「不寛容」に「寛容」であり得るか 

【日報抄】手元の辞書は「寛容」の意味を「心が広くて、よく人の言動を受け入れること」と説明する。きょう16日は「国際寛容デー」という。数多くの国際デーがある中で、これはテーマが少し抽象的な記念日だ▼国連教育科学文化機関(ユネスコ)が1995年のこの日に採択した「寛容に関する宣言」に基づき、翌年の総会で制定された。95年はどんな年だったのか。ロシアが、独立を求めるチェチェン共和国の首都を制圧し紛争が激化した▼米国では、太平洋戦争終結50年の節目に企画された「原爆展」が中止の憂き目に。中国は地下核実験を強行し、イスラエルのラビン首相が暗殺された。日本では、1月に阪神大震災、3月に地下鉄サリン事件が発生した▼不安と不信が世界を覆った年だった。だからこそ国連は「寛容」という言葉で、文化や生き方の多様性を認め、対話による相互理解を進めるよう求めたのだろう。それから約30年。寛容の精神はむしろ薄れてしまったようだ▼ロシアやイスラエルは今も戦火の当事者だ。気候変動による洪水や干ばつなどの天災も相次ぐ。そんな中で米国ではトランプ氏が再び大統領に就く。地球温暖化を「でまかせ」と言い、移民を敵視する人である▼日本も、学校では不登校やいじめ、大人社会でもハラスメントが増え続ける。この30年でなくした最も大きなものは、寛容の心なのかもしれない。ギスギス、イライラより、ワクワク、ニコニコの時間を増やしたい。冬に向かう日々、心をぬくめたい。(新潟日報・2024/11/16)

 11月16日は「国際寛容デー(International Day for Tolerance)」でした。制定当時の国連事務総長のアナン氏は「寛容の日」に臨んでメッセージを出している。その要点を以下に引用しておきます。国連総長がこのような声明を出し、「寛容の日」を設けなければならなかった理由は、国際連合の存在そのものが証明しているでしょう。だが、その国連自体に「不寛容」が根づいているのも事実で、ときには「寛容」に対して、「不寛容の牙」を、加盟国のいくつかは隠さなかった。常任理事国の「拒否権」などはその典型です。「寛容の日」を設定すること自体、国連の無力さを世界に向けて発信したとも見られます。

 … 他の多くの不合理な態度と同様、不寛容はしばしば恐怖に根ざしています。未知のもの、自分と違うもの、他者に対する恐怖です。このような恐怖の根元には、無知と教育の欠如があります。そこから偏見、憎しみ、差別が育つのです。教育は、不寛容を予防する最も効果的な手段です。特に子どもたちにとっては、なぜ人権と人間の尊厳と人間の多様性の尊重が切り離せないのか理解するためにも、寛容について学ぶことが絶対必要です。教育自体が不寛容のウイルスに冒されていてはなりません。教育は、人々に自分たちの権利と自由が何であるか、どのように尊重されるべきかを教え、また他人が権利と自由を謳歌することを守りたいという望みを抱かせるようにするものでなければなりません。
 もし人間という家族がともに平和に暮らしたいと願うのなら、私たちは互いを知り、受け入れなければなりません。寛容を推し進めようとするいかなる努力も、その中心に人と人、異なる文化、民族の間の開かれた対話が必要です。対話なくしては、文化的多様性は脅かされます。対話なくしては、社会のつながりそのものが危機に瀕します。対話なくして平和はありえません。
 この「国際寛容デー」に際し、世界的に尊重すべき原則を私たちそれぞれが積極的に実践しましょう。寛容のための努力が私たち一人ひとりから始まるのだということを認識しようではありませんか。「国際寛容デー(11月16日)に寄せるコフィー・アナン国連事務総長メッセージ」(2002 /11/15)

 「教育は、不寛容を予防する最も効果的な手段です」「教育自体が不寛容のウイルスに冒されていてはなりません」「寛容を推し進めようとするいかなる努力も、その中心に人と人、異なる文化、民族の間の開かれた対話が必要です」多言を要しないでしょう。「教育」「学校教育」こそが、社会における「他者に対する不寛容」を助長している・きたのではないですか、そんな根本の問題意識を持ちながら、ぼく自身、微力にもならない、実にささやかな「教育経験」を重ねてきました。

 「寛容」とは「寛大」「寛仁」などともいわれ、どこまでも、ある人の「心の深さ、広さ」を指すでしょう。「度量」「器量」などともその根を同じくする「姿勢」や「態度」です。この姿勢や態度は、個人対個人により多く認められるべきでありますが、その上で、集団間の付き合い方にも求められるものです。視野を広げれば、ぼくたちの住んでいる社会においては、ますます「不寛容」そのものが増幅される傾向にあるでしょうし、国家間においても、多くの国を巻き込みながら「不寛容」という亡霊が闊歩し、「民族浄化」や「民族殲滅(ホロコースト)」を思わせるような戦闘行為に邁進しています。そのような「不寛容」という暴力の前では、人命も自然環境もまるで無意味・無価値な存在に化しています。ぼくは若いころから、「寛容は不寛容に対して寛容でありうるか」とい矛盾律(矛盾原理)のような課題を「わが愚考」のうちに持たせてきました。

 まるでガンジーやキング牧師たちの「非暴力」思想にも認められる「非暴力はいかなる暴力にも非暴力でありうるか」とい実践原理に重なるものでもあるでしょう。誤解を恐れずに言うなら、「暴力に対して、ときには暴力的であることも否定しない」というのがガンジーの態度だったと思う。「あらゆる不寛容」には「いつでも寛容の姿勢を」というのは、どうでしょう。そういう生き方は、個人であれ集団であれ、不可能ではないかとさえ思われます。「正当防衛(legitimate self-defense)」ということを真面目に考えている。戦争行為における侵略は、まぎれもなく最大の暴力であり、それに抗するための「防衛力」は、武器を用いるという点では暴力性の一面を否定できないでしょうが、暴力に対する「自己防衛」という観点では、「ある種の暴力(対抗力)」は、あくまでも認められないものではないでしょう。今なお、各地で生じている「戦闘行為」、あるいは「強権政治」などに対して、いかにして「寛容」であることを貫けるか。世界各国、あるいは人間一人一人が試されている。<Can you be tolerant of intolerance?>

