「青の波」が揺れに揺れていました。今ではすっかり野球にもサッカーにも興味を失ってしまいました。けれども、若い人が「死力を尽くして」何事かに打ち込むのを見るのは嫌いではないどころか、そうあってほしいと願ってもいるのですから、西に東に「青の時代」を大歓迎する人々がいるのもまた、ぼくには頷けます。詳しいことは書きません。この「青」というカラーが特別に好まれるのは、いろいろな根拠や背景がありそうです。一方で、その「青(ブルー)」は「憂鬱」をも暗示しているのですから、明暗両面を持つ、物事の実態や現象の、一つの象徴でもあるように思うのです。「青年」「青春」は、真っすぐに受け入れられるとは限らない。迷いに迷うのもまた、「青春」の軌跡でもあります。ぼくは「人間青山」という語が大好きです。この駄文集録でもどこかで触れています。「人間」とは「じん官」、つまりは世の中。「青山」は「せいざん」です。人間の生きる場所は、世の中にはどこにもある。いたるところで、思い切り活動すれば、「青山」はどこにでも見つかるもの。つまり「死に場所」を気にかけないで生きたらどうか。

 それにしても、米国に「オオタニショウヘイ」がいて、この小島に「闇バイトに誘惑される兄さんたち」がいる。言いようのない、パラドックスですね、青春の。「青」は明・暗両面を備えているというのです。一人の人間の中に共存する「闇」のようなものか。

【談話室】▼▽色が人間の心理に及ぼす影響はさまざま知られる。心を落ち着かせ、集中力を高める効果があるとされるのは青だ。精神状態が安定すれば力の全てを発揮できる。最近のスポーツニュースに、そんな青の勢いを感じる。▼▽まずは米大リーグのワールドシリーズを制したドジャース。世界共通の色見本に載るほど有名な「ドジャーブルー」を身に着けた選手は、皆落ち着いて自分の役割に徹していたように映った。初戦の逆転サヨナラ満塁本塁打など、劇的なプレーも平常心があってこそだろう。▼▽ソフトバンクを下し26年ぶりのプロ野球日本一に輝いたDeNAのチームカラーも青だ。2連敗から4連勝。最後はブルー一色の本拠地スタジアムを、持ち味の伸び伸びとした野球で沸かせた。そしてサッカーJ2のわれらがモンテディオ山形。8連勝と勢いが止まらない。▼▽ついにJ1昇格プレーオフ圏に入った。悲願のJ1復帰に、ここからが正念場だ。青に吹く追い風を受けて「青炎」は一層燃え盛ろう。ところで、米国では青と赤を各シンボルカラーとする2党の大統領候補が激しく争う。青のハリス氏に一時吹いた風はやんだというが…。(山形新聞・2024/11/05)
ブルー【blue】= 色名の一つ。JISの色彩規格では「あざやかな青」としている。一般に、よく晴れた日中の青空や海の色をさす。重要な系統色であり、幅広い色を含む。代表的な派生色はアイアンブルー、ウルトラマリンブルー、オリエンタルブルー、コバルトブルー、サックスブルー、スカイブルー、セルリアンブルー、ターコイズブルー、ナイルブルー、ネービーブルー、ピーコックブルー、プルシャンブルー、ベビーブルー、ホリゾンブルー、マリンブルー、ミッドナイトブルーなど。また、レッド、グリーンとともに光の三原色の一つ。印刷で用いる色の三原色は和名でいうと、赤、黄、青だが、英名は順にマゼンタ、イエロー、シアンであり、ブルーではない。(色名がわかる辞典)

 「『私の青空』(わたしのあおぞら、My Blue Heaven)は、作曲:ウォルタ―・ドナルドソン、作詞:ジョージ・A・ホワイティングのポピュラー・ソング」(以下略)(Wikipedia)1927年発売。

*Frank Sinatra - My Blue Heaven(https://www.youtube.com/watch?v=25Ik6jNR5YA&ab_channel=ScrambledEggs1969)
*Norah Jones・My Blue Heaven(https://www.youtube.com/watch?v=maaH5tHFOQM&ab_channel=NorahJones-Topic

 今から百年ほども前の曲。どういうわけだか、ぼくはこの歌を小さいころから何度も聞いていました。日本でもこの原曲がアレンジされ、堀内恵三さんの作詞も手伝って、大いに流行しました。邦題は「青空」、その他。それこそ新旧入り交って、たくさんの歌手がカヴァーしています。参考までに、堀内恵三さんの訳詞の一部を。「夕暮れに仰ぎ見る 輝く青空 日暮れてたどるは 我が家の細みち せまいながらも楽しい我が家 愛の日影のさすところ 恋しい家こそ私の青空」 「ブルーヘブン(青空)」は、ここでは「隠喩(暗喩)」的な言葉であり、それは「楽しい我が家」を言おうとしたもの。さらに言うと、「狭いながらも楽しい我が家」こそ、我々の「塒(ねぐら)」だというのです。この日米合作のような歌は、その発表の数年後に両国が熾烈極めて戦うことになります。

