子どもや先生の足が遠のく学校って?

【金口木舌】学校とは何か 学校が楽しいと感じる子がいれば、つまらない子もいる。先生も同じ。教育に懸けた志がついえてしまう人もいる。つまらないとこぼす人が先生にもいた▼年末の学校に関する記事に考えさせられた。2023年度に全国の小中学校で不登校の子どもは約34万人。一方で高校などを含め約7千人の教員が休職という。子どもも先生も足が遠のく学校とは何か▼県内の小中高校の不登校は8千人超。休職した先生も250人超で増加傾向だ。児童生徒はいじめなどを恐れ、嫌々通学し、先生は多忙極まる職場に嫌気がさしつつ通勤する▼「目の前にある社会システムに従うのは困難だ。だから私は下りる」。精神科医・斎藤環さんとの対談で作家の佐藤優さんが語っている。息苦しさに耐えかねて学校から遠のく人の胸の内には、そんな宣言もひそんでいよう▼コロナ禍では通学せずともネットで教育がどこでも受けられた。通学の苦痛から救われた子もいる。「ここがダメでもあそこがある。家でも」。遠回りかもしれないが、無理やり教室に連れ戻すのではなく、別の選択肢を示すことも解決への一歩となるかもしれない。(琉球新報・2024/12/26)

「学校とは何か」と問う。「当たり前(通念)」を激しく疑うのは大切なこと。新聞記者が疑う、珍しいけれど、大歓迎だ。「通うのは当然」「行かない子は悪い」と、これまで散々に言われた。学校嫌いの人間にすれば「喜んで学校に行くって、ありえへん」と思うばかり。「学校は楽しい」という子どもや大人に、稀に出会ってぼくは驚愕し、仰天した。マジか、と。まるで「軍隊や刑務所は楽しいね」「また行きたい」というに等しい。なんと理不尽な、と今も思う。横並びを強制しつつ、序列(順番)をつける、この救いがたい「矛盾」。点数や成績が位階・等級となり、「胸に勲章」を貰う、そんなのが楽しいのか。偶然にクラスで出会った他人と「競争」して「勝つ」「負ける」という滑稽さ、卑しさ。無意味だね。怪しい「優越感」「劣等感」に誑かされている。▶「目の前にある社会システムに従うのは困難だ。だから私は下りる」とは某氏の言。ぼくは「学校の餌食」になれなかったし、教師たちに「不信の念」をもった。可愛げがなかったな。だれもが仮面を被っているように見えた。振られた「役」を演じていたか。素顔を隠さないで居れる場所になるといい、今の今も念じ続けている。(500字)(ヘッダー写真『ありふれた教室』・日本版予告)(https://www.cinemacafe.net/article/2024/04/02/90882.html

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 子どもも教員も「行きたくない」からという初心(覚悟)があったわけではなく、それぞれの胸に希望や期待をもって学校に交わった。にもかかわらず、こと、志を異なって、「こんなはずではなかった」ということだったと思う。ぼくの褒められない経験からすると、学校に「期待」や「過度の期待」をもっていたからこそ、その戸惑いや絶望にうちひしがれてしまうのではなかったでしょうか。もちろん、期待通りの「学び舎」であったり、仕事場(現場)だったという珍しい子どもや教師もいたでしょうし、今だっていると思う。それは例外だし、数からいっても少数派でしょう。その小尾tから「利益」を得ているからこそ、現状を容認するのだから。

 しかし、とぼくはつくづく考えるのだ。「行きたくてもいけない」という正直さんは数からは粗油数は出会っても、心のうちに「行きたくないな」とあと隠している子どもや教師はたくさんいる。その理由は何かをはっきりと探るために、学校から「テスト」をなくしたらどうなるか、どうにも困ることになるに違いない。誰ができて(優)、誰ができないか(劣)を明らかにすることが学校の「社会的機能」だと、多くの人は固く信じているからです。優劣の争いが「学校教育の狙い」であってたまるかと、ぼくは言いたいですね。そんなところにはないよ、ってね。

<School is a place to meet.><The classroom is a meeting place.>「出会う場」であり、「話し合う場」です。

 点数なんかどうでもいいという自覚をもって子どもと接する教師、それが求められているのではないでしょうか。乱暴に聞こえるかもしれませんけれど、学習というのは自分でするもの、強制されるのは「学習」とは言わないのではないかと、ぼくは一貫主張・実践してきたし、いまも、その態度に変化はない。学歴や学校歴に過大な評価を認める社会の現状を見るにつけ、教育立国であったはずが、教育某国になっていたという笑えない現実に、ぼくたちは直面しているのです。さあ、どうします?

