「今年こそ」と「今年も」と

 巳年(みどし)の一年が静かに始まった。昨年は世界中で戦争や争い事がつづき、心安らぐ時間は少なかった。「今年こそ平和な一年に」は、世界共通の願いだろう。
 大みそか、NHKの「紅白歌合戦」の余韻にひたりながら「ゆく年くる年」を見た。例年より長いバージョンで、国内の10数カ所からの中継だった。
 トップは何やら、どこかで見たことがあるような風景。桜井市の長谷寺だった。手前みそだが、1月1日付本紙別刷第3特集の表紙(49面)に登場しているのでご覧頂ければ幸いだ。
 大河ドラマ「光る君へ」の主人公、藤原道長も参拝したという、古くから人々の篤い信仰で知られている名刹(さつ)である。ご本尊の長谷観音のお姿も画面越しに拝することができたのはありがたかった。
 昨年の地震・豪雨の被災地・能登の珠洲市、須須(すず)神社▷戦後・被爆80年、ノーベル平和賞受賞で広島・原爆ドーム▷阪神淡路大震災から30年で神戸・ポートタワー▷ラジオ放送100年で「NHK放送博物館」▷4月に始まる大阪・関西万博の会場なども紹介された。
 とにもかくにも「穏やかな暮らし」になりますように。(恵)(奈良新聞・2025/01/04)

 一月四日。新年初の「燃えるごみ」収集の日。朝6時半に収積所に持っていく。十年一日の如くで、越してきて以来、計算するとおそらく二千回くらいも。火木土の週三回。わが家は 最初の約五年は一人住まい、後の五年以上は連れ合いも住みだした上に猫多数ですから、週2の割合でゴミ出しをしていることになります。住み始めのころは、ものによっては、直接に地区のゴミ焼却場に持ち込んでもいました。年末年始もなく、いつも通りの作業が続きます。旧臘には卒業生(三十年ほど前の)が「同窓会」会場から電話をかけてきて、小生の「安否確認」や「記憶力」テストをしてくれた。元日は娘親子が横浜から泊りがけ。二泊して、昨日帰った。そして、昨三日には。これも卒業生(十五年ほど前の)が拙宅に来た。隣町に所用があって、そのついでに「声」をかけてくれること、四、五年に及ぶ。昨日は昼過ぎから夕方五時ころまで滞在。都内の中学校社会科教師。その間、ラインで北海道や八王子などの同窓ゼミ生を呼びだし、しばし閑談に時間を潰した。

 都会の公立学校の子どもや教師たちの「大変さ」は度を越えている。その中を「いつ辞めるか」と心が折れそうになりながらの勤続七年目だという。学校そのものは「百年一日」というべきで、点数競争や偏差値偏重教育が、悔しいけれど、この社会の学校教育史を作ってきた。そして、学制発布(1872年)以来百五十年後、ようやく崩壊の兆しは誰の目にも露わになってきたと思う。いじめや不登校児童生徒の激増、「精神疾患」という理由での、求職・退職教員の急増現象が続いています。学校丸、教育号という護送船団からの飛び降りであり、逃亡、否、解放を求めての降下でもあるでしょう。さらに後に続く人が出るのを止められない。少子化の波が、その危機的状況に輪をかけて襲い掛かっている。各地では集団教育が成り立たない事態の発生です。三十人や五十人では、従来の学校の機能が破綻するのも当たり前。

 そして、ここにきて、教員志望者数が「募集定員」を下回る異常事態(欠員状態)が各地で生じています。少子化時代に、教員のなり手がいなくなるのですから、今や学校現場は、機能不全、学校脳梗塞が多発し、薬石効なしの「末期的症状」を呈しているとみる。それでもまだ気が付かない(ふりをして)か、教育関係者は当座凌ぎの弥縫策でお茶を濁す始末。進学競争だの大学受験だのと囃し立てながら、その挙句に、学歴・学校歴偏重社会における、卒業生の「就業状態」は悲惨な事態に陥っています。倫理・道徳の頽廃は地を這う如くというのか、地に落ちたというべきか。

 そして「ゆく年くる年」です。ぼくはテレビを見ない人間ですから、コラム氏のように、律義に中継に付き合うこともありませんで、普段通りに夜は十時過ぎに就寝し、早朝三時過ぎには起床。猫ケアで一騒動をやらかしては、パソコンに向かう。昼頃には買い物に。とまあ、こんなだらだら坂生活を、文字通り十年一日のように重ねている。殴り書きされた「駄文の山」は二千を優に超えた。「それがどうした、恥ずかしい」という非難めいた囁きは、わが身中から聞こえてくる始末。言い訳・弁解をいうなら、「まあ、これ(駄文書き)がぼくの朝飯みたいなもの」、満足に食することはないが、食べたような気になるのですから、「それでよし」とはいかないが、致し方ないという気分で日を過ごしています。(日本語を忘れないため、昨日今日起ったことの記憶を確かめるため。駄文・雑文でしか、それをなしえない)

