万事に「虚礼廃止」が肝要ですね

⦿ 週初に愚考する(五拾)~ 数日前に近所の郵便局に出かけた。郵便料金が改訂になったので、返信を認(したた)めた古い葉書には不足分を切手で払い、四十枚ほどの古いものを新しい葉書と交換してもらうためだった。葉書一枚が22円の値上げだという。しばしば利用する郵便局だったが、すっかり人員が変わっていた。おそらく店舗の代表者(昔なら局長か)は女性だった。局内に客は三、四人くらいしかいなかったが、仕事の段取りが悪いのに驚くばかり。「交換に間違いがあってはいけませんから」とか「混雑していますので」などと、あらぬことを言いながらテキパキとはいかないのだ。以前から要領が悪いのが目に付いていたが、いよいよ「焼きが回ったか」といいたくなるような鈍(のろ)さだった。いえば「弁解ばかり」で、まるで当方は「カスハラ」爺さん扱いだった。「郵政民営化」は公金(郵便保険・郵便貯金など)を、誰かが好き放題に使えるようにしたばかりで、第一、局内に「アフラック保険」を販売していること自体が、民営化の象徴だったと言えよう。郵便局ははやらない「コンビニ(万屋・なんでもや)」になっている。まずは「店員教育」をしっかりやってほしいね。

 本当は利用したくないのだが、長く専売(買)公社だったから、今なお「専売」時代の営業態度臭・醜(「親方日の丸」「横柄」「慇懃」)が抜けていないのだ。落日を迎えても気が付かない面々が取り仕切っているのだから始末に悪い。「年賀状」に関しては、どこかで触れました。かなり前から、ぼくは「年賀状」は出していないし、第一、年頭の「虚礼」は性分に合わないので、何十年も前に止めていました。新春の挨拶だからと、ぼくは「立春の日」直前に出すことにしている。一カ月以上も「挨拶」がないのは怪しからんと思われる向きもあったか、年賀状の枚数はかなり減りました。数の多少は問題外で、要は「虚礼」の部分を可能な限り減らしたい(なくしたい)、その一念での愚行だった。年賀状を書くという「強迫観念」から、すっかり解放されている。「春立つや 新年ふるき 米五升」と詠むのは芭蕉さんでした。

【地軸】年賀状 先日、社説原稿で「メリハリの利いた予算」と書いたところ点検した上役から「漢字があるため平仮名でめりはり」と教えられた。手元の記者ハンドブックを見直すと「減(め)り張り」との表記。合点がいった。
 この字を当てれば、確かに分かりやすい。語感や強調の意図から片仮名にしたい気持ちも残るが。広辞苑では、緩むことと張ること。そして「特に邦楽で音の抑揚をいう」と説明される。さらなる由来がありそうだ。
 語源の辞典などを眺めると、めりはりは「めりかり」が転じた言葉という。減りは低い音。その一方「上(か)り」は高い音。尺八といった管楽器の伝統音楽で使われている。邦楽と聞いて、そろそろ流れ始めるクリスマスソングのような曲を想像したものの、趣が異なる。
 何かと気ぜわしい中、もうそんな時季か。霜月を迎え、年賀はがきが発売された。ことしから85円に値上げ。発行数は前年に比べて4分の1少ない10億7千万枚に減った。めりはりをつける企業や個人が多いのだろう。
 数年来「今回で最後」との一筆が増えた。心さみしい思いは募るが、事情もさまざま。やりとりが続く先には、早めの準備に取りかかりたい。
 机を整理していたら、コチョウラン柄のはがきが数十枚も出てきた。喪中の年に使い切らないまま、失念したらしい。必要とする人にお譲りした。フリマアプリのメルカリを通して、少しだけお安く。物価高。家計にも、めりはりを。(愛媛新聞・2024/11/06】

 生来の筆不精だったから、例年年賀状を書くのは苦痛でした。だから、これももう何十年も前から、年齢の上下に無関係に、年頭に戴いた方にのみ「返信(返礼)」を、それも二月立春を期して出していたのです。文字通り「春立ちぬ」で、何か問題がありますかと当方は勝手に思うばかりで、相手の立場からすれば、何とも無分別、無礼者め、だったと思う。それでも「虚礼の部分」は可能な限りなくしたいという思いで、続けています。根が「不精」だから、とにかく字を書くのは苦手、それを誰かに読んでいただくのは、さらに嫌ですね。(ブログの駄文・雑文は、読む人知らずですから、それなりに気は楽。何しろ、朝飯代わりに打鍵運動をしているだけんで、気楽な分、駄文のレベルは下がり放しで、これだけは直しようがない。先月の「地軸」には「蘊蓄(うんちく)」が語られていました。「メリハリ」は、元は「めりかり」だったという。今日では、それとはまったく趣の異なる「メルカリ」が繁盛しているようですが。

 いずれ「(元)官製年賀はがき」は消える運命にあるようです。もちろん、今だって「官製」ではなく「半官的半民的」性格で、何ともあいまいなところが、企業の性格としても中途半端だと思います。民と官が同居しているというのか、同床異夢というのか。もちろん、ぼくは何十年も年賀状を購入したことはない。何日までに出せば「元日に着きます」という「煽り」運転も経験したことはありません。これには亡き友人の影響があった。売れ残った数億枚は、「毎年焼却処分している」と報じられて、彼は「年賀状」は止めて、「寒中見舞い」に変え、旧郵政省の暴挙に抵抗していました。(いまも「暴挙」は続いているのだろうか)

 松田聖子さんの「風立ちぬ」にあやかって、「春立ちぬ」が年頭の「挨拶」になっている、いつしかそんな習慣が付いてしまいました。年末年始も、まったくいつも通りだし、まさしく「メリカリ」だか「メリハリ」などもあったものではありません。「もういくつ寝るとお正月」というお伽噺をどこかで誰かから聴かされていたかもしれないという遠い思い出になってしまい、とっくに「正月」はどこかに消えました。大晦日も元日も、ぼくには「普段の一日」です。不謹慎な言い方ですが、その振る舞いは、まるで地震や雷などの「自然災害」に変わるところがない。それは「盆も正月も」ない、いつだってやってくる。「日常」の出来事になっている。昨年の元日は、今なお「能登」では続いているのです。それを忘れられないままで、「新年おめでとう」と言えますか。「言うだけでいいんだよ、どうせ虚礼なんだだから」と、どの面下げて言えますか。