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夜は暗い、それが自然の摂理だ

:: イルミネーション(「電飾」とも)が好きではない。嫌いだとはっきり言おう。一度も「ライトアップ」地に出かけたことはない。夜は暗い、それが相場でしょ。都内では東京タワーとスカイツリーが「異常電飾狂」の双璧でしょうが、人騒がせな演出の極みというべきだ。好みからも、ぼくは華美や煌煌を好まない。不自然は事故の源だと思う。各地の「ライトアップ」ばかりは当方に手が出せないので、出かけないことにしている。▶寺社の「照明過多」ほどの「異端」はなく、神社仏閣が率先しているとは、かける言葉もない。不信心も大概にせよ。▶「飽きることを知らない電力消費の象徴のように見えて、胸のつかえを感じる」(「日報抄」)という感覚こそ真っ当で、無駄や邪魔も厭わず、大量に消費して電力不足感を惹起したい、電力会社(経産省)の見え透いた思惑。誘蛾灯の「蛾」になるな。「思う壺」だと知るべし。▶「たまには電気のない世界もいいのではとの幻想を抱かせてくれる」(「明窓」)とは能天気な「蛾」か。正気を取り戻せと、冷水をかけたい。「たまには電気のある世界」こそ、ほんの最近の珍事という事実も知らないで、ブンヤも何もあったものではないだろ。(496字)

【明窓】電気とクリスマス 起業家の表彰式を取材した12月上旬の夜。会場だった東京・芝公園のホテルを後にすると、ライトアップされた東京タワーが目に飛び込んだ。温かみのあるオレンジ色に浮かぶ東京のシンボルの美しさに思わず携帯のシャッターを切った。/クリスマスを迎え、都心はどこに行ってもイルミネーションで彩られ、華やかだ。東京タワーも23~25日はプロ野球巨人の球団創設90周年記念したオレンジカラーとクリスマスカラーが交互に輝く。/そんなクリスマスの東京がもし停電になったとしたらどうなるか-。イブの東京を舞台に、停電の夜に交錯する人間模様を描いた群像劇が、2005年公開の映画『大停電の夜に』だ。/物語は、さまざまな事情を抱える人々が暗闇の中で普段目を背けていた感情に向き合い、胸の奥にしまい込んであったほろ苦い記憶を語り始める。不便さを感じる環境だからこそ向き合わざるを得ず、気付くことができるというメッセージも伝わる。映画を彩るろうそくの明かりも温かく、たまには電気のない世界もいいのではとの幻想を抱かせてくれる。/中国電力がおととい、島根原発2号機(松江市鹿島町片句)の発送電を始め、約13年ぶりに一般家庭や企業に原子力の電気を届けた。政府が示した次期エネルギー基本計画の原案は、原発と再生可能エネルギーを最大限活用していくと明記した。電気について考えさせられる冬である。(吏)(山陰中央新報・2024/12/25)
【日報抄】ねたみというか、ひがみというか。冬の青空を見せつけられると少し悔しくなる。その日も、みぞれ降る灰色の空がトンネルを抜けると別世界になった。新潟から新幹線で上京する際、しばしば感じる「不条理」だ▼年の瀬の都内は大規模なイルミネーションが随所できらめいていた。東京駅の近くで燦々(さんさん)と輝く一角を歩いた。1キロ超に及ぶ通り沿いに連なる約300本の街路樹を82万個の電球が彩っている。インスタ映えする都会の夜を謳歌(おうか)する人波に気後れした▼国は先日、エネルギー基本計画の原案を示した。東京電力柏崎刈羽原発の再稼働も織り込む電源構成の青写真を描いた。今更言うまでもなく、柏崎刈羽で発電する電力の大半は首都圏で消費される。事故などのリスクは立地地域が負う構図は変わらない▼都内のイルミネーションが全て東電供給の電力を使うわけではないだろう。LEDは消費電力を抑えられる。とはいえ、飽きることを知らない電力消費の象徴のように見えて、胸のつかえを感じる▼身内を含めて新潟からも多くの人が移り住む首都圏は、決して地方と対立関係にあるわけではない。どうしても原発が必要なら東京湾に造り、使用済み核燃料は都内で処理すればいい、などと言うつもりもない(新潟日報・2024/12/25)

(下の写真は(ヘッダー写真も含めて)「アーバンライフメトロ・立川昭和記念公園」(https://urbanlifemetro.jp/view/10163/

 追記 立川昭和記念公園と聞けば、ぼくは四十年も交際している「他人(ひと)の妻」を想起します。彼女は立川で生まれて育った、立川原人だった。長い間には「原人」は洗練されたのか、あまり洗練されないままの「原人」であったらどうでしょうか。現在は、人伝(ひとづて)に聞くところ、結婚されて東福岡の地に住んでいるらしい。恐らく原人ぶりを発揮していることと思う。写真の唐笠の女人(だと思う)、あるいは「立川原人」、その人に見えてきます。魂は立川に飛んできているのか。連れ合い君ともども、くれぐれもお元気で。(「夜目遠目、傘の内」といいますね。見たいような見たくないような。その心は「怖いもの見たさ」です)

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音楽(鑑賞)に明け暮れていた時代

<あのころ>オーディオブーム到来 高級ステレオでレコードを 1972(昭和47)年12月25日、家具のような高級ステレオが並ぶ大阪の百貨店。レコードに針を落としハイファイを楽しむことが流行した時代。スピーカーが分離したセパレート型や、アンプ、チューナー、デッキを別々に買いそろえるコンポーネントもあった。80年代にCDが登場すると音響の世界は一変する。(共同通信・2024/12/25)

