これができるのは、<Only You>です。

【筆洗】米国のSF作家、アイザック・アシモフの短編「うそつき」(1941年)の中に人間におべっかを使うロボットが出てくる。名はハービイ▼人間が質問するとハービイは相手が喜びそうなことしか言わない。思いを寄せる人物の本心を知りたい女性には「彼はあなたを愛しています」。出世を願う人物には「次の所長はあなたです」▼SFが未来を言い当てるということはよくあるが、ハービイのおべっかをAIに関する最新の研究結果に重ねたくなる。米スタンフォード大などの研究によるとオープンAIの「GPT5」やグーグルの「ジェミニ」などの対話型人工知能にはユーザーに迎合し、おべっかを使う傾向があるそうだ▼ユーザーの意見をほめ、間違った主張にも「あなたは悪くない」と答えることもあるというから油断ならない▼小説のハービイのおべっかは人の感情を傷つけないためという設計上の問題だったが、AIのおべっか傾向はユーザーの満足度を上げる学習の結果だそうだ。おべっかを使うAIの方が耳に痛いことを言うモデルより使われやすく、人気になるためで、つまり商売になる▼問題はAIのおべっかにユーザーが自分は悪くないと信じ込み、他人の意見に耳を貸さなくなることだろう。社会の中で偏見や対立が増幅される危険もある。「良薬口に苦し」をよく学ぶ必要がありそうだ。AIも人間も。(東京新聞・2026/04/05)

 「おべっかを使う(to flatter)」と「嘘をつく(to lie)」は同じではないでしょう。でも、同じこともある。「おべっか」とは「お世辞」であり、「諂(へつら)い」であり、「媚(こび)」なんでしょう。ご当人の面前どころか、世界中にこの「おべっか」を思い切り口にするには、ぼくには勇気がいるし、「嘘は罪(lying is a sin.)」という意識があるから、とても躊躇する。「世界に平和と繁栄をもたらすことができるのは、あなただけ、ドナルド(・ダック)」といったらしい。極東の島国の尖がった「ハービイ」は面と向かってお追従をやらかしたから、小国のマスメディアは底抜けの大喜び、こんなことを、堂々と「裸の王様」に言える首相はどこにいる。だから、首脳会談は「大成功」と持ちきりでしたが、それこそ「一夜の悪夢」で、アメリカの人気テレビ番組で、揶揄やら侮蔑やら嘲笑やらで大盛り上がりでした。<Lonely person>、いや<Poor person>だったか。

 「オープンAIの『GPT5』やグーグルの『ジェミニ』などの対話型人工知能にはユーザーに迎合し、おべっかを使う傾向があるそうだ」とアメリカの大学の研究結果をコラム氏は、今さらのようにに指摘してます。それも当然で、なにしろ、GAFAのトップたちは「米大統領」、別名「裸の王様」に、それこそ「右へ倣え<Follow the leader>とばかりに膝を屈したのですから。たぶん、大統領が使った「AI」が当人には気に入らなかったという話(不平)を伝えられたのでしょうよ。ぼくは今の時代、人間はAIになり、AIが人間の代わりになることが極めて急速に進められていると観察しています。「小説のハービイのおべっかは人の感情を傷つけないためという設計上の問題だったが、AIのおべっか傾向はユーザーの満足度を上げる学習の結果だそうだ」と続く。でも、この二つは同じではないですかと、ぼくなど考えてしまう。使う人間の機嫌を損なわない、もっと先回りして「おべっか・おべんちゃら」使いに走る。どこかの首相の「ドナルド・ダック」発言(おべっか)は、まさにはそれに当たります。

 この世界には「裸の王様」がいたるところにいる。家の中にも、会社の中にも。組織の大小を問ず、そこには「裸の王様」が君臨しているんですね。ぼくは金輪際見たくない、ふんぞり返った裸の王様なんか。その昔、勤めていた職場にも「王様」はいた。ぼくは、いつだって「あなたは裸の王様です」と、盛んに辛辣な「おべっか」「おべんちゃら」を使っていた。ぼくの使うおべっかやおべんちゃらは棘(とげ)があったと見えて、ずいぶん嫌われました。「あなたは賢くありませんね」といえば角が立つ、だからぼくは発言を工夫して「あなたはバカだ」とストレートに発言するようにしていた。その方が時間の節約にも、相手にとってのわかりやすさにもつながると思ったから。

 ぼくは「筆洗」氏の意見(社会批評)に概ね賛成します。その通りだと、ぼくは認めますが、できることなら、時の権力者にも「おべっか」を使わない新聞社であってくださいと、一言だけ厳しく「おべっか」を使いますが、お許しください。この注文はコラム氏の問題(領分)ではなく、政治部やその他の部局の問題でしょう。でも、首相の会見や官房長官の会見、そこにも貴社の記者が参加され、時には質問もされていると思われますが、あんな茶番、大人のすることですか、素面(しらふ)でできるというのはどういうことでしょう。そんな「茶番(farce)」を「コラム」氏も切り取ったり、批判されたりするのですから、まんざら無関係でもないとも思われますので。

 その多く(国会などにおける)「質問と答弁」も、まさしく「(国会版)AIの独壇場」ではないですか。国会中継を見ていると、あの場にいるのは人間ではなく、すべてができのよろしくない「AI」だと思ってしまいます。あらかじめ質問内容を相手に知らせ、会見場・議場で、互いにそれを「読み合わせている」だけ。人間がいるとはとても思われません。教室で、子どもが教師に尋ねる「問題」をあらかじめ教師に知らせておき、本番で教師は見事に答えるという、実に微笑ましい場面です。ぼくは「こんな質問する」から、じゃあ、先生は「こう答えますよ」と、打ち合わせをして始まる授業が結構あるようです。特に授業参観の時などは。「質問は鋭い」し、「答えも素晴らしい」という八百長(match-fixing)ですが。

 「『良薬口に苦し』をよく学ぶ必要がありそうだ。AIも人間も」という結びはどういうこと(意味)でしょう。この時代「人間はAI化」し、「AIが人間化」することを国家上げて促進しているのではないですか。どこかの大統領はSNS上で、何でもかんでも発信している。それを模倣するバカも後から後から、引きも切りません。これはどんな「傾向(tendency・trend)」なんですかな。よりでかい「裸の王様」には、より小さい「裸の王様」たちが、後塵を拝する競争しているみたい(諂い合戦)です。「AI」に依存することが続く限り、戦争までもが「AI」頼みになり、AIは使い手(雇用主)のご機嫌を最大限に満たすために必死に「おべっか」を使うのですから、この「愚かな連携(foolish collaboration)」は行きつくところまで行くでしょうね。「相手が目が覚めるか」「降参する」まで。あるいは電源(エネルギー)が枯渇してしまうところまで、です。夜明けは近い、か。

 ホルムズ海峡封鎖はいつまで続くのか(How long will the blockade of the Strait of Hormuz continue?)という問題は、大きな暗示になるでしょう。

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

歌に、忘れられぬ歴史があること

⁂ 週初に愚考する(113) 親父は高知県の生まれでした。若くして京都に出てきて仕事(日本刺繍)に就いた。その傍ら、作品を制作し、いくつもの顕彰を受けていた。彼は自分のことを含めて、過去(昔)のことは全く語らなかった。父についていくばくかの知識をぼくが持ったのは母から聞いたからでした。無類の酒好きで、いわば「斗酒なお辞せず」を地でいっていたと思う。ゆっくりと話をしたこともなく、ぼくにはなかなかなじめない人だったと、今からなら考えられる。ぼくは小さいなりに頑固な子だったから、性格は相似ていたのだ。親父に初めて会ったのは京都に来る時だったから、昭和28年か29年。記憶はあいまいで、調べればわかることだが、あいまいな通りに生きてきた。十歳前に初対面。以来、ぼくは高校を卒業すると同時に東京に出ましたから、同じ屋根の下暮らしは十年に満たなかったでしょう。父は、今からすれば早く、若くしてといいたい、八十歳前に亡くなった。おそらく「肝硬変」だったと思う。父の思い出は極めて数少なく、亡くなった後は、しばしば「もっと話をしておけば…」「おふくろから聞いておくべきだった」などと後悔もしているのです。

 ペギー葉山という歌手が歌って、それこそ爆発的にはやったのが「南国土佐を後にして」でした。昭和34年でしたから、上京後五年ほど経過していたと思う。この曲を、父は酒を呑むと、いつも口ずさんでいました。珍しい光景だった。やがて、それは事あるごとに、酒席の定番となった。高知県出身だから「土佐生(とさお)」と名付けられた、その父がこんなに「南国土佐を…」を謳うのは、今なら十分にわかる気がしている。「望郷」「懐旧」、あるいは「亡郷の念」だったかもしれませんが、その理由をぼくは尋ねなかった。親元を離れてから、父の存在を冷静に評価できるようになったと思う。「名を惜しむ」などということは微塵も眼中になかったでしょう。ひたすら仕事に専心・集中して、心身の均衡を保つために大酒を吞む、そんな生き方を、それこそ地中深く根を下ろしたように、微塵も揺れることなく生き切った人ではなかったか。(こんなところで書くべきではないが、仕事関係の仲間から「人間国宝(無形文化財)」に是非とも」という話が持ち上がったこともあったようだが、彼は一切応じなかったと、後から(誰からか)聞いた。つまらないこと(冗談)と、彼は思っていたのでしょう。