 恐らく「年賀状」は皆無にはならないでしょう。そういうものです。江戸や明治の習慣(「文化」、「文明」の名残り)は、辛うじてであれ、今も生きている。例えば「丁髷(ちょんまげ)」は国技館に腐るほどある・いる。カステラは「文明堂」ばかりとは限らないのです。ぼくたちが歴史を感じるのはそういうことですね。ぼくはあらゆる「虚礼」を世間からなくそうではないかなどというつもりはない。「虚礼に励もう、勤(いそ)しもう」という人々がいるのは結構。それを他人に断りなしに押し付けないでくれ、ぼくはそれだけを願っています。「年賀状」だけが虚礼ではない。この社会から「虚礼」を除去したら、社会がなくなるかもしれないと心配される向きもあろう。でも大丈夫、どんなにつまらないと思われる「格・式」でも残るところには残っている。

 ぼくは小さい時から「式」と名のつくものが嫌いでした。四季も子規も史記も「だいしき」だったし、やがて来る「死期」は好き嫌いを超えていますから、甘受するほかないのですが、「~式」だけはだめでしたね。いちいち挙げませんが、それが消えると、ずいぶんとさっぱりしますし、かえって、「形式」なんかより「実質」が大事だという意識と生活の大転換が起るかもしれない。

 ・・・という「週初の愚考」でした。(後ろの方から「気は確かか」という声が聞こえる)(ただ今、午前4時半。室温19.1℃、湿度46%。暖房あり。膝上に、「白い甘えん坊」がいる早朝だ)

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溺れる者は藁をも摑(つか)む

 「たっすい」とは「物足りぬ」、「手応えがない」という高知(徳島)標準語。土佐生れの親父から何度かこの言葉は聞いた。彼は大層な酒飲みで、酒の代用に(おふくろが)ビールを出したら、「こんなたっすいがは、あかんちゃ」とか言って、瓶を壁に投げつけた、この場面はよく覚えている。小学生の頃。「絶対に酒呑みにはならん」と倅は誓った。▶日産とホンダが「統合協議」開始と報道される。内外野から「水と油」「うまくいかぬ」という「ヤジ」が飛ぶ。水・油は分子レベルで天敵、決して混ざらない。いずれが「水」か「油」か。「合成洗剤」なら、油にも水にも「親和性」があり、うまくくっつく。「界面活性剤」の働きによる。油まみれの衣類も、洗剤投入なら仕上がりはきれい。▶企業合併は「婚姻」に例えられる。「統合」はそこまでではないが、ほぼ類似だろう。相手はこれまで何人もの異性と付き合ってきた発展家。異国人とも関係を持った。一方は「頑固一徹」で筋(節操)を通す堅物だ。「統合」に身を乗り出したのは、背に腹は代えられぬと案じたからか。仲人(界面活性剤)がだれになるかわからぬが、この両人が華燭の典に至るとは、傍観者のぼくには思えない。(498字)

【高知新聞】水と油 「たっすいがは、いかん」ラガーが、たっすくなったりして? などと軽口をたたいたものだ。2009年にキリンとサントリーの統合協議が判明した時のこと。世界最大級の酒類メーカー誕生と騒がれた。
 だが翌年、この縁談はビールの泡のごとく消える。株の保有割合で折り合わなかったことが表向きの理由だが、社風の違いも大きかったとされる。「やってみなはれ」で進取精神の強いサントリーに対し、良くも悪くも官僚的で有名だったのがキリン。「水と油」と評された。
 ホンダと日産が統合協議を始めたとの報道に、この話を思い出した。共通するのは世界経済を動かすスケール感。そしてもう一つは社風が「水と油」であることだ。
 ホンダは創業者本田宗一郎の精神を受け継ぎ、自由で自立志向が強い。一方、日産は官僚的で、カルロス・ゴーン元会長という強烈な存在がいたためトップダウンも根付く
 とはいえ、激しい国際競争にシビックだのスカイラインだのと言っていられないのが実情か。キリン・サントリーが「攻め」の統合だったのと違い、今回は経営不振の日産救済策の色も濃い「受け」の統合。ホンダの従業員の不満が早くも聞こえるが、外堀はもう埋まっているのかもしれない。
 本来相いれない水と油も、せっけんを足せば混ざり合うという。せっけんになるのは何だろう。コスト論? 開発速度? 顧客や販売店の存在も忘れないように。(高知新聞・2024/12/20)

 両者が「統合」に向けての協議開始を急いだのは、横合いから「付き合わんか(買収するぞ)」と名乗りを上げた企業(台湾・鴻海)があったからだ。数年前に、この企業は「シャープ」を傘下に収めたが、「国際結婚」に失敗している(連年の大赤字)。どう転んでも、少子高齢化を止められない国では、自動車産業が生き延びるのは至難のこと。「国産」とか <Made in Japan> を叫んでも始まらないところにまで体力は落ちているのだ。「国威」や「国力」を誇る時代はとっくに過ぎていると、ぼくは言うばかりです。

 「溺れる者は藁をも摑む(A drowning man will catch at a straw.)」「藁」を掴んだら、オワコンだよ。もう一つオマケ、「海中より盃中に溺死する者多し」ともいう。「統合話」は「海中」で、あるいは「盃中」でするのでしょうか。

