「おべっかを使う(to flatter)」と「嘘をつく(to lie)」は同じではないでしょう。でも、同じこともある。「おべっか」とは「お世辞」であり、「諂(へつら)い」であり、「媚(こび)」なんでしょう。ご当人の面前どころか、世界中にこの「おべっか」を思い切り口にするには、ぼくには勇気がいるし、「嘘は罪(lying is a sin.)」という意識があるから、とても躊躇する。「世界に平和と繁栄をもたらすことができるのは、あなただけ、ドナルド(・ダック)」といったらしい。極東の島国の尖がった「ハービイ」は面と向かってお追従をやらかしたから、小国のマスメディアは底抜けの大喜び、こんなことを、堂々と「裸の王様」に言える首相はどこにいる。だから、首脳会談は「大成功」と持ちきりでしたが、それこそ「一夜の悪夢」で、アメリカの人気テレビ番組で、揶揄やら侮蔑やら嘲笑やらで大盛り上がりでした。<Lonely person>、いや<Poor person>だったか。
「オープンAIの『GPT5』やグーグルの『ジェミニ』などの対話型人工知能にはユーザーに迎合し、おべっかを使う傾向があるそうだ」とアメリカの大学の研究結果をコラム氏は、今さらのようにに指摘してます。それも当然で、なにしろ、GAFAのトップたちは「米大統領」、別名「裸の王様」に、それこそ「右へ倣え<Follow the leader>とばかりに膝を屈したのですから。たぶん、大統領が使った「AI」が当人には気に入らなかったという話(不平)を伝えられたのでしょうよ。ぼくは今の時代、人間はAIになり、AIが人間の代わりになることが極めて急速に進められていると観察しています。「小説のハービイのおべっかは人の感情を傷つけないためという設計上の問題だったが、AIのおべっか傾向はユーザーの満足度を上げる学習の結果だそうだ」と続く。でも、この二つは同じではないですかと、ぼくなど考えてしまう。使う人間の機嫌を損なわない、もっと先回りして「おべっか・おべんちゃら」使いに走る。どこかの首相の「ドナルド・ダック」発言(おべっか)は、まさにはそれに当たります。
新しい年度が始まりました。いろいろな意味で、「門出(departure)」を果たした人たちが、それこそ不安と期待の混合(mixture)した時間を過ごし始めたといえそうです。この区切りは「新年(元日)」とは違った意味合いで、それぞれの気分を新たにしてくれる扇風機の風みたいな働きを持っているでしょうか。もっと深掘りすれば、ぼくたちは毎日毎日が「人生初体験」「未知への船出」でもあるのですから、一日一日が「昨日の続き」であると同時に「明日への出立」でもあるということになりませんか。ぼくが若いころに熟読した、フランスの高校((lycée・リセ)教師だった哲学者は、常に若者に向かって「人生は朝から始まる(La vie commence le matin.)」と言い聞かせていた。それこそが、彼自身の人生を受け止める態度(思想)だったと、ぼくは思っていました。
この人自身が高校生の頃、大変な人物に出会っています。ジュール・ラニョーという教師(哲学者)(左写真)でした。このことについてはどこかで触れています。若い時に、こんな人と出会うと、おそらくその後の人生は、いやでも変わるだろうというべきか、驚くほどの強靭さをもって生きられるのかもしれません。彼は、その教師を「野人」と称したほどです。どういう意味だったでしょうか。このことについてもいくつもの逸話が、当時の生徒たちによって残されています。たぶん、自由に生きている人(「Qui vit en liberté dans la nature.)だったでしょう。高校生にとって、この教師は「一人の大人、驚くべき存在(Un adulte, une existence étonnante.)」と映ったはずです。
また、この高校生(生徒)だった人は、この教師に向かって、これまでに出逢った、たった一人の「偉人(Un grand homme)」だったとも偲んでいます。若い高校生たちは競って「偉人」に似せようと、その口振り、あるいは身なり、たばこの吸い方などまでも「模倣」したとも語られています。ぼくは「教師」は、子どもたちにとって「偉大な大人」であってほしい、「自由な精神の具現」であったらなあと、どれほど願っていたことでしょう。それは子どもにとって「模倣」すべき存在ではなく、「典型(ひきつけられてしまう」となるように存在だったと思う。
