人は消え明治は近くなりにけり

【新潟日報】「少しずつ運転手も戻ってますけどね。まだ動いてない車が結構ありますよ」。新潟市内で乗車したタクシーの運転手さんが、業界の話をしてくれた。新型ウイルス禍が尾を引いてドライバーは激減。稼ぎ時の年末を迎えても、稼働できずに「寝ている」車両が少なくないという▼バス会社しかり。医療介護の分野しかり。人材不足がニュースにならない日はない。本紙は先日、酪農家が全国で1万戸を割り、県内でも15年間で6割減ったと報じた。飼料高騰による経営難は切実で、さらに酪農家の半数が離農を考えているというから深刻だ▼教育現場からもショッキングな実態が伝わる。県内小中学校の教員欠員が、過去最多の70人に上っているという。児童生徒の減少により学校の統廃合が相次ぐが、その前に教員の確保が難問として横たわる▼人口の縮小が続く2040年には、暮らしの維持に必要なサービス分野で1100万人もの労働者が不足すると、民間シンクタンクが予測を公表したのは昨年のこと。未来図と今が徐々に重なり合っていく▼うろたえるばかりでは仕方ない。暮らしを維持するためにありったけの知恵を働かせたいけれど、腹をくくる算段も要る。迎える社会を思いきり前向きに夢想してみる▼足りないものを補い合い、協力し合える機運が高まるなら悪くない。一方で、他人に依存しすぎず、自分で考えて対処する力が研ぎ澄まされるかもしれない。障害があっても活躍できる環境が、もっともっと整えばいい。(新潟日報・2024/12/23)

 若いころから、何によらず「データ」を眺めるのが好きだった。その多くは単なる数字にすぎないけれど、いろいろな景色というか暗喩が見えてくる気がしたからです。必要に迫られて、「18歳人口」の推移に興味を持ち続けていました。いわゆる高卒(大学進学)人口の増減に、この国・社会の浮沈がかかっていると思われていたからでした。

 ぼくが勤め人になったのは、1970年初め、今から半世紀前のことでした。73年に子どもが生まれた年の「出生数」は200万人超でした。今から思うと、変な言い分ですけれど、子どもたちには気の毒なことをしたという気がしないでもありません。昨年の出生数は75万人でしたから、半世紀前に比べて、3分の1以下です。2008年がこの国の総人口のピークでした。その後、いろいろな経緯をたどりながら、人口減が続きます。近年では年間80万人以上の人口(自然)減が続いています。

 いつだったか、国連が百年後の日本の人口が7000万人を割る・切るという数値を出したことがあります。30年ほど前だったでしょうか。ぼくは大変な衝撃を受けました。一億人を超えるのが常態であるとして「社会インフラ」をはじめとする制度や組織が整えられてきたのですから、一気に減少とはいかないでしょうが、徐々に人口減が社会の各方面に大きな打撃を与える、それに対処するにはどうするか、そんな埒もないことをぼくは想像し、愚考していたのでした。そのころ、ぼくが勤めていた学校の受験者数が16万人超。当時の国内の受験者数が64万人程だったから、4人に1人が勤め先の学校を受験する計算でした。狂っていましたね。当時の経営責任者に「十年先、二十年先を考えると、拡大(収容学生数増大)ではなく、むしろその逆のことを考える必要がある」と進言して、一笑に付されました。当時の受験料が3万円だったと記憶しますから、それだけで50億円近くの(使い道に制限のない)収入、経営者の笑みは絶えなかったでしょう。その人は「学生は勉強などしなくてもいい。大学はディズニーランドなのだ」と嘯(うそぶ)いていた。ぼくは彼を軽蔑したものでした。

 現在の「大学」が、いかなる状況にあるか、ほとんど関心を持たなくなったので、詳しくは知りません。しかし、日常的に生じているさまざまな出来事のほとんどに「大学卒」が絡んでいることを思えば、この国や社会は崩壊の一途をたどっていると感じざるを得ないのです。「大学教育」の功罪が見て取れる気がする。ヘッダーに掲げた図(数値)を見ていると、たくさんの埒もないことが思われてきます。多くの識者の想定以上に「人口減」は急激であるということ(出生数の減少と自然死の増加による)、必要に応じて、国内の人口減を補うための「外国籍」労働者の増大が、いくつかの理由で進まない等々、このまま人口減が推移していくと、二十数年後には一億人を割り込み、さらに七十年後には、あるいは明治時代の人口規模に戻るかもしれないと推定されている。このような急激な人口減というのは、各地、個々の行政単位ではあったにしても、おそらく国家としては(戦争の結果を除いては)、初めての経験でしょう。

 まるで、急峻な坂道を、汗水たらして駆け上って、頂上に着いたと思った塗炭に、一気に頂上から駆け降りる羽目に立ち至っている、まるで嵐に襲われた登山者の如くです。中村草田男さん(1901~1983)は「降る雪や明治は遠くなりにけり」と詠まれた。時に昭和六年一月、虚子の推奨でこの句が「ホトトギス」に掲載されたのが三月。無謀な満州(侵略)事変が始まろうとしていた時代です。その時から、この小さな島国は、背伸びに背伸びを重ねて、分不相応な「振る舞い」「傍若無人」ぶりを重ね、ついには島国そのものをご破算にした。ぼくは「国家」に対して、物心がついてからか、いかなる幻想も抱いてこなかったと思う。これは洒落にもならないが、「国立」とか「帝立」という表現は好まなかった。今はなくなったけれど、その昔に「帝立博物館」という看板がかかっていた場所だというだけで、そこには足が向かなかったほど。ぼくの友人には多くの「国立大卒」がいました。そのかなりの人たちは「旧帝国大卒」を誇りにし、頼みにもしていた風儀を感じるだけで、ぼくは心を許す気が萎えてしまったのでした。