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 奈良の長谷寺、訪れたのは小学生の高学年の頃か。微かな印象しか残っていません。鎮護国家だか、国家仏教だか何だか知りませんが、「大伽藍」というこけおどしをいかにも見せつけるような威容に、ぼくは辟易してきました。「奈良時代」以来、この国の仏教が、どこまでも「乃木坂」「欅坂」ならぬ。「堕落坂」をころげ堕ちて、なお堕ち続けているのですから、奈落の深さを思うばかり。「古くから人々の篤い信仰で知られている名刹(さつ)である」とコラム氏は書くが、果たしてそうだろうか。「名刹」とは何ですかと、コラム氏に聴きたくなります「刹」は「てら」「サツ」「セツ」といって、最初は修行中の僧が悟りを開いた時に建てる柱様の「旗印」だったもの。それが長く定置されるようになって、「名刹」「古刹」になったとされます。「ここに名僧あり」ということだったでしょうか。

⦿ はせ‐でら【長谷寺】= 奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山派の総本山。山号は豊山(ぶざん)。西国三十三所第8番札所。天武天皇の時代に道明が開創と伝える。東大寺、ついで興福寺の末寺であったが、度々の火災ののち、安土桃山時代に羽柴秀長による復興を機(として、新義真言宗となった。本尊は十一面観音。牡丹の名所として知られる。本堂は国宝。初瀬寺。泊瀬寺(はつせでら)豊山寺(ぶざんじ)。長谷観音。ちょうこくじ。(デジタル大辞泉)

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 「とにもかくにも『穏やかな暮らし』になりますように」と、コラム氏に倣って、吾輩も祈るや切ですけれど、放っておいても月が替わり、年が替わる。願わくば「穏やかな暮らし」は世界各地の人々の上に訪れることを希うばかりです。その昔、島国の政治世界で「一国平和主義」を唱えた人が、自分だけよければいいのかと盛んに非難され、その非難はいたるところに流布されてきました。「軍備増強反対」の「平和主義」は画餅であるといわぬばかりに、政治の季節は「防備」「軍備」「装備」を重くし、ついには「専守防衛」ではなく、「敵基地攻撃能力」が「自衛隊」の本務になった感があります。軍拡競争というものがどれほど愚かなものだったかを知悉していた「専門家」たちが、その罠にはまって「集団的自衛権」などというあり得ない、覇権主義国の「戦闘能力」の一端を担う属国になったのでした。他に引けを取らぬ攻撃能力と武器を備えた国(次年度防衛・軍事予算は八兆円七千億円余)が、どうして「自他の人民」に「穏やかな暮らし」を担保できるでしょうか。

 「今年もよろしく願います」と挨拶をしながら、「今年こそ~でありますように」と祈る。それは日々の生活の暮らしに支えられて初めて、意味のある「挨拶」となり「祈り」となるのではないか、ぼくはいつもそのように考えている。

 「口きかぬ位牌に新年おめでたう」 (鈴木真砂女)

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守愚聖所蔵(愚を守るは聖の蔵する所)

【卓上四季】座右の銘 新しい年が始まった。おとそを飲み、お雑煮を食べ、初詣に出かける。これといって変わったことがなくても、気持ちだけはあらたまるようだ。正月気分というものなのか▼さて一年の計は…と考えて、立派なものはとんと浮かばない。健康に生きる。機嫌よく過ごす。そんなところか。振り返れば、「座右の銘」にも縁がなかった▼雑誌「暮しの手帖」の最新号がおもしろい特集を組んでいた。タイトルは「わたしの座右の銘」。さまざまな分野で活躍する13人が、生きる指針として心に刻み、自分を導く言葉について語っている▼漫画家ちばてつやさんは<吾唯足知>。われただたることをしる―と読む。「あるがままを穏やかに感謝し幸せに生きなさい」。年をとり大変なこともあるが「生きてるだけで合格」と思えるそうだ▼<どこの世界にも七不思議はある>は川藤(かわとう)幸三さん。阪神タイガースの伝説の代打だった。一度もレギュラーにはなれなかったが、ここ一番で活躍する。先輩が言った「お前はプロ野球の七不思議や」が宝物だ。補欠でも歴史を作れる、と▼歌手UA(ウーア)さんは<空の上に天国はない>。人生も折り返しを過ぎ、この世を大切にする。ジョン・レノンの「イマジン」を基に「今を天国と呼べるように努めたい」。穏やかで平和な世でありますように―。深く共感する。(北海道新聞・2025/01/03)

 「座右の銘」という言葉はとても好まれてきたものでしょう。多くの人は、たちまちに、自らの座右の「銘」の一つや二つを提示できるはずです。コラム氏が書かれている「暮らしの手帳」については、ぼくには、いささかの因縁がありますが、(どこかでも少し触れたので)ここではこれ以上は述べません。恐らく、この雑誌の性格からすれば、何度も「わが座右の銘」などというテーマが扱われてきたと思います。面倒だから、それこそ座右にある「バックナンバー」の中は調べない。そもそも「座右の銘」は「文選」という中国の詩文集に含まれるものです。解説は以下の辞書に譲ります。日本の奈良・平安朝文学以降、この社会では盛んに引用されてきました。その由来は以下の通りです。「 紀元後一~二世紀、後漢王朝の時代の中国の文人、
瑗(さいえん)
の文章のタイトル。「他人の短所を指摘するな、自分の長所を自慢するな」から始まる、原文では全体で二〇〇字の文章で、崔瑗は、これを実際に自分の座る場所の右側に書き記しておいて、いつも戒めとしていたそうです」(故事成語を知る辞典)

