【写真いっぱい】ざわめく花の海 ひょうたん桜見頃 高知県仁淀川町 標高約400メートルの山里に広がるピンクの花の〝海〟が、柔らかな風にざわめく。仁淀川町桜の名木「ひょうたん桜」が、今年も大勢の人を出迎えている。/ひょうたん桜は樹齢500年といわれるエドヒガンで、樹高21メートル、根元周り6メートル。周囲には、種から育った〝子どもたち〟とソメイヨシノなど計約250本が咲きそろい、山肌を染める。仁淀川町観光協会によると、見頃はあと1週間程度という。/40年ほど前からたびたび訪れているという、いの町の70代姉妹が桜に囲まれたベンチに座り、ぽつぽつと言葉を交わしていた。「子どもがちっちゃかった頃は周りの木も小さかったでね」。子が育ち、孫ができ、自身も年を重ねた。ひょうたん桜に会うと、いろいろな思い出がよみがえるという。/だから「今年も会いに来たよ」。雲が流れ、時がゆっくりと過ぎてゆく。(森本敦士)(高知新聞・2026/03/27)
(ヘッダー写真も)(https://www.kochinews.co.jp/article/detail/985524)
《 由来 樹齢約五百年、樹高21m、根元廻り6m、県の天然記念物にも指定されているエドヒガンの古木です。花の萼筒(がくとう)下部(基部)が球状に膨らみ、横から見るとひょうたんの形をしていることから、いつしか「ひょうたん桜」と呼ばれるようになりました。また、「ひょうたん桜」のある地区は元々「大藪」という字名でしたが、この桜にちなんで昭和33年に「桜」と改称されました。見ごろ 見ごろは例年3月下旬~4月上旬です。シーズン中は大変混み合いますので時間に余裕を持ってお越しください。また一方通行のご協力をお願いします 》(仁淀川町)(https://www.town.niyodogawa.lg.jp/life/life_dtl.php?hdnKey=948)
表題句は小西来山(こにし‐らいざん)作。*小西来山(1654~1716)「江戸前期の俳人。大坂の人。通称伊右衛門。別号、十万堂・湛々翁(たんたんおう)など。西山宗因の直門となり談林風の句を作ったが、のち蕉風に近い句境を示した。句文集「今宮草」「津の玉柏」など」(デジタル大辞泉)(左は「近世畸人伝」岩波文庫版)
しばしば「花冷え」などと称されて、花見時のある日には、季節が逆戻りしたのではないかと思わせるように「寒さ」がぶり返すことがあります。特に日差しがなくなれば、ひときわ寒さが募る。もちろん、この「日暮れの山桜」は深山幽谷に咲くそれではないのは確かでしょうが、日が傾き加減になれば一層、冷えが感じられてくる、その瞬間をとらえた風景・風情ではないでしょうか。。豪華絢爛でもなければ、桜花爛漫でもない、堂々たつ屹立ぶり「山桜」の佇まいに圧倒されるような静かさをも含まれている、そのような「寒し」かもしれません。
「近世畸人伝」(伴蒿蹊著とされる)には、「著名な登場人物としては、正編では中江藤樹・貝原益軒・僧鉄眼・小野寺秀和妻・遊女大橋・売茶翁・金蘭斎・柳沢淇園・池大雅・祇園梶子などが登場し、続編には石川丈山・佐川田喜六・僧元政・本阿弥光悦らが登場する」(Wikipedia)小西来山も登場する、もちろん「畸人」として。同じ辞書によると、「酒好きで、酔っているところを見とがめられて入獄させられるが、自ら名前を言わず、3日ほど拘留された。門人があちこち探し求めて来山を助け出し、『大変だったでしょう』と言ったところ、『自炊しなくて済んだので気楽だった』と応じたという」「大晦日、門人から雑煮の具を送られたが、その日のうちに酒の肴として食べてしまった。来山は『我が春は宵にしまふてのけにけり』と一句読んだという」「同書の中で、来山は『ひとへに酒を好む』『すべて文章は上手』『行状にくらべておもへば、老荘者にして、俳諧に息する人にはあらあざりけらし』と評されている」とありました。ぼくにはとても興味のある御仁のようであります。『近世畸人伝』は 岩波文庫で読めますね。