 高校を卒業して、深い考えがあったわけではなかったが、とにかく京都を飛び出した。行く場所はどこでもよかった。たまたま東京に伯父(母の兄)がいたので、とりあえずはそこに「居候」した格好になった。目の前は「(元帝国立)東大赤門前」だったが、そんなところには目もくれず、ぼくは、少し離れた、しょぼい大学に入った。昭和39年、この年の秋には「東京五輪」が開かれた。<あのころ>の写真は昭和47年になっているが、なぜその年の「12月25日」がオーディオブーム到来の画期になったのか事情は分からない。多くの音響メーカーが、この日を期して「ステレオ」なるものを売り出したのだったろうか。その当時、「ステレオ」という言葉がやたらに使われていたが、どういうことだったかよく分からなかった。今では「モノラル」に対する音響言語として理解されるようになったが、無知な人間には「ステレオ」という表現で嬉しくなったものでした。つまりは「ステレオタイプ」だったという次第。

 細かいことは避けます。たくさんのマイクを使って録音したレコードのことを指すようでもあり、「多重録音」などという「表現」も併用されていた思う。ヘッダー写真にあるような音響製品の一大マーケットは、その当時は秋葉原だった。ぼくが住むことになった本郷赤門前からは徒歩で十分ほど。後には頻繁に通うようになり、自作の機器類を作ることもしだしたものでした。やがて、ぼくははすっかり「クラシック」鑑賞にのめり込んで、機械いじりは止めてしまったのは、今から考えても惜しいことだった。いわゆる「セパレート型ステレオ装置」を買ったのは、学部学生の頃だったと記憶する。住まいの近くの電気店で、たしか「P」社製だったか「V」社の製品だった。安くない買い物だった。それを今風に言うと「ローン」(当時は「月賦」)で購入した。大学の年間授業料が5万円時代だったから、その三年分ほどの値段だったと思う。(貨幣価値の比較はできそうでできない。今の大学の授業料がおおよそ100万円だとしたら、その三倍だから「三百万円のステレオ」になりそうで、今だって、高級品と言われるでしょう)(そんな装置で、都はるみなども大音声で聞いていたのだから、バカタレというほかない)

 二十歳前後、ぼくは以来、数十年に及んで「音楽(クラシック)」に浸り続けたことになる。最初に買ったレコードはシュバイツァーの「バッハオルガン曲」、フルトヴェングラーとベルリンフィルによるベートーヴェンの「交響曲第7番」の2枚だったことは忘れもしない。もう60年も前のことになります。それ以降、ぼくは時代を降る(現代に近づく)のではなく、遡(さかのぼ)って中世・ルネッサンス時代にまで至った。グレゴリアンチャント(Gregorian Chant)(グレゴリオ聖歌)や教会音楽を、その関連で、欧州の各地の教会に備えられたオルガンによる演奏レコードに深入りしてゆくのでした。最初の一音で、何処の教会のオルガン、誰の演奏、どの作曲家の作品かがわかるようになりたいと、何とも愚かなことを目指したこともあった。演奏家に関してはかなり聴きとれるようになったが、今考えても、音楽鑑賞としては恥ずかしい、邪道というべきものだったと思う。

 これもまるで語るに落ちた話です。大学を卒業後、ぼくは大学院に入るのですが、そこでは音楽の勉強を一から始めて、できれば、どこかの音大に入ろうかなどというバカげたことを思っていた。その愚考は即座に断念したが、音楽好きは相変わらずで、だんだんと深みにはまっていった。…と書いていけば際限がありません。その当時、ぼくは京都に帰り、山間部の中学校の教師をしようと思っていたが、この方面も、いつしか断念した格好で、惰性のままに大学院に在学し続けた。このことは、今でも不真面目の祟りだったと恥じ入るばかりで、いささかの後悔も交じる気持ちを持ち続けてきました。ある時期からは徹底して「音楽愛好家」、つまりは「ジレッタント・ディレッタント(dilettante)」として、音楽を聴き通す羽目になりました。この言葉はフランス語で、「好事家(こうずか)」とか「愛好者」と言われる、ハイカラ趣味の人に使われるようですが、ぼくの場合は、要するに「耳学問」ならぬ「耳音楽」でしかなかったわけでした。さらに言うなら、人生そのものに対する「ジレッタント」、それがぼくの「恥ずべき流儀」だったということになる。このことも早い段階から意識していたが、遂にはこれもまた直すきっかけを失い、感覚の赴くまま、惰性で進んできてしまったということでした。

 「オーディオブーム到来」という、時代の空気(ウィルス)に感染したばかりに、長い期間を患い通したという、はなはだ情けない「生き方」をいかにも反省しているような気分になっていますが、なんのことはない、わが恥じ多き浮浪の歩みを追認しているだけという気分もまた否定はできないのです。本日はクリスマス。いつの年だったかのこの日には、ぼくは「クリスマスオラトリオ」「マタイ受難曲」を聴いて時間を過ごしていたことがありました。もちろんカール・リヒターの演奏で。音楽好きになった結果で得られた「幸い(幸運)」は、このリヒター(ドイツのオルガニスト兼指揮者)とグールド(カナダのピアニスト)の、稀有な「音楽演奏家」に出会えたことだったといっていいでしょうか。それは、わが身に余る「余得(余禄)」だった。