 (ヘッダー写真は「篆書崔子玉座右銘四屏」呉譲之(呉煕載)作、明治六年)

 この「書き出し(無道人之短)」を使ってもっとも有名になったのが芭蕉の句かもしれない。「人の短をいふ事なかれ、己が長をとく事なかれ。物いへば唇寒し穐(あき)の風」(芭蕉庵小文庫「冬」(1696)」(ぼくなどは、生涯にわたって「唇寒し穐の風」に吹きさらされてきたようなものです、自慢ではありませんけれど)

 この部分だけは、延々と絶えることなく今に続きます。そして「暮らしの手帳」の「わたしのの座右の銘」でした。残念ながら、ぼくにはこれぞとすべき「座右の銘」と、したり顔して他人さまにも自分にもかざせるようなものはない。強いて出せば「頭寒足熱」、あるいは「早寝早起き」くらいのものか。いやもっと大事なのがありました、「婦唱夫随」でしたね。

 本日も4時前に起きて、駄文を書き殴ろうとしています。座右とはこれ如何に、と問うまでもなく、従来「座左の銘」という表現もあった。要は、自分が常に座る場所の「右」にでも「左」にでも据えておきたい「人生の戒め」「生活の流儀」だったでしょう。(娘親子が一泊しているので、猫たちのいくつかはパニックで、外泊している始末。「人見知り」は猫の本性かもしれない)

 参考までに右に「全文」を「竹嶺」こと、石倉小三郎さんの達筆で示しておきます。石倉さんはいろいろなことをなさった方で、中でも西洋音楽評論では、ぼくはたくさんのこと(マーラーや歌劇「オルフェウス」などなど)を教えられてきました。

無道人之短 無説己之長 施人慎勿念 受施慎勿忘 世誉不足慕                                                  唯仁為紀綱 隠心而後動 謗議庸何傷 無使名過実 守愚聖所臧
在涅貴不緇 曖曖内含光 柔弱生之徒 老氏誡剛強 行行鄙夫志
悠悠故難量 慎言節飲食 知足勝不祥 行之苟有恒 久久自芬芳
               右録漢崔子玉座右銘 竹嶺学人

⦿文選(もんぜん)(Wen-xuan)= 中国の詩文選集。六朝時代の梁の昭明太子の編。 60巻。中大通2 (530) 年頃成立。周から梁にいたる約 1000年間の詩文の選集で,収録された作者は 130人,作品は 760編にのぼる。賦,詩,騒に始り,弔文,祭文にいたる 39の文体に分類し,各文体内では作者の年代順に配列されている。編集方針は編者の序によれば,道徳,実用的観点よりも,芸術的観点から文学を評価して選んだもので,その結果として賦 56編,詩 435首が選ばれ,この2つで6割以上を占める。本書はその後,文学を志す人の必読の書として広く流布し,唐の李善の注をはじめ多くの注釈が出て,文選学 (選学) ができたほどで,日本にも早く伝わり王朝文学に大きな影響を与えた。(ブリタニカ国際大百科事典)

◎ 石倉小三郎(いしくら-こさぶろう)(1881-1965)=大正-昭和時代の音楽評論家,ドイツ文学者。明治14年6月15日生まれ。東京音楽学校(現東京芸大)講師,第四,第八,第七高等学校の教授をへて,高知,大阪の各高校長,大阪理工大(近畿大の前身)予科長。昭和28年相愛女子短大教授。シューマンの「流浪の民」の訳詞で知られる。昭和40年10月30日死去。84歳。東京出身。東京帝大卒。著作に「西洋音楽史」「ゲーテと音楽」など。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

 「行住坐臥」という表現があります。「行」は歩く、「住」は止まる、「坐」は座る、「臥」は寝る。つまりは人間の普段の動作そのものを指す。そこから「日常・普段」という意味を持つようになりました。ぼくの「行住坐臥(ぎょうおうざが)」は、のんべんだらりに徹して、それこそ「時の流れに身をまかせ」その日をを暮らしている。そこに何かしらの「メリハリ」をつけたいと思うが、根っからの「三日坊主」ですから、「メリ」も「ハリ」もいつしか消えてしまう。要するにいつだって、一念発起は思い立つのですが、「元の木阿弥」という恥ずかしい次第となります。あれも願い、これも願うという身の程知らずでは一日も生きていけない、そんな世知辛い人生ではありますから、「生きていてこその物種」という、無努力(無理をしない)かつ分相応(無い物ねだりはしない)、それをある時期(四十くらいか)からぼくは心掛けてきました。世に「不惑」という呼ぶような頃合いでした。少し遅すぎた感がありましたが、機転が利かなかったのは「我が性」の限界でしたから、後悔も腹立ちもなかった。

 何のことはありません。「座右の銘」に含まれる五言二十句のすべてが、何らかの意味でぼくたちの生き方の「埒(範囲・限界)」を示してきたとも見られます。それぞれの句々が、誰にとっても「座右の銘」となりうるように思考・抽出されたと受け止めれば、わざわざ「人生訓」などを新調する必要もないのでしょう。「世誉不足慕 (世誉慕うに足らず)」「守愚聖所蔵 (愚を守るは聖の蔵する所)」「慎言節飲食 (言を慎しみ飲食を節し)」などなど、そのどれ一つとっても、吉田兼好さんの「徒然草」の背骨にもなり、「脳随」にも組み込まれているという、あるいは行間には溢れている、兼好さんの「流儀」そのものではないかという、素朴かつ率直な印象や感想を持つのです。