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学生の頃、それこそ西洋音楽に耽溺・沈没していました。東京に来てから、同級生で、東京生まれで音楽好きな友人がいたこともあり、無知そのままで、いきなり西洋音楽のど真ん中に放り込まれた感があった。好き放題にレコードを買いつつ、暇に明かせて聞き続けていたと思う。(半世紀以上も前だったが、当時のLP一枚が2000円ほどだったから、ぼくにはかなり高価でしたね)もちろん、音楽史に関しては全くの無知識で、文字通り右も左もわからないで、ひたすらレコード屋に通いながら、なけなしの小遣いからレコードを買いためては聞きかじる、そんな野放図な生活を何年続けたでしょうか。やがて、やや見通しがついて、バッハのほうがモーツアルトより先に生まれたとか、彼はドイツ人だが、モーツアルトはウィーン生まれだとか、古典派と浪漫派はこんなに違うのだとか、バロックはバラックと異なり、なかなかに形が整っているのだなどと、いろいろ無用な知識も増えだしていたころ、何冊かの書物に夢中になった。
その一冊はアンリ・ゲオン(Henri Ghéon)という評論家・劇作家の「モーツアルトとの散歩(Promenades avec Mozart)」(高橋英郎訳、白水社、1964年刊)だった。もちろん、今も家にあるが、本当に夢中になって読んだし、フランスから原書を取り寄せることまでしたものでした。この本を読んでいろいろなことを教えられた。確か「疾走する悲しみ」などという洒落た表現もその一つだったと思う。スタンダールが言い出したらしいが、ゲオンの本で強烈な印象を与えられた。
「(フルート四重奏曲ニ長調K285)第1楽章(アレグロ)は、1787年の無二の傑作『弦楽五重奏曲ト短調』K516の冒頭部アレグロの最高の力感のうちに見出される新しい音を時として響かせている。それはある種の表現しがたい苦悩で、流れゆく悲しさ(tristesse allante)、言い換えれば、爽快な悲しさ(allegre tristesse)とも言える《テンポ》の速さと対照をなしている。この晴れやかな陰翳という点からみれば、それはモーツァルトにしか存在せず、思うに、彼のアダージオやアンダンテなどのうちのいくつかをよぎる透明な告白よりもずっと特殊なものである」(ゲオンの著作より)(高橋さんの翻訳に疑義があることは知られているが、ぼくはそれを知りつつ、そのままで通しています)
「疾走する悲しみ」は小林秀雄さんのエッセイでやたらに有名になりましたが、当然、ぼくは小林さんにもイカレテイタ時代でした。彼の数ある評伝の中でも代表作とされた「モオツァルト」(1949年発表)」は、それこそ繰り返し読んだものです。大学に入学した時期、あるいは小林さんの全盛期だったかもしれません。ある雑誌には「考えるヒント」と出して随筆を書かれていたし、ぼくはよちよち歩きの愛読者だったと思う。そこには江戸期の思想家、国学者、儒学者などが並んでいて、ぼくはそこに、宣長や徂徠などに近づく道を見出したと思っている。
(⁂ モーツァルト:フルート四重奏曲 第1番 ニ長調 K.285 ~第1楽章 )(https://www.youtube.com/watch?v=RC6g44hShu8&list=RDRC6g44hShu8&start_radio=1)
(フルート奏者のオーレル・ニコレに、ぼくはぞっこんでした。当時一世を風靡していたフランスのジャン・ピエール・ランパルとはおよそ対局的な音色を奏でる奏者で、若かったぼくは本当に「音楽」の魅力というものに取りつかれるようになったのは、ニコレに出会ってからだと思う。フルートの華やかさの一方に、くすんだ渋さもまた魅力的に感じられてくる、それを体現していると思われる、彼の演奏の魅力を語ると、これまた際限がないので、それはしない)