 昨日の新潟日報のコラム「日報抄」は、いろいろと示唆に富むコラムだったと、ぼくは読んだ。「(急激な人口減少で)うろたえるばかりでは仕方ない。暮らしを維持するためにありったけの知恵を働かせたいけれど、腹をくくる算段も要る。迎える社会を思いきり前向きに夢想してみる」と、その複雑な心中を書かれていました。坂道を下る人に、「もう一度昇りましょうよ」といっても、下りる覚悟を決めた人には酷に過ぎる、嫌な話で、下りるところまで下りるだけ。そんな心持がするのではないでしょうか。少なくとも五十年先、八十年先に、この社会は、人口規模だけでも近代の入り口となった「明治時代」に里帰りするのではないか。致し方ないというか、これは一つの国家の運命(終活)のようなもので、どんなに政治力を駆使しても「止まりかけている心臓」を再生ずることはできない相談だと言えます。百五十年の「往還」「上り下り」を、ぼくはひしひしと感じている。滅びるために栄えようとするのは、後の「別れ」を約束するために「出会」に狂喜する「恋人同士」のようなものが、そこに萌している、一抹のもの悲しさを禁じえないのです。草田男氏の「顰(ひそみ)」に倣って。

 「(国破れて、山河なし)降る雪も明治は膝下に横たわり」

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日南の限りを行て、陽の短きの…

 「冬至(winter solstice)」(の入り)も過ぎました(12月21日~1月4日)。例の如く「『暦便覧』では「日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也」と説く。その意味するところは、これ以降は日一日と、「昼の時間」が長くなるというわけで、人々の意識もまた、その長くなる昼の時間に連れて「春遠からじ」をゆっくりと感じ取るのではないでしょうか。車で長いトンネルを走っているとき、ぼくたちは無意識にではあっても、入り口からの半分と出口への半分では、距離は同じでも車の走る速さが異なる気がする。明るさが遠のくのと近づくのとの違いでしょうか。(前方に「明かり・光」を見たいものですね)

 よく言う、コップに半分の水、です。「まだ半分ある」のと、「もう半分しかない」という時の心持に似ていませんか。あるいは「楽観(optimism)」と「悲観(pessimistic)」と言い換えてもいいでしょう。ぼくは自分が気分に動かされやすい人間(天気屋・気分屋)であるから、なおさら、身に堪(こた)えて学んだといってもいいと思う。二十歳過ぎのこと、ある思想家が「悲観主義は気分の問題で、楽観主義は意志の働きによる」と言っていたのを読んだとき、大げさに言うなら「天啓」を享けたような錯覚を覚えた。以来、ぼくは「意志の人」になったと言いたいけれど、残念ながら、なかなかそうはいかなかった。相も変わらず、「天気屋」だった。天気(陽気)に、ぼくの気分は散々動かされてきた。

 それでも、人間の犯す過ちの九割は「不注意(carelessness )」からだと気が付いたのは、幸いだった。車を運転中にほかのことに気を取られて、赤信号を見落としたことから、大きな事故を生んだなどというのは、九分九厘は「不注意」からだったでしょう。この「不注意」は急いで計算問題を解いて間違えるときの「不注意」と同じものです。計算間違いは消しゴムで消せるけれど、交通事故はそうはいかない。ぼくは道徳の眼目もまた「注意深くなること」「自分の軽率さに気を付けること」だと断言してきました。注意をする対象(相手)は、他人ではなく、自分です。この直感を自得することこそが「教育」の根っこにある「鑢(やすり)」みたいなもので、自らの力で磨くことでしか、それ(注意力)を輝かせることはできない。他人から「注意しなさい」と言われる人間ほど、より「不注意」になると、ぼくは気が付いていました。警告を発してくれる人が常に側にいなければ、いつでも暴走するのが人間の慢心であり、軽率なところです。もっと自分に近づきなさいと、ぼくは自分に言い聞かせている。

 八十年生きてきて、数え切れない「教師」「先生」と呼ばれる人に出会ってきましたが、「~しなさい」「~するな」と注意(忠告)してくれる人はいたけれど、「自分で、自分に注意しなさい」と教えてくれた人はほとんどいなかったように思う。右へ行け、立て、座れなどと、いつだって学校では子どもたちに命令しています。だから子どもたちも、「命令」されることに馴れても、「自分に注意しない」人間にさせられているのに気づかない・注意しない。「賢(かしこ)い」というのは「注意深い」ということ。思慮深いというのは「自他に気遣いできる」ということでしょう。思い遣りとか、思い遣るというのは「注意深い人」ができることであって、それは「計算問題」を高い評価を得るためにではなく、自らの不注意を治すためにしてきた人の、それによって得られたであろう姿勢・態度だと、ぼくは言いたいですね。算数に限りませんけれど、多くの試験の効用は「不注意」「飽きっぽさ」「いじわる」「わがまま」などという、自他に対する「無礼」を矯(た)めるための無償の行為ですね。自分にも他人にも「礼儀ただしい」、それが「教養」というものでしょう。

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「徒然に日乗」(603~609)

〇2024/12/22(日)珍しく、終日自宅に。一日中、パソコンの前に座って、ネット番組を見たり、聴いたりして暇をつぶしている。▶シリア情勢、ウクラナイ侵略戦争のその後について、実に深刻な事態が続いていることに胸を痛めている。つくづく、「権力者」という「小心もの」の正体を見せつけられているようで泣きたくなるほどだ。他人を支配し、贅沢の限りを尽くす。ただ、それだけのために「権力奪取に取りつかれる」というのは、ぼくには信じられなばかりの愚かさである。何が悲しくて、他人を支配し、他国を侵略するのだろうか。それには必ず「殺戮」が伴う。そのような蛮行が自国の国民の幸福の達成にいかなる貢献をしているのだろうか。他人より優れていたい、他人の上に立ちたい、他者を支配したいという、つまらない「自己顕示」の欲望が、どこまで人間を愚か者にすることか、歴史のほぼすべてに、この「愚かさ」が大きな役割を果たしてきたことがわかるのだ。(609)