 いつの時代にあっても、人間は人間でありたいという心持はいささかも変わらないという思いを新たにしています。同時に、「人は時に賢、時に愚」、そのアマルガムであると、いまさらのように知るに及んでいます。

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Our world in stupor lies

 W.H.オーデン。英米において高名な、この詩人の名前をを知ったのは大学に入ったばかり。詩的才能は皆無ですけれど、いくらかの詩人の作品に関しては耽溺してきました。オーデン氏もその一人だった。入学早々の教養科目の授業の一つで、担当者の話の中にオーデンが出てきました。いまでも、この担当者の名前も風貌もよく覚えている。下記に名を出しておいた福田陸太郎さん。詩人であり、優れた翻訳者でもあった福田さん。授業の中で、いくつかの英米詩の翻訳を、たちどころにしてくれたのを驚嘆しながら聴いていた。この横一行が、こんな縦一行に変わるのだという、文学の妙味いうか、言葉の含意の深さに、二十歳のぼくは圧倒された。そんな詩の一つが「新年の手紙」だったと思う。この教室における一場面、あるいはオーデンにについては「駄文集録」中のどこかで触れている。道新のコラム「卓上四季」に刺激され、一切の解説はしないで、田村隆一さんの「新年の手紙(その2)」を引用するだけにしておきます。それに関しても無駄な「注釈」はしません。ぼくが記憶している田村隆一さんは、何時だって赤ら顔で、酔いを周囲に振りまきながら、軽妙で洒脱な老骨・老成ぶりを漂わせていた、その温厚な姿だった。今なお、彼の神髄はぼくには杳(よう)として知れないのだ。詩に時代の悪を撃つ「衝撃力」があるのだと知ることは、ぼくには奇蹟のような出来事だった。

【卓上四季】「新年の手紙」 <元気ですか/毎年いつも君から「新年の手紙」をもらうので/こんどはぼくが出します>。田村隆一の詩「新年の手紙」はこんなふうに始まる。続くのは年賀のことばだろうか。予想は軽やかに裏切られる▼登場するのは20世紀米国の詩人オーデンの作品である。1939年9月、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が始まる。<夜のもとで、防禦(ぼうぎょ)もなく/ぼくらの世界は昏睡(こんすい)>している。否定と絶望のなか、<ある肯定の炎>を見せたい―。闇にさす一筋の光だ▼このオーデンのことばを時空を超えて田村は受け取る。<ぼくらの国の近代は/おびただしい「メッセージ」の変容の歴史 顔を変えて登場する/自己絶対化の「正しきものら」には事欠かない>。戦争を続けて破滅に至る近代日本の姿だ▼2025年が幕を開けた。気持ちも新たにこの年の夢を描き、あいさつを交わす。いつも通りの正月に、今年ならではの思考を重ねたい。戦後80年、昭和100年という大きな節目を迎えたのだから▼英国の歴史家カーの「歴史とは何か」(近藤和彦訳)にあることばを思いだす。<過去は現在の光に照らされて初めて知覚できるようになり、現在は過去の光に照らされて初めて十分に理解できる>▼謙虚に歴史と向き合い、よりよい明日を探す。そんな1年にしたい。(北海道新聞・2025/01/01)

◎ オーデン(おーでん)(Wystan Hugh Auden)(1907―1973)= イギリスに生まれ、のちアメリカに帰化した詩人。ヨーク出身。オックスフォード大学卒業。1930年代に左翼的発言と実験的詩法の開拓で知られた、いわゆる「30年代詩人」の中心的人物として、イギリス詩壇で華々しい詩作活動を示した。とくにデー・ルイス、スペンダー、マクニースらは作品の内容も詩風もオーデンに影響されるところが大きく、個人的な親近関係もあって、一括して「オーデン・グループ」の名でよばれる。イギリス時代の代表作としては『詩集』(1930)、『演説者たち』(1932)、『見よ、旅人よ』(1935)、ほかにイシャウッドとの合作になる数編の詩劇、マクニースとの合作になるアイスランド紀行詩、スペイン戦争を主題にした有名な詩編などがあり、また日中戦争当時イシャウッドとともに中国に渡って中国側から戦線とその背後に取材したルポルタージュ『戦争への旅』(1939)がある。この時期の彼の作品の根底にあるのは、病める社会への対症療法として彼が処方したマルキシズムだったが、それは思想的というより倫理的、心理的なもので、中産階級出身者としての被圧迫階級に対する後ろめたさ、良心の疼(うず)きなどとない交ぜになっている。したがって一方では、病める個人の魂の救済法としてのフロイディズム(フロイト主義)への傾倒も顕著だった。この両者間の相克あるいは調整、そして「愛」による矛盾の解決が彼の詩の主題だったといえる。技法の面では、古代英詩風の単音節語を多用し、皮肉な軽みを加えた独特なスタイルをつくりだした。第二次世界大戦中の1939年アメリカに移住してからはイギリス聖公会に帰依(きえ)し、詩風は著しく宗教的色彩を深めた。アメリカ詩壇においても大御所として君臨、とくに技法の面で若い詩人に与えた影響は大きい。その間1956年から1961年まではオックスフォード大学の詩学教授を務めた。後期のおもな作品は『新年の手紙』(1941)、『しばらくの間』(1944)、『不安の時代』(1947)、『アキレスの盾』(1955)、『クリオ賛歌』(1960)、『名づけ子への手紙』(1972)などがある。(日本大百科全書ニッポニカ)

