【新潟日報】「少しずつ運転手も戻ってますけどね。まだ動いてない車が結構ありますよ」。新潟市内で乗車したタクシーの運転手さんが、業界の話をしてくれた。新型ウイルス禍が尾を引いてドライバーは激減。稼ぎ時の年末を迎えても、稼働できずに「寝ている」車両が少なくないという▼バス会社しかり。医療介護の分野しかり。人材不足がニュースにならない日はない。本紙は先日、酪農家が全国で1万戸を割り、県内でも15年間で6割減ったと報じた。飼料高騰による経営難は切実で、さらに酪農家の半数が離農を考えているというから深刻だ▼教育現場からもショッキングな実態が伝わる。県内小中学校の教員欠員が、過去最多の70人に上っているという。児童生徒の減少により学校の統廃合が相次ぐが、その前に教員の確保が難問として横たわる▼人口の縮小が続く2040年には、暮らしの維持に必要なサービス分野で1100万人もの労働者が不足すると、民間シンクタンクが予測を公表したのは昨年のこと。未来図と今が徐々に重なり合っていく▼うろたえるばかりでは仕方ない。暮らしを維持するためにありったけの知恵を働かせたいけれど、腹をくくる算段も要る。迎える社会を思いきり前向きに夢想してみる▼足りないものを補い合い、協力し合える機運が高まるなら悪くない。一方で、他人に依存しすぎず、自分で考えて対処する力が研ぎ澄まされるかもしれない。障害があっても活躍できる環境が、もっともっと整えばいい。(新潟日報・2024/12/23)

若いころから、何によらず「データ」を眺めるのが好きだった。その多くは単なる数字にすぎないけれど、いろいろな景色というか暗喩が見えてくる気がしたからです。必要に迫られて、「18歳人口」の推移に興味を持ち続けていました。いわゆる高卒(大学進学)人口の増減に、この国・社会の浮沈がかかっていると思われていたからでした。
ぼくが勤め人になったのは、1970年初め、今から半世紀前のことでした。73年に子どもが生まれた年の「出生数」は200万人超でした。今から思うと、変な言い分ですけれど、子どもたちには気の毒なことをしたという気がしないでもありません。昨年の出生数は75万人でしたから、半世紀前に比べて、3分の1以下です。2008年がこの国の総人口のピークでした。その後、いろいろな経緯をたどりながら、人口減が続きます。近年では年間80万人以上の人口(自然)減が続いています。
いつだったか、国連が百年後の日本の人口が7000万人を割る・切るという数値を出したことがあります。30年ほど前だったでしょうか。ぼくは大変な衝撃を受けました。一億人を超えるのが常態であるとして「社会インフラ」をはじめとする制度や組織が整えられてきたのですから、一気に減少とはいかないでしょうが、徐々に人口減が社会の各方面に大きな打撃を与える、それに対処するにはどうするか、そんな埒もないことをぼくは想像し、愚考していたのでした。そのころ、ぼくが勤めていた学校の受験者数が16万人超。当時の国内の受験者数が64万人程だったから、4人に1人が勤め先の学校を受験する計算でした。狂っていましたね。当時の経営責任者に「十年先、二十年先を考えると、拡大(収容学生数増大)ではなく、むしろその逆のことを考える必要がある」と進言して、一笑に付されました。当時の受験料が3万円だったと記憶しますから、それだけで50億円近くの(使い道に制限のない)収入、経営者の笑みは絶えなかったでしょう。その人は「学生は勉強などしなくてもいい。大学はディズニーランドなのだ」と嘯(うそぶ)いていた。ぼくは彼を軽蔑したものでした。

現在の「大学」が、いかなる状況にあるか、ほとんど関心を持たなくなったので、詳しくは知りません。しかし、日常的に生じているさまざまな出来事のほとんどに「大学卒」が絡んでいることを思えば、この国や社会は崩壊の一途をたどっていると感じざるを得ないのです。「大学教育」の功罪が見て取れる気がする。ヘッダーに掲げた図(数値)を見ていると、たくさんの埒もないことが思われてきます。多くの識者の想定以上に「人口減」は急激であるということ(出生数の減少と自然死の増加による)、必要に応じて、国内の人口減を補うための「外国籍」労働者の増大が、いくつかの理由で進まない等々、このまま人口減が推移していくと、二十数年後には一億人を割り込み、さらに七十年後には、あるいは明治時代の人口規模に戻るかもしれないと推定されている。このような急激な人口減というのは、各地、個々の行政単位ではあったにしても、おそらく国家としては(戦争の結果を除いては)、初めての経験でしょう。
まるで、急峻な坂道を、汗水たらして駆け上って、頂上に着いたと思った塗炭に、一気に頂上から駆け降りる羽目に立ち至っている、まるで嵐に襲われた登山者の如くです。中村草田男さん(1901~1983)は「降る雪や明治は遠くなりにけり」と詠まれた。時に昭和六年一月、虚子の推奨でこの句が「ホトトギス」に掲載されたのが三月。無謀な満州(侵略)事変が始まろうとしていた時代です。その時から、この小さな島国は、背伸びに背伸びを重ねて、分不相応な「振る舞い」「傍若無人」ぶりを重ね、ついには島国そのものをご破算にした。ぼくは「国家」に対して、物心がついてからか、いかなる幻想も抱いてこなかったと思う。これは洒落にもならないが、「国立」とか「帝立」という表現は好まなかった。今はなくなったけれど、その昔に「帝立博物館」という看板がかかっていた場所だというだけで、そこには足が向かなかったほど。ぼくの友人には多くの「国立大卒」がいました。そのかなりの人たちは「旧帝国大卒」を誇りにし、頼みにもしていた風儀を感じるだけで、ぼくは心を許す気が萎えてしまったのでした。

昨日の新潟日報のコラム「日報抄」は、いろいろと示唆に富むコラムだったと、ぼくは読んだ。「(急激な人口減少で)うろたえるばかりでは仕方ない。暮らしを維持するためにありったけの知恵を働かせたいけれど、腹をくくる算段も要る。迎える社会を思いきり前向きに夢想してみる」と、その複雑な心中を書かれていました。坂道を下る人に、「もう一度昇りましょうよ」といっても、下りる覚悟を決めた人には酷に過ぎる、嫌な話で、下りるところまで下りるだけ。そんな心持がするのではないでしょうか。少なくとも五十年先、八十年先に、この社会は、人口規模だけでも近代の入り口となった「明治時代」に里帰りするのではないか。致し方ないというか、これは一つの国家の運命(終活)のようなもので、どんなに政治力を駆使しても「止まりかけている心臓」を再生ずることはできない相談だと言えます。百五十年の「往還」「上り下り」を、ぼくはひしひしと感じている。滅びるために栄えようとするのは、後の「別れ」を約束するために「出会」に狂喜する「恋人同士」のようなものが、そこに萌している、一抹のもの悲しさを禁じえないのです。草田男氏の「顰(ひそみ)」に倣って。
「(国破れて、山河なし)降る雪も明治は膝下に横たわり」
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