
本日は,一年間の二十四節季の最後の候である「大寒(だいかん)」です。(次の節季は「立春(2月3日)」)この頃からでしょうか、以前なら「三寒四温」などという表現で、待ち遠しい春に思いを寄せていたものでした。同じ時期に決まって思い出すのは、一つのエピソード。その昔、学校教育の「原理主義」「唯一解論」に関して、つまらない論議を呼んだことがありました。小学校の理科の試験で「雪が解けたら何になる」という質問に、ある子どもは「春になる」と回答したら、それは「間違い」とされた、正解は「雪が解けたら水になる」と答えなければならない、と。誰がそう決めたか。教師あるいはテスト業者の仕業だったでしょうか。
奇しくも昨日で「大学入試共通テスト」が終わりました。ヤレヤレ。「雪が解けたら何になる」という類の愚問に悩まされた受験生も多かったことだと思う。また、青森をはじめとする東北・北海道や北陸地方の「豪雪」に関して、「豪雪が解けたら何になる」と問われたら、政治行政に携わる人たちは何と答えるでしょうか。「春になる」を通り越して「夏になる」という人もいるでしょうし、不届きな輩は「金になる」とでも答えるでしょうか。そして、当節はそれが「正解」だったりして、ね。

〇大寒(だいかん)とは、一年でいちばん寒さが厳しくなるころ。冬の最後の二十四節気。各地で一年の最低気温が記録されるころですが、自然界は少しずつ春に向けて動き始めています。(本日から2月3日ころまでの期間)▶七十二候のうち、➊初候(1月20日〜1月24日頃)「欵冬華(ふきのはなさく)」凍てついた地面に蕗の花が咲き始める頃。地面には雪が積もり、強い寒さが襲ってくる時期ですが、草花は春に向けて着実に動き出しています。➋次候(1月25日〜1月29日頃)「水沢腹堅(さわみずこおりつめる)」沢の水が氷となり、厚く張りつめる頃。この時期に、一年での最低気温の記録がでることが多く、氷点下に達する地域も多くみられます。➌末候(1月30日〜2月3日頃)「雞始乳(にわとりはじめてとやにつく)」鶏が春の気を感じ、たまごを産み始める頃。自然な状態の鶏は、日照時間が長くなるにつれ、産卵率が上がっていくため、春から夏にかけてたくさん卵を産みます。(「暦生活」・https://www.543life.com/)(https://http836.home.blog/?p=91791&preview=true)

昨日引用したある新聞のコラムに、作家の五木寛之さんの「高校生へのメッセージ」が出ていました。「人生には不条理なことはいっぱいある」、けれども「それを乗り越えて生きて行ってほしい」と、自らの「戦争体験」を胸に語られている部分が引かれていた。そして「敗北をおそれず、勝利に甘えるな」との言葉をかぶせた。ここでいう「敗北」「勝利」は何を指すか、受け止め方は人それぞれでしょう。でも、五木さんが伝えたかったことは「目先」や「表向き」の「勝ち負け」に囚(とら)われないで、ということだったのではなかったか。彼が語った相手は神戸の灘高校生だったというから、なおさら、五木さんの伝えたかった真意は真っすぐに届いたかどうか、ぼくには判りません。いや「届かなかった」といいたい気もする。(五木さん自身は「勝利に甘えるな」という思いで生きてこられた「勝ち組」だったかもしれません。1932年生まれ、93歳に。ますます、ご健在です)
語り手が五木さんではなく、それを聞くのが灘校生でなかったと仮定します。大学への進学もかなわず、就職も意に添わないところで働いている、そんな人たちに対して「敗北をおそれず、勝利に甘えるな」というメッセージがうまく届くでしょうか。「今のことろ、君たちは負け組」だけれど、そんなことに怯(ひる)んでいてはいけない、もっと勇気をもって「勝ち組になれるように」と、なにか無理難題をぶつけられているような錯覚に、聞き手は襲われるかもしれないでしょう。五木さんの「真意」は、残念ながらぼくには判りません。でも彼の使われた「敗北」「勝利」という視点が、生き方にかかわる適切な言葉だったかと、ぼくは大いに疑うのです。相撲や野球じゃあるまいし。実に安直な人生論であって、「敗北・勝利」などという一刹那の「結果評価」主義を超えたところで捉え直すことこそ大切なのだと思うのです。「人生は勝ち負けにかかっている」とは断じて思わないし、ある人が「負け」と捉える生き方を、別の人はまったく異なるものと受け取るかもしれない。