 豈(あに)計らんや、弱冠二十歳(時代)の経験が、ぼくの「なんでも横好き(中途半端)」の生き方を決定したのでした。

(ただ今、朝6時15分。東の雑木林の上方部が朝焼けの陽に染められています。美しい気配が漂っています。こんな時ばかりはちょっとは「殊勝な気分」になるんですから、困ったもの)

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人は消え明治は近くなりにけり

【新潟日報】「少しずつ運転手も戻ってますけどね。まだ動いてない車が結構ありますよ」。新潟市内で乗車したタクシーの運転手さんが、業界の話をしてくれた。新型ウイルス禍が尾を引いてドライバーは激減。稼ぎ時の年末を迎えても、稼働できずに「寝ている」車両が少なくないという▼バス会社しかり。医療介護の分野しかり。人材不足がニュースにならない日はない。本紙は先日、酪農家が全国で1万戸を割り、県内でも15年間で6割減ったと報じた。飼料高騰による経営難は切実で、さらに酪農家の半数が離農を考えているというから深刻だ▼教育現場からもショッキングな実態が伝わる。県内小中学校の教員欠員が、過去最多の70人に上っているという。児童生徒の減少により学校の統廃合が相次ぐが、その前に教員の確保が難問として横たわる▼人口の縮小が続く2040年には、暮らしの維持に必要なサービス分野で1100万人もの労働者が不足すると、民間シンクタンクが予測を公表したのは昨年のこと。未来図と今が徐々に重なり合っていく▼うろたえるばかりでは仕方ない。暮らしを維持するためにありったけの知恵を働かせたいけれど、腹をくくる算段も要る。迎える社会を思いきり前向きに夢想してみる▼足りないものを補い合い、協力し合える機運が高まるなら悪くない。一方で、他人に依存しすぎず、自分で考えて対処する力が研ぎ澄まされるかもしれない。障害があっても活躍できる環境が、もっともっと整えばいい。(新潟日報・2024/12/23)

 若いころから、何によらず「データ」を眺めるのが好きだった。その多くは単なる数字にすぎないけれど、いろいろな景色というか暗喩が見えてくる気がしたからです。必要に迫られて、「18歳人口」の推移に興味を持ち続けていました。いわゆる高卒(大学進学)人口の増減に、この国・社会の浮沈がかかっていると思われていたからでした。

 ぼくが勤め人になったのは、1970年初め、今から半世紀前のことでした。73年に子どもが生まれた年の「出生数」は200万人超でした。今から思うと、変な言い分ですけれど、子どもたちには気の毒なことをしたという気がしないでもありません。昨年の出生数は75万人でしたから、半世紀前に比べて、3分の1以下です。2008年がこの国の総人口のピークでした。その後、いろいろな経緯をたどりながら、人口減が続きます。近年では年間80万人以上の人口(自然)減が続いています。

 いつだったか、国連が百年後の日本の人口が7000万人を割る・切るという数値を出したことがあります。30年ほど前だったでしょうか。ぼくは大変な衝撃を受けました。一億人を超えるのが常態であるとして「社会インフラ」をはじめとする制度や組織が整えられてきたのですから、一気に減少とはいかないでしょうが、徐々に人口減が社会の各方面に大きな打撃を与える、それに対処するにはどうするか、そんな埒もないことをぼくは想像し、愚考していたのでした。そのころ、ぼくが勤めていた学校の受験者数が16万人超。当時の国内の受験者数が64万人程だったから、4人に1人が勤め先の学校を受験する計算でした。狂っていましたね。当時の経営責任者に「十年先、二十年先を考えると、拡大(収容学生数増大)ではなく、むしろその逆のことを考える必要がある」と進言して、一笑に付されました。当時の受験料が3万円だったと記憶しますから、それだけで50億円近くの(使い道に制限のない)収入、経営者の笑みは絶えなかったでしょう。その人は「学生は勉強などしなくてもいい。大学はディズニーランドなのだ」と嘯(うそぶ)いていた。ぼくは彼を軽蔑したものでした。

 現在の「大学」が、いかなる状況にあるか、ほとんど関心を持たなくなったので、詳しくは知りません。しかし、日常的に生じているさまざまな出来事のほとんどに「大学卒」が絡んでいることを思えば、この国や社会は崩壊の一途をたどっていると感じざるを得ないのです。「大学教育」の功罪が見て取れる気がする。ヘッダーに掲げた図(数値)を見ていると、たくさんの埒もないことが思われてきます。多くの識者の想定以上に「人口減」は急激であるということ(出生数の減少と自然死の増加による)、必要に応じて、国内の人口減を補うための「外国籍」労働者の増大が、いくつかの理由で進まない等々、このまま人口減が推移していくと、二十数年後には一億人を割り込み、さらに七十年後には、あるいは明治時代の人口規模に戻るかもしれないと推定されている。このような急激な人口減というのは、各地、個々の行政単位ではあったにしても、おそらく国家としては(戦争の結果を除いては)、初めての経験でしょう。