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「徒然に日乗」(568~574)

〇2024/11/17(日)今朝は一時くらいに起こされた。外に出違って落ち着かないのがいくつもいた。そのままずっと、寝ないで、一日を始める羽目に。▶兵庫県知事選挙の投票締め切りとほぼ同時に、民放は「前知事当確」を出したが、まだ海保湯が行われていないので、いささか奇妙な選挙報道だった。(パワハラなどで批判された前知事)不信任案が県議会議員全員一致で可決された知事は「失職」を選び、そのための知事選だった。選挙期間の途中から、さまざまな怪情報が流され、前知事が圧倒的に支持を得て、当選を果たす勢いだった。仮に前知事が当選したのなら、議会の全議員が「ノー」を突き付けた、その意味はどうなるのか。今度は議会が解散されるのだろうか。いったい、この県知事選挙では何が起こっていたのだろうか。冷静な分析を待って、そのうえで、選挙や選挙運動に対する問題点が検討されるべきだろう。(574)

〇2024/11/16(土)あっという間に一週間が過ぎる。本日は「国際寛容デー」だそうで、「1996(平成8)年の12月に実施された国際連合総会において、国際デーのひとつとして制定されました」「日付は、1995年11月16日、ユネスコ総会で「寛容に関する原則の宣言」が採択された出来事にちなんでいます。文化や表現の手段、人間としてのあり方といった多様性を尊重すること、受け入れることを『寛容』の定義とし、多様な社会を存続させることが目的です」(国連総会)今日の世界情勢はいたるところで「不寛容」が蔓延している。その挙句が「人種差別」「女性差別」などの抑圧政治が行われるのであり、究極は「ジェノサイド」に重なる戦争行為の敢行だ。繰り返し、あらゆる時代や社会で、この「不寛容」がもたらす蛮行に傷つきながら、「寛容の精神」でやり直しをしているようなもの。どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ。▶終日曇り空、時には小粒の雨が落ちていた。(573)

〇2024/11/15(金)終日曇り空。時に小粒の雨が降っていた。11月も半ばだというのに、フィリピン沖になんと五つの台風が発生。彼の地には猛烈な颱風が襲い大きな被害が出ている。海水温度の高さがまず異常な水蒸気の蒸発を生み、それが雨を降らせ、低気圧と暖気が合体して強烈極まる颱風を生んでいる。これを「地球温暖化」によるものと見ない理由はないと思う。スペインでも猛烈を極める大洪水が南東部を襲って多くの人命が失われている。例年だと、日本列島に上陸するような台風も、本年はそのまま直で台湾や中国大陸、あるいはフィリピンなどを直撃している。▶昼前に茂原まで買い物。昨日かみさん用の車のシートベルトが不具合を見せていたが、どういうわけだか、すっかり治ったよう。昨日普段利用しているガソリンスタンドで見てもらい、接触不良だろうからといろいろと手を施してくれたのが、時間差をもって効果を発揮したのかもしれない。また、いつ何時再発するかもしれないが。▶ただ今午後10時過ぎ。室温19.8℃、湿度71%。(572)

〇2024/11/14(木)昼前に買い物。帰宅しようと車を動かそうとしたら、シートベルトの警告ランプと警告音が消えない。恐らく、ベルトを締める際の「バックル」の中の接触不良か何かだろうと気づいたので、いったん帰宅後に、いつもの車屋に連絡して、部品交換と修理の依頼をしたうえで、部品代の支払いに出向こうとしたら、なんと「赤ランプ」も「音」も消えて、正常な状態に戻ったようだった。儲けものだったか、車屋に出向き事情を説明し、今回はいったん「保留」にしてもらった。いつまた「再発」するかもわからない。新車で買って十年目の車。八万キロ走行している。▶少し寝不足が続いているのか、眠くて仕方がない。猫たちに毎日早起きで、ひどい時には、夜半十二時前に起こされたり、午前一時前だったり。とにかく「いい睡眠」「良質の睡眠」をと、願っている。寒くなる時期、猫たちも本人も風などは引かないようにと気はつけてはいる。ただ今9時45分。室温19.7℃、湿度66%。(571)

〇2024/11/13(水)終日自宅にて過ごす。少し風もあって、まあ凌ぎやすい日だった。十一月に入ると、気忙(ぜわ)しくなるのは長年の習慣づけのようなものか。今日は、今は、これだけはぜひやっておかなければという、そんな忙(せわ)しない事柄は何もない生活で、要するに「宿題」のない学校のようなもの。何もしないで時を過ごすことがとても大事な気がする。うたた寝をするのも一つの仕事、そんなことを言うと、世間から怒られそうだが、今はできるだけ、自分の呼吸で息継ぎをしていたいのだ。(570)

〇2024/11/12(火)午後、猫缶を買うために土気まで。ほぼ週一で、購入するために通っていることになる。年間でどれくらいの費用がかかっているか、恐ろしくて計算できない。今はなんとか猫の医者にかからないようにしているが、時には怪我や事故もあるので油断はできない。数が多いというのが、何よりも問題か。また、一つが三日ほど経つても、帰ってこない。なれたもので、お腹がすいたら、平気で帰ってくる。何が起こるかわからない環境であるのも事実。昨夕は、凄い鳴き声で林の中を去っていた動物がいた。これまでにも何度か聞いているが、おそらく「キョン」なのかもしれない。鹿に似た動物で、房総半島では害獣扱いをされている。相変わらずイノシシが近所を、敷地内を含めて、掘り荒らしまわっている。夜行性でもあるというから、猫が林の中で寝ているところを襲われることもあろう。すべてが家の中でということもできないのは、それぞれが成長するにつれて、互いの相性が合う、合わないという関係が出てくる。遠慮して夜は家の外で過ごす子も出てくる。食事だけは家で食べる、それも日に二度三度と。なかなかに難しいことだと痛感している。(569)

〇2024/11/11(月)昼前に買い物、茂原まで。▶終日、曇り空で、時には小雨が落ちていた。それも昼過ぎには止んだようだ。それほど寒くはなく、寒気も一休みといったところか。▶国内では特別国会が召集され、首班指名が行われた。石破氏が選出されたという。国民民主党の代表に「不倫報道」が。当人は「おおむね事実」と認める。まるで日本版「トランプ」現象のよう。首班指名には同代表を党員一致で記名するらしい。フザケタ話だが、事実は事実。この程度の連中が国政を担っているかと思うと反吐が出る。「躍進して、浮かれていた」と代表。浮かれ方が間違っている。こんなことに触れること自体が忌まわしい。有権者はおろか、国民そのものを舐め切っているのだ。「不逞(不貞)の輩」というべし。(568)