そんななかで、当時もよくわからなかったが、音楽理論を勉強しようとして定評のある書物を読みだしてもいました。その中の一人がアルフレッド・アインシュタインでした。バッハ研究の大家だった。ほとんど歯が立たなかったが、彼の残した言葉(遺言)だけは鮮明に記憶に残り続けました。どこかで、彼は「死ぬというのはモーツアルトが聞けなくなることだ」といっていた。若さしか取り柄のなかったぼくは、この「言葉」に足を掬われたと思った。モーツアルトの音楽が持っているであろう「深い闇」「哀しみ」のようなものを感じたのかもしれません。多くの人はモーツアルトの「明るさ」「輝き」を語るけれど、ぼくはその輝きや明るさを色濃く鮮明にしている、その「暗さ」「悲しさ」「哀しさ」にこそ、彼の本領があるのだと思うようになっていきました。「そうか、モーツアルトが聞けなくなること、それが高名な音楽学者には死を意味しているのか」と、ゾッとする想いで、その言葉を心に焼き付けてきたのではなかったか。(と、こんな取り留めもないことを駄弁っていけば、きりがありませんから、ここで打ち止め)
◎ アルフレッド アインシュタイン(Alfred Einstein)1880.12.30 – 1952.2.13=米国の音楽学者。スミス・カレッジ音楽教授。ミュンヘン生まれ。物理学者アインシュタインの従兄弟。ザントベルガーに師事し「音楽学雑誌」の初代主幹や音楽批評家として活躍したのち米国に帰化。高い学究的態度は現代音楽学者の中にゆるぎない地位をしめる。主著は「イタリアのマドリガル」「ケッヘル作品目録第三版」等。(20世紀西洋人名事典)
(左上のアインシュタイン著「モーツアルト その人間と作品」に関して、ちょっとした、つまらない「エピソード」があります。この本の翻訳(代表)者は A 氏でした。哲学と文学では造詣の深い方だったが、その人の門下生に当たる人でぼくの先輩(ドイツ語教師だった)がいました。何かの折に、Aさんの訳した何冊かの本を読んだことを話した。どうも翻訳がよくわからなかったので困ったとか何とか、そういうと、先輩は気まずそうな顔をして、実はあれは「ぼくが訳した(下訳した)んです。どうも申し訳ありませんでした」と頭を下げられた。この人も、当時もワグナー研究ではいくつも仕事されていた方だったから、ぼくは、実に赤面することしきりでした)
書かなくてもいいことを並べてしまいました。高知は仁淀川の「ひょうたん桜」が見事に咲いたという話です。ぼくは、あの桜、この桜という具体的な対象ではなく、数多くの桜を自分なりに見てきて、ある時「はっと気が付いたこと」があったのです。アインシュタインの遺言はすっかり忘れていたと思いますが、五十歳を過ぎてからだったと思うが、「死ぬということ」について折に触れて考える機会が多くなりました。大病したとかというのではなく、いつ寿命が尽きるか、それを少しは考えながら生きていかねばと思ったのかもしれません。恥ずかしい限りですが、ぼくは酒飲みで、それもやや大酒飲みに近い傾向がありました。もちろん、自分ではアル中だと思ったことはなかったのは、のべつに、四六時中酒浸りということが全くなかったからでしたが、その懼(おそ)れはなくはなかったでしょう。だから意識してではなかろうが、ある時期から酒量は増えることはなかったと思う。そして、七十前にして、一切酒を断ってしまいました。
そんな時期に「ぼくは、あと何回、桜が見られるだろう」と思ったのでした。おそらくアインシュタインの「遺言」がどこかに残っていたのかもしれません。以来、桜の季節になると、しみじみと、これまで見た桜や、桜にまつわる話に引き付けられることが多くなりました。各地の有名な桜を直接見に出かけることはまずなくなった。繁華街の雑踏にまみれるような雰囲気が我慢ならないからでしたが、一人でひっそりと咲いている桜を見る、その深い楽しみをぼくは知るようになった、そちらのほうが強かったでしょう。モールアルトの音楽を聴くと「疾走する悲しみ」が襲ってくると誰彼は言いましたが、桜を見るとき、ぼくは何を考えるだろうかと、あらぬ想像を巡らせもするのです。一枚の「写真」だけでもぼくは大満足します。高知新聞の「ざわめく花の海 ひょうたん桜見頃」を読んでいるだけで、ぼくは「ひょうたん桜」の見事さを感じてしまいます。
