‘waged peace with love and respect’

Jimmy Carter, the 39th President of the United States, died on Sunday in his home town of Plains, Georgia. He was 100 years old./Carter had been treated for cancer and spent the last 19 months in hospice care./He lived longer than any US president in history, and his legacy extends far beyond his single term in the White House./President Joe Biden described his fellow Democrat as “a man of principle, faith and humility,” while President-elect Donald Trump said all Americans owe Carter a “debt of gratitude”./Carter was a humanitarian and a Nobel Peace Prize winner. He was a man who lived a complex and full life./So please do read some of these articles from my colleagues, which help give insight into Carter’s achievements and challenges.(BBC・https://www.bbc.com/news/live/ce98937nrqrt

(昨日、米国元大統領カーター氏の告別式がワシントンで行われた。たくさんの思い出を残して氏は100歳の人生を終えたのだった。BBCが彼の死去に際して、懇切丁寧な記事を遺した。それを読んでいて、元大統領の言動がぼくによみがえってきた。ごく当たり前の、一人の人間の振る舞いを取り続けた、「誠意の人」として、ぼくは彼のような「政治家」を知らない。The man of decency and honesty. ここでは、BBCの記事を引用して、氏の生涯に哀悼の意をささげたい。山埜聡司)

On a cold winter’s day, members of the most exclusive club gather to say goodbye The American presidency is perhaps the most exclusive club in the world. On Thursday morning, that club gathered at Washington National Cathedral to send off one of their own./It’s no small irony that the ceremony was full of the kind of presidential pomp and pageantry that Jimmy Carter shunned when he was president. But while today’s memorial service was a celebration of the 39th president, it was also a chance for the politicians, government officials and dignitaries who have run – and will carry on running – America to gather and pause to catch their breath./The outgoing president Joe Biden gave the eulogy. The once and future president Donald Trump sat behind him in the centre row of pews. The two women he defeated for the highest office – Hillary Clinton and Kamala Harris – were within arm’s reach./When it comes to the highest circles of power in America, it can be a very small world./And at least for a few hours, there were no nasty remarks. No recriminations. No partisan digs. Just a flag-draped casket, a choir and a series of solemn speeches on a cold winter’s day.(BBC:https://www.bbc.com/news/live/c5y817zzgxqt

Five of Jimmy Carter's most memorable quotes
Looking back at decades of Jimmy Carter's public life in politics and international diplomacy, the former president delivered a great many impactful speeches.
Here are five quotes from some of his key addresses, they focus on themes that are as pertinent today as they were when he first said them:
Quote Message
The test of a government is not how popular it is with the powerful and privileged few, but how honestly and fairly it deals with the many who must depend upon it."
Inaugural address as governor of Georgia, January 1971
Quote Message
Because we are free, we can never be indifferent to the fate of freedom elsewhere."
Inaugural presidential address, January 1977
Quote Message
It’s clear that the true problems of our nation are much deeper, deeper than gasoline lines or energy shortages, deeper even than inflation and recession... All the legislation in the world can’t fix what’s wrong with America... It is a crisis of confidence."
Carter's so-called “malaise” speech, July 1979
Quote Message
But we know that democracy is always an unfinished creation. Each generation must renew its foundations."
Farewell address, January 1981
Quote Message
War may sometimes be a necessary evil. But no matter how necessary, it is always an evil, never a good. We will not learn to live together in peace by killing each other’s children."
Nobel Peace Prize acceptance speech, December 2002(https://www.bbc.com/news/live/ce98937nrqrt)
Human connection Carter shared with others defined him, grandson says

A few days ago, Jason Carter, the grandson of Jimmy Carter, spoke the BBC about the "outpouring of love and support" his family has received since the former US president's death.
Jason, a lawyer and politician, says the family "almost can't walk down the street right now" without being stopped by strangers, who tell them how "they're praying for us or how much they love my grandfather".
"That human connection that he had with so many people, I think, really has defined him," he told the BBC on Monday.
Jason says his family gathered together over the New Year break and shared stories about Carter doing "all the things a grandfather would normally do".
"My stories of him are about fishing or learning from him in his woodshop," he explains. "In these last few days, we've recognised him as this global leader, but for us it's really been more personal stories that have been driving our thoughts."(BBC:https://www.bbc.com/news/live/c5y817zzgxqt)
【卓上四季】最も偉大な元大統領 <一身にして二生を経る>。封建の世と文明開化の時代を生きた福沢諭吉のことばだ。明治維新を境に、まるっきり違う二つの人生を送った▼こちらは少なくとも<一身にして三生>ではなかったか。昨年末に100歳で亡くなったジミー・カーター元米大統領だ。ジョージア州のピーナツ農家に生まれた。苦労を惜しまず、ちいさなことにも感謝する心を農作業で身につける。黒人差別に反対する母の背中を見て育った▼海軍で勤めたあと、ふるさとの家業を継ぐ。州知事を経て1977年ホワイトハウスへ。「ジミーってだれ」。全米では無名の存在だった。人種差別が激しかった深南部出身の大統領は南北戦争以来初である▼新鮮さが好感されたのは最初だけ。インフレやイランの米大使館人質事件やへの対応に苦しんだ。「弱腰」との批判を浴び、1期4年で大統領を退いた▼まだ56歳だった。失意のなか<引退を考えるには早すぎた>。どうするか。選んだのは人権と平和を守ること。94年に北朝鮮へ赴き、核危機の回避に尽くした。のちにノーベル平和賞を受賞し、「最も偉大な元大統領」と称賛される。農業、大統領を経験し、3番目の人生で輝く▼妻ロザリンさんを深く愛した。<彼女が微笑めば、小鳥たちは歌うのを忘れてしまう>。自作の詩に記した愛妻の隣で安らかに眠る。(北海道新聞・2025/01/10)

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七草粥今日をかぎりの昭和かな

 元号「昭和」が続いていたら、本年が百年目だという、ただそれだけ。これまで生きてきて、昨年九月で、ぼくは満八十歳になったという。それだけのこと。それを「目出度い」という人もいれば、何が目出度いものかと背中を向ける人もいる。いい悪いは別にして、一人の人間が百年生きてきたという事実と、一国家が「昭和」という元号を続けていたら「百年」というのは、時間の単位(一年の長さ)は同じでも、そこにはある種の計らい(偽装)があるでしょう。歴史の事実として「昭和」という元号は、大正十五年(1926年)十二月十五日に切り替わって昭和元年十二月二十五日となったときから始まり、昭和六十四年(1989年)一月七日までの間でしたから、少なくとも「昭和は64年間」だったというのが正しい。「昭和百年」などという数え方は、一種の歴史の偽造に近いとぼくは考えている。