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事故多発の「交差点」のようなもの

▣ 週の初めに愚考する(第四拾五)

【北斗星】「学校へ行きたくても行けない子もいる」。次男が不登校という県南の父親が話していた。「登校させるのは苦痛を与えること。それを分かってやらないと」とも。次男には、行かなくてもいいと伝えたそうだ▼30年も前の記憶だ。行きたくない日も親に叱られて登校した自らの経験を思い出しながら聞いていた。当時、全国の不登校の小中学生は7万人余り。「どの子にも起こり得る」と指摘されるようになっていた▼先ごろ発表された2023年度の不登校の児童生徒は全国で34万6千人。11年連続して増え、40人学級だとクラスに1・5人の割合だ。県内も1947人と8年続けて増加。少子化の折、ともに最多を更新した▼10日付本紙で、不登校になった東日本在住の小6女児(11)が心情を吐露していた。学ぶことは好きなのに、「みんなと同じ」を求められて苦しさを感じたという。「頑張っても行けない」「少しでも個性や気持ちを分かろうとしてほしかった」との言葉が切ない▼周囲と交わり切磋琢磨(せっさたくま)し、社会性を育む学校教育が重要なのは言うまでもない。ただ、そこになじめない子どもがいる。支援にまず必要なのは、一人一人の個性を認めて受け入れることだろう▼きょうは国連が定めた国際寛容デー。信条、文化などが異なる多様な人々が存在する世界では、他者を尊重する寛容さが欠かせない。寛容な教育が実践され、全ての子どもがありのままに、伸び伸びと学び、成長できることを祈りたい。(秋田魁新聞・2024/11/16)

 「学校へ行きたくても行けない子もいる」という。それはどういう状態を指すのか。あるいは「行きたくない子どもの意識」はどう働いているのか。まず第一に考えられるのは、行きたいのはやまやまだけれど、病気やけが、または家庭の事情で行くことができない(行きたいのに、行けない)ということが考えられます。あるいは「本当は行きたいのに、行けばいじめられるから」というような、学校やクラスに問題(行けない理由)がある場合が考えられます。さらに考えていけば、「行きたいのに、行けない」という心理や状況が明らかになるでしょう。そして、「行けない」理由や事情は、人それぞれですから、これが「解決法」だという決定打はないと考えるとよい。学校になじめない子どもたちはたくさんいますけれど、その理由や事情はそれぞれに異なるでしょうから、いくら「対策」や「方針」を作っても追いつかないのは当たり前。しかし、「対策」や「方針」づくりに熱心になればなるほど、出てくる意見や批判は、「学校にいけない子」「登校しない子ども」「不登校の子の親たち」に問題があるというのが、これまでの相場でしたし、これからも変わらないと、ぼくは断言します。「学校は変わらない」「学校は動かない」という前提が問題とされてもいるんですのに。

 「登校させるのは苦痛を与えること。それを分かってやらないと」父親の言。なかなかの姿勢(態度)だと思う。いろいろと失敗や過ちを重ねた結果の「それを分かってやらないと」という言葉となったのでしょう。この父親にも「学校に行かないのはよくないことだ」という「通念」が、その昔はあったのでしょうか。それを「偏見」とまで言うのは言葉が過ぎるでしょう。でも、子どもにとって何よりも「学校第一」という圧力は、小さいころからのしかかってきたのは事実。なかなか簡単ではないけれど、行っても行かなくても、好きにしなさいという親がもっと出るといい。今でも、皆無ではないでしょうけれども、そんな親は無責任という感覚は自他にあるのです。

 ぼくは長年教職の端っこに席を占めていました。不登校者が圧倒的に多くいた問題の多い大学にいたのですが、この「不登校問題」については多くの保護者や教師たちから相談を受けました。ぼくの返答は単純そのもので、嫌だという子どもに無理強いするのは賛成しない。行きたくなければ、学校に代わる「学習の機会」を考える必要がありますよ、というものでした。義務教育という時の「義務」は、親や行政側の「教育機会を保証する義務」です。その義務が、子どもの教育権を担保することになる。「来なくてもいい」と言って、それで問題の解決が進んだかどうか、ぼくには分からないが、学校や教師の理屈や「出席第一主義」が変わらないことには話にならないということだけはっきりしています。そんな窮屈な学校に変わる「代案」として多くの「フリースクール」などが生み出されました。そのどれもが成功したわけでもなければ失敗したのでもなかったでしょう。しかし、知っている限りでは「教育」という「人間の関係」においては、あるいは旧態依然の価値観を、多くの学校関係者は捨てきれなかったことは確かです。 

(教育新聞:2021/11/04)(https://www.kyobun.co.jp/article/20211104-06

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 「不登校になった東日本在住の小6女児(11)が心情を吐露していた。学ぶことは好きなのに、『みんなと同じ』を求められて苦しさを感じたという。『頑張っても行けない』『少しでも個性や気持ちを分かろうとしてほしかった』との言葉が切ない」(「北斗星」)という子ども。「不登校」にかかわる、いろいろな調査があります。もちろん、その結果は似たようなものです。どうして「学校に行けなくなったか」、当人にとっても理由ははっきりしないこともありましょうし、「いじめ」られるからという、明らかな学校拒否の理由もあります。だから、「不登校」を防ぐための処方箋も、書き方はさまざまなので、見る(診る)人によっても変わるものです。しかし、誰が見(診)ても変わらなさそうなのは、「学校」という仕組みや機能が、ほとんどの子どもたちには「抑圧」の媒体になっているということでしょう。

 細かいことはいいません。まるで「鉄板」のように、学校はその重みを子どもたちにかけます。もちろん、抑圧をかけられるのは子どもたちばかりではない。教師だって、子どもたちと同じように抑えられているという感覚から抜け出られないで困ることが多いのです。とすると、きわめて奇妙なことですが、教師も子どもも、学校によって「抑えられている」「縛られている」という感覚を持つのはなぜかという点です。学校のあらゆる機能や行動が「画一」と「規則」に束縛されているのは、誰もが経験しているところです。

