烏合の衆とか付和雷同とか

⦿ 週初に愚考する(五拾壱)~ 「今年の流行語大賞」とかなんとか、恒例のお粗末歳末行事が京都の寺を舞台で演じられ、無意味に大騒ぎされました。今年はパリ五倫もあったためか「金」だったらしい。いやな世相というほかありません。みっともなくて、醜悪すぎますね。戦後一時期を除いて、この社会では、常に「金」ばかりが追い求められてきました。まさに「金の世」全盛というべきでしょう。雪国のただ今は一面の「銀世界(始末に悪い)」ですけれど、そんなものでは満足しないのが「金の亡者たち」ということで、とにもかくにも「金世界」という悪い時代をぼくたちは生かされているのです。「金の切れ目が縁の切れ目」とは「女系図」のお蔦さんの繰り言。「別れろ切れろ」と言わないで、どうして…と、令和の時代、「湯島の白梅」も汚れ切ってまともには目も当てられません。梅が泣いているという気もしてきます。(ヘッダー写真はCNN.co.JAPAN:https://www.cnn.co.jp/fringe/35227641.html

 「流行語大賞」は瑞穂の国の専売ではなかった。同じような「イベント」をするのは洋の東西を問わないようで、イギリスのオックスフォード大学出版局では、今年の言葉(いろいろな文献で使用頻度の高かった語)(the definitive Word of the Year for 2024)として「腐脳(Brain rot)」が選ばれたと報じられています。出版局の発表の一部を以下に引用しておきます。 

‘Brain rot’ named Oxford Word of the Year 2024   

Following a public vote in which more than 37,000 people had their say, we’re pleased to announce that the Oxford Word of the Year for 2024 is ‘brain rot’./Our language experts created a shortlist of six words to reflect the moods and conversations that have helped shape the past year. After two weeks of public voting and widespread conversation, our experts came together to consider the public’s input, voting results, and our language data, before declaring ‘brain rot’ as the definitive Word of the Year for 2024.

Why ‘brain rot’?

‘Brain rot’ is defined as “the supposed deterioration of a person’s mental or intellectual state, especially viewed as the result of overconsumption of material (now particularly online content) considered to be trivial or unchallenging. Also: something characterized as likely to lead to such deterioration”./Our experts noticed that ‘brain rot’ gained new prominence this year as a term used to capture concerns about the impact of consuming excessive amounts of low-quality online content, especially on social media. The term increased in usage frequency by 230% between 2023 and 2024.

The first recorded use of ‘brain rot’ was found in 1854 in Henry David Thoreau’s book Walden, which reports his experiences of living a simple lifestyle in the natural world. As part of his conclusions, Thoreau criticizes society’s tendency to devalue complex ideas, or those that can be interpreted in multiple ways, in favour of simple ones, and sees this as indicative of a general decline in mental and intellectual effort: “While England endeavours to cure the potato rot, will not any endeavour to cure the brain-rot – which prevails so much more widely and fatally?”(The rest is omitted.)(https://corp.oup.com/news/brain-rot-named-oxford-word-of-the-year-2024/)

 とくにこの「ブレーンロット」について、いまさらぼくには話すことはない。ただ注意したいのは引用文の中でソローに言及していることです。「この『語』が初めて使われたのは1854年で『ウォールデン』と題された本(自然界における彼の単純な生活記録が綴られている)においてであったということ。ソローの結論部分。「複雑な思考やさまざまな解釈の余地を軽んじ、単純な思考を過度に重んじる傾向を批判して、このような単細胞の頭脳は精神的かつ知的な努力そのものの全般的衰退(退化)の兆候」「イギリスはジャガイモの腐敗を防ごうと努めているが、この『脳の腐敗を治そうとするものはもいない。脳の腐敗は広範かつ致命的であるのに』」、とそれが不治の病であることを示唆している。

 二百年前の指摘には驚きますが、何のことはないんですね。「便利」と「効率」がひたすら重んじられるのは、時代に関係なく、都会や人口密集地では何時だってその価値が追及されてきたのです。今なら、さしずめ「新自由主義」とかいう妖しい(怪しい)主張が言いそうなことに当たります。効率一辺倒、利便性最重視、それ以外は「無駄」だと切り捨てる。社会から「無駄」が除かれる傾向こそが、「腐った脳」たちが強硬に進めている社会悪だといえばどうでしょうか。その「対価」こそが「金」だという話で、実に語る・騙るに落ちた、とはこのことでしょう。効率も悪く金がかかりすぎる「高齢者」が排除の対象になるのも「新自由主義」のような「弱肉強食派」の主張の「眼目」だとするなら、腐った脳は「ネオリベ(neoliberalism)」そのものをこそ「根腐れ」させているのではないかと思う。