(ヘッダー写真:モダンな建物が並ぶ大正時代の銀座通り付近。中央を走る東京市電は当時から通勤ラッシュがあったという。プレイバック「昭和100年」産経新聞・2025/1/1 09:00)(https://www.sankei.com/article/20250101-H4RYURBMONDMLE327S5DPBWF6Q/

 例えば、「紀元二千六百年」などという呼称が用いられたのは「昭和十五年」で、それは「神武天皇」が即位してからの怪しい歴史の長さをを示すものとされた。神武天皇が実在したことを誰も証明できません。だから、この国の始まりは「神話」時代という、まことに虚実曖昧な「なり立ち」ということになります。「昭和」が百年続いた(ことにする)というのも、同じような神話です。一天皇一元号と法規で定められている。昭和天皇が百年生きたという仮定の話を持ち出すのは、それなりの魂胆があるというばかりです。いまから十三年前の2012年が、「大正百年」だったが、誰も歯牙にもかけなかったでしょうし、目もくれなかった。「明治百五十年」はどうだったか。そこに大きな意義を認める者もいたでしょうが、そうしなかった人々もいたはずです。なぜ、そうなるのか?

 父親が亡くなったのは昭和六十三年十一月七日、そう位牌に書いてある。昭和元号の改元一年近く前だった。その親父から、(たぶん)ぼくは生まれてきたのだから、親父の時代が令和七年一月九日まで続いたならという、そんな歴史(時間)の捉え方はしないでしょう。父親は明治四十三年生まれだったと記憶していますから、2010年が生誕百年。でも、ぼくを含めて、家族の誰もそんな数え方はしなかった。いかにも面倒ですし、大事なのは、彼が七十八年の生涯をいかに生きて来たか、きわめて個人的な歴史のレベルで意味があるのであって、その息子と父親は別人格だと、ぼくは割り切っている。もちろん、父母の影響をいろいろな面で受けているのは否定しないが、自分の足で歩けるようになれば、ぼく個人の生き方の問題こそが問われてくるのでしょう。先祖伝来とか、~家何十代とは、いかにも底の浅い「世襲政治家」の振る舞いのようで、ぼくには理解しえない。

【射程】「昭和100年」の実像 今年は1926(昭和元)年から数えて「昭和100年」に当たる。この1世紀の間、日本全体のみならず、私たちの暮らす地域で何が起き、どのような課題を残したのか、振り返る節目となる。/特に45年の敗戦に至るまでの20年間を抜きに、今の日本は語れない。当時の熊本の出来事からもその一端を知ることができる。/例えば、38年10月に熊本市で開かれた県国防婦人大会。国防婦人会は31年の満州事変の翌年に全国で組織された。37年には日中戦争が始まっている。会場ではかっぽう着姿の女性たちが「国防の堅き礎となり、強き銃後の力となる」ことを宣言し、国と兵士のため献身的に働くことを誓った。/41年12月8日に日本が米英に宣戦布告し太平洋戦争が始まると、2日後には「米英撃滅県民大会」が熊本市で開かれている。熊日の前身である九州日日新聞の記事は「火の国の意気高らかに 殉国の熱情」といった見出しで伝えている。/いずれも多くの市民らが詰めかけたと伝えられるが、戦意高揚を企図した動員である。/日本の戦争は満州事変以降、敗戦まで15年間続いた。41年時点では既に10年以上経過している。国民は日本軍の戦果に熱狂したとも言われるが、今の私たちと同じように日々の暮らしがあったはずだ。貴重な働き手である男性を戦争に取られ、配給制度によって食料や物資も限られた中、生活を守っていくのに必死だったろう。/ただ、実情を知ろうにも当時を経験し記憶している人はごく限られる。今や人口の約9割を戦後生まれが占める。/20世紀は「戦争の世紀」とも言われた。過ちを繰り返さないためには「昭和100年」の実像を知り、いかに学び、語り継ぐか。私たちの大きな宿題である。(藤本英行)(熊本日日新聞・2025/01/09)

 いかなる数え方をするにせよ、「昭和」に改元後、百年が経過したというのは事実で、それは否定しようもありません。コラム氏が指摘される通り、大切なのは「昭和100年」の「実像」、その中身はどうだったかを見間違えないことでしょう。改元は人間に置き換えれば、入学や卒業、あるいは結婚や離婚、そんな節目の時期に当たるでしょうか。一人の人生の長さには山あり谷あり、坂道やでこぼこ道、泥濘(ぬかるみ)、舗装道路ありと、それこそ決して平坦ではなかった。そのようなさまざまな経緯を重ねて今がある。だからこそ、今を知ることに意味があるのではないでしょうか。一国・一社会も同じような道筋をたどるものです。したがって、「百年」「百五十年」を考えるのは、よりよい未来のためであり、同じ過ちを繰り返さないための「学習」の機会となるはずだからです。個人も国家も、愚かしいことを限りなくやってきた、その失敗を重ねないために、ぼくたちは過去から何を学ぶか、それこそが歴史の意味を知ることになります。過去を知ることは、未来を知ることにつながる、そういうことだと思う。古さを誇るためだけに、昭和百年を論(あげつら)うなら、残念だけれど、縄文杉の足元にも及ばない。

 「昭和百年」という区切りがを無意味だというのではありません。でも、そこには一つの現実の(生きた)歴史意識が働いているかとなると、実に曖昧になるばかりでしょう。20+80=100、その程度の意味はあろうが、それを超えることはなさそうにも見える。百年という区切りがポイントになるには、それなりの「歴史意識」が実感される必要があると思う。例えば、以下のコラム「三山春秋」に書かれているように。「42年と43年は新年を祝うはがきが届いた。その後は激戦地へ転属となり、44年の年賀状は届かぬまま、秋造さんは4月に戦没した。今年は戦後80年を迎える」とコラム氏の筆は結ばれている。同じ「戦後80年」でも、帰還を果たせなかった夫の死を忘れられないものにした、「戦争」の傷跡(爪痕)が残されたものに刻まれている限り、その「戦後(敗戦後)80年」を生きて来たものの意識が悲しみとともに息づいているのですから。