 まるで、急峻な坂道を、汗水たらして駆け上って、頂上に着いたと思った塗炭に、一気に頂上から駆け降りる羽目に立ち至っている、まるで嵐に襲われた登山者の如くです。中村草田男さん(1901~1983)は「降る雪や明治は遠くなりにけり」と詠まれた。時に昭和六年一月、虚子の推奨でこの句が「ホトトギス」に掲載されたのが三月。無謀な満州(侵略)事変が始まろうとしていた時代です。その時から、この小さな島国は、背伸びに背伸びを重ねて、分不相応な「振る舞い」「傍若無人」ぶりを重ね、ついには島国そのものをご破算にした。ぼくは「国家」に対して、物心がついてからか、いかなる幻想も抱いてこなかったと思う。これは洒落にもならないが、「国立」とか「帝立」という表現は好まなかった。今はなくなったけれど、その昔に「帝立博物館」という看板がかかっていた場所だというだけで、そこには足が向かなかったほど。ぼくの友人には多くの「国立大卒」がいました。そのかなりの人たちは「旧帝国大卒」を誇りにし、頼みにもしていた風儀を感じるだけで、ぼくは心を許す気が萎えてしまったのでした。

 昨日の新潟日報のコラム「日報抄」は、いろいろと示唆に富むコラムだったと、ぼくは読んだ。「(急激な人口減少で)うろたえるばかりでは仕方ない。暮らしを維持するためにありったけの知恵を働かせたいけれど、腹をくくる算段も要る。迎える社会を思いきり前向きに夢想してみる」と、その複雑な心中を書かれていました。坂道を下る人に、「もう一度昇りましょうよ」といっても、下りる覚悟を決めた人には酷に過ぎる、嫌な話で、下りるところまで下りるだけ。そんな心持がするのではないでしょうか。少なくとも五十年先、八十年先に、この社会は、人口規模だけでも近代の入り口となった「明治時代」に里帰りするのではないか。致し方ないというか、これは一つの国家の運命(終活)のようなもので、どんなに政治力を駆使しても「止まりかけている心臓」を再生ずることはできない相談だと言えます。百五十年の「往還」「上り下り」を、ぼくはひしひしと感じている。滅びるために栄えようとするのは、後の「別れ」を約束するために「出会」に狂喜する「恋人同士」のようなものが、そこに萌している、一抹のもの悲しさを禁じえないのです。草田男氏の「顰(ひそみ)」に倣って。

 「(国破れて、山河なし)降る雪も明治は膝下に横たわり」

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日南の限りを行て、陽の短きの…

 「冬至(winter solstice)」(の入り)も過ぎました(12月21日~1月4日)。例の如く「『暦便覧』では「日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也」と説く。その意味するところは、これ以降は日一日と、「昼の時間」が長くなるというわけで、人々の意識もまた、その長くなる昼の時間に連れて「春遠からじ」をゆっくりと感じ取るのではないでしょうか。車で長いトンネルを走っているとき、ぼくたちは無意識にではあっても、入り口からの半分と出口への半分では、距離は同じでも車の走る速さが異なる気がする。明るさが遠のくのと近づくのとの違いでしょうか。(前方に「明かり・光」を見たいものですね)

 よく言う、コップに半分の水、です。「まだ半分ある」のと、「もう半分しかない」という時の心持に似ていませんか。あるいは「楽観(optimism)」と「悲観(pessimistic)」と言い換えてもいいでしょう。ぼくは自分が気分に動かされやすい人間(天気屋・気分屋)であるから、なおさら、身に堪(こた)えて学んだといってもいいと思う。二十歳過ぎのこと、ある思想家が「悲観主義は気分の問題で、楽観主義は意志の働きによる」と言っていたのを読んだとき、大げさに言うなら「天啓」を享けたような錯覚を覚えた。以来、ぼくは「意志の人」になったと言いたいけれど、残念ながら、なかなかそうはいかなかった。相も変わらず、「天気屋」だった。天気(陽気)に、ぼくの気分は散々動かされてきた。

 それでも、人間の犯す過ちの九割は「不注意(carelessness )」からだと気が付いたのは、幸いだった。車を運転中にほかのことに気を取られて、赤信号を見落としたことから、大きな事故を生んだなどというのは、九分九厘は「不注意」からだったでしょう。この「不注意」は急いで計算問題を解いて間違えるときの「不注意」と同じものです。計算間違いは消しゴムで消せるけれど、交通事故はそうはいかない。ぼくは道徳の眼目もまた「注意深くなること」「自分の軽率さに気を付けること」だと断言してきました。注意をする対象(相手)は、他人ではなく、自分です。この直感を自得することこそが「教育」の根っこにある「鑢(やすり)」みたいなもので、自らの力で磨くことでしか、それ(注意力)を輝かせることはできない。他人から「注意しなさい」と言われる人間ほど、より「不注意」になると、ぼくは気が付いていました。警告を発してくれる人が常に側にいなければ、いつでも暴走するのが人間の慢心であり、軽率なところです。もっと自分に近づきなさいと、ぼくは自分に言い聞かせている。