 ネット時代は、われわれにさまざまな「功罪」というか、「メリット」「デメリット」を齎(もたら)しています。その最大の「問題点」は「物質的欲望」の限りない拡大欲求を唆(そそのか)していることではないでしょうか。便利(コンビニ)とか、効率(コスパ・タイパ)とか、何でも「単純化」し、面倒は省く。「自分で問題を考えなさい」などというのは愚の骨頂、ネットに頼る、頼り切る、SNSに身をまかせる、浸りきる、その結果、この時代を席捲したのは「時間は貨幣だ<Time is money.>」という「唯物主義(materialism)」だったと言ったら、マルクスも爆笑せざるを得ない、まるで「滑稽譚」ですね。(一日何時間か働いて、いくばくかの賃金を得る。それを生活の糧として、ささやかに生きようとする、そんなまだるっこい金稼ぎなんかできるかと、他人の金品・人命までも強奪するというのも「新自由主義」的犯罪(優勝劣敗・弱肉強食)で、これに類似する人間の蛮行は、地球上のいたるところで噴出しているのではないでしょうか)

 このところ、さかんに民主主義の危機が叫ばれている。本当ですか、とぼくは眉に唾をつけている。民主主義はいつだって「危機(crisis)」にあるのであり、安全・安泰であったためしはない。また最近の選挙はSNSに大きな影響を受けている、ネット選挙は民主主義の危機を招いていると方々で言いはやされている。ぼくはそうは思わない。出鱈目の限りを尽くす人間が当選する、当選させることはいつだってあったのだから、「民主主義の危機」は選挙民の「無思考」「無智」「無関心」が招いているのですよ、そのようにぼくはそう考えている。ネット時代だから、どうだということも全くないわけではないでしょうが、考えない人間がSNSを使ったから、より無智・無謀になるということはあっても、初めから無智が根づいているのだから、というほかないでしょう。つまりは民主主義の危機は「腐敗した脳」が呼び込んでいるのです。「何とかに刃物」ですか。「腐敗した脳」は長年の教育の成れの果て、学校教育の罪は深いと、ぼくはここでも言うのです。

 「腐敗した脳」は、今に始まった現象ではないという、そのような状況を示す言葉に不足はありません。思いつくままに挙げてみると、まず「烏合(うごう)の衆」、いかにもカラスに無礼千万だと思うけれど、「無秩序の集団」「規律も統制もない寄せ集め」、つまりは群集(crowed)の出鱈目さ加減を、カラスを引き合いにだして、実際は人間自身の自らの無思慮を白状している。「附和雷同」「阿附(あふ)雷同」「附和随行」と似たような語がいくつもあります。その謂は「自分の考えなどなく、ひたすら他人の意向や意見に盲従する」ということでしょう。なぜそうするか。他者から仲間外れにならないため、自らの考えを持たないから、盲従するばかりです。さらには「「吠影吠声(はいえいはいせい)」「党同伐異(とうどうばつい)」などという今日ではあまり使われない熟語もあります。言葉は使われなくなったが、その意味するところは健在ですよ。「根拠のない嘘を付くと、周りはそれに同調して、どんどん広める(拡散させる)。いかにもネット時代の「疫病」ですね。また「党同伐異」は、この社会の政治にいつだってみられる現象です。「理非曲直」「是非善悪」は棚に上げて、徒党を組んで敵を攻撃する、これが政治になっていると思わないですか。あえて誤解されそうなことを言うと、「猫に小判」とか「豚に真珠」のように、初めから「無思慮な人間」に持たせたのがアイフォン(スマホ)だっただけ。「腐脳にアイフォン(iPhone)」さ。

 つまり、ネット時代だから、SNS全盛期だから、デモクラシーは危機だというのは、一理はあるけれど、短絡に過ぎる。つまりは「腐敗脳」の愚考だと思う。「腐敗脳」が根っこにあることを忘れたくない。「腐った脳」(ぼくも、その持ち主の一人)がネット時代に生き、SNSにかぶれ・しびれているのですから、危機は増大していることは間違いない。「善・悪」「正・不正」「義・不義」「真・偽」などどうでもよくなっているんじゃないですか、この社会は。自分で判断することも考えることもできない・しないのですから、誰かに、何かに依拠するしかない、そんな社会や時代を作ってきたのは、誰だったか。<GAFA><BAT>のせいにするのは、正確ではないでしょう。もともとが「腐敗脳」だったところに「ガーファ」や「バット」が忍び込んだのです。「アイフォン」が付け入るスキがあっただけで、いずれこうなるのは時間の問題だったと、ぼくは言いたい。「今からでも遅くない、アイフォンを捨てよ」とぼくは叫ばない。何台でもお持ちなさいと、いつでも夢を!「学校教育」の悪影響の根が深いですね。