⦿ 福田陸太郎 (ふくだ-りくたろう)(1916-2006)= 昭和-平成時代の英米文学者。大正5年2月9日生まれ。東京文理大卒業後,ソルボンヌ大で比較文学をまなぶ。東京教育大教授,共栄学園短大学長などを歴任。日本未来派に参加し,詩作もおこなった。平成18年2月4日死去。89歳。石川県出身。著作に「アメリカ現代詩序説」「比較文学の諸相」,詩集に「ある晴れた日に」など。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

⦿ 田村隆一 (たむら-りゅういち)(1923-1998)= 昭和後期-平成時代の詩人。大正12年3月18日生まれ。中学時代から詩作をはじめ,戦後鮎川信夫らと「荒地」を創刊。昭和31年「四千の日と夜」を発表。38年「言葉のない世界」で高村光太郎賞,52年「詩集1946~1976」で無限賞,60年「奴隷の歓び」で読売文学賞,平成5年「ハミングバード」で現代詩人賞。10年芸術院賞。詩論集「若い荒地」のほかに,クイーンやクリスティーなどの推理小説の翻訳もおおい。平成10年8月26日死去。75歳。東京出身。明大卒。(同前)

元気ですか
毎年いつも君から「新年の手紙」をもらうので
こんどはぼくが出します
君の「新年の手紙」はW・H・オーデンの長詩の断片を
ガリ版刷にしたもので
いつも愉しい オーデンといえば
「一九三九年九月一日」という詩がぼくは大好きで
エピローグはこうですね  
 『夜のもとで、防禦もなく
 ぼくらの世界は昏睡して横たわっている。
 だが、光のアイロニックな点は
 至るところに散在して、
 「正しきものら」がそのメッセージをかわすところを
 照しだすのだ。
 彼らとおなじくエロスと灰から成っているぼく、
 おなじ否定と絶望に
 悩まされているこのぼくにできることなら、
 見せてあげたいものだ、
 ある肯定の炎を。』
ナチス・ドイツがポーランドに侵入した夜
ニューヨークの五十二番街の安酒場のバーで
ドライ・マルチニを飲みながら
オーデンがひそかに書いた「手紙」がぼくらの手もとにとどいたときは
ぼくらの国はすっかり灰になってしまっていて
政治的な「正しきものら」のメッセージに占領されてしまったのさ
三十年代のヨーロッパの「正しきものら」は深い沈黙のなかにあったのに
ぼくらの国の近代は
おびただしい「メッセージ」の変容の歴史 顔を変えて登場する
自己絶対化の「正しきものら」には事欠かない
ぼくらには散在しているアイロニックな光りが見えないものだから
「メッセージ」の真の意味がつかめないのです
大晦日の夜は材木座光明寺の鐘を聞いてから
暗い海岸に出てみるつもりです きっとすばらしい干潮!
どこまでも沖にむかって歩いて行け!
もしかしたら
「ある肯定の炎」がぼくの瞳の光点に
見えるかもしれない
では

Defenceless under the night
  Our world in stupor lies;
  Yet, dotted everywhere,
   Ironic points of light
   Flash out wherever the Just
   Exchange their messages;
   May I, composed like them
   Of Eros and of dust,
   Beleaguered by the same
  Negation and despair,
  Show an affirming flame.(<September 1, 1939>より)

(☝ 新年を祝うシリア国民=ダマスカス/Emin Sansar/Anadolu/Getty Images)(https://www.cnn.co.jp/photo/35227804-4.html

(車両が群衆に突入し、10人が死亡したニューオーリンズ・1日未明))(https://www.bbc.com/japanese/articles/czenk31d0w2o

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ぼくたちは「戦場」に生きている

⦿ 年の初めに愚考する~ 暦が改まり、なお世界の難問は我々の眼前に屹立している。どうしてくれるかと言わぬばかり。他国を侵略して、なお権力者でありつづけられる世界の理不尽。植民地を放棄した後始末を果たさないままで、「ガザ」「シリア」の殺戮・ホロコーストは続く。その時、旧植民地宗主国の権力者は、ヌクヌクと新年を迎えているのだ。▶一年前の今日、能登半島を襲った地震は、その爪痕をそのままに、住民たちの疲弊は限りなく募っている。ここにも「為政」に与るべき人間の不在、職場放棄が起こっている。震災一年を前にした「現地報道」に接し、「棄民」という無政治が深く進行していることを悲しむ。▶この国に限って、選挙のたびに政治の劣化が国や地方で露わになっていることに一人の選挙民として、それこそ切歯扼腕の想いが激化するばかり。民主主義という言葉ではなく、人間に寄り添い、互いに支え合う、そんな「社会」がどうしてぼくたちから遠のくのか。遥かの昔、彼の国の若い大統領は「国家が自分に何をしてくれるかではなく、国家に自分は何をするのか」それが問われていると説いた。自分あっての国家であり、国家あっての自分という、平凡にすぎる課題が突き付けられている。