面倒な議論は避けますが、「希望の大学に合格」したら、自分の人生には価値が生まれる、あるいは価値ある人生と言える、そんな軟弱なもので「生きる意味」を計ってはいけないということだったと、ぼくは考えるのです。残念だけれど、この社会において「大学」という存在は、多くの若者(大の大人にも)、いや「社会そのもの」にとって、避けようのない「躓(つまず)きの石(obstacle)」になっていると思われます。残念だけれど、この問題に対してぼくには何かを述べる資格はない。なぜなら、ぼくには「躓く石(大学)」が無いに等しかったからです。その無資格な人間のささやかな経験談として駄弁るほかありません。大学に合格したら「勝ち組」になり、その反対は「負け組」だと、誰が言うのでしょうか。ぼくの心情としては大学に入ったことこそ「負け組」、いや「大きな過ちを犯した(失敗)」という思いは年とともに大きく深くなってぼくを責めて来た。ぼくが在学したのは、世間的には恥ずかしい限りの「お粗末大学」だったから、なおさらか。
卒業生には「錚々たる悪者」が列伍をなしています。もし自らの中に、そんな愚にもつかない価値感情があるとしたなら、それをこそ全力で除去すべきでしょう。そんなことは真面目に考えたことはありませんが、社会における「勝ち組」とは誰のことを指して言うのですかと、ぼくは問いたいのです。「勝ち組」「負け組」、そういう言葉があることは知っている、それでは「俺は勝ち組」だと自認している人はいるのでしょうか。そんな愚劣人間はいないでしょう。もしあえて指摘するなら、「彼は勝ち組」と指さす人間がおり、まわりまわって、当人がそうだと、錯覚することはあるかもしれない。

とするなら、忌避すべきは社会(集団)による評価(噂・評判)の「安直さ」に雷同しないことではないか。大会社の社長だから、あの人は「勝ち組」ですか、勢いを持った政治家だから、彼は「勝ち組」だと己惚(うぬぼ)れるのでしょうか。そうじゃないと思う。自分では疑心暗鬼なんですね。間違いなしに、そんな人は弱い人でしょうね。だから、他人を蹴落としてまで「立身出世」を望むのでしょう。社会(集団)が「凄い」と評価・評判している大学や会社に至れば「あの人は偉い」と他人が認めてくれると勘違いしているだけのこと。その昔の「家柄」「家系」を誇るのなど、その典型でしょう。それでいいではないか、そのどこがが間違っているかと文句を言う人がたくさんいる時代や社会、それが「腐った」という言葉でぼくが言い当てたいことです。いつだって、だから社会(人の集まり)や集団(個人の集合体)は腐っているんですね。その中で「腐らない」「堕ちない」ことこそ、大事じゃないですか。
「敗北をおそれず、勝利に甘えるな」という「勝ち組」応援団的な発想は、いまだって根強くあるでしょう。だからへそ曲がりのぼくは「敗北をおそれ、勝利に甘える」ような、そんな美しくない人々(若者)に、初心に戻れ、勝ち負けでは測れないない生き方をこそ探せ、そう言いたいんですね。「勝ち組」になるために大学に行く、そもそもの間違いはそこにあります。それは他人を軽く見、そして自分が上にいるという錯覚を覚えさせるだけの働きしか持たないのが大学、ほとんどの人は「学歴」をそのようにしか見られないのではないかと、「学歴否定派」は愚考しているのです。

「この道は幸福への道」などというものはない。自分で歩いた道、その後にこそ、その人生の軌跡(思想)が残されるのだと思う。「歩いた道」が、そのひとの「思想」になるんでしょうね。ここで「思想」とぼくが言うのは、その人の「姿勢」「態度」そのもを指します。学歴や業績とは別種の、生きた「軌跡」そのものです。(「負けるが勝ち」という俚諺があります。加えて、ぼくは「負けるも勝ち」と言いたいし、もっと言うなら、「勝ちも負けも含めての人生」とも言いたい気がします。要するに、そんな「勝ち負け」につながるような人生の捉え方は「浅薄・短慮」だと、ね)
+++++++++++++++
「徒然に日乗」(631~637)(https://http836.home.blog/?p=91791&preview=true)
IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII





