〇2024/12/21(土)昼前に買い物で茂原まで。ほぼ毎日出かけている。必要なものを買って即座に帰宅する。本日は、久しく乗らない自分用の車を運転。初登録以来23年目か。走行距離は十万超㌔。この数年間はほとんど乗らない。はっきり言って、無駄そのものだ。普段はかみさん用の小型車を利用(1600㏄)。こちらは2500㏄、しかも古い車だから燃費は極めて悪く、リッター当たり7.4キロ。それでも、この地に引っ越す際にはずいぶんと重い荷物(主として書籍)を運ぶのに大変に役立った。書物を満杯に積んでは何十度となく、佐倉市と長柄町をこの車で運んだ。めったに乗らないにしては、調子は悪くはない。前回の車検の際に、新しいバッテリーに交換したので、バッテリー上がりだけは防ぎたいもの。少しずつ乗り続けていきたい。ただし、ここにきて、いきなりガソリンが1㍑で5円から7円も値上がりしている。ハイオクはなんと1㍑180円越えだ。おいそれとは乗れないほどに高くなった。このオイル高はいつまで続くのだろうか(608)

〇2024/12/20(金)昼前に買い物で茂原まで。連日の買い出しだが、その分、かみさんが少し出るのを控えているのは、寒さのためかもしれない。インフルエンザが流行しているし、コロナ流行も収まってはいないので、できるだけ、外出は控える方がいいと思うし、無駄な体力消耗は避けたいところ。▶暮れも残り十日ほどになったが、相変わらず、奇怪な出来事や凄惨は事件・事故が続いている。経済犯罪がこのところ多く報道されているのは、理由があることなのか、それとも偶然の重なりなのか。▶いつも言うことだが、この国は多方面で縮小するばかりの運命にあるようだ。経済復興の再来はあり得ないどころか、かえって経済の縮小が止まらないようにも見える。日本企業の活動の場面がほとんど見られないのは、いろんなところに少子化・高齢化に伴う、人口減少の急激な進行が影響しているに違いない。昨年の出生数は70万という。戦後の最高値の3分1以下だ。人口が再び増加することは、この先容易に起こるとは考えられない。(607)

〇2024/12/19(木)早朝5時ころか、雨にしては静かだなと思っていたら、雪が降り出していた。積もるほどでもなかったが、確実に寒さを届ける雪だった。やがて、日差しも出てきて、一安心。猫たちの中には風邪気味の子もいて、気を付けている。▶午後になってから、買い物に。このところ、昼前後は意外に店内が混んでいるので、それを避けたのだ。▶午後、ネットを見ていたら、いつも見るユーチューブ番組が特別放送というものをやっていた。ジャニーズの裁判がラスベガスで行われることになり、少年時代に現地で被害に遭った日本人男性二人が、賠償金(日本円で460億円という金額)を求めて提訴したという。一人当てで230億円。すでに日本で賠償金の支払い済みの生被害者は約500人超で、訴え出た人はその倍はいたという。保証額はアメリカの場合とは比較にならないもので、およそ平均でも一千万円はいかないだろうといわれている。今回の提訴で、性被害の補償に関してまったく別の展開が始まった感がする。この先の展開はどうなるのか、ジャニーズのタレントたちの活動にまで大きな影響を及ぼしかねないと思われるのだ。(606)

〇2024/12/18(水)午前6時半、「ビン・カン」回収のために集積所まで持参。室外で、久しぶりに家の外から「日の出」を見た。海岸線から、長柄町上野の林の上(自宅からは南東方向)に「太陽」が顔を出したのは、午前7時直前だった。九十九里海岸線状に昇るのは、おそらく6時40分過ぎころか。十数分間、じっと佇んで「日の出」を見ていた。▶それなりに寒い一日だったようだ。昼前に買い物。緑ヶ丘郵便局へ。郵便料金の値上げがあったので、古い葉書を新しいものに交換。▶夜の八時過ぎに、韓国ジャーナリストによる「韓国通信」で、今回の「非常戒厳」宣布問題についてのネット番組を見た。その内容は多岐にわたるが、要約すれば、初めから徹底的に「無理筋」の大統領の一人芝居だったといえようか。光州事件(1980年)が今回の「大統領の一人反乱」を明らかにしてくれたようにも思われた。韓国民衆の政治行動の健全性を見せられたと思う。大統領の罷免手続きは紆余曲折を経ながら、最終段階まで進むだろうと予想している。(605)

〇2024/12/17(火)午前中に灯油買い出し。いつも18㍑を2缶分(36㍑)。1962×2=3924円。今シーズンはどれくらい使うか。帰宅後、続いて土気まで猫缶を買い出しに。ほぼ一週間ごとに、かなりの数量を買う。それとは別の店で、「ドライフード」なども、定期的に求めている。▶明日は「ビン・カン」の回収日。その準備をしておく。寒くなったこともあり、天然水の消費量も増えているようなので、かなりのペットボトルの回収になる。明朝早くに回収用の袋に入れて出す。▶韓国大統領の弾劾問題が、すんなりと進む気配が見えてこない。辞職というか、職務停止まで行くのだろうが、憲法裁の裁判官の構成に問題がありそうで、まるで米国大統領の「起訴取り消し」のような顛末にならなければいいが。犯罪事実が明らかであり、それに対して判断が下されることになっているのに「免訴」という裏技が出るというのは「法治国」としてどうなのかという疑問はアメリカの場合には残ると、ぼくは考えている。(604)

〇2024/12/16(月)お昼前に、かみさんが新しい免許証を受け取りに茂原警察まで行くというので、乗せていく。免許更新などのように、自分にとって大事なことは忘れないんだなと、感心する。帰りに買い物。二人で出かけるのは久しぶり。好天気だったし、拙宅前の家では庭掃除の人たちが来ていたし、家の持ち主もおられたので、家を空けても大丈夫だと小一時間ほどの外出だった。(603)