【金口木舌】戦後80年の初めの日に 戦火が続くウクライナやパレスチナ自治区ガザから届く悲しい知らせを聞きながら年の瀬を送った。ガザでは乳児が凍死したという。幼い命は年を越すことができなかった▼2人の戦争体験者を思い出す。1人は元学徒隊員。南部の戦場をさまよい大けがを負った級友を置いて逃げた。80代になっても、助けられなかった自分を責め続けた。「年を取って同級生が夢に出るようになった」▼両親を失った女性は「銃声が聞こえるから」とラジオを大音量で流す日々を送っていた。時を経て耳に響く銃声に女性はさいなまれていた。2人は心の中に戦場を抱え、長い戦後を送ってきたのである▼「戦後80年」の年を迎えた。時が止まった心の中の戦場と向き合い続ける体験者がいる。それなのに、この国は戦争準備に余念がない。新たな戦場へと突き進む時を一刻も早く止めなければならない▼「戦争をおこすのはたしかに人間です/しかしそれ以上に戦争を許さない努力のできるのも私たち人間ではないでしょうか」。県平和祈念資料館に掲げられた言葉に希望の光を見る。そこへ向かって、しっかり歩む年でありたい。(琉球新報。2025/01/01)

ヘッダー写真は「能登半島地震1年」(産経新聞・2024/12/29)(https://www.youtube.com/watch?v=UlMbZFsgpzo)  (左上写真は朝日新聞・2024/12/28)

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「心をこめて」という生き方の根

 本日は12月31日。「大晦日(おおみそか)」です。その昔は「大晦(おおつごもり)」といった。その連想で、ぼくは毎年のように一葉の短編「おおつごもり」を読み返さないまでも、思い出す日にしているのです。一葉に関しては、前田愛さんの懇切を極めた解説で多くのことを教えられた。一葉は都下に生まれ、幼いころから方々に移住。本郷に住んだこともある。やがて本郷西方に引っ越す。この「おおつごもり」は、文字通り「赤貧洗うがごとく」の生活に甘んじていた一葉の自伝的要素が入った小説です。明治24年12月に「文学界」に発表された。この十数年後には石川啄木が上京し、後に本郷に住み着くことになる。どこかで、一葉と啄木は出会っていたかもしれない。百三十年の後、今も同じように、貧困にあえぎながら「おおつごもり」を過ごしかねている人々がいるとは、どういうことなのでしょうか。

◎ ひぐち‐いちよう〔‐イチエフ〕【樋口一葉】[1872〜1896]小説家・歌人。東京の生まれ。本名、なつ。中島歌子に和歌を学び、半井桃水(なからいとうすい)を小説の師とした。「文学界」の同人と親交。民衆の哀歌を描き、独自の境地を示した。小説「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」など。(デジタル大辞泉)

 東京に出てきた当座、ぼくはしばしば「文学の郷」探求よろしく、本郷界隈を歩き回った経験があります。一時一葉が住んでいたのは本郷六丁目、法真寺の隣。西片はお屋敷町で、官僚や実業家、あるいは作家などの住まいが多くあった場所です。ぼくは必要があって、何度もこの地に来たことがありました。ぼくの住まいは旧本郷六丁目。法真寺は住まいの前にありました。西方町は、今でもそのまま残されているのだろうか。

 大晦日だからと特別の想い出も感想もない。ただ甦るのは何十年も前の風景であったり、人々の息遣いであったり。本日の山陽新聞コラム「明窓」、時節柄ですけれど、しみじみさせられてしまいました。こう見ると、学校の教材にもなかなかのものがあったことがわかります。ぼくは教科書に親しみを持ったことはないので、その内容はほとんど忘却の彼方になってしまいました。後年、教師稼業の真似事をしているころにも、教材研究の貴重な材料として各種の「教科書」には目を通していました。詳細は省きますが、その中には、今でも覚えているものがいくつもあります。

 「わらぐつの中の神様」もその一つ。素朴な手仕事(hand work)の内に秘められた「神意」「心意」というべきでしょうか、それがある人々には感じ取れるという話です。古いものがまったくなくなった時代、そんな時代に生きる人々は、その古いものの良さをどうして知ることができるのだろうか。柳宗悦さんたちが始めた「民芸」運動も、根っこには素朴な手作りの生活品・日常品(下手物・げてもの)の良さを発見することからだったでしょう。今では「民芸」は一種の芸術に祀られてしまったのはどうしてか。「使う人の身になって、心をこめて作ったものには、神様が入っているのとおんなじだ」。(「あらすじ」・https://www.mitsumura-tosho.co.jp/webmaga/chronicle/shogaku/h12-5nen) 

