「風邪は万病の元」と言われます

 毎年、この季節になると「花粉症」に罹患し、大いに不快な時間を過ごす羽目になる。四十歳ころまで、花粉症になったという自覚はなかったし、それで悩まされたことはありませんでした。恐らく、千葉県に越してきてかなり経ってから花粉症の症状が出てきたように覚えています。でも、その治療のために医者にかかったことは一度もない。理由は単純、今の医療で花粉症が収まることはないと思うからです。年々歳々、花粉症の研究が詳しくなり、その医学的な対策(治療法)が進化しているように見られるのに、かえって、花粉症に罹患する人が多くなり、花粉症対策の療法が追い付いていないという状況判断から、ぼくは医者にはかからないと、今の段階では決めています。花粉症はある種のアレルギー反応であり、別の観点では「感染症」的でもあるでしょう。花粉症のメカニズムがわかり、その治療法が確立すれば、大きな前進を医学は果たしたことになるでしょうが、それは先のこと、おそらく身体のメカニズムが解明され、タンパク質等の働きが突き止められた暁のこと、夜明けははるかに遠い、ですね。

 このところ、必ず2月から3月ころまで、いわゆる花粉症に罹(かか)ります。嚏(くしゃみ)・鼻水・鼻づまり、それに目の痒みや痛みなどなど、主な症状はその程度ですが、その症状も年によって差があるのでしょうか。今年は特に激しい、酷いという、例年との比較は、ぼくの場合はうまくできていない。それは毎年のこと、ある種の季節症状であって、時季が過ぎれば収まるのですから、何とかしなければということにもならないのは、あるいはさいわいなこととぼくは考えている。もちろん、その重・軽症程度は人によりけりで、大いに悩まされ、日常生活に支障をきたす人もおられるでしょう。毎年、この季節になると、おそらく「花粉症」について駄文を書き下しているはずですから、今回もあまりそれに触れることはしません。

 ただ、花粉症がこの社会で問題にされたのは1960年台以降のこと、それ以前は多くの症例報告はないとされていました。コラム「小社会」にあるようにアメリカの「ブタクサ」花粉症は、近年、日本でも(秋に)見られますから、スギやヒノキが主たる原因とは言い難くなってきました。さらに多くの植物の花粉によって引き起こされていることも報告されています。幸か不幸か、拙宅はスギとヒノキの林に囲まれていますし、庭の方々にはブタクサなどの野草も生い茂っています(秋口)。花粉症を引き起こすには最良の環境だと言えますね。しかし、連れ合いは花粉症の症状を見せることは今のところはない。あるいはあるのかもしれませんが、本人には自覚がないだけかもしれない。

 その連れ合いは、昨日近くの病院(整形外科)で診察を受け、首や肩などの激しい痛みの「原因」がわかりました。検査の結果、「血中CRP(C反応性蛋白)濃度」が異常に高いことが判明したのです。「CRPとはC-リアクティブプロテインというたんぱく質で、体内で炎症が起きたり組織細胞に障害が起こるとこのたんぱく質が増えていきます」((https://www.dock-tokyo.jp/)このCRPが活性化すると、いろいろな疾患の原因(引き金)になるとされていますが、検査の結果だけでは、どういう疾患や感染症なのかはわからないので、その後の追跡検査や継続観察(診察も)が必要とされています。差し当たっては鎮痛剤を服用し、それで治まれば、第一段階の治療は終わりだと言われた(が、納得することはできませんでした)。

 「CRPの検査値をみてもどの臓器に異常が起こっているかという診断はつきません。炎症状態の経過を見るには重要な検査値です。検査値が非常に高い場合は結核などの慢性感染症、関節リウマチなどの膠原病、心筋梗塞、肝硬変、悪性腫瘍などで、軽度の上昇はウイルス感染症、内分泌疾患などが考えられます」(https://www.dock-tokyo.jp/)