*つけたし 今夕からアメリカ大統領選挙の「投票」が始まります。「事前投票」は全米で約8000万票といわれる。そして、投票直前の段階で、史上初の女性大統領誕生が待望され、確実視されています。問題は、開票作業段階からの「混乱」と「騒動」「動乱」の懼れです。選挙結果は認めない、いや選挙は認めないという、一方の候補者側の作戦が開始されるでしょう。各地区の選挙事務所では防弾ガラスや、警備団が暴動発生に備えて、準備が頻(しき)りだという。2021年1月の首都暴動の再現です。「ファシズム」の浸食度が試されているのが、あからさまに「二分」された断裂社会、それが今のアメリカです。その行方に無関心ではいられないでしょう。

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*さらに余談を この社会でも先ごろ「国会議員(衆議院議員)」選挙が行われました。「選挙」について、いわでもの一言。ぼくたちは候補者の中から、自らの投票によって「議員を選ぶ」といいます。それは一面では正しい。でも、その反面にある、大切なことが忘れられがちです。選ばれたのは「候補者」であると同時に、候補者によって「選挙民」が選ばれている、評価されているという事実です。アメリカ大統領に「H」氏が選ばれた、あるいは「T」氏が選ばれたというのは、その選ばれた候補者によって「投票者」が審判を下されているということです。30年代半ば、ドイツ社会では「ワイマール時代」が壊され、数度の選挙を通して「ナチス党」が第一党になり、ヒトラーが総統(首相)になったのは、歴史の事実です。その結果、その後の長い歴史の中で、ナチスやヒトラーを選んだドイツ国民が「裁かれてきた」という戦後史がありました。「誰を選ぶか」は「選んだ側」が責任を問われるということです。「ナチス」や「ヒトラー」を生み育てたのはナチ政党やヒトラー自身ではないということを、ぼくたちは肝に銘じておかねばならないでしょう。

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・人それぞれめいめいで着る秋の色(無骨)

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名月や石の上なる茶わん酒(一茶)

【滴一滴】脳の萎縮とアルコール 「脳が少し萎縮してますね」。脳ドックの診断で医師から言われどきっとした。MRI画像によると頭蓋骨と前頭葉の間の隙間、側脳室という脳の中央の空洞が年齢の割に大きいそうだ▼考えられる原因はアルコールだという。飲酒が脳に影響することは近年よく知られてきた。1日にワインを1杯程度飲むだけでも萎縮は進み、脳の神経細胞が集積する灰白質や神経線維が集まる白質の体積が減少する。脳の萎縮は認知機能の低下につながりかねない▼肝機能障害の指標であるガンマGTPは近頃やや上がっていたが「何とかセーフ」と高をくくっていた。健康管理の甘さを反省する▼厚生労働省は今年「健康に配慮した飲酒に関するガイドライン」を公表した。1日当たりの飲酒量は日本酒1合、ビール中瓶1本、ウイスキーのダブル1杯程度が適当でそれ以上飲むとがんや脳梗塞などを発症しやすくなるとも警鐘を鳴らす▼もっとも、酒は百薬の長という。新酒は秋の季語である。わが国では新米を醸した酒は古来、神へのささげものであり、日本文化の根っこを形づくってきた▼長い夏が終わり急速に深まる季節をめでながら熱いのを一杯の誘惑も感じるこのごろ。下戸だった夏目漱石が詠んでいる。〈ある時は新酒に酔て悔多き〉。気の置けぬ友と酌み交わす一献も格別だが、ほどほどに。(山陽新聞・2024年11月03日)

 十年ほど前、血圧がやたらに高くなって、近所のクリニックに飛び込んだ。何度か通院している間に、やや改善したのは、もちろん「降圧剤」の服用が効いたからだ。ある日の診察の折、医師から「あなたは確実に認知症になる」と断言されたときには、さすがに驚いたし、「この藪め!」と腹が立ち、その日以降通院するのを止めた。もちろん、血液検査を含め、いくつかの数値をもとにした「診断」だったろうが、患者にしてみれば、血圧の低下を求めているのに、いきなり「認知症だ」と、本当に「藪から棒」だった。怒りが込み上げてきたのは「君に言われるまでもない」という気になったからだ。「認知症」という診断名は、あまりに多様・多彩な症状を含んでいるので、どれもこれも一緒くたにしているようで、同じ語を使ってはいけないのではないかと、常に思っていた。

