
本日(01/13)は「成人の日」だそうだ。迂闊にもすっかり忘れていた、いや、まだそんな「晴れの日」があったのかと驚いたのです。かなり前までは一月十五日と定められていた。今から六十年前の一月十五日、ぼくにも「成人の日」があったのだが、その日に、ことさら特別に振る舞った記憶はない。ぼくには晴れ着も何もなかった。ただ、学校は休みだったと思う。これもまた、12月31日の翌日は1月1日に変わる、ただそれだけのことだった。そこに新年・新春という切り替え(節目)を設けることで、生活や日常にメリハリをつけたのではなかったか。法律的には「おとなになったことを自覚し,みずから生き抜こうとする青年を祝い,励ます趣旨で,1948年に設けられた」とあります。「おとな」「自覚」「生き抜こう」という、大変な課題が「青年」に課されたのだ。それは表向き、本当のところは「晴れ着屋(貸衣装屋さん)」のかき入れ日」ではないかと思うくらいに、晴れ着が宙に舞っている、そんな日だと思う。
ところが、この「成人の日」(正確には「成人」になる青年を祝い励ます日)が政治(家)の都合でくるくる変わるのはどうしてだか。「節目」という舞台が右に左に動いていては落ち着かない。いかにも「成人の日」が軽々しく扱われている気がする。晴れ着に身を窶(やつ)して、旧友と楽しく語り合い、そのついでに行政のつまらぬ「挨拶」の責め苦に遭う日、そんな程度でしかないと、ぼくは思っている。「成人」とは何ですか、あらためて問われると返事に困るか。19歳と20歳の年齢での一日違いで、当人には何が起こるのか。面倒は省く。社会には「成年」と「未成年」しかいないのは事実だとしても、その肝心の「成人」観が日替わりのように恣意的に変えられるという、そのことに「個人」への尊敬心が希薄か、皆無であることを見て取ることもできる。つまるところは、世間の「約束事」でしかないのだし、それをとやかく言うのは野暮ということかもしれません。

「卓上四季」の記者氏は、敗戦後の「社会」科(新設科目)教科書だった「民主主義」を推奨している。ぼくは何度読んだか知れないが、そしてその著者と思われていた人の話も聞いたが、それは教科書である限りは「字に書いた文章」に過ぎません。民主主義をどうとらえるかは簡単ではないが、少なくとも、「表現の自由」の尊重がベースになければ、何事も始まらない(政治の)原理であり、社会の基盤になるものだ。と言ってみて、さて、この社会には「表現の自由」は十分に尊重されてきたか、尊重されているか、その一点に限ってみても、悲しいかな、それは「危殆」に瀕していると言わざるを得ない。第一、「卓上四季」を誇っている北海道新聞は、この「表現の自由」に関して何事かを言えるのか。いやもっと言うなら、「お前が言うか」と、そっくり返したくなるのだ。「ヤジと民主主義」という事件が大きな話題になった際にも、この新聞社の姿勢は問われたのだった。権力の非業に対しては黙して語らず、それは道新だけの問題ではない。「成人」的ではないね。
【卓上四季】「民主主義」を読み解く 軍国主義から民主主義へ。敗戦を境にした価値観の大転換を象徴するのが教科書の墨塗りだろう。命じたのは文部省だ▼天皇制国家への奉仕を求めた教育勅語の旗振り役が一転して平和国家建設を宣言し、1948年から49年にかけて中高生向け教科書「民主主義」を出した。元日の本紙社説で一部を紹介した▼角川ソフィア文庫の全文復刻版は全17章、443ページに及ぶ。「これからの日本にとっては、民主主義になりきる以外に、国として立ってゆく道はない」とつづった序文に始まり、民主主義が揺らぐ現代世界に生きる私たちに実に多くの示唆を与えてくれる▼独裁者が選挙により生まれる危険もあることを認め、独裁を阻止するために政治に関心を持ち、言論の自由を保障し、少数意見を尊重することの大切さを説く。偽情報を見抜くために報道の出所や背景を考える「科学的考察」を勧めた▼今ならSNS上のフェイクニュースを見極める情報リテラシー(知識や判断力)を磨けということか。ただ文庫本解説を執筆した神戸女学院大名誉教授の内田樹(たつる)さんは、記述内容の背後には日本の民主化を急いでいた連合国軍総司令部(GHQ)の影響が見え隠れすると指摘した▼そう読み解くのにもリテラシーが要る。きょうは成人の日。晴れの日を迎えた若い有権者に薦めたい一冊である。(北海道新聞・2025/01/13)