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万事に「虚礼廃止」が肝要ですね

⦿ 週初に愚考する(五拾)~ 数日前に近所の郵便局に出かけた。郵便料金が改訂になったので、返信を認(したた)めた古い葉書には不足分を切手で払い、四十枚ほどの古いものを新しい葉書と交換してもらうためだった。葉書一枚が22円の値上げだという。しばしば利用する郵便局だったが、すっかり人員が変わっていた。おそらく店舗の代表者(昔なら局長か)は女性だった。局内に客は三、四人くらいしかいなかったが、仕事の段取りが悪いのに驚くばかり。「交換に間違いがあってはいけませんから」とか「混雑していますので」などと、あらぬことを言いながらテキパキとはいかないのだ。以前から要領が悪いのが目に付いていたが、いよいよ「焼きが回ったか」といいたくなるような鈍(のろ)さだった。いえば「弁解ばかり」で、まるで当方は「カスハラ」爺さん扱いだった。「郵政民営化」は公金(郵便保険・郵便貯金など)を、誰かが好き放題に使えるようにしたばかりで、第一、局内に「アフラック保険」を販売していること自体が、民営化の象徴だったと言えよう。郵便局ははやらない「コンビニ(万屋・なんでもや)」になっている。まずは「店員教育」をしっかりやってほしいね。

 本当は利用したくないのだが、長く専売(買)公社だったから、今なお「専売」時代の営業態度臭・醜(「親方日の丸」「横柄」「慇懃」)が抜けていないのだ。落日を迎えても気が付かない面々が取り仕切っているのだから始末に悪い。「年賀状」に関しては、どこかで触れました。かなり前から、ぼくは「年賀状」は出していないし、第一、年頭の「虚礼」は性分に合わないので、何十年も前に止めていました。新春の挨拶だからと、ぼくは「立春の日」直前に出すことにしている。一カ月以上も「挨拶」がないのは怪しからんと思われる向きもあったか、年賀状の枚数はかなり減りました。数の多少は問題外で、要は「虚礼」の部分を可能な限り減らしたい(なくしたい)、その一念での愚行だった。年賀状を書くという「強迫観念」から、すっかり解放されている。「春立つや 新年ふるき 米五升」と詠むのは芭蕉さんでした。

【地軸】年賀状 先日、社説原稿で「メリハリの利いた予算」と書いたところ点検した上役から「漢字があるため平仮名でめりはり」と教えられた。手元の記者ハンドブックを見直すと「減(め)り張り」との表記。合点がいった。
 この字を当てれば、確かに分かりやすい。語感や強調の意図から片仮名にしたい気持ちも残るが。広辞苑では、緩むことと張ること。そして「特に邦楽で音の抑揚をいう」と説明される。さらなる由来がありそうだ。
 語源の辞典などを眺めると、めりはりは「めりかり」が転じた言葉という。減りは低い音。その一方「上(か)り」は高い音。尺八といった管楽器の伝統音楽で使われている。邦楽と聞いて、そろそろ流れ始めるクリスマスソングのような曲を想像したものの、趣が異なる。
 何かと気ぜわしい中、もうそんな時季か。霜月を迎え、年賀はがきが発売された。ことしから85円に値上げ。発行数は前年に比べて4分の1少ない10億7千万枚に減った。めりはりをつける企業や個人が多いのだろう。
 数年来「今回で最後」との一筆が増えた。心さみしい思いは募るが、事情もさまざま。やりとりが続く先には、早めの準備に取りかかりたい。
 机を整理していたら、コチョウラン柄のはがきが数十枚も出てきた。喪中の年に使い切らないまま、失念したらしい。必要とする人にお譲りした。フリマアプリのメルカリを通して、少しだけお安く。物価高。家計にも、めりはりを。(愛媛新聞・2024/11/06】

 生来の筆不精だったから、例年年賀状を書くのは苦痛でした。だから、これももう何十年も前から、年齢の上下に無関係に、年頭に戴いた方にのみ「返信(返礼)」を、それも二月立春を期して出していたのです。文字通り「春立ちぬ」で、何か問題がありますかと当方は勝手に思うばかりで、相手の立場からすれば、何とも無分別、無礼者め、だったと思う。それでも「虚礼の部分」は可能な限りなくしたいという思いで、続けています。根が「不精」だから、とにかく字を書くのは苦手、それを誰かに読んでいただくのは、さらに嫌ですね。(ブログの駄文・雑文は、読む人知らずですから、それなりに気は楽。何しろ、朝飯代わりに打鍵運動をしているだけんで、気楽な分、駄文のレベルは下がり放しで、これだけは直しようがない。先月の「地軸」には「蘊蓄(うんちく)」が語られていました。「メリハリ」は、元は「めりかり」だったという。今日では、それとはまったく趣の異なる「メルカリ」が繁盛しているようですが。

 いずれ「(元)官製年賀はがき」は消える運命にあるようです。もちろん、今だって「官製」ではなく「半官的半民的」性格で、何ともあいまいなところが、企業の性格としても中途半端だと思います。民と官が同居しているというのか、同床異夢というのか。もちろん、ぼくは何十年も年賀状を購入したことはない。何日までに出せば「元日に着きます」という「煽り」運転も経験したことはありません。これには亡き友人の影響があった。売れ残った数億枚は、「毎年焼却処分している」と報じられて、彼は「年賀状」は止めて、「寒中見舞い」に変え、旧郵政省の暴挙に抵抗していました。(いまも「暴挙」は続いているのだろうか)

 松田聖子さんの「風立ちぬ」にあやかって、「春立ちぬ」が年頭の「挨拶」になっている、いつしかそんな習慣が付いてしまいました。年末年始も、まったくいつも通りだし、まさしく「メリカリ」だか「メリハリ」などもあったものではありません。「もういくつ寝るとお正月」というお伽噺をどこかで誰かから聴かされていたかもしれないという遠い思い出になってしまい、とっくに「正月」はどこかに消えました。大晦日も元日も、ぼくには「普段の一日」です。不謹慎な言い方ですが、その振る舞いは、まるで地震や雷などの「自然災害」に変わるところがない。それは「盆も正月も」ない、いつだってやってくる。「日常」の出来事になっている。昨年の元日は、今なお「能登」では続いているのです。それを忘れられないままで、「新年おめでとう」と言えますか。「言うだけでいいんだよ、どうせ虚礼なんだだから」と、どの面下げて言えますか。