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大学入試とは何でしょうか

 昨夜の八時過ぎに電話があった。パソコン関係の師匠に当たる卒業生だった。久しぶりの電話だったので、「何かありましたか」と訊いたほど。「実はいま、池袋の巣鴨刑務所跡地に建てられた高層ビルで『同窓会』を開いている」という。もう三十年ほども前の卒業生たちだった。それぞれが仕事をもって活躍している年齢。その場にいて電話に出て声を聴かせてくれた方々(6名)は、すべてが職業人。教職関係が4名。自衛官幹部(航空一佐)、家庭用品メーカー企業幹部などなど。懐かしい声を聴くと同時に、在学時の個々人の風貌も蘇ってきました。いうならば「謦咳に接する」趣がありました。恐らく年代的には「戦後第二次赤ちゃんブーム」時代(1970年代初め頃)の方々だったから、当時のこととして「入試」はなかなか大変だったでしょう。

 ぼくは勤務を辞めて十年以上が経過しました。だからほとんど「大学入試」の現状に関して詳細は分からない。しかし、大学入試が頻繁に根っこの仕組みを変えて来たとは思われませんから、おおよその察しはつく。旧態依然(昔のまま)組もあるが、先駆けの功名というか、他大学の鼻を明かすというか、とにかく受験生囲い込みに血眼派もあるのでしょう。「有名校」(その内容は問われていないのだが)も安閑とはしておられなくなって久しいのではないでしょうか。コラム「天風録」は東洋大学の「新機軸」に触れていました。この学校の創立(明治20年、井上哲次郎の「哲学館」が母体となる)は明治期ですから古い大学の部類に入りますけれど、しばしば思い切った「改革」に打って出る点ではそれなりに名が通っていました。「年内入試」という、これまでの「弊風?」を打破すべく、年が明けないうちに合否を決めて、「学生確保」を計ったというのです(「年のうちに春は来にけり」)。かつての「青田買い」ならぬ、「代田買い」といったところでしょうか。多くの大学が付属や系属学校を併設するのも、早めの学生確保のため。18歳人口の激減期に入っているのですから、何でもありということです。一種の「先物相場」を張るようなもので、入学期にはもう「(学生の)賞味期限」が切れるという事態も、当然のようにあるはずです。

【天風録】年内入試 「受験」は春の季語である。憧れの大学を目指し、若者はこの時季、年末年始返上で勉学に打ち込むことが当たり前だった。その光景に何やら変化が起きている▲12月までに合否が分かる「年内入試」の合格者が2023年度に全体の半数を超えた。春どころか、正月前に合格を手に入れ、安心したい若者が増えているのだろうか。初詣で合格祈願の絵馬を掛ける姿を見かけることも、心なしか減った気がする▲大学側にも早めに入学者を確保したい思いが透ける。出生数は大学定員の約64万人に近い水準まで既に落ち込んでいる。定員割れに危機感を募らせるのは当然で、就職時に批判を集めた「青田買い」が入試でも加速しそう▲東洋大が今月行った、新しい年内入試が物議を醸した。面接、小論文ではなく学力テストで事実上選考し、併願も認める。定員の35倍に当たる2万人が志願したが、文部科学省は「学力試験による選考は2月以降」と原則の徹底を求める方針という▲国公立中心の一般入試はこれから本番を迎える。受験を終えた年内入試組に負けず、一般入試組も頑張ってもらいたい。双方が交じる教室で、授業を続ける高校の先生たちにもエールを送る。(中國新聞・2024/12/28)

 ぼくの感覚では、競争入試とはいうものの、こと大学に関しては、無試験合格もかなりの割合を占めているのではないでしょうか。数の上だけからいうなら、すでに「無試験入試」「全員入学」の時代に入っているのです。いつの場合でも、「少数精鋭」というべきか(多数が精鋭であってはならないという不文律でもあるのでしょうか)、「倍率」は低くても合格が難しい大学や学部はある。今は、老いも若きも「登山時代」とはいうものの、だれだって「チョモランマ(エヴェレスト)」に昇れるとは限らないのと同じように、特定の大学・学部にはいつの時代でも厳しい「点数競争」はあるのです(それがいい「大学・学部」かというと、そうは言えないんですから、世の中捨てたものではない)