【三山春秋】▼郵便料金が値上がりしたあおりだろうか。今年は「年賀状じまい」を告げるはがきが急に増えた。費用や手間の問題だけでなく、交流サイト(SNS)でいつでもつながれることが大きいのだろう▼とはいえ年賀状をはじめ、郵便で届くぬくもりが遠ざかっては切ない。戦時中までさかのぼれば、はがき自体が最愛の人の無事を告げる重要な意味を持った。戦地から届く軍事郵便である▼1941(昭和16)年夏に前橋市から出征した代田秋造さんは2年4カ月にわたり96通ものはがきや手紙を妻に送り続けた。これを収録した『出征兵士・代田秋造から妻・房子への手紙』(上毛新聞社)が刊行された▼調査と執筆を担った群馬地域学研究所代表理事の手島仁さんによると、軍事郵便は検閲を見越し、建前しか書かれていないと考えられてきた。しかし近年の研究で部隊所在地など機密に関することを除けば検閲は最小限だったことが明らかになり、兵士の心情や価値観の記録として見直されている▼文面から夫妻はいたわり合い、写真を送って幼い子の成長を喜び、時に秋造さんが愚痴に寄り添った。人柄がにじみ、まるで居間で交わす会話そのものだ。どれほど便りを待ちこがれただろう▼42年と43年は新年を祝うはがきが届いた。その後は激戦地へ転属となり、44年の年賀状は届かぬまま、秋造さんは4月に戦没した。今年は戦後80年を迎える。(上毛新聞・2025/01/09)

 かなり前になりますが、建築家の津端修一さんの生活を追ったドキュメントを観た。その印象は、深くぼくに刻まれています。東海地方のあるところに彼の設計になる団地がつくられ、その団地を生活の場として、よりよく生かすために周囲の山にドングリの木を植樹して、住民を巻き込んだ地域づくりをされていたのだ。実名を出すのは控えるが、数日前に亡くなられた高名な建築家の設計になる「JR京都駅ビル」に、たった一度だけ、間違えたかのようにして入ったことがあります。ゆっくり時間を過ごす場所ではないと気がついて、急かされるように建物を後にしました。なんとも奇怪な建築をつくるものだな、と今もってその嫌な感じを忘れない。「竣工当時には、軍艦」とかなんとか揶揄されていた。

 この二人の建築家を比較するのではありません。時間や空間をいかに過ごし、生活するかという、出来上がった建物によって、建築家の生きる姿勢(思想)というものを深く考えるきっかけになった。時間とともに、建物以上に、その機能が劣化し、醜い骸(むくろ)状に醜態をさらす、半世紀も持続しないコンクリ-ト構造物の山を築きすぎて来たのもまた「昭和百年」だったでしょう。

 そのコンクリートの山は、決して建造物ばかりではないのは言うまでもありません。ランドマークならぬ「ヒストリーマーク」もまた、嫌になるほど、ぼくたちは見せつけられてきました。その典型は無謀な侵略戦争であったことは言うまでもありません。そのための植民地経営であったことも。

 (多くの俳人は、「昭和」をはっきりと終焉したものと意識して、そのさまざまの諷詠を遺しています)(「人日(じんじつ)」とは、「五節句の一。陰暦正月7日の称。七草粥(ななくさがゆ)を食べる風習がある。《新年》」(デジタル大辞泉)

・七草粥今日をかぎりの昭和かな(福川八重子) 
・永かりし昭和は人日にて結ぶ( 阿波野青畝) 
・鏡中に昭和果てたる床柱(桂信子)

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介錯人(黒幕)は正気だろうか

自己過信の膨張が止まらない(不吉な予感に背筋が凍り付く)

 八年前の大統領予備選に手を上げた際は「泡沫候補」と報じられた。豈図らんや白昼の奇蹟が起った(民主党の「独り相撲」だった)。率直な感想、岡目八目にすぎぬと断った上で、彼の登場は「喜劇(コミック)」だった。いち早く極東の首相が馳せ参じ、誼を結んだのは夙に知られる。つまり「類は友を呼ぶ」だ。嘘(falsehood)とはったり(bluff)を駆使し、自己肥大を謀る処世法は瓜二つ。「肝胆相照らす」仲。▶かかる不誠実が両国で流通するのも積年の「不平等安保条約」の故だったか。米国の事情はよく弁えないが、昨秋、拙宅を尋ねられた米国詩人は「トランプはよほど優れている」と断言はせずとも、ハリス氏に一顧も与えなかった。有罪確定の女性問題も「不問に付す」という意見だった。日本で活動される詩人のA.B.さんは、大統領選取材で一時帰国もされたという。「不倫」はアメリカ文化だと思いたくもないし、マチスモ(machismo)を掛け軸にしたような御仁が「権力者」になれる国の「程度」は知れると、詩人に反してぼくは判断する。▶マルクスの顰(ひそみ)に倣えば、最初は「喜劇」、二度目は「悲劇(tragedy)」だ。ぼくの中には嫌な予感が疼いている。(他国のことながら、一言寸評に及ぶ)(S.Yamano)

 (ヘッダー写真は「2024 APPRENTICE PRODUCTIONS ONTARIO INC. / PROFILE PRODUCTIONS 2 APS / TAILORED FILMS LTD」)

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【談話室】▼▽「歴史は繰り返す。まずは悲劇として、2度目は笑劇として」。思想家マルクスが著書「ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日」の冒頭に記した箴言(しんげん)である。ルイ・ボナパルトとはかの皇帝ナポレオンの甥(おい)のことだ。▼▽19世紀半ば、第2共和政のフランスで大統領に選ばれたルイ・ボナパルトはクーデターを起こし、ナポレオン3世として皇帝の地位に就く。伯父ナポレオンも同様に18世紀末、クーデターを企て玉座を手にしていた。それだけにマルクスは皮肉を込め、冒頭の物言いをした。▼▽2度目といえば近頃はトランプ氏だろう。20日、再び米大統領になる。1期目は内政、外交とも場当たり対応が目につき、閣僚や幹部が次々更迭された。関税引き上げを武器に譲歩を迫るスタイルは今も変わらない。だが2期目始動を前に、戦略が進化したとの指摘もある。▼▽大統領選期間中に「就任後24時間で終わらせる」と豪語したウクライナ戦争は開戦からもうじき3年。日本との間ではUSスチール買収禁止令が新たな争点となる。第2次政権が数々の難問への対応を過つなら、物笑いの種になるだけでない。世界がカオスに陥ってしまう。(山形新聞・2025/01/07)