 恐らく「年賀状」は皆無にはならないでしょう。そういうものです。江戸や明治の習慣(「文化」、「文明」の名残り)は、辛うじてであれ、今も生きている。例えば「丁髷(ちょんまげ)」は国技館に腐るほどある・いる。カステラは「文明堂」ばかりとは限らないのです。ぼくたちが歴史を感じるのはそういうことですね。ぼくはあらゆる「虚礼」を世間からなくそうではないかなどというつもりはない。「虚礼に励もう、勤(いそ)しもう」という人々がいるのは結構。それを他人に断りなしに押し付けないでくれ、ぼくはそれだけを願っています。「年賀状」だけが虚礼ではない。この社会から「虚礼」を除去したら、社会がなくなるかもしれないと心配される向きもあろう。でも大丈夫、どんなにつまらないと思われる「格・式」でも残るところには残っている。

 ぼくは小さい時から「式」と名のつくものが嫌いでした。四季も子規も史記も「だいしき」だったし、やがて来る「死期」は好き嫌いを超えていますから、甘受するほかないのですが、「~式」だけはだめでしたね。いちいち挙げませんが、それが消えると、ずいぶんとさっぱりしますし、かえって、「形式」なんかより「実質」が大事だという意識と生活の大転換が起るかもしれない。

 ・・・という「週初の愚考」でした。(後ろの方から「気は確かか」という声が聞こえる)(ただ今、午前4時半。室温19.1℃、湿度46%。暖房あり。膝上に、「白い甘えん坊」がいる早朝だ)

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溺れる者は藁をも摑(つか)む、な。

 「たっすい」とは「物足りぬ」、「手応えがない」という高知(と徳島も含める)標準語。土佐生れの親父から何度かこの言葉は聞いた。彼は大層な酒飲みで、酒の代用に(おふくろが)ビールを出したら、「こんなたっすいがは、あかんちゃ」とか言って、瓶を壁に投げつけた、この場面はよく覚えている。小学生の頃。「絶対に酒呑みにはならん」と倅は誓った。▶日産とホンダが「統合協議」開始と報道される。内外野から「水と油」「うまくいかぬ」という「ヤジ」が飛ぶ。水・油は分子レベルで天敵、決して混ざらない。いずれが「水」か「油」か。「合成洗剤」なら、油にも水にも「親和性」があり、うまくくっつく。「界面活性剤」の働きによる。油まみれの衣類も、洗剤投入なら仕上がりはきれい。▶企業合併は「婚姻」に例えられる。「統合」はそこまでではないが、ほぼ類似(内縁か)だろう。相手はこれまで何人もの異性と付き合ってきた発展家。異国人とも関係を持った。一方は「頑固一徹」で筋(節操)を通す堅物だ。「統合」に身を乗り出したのは、背に腹は代えられぬと案じたからか。仲人(界面活性剤)がだれになるかわからぬが、この両人が華燭の典に至るとは、傍観者のぼくには思えない。(498字)

 【高知新聞】水と油 「たっすいがは、いかん」ラガーが、たっすくなったりして? などと軽口をたたいたものだ。2009年にキリンとサントリーの統合協議が判明した時のこと。世界最大級の酒類メーカー誕生と騒がれた。
 だが翌年、この縁談はビールの泡のごとく消える。株の保有割合で折り合わなかったことが表向きの理由だが、社風の違いも大きかったとされる。「やってみなはれ」で進取精神の強いサントリーに対し、良くも悪くも官僚的で有名だったのがキリン。「水と油」と評された。
 ホンダと日産が統合協議を始めたとの報道に、この話を思い出した。共通するのは世界経済を動かすスケール感。そしてもう一つは社風が「水と油」であることだ。
 ホンダは創業者本田宗一郎の精神を受け継ぎ、自由で自立志向が強い。一方、日産は官僚的で、カルロス・ゴーン元会長という強烈な存在がいたためトップダウンも根付く
 とはいえ、激しい国際競争にシビックだのスカイラインだのと言っていられないのが実情か。キリン・サントリーが「攻め」の統合だったのと違い、今回は経営不振の日産救済策の色も濃い「受け」の統合。ホンダの従業員の不満が早くも聞こえるが、外堀はもう埋まっているのかもしれない。
 本来相いれない水と油も、せっけんを足せば混ざり合うという。せっけんになるのは何だろう。コスト論? 開発速度? 顧客や販売店の存在も忘れないように。(高知新聞・2024/12/20)

 両者が「統合」に向けての協議開始を急いだのは、横合いから「付き合わんか(買収するぞ)」と名乗りを上げた企業(台湾・鴻海)があったからだ。数年前に、この企業は「シャープ」を傘下に収めたが、「国際結婚」に失敗している(連年の大赤字)。どう転んでも、少子高齢化を止められない国では、自動車産業が生き延びるのは至難のこと。「国産」とか <Made in Japan> を叫んでも始まらないところにまで体力は落ちているのだ。「国威」や「国力」を誇る時代はとっくに過ぎていると、ぼくは言うばかりです。

 「溺れる者は藁をも摑む(A drowning man will catch at a straw.)」「藁」を掴んだら、オワコンだよ。もう一つオマケ、「海中より盃中に溺死する者多し」ともいう。「統合話」は「海中」で、あるいは「盃中」でするのでしょうか。

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支配しない政府が最上の政府である

【余録】「正直な人間なら十本の手の指よりたくさんのものを数える必要はめったにない」。19世紀半ばに米マサチューセッツ州の湖畔の丸太小屋に住み、自給自足の生活実験を行った米作家、ソローの言葉だ▲2年余の暮らしを記録した名著「森の生活」で初めて使われたという言葉が「ブレーンロット(脳の腐敗)」。狭い常識にとらわれ、物事を単純化する風潮を批判し、英国で問題化していた病原菌による「ポテトロット(ジャガイモの腐敗)」になぞらえたらしい▲その言葉がZ世代の間でよみがえり、SNSなどデジタル世界にはまり知性が劣化した状態を指すネットスラングになった。英オックスフォード大出版局は今年の言葉に「ブレーンロット」をえらんだ▲スマホ画面をのぞく時間は年々増える。アルゴリズムの作用や好みで情報が偏り、不寛容や社会の分断を生むエコーチェンバーやフィルターバブルも脳の腐敗の要因かもしれない▲「脳腐れ」が広がっては心配だが、大人の学力を測る「国際成人力調査」の結果にひとまず安心する。日本は北欧諸国と並んでトップグループの一角を占めた。もっとも生活満足度は最下位というから喜んでもいられない▲「『自然』そのものとおなじように、一日を思慮深くすごそうではないか」。ソローは時間に縛られる習慣や日課も嫌った。そんなナチュラリストのマネは無理でもたまには意識的にデジタル世界から離れたい。自然に触れることで脳や心の健康の回復につながるかもしれない。(毎日新聞・2024/12/12)(ヘッダー写真は=http://home.r07.itscom.net/miyazaki/Thoreau/index.html#top

