

本日は「建国記念の日」だそうです。いつの日か、時代もなんにもわからない頃に、この「国」は造られたらしい。造った人は分からないが、できたのは事実ですから「建国を祈念する日」となったらしい。その昔は「紀元節」と言った。「明治5年(1872)、日本書紀の伝える神武天皇即位の日に基づいて制定された祝日で、2月11日。昭和23年(1948)廃止されたが、昭和41年(1966)から「建国記念の日」として復活し、「国民の祝日となった」天皇の御代の始まりを記す。その厳かな「祝日」に相応しいテーマかどうか、ともなく雑談です。
東京一極集中」再び進行、転入超過7万9000人…新潟県など40道府県は転出超過、若者ら流出・2024年 総務省が1月31日に発表した2024年の人口移動報告によると、47都道府県のうち、転入者数が転出者数を上回る「転入超過」(国内)は東京が7万9285人で最多だった。前年から1万1千人増え、新型コロナウイルス禍で一時は緩和された東京一極集中が再び進行。感染拡大前の水準にほぼ戻った。新潟県など40道府県は「転出超過」で就職や進学で若者らが流出している。/政府は10年余り地方創生を進めてきたものの、成果に乏しい。独自に教育環境を充実させるなどして転入者が増えている地域もある。看板政策「地方創生2・0」を掲げる石破政権の取り組みが問われそうだ。/東京の転入超過数は15〜19歳が1万4286人、20〜24歳が6万4070人と若い世代が目立つ。林芳正官房長官は記者会見で「若年層や女性の東京への転入超過が継続している。若者、女性にも選ばれる地方の実現へ施策を具体化したい」と述べた。(以下略)(新潟新聞・2025/02/10)

今から60年以上も前に「お上りさん(上京する)」になった人間からすれば、ひたすら「東京一極集中」は続いてきたともいえるでしょう。これを流行歌の歴史をたどって証明したいのですが、少しばかり時間と労力がかかるので、本日は止めておきます。「別れの一本杉」(春日八郎)は1955年でした。「リンゴ村から」(三橋美智也)は1956年。「東京だよおっかさん」は(島倉千代子)1957年。「ぼくの恋人東京へいっちっち」(「ぼくは泣いちっち」(守屋ひろし)は1959年。東京へ東京へと、「寄せ来る波も黄金なり」とばかりに、東京が人口爆発めがけて膨れ上がっていた時代。あるいは「江戸へ江戸へと草木も靡(なび)く」と、「佐渡情話」ならぬ「江戸情話」が大きな役割を果たしたのではなかったかと、ぼくは愚考している。五十年代後半、ぼくの中学時代の修学旅行は東京だった。
結果的に、ぼくは大学進学のために東京へ向かったことになるようですが、実際はもう少し事情があった。もっと世界状況を知っていたら、ぼくは北海道へ行ったかもしれないし、あるいは外国に出ていたかもしれなかった。東京に住んだのは、いわば「途中下車」だった」ともいえます。東京に憧れたというよりは、京都の狭さに嫌気がさしていたからでした。京都を出て、何処に行って何をしてもかまわないという奔放な感情がありました。しかし、そうは言いながら、東京に十年住み、やがて千葉に移住し、そこで三か所も転居を繰り返し、現在地(房総半島の不便な地)に住むようになって十年余。まるで東京へ憧れたか、流れ着いたか、どちらにしても集中の「一極」に足を取られたkとに変わりはなかった。

さて、かくも人口集中が生じている「東京とは何か」という問題。 それを読み解けば、「一極集中」は雲散霧消します、確実に。官庁や国会機能を地方に移転を、などと寝ぼけたことを政治家は言っています。そもそも「都(宮処)」とは「皇居のある地」、つまりは「天皇の住んでいる場所」を指していました。宮家(三宅・みやけ)、公(大宅家・おおやけ)のあるところですから、明治維新初期に天皇が東京(江戸)に「散歩」に出かけて、そのまま居ついたので、やがて東京は「都(京・みやこ)」になった。それ以前は東京府であり東京市だった。(1943年7月1日:東京都発足)面倒なことは言わない。要は、天皇が住む地が「都」だったし、皇族たちも都にそのままに残りました。現在の京都がそれ。だから、一極集中変革の小さな議論をいくら重ねても、あるいは実施しても無駄とは言わぬが、問題の解決にはならない。ならば、現在の「皇居」を地方に移せばいいのでないですか。それではと、「天皇」が移転はいやだ、今のところ(東京)がいいというでしょうか。(左の表は「東京都の人口推移」)

実は、明治天皇が東京に行幸(ぎょうこう・ぎょうごう)といって京都御所を外出されたのが、明治元年と明治二年でした。そしてそれ以来、東京に住むつき、京都は留守のままとなった。その証拠に京都では今なお「天皇御帰還」を待望している団体や人々がいます。それにしても、百五十年以上も留守が続いているのです。京都にいつかは戻られるかもしれないが、その際には、どこかに長居(移転)されたらどうでしょう。どこがいいとは言えませんが、山間僻地などは如何か。東北地方など、あるいは山陰地方など、候補地はいくらでもあります。ぼくの大好きだった都はるみさんは、京都出身。彼女も江戸に出てきて歌手になり、やがて歌手を辞めて、今は秋田だったかに「好きになった人」といっしょに暮しておられるという。はるみさんのいるところは何処だって「都(はるみ)」でしょ。

今からではこの国の衰退をとどめるのは不可能でしょうが、それでもやってみる価値はあると思う。「遷都」とは「都を他の地に移すこと。みやこうつり。『地方に—する』」(デジタル大辞泉)皇居を移し、宮内庁を移し、それに伴い職員や関係省庁も移転させる。ほどなく、「新都」は人口増が始まるでしょう。大坂の知事や市長は無能ですね。「大阪都構想」などと寝言を言っているけれど、そんなチャラいものではなく、「皇居を造りなはれ」。「大阪城」があるやんか。これで十分にに「江戸」に張り合えまっせ。何か、江戸時代に先祖返りやね。

天皇が住まれるところが都(宮城・皇居・御所・皇宮)だった。京都には御所があるし、奈良にもありました。いくつでも、方々に「御所」を造れば、それを境に、近辺に人は集まり、賑わいが起るでしょう。それこそ、一か所に固定ではなく、「御所」を数年ごとに方々に造営し、天皇が住まわれるといい。国体」ではないけれど、数年(代替わり)ごとの、各地方における「御所」の持ち回り、それに倣って「住めば都」という居住空間論が、新たに生まれることでしょう。
その昔、京都に天皇が住んでいたころ、他所から京都に行くことを「お上りさん」「上り」などと称していました。それが、ある時期から、東京に行くことを「のぼり」「お上りさん」というようになった。ぼくはだから、1960年代半ば頃は「お上りさん」でした。列車もすべて、「上り下り」は、東京を起点にしているのです。明治以前、関西方面は上方と呼ばれていたのに対し、江戸方面(関東)は「下る」「下らない」と称していた。それは、はじめは「都から地方へ行く」「 ( 内裏が都城の北にあったところから ) 京都の内で、南へ行く」(精選版日本国語大辞典)の説明でした。つまり、京都から離れるということだった。ぼくはいつの日か、再び「お上りさん(京都に行く)」と言われるようになるのでしょうかその前に、わが寿命が「お上りさん」になることは間違いありません。。
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