【有歩道】メタのザッカーバーグ氏、アップルのクック氏、アマゾン創業者のベゾス氏…。今を時めくIT長者の相次ぐ「トランプ詣で」が話題に。わが方からも孫正義氏が巨額の対米投資を約束してきた。
 そのベゾス氏ら米IT大手企業のトップがトランプ氏に取り入る様子を皮肉った作品の掲載を拒否されたことを理由に、かのワシントン・ポスト紙の著名な風刺漫画家が辞職してしまったという。
 皮肉られたベゾス氏が現在、同紙のオーナーではあるが、ウォーターゲート事件の調査報道で大統領を辞任に追い込みもした有力紙でも何やら長い物には巻かれてしまうのか。またトラ恐るべし。(中日新聞・2025/01/07)(右は「米紙ワシントン・ポストの風刺漫画家アン・テルナエスさんがウェブサイトで公開した、ジェフ・ベゾス氏らがトランプ次期大統領にひざまずく様子を描いた作品(共同)」
 メタ、米でファクトチェック廃止 トランプ氏との関係修復念頭か [7日 ロイター] - 米メタ・プラットフォームズ(META.O), opens new tabは7日、米国で「フェイスブック」、「インスタグラム」、「スレッズ」のファクトチェックを廃止すると発表した。
マーク・ザッカーバーグ最高経営責任者(CEO)はこれまで検閲が行われているという批判を浴びつつもファクトチェックを推進してきただけに、大きな方針転換となる。20日に就任するトランプ次期米大統領との関係修復を目指していることも背景にあるとみられる。
メタは先週、渉外トップに共和党系政策幹部ジョエル・カプラン氏を昇格させ、6日には総合格闘技団体UFCのCEOでトランプ氏に近いダナ・ホワイト氏を取締役に指名すると発表した。
ザッカーバーグ氏は動画で「間違いや検閲が多すぎる状況に陥っている。表現の自由という原点に立ち返る時だ」と言明。先の選挙が自身の考えに影響したことを認め、「言論優先に回帰するという文化的な転換点のように感じる」と述べた。
今後、移民やジェンダーなど物議を醸す投稿の正確性についてはユーザーがフィードバックできる「コミュニティーノート」を導入し、自由度を高める方針とした。コミュニティーノートは、イーロン・マスク氏率いるXの投稿管理と似た機能となる。(Reuters・2025年1月8日) 

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 いよいよ「いよっ! 大統領」となる。4年前の1月6日には議会襲撃を煽り、何人かの犠牲者も出た。たくさんの有罪判決を背に受けながら、「大統領」としての再登板。ぼくは彼(自身は小心者だ)の上下か前後・左右に「黒幕(a wirepuller)」がいると邪推している。それは意外な人物だと思う。いずこの国でも「権力者」は表・裏に存在し、表は「傀儡(かいらい)」、裏は「黒幕」となるのが常だ。はたして誰だろうか。表に居ながら「裏」に徹するかもしれないし、裏に隠れながら、人形遣いよろしく、「木偶(でく)」を操るということもある。この小さな島国にとって、運命共同体という名の「属国」「服属」を強いられている以上は、彼の国の進む「覇権」への道ずれ(歩兵)にならないことを祈るのみ。数多の「犯罪行為者」が大統領になる(にする)国の行方は定めがたしだ。

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新旧入交の「松の内」の現在です

 本日は一月七日。「松の内」は今日までとか、「鏡開き」は今日するものとか、「左義長」がどうだとか、「どんと焼き」はどこでやっているか等々。そのような「正月行事」は五月雨(さみだれ)式に消えて行きました。その痕跡すら残っていないのが、今日の有様だといえばどうでしょうか。辛うじて、言葉だけが伝えられていたり、その言い伝えの真似事のような寂しい「行事」まがいが方々で、異様な形骸化を伴って行われていますが、それすらがまるで風前の灯火となっている。正月七日と言えば「七草がゆ」を食べる日と記憶されている向きもあるでしょうが、そもそも「正月」がいつなのか、もやはその歴史の痕跡も生活の足跡も定かではなくなっているのですから、これまた、新暦に合わせてチグハグは行事を執り行う羽目になるのです。

・わかなつむ手つきも見へて角田川(一茶)・七草粥に能登塩田の塩ちらす(細見綾子)・七草を打ちしづかなる命かな(井上雪)

 旧暦の明治5年12月3日が新暦の明治6年1月1日。そのために季節の時間的誤差が生じたまま、今日に及んでいるのです。新暦ではおよそ一か月ほど季節が早い。旧暦の「新春」は二月立春の頃からです。本年は二月三日(月)に当たります。ぼくはかなり前から、この「立春(新春)」を目当てに、戴いた年賀状に返信を書くことにしてきました。旧習になじんだというほどでもありませんで、年末年始が慌ただしすぎたから、窮余の一策で、まあ急場しのぎの「だしおくれ」、後出しジャンケンのようなもので、あるいは「規則違反」かもしれません。(左はローソン販売の「春の七草セット」)

 それにしても、旧正月は庶民にとっても晴れやかでもあり、忙しい時期でもあったでしょう。詳細は省きますけれど、文字通り「雪解け」が待たれて、これから農作業が始まるという出発を期す季節でもあったからです。このところ、東北地方では異常な豪雪が続いている。初めて目にしたのが「線状降雪帯」という語で、原理は「線状降水帯」と同じ、この季節にしては異常に高い海水温のために、ある地域に集中的に豪雪を齎しているのです。「除雪」「排雪」に一瞬の停滞も許されないのですから、その過酷さを思うと気が深く沈んでいく。「新春」早々に雪かきや雪下ろしとは、いかにも今日風の正月の残酷さだとぼくには見える。昨年の能登半島の地震同様に、列島の正月の悲哀を除くにはどうしたらいいのか。我にできそうにもない、そんな寝言を言い出してしまいます。