 他人にはどうでもいいことでしょうが、どんな文章(記録・記事)であれ、そこに「ソロー」という「人名」(単語)が出ていると、ぼくは嬉しくなります。彼の名前や「姿」を想像するだけで、一気に「書き手」との距離は近くなるし、ソローはこんなところにもいたのだという次第で、彼は生きているなあという感情が湧いてくる。それ程に、ぼくは「ソロー」という人が好きでした。理由は単純、人生の万事が「虚礼廃止」「根っこが誠実」で生きた人だったから。「ブレーンロット(brain rot)」、「一面では「付和雷同」病に陥るような環境には近寄らなかった。詳しくは話さないが、合理的でありながら、正直で気の利いた、一人の「野生人(「文明人」ではないという意味)」という趣を有していた人、そんな御仁は、何時の時代でもいそうで、なかなかいないのではないでしょうか。(*「文明人」とは、自力では不便を託つくせに、機器類に依存しながら「至極便利」だと錯覚している「腐敗脳」患者のことか)

 およそ生きた時代も違うし、その自然・文化環境も異なるので、単純に並べたり、比較するのはあまり利口な方法だとは思いませんが、あえてその愚を犯するなら、ぼくはここに「吉田兼好」を出すことを躊躇しない。二人に似ているところがあるといえばあるし、違いはと訊かれれば、すべてが違うというほかありません。でも、結局のところ、「いかに自分らしく生きようとしたか」「社会の中で自分は、何を求めようとしたか」そのような根本的な問題において、この二人は、それぞれの時代や社会の「頸木・軛・衡(くびき)」、「柵笧(しがらみ)」「絆・紲(きづな)」などとされるものから、意識的に解放されようとしていた節が強くあったと思う。端的に言うなら「家」「家族」「仕事」、あるいは「人間関係」等々によって、可能な限り縛られたくないという願望です。さらに言うなら「(世間とは)付かず離れず(close but not too close)」という塩梅(按排・按配)で生きようとした、生きた人だったと言ったらどうでしょう。その願いを見失わないで、それぞれの思う「生活」を営もうとした人だったと理解しています。一例として、兼好さんの「生き方の流儀」とみられる様子が語られている章段を出しておきます。「知ったかぶりはよせ」という態度で生きたいと、ぼくも願っている。

 「何事も入り立たぬ様したるぞ、良き。/良き人は、知りたる事とて、然(さ)のみ、知り顔にやは言ふ。片田舎より差し出でたる人こそ、万(よろづ)の道に心得たる由(よし)の差し答へ(さしいらへ)は、すれ。然れば、世には恥づかしき方もあれど、自らもいみじと思へる気色(けしき)、頑(かたく)ななり。良く弁(わきま)へたる道には、必ず口重く、問はぬ限りは言はぬこそ、いみじけれ」(「徒然草 第七十九段」)

 一読、彼の「生活の流儀」(「生きる姿勢や態度」、それをこそぼくは「思想」と見ています)を了解しませんか。ソローにも同じような言葉がいくつもありそうです。面倒だから出しませんけれど。「おれが…」「わたしこそ…」という自己宣伝・自己拡張症は恥ずかしいこと。「良く弁へたる道には、必ず口重く、問はぬ限りは言はぬこそ、いみじけれ」、そんな「いみじけれ」が皆無なのが、ぼくたちの生きている時代や社会ですなあ。

◉ 吉田兼好 (よしだけんこう)生没年:1283?-1353?(弘安6?-正平8?・文和2?)= 鎌倉末~南北朝期の歌人,随筆家。本名は卜部兼好(うらべのかねよし)。出家ののち俗名を兼好(けんこう)と音読して法名とした。武蔵国称名寺(現,横浜市金沢区)長老あての書状断簡に〈故郷忘じ難し〉とあることから,関東で生まれたとする説もあるが,それは〈故郷〉の語義〈住みなれた地〉を誤解したもので,京都で生まれ,関東で若い時期を過ごしたのであろう。父兼顕は治部少輔で,兄弟に大僧正慈遍,兼雄がいる。兼好は宮廷に仕え,祖父の代からかかわりの深い堀河家の諸大夫ともなったが,1313年(正和2)ころ出家した。出家後の生活を支えたのは,洛外山科の田地からの年貢米であった。17年(文保1)ころから歌人として名が知られ,歌会への出席も多くなる。また,このころまでに鎌倉へも2回以上赴いている。《徒然草(つれづれぐさ)》の執筆は1317年から31年(元弘1)の40代後半から50代前半と推定され,〈つれづれなるままに〉と書き出されるこの随筆が代表作となった。

 1345年(興国6・貞和1)ころ,勅撰集《風雅和歌集》の撰集に提供するため《兼好法師自撰家集》(《兼好法師集》)を編集したが,自筆草稿本が尊経閣文庫に現存する。〈雲の色に別れも行くか逢坂の関路の花のあけぼのの空〉にはじまる約280首の和歌をおさめる。いわゆる二条派風の平明優美な作品で,頓阿,浄弁,慶運とともに二条為世門下の四天王の一人と賛えられた。勅撰集には《続千載集》《続後拾遺集》《風雅集》に各1首のほか,全部で18首入集している。歌壇での地位の安定とともに,古典作品の書写や研究にも力を入れ,《古今集》《源氏物語》などの伝本に,彼が書写校合した旨の奥書を加えたものが伝えられている。晩年は,1344年(興国5・康永3)足利直義勧進の〈高野山金剛三昧院奉納和歌〉の作者となり,46年(正平1・貞和2)賢俊僧正に従って伊勢に下ったり,48年高師直に近侍したりするなど,足利幕府を中心とする武家方に接近している。最晩年の事跡としては,50年(正平5・観応1)4月玄恵法印追善詩歌,同年8月二条為世十三回忌和歌会の作者となり,翌年《続古今集》を書写,観応3年(1352)8月の日付がある《後普光園院殿御百首》に加点したことが知られている。