 でも、時代が変わったとされるのは、大学入学後、より「優れた企業」など(「一流」が存在するかどうか、ぼくには判断できない。一つの基準として「長年の不正」がなかなかばれない、「お目こぼし」がお上からもらえるような会社かな))への就職にはどんな変化が起こっているかを知ることです。また、それこそが問われるべきでしょう。昔からの相場として合格難易度では最上位にあるだろう「司法試験」も、実際はなかなかの就職難に直面しています。特に弁護士業は厳しいとされます。卒業生も何人か開業していますが、競争そのもは厳しいといいます。大学卒業生を受け入れる、日本の企業社会や官僚社会そのものが、従前とは性格を異にしてしまったのです。日本の経済規模がシュリンクし、驚くほど貧弱なままで、先の展望も見いだせない時代になっている。昭和の初めは「大学は出たけれど」という映画まで公開された「就職難」時代でした。今日がそうだといいませんけれど、そうなりそうだとは言えないでしょうか。

 「教育は国家百年の計」と誰が言ったか知らないけれど、教育行政の任に当たる官庁の繰り出す政策は、まさに「朝令暮改」の連続だった。昔も今も。いったい「人間教育」をなんと心得ているのかといいたくなるような、お粗末な面々が暗躍も明躍もしてきた、その結果が今に生じている、箍(たが)が外れた社会状態、そのようにぼくは考えています。

 昨晩に電話があった卒業生個々の「足取り」を知るにつけ、病気や怪我さえしなければ、誰でもが、それなりに生きていけるのだといえば、卒業生に叱られるでしょうか。他者より優れていたいなどという賤しい根性ではなく、自らの選択と責任において、選んだ職業に従事するということに関し、ぼくは彼らや彼女らのような方々に敬意を持っている。長く教師まがいをして来て、ぼくが学んだのは、人より優れることにエネルギーを使うのではなく、困っている人、助けを求めている人がいれば、自分のできる範囲で力になれる人間、そんな人間(大人)こそが、社会には欠かせないのではないかと、いまさらのように痛感しているのです。とするなら、「大学」は、かかる人物・存在を生み出すことを邪魔している、大きな障害になっているとも言えそうで、何とも空しいですね。

◎参考記事:大学入試は「年内合格続々」、東洋大が広げた波紋 大学「全入時代」、選抜方法の在り方が問われる:東洋経済・2024/12/10)(https://toyokeizai.net/articles/-/845100?display=b

 ⁂ 小さな疑問 ~ 「大学入試」というものの一つの機能は、高校までに蓄積してきた「学力(学校で決められた能力・その多くは暗記力かもしれない)」の程度を計るもの。勤め人時代にしばしば耳にした愚論に「うちの大学に相応しい学生を取りたい」というのがあった。そんな受験生がどこにいるかと、ぼくは呆れかえった。「わが大学に相応しい人物」になるように「教育」を行うべき大学の務め(職業意識)をどうとらえているかが、言わないでもわかる「愚論」だったから、ぼくは、大学教師は何もしないで「学生を卒業させている」だけ、そんな教師が多くいる場所だと、我ながらその職場に絶望しながら惨めな思いを隠さないで勤めていました。サッサと止めていればよかったと、今でも思うことがあります。)

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八十倍になった「一兆よい国」…

【夕歩道】(中日新聞・2024/12/26)
▶「インフレは立法なき課税である」と言ったのは、1976年にノーベル経済学賞を受賞したミルトン・フリードマン博士。政府の2025年度予算案の概要を眺めつつ、その名言を思い出した。
▶消費税で考えるとよく分かる。例えば財務省の統計では、23年度に23兆円だった消費税収が24年度は24兆円余に。賃上げを上回る物価高が家計を圧迫しても、国の取り分は勝手に増えるのである。
▶その消費税と法人税、所得税を軸とする税収は今回、78兆円を見積もり、6年連続で過去最高を更新する見通しという。それでも財源は足らず、なお28兆円もの国債が必要だというから頭が痛い。(ヘッダー図・https://www.khk-dr.jp/gurafu/g6_2.htm)

 中学2年だったか、社会科の授業で「当年の国家予算」について、担任教師が「1兆4192億円」を「語呂合わせ」で教えてくれたことを、いまだに覚えている。「一兆よい国」と言ったのだが、ぼくには「意味不明」だった。それがどんな「国」か想像もつかなかったけれど、「暗記」だけは続いてきた。昭和34(1959)年のことだった。(1959年度予算・1兆4192億900万円・1兆よい国)あろうことか、岸信介首相時代。すでに日米安保条約改正が大きな政治問題になっていた。爾来、65年。次年度の国家予算(概算)規模が115兆円余となった。年明けから「予算編成」が始まるだろうが、その規模だけを取ってみれば、この間におよそ八十倍か。予算額(規模)が八十倍になったのは、わかりますが、その内容はどういうことだったか。要するに生活必需品以上に、「国土インフラ」や、いわば「贅沢品」などが膨らんだということか。それを生活水準向上というのでしょうが、「水準」そのものが曖昧ですから、単なる「規模拡大」とでもしておきましょうか。(この「語呂合わせ」なる悪習は、大蔵省が財務省に改称された段階で完全に絶えた)