・七草のすずしろばかり七日粥(右城暮石)・七草の芹むらさきに生ふるなり(山口青邨)・七草のはじめの芹ぞめでたけれ(高野素十)

 旧正月とか「小正月」と称して、月遅れの諸行事が各地で行われています。新暦の約束通りに生活が進めば進むほど、滑稽なくらいに「時代おくれ」の生活風景が見られることにもなるのでしょう。本日は「鏡開き」といって各家庭で作った鏡餅を食する日でもありました。今では鏡餅も売り物であり、七草がゆのセットも売り物。すべてが、各自の手を煩わせないでも手に入るのですから、便利この上ないし、お気楽なりました。この便利とお気楽の代わりに「行事の意味」が失われ、歴史の断絶が進められていくのでしょう。歴史を大切に、という精神には、いろいろな働きがあります。そのいちいちをここでは述べないが、確実に「近代人」「現代人」は歴史から解放され(半面では歴史を忘れ)、過去・現在・未来という時世のなかから、過去を消してきたのです。それは同時に、未来をも失うことになるのだということです。

 国単位で、「歴史忘れ」を進めていくのですから、一個人、一国民としては抗う術もありません。いずれは国の崩壊とともに、国民も消滅するのは避けられないという運命を痛感しているのです。ぼくは嘆いているのではない。愁いでいるのでもないのです。長い目で見れば、この国は消滅する運命に思いを及ぼし、いささかの感慨を持っているだけのことです。

 大きく言うなら、少子化や高齢化に急襲されている国の将来は、「国民」が直ちに破滅するのではないでしょうが、明治時代の人口七千万人程度の国というか社会になるというのが、この先、百年ほどの将来展望でしょうか。さらにその先はどうなるか。想像はできますが、地球環境そのものの寿命の方が、今の破壊状況が続けば怪しくなりますから、人類はいつ消えるかという宿題を抱えていることになります。絶滅危惧種や絶滅種に挙げられるのは、当面は人間以外の生き物でしょうけれど、永遠に人類は例外であるはずもない、そんな埒もない夢想に落ち込む一月七日、新暦「松の内」の最終日の朝でした。

・七種の薺は鉢を溢れけり(長谷川かな女)・天暗く七種粥の煮ゆるなり(前田普羅)・百花園春の七草籠に盛り(山口青邨)

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松の内 (まつのうち)=正月の松飾をしておく期間内のこと。門松や年棚の松は年神の依代(よりしろ)と考えられるから,松飾のある間は正月の年神祭が続いていると理解することができる。その期間は土地によって必ずしも一定せず,元旦から3日まで,あるいは7日,15日前後までとする所などがあるが,一般に松の内は短くなる傾向にある。しかし,4日朝の僧侶による寺年始までには門松をとってしまうべきだとする所でも,屋内の神棚の松飾や注連(しめ)飾をはずすのはそれより後だとする所が少なくないし,また3日など比較的早い時期に門松をとる所では,その穴の跡に門松の芯の小枝をとって少し挿しておく所が珍しくないことから,3日などではなく,7日もしくはそれよりも長い期間が本来の松の内ではなかったかと思われる。取りはずした松の処理は,小正月のトンド(左義長)の火で燃やす所が多いが,正月11日などの鍬入れ儀礼(仕事始め)のときに田畑へ持っていって立てる例もある。
はる【春】 の 七草(ななくさ)=正月七日に摘んで、七草がゆに入れる七種の若菜。芹(せり)、薺(なずな)、御形(ごぎょう)、繁縷(はこべ)、仏座(ほとけのざ)、菘(すずな)、蘿蔔(すずしろ)の称。⇔秋の七草。
春の七草の語誌( 1 )秋の七草が観賞の対象であるのに対し、春の七草は七草粥の食材である。正月七日に若菜を粥に入れて食べる習慣は、延喜年間頃に始まるらしい。新春の若菜の生命力にあやかって、これを摘んだり食べたりする習俗は古来からすでにあった。
( 2 )中国、梁の宗懍の「荊楚歳時記」には正月七日、人日に、災厄を払い、不老長寿を願って、七種の菜の羹を服するという記事がある。七草粥の習俗は、この中国の行事の影響の下、日本古来の風習が淵源となって広まったものと思われる。
( 3 )七草の種類は時代や土地により一定せず、「壒嚢鈔‐一」(一四四五‐四六)には「せりなつな五形たひらく仏の座あしなみみなし是や七種」とあり、御伽草子「七草草紙」には「芹、薺、御形、たびらこ、仏の座、すずな、すずしろ」が見えるが、天明四年(一七八四)の「やしなひぐさ‐前編」には現在も知られる「せりなづな五ぎゃうはこべら仏のざ、すずなすずしろこれぞ七くさ」という歌がある。(精選版日本国語大辞典)
春の七草(はるのななくさ)=正月7日の「七草粥(がゆ)」の中に入れる7種の野草。秋の七草が観賞を目的としたものであるのに対し、春の七草では食用とされる植物が選ばれている。緑の乏しい寒中にとって食べ、邪気を払い、縁起を祝った中国の古い風習が日本にも伝えられ、春の七草になったといわれる。時代によっては12種のこともあったといわれるが、現在では、鎌倉時代の『河海抄(かかいしょう)』にみえる「芹(せり) なづな 御行(おぎょう) はくべら 仏座(ほとけのざ) すずな すずしろ これぞ七種(ななくさ)」の歌に詠み込まれている7種類が春の七草とされる。なお一般には、御行は「ごぎょう」、はくべらは「はこべら」と呼び習わされている。この七草をいまの植物名に当てはめると、芹=セリ(セリ科)、なづな=ナズナ(アブラナ科)、御行=ハハコグサ(キク科)、はくべら=ハコベ(ナデシコ科)、仏座=コオニタビラコ(キク科)、すずな=カブ(アブラナ科)、すずしろ=ダイコン(アブラナ科)となる。(日本大百科全書)
ななくさ‐がゆ【七草粥/七種粥】=1 正月7日に春の七草を入れて炊く粥。ナズナかアブラナの葉だけを用いる地方もある。《季 新年》「七日客―の残りなど/虚子」2 正月15日に米・粟あわ・稗ひえ・黍きび・麦・胡麻ごま・小豆あずきを入れて炊いた粥。のちに小豆粥となった。[類語]粥・白粥・重湯・茶粥・雑炊・おじや(デジタル大辞泉)
鏡開き(かがみびらき)=正月行事の一つ。鏡餅をこわして食する。正月に鏡餅を飾る行事はいつに始るかつまびらかでないが,室町時代にはその方式が定まった。鏡開きは,江戸時代,武家で初め正月 20日,のちに 11日を式日として,具足に供えた鏡餅を打ち欠いて食したところから始る。町家でも床の間,神棚などに供えた鏡餅を汁粉などにする風習があり,今日も続いているが,その日は 11日に限らない。あるいは旧6月1日の歯固めまで残しておき,細かく砕いてあられにして食べたりする。(ブリタニカ国際大百科事典)