 昨日の山陽新聞のコラム「滴一滴」(上掲)に同じような目に遭った記者の経験談が出ていました。「脳が少し萎縮してますね」と診断され、その原因を「飲酒」に求めている。この記者氏は、とても素直な人に思えました。ぼくには見られない従順さで、「健康管理の甘さを反省する」としおらしい。医者に言われたからとは言え、そうかもしれないし、そうでないかもしれないとぼくは考えるが、世間の常識は「飲酒が真因」と疑わないのは、なぜだろうと、いつも疑問に思う。「喫煙は肺癌に」、これも巷間、まことしやかに受け入れられている。酒も煙草も、好きな人もいれば、嫌いな人もいる。つまり好きな人が認知症や肺癌になって、嫌いな人はそれとは無関係、そうであるならなるほどと肯けるが、現実には酒にも煙草にも一切無縁、そんな人でも、時には酒飲みタバコ吸いと同病になるのだ。理屈が合わない。

 厚生省も医者も、それに何と答えるか。タバコの場合に編み出した「屁理屈」は「受動喫煙」でした。では、飲酒と認知症の連鎖に捕らわれない、酒嫌いの人が指摘される病気になったら「受動飲酒」とでもいうのか。そんな珍説・奇説は耳にしません。酒も煙草も、無条件で勧められないのは、多かれ少なかれ、他人に迷惑をかけるから、それだけだとは言わないが、飲酒・喫煙が嫌われる大きな理由でしょうし、それには正当性があると、元重度の喫煙・飲酒派も認めます。ぼくは、藪医者の断定一件からほどなく、酒も止めたし、タバコはそれ以前から止めていました。医者に言われたからというのではなく、「もういいな」という気分が湧いてきて、即禁酒となった。禁断症状も出ない。脳の萎縮はどうなっているか、本人には分からない。「最近、物忘れがひどいね」とかみさんに言われたこともないから、あからさまな「記憶障害」は隠されているのだろうか。まあ、さまざまな病気の、間違いない「予備軍」ですよ、ぼくは。それでも「知らぬが仏」を地で行けばいいと、勝手に思っているのです。  

 「1日当たりの飲酒量は日本酒1合、ビール中瓶1本、ウイスキーのダブル1杯程度が適当でそれ以上飲むとがんや脳梗塞などを発症しやすくなるとも警鐘を鳴らす」と、まことに親切なことです。行政が「個人の嗜(たしな)み」に口を出すのは、他人は知らないが、ぼくは「大きなお世話」だと煩わしく感じています。余計なことを、そんな反発はいたる問題で、ぼくの中には生じている。この社会で蔓延(はびこ)るのは、善人面して口出しする「大きなお世話に小さな親切」です。まるで交通標語みたいで、ぼくは、それに対して耳を塞ぐのだ。

 それと同じ問題と考えているわけではないが、「同性婚」や「夫婦別姓」問題に「政治・行政」が口を出すのもどうかと思う。いい悪いというのではなく、「そうしたい・したくない」という判断は個々人のものではないか。アメリカの大統領選挙の報道を暇に飽かせて眺めていて、痛感するのは、個人の権利に類することに、政治権力が大きな声で口出しする、その「暴力性」に驚くばかりです。とりわけ「妊娠中絶(abortion)」を巡って、これまでにも、全米各地で理不尽な事態が生み出され、多くの母体・胎児のいのちが奪われている。「プロチョイス」と「プロライフ」という、人権・個人の権利の問題です。彼の国が野蛮(未開)だと見えてくるのは、同じ権利問題が、州によって判断が異なるということ。ある州は死刑廃止、別の州は死刑容認。これは、考えてみれば(考えてみなくても) 、まことに理不尽じゃないですか。文明と野蛮のはざまで揺れている、それがアメリカの実情ですし、この小島は「野蛮と未開」が鎬(しのぎ)を削っているようだと言えば、それは言いすぎだと非難されそう。

〇 プロ‐チョイス(pro-choice)《pro-は賛成の意》米国で、人工妊娠中絶の合法化を支持すること。産むか産まないかは女性の選択(チョイス)に任されるべきだとする主張。選択派。プロライト。
〇 プロ‐ライフ(pro-life)《pro-は賛成の意》米国で、人工妊娠中絶の合法化に反対すること。胎児の生命(ライフ)の尊重を主張する立場。生命派。(デジタル大辞泉) 

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「徒然に日乗」(554~560)

◯2024/11/03(日)終日自宅に。何もしないで、無為な時間を過ごす。普段以上に何もしないままで、一日を終わる。「文化の日」に漠たる感想を持つが、世の中は、それにも触れないままで「連休」を受け入れているよう。光熱費も、食料品も、ものみな騰がる「憂愁の秋」といったところか。政府があって政治がない国に住む・生きる哀しさ。(560)