 細かいことは省くとして、微かな記憶に残っているのは、当時(昭和34,5年)、我が家を新築した際の予算が60万円ほどだったと思う。今でいう「大衆車(当時は T 社の「コロナ」がそうだった)」一台の価格だった。家一軒車一台と謡われた。さて、単純に八十倍して見ると、家一軒は5千万程度。5千万円の車は豪華すぎる。今でいう大衆車なら200万円くらいか。家と比較して車が安いと感じるのは、それだけ「大量生産」が昂進したからです。

 昨日の「夕歩道」には「消費税(「密かな増税」とぼくは呼ぶ)」の国家予算に占める割合が相当に高くなったことに触れられています。(言わずもがなのこと、フリードマンの「名言」と言われているが、それは違う。寧ろ市民への「戒告」、あるいは政府に対する「叱責」と取るべきだ。インフレを放置しても「税額は増える」というのは政治ではないからだ。予算額の七割近くが「国税」で、その「税収入」の三割が消費税です。予算(税収)に占める割合は「物価高騰」を境に急激に増えている。仕組まれた「物価高」といいたくなるのも道理でしょう。

 しばしば例えられますが、国家予算を「家計」に置き換えるとどうなるか。大雑把な計算をしてみます。ある家庭の収入は1150万円だとする。今日の水準からすれば、高収入家庭と言えますね。ところが実態はなかなか「火の車」です。そのうちの給料(税金)は780万円ほど。うち三割(230万円)が借金(新規国債など)ですから、実際的な収入は550万円。総収入の半分近くは借金(ローン)ですから、まさに「ローン地獄」に嵌っている状態、物価が騰がる、金利が上がる、「何とかしてくれ」と、表向きは「高収入」家庭の、心底からの悲鳴が聞こえてきます。物価が騰がれば、消費税額も上がり、税収が増えるという、機械的税収奪構造になっているのです。

 支出の内訳は「医療費」「生活費」「教育費」「防犯(専守防衛)費」などなど。もちろん、もろもろの借金(ローン)返済は家計に重くのしかかる。このような「家計」のどこが問題か。言わずもがな、ですね。「実収入」に見合った「支出」に方向を転換せずんば、いずれ「倒産(破産)」する運命にある。

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 借金塗(まみ)れで返済の当てもなくなると「自己破産」宣告を受けて、「社会人」通常の扱いは受けられなくなります。国の場合はどうか。自称他称の経済学者?で、「国はどれだけ借金しても構わない」という戯言(たわごと)・寝言(ねごと)を広言する人がいる。つまり、この国は出鱈目が通用しているという意味ですが、それもしばらくの間。一国内だけのことなら、いくら紙幣を増刷しても、愚かな国民相手なら暫時は通用しよう。しかし、どこもこの国を相手にしてくれない。国内だけで一億余の人間のための「自給自足」ができようはずもないのですから、遠からず「倒産」「降参」「国家解散(解体)」の憂き目を見ます。もうその段階に入っていると、ぼくには思われます。亡国の淵にある国を守る国防予算が八兆円と、文教予算(五兆円余)をはるかに超えているのはなんででしょうか。狂気の沙汰というべきですね。

 (この先を書くことが馬鹿らしくなってきましたので、本日は、ここまでに)

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それにつけても金の欲しさよ

【小社会】暮れの芝浜 クリスマスも過ぎて年も押し詰まってきた。暮れになると、よく耳にする落語の定番といえば「芝浜」。最近も流れるような江戸言葉で魅了する故・古今亭志ん朝さんの名人芸を聴いた。/腕はいいのに、酒ばかり飲んで働かない魚屋の男が50両の大金が入った財布を拾った。もう商売なんかしなくていい、と仲間と大酒を飲む。目覚めると財布はなく、女房は「夢を見たのさ」と諭す。そんな夢まで見るとは、と反省した男は酒をやめて商売に打ち込む。/働きに働いて、店まで持った3年目の大みそか。除夜の鐘を聞きながら、女房は―。年末の風物詩となる古典には、「文七元結(ぶんしちもっとい)」もある。どちらも大金が絡む人情噺(ばなし)。落ちは心が温まる。/今年の漢字は5回目の「金」だった。五輪ごとに「金」では芸がない。いっそ殿堂入りを、という声も聞く。とはいえ、年の瀬まで続いた臨時国会を見ていると、なるほど「金」の1年だったかな、とふに落ちた。(高知新聞・2024/12/26)