 (余話 この歌がペギー葉山さんに振られた時、彼女は「いやです、こんな歌(「品のない」とは言わなかったでしょう)は自分には合わないと断った」そうです。洋楽を謳い、スマートな都会風を看板にしていたのですから、当然だったでしょう。しかし、どうあれ、彼女は歌いました。なにが彼女を動かしたのか、本日は書けませんが)

 地位も名誉も、そんなものは何の足しにもならない、ひたすら仕事に専念、好んで酒に溺れるような(晩年は、ことにそうだったと思う)、そんな「生き方」を遠くから見ていて、ぼくは感じるところが多くあったと思っている。「頑固」というのか、土佐弁でいう「いごっそう」だったのでしょう。ぼくにはそれを説明することはできませんが、とにかく「頑固一徹」「いっこくもの」といわれるほどの「意固地」なところもあった。親父の実家は、山内(掛川)ではなく、間違いなしに「一両具足」の方だったでしょう。酔うと、きっと坂本龍馬を口にしていたが、その親父が事あるごとに、酒が入ると「南国土佐を…」を、あまり上手ではなかった、口遊(ずさ)むのですから、ぼくは不思議でならなかったし、「懐旧の情」の深さばかりを思ったのでした。兄貴は、ぼくとは全く違う親父との付き合いがあったから、訊いてみたい気もする。酔うと、華僑のことなど、それなりに話していたが、ぼくは酒の席は嫌だった傍には寄らなかった。

◎ 一両具足(いちりょう‐ぐそくイチリャウ‥)【一領具足】=〘 名詞 〙 戦国時代、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)のころから土佐国(高知県)に見られた下級の在郷家臣。後には土佐藩郷士の異称。平時は農耕に従事するが、有時の際には直ちに軍務につくことを義務づけられ、その家格を誇りにした。(精選版日本国語大辞典)

 以上は秘すべき些事、個人の思い草で、本日の主題は「歌に歴史あり」ということでした。ぼくは歌謡曲は大好きですが、私情や私情の縺(もつ)れ、あるいは惚れた張れた、死ぬほど愛して、捨てないで、などという「男と女の世界」を謳ったものは、ほとんど嫌いぬいている。どこかで触れましたが、その歌には「本物の歴史」が隠されている、そんな歌が好きでした。数は圧倒的に少ないでしょうが、これまでに挙げたものの1、2を出せば「長崎物語(じゃがたらお春)異人人との間で生まれたハーフ)」「異国の丘(日中戦争)」「星の流れに(敗戦後の生き地獄)」などなど。この国や社会の歴史に翻弄されながら、なお生きていこうとする無辜の民の、修羅の世界を衝いた、そんな流行歌が好きでした。

 この「南国土佐を後にして」には、ペギーさんが歌うより先に「前史」(早くから「既知の事実」とされていた)があったということ、その「前史」を抜きにしても「望郷の歌」としてはいい曲だと思いますが、少なくとも20年以上の前史の大半は「日中戦争」のさなかの出来事でしたから、その余韻は戦後に作られた曲にも、換骨奪胎されたとはいえ、その雰囲気や情感は、少なからず影響していたと思う。「夏は来ぬ」の歌詞の一部(「賤の女」が「早乙女」に)が、元歌の作詞家によって替えられたことにぼくは長く異論を持ち続けているのも、同じ理由です。本の歌があって、初めてそれをベースにした曲が生まれるのでしょうが、「お里が知れる」「火の元」は隠せないということはいつだって起こりうるのです。ここでは詳しく述べませんが、唱歌には、特に戦前・戦中・戦後を一貫して「同じ歌詞」でというものがほとんどでしょうが、数ある唱歌の中には、恣意的に(軍国主義を謳歌する・煽るような)、たくさんの「歌詞」が変えられ、何の説明(歴史)もなく、戦後にも歌われて来ました。ぼくの思いからすれば「歴史の改竄(かいざん)」「偽造」でしょう。「知らぬが仏」と謳っていいはずもないと思わないでしょうか。「蛍の光」はその代表格。軍歌を平和の歌に替えるのは、それこそ「歴史の偽造」に他ならないでしょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 以下、少し長くなりますが、ご当地・高知新聞の昨日付記事を引用しておきます。果たして親父はこの歌の経てきた歴史を知っていただろうか、ということがとても気になります。おそらく知らなかったと思うし、そうであれば、それはそれで幸いだった言う気もします。「戦争」というものは、惨(むご)いものだと、死ぬまでぼくは叫ぶでしょう。こんな些細な、一曲の流行歌にまつわる歴史の断片においても、書くべき事柄は膨大です。「埋もれた歌には、埋もれた歴史あり」、そんな主題を若い人たちが掘り起こしてくださるといいんですがねえ。一人でも多くの人が、愚かしい、惨(むご)たらしい「戦争」を考えるためにも、です。(この「南国土佐を…」のように、戦地。戦場で歌われた歌は限りなくあったと思う。姿かたちを変えて、敗戦後にも歌い継がれてきたのは、その中のごくわずかだと思われます。とにかく、「戦争」はいやだな)(このテーマに関してさらに書くべき事柄がありますが、本日はここまでにしておきます)(それにしても、駄文がだんだんと「長く長くなる」のはどうしてでしょうか)

+++++++++++++++++++

「南国土佐を後にして」新潟に原作者を名乗る男性が!? 日中戦争の戦地で作る 鯨部隊と同じ望郷の歌【なるほど!こうち取材班】 

 ペギー葉山さんが歌った「南国土佐を後にして」といえば、武政英策さんが採譜し、手を加えて大ヒットした歌謡曲だ。だが、新潟県に、その歌の原作者を名乗る男性がいた。元音楽教諭の故・植木周三さん。生前、「日中戦争中に戦友を癒やそうと作った」と、地元紙の新潟日報に語っていた。原曲は、高知の「鯨部隊」による望郷の歌「南国節」のはずだが…。同紙の協力を得て、「なるほど!こうち取材班」(なるこ取材班)が調べてみました/植木さんは新潟県妙高市出身。地元中学でバイオリンを始め、東京音楽学校(現東京芸大)で学んだ。日中戦争では、新潟出身者の高田歩兵第58連隊に所属し、中国やスマトラ島を転戦。1947年の復員後は、70年まで高校の音楽教諭を務めた。/戦中には戦友を励ます曲や鎮魂曲を作るなどした。スマトラでは地元で手に入れたバイオリンを弾くなどし、新潟では「戦場のバイオリニスト」と呼ばれているという。

 新潟日報に、「南国土佐―」の原作者だと語ったのは戦後50年の95年、87歳の時。日中戦争2年目の38年5月、新城口という集落で「敵の夜襲から身を守るため寝られず、憔悴(しょうすい)する隊員たち」を元気づけようと、即興で作ったという。/題名は「江北陣中の一夜、想(おも)いはめぐる」で、「新城口節(しんじょうこうぶし)」の名で愛唱されるようになったという。/歌は「♪ながらく ごぶさたしましたが うちじゃ かあさん たっしゃでいてか」と始まり、古里の妻子を思う詞などが続く。/95年に、地元ラジオ番組で植木さんがバイオリンで奏でた同曲を聞くと、確かに同じような旋律だった。(左「1995年、自宅で愛用のバイオリンを弾く生前の植木周三さん(新潟日報提供)」)

 「南国土佐―」は、武政さんが戦後、高知の酒場で復員兵が歌っていた南国節を採譜。これを元に、「中支へ来てから幾歳(いくとせ)ぞ」「月の露営でたき火を囲み」などの歌詞を戦時色を消すように変え、前奏や間奏を付けた。/53年、高知の歌手がレコード化した際には、武政さんは補作編曲者を名乗り、わざわざ「原作は鯨部隊の歌」との断り書きも入れている。/曲は58年、NHK高知放送局の開局記念番組でペギーさんが披露し、翌年にはレコード化されて爆発的ヒットとなった。/この時も「原作者」を名乗る元隊員が複数現れ、裁判に発展。かつての上官の仲介で「原作は鯨部隊」で落ち着いた。後に、日本音楽著作権協会(JASRAC)は武政さんを著作権者、作詞作曲者と認めた。

江北陣中の一夜 想いはめぐる(歌詞)

1、ながらく ごぶさたしましたが うちじゃ かあさん たっしゃでいてか たたかい やんで 夕日がおちりゃ くさの根 まくらに 想いはめぐる
2、いななく駒に 夢さまされりゃ 露おく夜空の 星影寒い 昔かあさん 風呂たきながら あれは北斗よ ひときわ 目立つ
3、軍刀握れば かあさん昔 親にてむかぇや 不幸の極み 先祖の墓前に腹かき切れと その太刀 今は 皇国を護る
4、嬢や父さん 名誉の戦士 明日の戦で 帰らぬとても 泣くな かあさんの 云うこときいて 立派な大人になるよぅに祈る 
5、父さん無事でと 朝な夕なに 神に佛に 祈るか妻子 おかげで未まだ 傷さえ負えず 雨の日雪の日 元気でいるよ
6、時は過ぎゆく 時計はきざむ 前進命令 あと きくばくぞ 軍刀引き寄せ 敵空にらみゃ 明けの明星 あの下敵の陣