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支配しない政府が最上の政府である

【余録】「正直な人間なら十本の手の指よりたくさんのものを数える必要はめったにない」。19世紀半ばに米マサチューセッツ州の湖畔の丸太小屋に住み、自給自足の生活実験を行った米作家、ソローの言葉だ▲2年余の暮らしを記録した名著「森の生活」で初めて使われたという言葉が「ブレーンロット(脳の腐敗)」。狭い常識にとらわれ、物事を単純化する風潮を批判し、英国で問題化していた病原菌による「ポテトロット(ジャガイモの腐敗)」になぞらえたらしい▲その言葉がZ世代の間でよみがえり、SNSなどデジタル世界にはまり知性が劣化した状態を指すネットスラングになった。英オックスフォード大出版局は今年の言葉に「ブレーンロット」をえらんだ▲スマホ画面をのぞく時間は年々増える。アルゴリズムの作用や好みで情報が偏り、不寛容や社会の分断を生むエコーチェンバーやフィルターバブルも脳の腐敗の要因かもしれない▲「脳腐れ」が広がっては心配だが、大人の学力を測る「国際成人力調査」の結果にひとまず安心する。日本は北欧諸国と並んでトップグループの一角を占めた。もっとも生活満足度は最下位というから喜んでもいられない▲「『自然』そのものとおなじように、一日を思慮深くすごそうではないか」。ソローは時間に縛られる習慣や日課も嫌った。そんなナチュラリストのマネは無理でもたまには意識的にデジタル世界から離れたい。自然に触れることで脳や心の健康の回復につながるかもしれない。(毎日新聞・2024/12/12)(ヘッダー写真は=http://home.r07.itscom.net/miyazaki/Thoreau/index.html#top

 他人にはどうでもいいことでしょうが、どんな文章(記録・記事)であれ、そこに「ソロー」という「人名」(単語)が出ていると、ぼくは嬉しくなります。彼の名前や「姿」を想像するだけで、一気に「書き手」との距離は近くなるし、ソローはこんなところにもいたのだという次第で、彼は生きているなあという感情が湧いてくる。それ程に、ぼくは「ソロー」という人が好きでした。理由は単純、人生の万事が「虚礼廃止」「根っこが誠実」で生きた人だったから。「ブレーンロット(brain rot)」、「一面では「付和雷同」病に陥るような環境には近寄らなかった。詳しくは話さないが、合理的でありながら、正直で気の利いた、一人の「野生人(「文明人」ではないという意味)」という趣を有していた人、そんな御仁は、何時の時代でもいそうで、なかなかいないのではないでしょうか。(*「文明人」とは、自力では不便を託つくせに、機器類に依存しながら「至極便利」だと錯覚している「腐敗脳」患者のことか)

 およそ生きた時代も違うし、その自然・文化環境も異なるので、単純に並べたり、比較するのはあまり利口な方法だとは思いませんが、あえてその愚を犯するなら、ぼくはここに「吉田兼好」を出すことを躊躇しない。二人に似ているところがあるといえばあるし、違いはと訊かれれば、すべてが違うというほかありません。でも、結局のところ、「いかに自分らしく生きようとしたか」「社会の中で自分は、何を求めようとしたか」そのような根本的な問題において、この二人は、それぞれの時代や社会の「頸木・軛・衡(くびき)」、「柵笧(しがらみ)」「絆・紲(きづな)」などとされるものから、意識的に解放されようとしていた節が強くあったと思う。端的に言うなら「家」「家族」「仕事」、あるいは「人間関係」等々によって、可能な限り縛られたくないという願望です。さらに言うなら「(世間とは)付かず離れず(close but not too close)」という塩梅(按排・按配)で生きようとした、生きた人だったと言ったらどうでしょう。その願いを見失わないで、それぞれの思う「生活」を営もうとした人だったと理解しています。一例として、兼好さんの「生き方の流儀」とみられる様子が語られている章段を出しておきます。「知ったかぶりはよせ」という態度で生きたいと、ぼくも願っている。

 「何事も入り立たぬ様したるぞ、良き。/良き人は、知りたる事とて、然(さ)のみ、知り顔にやは言ふ。片田舎より差し出でたる人こそ、万(よろづ)の道に心得たる由(よし)の差し答へ(さしいらへ)は、すれ。然れば、世には恥づかしき方もあれど、自らもいみじと思へる気色(けしき)、頑(かたく)ななり。良く弁(わきま)へたる道には、必ず口重く、問はぬ限りは言はぬこそ、いみじけれ」(「徒然草 第七十九段」)

 一読、彼の「生活の流儀」(「生きる姿勢や態度」、それをこそぼくは「思想」と見ています)を了解しませんか。ソローにも同じような言葉がいくつもありそうです。面倒だから出しませんけれど。「おれが…」「わたしこそ…」という自己宣伝・自己拡張症は恥ずかしいこと。「良く弁へたる道には、必ず口重く、問はぬ限りは言はぬこそ、いみじけれ」、そんな「いみじけれ」が皆無なのが、ぼくたちの生きている時代や社会ですなあ。

◉ 吉田兼好 (よしだけんこう)生没年:1283?-1353?(弘安6?-正平8?・文和2?)= 鎌倉末~南北朝期の歌人,随筆家。本名は卜部兼好(うらべのかねよし)。出家ののち俗名を兼好(けんこう)と音読して法名とした。武蔵国称名寺(現,横浜市金沢区)長老あての書状断簡に〈故郷忘じ難し〉とあることから,関東で生まれたとする説もあるが,それは〈故郷〉の語義〈住みなれた地〉を誤解したもので,京都で生まれ,関東で若い時期を過ごしたのであろう。父兼顕は治部少輔で,兄弟に大僧正慈遍,兼雄がいる。兼好は宮廷に仕え,祖父の代からかかわりの深い堀河家の諸大夫ともなったが,1313年(正和2)ころ出家した。出家後の生活を支えたのは,洛外山科の田地からの年貢米であった。17年(文保1)ころから歌人として名が知られ,歌会への出席も多くなる。また,このころまでに鎌倉へも2回以上赴いている。《徒然草(つれづれぐさ)》の執筆は1317年から31年(元弘1)の40代後半から50代前半と推定され,〈つれづれなるままに〉と書き出されるこの随筆が代表作となった。