 「一攫千金(いっかくせんきん)」という。「棚から牡丹餅(ぼたもち)」ともいう。「果報は寝て待て」は、少し趣は異なるか。それにつけても「金の欲しさよ」、金の世、まさに真っ盛り。官民挙げて、「金だけが頼り」「金があっての物種さ」と、マイナス金利時代の長いトンネルを抜けだしたら、物価高騰の乱痴気とあってみれば、闇でも雲でも「金になるなら」と、老いも若きも「金に目がない」というか、「金目に血眼」というか。アサマシイ、サモシイ、イヤナジダイニナッタトオモウ。

⦿ 世をそむく柴の庵に銭もちてさびしくもありさびしくもなし                                                    ⦿ 義理を欠く浮世の定め苦しかりそれにつけても金の欲しさよ                                                 ⦿ 忍び込み騒がれ叫ばれ始末せん切りたくもあり切りたくもなし                                                   ⦿ 女房と相談をして義理を捨てそれにつけても金の欲しさよ                                                      ⦿ 祭りごと身ぐるみ剥がれて素寒貧それにつけても金の欲しさよ。(自作多作取り混ぜて)
⦿ 降る雪や根岸の里も闇バイト
⦿ 年の瀬に闇の労働いとまなし 
⦿ 社会鍋袖の下ならいくらでも
⦿ 金に明け金に暮れ行く師走まで
⦿ 銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何にせむ
(「金遊病時代」の上を下への捨て鉢です)

 (参考記事)あるまじき行為のオンパレード(その一端) 「国税庁吏員が窃盗を働く。これこそ「直接収税」というか)

東京国税局

 東京国税局調査官、電車内で窃盗・未遂を重ね「やらない方が損だと思うように」…停職6か月 東京国税局は25日、いずれも30歳代の男性職員2人を停職6か月と同3か月の懲戒処分にしたと発表した。/停職6か月の処分を受けたのは、同国税局に勤務する国税調査官。今年6月6日~8月24日、利害関係者ではない友人と知人から、プロ野球観戦や飲食など計約7万5000円分の接待を受けていた。また、埼玉県内の自宅最寄り駅前のベンチで寝ていた人のカバンを盗もうとしたとして、8月24日に窃盗未遂容疑で現行犯逮捕された。/さらに、帰宅途中のJR京浜東北線の電車内で、網棚に置かれていたリュックサックを持ち去るなどしていたことも判明。調査官は計3件の窃盗・窃盗未遂罪に問われ、12月23日に懲役2年、執行猶予4年の有罪判決を受けたという。/同国税局の内部調査に対し、調査官は「金には困っていなかったが、自由に使える金を増やすことが目的だった。盗みを繰り返すうち、やらない方が損だと思うようになった」と話している。調査官は同23日付で辞職した。

 一方、停職3か月の処分を受けたのは、神奈川県内の税務署に勤務する国税徴収官。2019年1月~24年9月、勤務中にスマートフォンで計1673回、馬券を購入していた。馬券を購入するための口座は、計約3900万円の入金が確認されているという。/また、徴収官は22年2月~24年6月、所属する部署の職員らが積み立てた積立金から計約329万円を無断で持ち出し、大半を馬券の購入費に充てていた。発覚を免れるため持ち出しと返金を繰り返しており、現時点では、全額が返金済みだという。 /徴収官は内部調査に対し、勤務中の馬券購入について「ばれないだろうと思った」と説明。積立金の持ち出しについては、「競馬で負けて手持ちがなくなったが、購入したい気持ちを抑えられず、後で返せば問題ないと考えた」と話したという。辞職はしていない。 /同国税局の北野彰三・国税広報広聴室長は「税務行政に携わる公務員としてあるまじき行為。誠に申し訳ない」とコメントした。(読売新聞・2024/12/25)

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子どもや先生の足が遠のく学校って?