◯2024/11/02(土)台風21号から変わった熱帯低気圧と前線の影響で、線状降水帯による大雨が長崎県にもたらされた。その影響・余波は関東地方にも及び、かなりの雨が降っている。幸いに、当地ではそれほどではなかったが、近県では短時間で大量の雨が降ったようだ。▶昨夕から、米国大統領選挙に出馬している候補者の「元共和党議員銃殺指令」発言で米国報道は持ちきり。元大統領は完全に精神の均衡を失している。早い段階から「狂気」に見舞われているとみていたが、ここにきて、歯止めが利かなくなった。昨日以来の報道を見ていて、共和もは民主党も含めて、つまりは国会議員の中から候補者としてこの人物は相応しくないから、「選挙中止」といったような動きが出てこないのは、不思議そのもの。アリゾナ州当局は「殺人罪」などの容疑で捜査を開始したという。真相は分からない。にもかかわらず、選挙戦は滞りなく続行中で、そのうえで、この候補者の「当選」を声高に叫ぶメディアがあるのだから、この国の病みの深さを知らされる思いがする。(559)

◯2024/11/01(金)昼前に買い物。いつもの食材と猫のトイレ用の砂など。まだまだ、たくさんの商品の値上がりが続いている。政府は「デフレからの脱却」などと能天気なことを言っているが、現実は物価高騰のインフレ時代に入っているのだ。ガソリン代は一向に下がる気配はないので、それをもとにして生み出されるさまざまな「商品」「物流」の値上げ傾向は終わらない。これまで四百円台で購入していたネコ砂(8㌔)が五百円になっている。天然ガスや石油の値上げは、ロシアのウクライナ侵攻によるといわれるが、その「侵略戦争」を停止させる政治的行動がどこにも見られないのはどうしたことか。また同じように、イスラエルとパレスチナの戦時状態はレバノンその他に飛び火し、いずれイランと一戦交えることになると危惧されている。そうなれば、今以上に世界的な危機が生み出される。にもかかわらず、それを終了させる機運も仲介者の存在も我々には感じられないのは、なぜか。(558)

◯2024/10/31(木)終日自宅に。秋日和の一日だった。本日は外作業中止。買い物にも出かけず、何かをするでもなく過ごした。▶「ファシズム」というものをずっと考えている。今日のアメリカにおけるファシズムの格好の解説になっている、ジェイソン・スタンリー(Jason Stanley)の「ファシズムはどこからやってくるか」(HOW FASCISM WORKS The Politics Of Us And Them.2020Pub.)を再読している。いずれ、この本に沿って、私見を書いてみたい。(557)

◯2024/10/30(水)朝から、昨夜来の雨が続いている。昼前に「猫缶」等の買い出し。帰ってきて気づいたのだが、値引き(5~10%)は昨日までだった。迂闊というか、もう少し経済感覚を磨かなければならぬと思う。▶H候補の最後の「演説」を聞く。一方の候補者の集会がまれにみる、記念すべき「差別促進」演説だったので、彼女のスピーチが一層まともに見える(聞こえる)。どこに限らず、とにかく「政治」というのは厄介至極なものだと痛感する。そんな具合にぼくには受け止められたが、接戦状態は変わらないという。「支持率調査」の限界が数値には露呈されているのだろうか。彼の国のこと、「支持率調査」においてすら不正が横行しているというのだ。嘘と捏造に塗り固められた砂上の楼閣の如し。(556)

◯2024/10/29(火)6時半、例によって「生ごみ」出し。曇り空から、微かに雨粒が落ちている。寒い日となり、結局は終日、小止みなく雨は続いた。▶米国大統領選の、一方の候補者(元大統領)の最終演説?ーを観る。ニューヨークのマジソンスクウェアガーデン(MSG)で行われた。候補者当人登場前の「前座」から聞くに堪えない差別発言が続く。まるで差別人間たちのオンパレード。アメリカ国民の精神がいかに深く傷(いた)んでいるか。民族(人種)差別 女性差別等、何万という民衆(支持者?)を前に、これだけの「悪態」がつけるというのも、この社会の「分断」が確実に進んでいる証明なのだろう。加えて、いわゆる新興富豪と称される人々が、挙ってこの候補の側に寄り集まるというのも、望ましい政権ができたら、さらに「富豪の度」が進むと踏んでいるのだ。まさに「国盗り物語」か。(555)