 1345年(興国6・貞和1)ころ,勅撰集《風雅和歌集》の撰集に提供するため《兼好法師自撰家集》(《兼好法師集》)を編集したが,自筆草稿本が尊経閣文庫に現存する。〈雲の色に別れも行くか逢坂の関路の花のあけぼのの空〉にはじまる約280首の和歌をおさめる。いわゆる二条派風の平明優美な作品で,頓阿,浄弁,慶運とともに二条為世門下の四天王の一人と賛えられた。勅撰集には《続千載集》《続後拾遺集》《風雅集》に各1首のほか,全部で18首入集している。歌壇での地位の安定とともに,古典作品の書写や研究にも力を入れ,《古今集》《源氏物語》などの伝本に,彼が書写校合した旨の奥書を加えたものが伝えられている。晩年は,1344年(興国5・康永3)足利直義勧進の〈高野山金剛三昧院奉納和歌〉の作者となり,46年(正平1・貞和2)賢俊僧正に従って伊勢に下ったり,48年高師直に近侍したりするなど,足利幕府を中心とする武家方に接近している。最晩年の事跡としては,50年(正平5・観応1)4月玄恵法印追善詩歌,同年8月二条為世十三回忌和歌会の作者となり,翌年《続古今集》を書写,観応3年(1352)8月の日付がある《後普光園院殿御百首》に加点したことが知られている。

◉ ソロー(Henry David Thoreau)=生没年:1817-62 アメリカの思想家。マサチューセッツ州コンコードに生まれ,エマソンの強い影響を受けた。1837年にハーバード大学を卒業後,故郷で教職につくが,当時教育手段として普通に行われていた笞刑に反対してまもなく辞職。40年代にはいってトランセンデンタリストたちの機関誌《ダイアル》などにエッセーを発表し始める。45年夏ウォールデン池のほとりに自分で小屋を建て,以後2年2ヵ月に及ぶひとりぐらしを始める。その動機をソロー自身が主著《ウォールデン》(1854)の中で,〈慎重に生き生活の本質的な事実だけに直面したかったから〉と説明している。彼には世間が生活だと信じているものを生活とは思えず,むしろ高貴なはずの精神が卑しめられている現状が耐えられなかった。森の中で一人〈深遠に生き,生活の髄をすべてしゃぶりつくしてスパルタ人のようにたくましく生き,生活でないものは追い散らし……生活を片隅に追いこんで,ぎりぎりの条件にまで単純化したかった〉。ソローもエマソンと同じように精神の主権を何よりも重んじたが,それを単なる観念に終わらせず,生活の原理として実際に生きてみようとした。この発想にソローの独自性の根源があり,おかげでトランセンデンタリズムそのものを超えて新しい地平に踏みこむことができた。

 〈生活の本質的な事実〉だけを生き,それ以外の〈余剰〉はすべて拒むというソローの厳しさは,むろん自分自身の精神にも例外を認めない。たとえ精神でも,その環境になじむと〈知らず知らずのうちに一定の道すじにはまりこみ〉,気楽さと引換えに主権を譲り渡してしまうのである。そこでソローは,ぜひとも世界の中で〈完全に迷子〉になれと言う。踏み慣れた軌道を捨てて,たえず異質な風景をめざせと言う。いっさいの既知から身軽になって,未知の領域にはいりこむことを彼は〈散歩〉と呼ぶが,いつしか住み慣れた森を出たのも,まさにこの〈散歩者〉の精神からである。こういうソローの精神のありかたは,ついに彼を,観念とは無縁なところで悠然と息づいている〈広大で巨大で非人間的な自然〉の前に連れ出すことになる。遺作《メーンの森》(1864)と《ケープ・コッド》(1865)は,晩年のソローの到達点を示す重要な作品である。

 いっぽう彼は社会的関心も強烈だった。《ジョン・ブラウン隊長のための弁護》(1859)は,この急進的な奴隷解放論者を熱烈にほめたたえた講演である。またメキシコ戦争に荷担することを拒んで人頭税の支払いに応ぜず,1846年夏に投獄されるが,このときの経験をきっかけに書き上げた論文《市民の抵抗Civil Disobedience》(1849)は,いわゆる不服従運動の古典として,ガンディーやキング牧師の思想形成に影響を与え,いまもなお読みつがれている。ソローの基本的な姿勢は個人の精神が政府の権力に優先するというものだが,これが自然に対する彼の姿勢と通底していることを見のがしてはならない。(改訂新版世界大百科辞典)
ソロー(Henry David Thoreau)(そろー)(1817―1862)= アメリカのエッセイスト、思想家。7月12日、マサチューセッツ州コンコードに生まれる。ハーバード大学卒業時の演説「商業精神」で、週に1日のみ働き、「あとの6日は愛と魂の安息日として、自然の影響にひたり、自然の崇高な啓示を受けよ」と語り、一生この主旨に沿った生き方を試みようとした。家業の鉛筆製造事業のほか、教師、測量、大工仕事などに従事したが、定職につかず、コンコードに住む超絶主義者のエマソンや彼の周辺の人々と親交を結び、日々の観察と思索を膨大な量の日記として残した。

 作品には、兄のジョンJohn Thoreau Jr. (1815―1842)と1839年に行ったボート旅行をモチーフにした随想と詩『コンコード川とメリマック川での1週間』(1849)と、ウォールデン池畔に小屋を建て、自然の啓示を受けて単純素朴に生きる実験を行った2年2か月の生活を、初夏から次の春までの1年分にまとめた『ウォールデン――森の生活』(1854)がある。ソローは具体的事物を細かく観察したが、事物を単に事実としてのみ見ずに、ウォールデン池について、「この池が一つの象徴として深く清純に創(つく)られていることを私は感謝している」「私が池について観察したことは、倫理においても真実である」と説くように、具体的事物のかなたに普遍性を読み取ろうとした。それが「自然の崇高な啓示を受ける」ことにほかならず、このためには、観(み)る行為が正確で純粋でなければならないと同時に、観察した事象について時間をかけて思索する必要があった。ソローは1862年5月6日、44歳で死んだが、思索を十分練らないままに残された旅行記は、『メイン州の森』(1864)、『ケープコッド』(1865)、『カナダのヤンキー』(1866)の3冊にまとめられ、それぞれ死後刊行された。