 昨日の病院では「痛み止め(鎮痛剤)」を処方された。風邪の初期症状などにも使われている薬の仲間です(三共製薬)。つまりはある種のウィルスによる感染症かもしれないという診断なのかもしれません。その医者(この病院の院長)はほとんど「診断」についての説明はしなかった。その姿勢は驚くべきことだったと言いたい。たぶん、駆け込む診療科が間違っていたからだったかもしれない。むしろ、「内科」へ行くべきだったろう。(最初に通ったのが整骨院だったから、その医師の勧めもあって整形外科にしたのだったが)昨日診察を受けた病院の内科にも連れ合いはかかっていたことがある。担当医師は、別の大きな病院勤務でもあり、そこに移っての治療は続いたが、いつ果てるとも知れない通院に思われたので、途中でいかなくなった。ともかく、昨日処方された薬で痛みが鎮静すればよし?ということだった。(数日間様子を見てから、どうするかを判断したい)

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 昔から、「風邪は万病のもと」と言いました。文字通りに、風邪も一種の感染症であり、体力の衰えているときには、感染症状がひどくなり、それによって隠れていた症状(病気)が顕在するということがあります。ちょっとした風邪が引き金になって、大きな病が明かされるのでしょう。「風邪は百病の長」とか、「風邪は百病の元」などともいわれてきました。連れ合いの通院によって、ぼくは図らずも、この「諺(ことわざ)」を思い出していました。体力の衰えや、消耗を放置しておけば、さまざまな症状が身体に出現する。たぶん、いろいろな種類の特定タンパク質が体内で分泌し、それによって大切な「細胞」などが壊されることになるからでしょう。風邪の引き起こすメカニズムを解明することができれば、医学における画期的な進歩が達成されると思う。特定のたんぱく質の分泌とその原因等が明らかにされれば、かなりの病気(疾患)の治療に有効な成果を上げられるはずだからです。

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【いばらき春秋】急ぎ足というより駆け足だろう。つい先日、新年を祝ったばかりなのに、2月が終わり、あしたから3月。「一月往(い)ぬる二月逃げる三月去る」とはよく言ったもので、月の頭文字に掛けた名調子の通り、どんどん過ぎていく▼28日しかないのだから「逃げ月」は当たり前。と思っていたら、このことわざは2月だけが短くなかった旧暦当時にあったとの説も。いずれにしろ、目まぐるしい▼ここ数日は、自分こそ逃げ出したいと思っている人も多いのでは。ぽかぽか陽気となり、スギ花粉の飛散が一気に本格化。社会面の右下にある「きょうの花粉情報」の丸顔は、県内は「少ない」と毎日にこにこ笑っていたのに一変、「多い」と泣き出しそうな顔になってしまった▼来月のピークを前に今季は「過去最凶」とも聞く。気象情報会社によると、飛散量は各地で例年よりも多く、県内は最大2倍と予測する▼そんな中で近年注目されるのが避暑地ならぬ「避粉地」。北海道や沖縄県のほか、海辺や離島はスギ林がなく、花粉症が和らぐとして、新たな旅行スタイルの提案や企業誘致に力を入れる▼国民病といわれる中、少しでも花粉に悩まされず春を楽しみたい。人々の思いをよそにきょうで2月が逃げる。(拓)(茨城新聞・2025/02/28)

【小社会】あの季節へ 日本テニス界の黎明(れいめい)期を築いた選手に熊谷一弥(1890~1968年)がいる。20年、アントワープ(ベルギー)五輪で銀メダルを獲得。日本人初の五輪メダリストとなった。▼熊谷の実力はそれで十分証明されているが、翌年の国別対抗戦デビスカップ(米国)も印象的である。「鼻詰まりて鼻汁不断に流れ出(い)でて苦しんだ」と著書にある通り、全力を出し切れなかったものの準優勝を果たす。▼本人は当初、風邪と捉えていたようだが、受診の結果、当時、米国の風土病とされていた「枯草(こそう)熱」と判明する。いまでいう花粉症で、ブタクサが原因とみられる。治療法もなかった時代だから、随分と悔やんだに違いない。▼日本で花粉症が報告され始めたのは60年代なので、それより40年も前の体験になる。メダルだけでなく花粉症患者としても先駆けだったわけだ。その熊谷も、花粉症が後に日本の国民病になるとは思いもしなかったろう。▼寒さが和らいできた。春の到来は歓迎するが、スギ花粉も伴うからつらい。日本気象協会によると県内はこの週末、飛散量が「非常に多い」と予想。それこそ花粉症を突然発症し、風邪と勘違いする人もいるというから注意を。▼四国の今春の飛散は昨年の猛暑の影響もあって、前年比8倍といわれる。夏の気温は翌年の花粉症をも左右する。折しも一昨日、気象庁がことし6~8月の予報を発表した。またも平年より暑い夏という。(高知新聞・2025/02/27)

