
「エビネ」という野草、何時の頃だったか、おふくろに教えられた。彼女はとても植物が好きで、猫の額のような「土地(箱庭?)」にたくさんの野花を植えては楽しんでいた。ぼくは、少なからずその影響を受けて育ったと思う。花が咲いたら、「きれいやなあ」といい、咲き終わったら、「ありがとう」と言いつつ、「お礼肥え」をやる、そんな花との関わりを教えられた。もう何十年も前、苦労して育てていた「月下美人」が一夜限りの盛り(開花)を見せ、近所の人々がおふくろの家に押しかけ、それが新聞に掲載されたこともあった。そんなおふくろが、「これはええ草や」と大切に育てていたのが「エビネ」。だからか、ぼくの住むところには、いつも密かに育っていたのも「エビネ」でした。

昨日のコラム「明窓」には「ミゾソバ」との遭遇・邂逅が語られていました。貸農園の一角にたくさんの花が咲いたと。それを摘み取り、家の中に飾ったとある。「若い頃はそこまで関心がなかった草花に、年を取るにつれ癒やされるようになった」とは記者氏。そういうこともあるんですね。ぼくは違う。小さいころから、草花が好きだった。観るのも育てるのも。今から思うと、よくも気恥ずかしいことをしていたなと、我ながら信じられないことでしたが、自宅で育てた草花を、出がけに切って、それを教室の教卓などに飾ったりしていた。多くは小学校時代だったが、中学生になってもやっていた。たくさんの「カンナ」を教室に飾る、別に教室が好きだったわけでもなかった。たぶん、そのままにしておけば、枯れてしまうので、それを少しでも生かそうとしただけだったかもしれない。
今でも、人間とは違った意味で、草花や樹木が好きだ。それが嵩じて、山の中ともいうべき小高い僻地(標高百mほど)に住んでいる。自宅敷地は草草草草(+花+樹木+竹)でいっぱい。今年は、あまりの暑さに「除草」を中断したまま、今に至っているので、普段以上に草草草草が猛然と繁茂している。敷地を囲む樹木や竹も伸び放題。京都から来た友人(元製材所社長)が「少しは手入れをしないと、大変なことになるで」と忠告してくれた。でも、今もなおそのままに、伸び放題になっている。
【明窓】山野草にとっての楽園 先月、借りている畑の一角に小さな薄紅色の花が咲いているのに気付いた。座布団2枚分ほどの広さに群生。かわいらしさに少し摘み、玄関や部屋に飾っている。花の名前を調べるとミゾソバ。あぜや溝の近くに育つタデ科の植物だ。この頃ぐんと寒くなり、そろそろ見納めだろう。/ 若い頃はそこまで関心がなかった草花に、年を取るにつれ癒やされるようになった。人間の汚いところを多く見たため汚れのない様に引かれ、自分が花盛りを過ぎたからこそ心に染みるのだという。テレビのバラエティー番組での分析。明確な根拠はないだろうが納得だ。/ ミゾソバのような野花を見て、思い出す人がいる。以前取材した島根県邑南町の男性。シイタケ栽培に使っていた山に10年ぶりに足を踏み入れると、ほだ木に咲いていたのはエビネ。ひっそりと生き抜く姿に突き動かされた。その山を「山野草の楽園」として整備し、30年前に一般開放を始めた。/ それまで色鮮やかで大ぶりな花を美しいと感じ、趣味の盆栽は、妻が「見ていると自分の身が痛い」とこぼすほど針金を巻いて仕上げていた。その中で「自然に咲くのが一番」と気付き、山野草を守り続けた。/ 取材時に「楽園の名は山野草にとっての、という意味です」と教えてくれた。男性は亡くなり、楽園は有志が継いでいる。草花との穏やかな時間を共有できる尊さを、男性の言葉と共に時折かみしめる。(衣)(山陰中央新報・2024/11/29)