 八十年生きてきて、数え切れない「教師」「先生」と呼ばれる人に出会ってきましたが、「~しなさい」「~するな」と注意(忠告)してくれる人はいたけれど、「自分で、自分に注意しなさい」と教えてくれた人はほとんどいなかったように思う。右へ行け、立て、座れなどと、いつだって学校では子どもたちに命令しています。だから子どもたちも、「命令」されることに馴れても、「自分に注意しない」人間にさせられているのに気づかない・注意しない。「賢(かしこ)い」というのは「注意深い」ということ。思慮深いというのは「自他に気遣いできる」ということでしょう。思い遣りとか、思い遣るというのは「注意深い人」ができることであって、それは「計算問題」を高い評価を得るためにではなく、自らの不注意を治すためにしてきた人の、それによって得られたであろう姿勢・態度だと、ぼくは言いたいですね。算数に限りませんけれど、多くの試験の効用は「不注意」「飽きっぽさ」「いじわる」「わがまま」などという、自他に対する「無礼」を矯(た)めるための無償の行為ですね。自分にも他人にも「礼儀ただしい」、それが「教養」というものでしょう。

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「徒然に日乗」(603~609)

〇2024/12/22(日)珍しく、終日自宅に。一日中、パソコンの前に座って、ネット番組を見たり、聴いたりして暇をつぶしている。▶シリア情勢、ウクラナイ侵略戦争のその後について、実に深刻な事態が続いていることに胸を痛めている。つくづく、「権力者」という「小心もの」の正体を見せつけられているようで泣きたくなるほどだ。他人を支配し、贅沢の限りを尽くす。ただ、それだけのために「権力奪取に取りつかれる」というのは、ぼくには信じられなばかりの愚かさである。何が悲しくて、他人を支配し、他国を侵略するのだろうか。それには必ず「殺戮」が伴う。そのような蛮行が自国の国民の幸福の達成にいかなる貢献をしているのだろうか。他人より優れていたい、他人の上に立ちたい、他者を支配したいという、つまらない「自己顕示」の欲望が、どこまで人間を愚か者にすることか、歴史のほぼすべてに、この「愚かさ」が大きな役割を果たしてきたことがわかるのだ。(609)

〇2024/12/21(土)昼前に買い物で茂原まで。ほぼ毎日出かけている。必要なものを買って即座に帰宅する。本日は、久しく乗らない自分用の車を運転。初登録以来23年目か。走行距離は十万超㌔。この数年間はほとんど乗らない。はっきり言って、無駄そのものだ。普段はかみさん用の小型車を利用(1600㏄)。こちらは2500㏄、しかも古い車だから燃費は極めて悪く、リッター当たり7.4キロ。それでも、この地に引っ越す際にはずいぶんと重い荷物(主として書籍)を運ぶのに大変に役立った。書物を満杯に積んでは何十度となく、佐倉市と長柄町をこの車で運んだ。めったに乗らないにしては、調子は悪くはない。前回の車検の際に、新しいバッテリーに交換したので、バッテリー上がりだけは防ぎたいもの。少しずつ乗り続けていきたい。ただし、ここにきて、いきなりガソリンが1㍑で5円から7円も値上がりしている。ハイオクはなんと1㍑180円越えだ。おいそれとは乗れないほどに高くなった。このオイル高はいつまで続くのだろうか(608)

〇2024/12/20(金)昼前に買い物で茂原まで。連日の買い出しだが、その分、かみさんが少し出るのを控えているのは、寒さのためかもしれない。インフルエンザが流行しているし、コロナ流行も収まってはいないので、できるだけ、外出は控える方がいいと思うし、無駄な体力消耗は避けたいところ。▶暮れも残り十日ほどになったが、相変わらず、奇怪な出来事や凄惨は事件・事故が続いている。経済犯罪がこのところ多く報道されているのは、理由があることなのか、それとも偶然の重なりなのか。▶いつも言うことだが、この国は多方面で縮小するばかりの運命にあるようだ。経済復興の再来はあり得ないどころか、かえって経済の縮小が止まらないようにも見える。日本企業の活動の場面がほとんど見られないのは、いろんなところに少子化・高齢化に伴う、人口減少の急激な進行が影響しているに違いない。昨年の出生数は70万という。戦後の最高値の3分1以下だ。人口が再び増加することは、この先容易に起こるとは考えられない。(607)

〇2024/12/19(木)早朝5時ころか、雨にしては静かだなと思っていたら、雪が降り出していた。積もるほどでもなかったが、確実に寒さを届ける雪だった。やがて、日差しも出てきて、一安心。猫たちの中には風邪気味の子もいて、気を付けている。▶午後になってから、買い物に。このところ、昼前後は意外に店内が混んでいるので、それを避けたのだ。▶午後、ネットを見ていたら、いつも見るユーチューブ番組が特別放送というものをやっていた。ジャニーズの裁判がラスベガスで行われることになり、少年時代に現地で被害に遭った日本人男性二人が、賠償金(日本円で460億円という金額)を求めて提訴したという。一人当てで230億円。すでに日本で賠償金の支払い済みの生被害者は約500人超で、訴え出た人はその倍はいたという。保証額はアメリカの場合とは比較にならないもので、およそ平均でも一千万円はいかないだろうといわれている。今回の提訴で、性被害の補償に関してまったく別の展開が始まった感がする。この先の展開はどうなるのか、ジャニーズのタレントたちの活動にまで大きな影響を及ぼしかねないと思われるのだ。(606)