◎ 花粉症(かふんしょう)pollinosis=アレルギー性鼻炎のうち,特に花粉の飛散期である春と秋に限定して起きるものをいう。普通のアレルギー性鼻炎の場合,日本では主に室内塵 (ハウスダスト) やそれに含まれるコナダニ,チリダニが抗原となるが,花粉症ではスギ花粉やブタクサ花粉,稲科植物 (カモガヤ,オオアワガエリなど) の花粉が原因となってI型アレルギー (免疫グロブリンの一つである IgE抗体が関与する反応) を起す。くしゃみ,鼻水,鼻づまりのほかに,眼,皮膚,のどなどにも発赤や腫脹が起り,さらに全身症状や気管支喘息を随伴する。花粉の飛散期を過ぎると突然,症状は消失する。花粉が原因であることが証明されなかった 1873年以前には,誤って枯草熱 (こそうねつ) hay feverといわれた。治療には対症的に抗ヒスタミン剤や局所用ステロイド剤の使用が試みられるが,最も効果的なのはマスクなどによって花粉の吸入を避けることである。また,開花期の数週間前から花粉毒素を使って脱感作を行うこともある。(ブリタニカ国際大百科事典)

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戦後80年。記憶の継承という…

 昨日の午後はどんなことをしていたか、今朝の朝飯は何を食べたか、いくらも時間が経っていないのに、まったく記憶が消えていることがあります。一日前のことすら覚えていない人間が、しかし、五十年も八十年も昔(過去)のある場面や出来事を鮮明に覚えているのはなぜでしょうか。自分が見聞したことは細大漏らさず、一端は記憶の倉庫(海馬・hippocampus)に保存します。そして、その中から、ぼくたちは必要に応じて、あるいは思いもかけずに倉庫の中の「記憶(貯蔵)品」からいろいろなものを取り出しては検査・確認するのでしょう。どんな些細なことでも必ず記憶の倉庫にしまうことは、おそらく誰もが、ひろくは動物一般がすること(記憶の把持・保存)です。(*海馬=大脳辺縁系の一部で、側脳室の近くにある部位。古皮質に属し、本能的な行動や記憶に関与する。形がタツノオトシゴに似ることから、16世紀にイタリアの解剖学者アランティウスが命名した。アンモン角」「補説 形が神話の海馬ヒッポカンパスに似るところからいうという説もある」(デジタル大辞泉)

 しかし、そこから今の自分にとって極めて意味のある事柄、大切な思い出などは、少なくとも「現在」にかかわりがあるかぎりは、それを取り出すことができる。それを想い出(recollection・reminiscence)として必要に応じて「追想」「想起」します。本年が「昭和百年」であり、「戦後八十年」と追想されるのは、その「出来事」や「事実」が、今の社会や個々人の成り立ちに小さくない働き(要因・要素)をなしているからだと考えられます。では、「百年」「八十年」にかかわる自らの経験がまったくなければどうするか。手がかりがないことの「記憶」や「経験」に縋(すが)ることはできない相談だとするなら、自分を超える「出来事」(歴史)にいかにしてかかわるか、それが公正に生きる人間の課題であり、優れて教育の問題であるといえるでしょう。