【金口木舌】学校とは何か 学校が楽しいと感じる子がいれば、つまらない子もいる。先生も同じ。教育に懸けた志がついえてしまう人もいる。つまらないとこぼす人が先生にもいた▼年末の学校に関する記事に考えさせられた。2023年度に全国の小中学校で不登校の子どもは約34万人。一方で高校などを含め約7千人の教員が休職という。子どもも先生も足が遠のく学校とは何か▼県内の小中高校の不登校は8千人超。休職した先生も250人超で増加傾向だ。児童生徒はいじめなどを恐れ、嫌々通学し、先生は多忙極まる職場に嫌気がさしつつ通勤する▼「目の前にある社会システムに従うのは困難だ。だから私は下りる」。精神科医・斎藤環さんとの対談で作家の佐藤優さんが語っている。息苦しさに耐えかねて学校から遠のく人の胸の内には、そんな宣言もひそんでいよう▼コロナ禍では通学せずともネットで教育がどこでも受けられた。通学の苦痛から救われた子もいる。「ここがダメでもあそこがある。家でも」。遠回りかもしれないが、無理やり教室に連れ戻すのではなく、別の選択肢を示すことも解決への一歩となるかもしれない。(琉球新報・2024/12/26)

「学校とは何か」と問う。「当たり前(通念)」を激しく疑うのは大切なこと。新聞記者が疑う、珍しいけれど、大歓迎だ。「通うのは当然」「行かない子は悪い」と、これまで散々に言われた。学校嫌いの人間にすれば「喜んで学校に行くって、ありえへん」と思うばかり。「学校は楽しい」という子どもや大人に、稀に出会ってぼくは驚愕し、仰天した。マジか、と。まるで「軍隊や刑務所は楽しいね」「また行きたい」というに等しい。なんと理不尽な、と今も思う。横並びを強制しつつ、序列(順番)をつける、この救いがたい「矛盾」。点数や成績が位階・等級となり、「胸に勲章」を貰う、そんなのが楽しいのか。偶然にクラスで出会った他人と「競争」して「勝つ」「負ける」という滑稽さ、卑しさ。無意味だね。怪しい「優越感」「劣等感」に誑かされている。▶「目の前にある社会システムに従うのは困難だ。だから私は下りる」とは某氏の言。ぼくは「学校の餌食」になれなかったし、教師たちに「不信の念」をもった。可愛げがなかったな。だれもが仮面を被っているように見えた。振られた「役」を演じていたか。素顔を隠さないで居れる場所になるといい、今の今も念じ続けている。(500字)(ヘッダー写真『ありふれた教室』・日本版予告)(https://www.cinemacafe.net/article/2024/04/02/90882.html

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 子どもも教員も「行きたくない」からという初心(覚悟)があったわけではなく、それぞれの胸に希望や期待をもって学校に交わった。にもかかわらず、こと、志を異なって、「こんなはずではなかった」ということだったと思う。ぼくの褒められない経験からすると、学校に「期待」や「過度の期待」をもっていたからこそ、その戸惑いや絶望にうちひしがれてしまうのではなかったでしょうか。もちろん、期待通りの「学び舎」であったり、仕事場(現場)だったという珍しい子どもや教師もいたでしょうし、今だっていると思う。それは例外だし、数からいっても少数派でしょう。その小尾tから「利益」を得ているからこそ、現状を容認するのだから。

 しかし、とぼくはつくづく考えるのだ。「行きたくてもいけない」という正直さんは数からは粗油数は出会っても、心のうちに「行きたくないな」とあと隠している子どもや教師はたくさんいる。その理由は何かをはっきりと探るために、学校から「テスト」をなくしたらどうなるか、どうにも困ることになるに違いない。誰ができて(優)、誰ができないか(劣)を明らかにすることが学校の「社会的機能」だと、多くの人は固く信じているからです。優劣の争いが「学校教育の狙い」であってたまるかと、ぼくは言いたいですね。そんなところにはないよ、ってね。

<School is a place to meet.><The classroom is a meeting place.>「出会う場」であり、「話し合う場」です。

 点数なんかどうでもいいという自覚をもって子どもと接する教師、それが求められているのではないでしょうか。乱暴に聞こえるかもしれませんけれど、学習というのは自分でするもの、強制されるのは「学習」とは言わないのではないかと、ぼくは一貫主張・実践してきたし、いまも、その態度に変化はない。学歴や学校歴に過大な評価を認める社会の現状を見るにつけ、教育立国であったはずが、教育某国になっていたという笑えない現実に、ぼくたちは直面しているのです。さあ、どうします?