◉ ソロー(Henry David Thoreau)=生没年:1817-62 アメリカの思想家。マサチューセッツ州コンコードに生まれ,エマソンの強い影響を受けた。1837年にハーバード大学を卒業後,故郷で教職につくが,当時教育手段として普通に行われていた笞刑に反対してまもなく辞職。40年代にはいってトランセンデンタリストたちの機関誌《ダイアル》などにエッセーを発表し始める。45年夏ウォールデン池のほとりに自分で小屋を建て,以後2年2ヵ月に及ぶひとりぐらしを始める。その動機をソロー自身が主著《ウォールデン》(1854)の中で,〈慎重に生き生活の本質的な事実だけに直面したかったから〉と説明している。彼には世間が生活だと信じているものを生活とは思えず,むしろ高貴なはずの精神が卑しめられている現状が耐えられなかった。森の中で一人〈深遠に生き,生活の髄をすべてしゃぶりつくしてスパルタ人のようにたくましく生き,生活でないものは追い散らし……生活を片隅に追いこんで,ぎりぎりの条件にまで単純化したかった〉。ソローもエマソンと同じように精神の主権を何よりも重んじたが,それを単なる観念に終わらせず,生活の原理として実際に生きてみようとした。この発想にソローの独自性の根源があり,おかげでトランセンデンタリズムそのものを超えて新しい地平に踏みこむことができた。

 〈生活の本質的な事実〉だけを生き,それ以外の〈余剰〉はすべて拒むというソローの厳しさは,むろん自分自身の精神にも例外を認めない。たとえ精神でも,その環境になじむと〈知らず知らずのうちに一定の道すじにはまりこみ〉,気楽さと引換えに主権を譲り渡してしまうのである。そこでソローは,ぜひとも世界の中で〈完全に迷子〉になれと言う。踏み慣れた軌道を捨てて,たえず異質な風景をめざせと言う。いっさいの既知から身軽になって,未知の領域にはいりこむことを彼は〈散歩〉と呼ぶが,いつしか住み慣れた森を出たのも,まさにこの〈散歩者〉の精神からである。こういうソローの精神のありかたは,ついに彼を,観念とは無縁なところで悠然と息づいている〈広大で巨大で非人間的な自然〉の前に連れ出すことになる。遺作《メーンの森》(1864)と《ケープ・コッド》(1865)は,晩年のソローの到達点を示す重要な作品である。

 いっぽう彼は社会的関心も強烈だった。《ジョン・ブラウン隊長のための弁護》(1859)は,この急進的な奴隷解放論者を熱烈にほめたたえた講演である。またメキシコ戦争に荷担することを拒んで人頭税の支払いに応ぜず,1846年夏に投獄されるが,このときの経験をきっかけに書き上げた論文《市民の抵抗Civil Disobedience》(1849)は,いわゆる不服従運動の古典として,ガンディーやキング牧師の思想形成に影響を与え,いまもなお読みつがれている。ソローの基本的な姿勢は個人の精神が政府の権力に優先するというものだが,これが自然に対する彼の姿勢と通底していることを見のがしてはならない。(改訂新版世界大百科辞典)
ソロー(Henry David Thoreau)(そろー)(1817―1862)= アメリカのエッセイスト、思想家。7月12日、マサチューセッツ州コンコードに生まれる。ハーバード大学卒業時の演説「商業精神」で、週に1日のみ働き、「あとの6日は愛と魂の安息日として、自然の影響にひたり、自然の崇高な啓示を受けよ」と語り、一生この主旨に沿った生き方を試みようとした。家業の鉛筆製造事業のほか、教師、測量、大工仕事などに従事したが、定職につかず、コンコードに住む超絶主義者のエマソンや彼の周辺の人々と親交を結び、日々の観察と思索を膨大な量の日記として残した。

 作品には、兄のジョンJohn Thoreau Jr. (1815―1842)と1839年に行ったボート旅行をモチーフにした随想と詩『コンコード川とメリマック川での1週間』(1849)と、ウォールデン池畔に小屋を建て、自然の啓示を受けて単純素朴に生きる実験を行った2年2か月の生活を、初夏から次の春までの1年分にまとめた『ウォールデン――森の生活』(1854)がある。ソローは具体的事物を細かく観察したが、事物を単に事実としてのみ見ずに、ウォールデン池について、「この池が一つの象徴として深く清純に創(つく)られていることを私は感謝している」「私が池について観察したことは、倫理においても真実である」と説くように、具体的事物のかなたに普遍性を読み取ろうとした。それが「自然の崇高な啓示を受ける」ことにほかならず、このためには、観(み)る行為が正確で純粋でなければならないと同時に、観察した事象について時間をかけて思索する必要があった。ソローは1862年5月6日、44歳で死んだが、思索を十分練らないままに残された旅行記は、『メイン州の森』(1864)、『ケープコッド』(1865)、『カナダのヤンキー』(1866)の3冊にまとめられ、それぞれ死後刊行された。

 ソローはまた若いころから家族ぐるみで奴隷制に反対し、奴隷制を許す体制を批判して人頭税納付を拒み続け、1846年7月投獄された。1日で釈放されたが、このときの体験がのちに『市民としての反抗』としてまとめられた(1849)。個人の良心に基づく不服従を説き、「まったく支配しない政府が最上の政府である」と主張するこの書物は、のちにガンジーやキング牧師に愛読された。 