 ソローはまた若いころから家族ぐるみで奴隷制に反対し、奴隷制を許す体制を批判して人頭税納付を拒み続け、1846年7月投獄された。1日で釈放されたが、このときの体験がのちに『市民としての反抗』としてまとめられた(1849)。個人の良心に基づく不服従を説き、「まったく支配しない政府が最上の政府である」と主張するこの書物は、のちにガンジーやキング牧師に愛読された。 

 ソローの著作の中で最も影響されたのは「市民の反抗」(正確な書名は「一市民の反抗 良心の声に従う自由と権利」)でした。アメリカが、移民の国として産声を上げ、独り立ちしかけている段階で、いろいろな危機が連続してありました。そのような国の「揺籃期」「成長期」「青春時代」に生きた人として、ソローは自らの思索を生活の中から生み出し、生活に生かそうとしたのです。(プラグマティズムの実践)対メキシコ戦争や、奴隷制反対運動などが、その典型だったでしょう。政府というか、「国家」の横暴をことのほか嫌った。その意味では、彼は「アナーキー」だったでしょう。人民を苦しみめるばかりの政府(政治権力)などないほうがいい、要らないと断言するのです。個人の不服従を何よりも重んじたのは、内面の良心(conscience)の声に従ったからでしょうが、その良心を踏み台にするような政治権力には、身を賭けて対峙した、勇気の人でした。

 「ソーローの時代においては汽車・汽船・電話などが実用に供せられ、アメリカは西部にむかって大発展の途上にあり、物質文明は栄えたが一方、都市・農村における生活難も深刻なものがあった。ソーローの平和なウォールデン生活中にも奴隷問題にからんでメキシコとの戦争があり(一八四六―四七年)、彼の死んだのは南北戦争の最中であった。誠実な魂をもった彼が時代のうごきに無関心でいられなかったのはいうまでもない。/戦争と奴隷とを支持する政府のために税金を出すことをこばみ、また、奴隷解放のために殉じたトム・ブラウン大尉の弁護のために熱弁をふるったソーローの一面は本文庫の富田彬氏訳『市民としての反抗』について知られたい」(神吉三郎)(神吉氏は岩波文庫「ぼりの生活の訳者でした)

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不良会社救済の余力があるか

 時はすでに遅し、「ホンダと日産」の経営統合報道に抱いた感想だ。半世紀以上も前から「日産ファン」だった。創業者・鮎川義介は満州一旗組、A級戦犯として服役もした。なぜファンなのか。ぼくが乗り出したころは(創業者には無知だった)、「技術の日産」はまだ健在だったし、車のプロ(修理屋)からも勧められた。現行車は三代目の「セドリック」、走行10万㌔超。「二十万超キロ」まで乗ったのもある。現在車は、どこにも悪いころはなさそう。二十三年目。

「日産」は絶命寸前、人工呼吸器をつけている状態で、遂に「心臓移植」に踏み切るかという瀬戸際を迎えた。ぼくの見立てでは「移植手術」に堪える体力はない、仮に手術に踏み切っても「即死」は必至。それを目論んだか。救済に手を出す「ホンダ」はどうか。ここにも体力があるとは思われない。連れ合いは「フィット」に乗っている。ぼくもよく使う。乗りやすく燃費がいい。十年ものだが8万キロを超え、連れ合いの酷使に堪えて何処にも問題ない。そのホンダが、どうして日産や三菱自工と組むか。「座して死を待つ」を潔しとせず、その一念かもしれぬ。何をどう工夫しても、この社会の車産業は、胸突き八丁にある。(「意在言外」、事始め)

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【天風録】ホンダと日産 「田舎のベンツ」とも呼ばれる、日本生まれの軽トラが欧米で人気を集めている。円安でお値頃の上、小回りが利き、燃費のよさも好評らしい。海外のクルマ市場には、まだまだニーズが眠っているのだろう▲ただ、売れ筋の潮目はおいそれと読めない。14年前、世界初の量産型電気自動車を発売したのは日産である。当時、カルロス・ゴーン社長は「盟主」気取りだった。その売れ行きも今や減速し、日産は従業員9千人削減を余儀なくされる苦境にある▲背水の陣から活路を見いだす一策だろうか。ホンダとの経営統合について、日産が検討していることが明らかになった。きのう日産の株価は値幅制限いっぱいまで上がった。重荷になると受け止められたのか、逆にホンダ株は下げた▲成案を得て、相乗効果を生むまで壁は高かろう。何より企業風土が違う。ホンダは、夢を原動力にした創業者本田宗一郎譲りの独創性にこだわる。その「らしさ」を愛好者も買うのでは▲ゴーン氏の報酬隠しと国外逃亡で、日産ブランドは深く傷ついた。「技術の日産」と褒めそやされた栄光の日々も今は昔のようだ。「らしさ」は何なのか。原点を見つめ直す好機でもあるのだろう。(中國新聞・2024/12/19)

⦿ 鮎川 義介(アユカワ ヨシスケ)肩書参院議員(第十七控室),日本中小企業政治連盟総裁,日産コンツェルン創始者 生年月日明治13年11月6日 出生地山口県山口市 学歴東京帝大工科大学機械科〔明治36年〕卒 経・歴芝浦製作所の職工となるが、のち渡米して鋳造見習工。30歳で帰国、明治43年戸畑鋳物を設立。大正10年東京に進出、昭和3年義弟・久原房之助の久原鉱業所社長となり、のち日本産業と改称、以後次々設立または吸収を繰り返して、日立製作所を含む日産コンツェルンを作りあげた。12年満州に進出して17年まで満州重工業開発総裁。18年勅選貴院議員。戦後はA級戦犯として服役したが、釈放後、28年参院議員となり、31年には日本中小企業政治連盟を結成して総裁。全国中小企業団体中央会会長、中小企業助成会会長、岸内閣経済最高顧問を歴任。34年二男の選挙違反事件の責任をとり親子で参院議員を辞任した。のち東洋大学名誉総長となる。著書に「物の見方考え方」「私の考え方」などがある。没年月日昭和42年2月13日 家族二男=鮎川 金次郎(参院議員)(新訂政治家人名辞典明治~昭和)