◯2024/10/28(月)朝八時半ころに、かみさんが免許更新のための講習等に出かけた。今回で最後の更新だと思う。八十で運転は止(や)めるなどと言っていたが、何のことはない。今では何歳で運転お仕舞などとは言わないで、しばらくは乗るのだろう。注意力などは著しく衰えているから、いつも走っている道路限定にと、当方は考えている。午後2時過ぎには帰ってきた。「無事終了したの?」と訊くと、「終わった。後日警察に行って免許証を受け取るだけ」とあっけらかんとしている。彼女専用の車(1600cc )があるが、車体の方々が傷だらけ。人身事故はないのが救い。「ガードレールにぶつける程度なら」と言っておいたから、それを長年実践しているのだろうか。▶(554)

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文化と文明の「衝突」は不可避か

【金口木舌】没文化 中国語に「没文化」という言い回しがある。「没」は「持っていない」の意。直訳すると「学問がない」「教養がない」となる。「そんなことも知らないのか」と突っ込む形で使い、小ばかにした意味合いを含む。日本語にはない表現だ▼「文化」の意味は「哲学・芸術・宗教などの精神的活動によって作り出され、生活を高める価値を生み出すもの」などと辞書にある。「没文化」を字面通り「文化がない」と捉えると別の意味が浮かぶ▼きょう「文化の日」は1946年11月3日の日本国憲法公布を記念して制定された。「国民の祝日に関する法律」は、その趣旨を「自由と平和を愛し、文化をすすめる」と定めている▼明治天皇の誕生日でもあるこの日を「明治節」と定めて、国に忠誠を誓った時代への反省を心にとめながら考える。今の日本は文化の日にふさわしいだろうか。今回の米軍と自衛隊の共同演習を見ても、憲法がうたう平和主義とは相いれない動きが国内に広がっている▼この祝日が希求する自由と平和、文化は守られているか。理念と現実の乖離(かいり)は大きい。「没文化」の三文字がふと頭をよぎる。(琉球新報・2024/11/03)

▣ 週の初めに愚考する(第四拾參)~ 本日は「文化の日」だといいます。文化とは何ぞや。少しだけ、「語」の詮索をしてみます。「文化」、この言葉の使われ始めはおそらく唐来(中国伝来)物として、奈良か平安の昔の輸入語でした。それが明治初期に西欧から来た、ハイカラ語、舶来物として「(第二次の)文化」がやってきました。余談ですけれど、ぼくの大好きな、大槻文彦さんの「大言海」(1932~37)には、「文化とは『西洋かぶれ』のことか」と出ていて、ぼくはいたく感心しました。彼は福沢や森有礼らと起こした「明六社」の会員でもあった。中国語の「文」を辞書的に解説すると「〔学芸・学問〕学问xuéwen,文学wénxué,艺术yìshù,非军事的fēijūnshì de.~文武両道をめざす|努力成为文武双全.」(日中辞典第3版)つまるところ、「学問」「文学「美術(アート)」「非軍事的なこと」などを総称して「文」とする。その「文(ぶん)」と対称的なのが「武(ぶ)」です。「文人」と「武人」と並べれば、その対称の内容は理解できるでしょう。

 この「文・武」とは、元来は中国古来の伝説的な二人の君主の名前に由来する。文王と武王。その「文王」とは「紀元前一二世紀頃、中国周王朝を創建した王。姓名は姫昌(きしょう)。号は西伯。殷の紂王(ちゅうおう)の暴政下にあって、陝西地方で治績をあげ、やがて殷に代わる勢力となった。古代の理想的な聖人君主の典型とされる。生没年未詳」(精選版日本国語大辞典) 文と並び称されている「武王」は「古代中国,周(西周)の建国者。名は姫発(きはつ)。文王の子。前1050年ころ太公望の力をかりて殷(いん)を滅ぼし,鎬京(こうけい)(後の長安)に都して天下を統一。周公を魯に,太公望を斉に,召公を燕に封じ,封建制度を始め,周朝の基礎を置いた」(百科事典マイペディア)と説かれています。

 とまあ、高校時代の「漢文入門」の授業のような講釈になりました。要するに、分かりやすく言うなら、中国の歴史における「聖人(君子)」に列する「親子」だった「文王」と「武王」の治績を語る際に用いられた姓名が、そのまま「文化(文王の政治手法で)」、「武化(武王の政治手段で)」統治した、という「政治支・「統治」の典型となったものとされてきたのです。「文」というのは「非軍事的な手段」であり、それを具体化するなら「文学・学問」(つまりは「文化」です)を駆使して政治を行ったのに対して、「武」は「武力」を行使して「殷」を滅ぼし、「周」の基礎を築いた、いわば「武断政治」の元祖とされたのでした。「文武両道」は運動と勉強の両立などという、くだらない「価値認識」に貶めたのは、この社会の通例の悪癖だったでしょう。元は「聖人政治」の二つの側面(方法)を表現したものでした。