 ソローの著作の中で最も影響されたのは「市民の反抗」(正確な書名は「一市民の反抗 良心の声に従う自由と権利」)でした。アメリカが、移民の国として産声を上げ、独り立ちしかけている段階で、いろいろな危機が連続してありました。そのような国の「揺籃期」「成長期」「青春時代」に生きた人として、ソローは自らの思索を生活の中から生み出し、生活に生かそうとしたのです。(プラグマティズムの実践)対メキシコ戦争や、奴隷制反対運動などが、その典型だったでしょう。政府というか、「国家」の横暴をことのほか嫌った。その意味では、彼は「アナーキー」だったでしょう。人民を苦しみめるばかりの政府(政治権力)などないほうがいい、要らないと断言するのです。個人の不服従を何よりも重んじたのは、内面の良心(conscience)の声に従ったからでしょうが、その良心を踏み台にするような政治権力には、身を賭けて対峙した、勇気の人でした。

 「ソーローの時代においては汽車・汽船・電話などが実用に供せられ、アメリカは西部にむかって大発展の途上にあり、物質文明は栄えたが一方、都市・農村における生活難も深刻なものがあった。ソーローの平和なウォールデン生活中にも奴隷問題にからんでメキシコとの戦争があり(一八四六―四七年)、彼の死んだのは南北戦争の最中であった。誠実な魂をもった彼が時代のうごきに無関心でいられなかったのはいうまでもない。/戦争と奴隷とを支持する政府のために税金を出すことをこばみ、また、奴隷解放のために殉じたトム・ブラウン大尉の弁護のために熱弁をふるったソーローの一面は本文庫の富田彬氏訳『市民としての反抗』について知られたい」(神吉三郎)(神吉氏は岩波文庫「ぼりの生活の訳者でした)

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不良会社救済の余力があるか

 時はすでに遅し、「ホンダと日産」の経営統合報道に抱いた感想だ。半世紀以上も前から「日産ファン」だった。創業者・鮎川義介は満州一旗組、A級戦犯として服役もした。なぜファンなのか。ぼくが乗り出したころは(創業者には無知だった)、「技術の日産」はまだ健在だったし、車のプロ(修理屋)からも勧められた。現行車は三代目の「セドリック」、走行10万㌔超。「二十万超キロ」まで乗ったのもある。現在車は、どこにも悪いころはなさそう。二十三年目。

「日産」は絶命寸前、人工呼吸器をつけている状態で、遂に「心臓移植」に踏み切るかという瀬戸際を迎えた。ぼくの見立てでは「移植手術」に堪える体力はない、仮に手術に踏み切っても「即死」は必至。それを目論んだか。救済に手を出す「ホンダ」はどうか。ここにも体力があるとは思われない。連れ合いは「フィット」に乗っている。ぼくもよく使う。乗りやすく燃費がいい。十年ものだが8万キロを超え、連れ合いの酷使に堪えて何処にも問題ない。そのホンダが、どうして日産や三菱自工と組むか。「座して死を待つ」を潔しとせず、その一念かもしれぬ。何をどう工夫しても、この社会の車産業は、胸突き八丁にある。(「意在言外」、事始め)

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【天風録】ホンダと日産 「田舎のベンツ」とも呼ばれる、日本生まれの軽トラが欧米で人気を集めている。円安でお値頃の上、小回りが利き、燃費のよさも好評らしい。海外のクルマ市場には、まだまだニーズが眠っているのだろう▲ただ、売れ筋の潮目はおいそれと読めない。14年前、世界初の量産型電気自動車を発売したのは日産である。当時、カルロス・ゴーン社長は「盟主」気取りだった。その売れ行きも今や減速し、日産は従業員9千人削減を余儀なくされる苦境にある▲背水の陣から活路を見いだす一策だろうか。ホンダとの経営統合について、日産が検討していることが明らかになった。きのう日産の株価は値幅制限いっぱいまで上がった。重荷になると受け止められたのか、逆にホンダ株は下げた▲成案を得て、相乗効果を生むまで壁は高かろう。何より企業風土が違う。ホンダは、夢を原動力にした創業者本田宗一郎譲りの独創性にこだわる。その「らしさ」を愛好者も買うのでは▲ゴーン氏の報酬隠しと国外逃亡で、日産ブランドは深く傷ついた。「技術の日産」と褒めそやされた栄光の日々も今は昔のようだ。「らしさ」は何なのか。原点を見つめ直す好機でもあるのだろう。(中國新聞・2024/12/19)

⦿ 鮎川 義介(アユカワ ヨシスケ)肩書参院議員(第十七控室),日本中小企業政治連盟総裁,日産コンツェルン創始者 生年月日明治13年11月6日 出生地山口県山口市 学歴東京帝大工科大学機械科〔明治36年〕卒 経・歴芝浦製作所の職工となるが、のち渡米して鋳造見習工。30歳で帰国、明治43年戸畑鋳物を設立。大正10年東京に進出、昭和3年義弟・久原房之助の久原鉱業所社長となり、のち日本産業と改称、以後次々設立または吸収を繰り返して、日立製作所を含む日産コンツェルンを作りあげた。12年満州に進出して17年まで満州重工業開発総裁。18年勅選貴院議員。戦後はA級戦犯として服役したが、釈放後、28年参院議員となり、31年には日本中小企業政治連盟を結成して総裁。全国中小企業団体中央会会長、中小企業助成会会長、岸内閣経済最高顧問を歴任。34年二男の選挙違反事件の責任をとり親子で参院議員を辞任した。のち東洋大学名誉総長となる。著書に「物の見方考え方」「私の考え方」などがある。没年月日昭和42年2月13日 家族二男=鮎川 金次郎(参院議員)(新訂政治家人名辞典明治~昭和)

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 「意在言外(いざいげんがい)」なるカテゴリーを新設します。その意図は他なし、ぼくの持ち合わせの言葉数や単語知識では「当の問題」を掬(すく)いきれないから。その後はなにとぞよろしくという、読み手頼りの魂胆から。そして、こちらの方がもっと大事なのですが、可能な限りで「500字」以内、その心づもりです。(本日の拙文の文字数は498字)「『漢書』の「芸文志(げいもんし)」にある「微言大義(びげんたいぎ)」が頭を掠めている。「意味深長(イミシンチョウ)」という表現にも憧れて来た。さて、成り行きはどうなりますか。「皆まで言うな」ということ。

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