・とかくして冷たうなりぬ七草粥(村上鬼城)・寝間に聞く七草打つは我家なり( 藤田耕雪)

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人波に何か淋しく初詣 (高木晴子)

【日報抄】メタボです-。昨年の人間ドックで、初めてそう告げられた。健康には多少の自信があり、自分なりに気を付けてきたつもりだ。腹の出た中年にはなりたくないと思っていただけにショックを受けた▼メタボリック症候群を放置すると動脈硬化が進み、脳卒中や心筋梗塞などの危険性が高まるとされる。今回の検査では腹囲が基準の85センチを超えたことに加え、血圧がやや高かった▼実は思い当たる節はある。しばらく続けていたジョギングはここ1年、仕事の忙しさにかまけて怠けがちだった。カロリーや糖質を気にすることもいつの間にかやめていた▼介護を受けたり寝たきりになったりせずに日常生活を送れる期間を示す「健康寿命」の大切さが指摘されている。厚生労働省の調査では、2022年の健康寿命は男性が72・57歳、女性は75・45歳。平均寿命との差、すなわち亡くなるまでの「不健康な期間」は男性8・49歳、女性11・63歳となる▼かつて筆者の周囲には「健康より原稿」とうそぶく記者がいた。体調を崩そうが原稿を出せといった意味合いで、半分は冗談だが半分は本気だったように思う。働き方改革が叫ばれる今はもちろん、そんなことはない。「原稿より健康」が当たり前になっている▼きょうが仕事始めの人も多い。思えば人生、健康より大事なものはない。健康のためなら死んでもいい…これは全くの冗談だが、それくらい強い意志で取り組んでもよい。目指すは将来のピンピンコロリ。皆さんも健やかな1年を。(新潟日報・2025/01/06)

 コラム氏は何歳かぼくは知りませんが、身体の拡幅を気にしているのは、この老人も同じです。理由は明らかで、昨夏の異常な高温続きで、ぼくは庭仕事をほとんど放棄したまま、室内に籠りきりだったからです。そのためか、敷地の内外は草木で荒れ放題に近い。加えて、運動不足が長く続いたためにウェスト85センチ、そこまではいかないが80センチを超えたかもしれません。測るのが恐ろしい。町役場の「健康調査」に悪態はつきましたが、健康状態の自己管理にはいささかルーズになっているという自覚はあります。「健康寿命」か「不健康余命」かは知りませんけれど、とにかく「メタボリック」症候群の網の目から抜け出すべく、寒風を避けながらの「徘徊」を心掛けたいと思っています。もちろん、もう一つの「俳諧」にも、少しは精進をしたい。かといって、「人生百年時代」をぼくは望んでもいないし、歓迎などもしてはいない。自分で立って歩く、それが健康寿命。それがかなわなくなれば、天寿が尽きたのだと思っている。

*表題句の高木晴子さん(1915~2000)、虚子の五女。高浜年尾、星野立子の妹。今日、ただ今のぼくの心境に即するなら。「人波に何が淋しく初詣」と詠んでみたい。まさに「禁句」ですね。

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 元日に来た娘親子は三日に帰っていった。その帰路の途中、隣町にある笠森観音(ヘッダー写真)に立ち寄るといっていた。連れ合いも同道するつもりだったようだが、小生に来客があるというので、家にいることにしたらしい。来客を迎えに土気駅まで行き、帰宅したら連れ合いが残っていたので驚いた。なぜか、笠森観音は、彼女の母の贔屓筋だったからだ。結婚して以来、どれくらい「初詣」にお参りしたことか。ぼくは運転役だったが、それにしても半世紀以上前の笠森観音の正月風景は圧巻だった。どうしてだか、初詣の人波を「善男善女」という。ぼくたちもその中に入っていたのだろう。お寺の前には植木市や屋台が出て、それこそ当時の寺の「権勢」というか「御利益」というか、その威力を誇示していたものです。半世紀を経過した今、出かけてみないので詳細は分からないけれど、報道で知る限りは「閑散」というほどの淋しさである。何でもかんでも「神頼み」では埒があかないことを、庶民は見抜いたのかもしれません。

 「三が日」で一年分の「お賽銭」が入ろうというもので、たくさんの計算係が何日もかけてその金額を計上するというのですから、寺も社も「金儲け」が本業だということかもしれません。ぼくは偏屈で臍曲がりだから、めったにお賽銭は出さない。寺社には出かけるが、建物や付属の彫り物を見ることにしているし、第一、混雑・雑踏には混ざらないことを掟にしているのです。笠森観音に芭蕉の句がある。立派な句碑が建てられて、その仰々しさは俳句の「わび・さび」にはおよそ似合わないのが、贔屓の引き倒しを感じさせられて、なんだかもの哀しいと、この碑に限らず、至る所にある「碑々」を恨めしく思う。「五月雨に此笠森をさしもぐさ」(芭蕉)ところが、確かに芭蕉がこの寺を訪れたという記録は残されていないのだから、句碑を立てた魂胆は何だったのか。それを調べるだけの興味は、ぼくにはない。墓など要らぬと考える人間にとって、狭い列島の隅々にまで林立、いや乱立している「石碑の傍若無人」振りの目障りな殺風景は何とかならないかと、本当に心ない後世人の仕業に、ぼくはウンザリしているし、爽やかを求めない「有名人」が多すぎると嘆いている。