 それはともかく、中国由来の「文化」論があり、さらに明治以降盛んに取り入れられたのが泰西(西洋)の「文化」観の輸入でした。西洋舶来語は、「文化」をまず、「耕作(荒れ地を耕し、収穫を求める行為)」、つまりは<agri + culture>と捉えられ、やがてそれは「修養」「教養」に拡大されてゆくことになります。荒れた土地(野原・野山)に働きかけ、そこに花や実を生(な)らせる人間の行為(agriculture)を指したのです。「農」の字訓は「たがやす・つとめる・あつい」です。古くは「農は耕す人なり」(「設文」)とあります。平安時代末の辞書である「類聚名義抄(るいじゅうみょうぎしょう)」に「農 ナリハヒ」とあり、それをそのまま「農業」としたのかもしれない。この辞書の原典はもちろん中国文献です。農は「濃(こい・あつい)」に通じます。

 「たがやす」のはもちろん「荒れ地」だったでしょうから、それがやがて「田」や「畑」になって、文字通り「農業」「農耕」となり「農は耕す人」「~を耕すこと」として定着した。中国も西洋も、根っこでは同じ人間の営為を指して、同じ語彙を用いていたというのは、ぼくにはとても興味があります。。生まれてくる人間の乳幼児を「荒れ野」と見立て、それを耕すのが「教育」「教養」「修養」「修身」という作用に重なる。(こんなことを駄弁りだすと、終わりそうにないので、ここで中断)

 ようやくにして、「没文化(méi wénhuà)」に至りました。同じような意味合いの言葉に「没学問(méi xuéwen)」があります、どちらも「無教養」「無智」ということのようです。コラム氏は「小ばかにした意味合いを含む。日本語にはない表現だ」とされていますけれど、どうでしょうか。「没~」とは、いくらでも使われてきた表現ではないでしょうか。「没文化」はあまり見ない用法ですが、それに似たものはいくらもあります。一例ですが「没風流漢」はどうか。無風流な男ということです。「無学問」「無教養」など、類似表現はいくらもある。

 別の視点で言うと、「文化」に対して「文明」が置かれそうです。両者は対立したものではなく、生活様式の変化・進展の度合いを示したものです。その「文明」に相対立するものが「野蛮」だったり「未開」だったりします。

 「文化の日」と戦後に定められた「背景」は何か。。その前は「明治節」「天長節」というもので、明治天皇の誕生日だったという。天皇制国家の軌跡がこの「文化」という語には刻まれてきました。今日「文化の日」は「旗日」とされてはいますが、その旗日は「祝日」として、皇室の行事に結びつけられていた。細かいことには触れない。「今の日本は文化の日にふさわしいだろうか。今回の米軍と自衛隊の共同演習を見ても、憲法がうたう平和主義とは相いれない動きが国内に広がっている」と書かれるコラム氏の指摘に、ぼくは無条件に首肯します。

 この11月3日を祝うということの背景はいろいろあります。でも、その根本には、単に教養や学問芸術を尊重しましょうというものではなく、どうしても「天皇の政」に対する尊崇の念を忘れないようにという、下心がある・あったことは確かでしょう。天皇親政というのは「君主制」を指します。この大和の国は「天皇の政」をもって続いてきたのだから、この後もなお、その麗しき伝統、順風美俗を引き継ぎ、その弥栄(いやさか)を祈念しようではないか、そんな「祝日」なのだとも、いえばいえそうです。だから「女系」「女性」の天皇などもってのほかという「文化史観」を持つ方々もおられる。

〇 文化の日(ぶんかのひ)= 11月3日。「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことが趣旨の国民の祝日。1948年(昭和23)制定。46年のこの日公布された新憲法の精神に基づき、平和と文化が強調されているが、この日を祝日としたのは、47年まで四大節の一つの明治節(明治天皇の誕生日)だったためもある。皇居で文化勲章の授章式があり、芸術祭がこの日を中心に開催される。晴天の日が多い気象上の特異日としても有名。(日本大百科全書ニッポニカ)

 「自由と平和」を強調している「憲法」を何が何でも「改正」しようという政治勢力(改憲派)は衰えたとはいえ、なお余命を保っています。わざわざ、「憲法制定日」に重ねて「文化の日」を設けた、当時の事情は諒とした上で、その後の国の足取りはどうだったでしょう。「日米安保」体制の強化拡充の一途というばかりの変遷だったのではなかったか。政治の要諦は「三権分立」の下における「民主主義の達成」にあるというのは、名ばかりであって(有名無実)、その実態は「国会軽視」「民意軽視」に終始してきたともいえます。つまるところは「憲法蹂躙」、それがここにきて、隠しようのないまでに明らかにされています。