新聞の危機・終焉の始まりが言われているのは、当事者の自覚の有無にかかわらず、「表現の自由」を自らが放棄しているという現実(その半面では、自己検閲・自粛報道に邁進している)をぼくたちは目の当たりにするからだ。書くべきことを書いたがために、表現の自由を奪われた記者は何処にもいる。実例を挙げるにも事欠かない。当たり障りのないことには多弁・雄弁だけれど、肝腎かなめの問題には「沈黙は金」を決め込む。それを棚に上げて、「成人であることを自覚せよ」と。ちゃんちゃら可笑しいというばかりである。
<Piano Rock – Let It Be (The Beatles)by Glaucio Cristelo>(https://www.youtube.com/watch?v=i5yRUBMDeXE)
この「成人の日」を行政が「祝う」のはなぜか。個々人に任せればいいではないかとぼくは想う。そうはいかないところに、コラム氏も書いているように「民主主義」の出番があり、その基礎は「選挙」である。ならば、新成人に付される「選挙権」を「ぜひ私に」行使してくださいと願うのは行政の長。「成人式式典」は、その程度の「事前運動」じゃなかったか。つまらないけれど、それが大きな理由だろうと思う。集団で、まとめて祝うというのも大雑把な話。個人個人(の権利)を大切にする、それこそが「民主主義」の根幹だと思うが、どうだろうか。「きょうは成人の日。晴れの日を迎えた若い有権者」とコラム氏は書いている。誰もが成人になることが「晴れの日」でもあるまい。「おめでとう」という語も、個人に対しこそ意味があるのだといいたい。

◉ 成人の日(せいじんのひ)= 国民の祝日に関する法律に定められている国民の祝日の一つ。おとなになったことを自覚し,みずから生き抜こうとする青年を祝い,励ます趣旨で,1948年に設けられた。当初 1月15日であったが,2000年から 1月の第2月曜日に変更された。また,対象年齢も 2022年4月の民法改正により,2023年以降は 20歳から 18歳に引き下げられた。成年式や成年の祝いは古くからあり,貴族,武人の間では,男子は 11~16歳で元服の式を行ない,安土桃山時代から庶民の間では前髪を剃るようになった。女子は江戸時代になってから 12~16歳で袖留(そでどめ)を行なった。現在,成人の日は自治体などが主催して式典を営む。(ブリタニカ国際大百科事典)
ある辞書によれば「成長して一人前になった人」を大人(成人)という。「子どもの対語」「大人200円、子供100円などともいう」一人前になれなかった大人はいないか。「一人前」とはどういう基準で測られるのか。それにはいろいろとあるのがこの社会。面倒だから指摘しないが、簡素化すれば「自分の頭に留まったハエを自らが追える者」、あるいは「米俵(60㌔)を担げる者」などと言ったらしい。とすれば、その昔は「半人前」も存在していて、いろいろな差別や抑圧もあったのだろう。だから「年齢」が基準になったわけでしょう。

本当はもっと大事な歴史もあるのだが、今は省略する。もっとも自分流にいうなら「自分の足で立って歩ける者」と言いたい。つまりは「他人に頼らないで」「自分の頭で考え(判断し)て」生活することができる、それが「大人」の資格?。しかし、よくよく考えてみれば、ぼくたちはきっと誰かれの世話になり、迷惑をかけており、知らないままで助けられて生きている。だから、自分がそのような社会(相身互い身)の一員であることを自覚できる人、それが「大人」なのかもしれない。それなら、わざわざ、どこかに集まって、大勢で「式典」をする必要もあるまいに。(本当は皇室の「成年式」の庶民版でしたね)(右写真・横浜市は横浜アリーナで「成人を祝う会」をすることになっているらしい。醜悪の限りだと、ぼくには映ります)






