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 「意在言外(いざいげんがい)」なるカテゴリーを新設します。その意図は他なし、ぼくの持ち合わせの言葉数や単語知識では「当の問題」を掬(すく)いきれないから。その後はなにとぞよろしくという、読み手頼りの魂胆から。そして、こちらの方がもっと大事なのですが、可能な限りで「500字」以内、その心づもりです。(本日の拙文の文字数は498字)「『漢書』の「芸文志(げいもんし)」にある「微言大義(びげんたいぎ)」が頭を掠めている。「意味深長(イミシンチョウ)」という表現にも憧れて来た。さて、成り行きはどうなりますか。「皆まで言うな」ということ。

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「敵 は 本能寺にあり」と申しまして

 高校生時代、週に三日も四日も友人と駄弁るために嵐山(右写真)に出かけ、橋を渡って南下流の公園(中之島公園といったと思う)(左下写真)に屯(たむろ)していました。阪急電車の「嵐山駅」のすぐそばには保津川(「➡大堰川➡桂川➡淀川➡大阪湾」としばしば名称が変わる)が流れている。ぼくはこの川に入って「鮎釣り」を楽しんだり、水遊びを楽しんだり。当時はよく知らなかったが、後年、この桂川から明智光秀は京都街区に向かって兵を進めて、京都四条堀川にあった「本能寺」を急襲し、信長を暗殺したしたとされる「本能寺の変」を思いつつ、桂川の流域に思いを馳せていたことでした。現在、闘病中の姉はこの付近(桂離宮北側)に住んでいるので、さらに桂川への愛着が深くなったのでした。(現在の寺町御池(河原町)の「本能寺」(右下写真)は再建されたもの。何度か足を入れたことがあります。狭苦しい一角に建っている)

 世に「光秀の三日天下」と言われる政変を経て、事変の急を聞いて駆けつけた秀吉軍に撃ち取られた(「天王山」ともいわれる「山崎の合戦」)。この山崎にもかつては遊んだものでした。山崎には、もう一人の姉がいる(長岡京市)。好きでも嫌いでもないが、この明智光秀には、なぜだか因縁があると言ってもいいかもしれません。本能寺に駆けつける途次、亀山城(保津川(保津峡)の上流の亀岡にあります)にいた光秀は愛宕山頂の愛宕神社に詣で、武運(信長暗殺)成就を誓ったとされる。(左写真の右端が「愛宕山」)

 この愛宕山にも何度も駆け登ったものでした。少年時代を懐かしがっているのではありません。「三日天下」と雖も天下人になった光秀が「変」を起こす際に漏らしたとされる「敵は本能寺にあり」という謀反覚悟の一言に興味を持ったのでした。秀吉と並んで信長の信頼篤かった重臣にして、「殿」に弓を引いたのですから、それなりの覚悟と勝算があったと思われます。それが「三日天下」だったといえば、何のことはないというほかないでしょう。いわば、息の根を止められた、その秀吉に「天下人」への道を開いてやったという、歴史の「狡知」「皮肉」を味わうべきでしょうか。

⦿ てき【敵】 は 本能寺(ほんのうじ)にあり(天正一〇年(一五八二)、明智光秀が備中国の毛利勢を攻めると称して出陣し、途中にわかに進路を変え、「わが敵は本能寺にあり」といって、京都本能寺に宿泊中の織田信長を襲ったところから ) 本当の目的は、表面にかかげたものではなくて、実は別のところにあるという意。人々の目をあざむいて、他の目的をねらうこと。敵本(てきほん)主義。(精選版日本国語大辞典)

 どうして、こんな歴史のささやかな添え物のような逸話を持ち出したか。「40代の女性行員(懲戒解雇)が安全なはずの銀行の貸金庫から、時価十数億円分の金品を盗んでいた。さらに被害は拡大する恐れもあるという」(コラム「新生」)。この元女性行員が明智光秀だというのではありません。「敵は本能寺にあり」ではなく、「盗っ人は我が銀行内にあり」と叫んだ人はたくさんいたでしょうから、たくさんの「光秀」がいたことになります。つまり、行員の誰かれも、何時か「魔が差す」「逢魔が時」があるという、顧客にすれば卒倒しそうな「安心・安全・信頼」という「砂上の楼閣」に大枚・財物を「全幅の信頼」で預けていたことかという(その怖いもの知らずの度胸に、ぼくは驚く)、令和の「本能寺の変」に、ぼくは、興味ならぬ、人間の性(さが)を思うばかりだといいたいのです。(おそらく、他行においても大小さまざまな「本能寺の変」は知られないままで進行中だと言ったら、どうでしょう。信用や信頼は「金」では贖いえないということを思い出し、銘記すべきですね。