 「文化の日」とは「休日」の一つであるのは事実として、その受け止められ方は、ほとんど「制定の趣意」を、官民挙げて忘却し、等閑に付しているというほかありません。そんなことではいけないというのではない。その程度の認識を誰も彼もが、まるで気にしないところに、いささかの危惧の念が起こってくる、これはぼくだけの気分です。忘れたっていいじゃないか、そんなことと思うけれど、それが徹底していけば、どうなるか。ぼくにはよくわからない。

 「この祝日が希求する自由と平和、文化は守られているか。理念と現実の乖離(かいり)は大きい。『没文化』の三文字がふと頭をよぎる」(金口木舌)「自由と平和」「文化」というのは言葉ではなく、その語が著す実態が問題になります。言語は、ある事象や対象物に対する「名辞(term)」でしかないが、それだけで「文化の日」を理解することも実感することもできないのも事実です。ぼくは、この「文化の日」をもって(だけでありませんが)、文化と野生、文明と野蛮ということをしきりに考えています。まるで西洋の高名な文化人類学者のような、思考の坩堝(るつぼ)に嵌(はま)っている。「文化」という名の「野蛮状態」、それがぼくたちの住む社会の現実ではないのかと。

 小は「闇バイト」から、大は世界的富豪たちの「国盗り物語」まで、時代・社会は、「文明謳歌」の時代、一直線に「野蛮」「未開」状態に突き進んでいるのではないでしょうか。「背広を着た野蛮人」、「ドレスを羽織った未開人」たちの世が来ているように思われます。「野蛮人」といい「未開人」というのは、ぼくたちの先祖を指す。その後裔であるぼくたちが先祖がえりをすることは悪くはないが、背広やドレスなどというのは、ぼくたちの先祖には無用のものでした。つまり、余計な知恵や教養、すなわち「文化」がある分だけ、他者との関係は複雑になり、残酷になることをぼくは恐れている。金に飽かせ、金に塗(まみ)れても、「自由と平和」は手に入らないし、まして「文化」は破損されることになります。それはまるで、「AIが制御するミサイル」戦争(野蛮と文明の闘い)のようです。ここまでくると、野蛮も文化も区別がつかなくなる。

 蛇足 大学入学後の最初の授業が「文化人類学」でした。そこに出てきた「文化とは生活様式(Ways of Life)である」という著名な研究者の解説に、後々まで付きまとわれました。例えば「飲料水」を雨水から得るか、山の清流で求めるか、それとも大河の一滴、二滴を用に供するか。それぞれが「文化=生活様式」です。そこには優劣はない。違いがあるだけ。生活のあり方は、その自然・環境に左右されるからです。「山の生活(文化)」「平野の生活(文化)」「海辺の生活(文化)」、それぞれが生活(独自の文化)を有している。こう考えていくと、同じ自然・環境にあっても、それを少しずつ改良し、「生活」をよりよくしていこうという働きかけが生まれるのは自然の成り行きで、、それこそが「文化(culture)」というもの本意だったでしょう。

 そこに、ある種の「道具」「機械」が持ち込まれると、真っすぐに、その「手段(道具)」は改良を重ねて進んでいきます。ここに「便利」「効率」という価値が求められるし、さらにもっと便利にと追及される。そのような生活世界を支配するのが「文明(civilization)」です。文明は(科学技術による)機械に刺激され、左右されたもので、各環境に存在する独自性というより共通するもの(一般性)を追及する。物を運んだり、人間が乗ったりする「乗り物」を考えれば、それはよく分かるでしょう。「歩く」ことから初めて、移動手段は留まるところを知らないように開発されてきました(develop)。自然からどれだけ離れるか、それが文化と文明の生み出す差となるでしょう。

 今は、個々の「文化」が辱められて、世界大の「文明」がその領分を広げる時代です。人間という小さな存在が不安や不信・危機感を抱くのは、自然(文化)からの遊離段階(文明化)に比例しているからなのかもしれません。

 この時に、とても大事だとぼくが思うのは、「文化(手作業)」の中の文明(機械)性、「文明(機械化)」の中の文化性(手作り)をいつでも失わないことです。「文明」が進める「文化」への浸食・侵襲は「人間の精神」を滅ぼしていくことにつながるでしょう。「狭いながらも楽しい我が家(文化)」から連れ出されて「都会の雑踏(文明)」の巷に紛れるのは、とてもつらいことです。土・土壌(soil」を失わないこと、土から足を離さないこと。