【明窓】わらぐつの中の神様 上司との雑談で、小学校の国語の教科書に載っていた話を持ち出すことがある。その度に、「よく覚えているね」と驚かれる。「なんで覚えてないんですか」とこちらも驚く。
 きつねの親子が人間の町へ出かける『手袋を買いに』、蟹(かに)の会話が独特な『やまなし』。戦争がテーマの『一つの花』…。登場人物の気持ちを掘り下げる授業を、思いの外好んでいたのだろう。中でもこの時季に思い出すのが『わらぐつの中の神様』だ。
 おみつという若い娘が、一目ぼれした雪下駄(げた)を買うため見よう見まねで、でも心を込めてわらぐつを編み、朝市へ並べた。なかなか売れなかったが、若い大工が毎日買ってくれるようになる。その理由は…というあらすじ。
 印象に残っていたのは「使う人の身になって、心をこめて作ったものには、神様が入っているのとおんなじだ」という、おみつにかけた大工の言葉。わらぐつを見たことも履いたこともなかったが腹に落ちたのは、手仕事の尊さが子ども心に分かったからだろう。その言葉に続けて大工は結婚を申し込む。「それを作った人も、神様とおんなじだ。おまんが来てくれたら、神様みたいに大事にするつもりだよ」。こんな言葉をかけられたら即、恋に落ちそうだ。
 効率偏重の時代に「心を込める」ことは減っているかもしれない。せめて大みそかのきょう、心を込めて今年一年に感謝を伝え、来る年を迎えたい。(衣)(山陽新聞・2024/12/31)

 「心をこめて」「心づくしの」などという言葉を、ぼくたちはどういう時に使うのでしょうか。あるいは使わないまでも、どういう心理状態を指しているのでしょうか。そんな漠としたことをつらつら考えてみることがなくなりました、ぼく自身。それだけぞんざい(いい加減に、投げやりなやり方で)に生きているということでしょう。あるいは「心をこめて」と、心をこめないで口先だけでいうばかりです。じつに軽佻浮薄だと、自らに恥じ入る。自分と相対する人や物に「寄り添う」「相手を慮る」「その立場になる」ということが、「言うは易く行うは難し」の典型となっているのではないかと、自らの生き方に激しく抗いたくなる。「大切に」「お大事に」などというのは、たんなる「挨拶」になっているけれど、よくよく考えてみれば、凄いことを言っていると、あらためて気づいて驚いているのです。

・大年のうち捨ててある花さまざま (岸本尚毅) 

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◎ 杉 みき子(すぎ みきこ、1930年12月25日 – )は新潟県上越市出身の児童文学作家である。に勤務しながら、地方紙新潟日報社の読者応募欄に掲載、1957年「かくまきの歌」で第7回児童文学新人賞(現・日本児童文学者協会新人賞)を受賞した。これを皮切りに、赤い鳥文学賞など数々の賞を受賞している。本職だけでなく作詞家として母校の小学校の記念像の歌と100周年歌を担当した。全国の小学校・中学校の教科書に掲載されている。小川未明文学賞選考委員。ミステリファンとしても知られ、本名でしばしばミステリ雑誌等に寄稿した。(Wikipedia)

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いつだって「花は愛惜に散る」か

 カーター元大統領の死が伝えられた。在職期間の短い大統領だったが、ぼくはその動向に大きな関心を持っていました。ジョージア州生まれで、実家の「ピーナツ工場」を経営していたが、ウォーターゲート事件でのニクソン大統領の辞任後を襲って、大統領選に出た。その当時、健在だった母親にむかって「ぼくは、これからプレジデントになる」と告げたら、「いったいどの会社の?」と訊かれたので「アメリカの、だ」と答えたという逸話がぼくにはとても面白かった。任期中の仕事は難問山積で十分に満足できるものではなかったろうが、辞職後の活動、特に「人権」問題を核とした行動に、ぼくは目を瞠(みはっ)たものでした。

(「元大統領」や「元総理大臣」がノーベル平和賞受賞というのは、奇妙ですね。「大工さんがいい家を造る」のは当たり前でしょう。政治家に平和賞なら、その反対の「ノーベル殺戮賞」があっても不思議ではない。「平和」や「安全」を願わない政治家という存在自体が「反平和」の存在だからです。「平和」というのはほんの一瞬の状態を指します。そんな儚い「価値」を追い求め続けるのが、ぼくたちに必要な政治家であってほしい)

(CNN)カーター元大統領が死去、100歳 ノーベル平和賞受賞  ジミー・カーター元米大統領が29日、南部ジョージア州の自宅で死去した。100歳だった。同氏が設立した非営利団体(NPO)「カーター・センター」が明らかにした。/カーター氏は昨年2月以降、自宅で終末期のホスピスケアを受けていた。/同氏は民主党の上院議員、ジョージア州知事を経て、1977年に第39代大統領に就任。在任中には中東和平仲介の功績を挙げる一方、米経済低迷やイランの米大使館人質事件で支持を失い、80年大統領選で共和党候補のレーガン氏に敗れた。退任後は人権外交を掲げて世界を舞台に活躍を続け、2002年にノーベル平和賞を受賞した。/ジョージ・H・W・ブッシュ元大統領が94歳で死去した後、米大統領経験者の最高齢記録を更新していた。/妻ロザリン氏は77年間に及んだ結婚生活を経て、昨年11月に亡くなった。(以下略)(CNN・2024/12/30)

*Ray Charles – Georgia On My Mind (Live)=https://www.youtube.com/watch?v=qIp9TwSEgFg