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【いばらき春秋】横浜港に程近い馬車道駅を降りると、緑青色のドームが印象的な旧横浜正金(しょうきん)銀行本店本館がある。三菱UFJ銀行の前身で1904年の建築。外壁に桜川市産の真壁石が用いられている▼関東大震災で猛火に包まれたが、地階の保護預品庫は焼失を免れた。「預ケ主ノ貴重品ヲ保管スル所」と記録にあり、日本で最初期の本格的な貸金庫だという。長らく博物館の収蔵庫に転用され、厳重な金庫扉は今も健在である▼明治の世から銀行の信頼、信用を象徴してきた業務を揺るがす不祥事が起きた。三菱UFJ銀の元行員が顧客の貸金庫から金品を盗んだことが発覚。4年半で約60人が被害に遭い、金額は時価で十数億円に上るというから驚く▼貸金庫といえば映画やドラマに登場するのを見るくらいで、秘密めいている。B4の書類が入る箱型が中心で、使用料は銀行によって違うが年間2万円程度。大半の店舗にあり、意外と人気があって空きは少ないらしい▼証書や貴金属、思い出の品などの安全な保管を目的とし、現金の預け入れは想定されていない。しかし、中身は利用者しか分からず、元行員はその盲点を突いた▼全容解明はこれからだが、被害は拡大する恐れも。世間の耳目を集める不祥事である。(山)(茨城新聞・2024/12/19)
【新生】貸金庫窃盗 どんな圧力にも屈しない大手銀行員の活躍を描いたドラマ『半沢直樹』。主人公のせりふ「やられたらやり返す。倍返しだ!」は流行語にもなった▼そのモデルではないかと就任時に話題になったのが、三菱UFJ銀行の半沢淳一頭取だ。というのも、『半沢直樹』の原作者池井戸潤さんとは旧三菱銀行の同期だったため。池井戸さんはモデル説は否定した上で、「同じ半沢同士、日本の金融界に新風を吹き込んでいただきたいものです」とエールを送っていた▼ところが新風どころか、三菱UFJ銀行は金融界への信頼を揺るがす大逆風を引き起こしてしまった。40代の女性行員(懲戒解雇)が安全なはずの銀行の貸金庫から、時価十数億円分の金品を盗んでいた。さらに被害は拡大する恐れもあるという▼「盗人に鍵を預ける」という言葉がある。悪人とは知らずに信用して災いを招くことの例えだが、今回はまさに文字通り銀行が保管していた貸金庫の予備の合鍵が悪用されていた。しかも約4年半にもわたって繰り返されていたというから、開いた口がふさがらないとはこのことだ▼問題が発覚してから、大手行には「自分の金庫は大丈夫か」という利用者からの問い合わせが相次いでいるという。しかし、中身は利用者以外は分からないため、確認には限界があるとされる▼半沢頭取は記者会見で「信頼、信用という銀行ビジネスの根幹を揺るがすもの」と陳謝した。後の祭りではあるが、全容解明と被害の回復には納得のいく対応をしてほしい。(熊本日日新聞・2024/12/18)

 この手の「犯罪」に関して、ぼくのような財産や銀行などとは無縁の人間でも、たちまち五件や十件を思い出すことができます。いちいちは出しませんが、やはり「敵は本能寺にあり」という、売り物の「信用・安心」を表に掲げて、何のことはない本能寺の信長ならぬ、「貸金庫の金員」が狙われていた、しかも四年間余も「異変」は続いていたが、誰も気が付かなかった(銀行も顧客も)というのは、ミステリーですね。盗んだ金は「投資」に回していたとされますが、投資先はいろいろで、「馬」もあれば「愛人」もあるのが世の中でしょう。

 下種(げす)の勘繰りは止めておきます。事件が発覚したのは幸いでもあり偶然でもあるでしょう。この堕落一途の社会に存在する銀行のことですから、数多の「本能寺の変」も、ありていに言えば、闇から闇に「揉み消され」て来たのではないでしょうか。銀行と雖も、儲け第一の企業。それがが「清廉潔白」であるはずもないと思えば、衰えたりと雖も「金貸し(Moneylender)」です。バブル時代の裏社会顔負けの「本能寺ぶり」は、忘れられない出来事でした。裏社会が表社会でも大手を振って「立ち退き」を迫り、火付け強盗まがいの悪行ぶりで、「鬼平登場」を激しく願ったものだった、札束で頬を叩いていた乱暴狼藉ぶりの、一端も二端も、ぼく如き素寒貧でも知っていましたから。都内新宿の片隅の「十坪の店」が一億円超で売れたと、店主から聴いたことがある。いまでは、かつての「サラ金」は名を変えて手を変えて、大銀行の傘下で「悪行」に励みつつ生き延びている。

 ぼくは「40代の女性行員(懲戒解雇)」を問題にしているのではありません。もちろん、彼女は間違っていないなどと「大それた」言辞を吐くのでもありません。「ようやく見つけられたか」「やっと見つかった」と安堵の胸をなでおろしている元行員の胸中を思えば、銀行という「金貸し本業」が、決してお客を大事にしてこなかったし、今もしていないという「冷徹な現実」に改めて注意を払わなければと、わが心を宥(なだ)めすかして、くれぐれも「金」に興味は持たないようにと、「親の遺言」さながらに、小さく薄い胸をさすっているのです。

 あまりの大金に、かえって人は「所有感覚」がなくなるものらしいことだけはよく分かりました。MLBのO選手もみずからの通訳者に二十数億円も盗られても気が付かなかった。「金持ち喧嘩せず」ではなく、単純に不注意(無感覚)だっただけのこと。そんなことで驚いてはいけませんな。どこの国だか社会だか、年間で百兆円を超える国の予算のかなりの部分が「使途不明」になっていても、「政治に金がかかる」と譫言を言われても、誰も不思議に思わないんです。この際、誰が「明智光秀」で、だれが「信長」か。そして敵のいる「本能寺」は何処なんでしょうね。ぼくの感想では、いたるところ「光秀」「信長」「本能寺」ダラケ―という次第ですよ。「「信頼、信用という銀行ビジネスの根幹を揺るがすもの」と当の銀行頭取は「びっくりするような冗談」を口にされる。銀行の不祥事など、数えきれない。もう一度、歴史や地理を勉強し直したいものです。