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過激が過激を呼び、悲劇に終わる

トランプ氏、「タカ派」チェイニー氏は銃撃されるべきと発言 ハリス氏「大統領に不適格」(CNN) 米共和党の大統領候補トランプ前大統領は自身に批判的な共和党のリズ・チェイニー元下院議員について、「戦争好きのタカ派」と評し、銃撃されるべきだとの認識を示した。
トランプ氏は10月31日、アリゾナ州グレンデールでの選挙イベントにFOXニュースの元司会者タッカー・カールソン氏と登壇した際、チェイニー氏について「彼女は戦争好きの過激なタカ派だ。彼女にライフルを持たせてあそこに立たせ、9本の銃で銃撃してみよう」と発言。「自分の顔に銃が向けられた時に彼女がどう思うか、見てみようじゃないか」と述べた。
チェイニー氏はかつて下院共和党のナンバー3だった人物。トランプ氏はチェイニー氏に中傷の言葉も浴びせ、「大ばかもの」「おろかな人間」「まぬけ」と酷評した。
チェイニー氏は銃口を向けられるべきだと示唆するトランプ氏の発言は、政敵に対する暴力的な言葉遣いが一段と過激化したことを示す。大統領選を数日後に控え、2020年選挙での敗北を認めていないトランプ氏は早くも国民の信頼感を損なう動きに出ている。数週間前には、「内なる敵」と評する政敵に軍事行動を取ることも示唆した。
チェイニー氏はおそらく、トランプ氏による20年選挙結果転覆の試みや、21年1月6日に起きた連邦議会議事堂襲撃事件へのトランプ氏の関与を最も声高に批判している共和党関係者だ。議事堂襲撃事件を調査する下院特別委員会で主導的な役割を果たした後、22年中間選挙の予備選でトランプ氏の支持を受けた対抗馬に敗れ、ワイオミング州の下院議席を追われた。
チェイニー氏は夜になってトランプ氏の発言に反応。「これは独裁者が自由な国を破壊するやり方だ」と述べた。
さらにX(旧ツイッター)で「独裁者は抗議の声を上げる者に死の脅迫を与える。狭量で執念深く、冷酷で不安定な独裁者志望の男に我々の国や自由を委ねるわけにはいかない」と表明した。
チェイニー氏はこのところ民主党の大統領候補ハリス副大統領と一緒に遊説を行っており、政党間の違いを脇に置いてハリス氏を支持し、民主主義への脅威となる候補を拒絶するよう共和党員に訴えている。
ハリス氏は1日、同行記者団の取材に、トランプ氏の発言後にチェイニー氏と会話していないことを認めつつも、こうした言葉を使う人物は「明らかに大統領に失格、不適格だ」と指摘した。(CNN.c.jp・2024/11/02)(https://www.cnn.co.jp/usa/35225656.html)(https://www.cnn.co.jp/usa/35225656.html

 昨夕、このニュースが飛び込んできた。「慄然とした」というべきか。何ということか、ここまで来ていたのか、そんな驚きと悲しみが入り混じって、ぼくを襲った。他者への際限のない、節度も何もない悪態(中傷)(侮辱)を垂れ流すことが「選挙運動」だった、元大統領。ついに、ここまで来ていたのかという、共和党関係者への言い知れぬ怒りが、何人かの顔を思い浮かべながら、ぼくの内部から起こってきました。世界のトップに位置(君臨)する「富豪」「成金」たちが狂気の元大統領の下に馳せ参じ、金に飽かせて権力に取り入る、いまなおこんな恥ずかしいことが、あろうことか、アメリカで生じていた。新聞をはじめとするマスコミ・メディアも、薄汚れ、狂ってしまった、箍(たが)の外れた「権力の幻影」に牙も抜かれ、肝も潰されてしまった。

 この三か月、それこそ、暇に飽かせて米国大統領選挙報道に釘付けになっている。理由は単純明快。この大国は、劣島の「宗主国」でもあるからだ。もう何年も前にもなりますが、凶弾に斃れた元首相は、なにをおいても異常心理にとらわれている「大統領」に、この小島のすべてをあずけていたことが判明した時、ぼくは、涙が流れてきた。自分でも自制できないほどに泣けてきた。「国を売る」ということが、このような時代、この社会で行われていた。その「売国奴(traitor)」、元首相を多くの国民はこぞって支持してきた。もちろんメディアは大きな提灯や金太鼓をぶら下げていたからだった。自分の頭で判断しない・できない人間が集団内に増殖すると、いとも簡単に権力はすべてを支配する。この「売国の徒」に「勲一等」だという、これが国のすること。

 元大統領の言動に対して、アリゾナの捜査当局は「殺人罪」だかの嫌疑で捜査を開始したと報道されている。はっきり言って、この段階で「選挙活動」は中止だろう。法的に可能かどうか、ぼくにはよくわかりませんが、元大統領の息がかかった最高裁判事たちが「判断」を下すべきだろう。その前段階で、アリゾナの州裁判所の出番があるのかもしれない。いずれにしても、選挙戦は、「没収試合」で…、その先はアメリカ自身が打開するべき事柄です。もしそれができなかったら、この「大国」はファシズムに覆われた「独裁国家」として完了したということだと思う。

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