*「『Georgia on My Mind』(ジョージア・オン・マイ・マインド)は、1930年にアメリカでレコーディングされた楽曲。邦題は『我が心のジョージア』。/アメリカ南部ジョージア州をイメージして作曲された。ジャズ、ブルースのスタンダードナンバーとして多数のカバーが存在するが、1960年のレイ・チャールズ(Ray Charles)版が特に有名。/1979年にはジョージア州歌として採用され、1996年にジョージア州で開催されたアトランタ・オリンピック開会式では、レイ・チャールズ自身が出演して『Georgia on My Mind』を歌唱した」(世界の民謡・童謡 ジャズ・スタンダード:https://www.worldfolksong.com/jazz/georgia-on-my-mind.html

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 産経新聞はあまり好きではなかったし、今では嫌いな新聞の上位にあると言っておきますが、「産経抄」ばかりは愛読してきましたし、今だって。「坊主憎くても、袈裟までは憎くない」もの。石井英夫さんは早くに退職されていましたから、ぼくの記憶のなかの彼の手になる「コラム」は、もう二十年以前の昔に遡(さかのぼ)ります。当時の朝日新聞「天声人語」とともに読むのが楽しみでした。素敵なコラムに出会うと、それ一つで購読料だけの値打ちがあると思ったものでした。石井さんの必殺技だった「耳かき一杯ほどの毒」は効き目は覿面(てきめん)だったという印象がある。「花は愛惜に散る」とは何とも粋な人でしたね。ぼくには、どういうわけか、產經新聞に知人が多かった。でも残念ながら、石井さんほどの方はいなかったな。(昨日のコラム筆者に一言。石井さん存命なら「名コラムニスト」という評価は喜ばれただろうかという感想を持ちました。「35年書き続けた」という一事だけで、優れた文筆家だったことがわかろうというもの)

【産経抄】「産経抄」35年書き続けた名コラムニスト石井英夫さん逝く 『産経抄』を35年にわたり執筆した石井英夫さんは、読者からの問い合わせがあると、必ず自分で応対した。執筆中のある日、「今日の産経抄について聞きたい」と読者から卓上に電話がかかってきた。▼「今日、私何を書きましたっけ?」と返す石井さんに、読者は「今日書いたことをもう忘れるのか」。石井さんは苦笑交じりに言ったという。「明日のことを書きながら電話を受けているので、今日までの分をいったん忘れないと前へ進めないんです」▼世の中の全てのニュースは哀歓苦楽を伴う。「忘れる」は、それらの感情を引き受け、筆を執るコラムニストの重責の暗喩ではなかったか。週6日の執筆を重ねること35年、その数は1万本に上る。産経抄を小紙の顔へと育てた石井さんの訃報が届いた。91歳だった。▼何を書くにも「鳥の目、虫の目」の視座は変わらなかった。その筆は情に流されず、きれいごとに傾くことがなかった。例えば「イラク戦争に大義はあるのか」という声を、「愚論」と切り捨てた。「一体、戦争や革命に大義や正義というレッテルを張る必要があるのだろうか」と(平成16年1月29日付)。現実を冷静に見つめた人の直言である。▼昨年春、石井さんのことをこの欄で「大先輩」と書いたところ、人づてに助言をいただいた。「私だったら『先輩』と書く。読者にとって『大』は関係ないからだ」。一文字たりとも疎(おろそ)かにするなという言葉に、背筋を伸ばしたのを思い出す。▼産経抄の筆を擱(お)いたのが平成16年12月28日。20年後のいまも石井さんがコラムに潜ませた「耳かき一杯ほどの毒」を懐かしむ読者は多い。「花は愛惜に散る」をモットーにした人が、忘れ難き数多(あまた)の名文を残し静かに去った。(產經新聞・2024/12/30)

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 「薤露蒿里」などという、ぼく自身もこれまでに使ったことのない熟語(故事成語)を持ち出します。いつか使う時があろうかと思い続けてきましたが、一度だって使いたくなったことはなかった。「かいろこうり」と読む。「薤」は植物の「にら(韮)」で、「韮の葉に落ちた露」の儚さを示す。「蒿里」は死者の霊魂のあつまる中国の山をいう。いつしか、それは「墓地」を表すようになりました。出典は「古今注」で、一種の事典・辞典の類です。学生時代に(出身)大学の図書館で目にし、手にしたことがある。「古代の人々の自然界に値する認識や考え方を知る手がかりとして、また古代の文物や典章制度の研究にとって貴重な資料であり、その後の類書の編撰、古籍整理、字典、辞書の編纂などにおいて大きな影響を及ぼした」(東方書院)とされてきました。

 新聞やテレビ、あるいはネット上で、毎日のように高名な方や大きな仕事(業績)を仕上げられた方の訃報が届けられます。そのほとんどはぼくには未知・未見の方々です。しかし、活字や映像・録音を通して知るに及び、ぼく個人の判断において、こういう人が同時代におられたのだと、いたく感心させられ、考えさせられる、そんな人々の死に遭遇する。ぼく自身には、この先いくらも時間は遺されてはいませんが、一人の人間の存在(生死)を心静かに、(暫時)記憶に留め,その逝去を悼みたいという、有無定かならぬわが「仏心」に突き動かされての、「追悼の辞」のつもり。

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