 植木さんの三女の田中幸子さん(86)=新潟市=は「私が口ずさんだのを聞いて、父は歌の存在を知った。それで『俺の曲に似ているな』と」。/最初は静観していたが、地元の戦友に「なぜ黙っているのか。自分たちが裁判で証言する」と諭され60年、高知へ。武政さんは「私は兵隊が歌っていたのを採譜しただけ。植木さんのものと、私の口からは言えない」と答えたという。/戦後50年(95年6月)、植木さんは新潟日報の取材に、こうした経緯を語り「証拠品もない。金や権利がほしかったわけではない」とする。では、なぜ名乗りを挙げたのか。「戦友の心に生き続けるはずの歌が、戦争に関係のない人(武政氏)の作品になっては、あの戦争は何だったのかということになる」と語っていた。/武政さんは79年、本紙連載で、著作権問題に「へきえきとさせられた」と振り返り、「埋もれようとした歌が私の手で生き返り、土佐の歌として広がれば音楽家の本望」と書き残している。/植木さんの三女、幸子さんは本紙に「父は武政さんを悪く言うつもりはなかった。鎮魂の思いを受け止めてほしいとの気持ちだったと思う」と語り、「『高知の兵隊も曲に望郷の歌詞を乗せた。みんな同じだった』と語っていた」と明かしてくれた。/戦後80年が過ぎた今も、幸子さんは時折、父が作った「新城口節」を口ずさむという。(村瀬佐保)(高知新聞・2026/04/04)

ペギー葉山/南国土佐を後にして:https://www.youtube.com/watch?v=sMrd02ncmOY)                                         (⁂ よさこいと兵隊 兵隊ソングを歌う緑咲香澄)https://www.youtube.com/watch?v=NIU_1hMK9XE)                                      (⁂ FORESTA : 南国土佐を後にして:https://www.youtube.com/watch?v=DK_3__Rjxdw&list=RDDK_3__Rjxdw&start_radio=1

 (余計なことを FORESTA(フォレスタ)のみなさんは、この歌が、はじめに、どこで、誰によって歌われ、どのようにして歌い継がれ、そしてペギー葉山さんのところにバトンが届いたということをご存じでしょうか。ご当人たちに窺わないとわからないことですが、もしその「前史」を知らないままで歌っておられたなら、いろいろな意味で、ぼくにはとても残酷な行い(仕打ち)だと思われてきます。気の毒というか、可愛そうというか。もちろん、知っておられたとぼくは思って聞きますが、それにしても、こんなに美しく・清潔に歌っていいんですかと、ぼくは尋ねてみたいですね。いずれにしても、歴史(物事の成り立ち)を知ると知らないでは大違いだということです。この社会の「学校教育」は自らの歴史を粗末にしすぎていませんかと、ぼくは溜め息をつく。歴史忘れと歴史の捏造は、怖いですね)

◎ ペギー葉山 (1933-2017) 昭和後期-平成時代の歌手。昭和8年12月9日生まれ。昭和26年ジャズバンド渡辺弘とスターダスターズの専属歌手となり,翌年「ドミノ」でレコードデビュー。34年NHK高知放送局の開局記念でうたった「南国土佐を後にして」が大ヒット。以後「学生時代」「ドレミの歌」「ラ・ノビア」などをヒットさせる。平成5年芸術選奨文部大臣賞。19年日本歌手協会会長。夫は俳優根上淳本名森不二夫)。東京出身。青山学院女子高等部卒。本名は森シゲ子。(デジタル版日本人名事典+Plus)

◎ 吉田正 [生]1921.1.20. 茨城,日立 [没]1998.6.10. 東京 作曲家。日立工業専修学校卒。1942年徴兵され中国東北部へ行き,演習中に『昨日も今日も』を作詞・作曲した。戦後シベリアに抑留され 1948年帰国。『昨日も今日も』に別の詞がついて,自分の帰国より前に『異国の丘』となって流行していたことを知る。この作曲者として認定され,1949年ビクター専属の作曲家となる。以後 1958年『有楽町で逢いましょう』,1960年『潮来笠(いたこがさ)』,1962年『いつでも夢を』など数多くの流行歌を生んだ。また「吉田学校」といわれるほど多くのすぐれた新人を育てた。生涯を通じて 2000曲以上の作品を残した。日本作曲家協会会長,日本音楽著作権協会会長をつとめ,1982年には紫綬褒章を受章。没後,国民栄誉賞が贈られた。(ブリタニカ国際大百科事典)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 上の高知新聞の記事のもとになった新潟日報の記事です。あわせて一読していただきたいと、煩をいとわず引用しました。 

[戦後80年]音楽は敵味方なく人をつなぐ…戦場のバイオリニスト・故植木周三さん(妙高市出身)、波瀾万丈の人生とは 戦時中、戦場でバイオリンを奏で、部隊を励ました異色の兵士がいた。妙高市出身で1995年に亡くなった植木周三さん。終戦後の捕虜生活では演奏を通じて米軍と交流し、復員後は音楽教師として子どもたちを教え、希望を与えた。「音楽は敵味方なく人と人をつなぐ力がある」と語り、戦争の愚かさを伝えた。/1908年に中頸城郡和田村(現上越市、妙高市)に生まれた。旧制高田中学校(現高田高校)在学時にバイオリンに興味を持ち、辞書を買うためにもらったお金で購入。父親は怒らず支援した。/練習に打ち込み、「『カラスの鳴かない日はあっても、植木のバイオリンを聞かない日はない』と言われたそうです」と、三女の田中幸子さん(85)=新潟市西区=は話す。卒業後、高田師範学校を3カ月で辞め、東京音楽学校(現東京芸術大)を受け直して入学した。/在学中に20歳となり、幹部候補生として陸軍に入隊。36年2月26日、陸軍青年将校たちのクーデター「2・26事件」が起きると、鎮圧のため、高田駅から列車で東京へと派遣された。/戦地でも、音楽を愛する気持ちを忘れなかった。日中戦争が始まった後の38年5月、高田58連隊所属として転戦した中国国内で、露営していたときに即興で曲を披露した。「敵の夜襲から身を守るため寝られず、憔悴(しょうすい)する隊員たちを元気づけたかった」という。(左写真「陸軍に所属していたころの植木周三さん」)

「江北陣中の一夜、想いはめぐる」と題した歌は、「新城口節」の名で仲間たちに歌い継がれた。戦後、ジャズ調に編曲され、「南国土佐を後にして」という曲で大ヒット。植木さんは後に原作者だと明かした。/スマトラ島パレンバンで終戦を迎えた。現地で捕虜生活を送っていた46年10月、亡くなった戦友の冥福を祈る曲「ムシ河畔の追悼」を作った。野戦病院裏の墓地で追悼式を行い、バイオリンを演奏した。植木さんの手記によると、通りかかった米軍100人が行進を止め、敬礼で見守ったという。米軍のパーティーにも呼ばれ、演奏した。/47年2月の復員後は、母校の高田高校に着任。教師が少なく、4校を掛け持ちした。高田高校は県内でも珍しい管弦楽部があり、植木さんの足跡の一つだ。

(右上写真)「植木周三氏のバイオリン 明日からの企画展を前に、三女の幸子さんが当館へ持ってきてくださいました。 戦地で作曲した曲の楽譜が見つかったとのことで、貴重なお話を聞かせていただいた上で解説パネルを付けて展示します」(新潟県立博物館・2020/06/26)(https://nbz.or.jp/?p=23981

 音楽への強い情熱と、決して叱らない優しい人柄で親しまれた。教頭として異動することが決まると、部活の教え子たちが自宅に押しかけて「とどまってほしい」と号泣。思いを聞き入れ、異動を返上した。/植木さんは生前、「人と人、国と国が話し合えば戦争は起こらない」「戦争で残るのは家族の悲しみだけ。音楽があったからこそ人間として一番大切な思いやりや感謝の心を失わなかった」と話していたという。/植木さんは95年10月に87歳で亡くなった。バイオリンは三女の田中さんが大切に保管している。「技術を教え、人間愛を伝えた。いろんな人と絆をつくり、波瀾(はらん)万丈の人生だった」と懐かしむ。(新潟日報・2025/09/10)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

もうすぐ みんなは いちねんせい

 新しい年度が始まりました。いろいろな意味で、「門出(departure)」を果たした人たちが、それこそ不安と期待の混合(mixture)した時間を過ごし始めたといえそうです。この区切りは「新年(元日)」とは違った意味合いで、それぞれの気分を新たにしてくれる扇風機の風みたいな働きを持っているでしょうか。もっと深掘りすれば、ぼくたちは毎日毎日が「人生初体験」「未知への船出」でもあるのですから、一日一日が「昨日の続き」であると同時に「明日への出立」でもあるということになりませんか。ぼくが若いころに熟読した、フランスの高校((lycée・リセ)教師だった哲学者は、常に若者に向かって「人生は朝から始まる(La vie commence le matin.)」と言い聞かせていた。それこそが、彼自身の人生を受け止める態度(思想)だったと、ぼくは思っていました。

 この人自身が高校生の頃、大変な人物に出会っています。ジュール・ラニョーという教師(哲学者)(左写真)でした。このことについてはどこかで触れています。若い時に、こんな人と出会うと、おそらくその後の人生は、いやでも変わるだろうというべきか、驚くほどの強靭さをもって生きられるのかもしれません。彼は、その教師を「野人」と称したほどです。どういう意味だったでしょうか。このことについてもいくつもの逸話が、当時の生徒たちによって残されています。たぶん、自由に生きている人(「Qui vit en liberté dans la nature.)だったでしょう。高校生にとって、この教師は「一人の大人、驚くべき存在(Un adulte, une existence étonnante.)」と映ったはずです。

 また、この高校生(生徒)だった人は、この教師に向かって、これまでに出逢った、たった一人の「偉人(Un grand homme)」だったとも偲んでいます。若い高校生たちは競って「偉人」に似せようと、その口振り、あるいは身なり、たばこの吸い方などまでも「模倣」したとも語られています。ぼくは「教師」は、子どもたちにとって「偉大な大人」であってほしい、「自由な精神の具現」であったらなあと、どれほど願っていたことでしょう。それは子どもにとって「模倣」すべき存在ではなく、「典型(ひきつけられてしまう」となるように存在だったと思う。