⦿ミゾソバ(溝蕎麦)=茎は軟弱で、3〜6稜があり、根元からよく分枝して、逆向きのごく小さい棘に覆われ、棘で他物にひっかかりながら、よじ登ったり地面を匍匐したりしながら成長し、節から根を出して群落を作る。葉は矛形で、表裏には星状毛と棘があり、葉柄があり、互生する。葉柄も茎と同様に棘に覆われる。葉の基部には筒状の托葉鞘があり、上部の縁には毛があるものと、丸く広がって葉のようになるものがある。7~10月頃、茎頂に半球形の花序を作り、10個ほどの花を咲かせる。花弁に見える部分は萼で、先端が5裂する。花被片は先端部がピンク色で、基部が白い。蕾の状態でも花後の状態でも同じような色なので、長期間花が咲いているように見える。花柄には赤色の腺毛が密につく。果実ははっきりしない3稜がある卵球形の痩果で、花被片に覆われたまま黄褐色に熟す。(「植物写真鑑」:https://www.zoezoe.biz/2010_syokubutu/ka_3_ta/134_tade/persicaria/mizo_soba.html)(ヘッダー写真も)
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コラム氏が触れていた「山野草の楽園」。島根県には何人か友人もおり、機会があれば尋ねたいと思いながら、願いを果たさないままでした。まるで「木を植える人」のような、一人の人物が語られていました。こういう人を見聞きすると、ぼくは無性に嬉しくなる。「シイタケ栽培に使っていた山に10年ぶりに足を踏み入れると、ほだ木に咲いていたのはエビネ」だったという。この男性には「趣味の盆栽」があった。その連れ合いの方が凄いですね。「見ていると自分の身が痛い」とこぼすほどに、盆栽には針金が巻き付けられていたのだ。ぼくも盆栽は大嫌い。かなり前、かみさんが友人から「欅(けやき)」の盆栽仕立てを貰って来た。ぼくは、早速、それを土に植えた。数年もしないうちに、大成長をして、隣地内にも落葉が積もるほどになったので、泣く泣く伐採してしまったことがある。
この島根の男性は、その後「自然に咲くのが一番」と改心、「山野草を守り続けた」とあります。まるで素晴らしい教師のような感覚と経験を持たれたんでしょうね。教育は「素質を引き出す」「素質を育てる」、そのための働きかけなのだと思えば、植物を栽培することに重なりますね。リンネという植物分類の恩人は「プラントアナロジー」などといったという。ルッソオの語るところでした。草木も人も「素質」を育てるのであって、縄や針金で「あらぬ方向に」向けるのではないこと、言うまでもありません。茄子(なす)の幹枝に胡瓜(きゅうり)を生(な)らせることではないし、林檎(りんご)木を切って、机にすることでもない。だが、多くの場合、教育は「矯育」であり、「恐育」になっている。「矯」とは「ためる。ただす。曲がったものをまっすぐにする。悪いものを正しくする」「いつわる。だます。うわべをかざる」「上に向ける。あげる。あがる」と、たくさんの、力づくでの「不自然さ」を示す行為を指している。訓読みは「矯(ため)る」「矯(いつわ)る」ですから、まるでまっすぐに伸びたい松や皐月(さつき)を「針金で、無理やり曲げる」ようなもの。いじめですな。

「草花との穏やかな時間を共有できる尊さ」と、記者氏は述べています。立派な「盆栽」には、「どうだ、俺の技量に参ったか」という盆栽いじり・いじめの「自慢」や「驕(おご)」りがありありで、いかにも鼻につきませんか。「私が育てたのです」と、自らの力を云々する親や教師みたいなもの。いやだな、とつくづく思う。ぼくは、「見事な盆栽」を見る前に、その針金をペンチで切り取りたい衝動に駆られる。素直な子どもを見ていると、もっと反抗しなきゃ、と煽りたくなるし、実際に煽ることもあった。三十年ほど、細々と各地の学校を巡って「授業の真似事」をしてきたのも、「いい子だと思われようとするな」「教師に対して従順になるのはよくないぞ」と、子どもたちに告げて回っていたのでした。「自然に咲くのが一番」「楽園の名は山野草にとっての、という意味です」と言われた島根の男性の顰(ひそみ)に倣(なら)うと、「自然に(自力で)育つのが一番」「(教室は)楽園の名は子どもにとっての、という意味です」と繰り返したくなります。
それにしても、「エビネ」はいいですよ。大仰でもなく、自慢げでもなく、それでいて、清楚で強靭で、それでいて、ひっそりとしていて(gently)。まるで、ぼくが終生憧れ続けて来た、人としての「存在の仕方」のようですね。
(⇓ 邑南(おおなん):「山野草の楽園」・https://www.oochijikan.com/spot_nature/1767/)

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(いろいろな「エビネ」類です。拙宅の庭にもいくつかの花が咲いています)
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