◎ 「あおげば尊し」= 1884(明治17)年に編纂(へんさん)された「小学唱歌集 第三編」にある歌の一つ。歌詞内容から、「蛍の光」と並んで主に卒業式で歌われてきた。作詞・作曲については長らく不詳とされてきたが、英語学、英米民謡などを専門とする一橋大学名誉教授の桜井雅人が、2011年1月24日までに原曲と見られる歌の楽譜をネット上で発見した。それは、1871年にアメリカで出版された「THE SONG ECHO」という本に収録された「SONG FOR THE CLOSE OF SCHOOL」(卒業の歌)という4部合唱の曲で、メロディーから記号の位置まで「あおげば尊し」と一致していた。作詞はT.H.ブロスナン、作曲はH.N.Dとなっているがいずれも不詳。しかし、この本はほとんどがオリジナル作品を採用しているところから、原曲と見て間違いないという。唱歌は、1879(明治12)年、文部省に設置された「音楽取調掛(おんがくとりしらべががり)」の初代所長伊沢修二(1851~1917)が、初等教育において西洋音楽を学ばせるために編纂したもの。メロディーは当時アメリカで広まっていたスコットランド、アイルランド、ドイツなどの民謡や賛美歌などから日本人に親しみやすいものを選び、これに日本語の歌詞をつけたものが多く、「蛍の光」はスコットランド民謡、「庭の千草」はアイルランド民謡。中にはモーツァルトやウェルナー、ジャン=ジャック・ルソーの曲もある。(imidas・イミダス編・2011/02)
世界が平和であろうがなかろうが、狂人には関係ない。つまりは「常識」も「品性」も、法律も信義なども知ったことか。自分には無関係さ。とにかく、話題になりたいだけの愚かしい人間が世界一の覇権主義国家の権力を握ったのだから、世界中が混乱するのは目に見えていました。そんなとき、いかに最新の「AI」であろうと、十分に対応する暇もないので、機械流の反応(アルゴリズム)で応答すると、あの大統領の「猫の目」発言が出てくるという仕儀になるのです。今日は「攻撃」、明日は「和平」と、その発言の振幅の揺れは、きわめて陳腐で、文字通りに「脅したりすかしたり(threatening or coaxing)」なんですね。「トランプの人生は毎日がエープリルフールなんだ(Trump’s life is like an April Fool’s Day every day.)」。
世界を檜舞台(ひのきぶたい)に仕立てて、彼は狂乱劇の主役を務めている。もちろん脇役は有象無象、数多(あまた)、引きも切らず。これは日替わり、週替わりで登場です。極東の島国の貧相極まる女性もいました。握手を、と差し出した手を振り払い。大統領に飛びつき・抱きつきましたね。大統領をいい気分にさせるためにどれだけの国費を費やして訪米したことか。漏れてくるところによれば、訪米直前に側近中の側近(I 氏)に「自衛隊派遣は不可能」と釘を刺され、烈火のごとく怒り心頭。彼を首にするか、自分が辞(病)めると狂乱醜態を演じたとされる。そして、訪米直前に自衛隊派遣を約束したのだ、戦場、ホルムズ海峡に。これは「密約」ではなく、「公約(膏薬)」でしたが、島国政府側は「約束の事実はない」と、まさしく「エープリルフール」気分を装っているのに反して、アメリカ側は大統領を始め国連大使を含めて、多くが「日米明約」を公言しています。「頭隠して尻隠さず(Hiding your head but not your tail)」という、あまり見たくもない構図ですな。
人間たち(彼の取り巻き)は言うまでもなく、彼が多用しているに違いない「対話型AI」でさえ、間違いなく大統領にゴマをすり(Flattering the president)、ご機嫌を伺い(To try to please the president)、休みない「おべっか」を連発している(They constantly flatter the president.)ものと思われます。もし、彼に反発するような、彼の発言を否定するような「回答」を出すなら、たちどころに「廃棄」され、それに止まらず、そのAI生みの親であるビッグテックでさえも槍玉(廃業)にあげられかねないのですから、否も応もなく、ひたすらご機嫌をとるというループにはまる。どういうことかというと、彼の取り巻き連中は「おべっか使い」になり切らなければ、側近が務まらないという意味です。だから、彼らは、俄(にわ)かに「人工AI」そのものになり切っているというわけでしょう。そこには「人間の条件(The Human Condition)」(その第一条は「自分で考える」「自分の足で立って歩く」です)は皆無です。
いずれにしても、世界の住人の多くは、いたるところで「AI」に引きずり回されていることだけは確かでしょう。大統領(たち)は「正気(sanity)」を保っているか、いや「狂気(Madness)」に襲われているか。それは言うまでもないことでしょう。自分が発したこと(AIに教えられた内容)によって興奮し、さらなる妄想が湧きだすという、典型的な「Troublemaker」ー「お騒がせ屋」だといえます。その発言の影響力の大小が自らの権力の強弱のメモリの量だと錯覚しているのでしょう。影響力が大きければ大きいほど、彼は満足するという意味では、とても厄介な存在です。前代未聞かどうか、空前絶後だといえるかどうか、ぼくにはわかりませんが、彼以前の権力者が持ちえなかった「暴力の源泉」、それこそが彼を史上最強・最低の「裸の王様(The Emperor’s New Clothes)」にしているし、世界に影響力を拡散させることが可能となる結果をもたらしているのです。それが「AI」であり「NET」です。つまりは<A madman with a knife>ですね。