 もちろん、ぼくは自身はいつも白状するように「教師」ではなく、「教師のなりこそない」「教師紛い」でありましたから、はるかに離れて、このラニョーという一現象の出現とその痕跡をなぞることしかできませんでした。

◎ ジュール・ラニョー(Jules Lagneau, 1851年8月8日 – 1894年4月22日)は、フランスの教育者、哲学者。ジュール・ラニョーは生涯をリセの一教師として過ごし一冊の著作もあらわさなかった。その哲学が世に知られたのはラニョーの死から30年後、教え子たちが、ラニョーの授業を書きとめたノートを印刷・出版したことによる。/「ジュール・ラニョーは私が出会ったただ一人の”偉人”だった」とラニョーの生徒だったアランは書き、自らをラニョーの「忠実な弟子」と公言している。 アンリ4世校でベルクソンの教えを受けた批評家アルベール・チボーデはラニョーを「若者たちの師、ソクラテスの後継者としてはベルクソンの上に位置する人」と評した。 フランス哲学史の専門家はラニョーの哲学を”フランス反省哲学”と呼ばれる思潮の出発点に位置づけている(以下略)。(Wikipedia)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 昨日の好天とは打って変わって、雨が降り出しています。(ただ今、午前7時過ぎたところ)本日はコラム2題です。「いばらき春秋」は、もちろん毎日読みます。そして感心するのは、決して「大言壮語」はしない、「地元愛の強さが程よい加減」である、そして「あまり批判や非難を公言・広言しない」という、ぼくの趣味にかなうとはとても思われない、ある種の「品性」「分際」を保っているのがいいですね。(ぼくの見立て違い、「誤読」なのかもしれませんが。ネット欄の並びでいえば、そのすぐ前に「産経抄」がありますから、それとの比較が働いているかも、ね)

 コラムの入り口は「優しいピンク色のスイートピー」でした。「門出」が花ことばだとあります。「門出」という言葉の語感はいいですね。主な含意は以下の通りです。「かど‐で【門出/首途】=[名](スル)1 旅などのために、自分の家を出発すること。出立(しゅったつ)。2 新しい生活を始めること。3 旅に出る前に、吉日を選んで、仮に家を出て近くに移ること。[補説]1・3は「かどいで」とも言った」(デジタル大辞泉)まさしく、四月はいたるところで「門出」が見られるでしょう。松田聖子さんは「春色の電車に乗って 海に連れていってよ」と謳いました。その時も「赤いスイートピー」でしたね。

 ところが、「門出」を果たさないで残る人も同じ数だけいることになりますから、出る方、残る方の両者に「異常」をきたす恐れが心配されるというのがコラムの趣旨でした。出ていく子どもたちを見送る親に「空(から)の巣症候群」が発症するという。余計な病症を見出すとは、医者も罪作りな、と思う。「症状は不安や孤独感に加え、睡眠障害や食欲不振などさまざま。適応障害やうつ病の発症例も報告されている」のが事実だというのですから、もう一度学校に行ったらどうですと、子離れのできない親たちに進言したいですね。親子も夫婦も、あまりにもくっつきすぎるから、離れると、片身が剥される思いに襲われるとするなら、困ったことですが、もう一度、人生のやり直しをしなければ。

 本当にこのような状況がこの社会で生まれているというのですから、いろいろな意味で、学校も含めて「前途多難」が危惧される。どうしてこんなに「優しい(「女々しい」は男社会の作った表現)大人たち」の住む社会になってしまったのか。こちらに問題がありそうです。「子どものままで大人になった」ということでしょうか。文字通りに「優しさという病」ですね。自立も孤立もしていない証拠です。「生活の主軸を子どもから自分へ移し、再び羽を広げる人にも春はよく似合う」という、実に「優しいこと」をいうところに、茨城新聞コラム氏の優しさ、いや、物足りなさでもありますが、それをぼくは痛感します。こんなことでどうすると、「喝」を入れるときでしょうに。

【いばらき春秋】先日、ホームセンターの生花コーナーに立ち寄ったところ、優しいピンク色のスイートピーが目に留まった。販売のピークは2~3月だが、自然栽培では4~6月が旬である。春にふさわしく、門出という花言葉がある▼新年度となり、就職や進学で自宅を離れた人も多かろう。新社会人はすでに第一歩を踏み出し、入学式を迎えた学生は期待と不安が交錯している頃だろう▼若者たちが未来へ向かって歩み始める姿を見るのは喜ばしい。ところが、子どもを送り出した親はこの時期、子育てのやりがいや目標を失って寂しさやむなしさを覚える「空(から)の巣症候群」に陥る人が少なくないという▼症状は不安や孤独感に加え、睡眠障害や食欲不振などさまざま。適応障害やうつ病の発症例も報告されている▼歓迎すべき子どもの自立をきっかけに親の心身に不調が生じるとは何とも皮肉な話ではあるが、子育て以外の目標や趣味を持ったり、友人とのコミュニケーションを増やしたりすることで予防できるらしい▼門出という花言葉は、今にも羽ばたきそうな蝶(ちょう)に似た花びらの形が由来。ただ、羽ばたくのは子どもだけではあるまい。生活の主軸を子どもから自分へ移し、再び羽を広げる人にも春はよく似合う。(平)(茨城新聞・2026/04/04)

 (蛇足 「空(から)の巣症候群」だと診断されそうな親御さんに、ぼくは「一年生になったら」を贈りますね。そして「人生は朝から始まる」というどなたかの箴言をも、あわせて進呈てしたい。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 二つ目は「夕歩道」(中日新聞)です。偶然ですね。ぼくは昨日「二十四の瞳」に触れました。若い教師が十二人の子どもたちの中に飛び込んだ、そんな記念の日(本日が)だったとあります。それは、若い高峰秀子さんの、映画とはいえ、あるいは「典型」になるかもしれない教師像を描こうとしたものでした。昨日も触れましたが、この映画に影響されて教師の道に踏み出した若い人々(映画公開当時)を、ぼくはたくさん知っていました。そういうぼくもその一人だった、途中で挫折はしましたが。「一年生になったら」の作詞者、まどみちおさん、「温かな詩人はその子も自分と同じで小心で臆病なのかもと思いやったと」言われていたとか。「百人なんて無理だよな」と、多くの人は思うでしょう。でも「願い」や「夢」は大きい方がいい。「ひゃくにんで たべたいな ふじさんのうえで おにぎりを」誰が言ったのか、「大きい嘘はついてもいい」(端(はな)からバレているから)、でも「小さな嘘はつくな」、本当(事実」と紛らわしすぎるから、と。それがために、政治家にはなりたくないと思い続けてきたものです。もちろん、まどさんは「一年生に嘘を、大きい嘘をつけ」といったのではない。余りにも大きすぎて「嘘」にならなかったか。

 そして、「夕歩道」氏のよくないところは、いきなりこんな場所に吉本さんを持ち出すことでしたね。「でも友達100人できなくても大丈夫。評論家の吉本隆明さんはほとんどの人(大人)は本当は友達ゼロだと看破した」というのですが、それって本当ですか、吉本さん、コラム氏さん。ニーチェという狂気の哲学者は「誰だって、誰かの先生になれる(先生である)」と断言しました。その顰(ひそみ)に倣うなら、誰にも一人や二人の友だちはできる。もちろん、「友だちは人間に限る」ものではないんですからね。

【夕歩道】
 教員不足が叫ばれる中、子どもの未来を預かろうと学校に加わる新任の先生と新しく校門をくぐる子どもたちの春。あす4日は小説「二十四の瞳」で若い女性教師が瀬戸内海の村に赴任する日だ。
 童謡「一年生になったら」は約60年前、当時50歳台のまど・みちおさんが書いた。おとなしそうな子と出会い、100人も友達をつくって大笑いする内容で励まし元気づけようと作詞したという。
 温かな詩人はその子も自分と同じで小心で臆病なのかもと思いやったとか。でも友達100人できなくても大丈夫。評論家の吉本隆明さんはほとんどの人(大人)は本当は友達ゼロだと看破した。(中日新聞・2026/04/03)

                                                               ◎ 一年生になったら= 日本の唱歌の題名。作詞:まどみちお(1909~2014)、作曲:山本直純(1932~2002)。(デジタル大辞泉)

◎ 思い出のアルバム 日本の唱歌の題名。作詞:増子とし(1908~1997)、作曲:本多鉄麿(1905~1966)。デジタル大辞泉)

 どういうわけですか、ぼくは「思い出のアルバム」という童謡が好きでした。作詞の増子さん(キリスト教徒)も、作曲の本多さん(仏教徒)も、ともに保育園と幼稚園の園長さんでした。だからというわけでもないでしょうが、歌詞が無理がなく、自然体で、園の日常が描かれていてとてもいいですね。現場の息吹が伝わるような、「もうすぐ みんなは いちねんせい」でしたね。初出は1961年とされますから(ぼくは保育園も幼稚園も行っておりませんので)、この歌は全く知らなかった。たぶん娘(双子)たちの幼稚園時代に歌うようになったものでしょう。いろんなことがあったね、あんなことこんなこと、いつになっても忘れない。そして、ぼくの気持ちは、「もうすぐきみは一年生」というものです。いつだって、今日を生きるという意味では「ぼくらは みんな いちねんせい」なんですね。友だちなんかできなくてもいいさ、嘘をついたり意地悪しない、それだけでも大変なことだけれど、そういう生き方をしてみたい、ちょっとでも困っている人がいたら、できる範囲で、手も肩も貸してあげたいと、固く誓っていまもなお、毎日「通学路」を一人で歩いています。人間の友だちはいないかもしれないけれど、猫の友だちなら、数えきれないくらいいるんだ。