 不登校(に限らず)問題に関して、有効な処方箋が、ぼくに書けるわけではありません。でも、打つ手と言うか、手がかりやヒントなら出せそうです。ある地域のある特定の交差点ではやたらに交通事故が多い。それに対処するには、自動車や歩行者の取り締まりを厳しくするのも一つの手法ですが、それ以上に「交差点の在りよう」が問題になっているケースは多いと思う。だとすれば、その構造というか造りを変えることが先決ではないでしょうか。ぼくには、どうも学校という構造は、出来の悪い、交通事故を誘発するような、見通しの悪い「交差点」に見えて仕方がない。作り方を変える、それが決定打とはいかないでしょうが、かなりの改善策にはなるでしょう。つまり、学校は、何時だって「交通渋滞」が発生し、接触事故や衝突が起こるような、そんな問題だらけの交差点なんですね。追突事故や衝突に遭わないためにはどうするか、そこには行かないことがまず第一です。二番目に、スムーズに人も車も流れるような仕組みや作り(構造)を変えることではないですか。「道徳」というのは、「人倫」という通行者(子どもたち)が通る道のことです。教育は、その「道」「倫(みち)」を事故を起こさないで、事故に遭わないで歩くための練習場なんですね。テストの点数や成績なんかどうだっていいんですよ。

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「名もなく貧しく美しく」の文化

 室戸市佐喜浜町の国道55号沿いにある畑のコスモス約8万本が見頃を迎えた。赤や白、ピンクの花びらが秋風に揺れ、地域住民らの目を楽しませている。/コスモスは、佐喜浜町の女性有志でつくる「佐喜浜コスモス希望の会」が2017年から栽培。佐喜浜中学校近くの水田約30アールを農閑期に活用し、9月上旬にメンバーが種をまいた。/コスモスは順調に成長し、例年並みに開花。今月下旬まで楽しめるといい、メンバーは「色鮮やかに咲いたコスモスを見て癒やされに来てほしい」と呼びかけている。/同会は16日午前10時ごろから畑の一角でこけらずしや餅などの軽食販売を行う。(板垣篤志)(高知新聞・2024/11/14)(ヘッダー写真も)

 この時期にもなお「コスモス」が満開だという。高知県室戸市の有志たちが育てられているコスモスの園。こちらは八万本。数の多さを競うのではないでしょうが、上には上があるもので、栃木の益子では1000万本。北海道や神奈川にもそれくらいの数を誇るコスモス畑があります。京都の亀岡市は800万本。不思議というか、好きになるときがないというべきか。別段、数の多さを競おう、誇ろうとした結果ではなく、コスモス好きが嵩じて、ここまでのものになったのでしょうか。恐るべし、ですね。その維持や管理の任に当たるのは一人や二人ではなく、地域に住む多くの人々の共同作業によると考えられます。この「結(ゆい)」という共同奉仕は、この社会の伝統にもなって来たでしょう。

 コスモスの盛りは、多くの地域では十月の半ばころが見ごろでしょう。しかし、その年の天候(気温)などの影響で遅くなったり早くなったり。この時期は、劣島各地の「紅葉」「黄葉」がそれぞれに見ごろを迎えて、休日には大変な混雑ぶりです。

(上左・コスモス1000万本が見頃 SLとの競演も 栃木・益子。2022/10/2)(上中・800万本のコスモスが見頃を迎えた「京都丹波/亀岡。2024/10/18)(上右・1000万本のコスモス 10アールのピンクの絨毯 北海道遠軽町。2022/09/08)

 ぼくは、根が出不精ですから、見ごろになるからと、あちこちに出かけることはまずない。第一に人ごみが大嫌いですから、いわゆる観光・見物などという趣味はまったくないも同然。今を盛りと咲き誇る草花を、写真やテレビの画面を見るだけで堪能しています。コスモスも、現在地に越してくる直前、引っ越し準備のために何度も通い続けた途中の田んぼに、誰が育てたか、かなりの数のコスモスが咲いていたのをしばしば見ました。それも、やがて姿を見なくなったのは、どういう事情があったのか。ある時偶然目にして、またある時忽然と姿が消えたとい次第でした。コスモスに限りませんが、とにかく数が勝負だという、ある種の風潮が多く見られます。あまりいい傾向ではないと思いますね。百万本とか一千万本などと自慢げに宣伝していますが、なぜ百万本、一千万本なのか。

 京都に「百万遍」という地名があります(左写真)。元来は、浄土宗の「百万遍念仏」を指します。正確に百万遍唱える集団による読経のことですが、やがて、それが一般化して、数限りないことのたとえとして「百万遍」ということになったらしい。たくさん唱えれば、ご利益があるというのです。(百万遍は、また「知恩寺」の別名でもあります)つまりは数えきれないくらいにたくさんあるのを「百万云々」というのでしょう。「百万本のバラ」などという恋歌もあるくらいです。でも100万本や800万本という数が売りになっていますから、誰かが数えたのかもしれない。数が多いのはいいことだという、ある種の貧乏性が顔を出しているようだと、本物の貧乏性のぼくなどは言いたくなります。コスモスは「宇宙(kosmos)」を意味しますから、800万や1000万の宇宙とはどういうことかと大いに訝るのです。それでも、これだけの数を見事に育て上げるのですから、その丹精ぶりには頭が下がります。無条件に感心します。

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 もう何年も前にテレビで見た情景が忘れられません。一人の男性が、中学校を終えたばかりのころから、遠大な計画を着々と実現するさまを記録したものでした。地名も人物名も忘れましたが、なんと60年以上の歳月をかけて、たった一人で山を切り開き、そこにさまざまな植物や草花を移植し、池を掘り、山を削り、丘を作りと、文字通りに粒粒辛苦の歳月を実らせておられた。確か中学校を卒業して、わずかの元手を手にして、以来「楽園づくり」に生涯を賭され、費やされたのでした。今はどうなっているかぼくは知りませんけれど、その打ち込み方に、ぼくは図らずも深く打たれました。その昔「木を植えた男」というタイトルの本(ジャン・ジオノ作)がベストセラーになったことがあります。北海道の男性は、実人生を「植物園・花園・鳥や蝶たちの郷」づくりに懸けたのでした。深く感動しましたね。