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生きて、生きて、生きろ

【明窓】「生きて、生きて、生きろ」 中国電力島根原発2号機が再稼働した7日、一本の映画を見た。2011年に起きた東日本大震災と東京電力福島第1原発事故で被災した福島の人たちを追ったドキュメンタリー『生きて、生きて、生きろ。』。津波で夫が行方不明の女性、避難中に中学生の息子が命を絶って睡眠薬と酒に頼る男性、避難生活が長引く中で妻が認知症になった夫婦…。▶今、時間を経て発症する遅発性の心的外傷後ストレス障害(PTSD)など心の病が目立つという。そんな福島の真実は、インフラ再整備といった外形的なニュースに触れることで見えなくなっているのではないか。▶作中の人たちは「頑張れ福島」という空気の中で本心を吐き出せず、心を病むことを恥だと思って生きていた。孤独に苦しむ姿は、国策民営で進めた原発の事故に起因するにもかかわらず、その苦難を個人の問題として切り捨てる国や企業の実態を浮き彫りにしているようにも見えた。▶そんな人たちの声に耳を傾ける医師、拒まれながら自宅を訪問し距離を縮める看護師。その優しさに触れた人たちの変化を丹念に切り取った島田陽磨監督。誰もが実名、顔出しで登場していた。▶上映後のトークショーで島田監督は「これからもなかったことにされている人たちに目を向けた作品を撮りたい」と話した。重たいテーマではあったが、生きること、生かされている人間の強さに光を見た一本だった。(衣)(山陰中央新報・2024/12/13)

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 映画の時間 「生きて、生きて、生きろ」作品情報 「2011年に起きた東日本大震災および福島第一原発事故から13年が経ち、福島ではこころの病が多発し、若者の自殺率や児童虐待も増加。地元の精神科医や医療従事者たちは、患者たちと向き合い、支えようと奔走している。福島県相馬市にあるメンタルクリニックなごみ院長の蟻塚亮二が診察する患者は、うつ病や適応障害、パニック障害など様々な症状を抱えているが、原発事故の恐怖がフラッシュバックするなどといった、年月を経てから発症する遅発性PTSDの患者がここ数年で多くなっている。連携するNPO こころのケアセンターの米倉一磨は、こころの不調を訴える地域住民たちの自宅訪問を重ねている。津波で夫が行方不明になったままの女性、原発事故による避難生活の中で息子が自死し自らも自殺未遂を繰り返している男性、避難生活が続くうちに妻が認知症になった夫婦など、患者や利用者たちは震災や原発事故の影響を大きく受けている。沖縄で沖縄戦の遅発性PTSDを診た経験のある蟻塚医師は、福島でも今後同様の症例が増えていくのではと考えていた。喪失感や絶望に打ちのめされながらも日々を生きようとする人々と、それを支えようとする医療従事者たち。やがてそれぞれに小さな変化が訪れていく。」(https://movie.jorudan.co.jp/film/99821/

「震災と原発事故から13年、福島で『こころの病』が多発していた」http://ikiro.ndn-news.co.jp/

「何を頑張ればいいの?」/ ふと漏れた言葉に、自分ならどうやって返すだろうと考える。答えが出てこない。たじろぐ問いをいくつも投げかけてくる。武田砂鉄ライター 

丹念な取材と真摯な考察によって、国家に翻弄された人たちのとてつもない苦しみが顕わになる。事実を知るにつけ、怒りと、何も役に立てない自分を恥じる気持ちが交差する。そして頭を垂れる。絶望的とも言える状況下で、患者にどこまでも寄り添う医療従事者たち。彼らの果てしない献身の末に行き着いたラストに、心底震えた。大島 新ドキュメンタリー監督

強く生きようとする人々の姿の向こう側に、心の傷から血を流し今なお耐え忍び泣いている福島を見ました。戦争も災害もひと通りの期間が過ぎたら世間から忘れ去られます。そして生き残った人々の「これからも生きていかなくてはならない」という辛く長い戦いが始まります。長いこと海外支援にばかり目を向けていた私ですが、自分の国、福島での現実にも改めて気づかされました。白川優子国境なき医師団 (以下略)

映画『生きて、生きて、生きろ。』予告編https://www.youtube.com/watch?v=4Q9DX3vHrjE

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 この「ドキュメンタリー」はまだ観ていない。観ていないので、何事かをコメントすることはできない。島田陽磨監督は、「すべての人に観てもらいたい」と語られている。この「記録映画」とは別の、一人のフリージャーナリスト・カメラマン(元朝日新聞記者)が福島に通い続け、記録を残し続けている、十三年余の「軌跡」を、ぼく自身も現地を歩き、同じ景色を目にし、そこに生きている人々に出会うような、そんな錯覚を持ちながら、彼の十三年の歩行に自分の感情を重ねてきました。つい最近、福島南相馬に住んでおられた先輩が亡くなった。九十三歳だった。この人とは、二十年近く、同じ職場の同僚としても交流があったが、定年後に「郷里」に帰られてから、原発事故(これをぼくは「福島『核』戦争」と呼んでいる)の前と後の状況をつぶさに教えられていました。まぎれもなく、そこには「核爆発戦争」があったし、今なお「核爆発の戦場」、その終焉は誰にも分らないまま、そんな惨い「戦場」になっているのだと、ぼくは恐怖を交えながら、そこに意識を繋ごうとしている。いずれ、U氏の記録などもご紹介したい。

 福島で何が起こり、何が隠され、何が新しく加えられたのか。そのほとんどが、明らかにされないまま、「復興、成る」と括られて、事故はあったかもしれない、いや、あったかどうかわからない、何を言う、原発事故なんかなかったのだと、福島を物見の対象にしてきた一人に、ぼく自身も加わってきたことを、ぼくはごまかさないで、生きて行こうとしてきた。このような記録や映像に出会うたびに、当地で生きるほかない人たちに、ぼくは気持ちだけでもつながっていたいと思い続けている。安っぽい感傷でしょうね。それでもいいじゃないかと、勝手に思い込んでいるのです。「ガンバレ」ということはしない、「絆をもとう」などともいうまい。それぞれの「想い」や、その想いをひそかに育てながら生きていく、それだけのことしかぼくにはできないと、残念だけれど自覚しつつ。(山埜聡司・2024/12/18)

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