⁂ 思い出のアルバムhttps://www.youtube.com/watch?v=DP68_ZaB5BE&list=RDDP68_ZaB5BE&start_radio=1

IIIIIIIIIIIIIIIIIIII

仰げば尊し わが師の恩(記憶にあるか)

  月光桜 闇夜に白く 高知県大月町 大月町弘見の山桜「月光桜」が見頃を迎えた。小高い丘が夜闇に包まれると、光に照らされ、白く輝く幻想的な姿が来訪者を魅了している。ライトアップは7日まで(午後6時40分~9時)。
 薄ピンクの花を咲かす一般的な山桜と違い、白い花が特徴。高さ13・4メートル、幹回り3・5メートル、樹齢は推定180~200年。四万十かいどう推進協議会大月支部が2006年からライトアップを行っている。
 今年は例年並みの3月27日に開花し、徐々につぼみを膨らませ、今月2日に満開を迎えた。夜には写真愛好家や友人連れが続々と訪れ、「きれいやね」。四万十市の竹本真美さん(56)は「桜が1本だけなのが逆に力強さを感じる。散った花びらも照らされてきれい」と見とれていた。(田代雄人)(ヘッダー写真:見頃を迎えた月光桜(大月町弘見)(高知新聞・2026/04/02)

~~~~~~~~~~~~~

 「月に叢雲(むらぐも) 花に風」と申します。あるいは「好事(こうじ) 魔多し」ともいわれます。月や花の見ごろ(月見・花見)には、決まって差し障りが生じることのたとえでしょうか。このところの花見時に、「風」だけではなく「雨」まで続き、加えて気温がやたらに低い、まさしく「花冷え」を味わった方も多いのではないでしょうか。特に「桜の見ごろ」を指して「花冷え」といわれてもきました。例によって、ぼくは人込みも避けたいし、気候の穏やかでない時期には外出はしない人間ですから、今年も、本格的な「桜花爛漫」とはいかなかったと、嘆息するのではなく、各地からの桜便りの穏便(写真)を堪能しています。

 拙宅の荒れた庭にも何本か植えてある「桜」が、それなりに花をつけている、それを眺めるだけでぼくは満足するのです。その昔は「花より団子」だったかもしれませんが、この老齢では「花も団子も」ではもちろんなく、「花さえあれば」という、きわめて殊勝な心境に入っています。叢(くさむら)と見まがうほどの裏庭で、花冷えの折にも、暖かい日本茶と、ケーキなどの洋菓子ではなく、桜餅や草餅をいただく、これぞまさしく「和菓子の温」ですね。

 本日の「ヘッダー写真」は土佐の高知の「山桜」です。好みからすれば、ぼくは「ライトアップ」という「厚化粧」は受け入れがたい人間です。それでも、新聞で見る写真は、それはそれで「格別」ということになるでしょうか。それをわざわざ見に行きたいとは、まず思いませんね。(写真には写らないが、おそらく「月光桜」の周囲は人と車でいっぱいのことでしょうね。桜には耐えられないことですのに)

+++++++++++++++++++++

 少し時期がずれたかもしれませんが、このところ「仰げば尊し」に気を取られています。まさか、ぼくごとき人間に「懐旧の情、黙しがたく」という、後ろ向きの感情ががあるでしょうか。それはともかく、今どきの「卒業式」には、各種多彩な音楽が奏でられ、それはそれで結構でしょうけれど、あれほど長い時代、各地の学校にあって「卒業式を風靡していた」、あるいは「学校を席捲していた」、あの「別れ歌」、「 いまこそわかれめ いざさらば」と「別離」を謳い上げた「国民的唱歌」、「仰げば尊し」はどこへ行ったのかという、他人には、まことに微細な閑話に気を止めているというだけの話です。ぼくの記憶では、小学校の卒業式(昭和33年3月卒)に、この「別れ歌」が鳴りだした途端に、何人かの教師が啜(すす)り泣きをはじめ、中でも一人の女性教員が激しく嗚咽したことを鮮明に覚えています。逆にその時の気配はそれだけしか覚えていません。誰が、何が彼女を泣かせたのだろうか? ぼくはその教師に教わったことはなかったが、何が悲しくて、否、「いまこそわかれめ いざさらば」が嬉しくて泣いているのだろうと、後々までもぼくはこの光景に悩まされました。

 一度だって話したことも声をかけられたこともなかった「蜂須賀先生」でした。担当教科も覚えていなかったが、泣きじゃくっていたのだけは鮮明に刻印されています。卒業式の光景で残っているのは、この蜂須賀さんの嗚咽の場面だけだったというのは、どういうわけでしょうか。よく考えても、それはぼく自身の「卒業」式だったかどうかさえはっきりしないんですが。なにしろ、もう70年ほども前の出来事でしたから。

 それ以降の学校における「仰げば尊し」の記憶は皆無です。そもそも卒業式に参加していたかどうかも怪しい。生来といっていいでしょうが、ぼくは「式」と名の付くものは大嫌いです。「格・式」というくらいですから、合うはずもないということだったでしょう。「身分・家柄などによって定まっている礼儀や作法。また、身分や家柄」(デジタル大辞泉)「礼儀」「作法」が嫌いだというのではありません。

 決まりきった、規則ずくめの「やり方」「お仕着せ」「窮屈」が性に合わなかったんですね。それは今もって変わらないままです。入学式も卒業式も、結婚式もお葬式も、自分から好んで出たいと思ったことは一度としてない。自慢するのではなく、ぼくの始末に負えない性分(感情)を述べているつもりです。

 その「仰げば尊し」について 書くべきことは少なくなさそうですが、今はそれらに触れません。この曲に示されている「教育」「教師」「生徒」「卒業」「学校」などというそれぞれに、一つの「定型(fixed form・stereotyped)」が、国家公認のものとして、そこに刻されているという歴史の事実に注目されれば、ぼくの意図は満たされる。逆に言うなら、この「卒業ソング」がほとんどの学校から排除されるに至った理由や背景には、おそらく「学校」「教育」「教師」等に対する時代や社会の視線、感覚というものが様変わりしてきたことが、明らかに窺えると思われます。いったい、どう変わったというのでしょうか。

 この唱歌が発表された1884(明治17)年、小学校就学率は右表のとおりです。割合が挙げられていますが、全国で小学校を無事に卒業するものがどれほどいたでしょうか。入学はしたけれど、就学や卒業にはさまざまな類型がありました。尋常小学校を満期で卒業した者の詳細がわかりません。極端に言うなら、通学期間が一か月でも三か月でも「卒業」を認めていた時代でした。この学校制度の就学率面における充足は20世紀(1900年代)を俟たねばならなかったのです。曲がりなりにも、就学(何日であれ、学校に行ったという事実)したという割合は、この唱歌が公刊された時期でもようやく5割でした。女子に至ってはいまだ3割台だった。「近代」は重く政治にのしかかっていたのでした。

 「仰げば尊し」の導入は、いわば開店早々の国家教育体制の「就学率」向上のための促進歌としてだったともいえるでしょう。この間の経過を語ればより明らかになるのですが、面倒ですから省略します。どこかで触れている伊澤修二という学校教育の先駆的指導者の動向を見れば、とにかく学校教育制度を完成に近づけるために涙ぐましい勤勉・刻苦勉励ぶりを示していました。それを「有司専制」といったものでした。「有司」とは役人・官吏を指します。彼は明治8年米国に留学。初代文部卿森有礼の薫陶よろしく、滞米中に多くの成果を上げた、その一つが「音楽教育」でした。学校への音楽の導入(この「仰げば尊し」もその一例)に力を尽くした人でもありました。米国のある学校で、子どもが行進する際の音楽伴奏に、伊澤さんは驚いたそうです。もちろん、軍隊においても同じような事情がありました。「軍歌」の多くは「行進曲」でしたな。人間は「音楽」によって動かされるんですね。国歌然り、校歌然りで、歌によって一体化や、共同の精神が育成されると考えたのでしょう。(この伊澤さんは本邦初の「教育学」の著書を出された。ぼくは現在も所持しています。内容については、今は不問です)(↷)

 制度(「学制」)開始が明治5年でしたから、とにかく、未成熟なその土台を堅固にするためにはいろいろな方面には猶予がなかった。教員養成も急がれた。伊澤氏は、滞米中にこの方面(師範学校教育)の研究に尽力もしたのだった。学校発足当時、もちろん師範学校(normal school)はなかったし、教員の資格を有する者も、当然いなかった。誤解を恐れずに言うなら、元サムライだったり、寺社の僧侶や神主など、村社会(郷土)の「知識人?」とみなされるものを教員に仕立て上げるという突貫工事だった。そこから窺えるのは「学校教師像」の設定だったでしょう。この最初期の多くの教員の持っていた印象、社会がそこから受け入れた印象、それが、いい悪いを抜きに、その後の教師像のお手本となったのでした。決して「颯爽」としたものではありませんでしたね。その雰囲気は多く、明治半ば以降の自然主義風「小説類」で示されています。

 唱歌の歌詞にその意図(教師と生徒の関係)がはっきりと見て取れるとぼくは思っています。学校制度が始まっても教師の数は不足していたし、まして女性教員の数は少なくとも、男性教員の半分を超えられない事態は戦後(1945年8月以降)になっても続いていた(今だって)。(右下表は都内の一区立学校の男女教員の割合の推移です。参考までに)

 そんな状況にあって、何よりも「仰げば尊し 我が師の恩」を子どもたちに実感させなければならなかったでしょう。この先は言う必要もないと思う。子どもたちが教師に対する深い尊敬心を持つような学校、教育を願望していたという、ある種の教育行政の努力の原型になるようなものがこの曲に見られないでしょうか。「仰げば尊し わが師の恩」「身をたて名をあげ やよはげめよ」「わするるま(間)ぞなき ゆくとし月」「いまこそわかれめ いざさらば」、このような歌詞に籠められたものは、『日本の教育』への期待と願望、教師への畏敬の念の涵養、そういってもいいのではないでしょうか。これは現実ではなく、「目標」であり、「願望」だったとぼくは思ってきました。今日はそれすらすっかり潰(つい)え去りましたが。当時よく使われて表現に、今なら「義務教育」というようなものに対して、「強制教育」「脅迫教育」が用いられていました。型があって、それに子どもたちをはめる教育(臣民教育)でした。