 「この人を見よ(ecce homo)!」

● 『木を植えた男』(きをうえたおとこ、フランス語:L’Homme qui plantait des arbres)は、フランスの作家ジャン・ジオノの短編小説である。1953年発表。/主人公である「私」が、人知れず荒野で植樹を続ける男エルゼアール・ブフィエ(Elzéard Bouffier)と出会い、男の活動により森が再生していく様子を回想として記すという形式をとる。しばしばノンフィクションであると誤解されるが、完全なフィクションである。/1987年には同作を原作として、フレデリック・バックの監督・脚本で同名の短編アニメが公開された。1987年アカデミー短編アニメ賞受賞、ほかいくつかの賞を受賞した。このほか、1989年にはバックが描き下ろしたイラストを用いた絵本が発表されている。/邦題はほかに『木を植えた人』など。男の名前が「ブッフィエ」などとされているものもある。(Wikipedia)

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 この島国は、陸地が三割、山地が七割と言われてきました。国土の七割を占める山にはたくさんの樹木が茂り続けてきました。もちろん、それを植え続けてきた人々のバトンタッチがあってのことだったでしょう。すべてが人間の手になるというのではありません。高温多湿は、植物には好適の環境だったから、自然のまま、実生から成長するものもあったことは確かです。しかし、たくさんの木々を育て実らせるには、どうしてもそこに人間の「働きかけ」が必要でした。自然環境への人間による「働きかけ」、いわゆる「手入れ」「耕作」「栽培」です。これこそが、「文化(culture)」という語の本来の意味だった。「木を植えた男」は小説ですけれど、多くの人の心を打った。そして、ぼくたちは知らないだけで、実は、これまでにも無数の「木を植えた人々」がいたからこそ、この劣島の景観や環境が保たれてきたのだということです。荒れ地を耕す働きが、人間の生活の出発地点でした。それは今も変わらないままです。

 ここに、ほんの数人の「木を植えた人」を紹介したいのですけれど、本日は止めておきます。歴史のそれぞれのページには、名もない(名を残そうとはしなかった)人たちの文化(生活)の受け渡しで埋め尽くされています。英雄や豪傑、政治家など、歴史に登場する・したがる人物は、何ということもないのです。圧倒的多数の「名のない民衆」が、生活(文化)の連続(リレー)を放擲しなかったからこそ、ぼくたちの「現在」があるともいえるでしょう。各地で盛況を見ている「コスモス畑」も、たくさんの「名もない人々」の共同作業で維持され管理されてきたのです。恐らく、この社会の歴史の継承をそこに見るのは、決して間違いではないでしょう。

 <Nameless, poor and beautiful>という生き方の流儀に、一時期の迷い(若いころの過ち)はあったかもしれないが、結局、ぼくはこれまでずっと、この流儀に憧れてきましたと言えそうだし、そう言いきれれば、我が生、余事なしです。。

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 明日も日和で ヤレホンニサ なぎるやら

〖朝凪(あさなぎ)〗 三十数年前、子どもの頃に経験したある出来事が脳裏をよぎる。留守番中、遠縁を名乗る男性が訪ねてきた。男性は「入学祝いだ。お父さんか、お母さんに渡しといて」と祝儀袋を玄関に置いてそそくさと帰った。誰への祝い? 私を含めて直近に入学した家族はいなかった。/その晩、両親は祝儀袋を急いで返した。郷里では選挙が近づいていた。記憶は定かではないが、男性は候補者か候補者の熱心な支援者だった。こちらは両親に「何で受け取ったんだ」と一方的に叱られ、男性への不信感がしばらく消えなかった。/「政治とカネ」の問題で、広島市安芸区では市議の辞職、失職が繰り返されている。12月にある補選は、この6年で3度目という異常事態だ。各候補には論戦を通じ、政治不信を抱く有権者に選択肢を示してほしい。(社会担当・渡辺裕明)(「記者コラム」中國新聞・2024/11/14)

 「凪」は「なぎ」で、動詞形は「なぐ」です。また「和ぎ」と書いて「な(ぎ)」と訓じます。その意味は「風がやんで、波がなくなり、海面が静まること。朝凪や夕凪」(デジタル大辞泉)その反対は「時化(しけ)」です。朝刊に「朝凪」欄があり、夕刊に「夕凪」欄があるというのは、どんなに穏やかな生活ぶりでしょうか。しかし、「凪」は時には「時化」を呼ぶ。油断めさるなという天気の教えでもあるでしょうか。「時化」は「湿気(しけ)」の当て字です。気分が塞ぐことを「しける」という。「湿気た顔」を見せるな、などという表現はよく使います。 この駄文集録では初めての紹介コラムですが、時には「いいなあ」とか、「そうなんだ」というような納得ずくの記事が短文(320字程度)で書かれていると、なんだかこちらも気分がよくなりそうです、つまりは湿気てはいられないんですね。

 「天網恢恢疎にして漏らさず」という。「天が張りめぐらした網は広く、目が粗いようだが、悪人・悪事は決して取り逃がさないということ。天道は厳正であり、悪は早晩罰を受けるということで、悪事を戒める言葉」(デジタル大辞泉)とありますが、選挙違反の一つや二つ、悪事とも何とも思っていないのですね。むしろ「法網怪怪密にして漏らす」という塩梅です。

 真面目に「公職選挙法」など読んだことがないのは自慢にはなりませんが、今般の衆議院選で一躍脚光を浴びた「公党 T 代表」などには、「好色選挙法」だったかも、といいたくなります。彼の選挙区は香川ですけれど、饂飩(うどん)ばかりではなく、なかなかの「選挙熱心」県でもあります。選挙戦のさなかに「好色」の振る舞いでしたから、さぞかし「元気もりもり」だったでしょう。それにしても、どこまでも嘘を貫き通すのか、出だしが嘘なら、最後まで嘘を付き通すのがいいのでしょうが、なかなかそれは至難の業。くだんの「代表」もあえなく「撃沈」間違いなしです。議員辞職ですね。手に負えない連中が議員になりたがるのです。