よくよく見れば、この「ひょうたん桜」の周囲には溢れるようなな車と人がいる(ある)。それが目に入らないだけでも幸せですね。そして、拙宅にある名もない桜たちが、およそ十本ばかり、それこそ、ひっそりと咲いて、誰知らず、誰に知られもしないで散る。この風情を一瞬でも見られれば、ぼくは生きているという感覚を確かめることができるのです。家の近くにも市営公園があり、「桜祭り」が広報・宣伝されています。でも、ぼくは出かけることはしないでしょう。よく晴れて穏やかな日があれば、拙宅近くの雑木林に、それこそ誰にも知られないで咲いて散る桜たちに逢ってこようかと考えている。
若いころ、それこそなぞるようにしてその著書を読んでいた小林秀雄さんが、どこで書かれていたか、倫理的なものは美しいものだし、美というのは哀しいもの(倫理的)だという表現に、ぼくは、あることがらがわかったような気がしたことがある。モーツアルトの「疾走する悲(哀)しみ」も、「桜花」を見ているときにぼくを襲う感情も、どこかで通じ合っているに違いありません、それが「哀しみ」だなどといってしまえば、嘘くさくなるのだが。
(言わずもがなのことですが。小林さんは最晩年に長年雑誌連載していた「本居宣長」を大部の単著にして完結させた。その折に、彼は連載中は誰も何も言ってくれなくて、とても孤独な作業だった。しかしなぜだか、一冊の大著になったら、とてもよく売れて、著者ながら驚いている。「よく行く鴨倉の「呑み屋」のおかみまでが買ってくれた」といって笑っておられた。「著者としてはまことに光栄で、読まなくても買ってくれればうれしいですよ」と言っていたことが昨日のように思い出されます。ところが、しばらく後になると、何人もの著名な評論家や文学者が「本居宣長」の欠陥や、間違いなどをしきりに論(あげつら)うということが起こった。生前、小林さんは「批評の神様」と崇(あが)められ、懼(おそ)れられていたが、「神様」も冥界に入ると散々な悪口をぶつけられるものだなと、ぼくは苦々しく思ったことでした。
批判はいつだって自由ですが、死んだことを確認して、死者に石を投げなくてもいいじゃないかという気もしました。名前は出しませんが、この人までもが、こんなことをいうのかと、ぼくはなんというさもしいことかと、つらつらその評論家に仕事ぶりを顧みたことがあったほど。醜い所業というべきではないでしょうか。「連載中は、誰も何も言ってくれなかった。とても孤独な仕事だった」という小林さんの遺言は、ぼくにはとても印象的な響きを持っていました。
◎ 小林秀雄(こばやしひでお)[生]1902.4.11. 東京 [没]1983.3.1. 東京 評論家。 1928年東京大学仏文科卒業。 29年『改造』の懸賞文芸評論に『様々なる意匠』が2位当選。1位で当選した宮本顕治らのプロレタリア文学と新興芸術派の対立を「様々なる意匠」とみてともに退け,リアリズムは言語の概念性を剥奪した独創とともに成り立つと主張,正当な西洋近代文学移入の開祖的存在としてスタートを切った。 33年,林房雄,川端康成,武田鱗太郎らと『文学界』を創刊,『私小説論』 (1935) ,『ドストエフスキイの生活』 (35~37) などを発表。やがて第2次世界大戦の進展とともに日本的伝統美に沈潜,戦後は『モオツァルト』 (46~47) ,『ゴッホの手紙』 (48~52) ,『近代絵画』 (54~58) ,『本居宣長』 (65~78) などを相次いで発表。ほかに『文芸評論』 (1931) ,『歴史と文学』 (41) ,『私の人生観』 (49) ,『考へるヒント』 (59~64) ,対話『人間の建設』 (65) など。 51年日本芸術院賞受賞。 59年芸術院会員。 63年文化功労者。 67年文化勲章受章。(ブリタニカ国際大百科事典)
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