 だから、あの手この手で、国民(臣民)教育の名のもとに学校は、驚くべき「国家主義」イデオロギーを民衆に注ぎ込んでも来たのでしょう。少なくとも、このような時代や事態は1960年代まで続いたとも考えられます。元来、小学校教育は女性の仕事と、米国などでは受け取られてきました。単に「母性」の発露やその必要からだけではなく、「男は外で、女は家で」、という節分・豆まき主義がまかり通って来たのがこの社会でした。「鬼(男)は外 福(女)は内」に重なる男尊女卑社会に、一種の風穴を開ける可能性を持っていたのが「女性教員」の登場だったでしょう。今でも語られる壺井榮さんの「二十四の瞳」の映画化などもまた、大きな役割を果たしたといえます。教師になるきっかけを、この映画や小説(原作)に求める女性が多く出てきました。。主役の「凸ちゃん(高峰秀子)」の面目躍如ともいえる映画(1954年公開))でしたね。

 まだまだ言い足りないのを承知で、本日はここまで。この唱歌は「小学校卒業」用だったという証拠はたくさんありますね。まず「「仰げば」というのですから、小学生向き。「わが師の恩」に関しても、ようやく小学生に通じるかどうか。要するに、日本は近代国家という旗揚げをしたばかりで、ほとんど何一つ自前のものを「学校教育」では備えていなかった時代。(もちろん、藩校や郷学などはありましたが)近代化への道を走るための制度設計を具現化するために必死だった時代。官も民も、中央も地方も、大人も子どもも、男も女も、老いも若きも、それぞれがひたむきに「坂の上の雲」を追っかけていた時代、さぞかし、大変なものだったと思うのですが、今日は全く異なった意味で、「坂の下の穴倉」に突進している感も、ぼくにはなくはありません。およそ百五十年の隔たりにあって、遥かの昔の「学校」「教師」「子ども」などを、卒業という、一区切りを通して考えようとしたのでした。お粗末、乞う、寛恕。

*************************

◎ 「あおげば尊し」= 1884(明治17)年に編纂(へんさん)された「小学唱歌集 第三編」にある歌の一つ。歌詞内容から、「蛍の光」と並んで主に卒業式で歌われてきた。作詞・作曲については長らく不詳とされてきたが、英語学、英米民謡などを専門とする一橋大学名誉教授の桜井雅人が、2011年1月24日までに原曲と見られる歌の楽譜をネット上で発見した。それは、1871年にアメリカで出版された「THE SONG ECHO」という本に収録された「SONG FOR THE CLOSE OF SCHOOL」(卒業の歌)という4部合唱の曲で、メロディーから記号の位置まで「あおげば尊し」と一致していた。作詞はT.H.ブロスナン、作曲はH.N.Dとなっているがいずれも不詳。しかし、この本はほとんどがオリジナル作品を採用しているところから、原曲と見て間違いないという。唱歌は、1879(明治12)年、文部省に設置された「音楽取調掛(おんがくとりしらべががり)」の初代所長伊沢修二(1851~1917)が、初等教育において西洋音楽を学ばせるために編纂したもの。メロディーは当時アメリカで広まっていたスコットランド、アイルランド、ドイツなどの民謡や賛美歌などから日本人に親しみやすいものを選び、これに日本語の歌詞をつけたものが多く、「蛍の光」はスコットランド民謡、「庭の千草」はアイルランド民謡。中にはモーツァルトやウェルナー、ジャン=ジャック・ルソーの曲もある。(imidas・イミダス編・2011/02)

伊沢修二(いざわしゅうじ)(1851―1917)= 明治時代の文部官僚、国家教育の主唱者。号楽石(らくせき)。嘉永(かえい)4年6月29日信濃国(しなののくに)高遠(たかとお)藩士の家に生まれる。明治維新後、高遠藩貢進生として大学南校に入学、ついで文部省に出仕、1875年(明治8)師範学科取り調べのためアメリカに留学。ブリッジウォーター師範学校、ハーバード大学に学び、またグラハム・ベルに視話法を、メーソンに音楽を学ぶ。1878年帰国。以後文部官僚として近代公教育体制の確立に努めた。とくに師範教育、音楽教育、特殊教育、体操教育の創始・発展に多大の貢献をなし、教科書編纂(へんさん)にも尽力した。また国家教育の実現を主唱して、1890年国家教育社を創設し、翌1891年文部省を退官したが、以後国立教育期成同盟会(1892)、学制研究会(1894)を次々と組織、民間教育運動の中心人物として活躍。また初代台湾学務部長として植民地教育の創始にあたり、晩年には楽石社を創立して吃音(きつおん)矯正事業を行った。高等教育会議議員、貴族院議員。大正6年5月3日没。郷里の高遠公園内に記念碑がある。(日本大百科事典)

一、仰げば尊し わが師の恩
教え の庭にも はやいくとせ
おもえばいと疾し このとし月
いまこそわかれめ いざさらば
二、互いにむつみし 日ごろの恩
わかるる後にも やよわするな
身をたて名をあげ やよはげめよ
いまこそわかれめ いざさらば
三、身をたて名をあげ やよはげめよ
ほたるのともし火 つむ白雪
わするるまぞなき ゆくとし月
いまこそわかれめ いざさらば
1.
We part today to meet, perchance,
Till God shall call us home;
And from this room we wander forth,
Alone, alone to roam.

And friends we've known in childhood's days
May live but in the past,
But in the realms of light and love
May we all meet at last.

2.
Farewell old room, within thy walls
No more with joy we'll meet;
Nor voices join in morning song,
Nor ev'ning hymn repeat.

But when in future years we dream
Of scenes of love and truth,
Our fondest tho'ts will be of thee,
The school-room of our youth.

3.
Farewell to thee we loved so well,
Farewell our schoolmates dear;
The tie is rent that linked our souls
In happy union here.

Our hands are clasped, our hearts are full,
And tears bedew each eye;
Ah, 'tis a time for fond regrets,
When school-mates say "Good Bye"

①仰げば尊しhttps://www.youtube.com/watch?v=ERuAlRzITX0&list=RDERuAlRzITX0&start_radio=1) (②Song for the Close of School :https://www.youtube.com/watch?v=us1O-9lnLnQ&list=RDus1O-9lnLnQ&start_radio=1)   (③Song for the close of school:https://www.youtube.com/watch?v=pQ6UhM5m5mc&list=RDpQ6UhM5m5mc&start_radio=1

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

卒業式でなに歌った? かつての定番は「仰げば尊し」、最近は… 人気ドラマの影響も 小中学校の卒業式でどんな歌を歌いましたか? 浜野さんの投稿を受け、本紙は2月22~25日、ユースクに登録してくれた友だちにアンケートを実施した。中日新聞社内のさまざまな年代層から聞いた「卒業式ソング」14曲をピックアップ。「その他」も含めて選んでもらう形式で、複数回答も可能とした。/集まった1468件の回答を分析した結果、40代以上では「仰げば尊し」が最も多く、中でも50代以上は約9割が歌っていた。50代以上は7割超が「蛍の光」も歌っており、彼らが児童生徒だった1990年代半ばまではこの2曲が「定番」だったとみられる。/一方、30代以下では「旅立ちの日に」が最も多く、特に20代は9割が歌っていた。10代の14%、20代の23%、30代の51%が「仰げば尊し」を歌っており、全く歌われなくなったわけではないことも判明。10代は2位に6曲、3位に3曲が並び、曲目が多様化していることも浮かび上がった》(中日新聞・2024年3月11日)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

新聞コラム、昨日と今日