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夜は暗い、それが自然の摂理だ

:: イルミネーション(「電飾」とも)が好きではない。嫌いだとはっきり言おう。一度も「ライトアップ」地に出かけたことはない。夜は暗い、それが相場でしょ。都内では東京タワーとスカイツリーが「異常電飾狂」の双璧でしょうが、人騒がせな演出の極みというべきだ。好みからも、ぼくは華美や煌煌を好まない。不自然は事故の源だと思う。各地の「ライトアップ」ばかりは当方に手が出せないので、出かけないことにしている。▶寺社の「照明過多」ほどの「異端」はなく、神社仏閣が率先しているとは、かける言葉もない。不信心も大概にせよ。▶「飽きることを知らない電力消費の象徴のように見えて、胸のつかえを感じる」(「日報抄」)という感覚こそ真っ当で、無駄や邪魔も厭わず、大量に消費して電力不足感を惹起したい、電力会社(経産省)の見え透いた思惑。誘蛾灯の「蛾」になるな。「思う壺」だと知るべし。▶「たまには電気のない世界もいいのではとの幻想を抱かせてくれる」(「明窓」)とは能天気な「蛾」か。正気を取り戻せと、冷水をかけたい。「たまには電気のある世界」こそ、ほんの最近の珍事という事実も知らないで、ブンヤも何もあったものではないだろ。(496字)

【明窓】電気とクリスマス 起業家の表彰式を取材した12月上旬の夜。会場だった東京・芝公園のホテルを後にすると、ライトアップされた東京タワーが目に飛び込んだ。温かみのあるオレンジ色に浮かぶ東京のシンボルの美しさに思わず携帯のシャッターを切った。/クリスマスを迎え、都心はどこに行ってもイルミネーションで彩られ、華やかだ。東京タワーも23~25日はプロ野球巨人の球団創設90周年記念したオレンジカラーとクリスマスカラーが交互に輝く。/そんなクリスマスの東京がもし停電になったとしたらどうなるか-。イブの東京を舞台に、停電の夜に交錯する人間模様を描いた群像劇が、2005年公開の映画『大停電の夜に』だ。/物語は、さまざまな事情を抱える人々が暗闇の中で普段目を背けていた感情に向き合い、胸の奥にしまい込んであったほろ苦い記憶を語り始める。不便さを感じる環境だからこそ向き合わざるを得ず、気付くことができるというメッセージも伝わる。映画を彩るろうそくの明かりも温かく、たまには電気のない世界もいいのではとの幻想を抱かせてくれる。/中国電力がおととい、島根原発2号機(松江市鹿島町片句)の発送電を始め、約13年ぶりに一般家庭や企業に原子力の電気を届けた。政府が示した次期エネルギー基本計画の原案は、原発と再生可能エネルギーを最大限活用していくと明記した。電気について考えさせられる冬である。(吏)(山陰中央新報・2024/12/25)
【日報抄】ねたみというか、ひがみというか。冬の青空を見せつけられると少し悔しくなる。その日も、みぞれ降る灰色の空がトンネルを抜けると別世界になった。新潟から新幹線で上京する際、しばしば感じる「不条理」だ▼年の瀬の都内は大規模なイルミネーションが随所できらめいていた。東京駅の近くで燦々(さんさん)と輝く一角を歩いた。1キロ超に及ぶ通り沿いに連なる約300本の街路樹を82万個の電球が彩っている。インスタ映えする都会の夜を謳歌(おうか)する人波に気後れした▼国は先日、エネルギー基本計画の原案を示した。東京電力柏崎刈羽原発の再稼働も織り込む電源構成の青写真を描いた。今更言うまでもなく、柏崎刈羽で発電する電力の大半は首都圏で消費される。事故などのリスクは立地地域が負う構図は変わらない▼都内のイルミネーションが全て東電供給の電力を使うわけではないだろう。LEDは消費電力を抑えられる。とはいえ、飽きることを知らない電力消費の象徴のように見えて、胸のつかえを感じる▼身内を含めて新潟からも多くの人が移り住む首都圏は、決して地方と対立関係にあるわけではない。どうしても原発が必要なら東京湾に造り、使用済み核燃料は都内で処理すればいい、などと言うつもりもない(新潟日報・2024/12/25)

(下の写真は(ヘッダー写真も含めて)「アーバンライフメトロ・立川昭和記念公園」(https://urbanlifemetro.jp/view/10163/

 追記 立川昭和記念公園と聞けば、ぼくは四十年も交際している「他人(ひと)の妻」を想起します。彼女は立川で生まれて育った、立川原人だった。長い間には「原人」は洗練されたのか、あまり洗練されないままの「原人」であったらどうでしょうか。現在は、人伝(ひとづて)に聞くところ、結婚されて東福岡の地に住んでいるらしい。恐らく原人ぶりを発揮していることと思う。写真の唐笠の女人(だと思う)、あるいは「立川原人」、その人に見えてきます。魂は立川に飛んできているのか。連れ合い君ともども、くれぐれもお元気で。(「夜目遠目、傘の内」といいますね。見たいような見たくないような。その心は「怖いもの見たさ」です)

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