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⦿ 笠森寺(かさもりじ)=千葉県長生郡長南町にある天台宗の別格大本山。大悲山楠光院(だいひざんなんこういん)笠森寺と号し、笠森観音(かんのん)として親しまれている。坂東(ばんどう)三十三所第31番札所。寺伝によると、784年(延暦3)に伝教(でんぎょう)大師(最澄(さいちょう))がクスの霊木で十一面観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)を彫刻して安置したのが開基で、楠光院という院号もこれに由来する。1028年(長元1)に後一条(ごいちじょう)天皇の勅願により日本唯一の四方懸造(かけづくり)の現本堂(観音堂、国重要文化財)が建立され、落慶のとき「法東山」の山号を勅賜され、勅願寺となった。近年まで山内に7か坊が存在し、一山をなしていた。十一面観音は秘伝で丑(うし)年と午(うま)年に開帳される。寺宝の鋳銅唐草文釣灯籠(からくさもんつりどうろう)は国重要文化財。山門手前に芭蕉(ばしょう)の句碑がある。(日本大百科全書ニッポニカ)

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「徒然に日常」(617~632)

〇2025/01/05(日)午前中に灯油(18㍑×2)と食材などの買い物のために茂原まで。スーパーなどは、まったくの普段通り。どこにも「正月気分」は見られなかった。時代が流れていることをはっきりと感じた。「松の内」であるにもかかわらず、である。(623)

〇2025/01/04(土)昼前に茂原まで買い物に。穏やかな一日だった。▶夕食後、7時過ぎころに大阪のS君から電話。12月に池袋で同窓会をしたが、その後、当日参加できなかった人も含めて、日を改めて拙宅で集まりたいが都合はどうかとのことだった。日程は2月15日(土)、誰が出席するかは未定だが、日程と当方の都合を伺いたいということだった。わざわざ、忙しい折に来て下さるのだから、小生に否やはないと返答しておいた。(622)

〇2025/01/03(金)お昼前に横浜組は帰路に。途中、笠森観音に寄るといって出かけた。▶昼過ぎにF君を迎えに土気駅に。その足で拙宅に来てもらう。JR外房線の誉田駅前施設に入っておられる祖母上は健康だという。100歳を超えたと聞いている。いろいろと積もる話もあり、夕方五時前まで話し込んだ。途中、北海道のT君、F君、青梅のIさんとのライン電話。T君(川越市)・O君(飯田市)たちは参加できなかった。五時過ぎの電車に間に合うように、土気駅まで送る。▶終日、はっきりしない天気。時には小雨も降った。(621)

〇2025/01/02(木)午前中は陽射しがあったが、午後からは薄曇りのはっきりしない天気となった。▶娘親子と連れ合いは九十九里海岸方面に出かけた。もう一泊するという。家人以外が同じ屋根に、外町がけでいるというのは、猫たちには初めての経験。なかなかびくびく者で、落ち着かないで屋外で夜を過ごすのも出てきたようだ。普段見慣れていない人には、まったくの臆病というのか、なつかないこと夥しいのは、猫の習性だけのことだろうか。(620)

〇2025/01/01(水)O氏からメール年賀。彼女には「人権問題」を考える授業では大変なお世話になった。数年前に「脳梗塞」に襲われたということだったが、思いのほか、元気な様子で、一安心している。近代文学研究(ことに田山花袋、女性文学者・作家たちの業績に関して)では大きな仕事をされた方。この先もなお、健康で過ごされることを願っている。▶京都の兄の息子(京都芸大教員)からメール年賀。前回のメールで依頼していた京都・桂の姉の病気と兄の面会の件、その姉の「入院」のことなどが書かれていた。▶横浜の娘親子が来宅。元気な様子に一安心している。▶たくさんの友人知人から年賀はがきが届いた。そのなかで、同級生のIさんが亡くなられたとあった。長くバスケットボールで活躍された友人で、晩年には大病をされていたことは知っている。深く哀悼の意を表しておきます(619)

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〇2024/12/31(火)大晦日。終日自宅に。かなり気温が低くなっている。このところでは最も寒い日だったかもしれない。宣長さんの「うひ山踏み」を少し読む。もう一度、ゆっくりと読んでみたい。なかなかに面倒な学問論の初歩が述べられているが、それは今日の「日本主義」「国学」に正しくつながっているのだろうか。大いなる疑問なしとしない。▶韓国の大統領に対して「逮捕令」が出されたという。内乱罪の嫌疑を受けて、当局の呼び出しを三度まで拒否した結果の「逮捕・拘束」だ。展開がどうなるか、見もの。(618)

〇2024/12/30(月)昼前に買い物。灯油2缶(36㍑)、猫のドライフードなどなど。さすがに晦日前、普段よりは人出が多かった。天候(気温)は寒くも暖かくもない一日だったようだ。▶韓国の飛行機事故は大惨事となった。まだ原因は特定されていないけれど、200人近くの犠牲者。夢にも思わなかったであろう事故の犠牲者に深く哀悼の気持ちを捧げたい。▶自民党の参議院議員A氏がモルディブで「水難事故死」との報道が数日前に出た。各紙とも詳細は書いていなかったので、不審に思っていた。海難事故や水難事故などと報じはしても、その経緯も一切知らされなかったが、結局はシュノーケリング中の溺死と続報。国政とは無関係であると、報道各社は知っていただろうに。亡くなったのは27日、国会の閉会日だった。何のための海外旅行だったか。死んだからと、これを不問にはできないのではないか。それにしてもメディアの姿勢も、相変わらずなっていないと思う。「死者に鞭打つ」べきだとは言わぬが、報道の姿勢が根っこから、事実をはっきりと伝えようとはしていないのだから、これもまたフザケタ話。(617)

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ぼくは「お為ごかし」は御免被る

⦿ 週初に愚考する(五拾弐)~  旧臘半ば、奇怪かつ不愉快な経験をした。突然、地区の民生委員が来宅し、「安否確認にきました」という。当方の、である。三か月ほど前に役場から「高齢者健康アンケート調査」みたいなものが届いていたが、放置しておいた。そこには「医者にかかった形跡も、介護保険の申請もない」住民の調査だと書かれていた。ぼくはいかなるアンケート類にも一切反応しない人間だ。自分を数字の一部に潜ませたくないからだ。アンケートに無解答なので、「安否確認」という。行政の仕事の間抜けぶり、とぼくは腹が立った。▶民生委員には申し訳ないが、「訪問の理由」が説明できなかった。役場から頼まれたので来たという。まるで落語に出てくる「サダ公」のようなお使い番だった。仕事中だからと、「役場に戻って、再確認してほしい」とお帰り願った。その直後に役場の担当者に電話し、アンケート実施の経緯を尋ねた。