〇2024/12/18(水)午前6時半、「ビン・カン」回収のために集積所まで持参。室外で、久しぶりに家の外から「日の出」を見た。海岸線から、長柄町上野の林の上(自宅からは南東方向)に「太陽」が顔を出したのは、午前7時直前だった。九十九里海岸線状に昇るのは、おそらく6時40分過ぎころか。十数分間、じっと佇んで「日の出」を見ていた。▶それなりに寒い一日だったようだ。昼前に買い物。緑ヶ丘郵便局へ。郵便料金の値上げがあったので、古い葉書を新しいものに交換。▶夜の八時過ぎに、韓国ジャーナリストによる「韓国通信」で、今回の「非常戒厳」宣布問題についてのネット番組を見た。その内容は多岐にわたるが、要約すれば、初めから徹底的に「無理筋」の大統領の一人芝居だったといえようか。光州事件(1980年)が今回の「大統領の一人反乱」を明らかにしてくれたようにも思われた。韓国民衆の政治行動の健全性を見せられたと思う。大統領の罷免手続きは紆余曲折を経ながら、最終段階まで進むだろうと予想している。(605)

〇2024/12/17(火)午前中に灯油買い出し。いつも18㍑を2缶分(36㍑)。1962×2=3924円。今シーズンはどれくらい使うか。帰宅後、続いて土気まで猫缶を買い出しに。ほぼ一週間ごとに、かなりの数量を買う。それとは別の店で、「ドライフード」なども、定期的に求めている。▶明日は「ビン・カン」の回収日。その準備をしておく。寒くなったこともあり、天然水の消費量も増えているようなので、かなりのペットボトルの回収になる。明朝早くに回収用の袋に入れて出す。▶韓国大統領の弾劾問題が、すんなりと進む気配が見えてこない。辞職というか、職務停止まで行くのだろうが、憲法裁の裁判官の構成に問題がありそうで、まるで米国大統領の「起訴取り消し」のような顛末にならなければいいが。犯罪事実が明らかであり、それに対して判断が下されることになっているのに「免訴」という裏技が出るというのは「法治国」としてどうなのかという疑問はアメリカの場合には残ると、ぼくは考えている。(604)

〇2024/12/16(月)お昼前に、かみさんが新しい免許証を受け取りに茂原警察まで行くというので、乗せていく。免許更新などのように、自分にとって大事なことは忘れないんだなと、感心する。帰りに買い物。二人で出かけるのは久しぶり。好天気だったし、拙宅前の家では庭掃除の人たちが来ていたし、家の持ち主もおられたので、家を空けても大丈夫だと小一時間ほどの外出だった。(603)

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万事に「虚礼廃止」が肝要ですね

⦿ 週初に愚考する(五拾)~ 数日前に近所の郵便局に出かけた。郵便料金が改訂になったので、返信を認(したた)めた古い葉書には不足分を切手で払い、四十枚ほどの古いものを新しい葉書と交換してもらうためだった。葉書一枚が22円の値上げだという。しばしば利用する郵便局だったが、すっかり人員が変わっていた。おそらく店舗の代表者(昔なら局長か)は女性だった。局内に客は三、四人くらいしかいなかったが、仕事の段取りが悪いのに驚くばかり。「交換に間違いがあってはいけませんから」とか「混雑していますので」などと、あらぬことを言いながらテキパキとはいかないのだ。以前から要領が悪いのが目に付いていたが、いよいよ「焼きが回ったか」といいたくなるような鈍(のろ)さだった。いえば「弁解ばかり」で、まるで当方は「カスハラ」爺さん扱いだった。「郵政民営化」は公金(郵便保険・郵便貯金など)を、誰かが好き放題に使えるようにしたばかりで、第一、局内に「アフラック保険」を販売していること自体が、民営化の象徴だったと言えよう。郵便局ははやらない「コンビニ(万屋・なんでもや)」になっている。まずは「店員教育」をしっかりやってほしいね。

 本当は利用したくないのだが、長く専売(買)公社だったから、今なお「専売」時代の営業態度臭・醜(「親方日の丸」「横柄」「慇懃」)が抜けていないのだ。落日を迎えても気が付かない面々が取り仕切っているのだから始末に悪い。「年賀状」に関しては、どこかで触れました。かなり前から、ぼくは「年賀状」は出していないし、第一、年頭の「虚礼」は性分に合わないので、何十年も前に止めていました。新春の挨拶だからと、ぼくは「立春の日」直前に出すことにしている。一カ月以上も「挨拶」がないのは怪しからんと思われる向きもあったか、年賀状の枚数はかなり減りました。数の多少は問題外で、要は「虚礼」の部分を可能な限り減らしたい(なくしたい)、その一念での愚行だった。年賀状を書くという「強迫観念」から、すっかり解放されている。「春立つや 新年ふるき 米五升」と詠むのは芭蕉さんでした。