 「朝凪」の記事に戻ります。広島が選挙・違反の話題になるのは、それだけ地域性というか、人間関係が濃密だということの逆証明でしょうか。ぼくも、ある事柄について、この「広島県民生」を味わったことが何度かあります。それはまた別稿で。時の法務大臣が妻の選挙に際して、当選を目論み、大変な買収工作を繰り返し、逮捕有罪となったことがありました。つい最近のこと。刑期を終えて出所した元法務大臣は「刑務所内の処遇」が酷(ひど)すぎると、その改革に乗り出されているのは、経験はものを言うということか。かみさんも選挙違反で有罪になったと思う。夫婦ともども悪質極まる派選挙違反で「赤じゅうたん」を踏みしめる国柄です。夫・唱婦随(不随)とはこのことか。「政治と金」という問題ではなく、「政治家(屋)と金」と言い直すべきでしょう。今では、国会議員全体が汚れているような有様です。「朝凪」どころの話ではないですね。ぼくは、新聞記者氏に対して、つくづく感心し、感動すらするのは、「性懲りもない」という性情、それもかなり重症の性情をお持ちだということです。

 「12月にある補選は、この6年で3度目という異常事態だ。各候補には論戦を通じ、政治不信を抱く有権者に選択肢を示してほしい」と、ぼくのような軟(やわ)な神経の持ち主ではとても言える「科白(カハク・セリフ)」ではありません。まだ高校生だった頃に、ぼくは新聞記者になろうかと夢想したことがあります。ならなくてよかったかどうか、今でもわかりませんが、たぶん「三日と務まらなかった」のは確かだと思う。新聞は「社会の木鐸」だなどと、今もって信じている人は一人もいないでしょうが、「木鐸」が聞いて呆れるような為体(ていたらく)です。これはこの島国に限りません。欧米の新聞社も例外ではないと言い切れるでしょう。アメリカなど、とんだ「先進国」です。つまり、この性情は、政治や生活に波風を立てないという流儀のなせる業ということでしょう。「大人になりなさいよ」

 とにかく「和ぎ」で行こう。「朝凪」というコラムは大事なことを教えてくれているようです。「明日の日和(ひより)は ヤレホンニサ なぎるやら」

波浮の港

磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る
波浮の港にゃ 夕焼け小焼け
明日の日和は ヤレホンニサ なぎるやら

船もせかれりゃ 出船の仕度
島の娘たちゃ 御神火(ごじんか)暮らし
なじょな心で ヤレホンニサ いるのやら

島で暮らすにゃ 乏しゅうてならぬ
伊豆のいとこは 郵便だより
下田港は ヤレホンニサ 風だより

風は潮風 御神火おろし
島の娘たちゃ 出船の時にゃ
船のとも綱 ヤレホンニサ 泣いて解く

磯の鵜の鳥ゃ 沖から磯へ
泣いて送らにゃ 出船もにぶる
明日も日和で ヤレホンニサ なぎるやら
(野口雨情・詞、中山晋平・曲 1928)

(*左写真:波浮の港,東京都下大島町)

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毒にも薬にもならないよりは…

 昨日の熊日コラム「新生面」には「ドクダミ」をはじめ、各種野草の料理について書かれていました。だれもが知っていて、誰もが、それほど好まない「雑草のかずかず」。「雑草などという草はない」と誰かがおっしゃいました。これも同じ人だったか、「名もない草など、何処にもない」と。その代表格は「ドクダミ」だと言えば、罰が当たるか。コラム氏も「放っておくと砂利の間からいくらでも生えてくる。強い臭いが手に残るのでおっくうだった」と大変に好まれなかった様子がわかります。ところが、不思議というか、現金なもので、見方、接し方が変われば、好みも変わるの例え通り、野草の魅力を伝える趣味人に出会って、その態度が正反対に変わった(と思う)。「ドクダミのてんぷらは、ほんのり残るえぐみが癖になりそうなほど味わい深い」とまでいう。この後も、この「深い味わい」がコラム氏に残るといいのですが。

 (下写真:左より「ドクダミ」「イヌコウジュ」「スベリヒユ」「セイタカアワダチソウ」「カラムシ」)

【新生面】野草の魅力 単身赴任先から自宅に帰ると、家族から命じられるのが玄関前のドクダミ抜きだ。放っておくと砂利の間からいくらでも生えてくる。強い臭いが手に残るのでおっくうだった▼そんな考えが、山本愛子さん(46)との出会いをきっかけに変わった。山本さんは上天草市松島町の古民家を改修した「教良木ベース」で、野草料理を楽しんだり、野草の魅力を伝えるワークショップを開いたりしている▼山本さんの料理を食べて驚いた。イヌコウジュを使った鶏胸肉の香草焼き、スベリヒユのからしあえ…。食材は森や庭に当たり前に生えている草ばかり。やっかいものだと思っていたセイタカアワダチソウは、ジャガイモのチーズ焼きにアクセントを添えていた。ドクダミのてんぷらは、ほんのり残るえぐみが癖になりそうなほど味わい深い▼海や山に囲まれた地域で暮らすと、その土地が持つ豊かな富に気付く。何しろ、野辺に生える草がごちそうになるのだ。「そこにあるもの」で過ごせる生活の何とぜいたくなことか▼都市部でせわしなく暮らしていると、足元の草花に目を向ける余裕も失いがちだ。けれど、目が回るほど働いて稼いだ金で買うものだけが、幸せをもたらしてくれるわけではない。山本さんの料理にはそんなメッセージが詰まっていた▼食べられる野草を見つけ出すひとときも楽しい。早速、覚えたのは「ごつい大葉」のようなカラムシ。玄関前のドクダミと一緒にてんぷらにしたら、家族は驚くだろうか。食卓を想像し、少し心が弾む。(熊本日日新聞・2024/11/13)

 拙宅の裏庭は「ドクダミの苑」とでも言いたくなるように、今を盛りに繁殖しています。かみさんと二人暮らしで、これを「天ぷら」にして「ほんのり残るえぐみ」を賞味しようとしたら、どれくらい食べられるか。どこまでいっても、きりがないくらいに繁茂する。さらには「セイタカアワダチソウ」などは、野にも山にも「ぐんぐん茂る」で、今だって、自宅前の空き地いっぱいに、おそらく2メートルはあろうかというほどに成熟しています。草茫々、その草をかき分けなければ家に入れないことになるのではと、時には恐れたりしています。ぼくは、これまでに何度も「ドクダミ」のお世話になってきた。小さいころから何かにつけて利用していました。別名は「暮らしに役立つ万能薬草」でしたから。だからと言って、それが当たり前に生活の友となったかというとそうではありません。何事に限らず、マメでないといけません、という教え(戒め)です。