 調査対象は350人ほど。その中で、医者にかからず、介護保険申請もしない、アンケートに無回答の高齢者(小生も入っている)は6人だったという。アンケートの設問には「正しく食事をしているか」「摂食障害はないか」などから、「トイレの始末は一人でできるか」「近所を徘徊しないか」等々、まるで、「物忘れ外来」医者の問診だった。つまりは、ありがたいことに「認知症」を心配して(疑って)の調査であり、訪問だったのだ。▶三か月も音沙汰(返信)ないままで、民生委員を使っての訪問の理由が、ぼくにはわからなかった。行政の仕事の一環であることは理解するが、医者にかからず介護の要もないのは、ごく当たり前に考えれば「認知症」でも「病人」でもなかろう。ぼくは「自己診断では健康だ」と思っている。「どうして医者にかからないか」「健康診断は受けているか」と担当者が訊くので、「なぜ、応える必要があるのか」と応じた。もちろん、重い病気や認知症でアンケートに答えられない人間もいるかもしれない。しかしそれなら、対象者はわずか6人だというのだから、なぜ電話なり直接訪問なりを職員がしないのか、それが、ものごとの順序ではないか説明した。「個々の住民の顔(事情)が伺える行政」、それそが大事じゃないか、と。(これは「説教」ではなく、率直な「意見」です)。

 人口6千人強の小さな町。しばしば所用で役場に行くが、行くたびに人口減だけが目に付く。この十年で千人以上の減少だ。ぼくは町の行政に口出しをするつもりはない。しかし、おかしいことや間違っているんじゃないかという事柄については、はっきりとモノ(これを近時は「クレーム(claim)」と捉え、「文句」とか「苦情」や「異議」と、否定的に解する)を言う。市民税や介護保険料を真面目に納付している。そんなデータには目もくれないで「お尻は自分で拭けるか」という調査に返事がないから「安否不明」だと即断する馬鹿さ加減。間が抜けている。いちいち行政に健康状態を報告する義務もない。仮に「健康を害している」と報告したら、何をしてくれるか。▶電話で対応してくれたTさんという職員は「保健師」だという。話の途中で「健康ですか、血圧はどれくらいですか」と、真顔(だったと思う)で質問された。つまりは、その人は「義務意識と責任感」の塊(かたまり)のようで、自分の善意(視野狭窄気味)を信じて疑わないのだ。「手前勝手な善意(真面目)の押し売りは怖い」というのは、わが拙劣な経験からの戒めだ。

(*御為ごかし=表面は人のためにするように見せかけて、実は自分の利益を図ること。じょうずごかし。「—の親切」「—を言う」(デジタル大辞泉)「親切の押し売り」というのもあります。ぼくは、はっきりと御免(ごめん)被(こうむ)りますね。その昔「小さな親切運動」という社会奉仕活動を唱えた高名な物理学者で、学術会議議長もやられた御仁がいました。今もその運動は続いています。ぼくは「小さな親切・大きな迷惑」と思ってきました。「世話を焼く」なら、最後まで。それができないなら、結果的には「二階に挙げてはしごを外す」ようなものだと思う。くれぐれも「お為ごかし」は御免被りますな。

・憂ひなきがごとくありけり春の昼 (安住敦)   ・この部屋に何用だつけ春の昼(渡辺善夫)                                                                  

【金口木舌】年末年始の疲れためない 暦通りなら9連休となった年末年始。家族とゆっくりしたり、久しぶりに友人や親戚らと語り合ったりできたという人は多いだろう。気になるのは飲酒の機会が増えること▼介護を受けたり寝たきりになったりせずに日常生活を送れる期間「健康寿命」で、沖縄県民の低下が著しい。厚生労働省の調査によると、2022年は男性が71.62歳で都道府県別45位。女性は74.33歳で46位。女性は3年前に比べ1.18歳も短くなった▼高齢者健康指標を研究する栗盛須雅子さんはさまざまなデータから沖縄の健康状況を分析。県民の平均寿命の男女差が大きいことについて「悪い方に引っ張られる。男女の健康は一体。格差を縮める必要がある」と警鐘を鳴らす▼今帰仁村をはじめ各地の自治体で高齢者を追跡調査した結果から「主観的健康観が高い人は長生きする」という。健康に関する正しい情報を収集し、活用する能力「ヘルスリテラシー」を高めることが大切だ▼連休もきょうで終わり。「たまには飲み過ぎ、不摂生も仕方ない」は禁物だ。遊び疲れ、飲み疲れを上手にリセットして、仕事始めに向かいたい。(琉球新報・2025/01/05)
【明窓】1日1回笑いを 新しい年を迎えて三が日が過ぎたが、「初笑い」はあっただろうか。帰省した古里で家族たちと和やかなひとときを楽しんだり、久しぶりに会った同級生と懐かしい話や近況に花を咲かせたり。「爆笑」の文字が躍る新春番組で腹を抱えた人もいるだろう。/「笑い」は緊張を解きほぐし、人と人の潤滑油になる。1人で笑うのもストレス解消にもってこいだ。医学的にも自然治癒力を高めるなどとして注目され、笑うことで病気予防や治療効果を上げようという取り組みも行われている。/山形大医学部は以前、笑う頻度と死亡や病気のリスクを分析。ほとんど笑わない人は、よく笑う人に比べて死亡リスクが約2倍だったという。/この研究結果を踏まえ、山形県では昨年7月、議員提案により「県笑いで健康づくり推進条例」が制定された。全国的に珍しく、「1日1回は笑うなど、笑いによる心身の健康づくりに取り組むよう努める」のが「県民の役割」。事業者には「笑いに満ちた職場環境の整備」が求められている。わが身を振り返ると、大笑いは達成するのが難しそうだ。/気持ちが張り詰めていたり、焦ったりしていると、つい表情が険しくなってしまう。そんな時、笑って気分転換することは大切だ。心地よい笑いは動き出すエネルギーになる。<笑いのない一日は、無駄な一日だ>。原稿を打つ手を止め、喜劇王チャップリンの言葉をかみしめる。(彦)(山陰中央新報・2025/01/04)(引用者による改行あり)

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