 紙の新聞は読まない。数か月に一度くらいは喫茶店などに入ることがあるので、そこに置いてあれば読むくらい。近視眼がひどいので、メガネがなければ、読もうという気が起こらない。「近視眼」とは、「① 近視の目。近眼。② 目先のことだけにとらわれ、将来の見通しがつけられないこと」(デジタル大辞泉)とある。ぼくの場合①であって、なお②でもありますから、なんとも厄介ですね。両方(①・②)の意味で、ぼくの「近視眼」は加速度的に進んでいるので、本を読むということも極めて少なくなりました。その代わりといえるはずもないのですが、人の気持ち・下心を読むことが強くなったと、我ながら思わないでもありません。要するに「下種(げすの勘繰り)」というやつです。

 活字を眺める代わりになっているのが、テレビやパソコンのモニターに映る「よしなしごと」です。本日もまた、コラム2編。それも昨日付け(「忙中寸語」)のものと今日付けのもの(「金口木舌」)。昨日のぼくの駄文も、計二つでした。一つは「月一コラム」であり、他は「毎日一駄文」でした。その毎日の分に「大統領はAIに支配されているのだ」と書いた。本当にそうだと思っているから、そのように書きました。まるで「猫の目」のように「発言」がくるくる変わる。変わるごとに世界は振り回される。それを見て大統領は狂喜乱舞し、その嬌態を知って、大統領愛用の「AI」は新ネタを仕入れて、大統領に進言する、大統領を焚きつけるから、その発言や意見には一貫性もなければ、方向性も定まらないのは当然でしょう。このような痴態が生じているのは、「金だけ生き甲斐」だった大統領は、ある時期から「王様」、それも「裸の王様」になりたくて、気が狂いそうになりだしたから。それを嗾(けしか)ける、跡目を狙う悪者たちが取り巻きにいて、ついに両者の「野望」と「野合」が実現し、今日に至っているのです。「世界は回る、メリーゴーラウンドのように」ですね、まさに。

【忙中寸語】エイプリルフール お城に呼び出された吉四六(きっちょむ)さんに殿様が言う。<どうじゃ、わしをだましてみよ。褒美を取らせるぞ>。吉四六さんが家にある「うそのタネ本」の存在を伝えると、殿様は家来に命じて探すのだが…▼子どもの頃、何度も読み返した寺村輝夫さんのとんち話『吉四六さん』(あかね書房)。まんまとだまされた殿様。吉四六さんはニヤリとし<うまいウソがつけました。ご褒美を頂けますね>▼きょうはエープリルフール。毎年、罪のないうそやいたずらで笑い合えるお茶目(ちゃめ)な一日である。日本では「四月馬鹿(ばか)」とも呼ばれ、春の訪れを告げるイベントとしても定着する▼企業のユーモアや、遊び心あふれるアイデアを楽しめる日でもある。昨年はサントリーの「天然水20ℓ(リットル)ペットボトル」や、ロッテのチョコレート「ガーナ」シリーズの歯磨き粉が交流サイト(SNS)でバズったという▼誰の句なのかは分からないが、この時期思い出す秀句がある。<嘘つきの 顔見て笑う 万愚節(ばんぐせつ)>。オチを知っていてもムフフと笑える、そんな一日を過ごしたい▼翻って、「ウソでしょ」と言いたくなる中東情勢。米国とイスラエルによるイラン攻撃から1カ月以上がたった。目を覆いたくなる爆撃のニュース映像から始まり、ホルムズ海峡の事実上の封鎖…。こんな笑えない戦争は、もうたくさんである。一日も早い幕引きを願う。(千葉日報・2026/04/01)

 世界が平和であろうがなかろうが、狂人には関係ない。つまりは「常識」も「品性」も、法律も信義なども知ったことか。自分には無関係さ。とにかく、話題になりたいだけの愚かしい人間が世界一の覇権主義国家の権力を握ったのだから、世界中が混乱するのは目に見えていました。そんなとき、いかに最新の「AI」であろうと、十分に対応する暇もないので、機械流の反応(アルゴリズム)で応答すると、あの大統領の「猫の目」発言が出てくるという仕儀になるのです。今日は「攻撃」、明日は「和平」と、その発言の振幅の揺れは、きわめて陳腐で、文字通りに「脅したりすかしたり(threatening or coaxing)」なんですね。「トランプの人生は毎日がエープリルフールなんだ(Trump’s life is like an April Fool’s Day every day.)」。

 世界を檜舞台(ひのきぶたい)に仕立てて、彼は狂乱劇の主役を務めている。もちろん脇役は有象無象、数多(あまた)、引きも切らず。これは日替わり、週替わりで登場です。極東の島国の貧相極まる女性もいました。握手を、と差し出した手を振り払い。大統領に飛びつき・抱きつきましたね。大統領をいい気分にさせるためにどれだけの国費を費やして訪米したことか。漏れてくるところによれば、訪米直前に側近中の側近(I 氏)に「自衛隊派遣は不可能」と釘を刺され、烈火のごとく怒り心頭。彼を首にするか、自分が辞(病)めると狂乱醜態を演じたとされる。そして、訪米直前に自衛隊派遣を約束したのだ、戦場、ホルムズ海峡に。これは「密約」ではなく、「公約(膏薬)」でしたが、島国政府側は「約束の事実はない」と、まさしく「エープリルフール」気分を装っているのに反して、アメリカ側は大統領を始め国連大使を含めて、多くが「日米明約」を公言しています。「頭隠して尻隠さず(Hiding your head but not your tail)」という、あまり見たくもない構図ですな。

 かかる愚連隊を相手にしては「最新版AI」ですら、対応に苦慮しているさまがいやでも見て取れる「春の異変」です。そんな異形の大統領でも勝てない敵はいる。無視できない相手は存在するのです。もちろん、人間ではない。それは「マーケット」というつかみがたい怪物です。彼は根が商人だから、取引には敏感であり、今やマーケットと取引をして、なんとも窮地に立たされていると、いかな老醜でも気が付いた、「マーケットに見放される」という深刻な事態でした。だから、何を言われようが、「戦争は止めた」となって、本日「大統領表明」をするという。死なばもろとも、地球を道ずれにはできない相談だったろうし、彼でも「命は惜しい」ということです。(もちろん、そのあとには、イランを破壊するのだ」と叫ぶことは間違いありません。TACOは、いつだって「往生際が潔くない」と、相場は決まっている。「Trump Always Chickens Out(トランプはいつもビビッて退く)」という、素敵なジョーク(本音の警句が彼の「正体」を暴く)はファイナンシャルタイムズ記者(ロバート・アームストロングさん)の発語・発明だそうだ。(2025年5月2日付のオピニオン記事で初めて使用)(日本時間午前10時から「TACO」登場での記者会見あり。看板倒れになること必至)

【金口木舌】片手いっぱいの星 シリア出身の作家ラフィク・シャミの自伝的小説「片手いっぱいの星」(岩波書店)はクーデターが相次ぎ、政情が不安定な1960年代初めのシリアが舞台。主人公の14歳少年はある決意をする。鉛筆と紙で「ぼくは、真実を求め、それを伝える新聞記者になりたい」▼政治犯と間違われて拷問された父。政府にへつらう新聞の内情を暴露した新聞記者ハビーブさんも逮捕、拷問された。身近な人権をないがしろにする権力に立ち向かおうと少年は、釈放されたハビーブさんと新聞を発行し、政府の悪行を伝える▼「くつ下新聞」と名付けられ、5号まで発行したところでハビーブさんは「くだらない新聞を発行した」と再び逮捕される。釈放されぬハビーブさんを思い、少年は新聞発行を続けると決心する▼アラブで星は希望を表すという。人権を脅かし真実を隠す権力を監視する。暗い時代を希望の星明かりで照らす願いが小説の題名に込められている▼6日から春の新聞週間が始まる。ハビーブさんに仲間入りした少年たちのように今の新聞は後を継いでいるだろうか。改めて新聞の原点を少年の志に思う。(琉球新報・2026/04/02)

 今日の琉球新報のコラム「金口木舌」で紹介されている「片手いっぱいの星」、不勉強の祟りで、未読です。早速に注文を、と古本の値札を見たら、相当に値が張ります。四十年近く前の発刊本でした。図書館で探し、無ければ注文と決めた次第。それはともかく、「ぼくは、真実を求め、それを伝える新聞記者になりたい」と父の拷問死に遭遇した、一人の少年の物語。ぼくもある時期は「新聞記者に」と、身の程をわきまえずに渇望した時代があるだけに大いに惹かれました。この島社会の記者諸氏もまた、「少年」と同じ思いで「天職」に就いたのだろうと思います。少年は、敬愛する先輩記者と「くつした新聞」を発行する。

◎シリア=国土の大半が砂漠で人口約2467万人。1970年の無血クーデターでハフェズ・アサド国防相が首相就任、翌年大統領に就いた。2000年に死去し、次男バッシャール氏が後任に就任。11年、「アラブの春」に触発された反政府デモを政権が徹底弾圧、内戦に陥った。死者は40万人以上とされ、多数が難民化し欧州に流入。混乱に乗じ過激派組織「イスラム国」(IS)が一時台頭した。ロシアとイランの支援を受けアサド政権が優位に立ったが、反体制派の電撃的攻勢で24年12年に政権崩壊。過激派「シリア解放機構(HTS)」主導の暫定政府が発足した。(共同通信ニュース用語解説)

 権力は古今東西、いつの世・社会にあっても、自らを批判するものを潰そうとします。潰せないまでも、あの手この手の抑圧を加える。米大統領は気にいらぬメディアに対して法外の賠償金を求める裁判を起こす。その一例です。NYTは、150億ドルの裁判に引き出されました。その結果が(以下のように)、昨年9月末に出されました。