ドクダミは東アジア原産のドクダミ科の多年草です。日陰や湿地を好みます。ドクダミの花名の由来は、毒や傷みを抑える効果を持つことから「毒痛み」が転じたと言われる説と、葉の特有の匂いが毒ではないかといわれたことで「ドクダメ」と呼ばれるようになり、それが「ドクダミ」になったという説があります。また、別名「十薬」と呼ばれ、十種類の薬効があると言われ古くから薬草として使われてきました。
ドクダミの開花時期は5月~6月で、茎先に十字型の白い花を咲かせます。ドクダミの白い花びらのように見える部分は実は葉が変化した総苞片で、花は中心の突出した黄色い部分のみです。ただし便宜上、この白い総苞片を花と呼んでいます。
ドクダミの花言葉「白い追憶」は、子供の頃、ドクダミを嗅いだことやケガをしたときにドクダミの葉で手当てをしてもらったことなど、暮らしの中にあったドクダミにまつわる懐かしい記憶が由来とされています。もう一つの花言葉「野生」は、地下茎で繁殖していくたくましさからつけられたようです。(LOVE GREE・https://lovegreen.net/languageofflower/p150485/)

 それらの草花にはどこかしらに「厄介者」、「邪魔者」という気分が消えうせないで残っています。今だってそうで、根こそぎ切り取ってしまおうかと、鍬を取るのですが、いずれまた生じるであろうから、適当に付き合うことにしようかとなる。能登半島の田舎生まれでしたから、「生薬」というものの世話になった記憶は強くあります。「ゲンノショウコ」などもその典型でした。コラム氏が出されている主だった野の草花はいずれも大切な生薬(しょうやく)でした。世に「毒にも薬にもならない」などという。「害もなく益もない。じゃまにもならないが、たいして役にも立たない」(デジタル大辞泉)という、あってもなくても、どうでもいいもののを言い当てています。反対に、毒になるなら、薬にもなるともいわれる。また「薬も過ぎれば毒となる」とさえ言います。度を越せば、なんだって身体に悪いのですが、どうしても度を超すという悪癖(弱さ)もまた、人間にはある。

 「酒は百薬の長」というのなどはその代表です。飲みすぎれば、「いのちを削る鉋(かんな」」などとも。何事も「程」があるというのでしょうし、その「程」は人それぞれだから面倒です。裏庭に繁茂している「ドクダミ」も、ほどほどに収まっていればかわいいのでしょうが、どうしても広がろう、もっと繁ろうと分を超える(越えたくなる)。それを見ると、一気に除草してやろうとなるのでしょうか。さらに、あらゆる木々に絡まって伸びるのが「ヤブガラシ」、こんなに繁殖力の強い植物もあるものだと、かえって感心するほどです。

 毎年草取り(除草)に追いかけられている身としては、適度に手を休めて、いろいろな草花といっしょに生活しているという感覚になってきました。先ごろ京都から来た友人が「家の周りの樹木などが大きくなりすぎて、手を入れないと大変なことになるで」と忠告してくれました。彼は京都高尾の近くで製材所をしている。雨が多く、陽差しも強ければ、万物みな育ついう次第で、拙宅の住人ともども、樹木や草花に埋もれて住んでいるのですが、これこそ文字通りに「陋屋(ろうおく)」「あばら屋」の境涯というものでしょう。

 まったく知識はありませんけれど、いわゆる「雑草」などと嫌われてきた多くの草花は、そのほとんどは「生薬(しょうやく)」として利用されてきました。大和本草学などという領域には長い歴史と知見があり、江戸時代には一時代を画しました。それをどこかでていねいに学んでおけばと、時には思ったりしたことはありますが、ついにそこに至らなかったのも、中途半端な人間の性(さが)というのでしょうか、思い出したように、先学の書を手に取るばかりでした。

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北海道空知郡栗沢村上美流渡鉱

【卓上四季】恩師の手紙 行きつけの書店でエッセーの棚をぼんやり見ていた。表紙に並木の絵をあしらった小ぶりな本が気になった。回想集「落ち穂ひろい」(あけび書房)。ページをめくっていると、めったに目にしない地名が出てきた▼<北海道空知郡栗沢村上美流渡(かみみると)鉱>。美流渡はいまの岩見沢の山間部に位置する。96歳になる著者の歌人、碓田(うすだ)のぼるさんには大切な思い出につながる土地だ▼1945年の冬。国鉄長野工場の見習工だった碓田少年は美流渡に赴く。敗戦直後の極端な労働力不足を補うため、当地のちいさな炭鉱で採掘に従事した。ボタ山や炭住、共同風呂の記憶は鮮やかだ▼あの住所は、手元に残る古い手紙に記されていた。差出人は小学校の担任だった恩師である。卒業後も文通していた。先生はおしろいの香りをほのかに漂わせ、着物の帯を締め直してくれた。<どうか、少し位の悲しみ、苦しみにもまけないで>。やさしい励ましがときに届いた▼文通は互いに住所や境遇が変わっても約30年続いた。碓田さんは啄木研究者としても活動してきた。関わりのあった文学者らを本書で回顧する。冒頭を飾るのが美流渡が出てくる一編「恩師の幻」だ▼郵便料金が30年ぶりに改定され値上がりした。懐には厳しいけれど、便りだからこそ伝わることもある。懐かしい人に一筆したためようか。(北海道新聞・2024/11/13)

 (ヘッダー写真は「ジャン・フランソワ・ミレー『落ち穂拾い』1855年」:エッチング,・ムステルダム国立美術館)

〈碓田のぼる(うすだ・のぼる)1928年長野県生まれ。歌人。渡辺順三に師事。新日本歌人協会代表幹事など歴任。国際啄木学会、日本民主主義文学会会員。歌集『花どき』で第10回多喜二・百合子賞受賞(1978年)。歌集に『歴史』『信濃』『くれない』、評論集に『渡辺順三研究』『火を継ぐもの 回想の歌人たち』『石川啄木と「大逆事件」』『啄木断章』『一九三〇年代「教労運動」とその歌人たち』『石川啄木と労働者―「工場法」とストライキをめぐり』など。)(上記内容は「落ち穂ひろい」刊行時〈2023年〉のものです)