【地軸】年賀状 先日、社説原稿で「メリハリの利いた予算」と書いたところ点検した上役から「漢字があるため平仮名でめりはり」と教えられた。手元の記者ハンドブックを見直すと「減(め)り張り」との表記。合点がいった。
 この字を当てれば、確かに分かりやすい。語感や強調の意図から片仮名にしたい気持ちも残るが。広辞苑では、緩むことと張ること。そして「特に邦楽で音の抑揚をいう」と説明される。さらなる由来がありそうだ。
 語源の辞典などを眺めると、めりはりは「めりかり」が転じた言葉という。減りは低い音。その一方「上(か)り」は高い音。尺八といった管楽器の伝統音楽で使われている。邦楽と聞いて、そろそろ流れ始めるクリスマスソングのような曲を想像したものの、趣が異なる。
 何かと気ぜわしい中、もうそんな時季か。霜月を迎え、年賀はがきが発売された。ことしから85円に値上げ。発行数は前年に比べて4分の1少ない10億7千万枚に減った。めりはりをつける企業や個人が多いのだろう。
 数年来「今回で最後」との一筆が増えた。心さみしい思いは募るが、事情もさまざま。やりとりが続く先には、早めの準備に取りかかりたい。
 机を整理していたら、コチョウラン柄のはがきが数十枚も出てきた。喪中の年に使い切らないまま、失念したらしい。必要とする人にお譲りした。フリマアプリのメルカリを通して、少しだけお安く。物価高。家計にも、めりはりを。(愛媛新聞・2024/11/06】

 生来の筆不精だったから、例年年賀状を書くのは苦痛でした。だから、これももう何十年も前から、年齢の上下に無関係に、年頭に戴いた方にのみ「返信(返礼)」を、それも二月立春を期して出していたのです。文字通り「春立ちぬ」で、何か問題がありますかと当方は勝手に思うばかりで、相手の立場からすれば、何とも無分別、無礼者め、だったと思う。それでも「虚礼の部分」は可能な限りなくしたいという思いで、続けています。根が「不精」だから、とにかく字を書くのは苦手、それを誰かに読んでいただくのは、さらに嫌ですね。(ブログの駄文・雑文は、読む人知らずですから、それなりに気は楽。何しろ、朝飯代わりに打鍵運動をしているだけんで、気楽な分、駄文のレベルは下がり放しで、これだけは直しようがない。先月の「地軸」には「蘊蓄(うんちく)」が語られていました。「メリハリ」は、元は「めりかり」だったという。今日では、それとはまったく趣の異なる「メルカリ」が繁盛しているようですが。

 いずれ「(元)官製年賀はがき」は消える運命にあるようです。もちろん、今だって「官製」ではなく「半官的半民的」性格で、何ともあいまいなところが、企業の性格としても中途半端だと思います。民と官が同居しているというのか、同床異夢というのか。もちろん、ぼくは何十年も年賀状を購入したことはない。何日までに出せば「元日に着きます」という「煽り」運転も経験したことはありません。これには亡き友人の影響があった。売れ残った数億枚は、「毎年焼却処分している」と報じられて、彼は「年賀状」は止めて、「寒中見舞い」に変え、旧郵政省の暴挙に抵抗していました。(いまも「暴挙」は続いているのだろうか)

 松田聖子さんの「風立ちぬ」にあやかって、「春立ちぬ」が年頭の「挨拶」になっている、いつしかそんな習慣が付いてしまいました。年末年始も、まったくいつも通りだし、まさしく「メリカリ」だか「メリハリ」などもあったものではありません。「もういくつ寝るとお正月」というお伽噺をどこかで誰かから聴かされていたかもしれないという遠い思い出になってしまい、とっくに「正月」はどこかに消えました。大晦日も元日も、ぼくには「普段の一日」です。不謹慎な言い方ですが、その振る舞いは、まるで地震や雷などの「自然災害」に変わるところがない。それは「盆も正月も」ない、いつだってやってくる。「日常」の出来事になっている。昨年の元日は、今なお「能登」では続いているのです。それを忘れられないままで、「新年おめでとう」と言えますか。「言うだけでいいんだよ、どうせ虚礼なんだだから」と、どの面下げて言えますか。

 恐らく「年賀状」は皆無にはならないでしょう。そういうものです。江戸や明治の習慣(「文化」、「文明」の名残り)は、辛うじてであれ、今も生きている。例えば「丁髷(ちょんまげ)」は国技館に腐るほどある・いる。カステラは「文明堂」ばかりとは限らないのです。ぼくたちが歴史を感じるのはそういうことですね。ぼくはあらゆる「虚礼」を世間からなくそうではないかなどというつもりはない。「虚礼に励もう、勤(いそ)しもう」という人々がいるのは結構。それを他人に断りなしに押し付けないでくれ、ぼくはそれだけを願っています。「年賀状」だけが虚礼ではない。この社会から「虚礼」を除去したら、社会がなくなるかもしれないと心配される向きもあろう。でも大丈夫、どんなにつまらないと思われる「格・式」でも残るところには残っている。

 ぼくは小さい時から「式」と名のつくものが嫌いでした。四季も子規も史記も「だいしき」だったし、やがて来る「死期」は好き嫌いを超えていますから、甘受するほかないのですが、「~式」だけはだめでしたね。いちいち挙げませんが、それが消えると、ずいぶんとさっぱりしますし、かえって、「形式」なんかより「実質」が大事だという意識と生活の大転換が起るかもしれない。

 ・・・という「週初の愚考」でした。(後ろの方から「気は確かか」という声が聞こえる)(ただ今、午前4時半。室温19.1℃、湿度46%。暖房あり。膝上に、「白い甘えん坊」がいる早朝だ)

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