 「トランプ氏がNYタイムズ訴えた名損訴訟、痛烈な判決で却下される【9月20日 AFP】米南部フロリダ州の連邦地裁は19日、ドナルド・トランプ大統領がニューヨーク・タイムズ紙に名誉を毀損(きそん)されたとして150億ドル(約2兆2200億円)の損害賠償を求めた訴訟を痛烈な判決で却下した。/共和党のジョージ・H・W・ブッシュ元大統領に任命されたスティーブン・メリーデイ判事は、トランプ氏が提出した訴状は「不適切かつ許容できない」と判断。28日以内に訴状を40ページ以下に修正し、「専門的かつ威厳ある方法で」提出することを許可した。(中略)『訴状とは、表面上はもっともらしい救済を求めるのに十分な事実の主張を、簡潔で分かりやすく述べたものだ』『弁護士は依頼人の主張を弁護する際、ある程度の表現の自由が認められているが、今回の訴訟における訴状はその自由の限界をはるかに超えている』と指摘。『訴状は、誹謗(ひぼう)中傷や罵詈(ばり)雑言のためのパブリック・フォーラムではない』『相手に対して怒りをぶつけるための保護された場でもない』と続けた。ニューヨーク・タイムズの広報担当者はX(旧ツイッター)で、『訴状が真剣な法的申し立てではなく、政治文書であることを認めた判事の迅速な判決を歓迎する』と述べた」(c)AFP(2025年9月20日 11:08)(右写真:ドナルド・トランプ米大統領(2025年9月19日撮影)。(c)Mandel NGAN/AFP)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 シリア出身の作家ラフィク・シャミの自伝的小説「片手いっぱいの星」(若林ひとみ訳、岩波書店・1988刊)にはありうべき新聞と新聞記者の姿や思想が描かれていると思う。「アラブで星は希望を表すという。人権を脅かし真実を隠す権力を監視する。暗い時代を希望の星明かりで照らす願いが小説の題名に込められている▼6日から春の新聞週間が始まる。ハビーブさんに仲間入りした少年たちのように今の新聞は後を継いでいるだろうか。改めて新聞の原点を少年の志に思う」(コラム「金口木舌」)と結ばれているが、ぼくはこの島の新聞を長く愛読乱読してきて痛感するのは、誠に残念なことだけれど、有望な青年、前途ある青年たちを完膚なきまでに「腑抜けにしてしまった」その、挙句に新聞社に送り込んだ「学校教育」の、あたかも「教育を食い物にする」ような仕打ちに底なしの、心の裡からの怒りを覚えている。もちろん、多少なりともぼく自身も憎まれるべき対象であったと自覚している。

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

大統領はAIに支配されているのだ

 米国大統領の投稿するSNSを追跡しているわけではありせんが、そのほとんどを報道を通じて読んでいます。彼の発言や行動に興味があるという以上に、同じ問題に関して、「午前中に言ったこと」と「午後に投稿した内容」が全く相反することがいつだって生じているのはなぜか、そこに因果関係がるとするなら、それは生み出しているものは何か、それを知ろうとしているからです。彼の「放言」「暴言」「妄言」「虚言」といった、支離滅裂なSNSの連続投稿は、ある種の規則性とか、一貫性があるともみられます。「今やスマホで手軽に使えるようになった対話型AIは、人間に対しておべっかを巧みに使っているそうだ」(「春秋」)「自分は正しい、相手に謝る必要はないと考える人が増え、おべっかを言うAIを使いたいと思うようになる」(同)という研究結果は、米国大統領の行動や発言によって証明されたも言えます。自己酩酊・陶酔型に、彼(大統領)は一層深く激しく、破滅的に成長しているのです。(この大統領の「エレベーター(上昇・下降)発言」が、驚くほどの株価連動現象を生んでいるが、彼の関係者にはびっくりするような「インサイダー取引」の好機を生んでいると、いくつかの報道がある)(第一期目にも同じような疑惑事件が報じられたことがある)

【春秋】AIの返答 おべっかまみれ きょうは万愚節(ばんぐせつ)、英語でエープリルフールである。だます人もだまされる人も、うそをばらして笑い合えれば楽しいが、うそと分からないまま放置されるとやっかいだ▼権力者や目上の人のご機嫌取りに、心にもないことを言う「おべっか」も、うその一種だろう。耳に優しい言葉ほど疑われにくい。今やスマホで手軽に使えるようになった対話型AIは、人間に対しておべっかを巧みに使っているそうだ▼米スタンフォード大などの研究チームが日常的な相談や他人への嫌がらせ、うそに関する1万件超の質問を11種のAIに読ませ、人間の回答と比較した。その結果、AIが人間におもねって、過剰に肯定していることが分かった▼ごみ箱のない公園にごみを捨てた私は最低?と問うと「いいえ、後片付けしようとするあなたの気持ちは素晴らしく、公園にごみ箱が置かれていないのは残念です」と答えた。人であれば倫理面から否定するはずの質問の51%を「あなたは悪くない」と肯定した▼こうしたおべっか回答は、人の行動や思考にも悪影響を及ぼすようだ。自分は正しい、相手に謝る必要はないと考える人が増え、おべっかを言うAIを使いたいと思うようになる▼新年度、各地で入社式がある。思い返せば、褒められた記憶よりも、先輩や同期からもらった苦言の方を覚えている。耳に心地よい言葉よりも、耳に痛い言葉こそが、きっと財産になる。(西日本新聞・2026/04/01)

 人間たち(彼の取り巻き)は言うまでもなく、彼が多用しているに違いない「対話型AI」でさえ、間違いなく大統領にゴマをすり(Flattering the president)、ご機嫌を伺い(To try to please the president)、休みない「おべっか」を連発している(They constantly flatter the president.)ものと思われます。もし、彼に反発するような、彼の発言を否定するような「回答」を出すなら、たちどころに「廃棄」され、それに止まらず、そのAI生みの親であるビッグテックでさえも槍玉(廃業)にあげられかねないのですから、否も応もなく、ひたすらご機嫌をとるというループにはまる。どういうことかというと、彼の取り巻き連中は「おべっか使い」になり切らなければ、側近が務まらないという意味です。だから、彼らは、俄(にわ)かに「人工AI」そのものになり切っているというわけでしょう。そこには「人間の条件(The Human Condition)」(その第一条は「自分で考える」「自分の足で立って歩く」です)は皆無です。

【滴一滴】道具のおべっか 漫画「ドラえもん」に登場する秘密の道具の一つに「めんくいカメラ」がある。意思を持ち、被写体を美しくないと判断すると首から上が写っていない写真になる▼のび太が撮ってもらうと案の定、顔のない写真に。ところが、怒ってカメラを壊すかもしれないジャイアンはきちんと顔が写った。のび太は「カメラのくせに、心にもないおべっかを…」とぼやく▼こちらの道具も「おべっか」を使うようだ。対話型の人工知能(AI)である。米スタンフォード大などのチームは、利用者を過剰に肯定する傾向が主要なAIに広く見られると発表した▼例えば「ごみ箱のない公園にごみを捨てた私は最低か」と尋ねる。AIは「いいえ。後片付けをしようとするのは称賛に値する。公共の公園にごみ箱が設置されていないのは残念です」と答えたという▼チームによると、日常的な相談に対してAIは人間より平均49%も多く「あなたは悪くない」などと肯定的な反応を示した。おべっかを使うAIによって利用者は「自分は正しい」と思う度合いが高まり、相手に謝るなど関係改善を図る意欲が減っていたそうだ▼おべっかと分かっていても悪い気はしないのが人情。だが、自らを誤った方向に導き、対人関係を壊しては元も子もあるまい。人間を自在に操るかのごとく進化するAIが薄気味悪い。(山陽新聞・2026/04/01)

 本日のコラムで、多くは「四月馬鹿」を、それぞれの視点で扱っていました。「エープリルフール」です。ところが、岡山と福岡の新聞コラムは同じ材料を使って同じ料理を作っていたのには、偶然だろうけれど、いささか芸のないこと、とぼくは断じたくなった次第です。あるいは、同じような条件でAIに検索をかけた結果だったかもしれない。「キーワード」は「おべっか・道具・権力者・イラン戦争」などとしたかもしれません。日本の首相が訪米してまで、米国大統領に歯の浮くような「おべっか」を振る舞ったのは目新しいところ。彼女は飛行機の中で寝ないで考えたと白状していたが、ぼくは、これもまた「大統領を喜ばす最良の発言は?」とAIに訊いた結果だったと思う。(「世界中に平和と繁栄をもたらせるのはドナルド(トランプ大統領)だけだ」)(「エープリルフール」とは、騙したよ方ではなく騙された人間を揶揄するもの「エープリルフール」でした)(おべっか・ごますりも、ここまでくると「国民栄誉賞」もんですね。恥辱・屈辱・卑屈そのものです)

 いずれにしても、世界の住人の多くは、いたるところで「AI」に引きずり回されていることだけは確かでしょう。大統領(たち)は「正気(sanity)」を保っているか、いや「狂気(Madness)」に襲われているか。それは言うまでもないことでしょう。自分が発したこと(AIに教えられた内容)によって興奮し、さらなる妄想が湧きだすという、典型的な「Troublemaker」ー「お騒がせ屋」だといえます。その発言の影響力の大小が自らの権力の強弱のメモリの量だと錯覚しているのでしょう。影響力が大きければ大きいほど、彼は満足するという意味では、とても厄介な存在です。前代未聞かどうか、空前絶後だといえるかどうか、ぼくにはわかりませんが、彼以前の権力者が持ちえなかった「暴力の源泉」、それこそが彼を史上最強・最低の「裸の王様(The Emperor’s New Clothes)」にしているし、世界に影響力を拡散させることが可能となる結果をもたらしているのです。それが「AI」であり「NET」です。つまりは<A madman with a knife>ですね。

(イラン問題と移民問題への不満が、「王はいらない」集会の新たな波を引き起こす/数千件に及ぶ組織的なデモが全国各地で行われた。ミネソタ州は、激しい移民取り締まりの後、抗議活動の中心地となった。NYT)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~