  「恩師」という語で、どれだけの想像力が働くだろうか。ごく常識的な理解をするなら、学校時代などに教えを受けた「先生」を指すでしょう。しかし、どんな「先生」も、すべてがだれかの「恩師」になるのではないから、そこには独特の、あるいは特別の意味が込められているに違いありません。もちろん、「恩師」は学校の先生に限らないのは言うまでもありません。そう断っておいて、さて、「君にはどんな恩師がいたか?」と尋ねられたら、たちまちにぼくは困惑する。悲しいかな、「恩師」と呼びたくなる「教師」「先生」は一人もいないからです。これはぼくの最大の不幸かもしれません。これまで八十年間生きてきて、一人として「恩師」と呼びたくなる、呼べるような存在に出会えなかったのは、返す返すも不幸の極みだといえるかもしれない。教えられた人は無数にいたし、尊敬に値すると心底思わされた人もたくさんいました。それでも、「恩師」という名で呼びたくなる存在は、たったの一人もいなかった。残念というべきか、あるいは「恩師」などと呼べるような「先人(先生)」と、当人との関係はどうだったかを考えると、一概に「恩師」呼ばわりは、ぼくにはできない相談ともいいたくなる。

 本日の「卓上四季」は、そういう「恩師」のいないぼくからすれば、羨ましい限りの「追想の恩師」でした。まず、そこに触れられている「碓田のぼる」氏にはまったく知識がない。初めて聞くお名前であり、そのお仕事ぶりでした。ぼくの無知はともかく、こういう人が同時代に生きていると知るだけでも、何か「生きる」ことの値打ちというのか、人生の深さというものを教えられます。(早速に、碓田さんの「落ち穂ひろい」他数冊を注文しました)たくさんの著作(主なものは「歌集」です)をお持ちだということも知りました。(不勉強極まるという、わが怠慢を激しく呪っています)

 北海道には何度か行きましたが、ほとんどが所用だったり、観光見物だったりした。大半が車での移動でしたから、ゆっくりと土地に足を下ろして歩いたことはなかった。空知郡栗沢村上美流渡は夕張炭鉱の近くに位置しますから、おそらく従前は石炭で栄えていたのでしょうか。詳細は省略。コラム氏は当地の小学校の卒業生か、あるいは、その「恩師」は遠く離れたところから上美流渡の学校に勤務されていたのでしょうか。偶然本屋さんで見つけた著書に、なじみの地名が出ていた。そこからの連想で懐かしい「恩師の手紙」が思い出されたという。「先生はおしろいの香りをほのかに漂わせ、着物の帯を締め直してくれた」

 <どうか、少し位の悲しみ、苦しみにもまけないで>(まさしく、恩師ですね!)

 卒業後も三十年にわたり恩師との文通は続いたという。その「恩師」は健在だといわれているようでもあり、あるいはそうではなく、「恩師」ではない、コラム氏にとって「懐かしい人」に「一筆」と言われているかのようでもあります。このところの文意がよくわかりませんが、でも、「便りだからこそ伝わることもある。懐かしい人に一筆したためようか」と言われる、その心を慮(おもんぱか)ってみます。この数年は、一度として手紙を書いたこともないし、葉書もせいぜいが「年賀」代わりに出すくらいのもの。その昔は、一本の書状を出すにも「下書き」を作り、それを手直しし、清書して出したものです。

 何とも言えずに、ぼくが羨ましいと思うのは、このような「子弟」の関係です。これまでも偉そうに、ぼくは教室の外(卒業した後)にも続く関係の中に持続する「教育の働き」があるなどと言ってきました。教室の中に限定されない、教室や学校の外に広がり繋がる「教師と子ども」の関係にもまた、教育の名で表され「交際(コミュニケーション)」があるのだと。そうは言いながら、ぼく自身は、繰り返し言ってきたように、学校にも教師にも「信」を置いてこなかった。自ら望んだことだから、それを後悔しているのではありません。ひとえに羨ましいというのは、何年たっても「面影」が消えないままに、誰かと「交流」「厚誼」が変わらないで続くということに、です。自分にとって、その関係を「恩師」と呼ぶかどうかは、当事者の問題。名称に囚われないままに、「忘れ得ぬ先生」というものも、多くの人の中には記憶されているでしょう。

 (右上に出した「戸田城聖」という方をぼくは若いころに調べたことがあります。彼の師だった牧口常三郎氏に私淑し、後年、牧口氏は「創価教育学会(創価学会の前身)」を開き、戸田さんも入信。奇遇だと思うのは、牧口さんも戸田さんも北海道で「教員」をしていたことがあるのです。ことに、戸田さんは夕張炭鉱のある校区の学校に勤務されていたことがあった。それはコラム氏の通われた学校だったろうか。牧口さんは、柳田國男さんの主宰されていた、民俗学徒の集まり「郷土研究会」に真面目に参加されていた履歴があった。当時の牧口さんの風貌は、実に寡黙・実直・真面目だったと、柳田さんは書き残されいます。その牧口さんは治安維持法にかかわって拘束され、戦中の44年11月に獄死されています。戸田さんは、二代目の創価学会会長だったかと思う。一種の奇縁のようなものを感じたので、右の「恩師 戸田城聖先生」に触れた。牧口さんの「創価教育学」についても駄弁りたいが、それは稿を改めて。ぼくは何度か読んだものです。(親戚知人に「学会員」はいますが、ぼくは無信心・無信仰ものです)

 何事も時代のせいにするつもりはない。まして、自筆(直筆)がまったく尊重されない時代であるからこそ、「恩師の手紙」によって、ぼくは心を打たれる思いがしたのです。誰にも負けないくらいにぼくは筆不精であり、文章を書くのは葉書一本でも苦手です。今でも、年に数回は「書簡(手紙)」を戴くが、出す返信は「ワープロ」で作成という、実に味気ないものになっています。それゆえに、「恩師の手紙」にそこはかとない「滋味」を感じた次第です。(右は「あえて不便な暮らしがいい。北海道の森(美流渡)で始めたパン屋さん」・https://colocal.jp/topics/lifestyle/ecovillage/20160225_65793.html

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