 今は2月27日(木)の午前五時前です。昨日の出来事の記憶をたどりながら、この駄文を書こうとしている。連れ合いが、この数日、首や肩の痛みを訴えている。本人は「寝違えた」と言っているが、それだけなのか。激しく痛みが襲うらしい。昨日と一昨日は、先ず症状の具合を知ろうと近所の整骨院に出かけた。二回の治療で、院長いわく「病院の整形外科で一度検査してもらったら」と。ぼく自身も「痛みの重さ」の訴えから、おそらくそうなるだろうと想定していたし、事前に、これも近くにある総合病院に連絡はしてある。そして、本日九時には出かけようとしている。かみさんはこの病院に一度、数日間だったが入院したこともあるし、それ以外にもかなり継続して通院していたので、症状の把握のためには必要だろうと、その準備(心づもり)はしていたのです。

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 いま、新聞コラム「二題」を引用して書こうとするのは、「記憶すること」と「記憶(したもの)を取り出すこと」のギャップについてです。「有明抄」は「佐賀空襲」の際に投下された焼夷弾の残骸が保管されていることを示して「語り継ぐ世代が少なくなる中、戦争の現実を知る」、その縁(えにし・きっかけ)になるものにどれだけぼくたちは関心を持っているかと問う。「戦後80年。不発弾のニュースもいまだに届く。過ちを繰り返すなと語りかけているようである」と結ぶが、この「空襲」の経験を持たないものはどうするか。どこに手がかりを見出せばいいのでしょうか。問題の核心部分はここにあるでしょう。他人の体験を、自らの経験にまで昇華させようとする作業、それが「教育」、殊に「歴史教育」の核になるのかもしれない。だれかの「体験」を、自分なりに「追体験」することが、です。

【有明抄】空襲の記憶を刻むもの きのうの本紙に「佐賀空襲」の焼夷(しょうい)弾の残骸が佐賀市の北川副公民館に保管されているという記事が載った。太平洋戦争末期の1945年は佐賀だけでなく日本各地で空襲があった。3月10日の「東京大空襲」では約10万人の命が奪われた◆作家の向田邦子さんが「その夜」を振り返っている。三方を火に囲まれもはやこれまでという時に風向きが変わり助かった。一夜明け、「次は必ずやられる。最後にうまいものを食べよう」と父が言い、とっておきの白米を炊いて家族で食べた思い出のエッセーは何かもの悲しい◆黒柳徹子さんが通った「トモエ学園」も東京大空襲で焼失した。昨年3月に亡くなった鈴木健二さんはもっと悲惨な記憶を『最終版気くばりのすすめ』に記す◆あの空襲の夜、人々は近くの小学校に避難した。だが、校舎に入りきれなかった人が多数。それでも中に入ろうとすると校舎が火事になり、外に逃げようとする人で焼死体の山が学校いっぱいに築かれた。赤ちゃんを抱いて逃げてきた母親の死体もあった。その光景に鈴木さんはただ、「人は母と生まれ故郷を大切にして生きていけばよい」と思ったという◆語り継ぐ世代が少なくなる中、戦争の現実を知る一文は貴重。戦後80年。不発弾のニュースもいまだに届く。過ちを繰り返すなと語りかけているようである。(義)(佐賀新聞・2025/02/26)

 その観点で、次の「小社会」の記事はぼくには衝撃だった。渡辺和子さんのことを多くの方はご存じでしょう。だから詳細は省きます。彼女が九歳の時、東京の中心部で「二・二六事件」が勃発。今から九十年前の「2月26日」のことでした。当時の警視総監だった渡辺錠太郎氏が射殺され、和子さんは父親の襲撃される場面をつぶさに凝視していたという。岡山にあるノートルダム清心女子大学の学長だった渡辺和子さんの語られる「体験談」に、ぼくは深く打たれた。「『226』って知っている?」という渡辺さんの問いかけに、「ほとんどの学生は『電話番号ですね』と答えた」らしい。歴史を知らない学生の「無知」を怒るのでも、叱るのでもない、「知らないなら教えてあげましょう」というのでもない、その「学生たち」に直面した渡辺和子さんの深い「当惑」が嫌でも伝わるように、ぼくは感じるのです。「歴史感覚」の欠落は、今日病でもあるでしょう。はたして「歴史(過去の出来事)」は教えられるのか。

【小社会】二・二六事件 岡山市のノートルダム清心女子大学の学長を長く務め、シスターでもあった渡辺和子さんは、学生によく尋ねた。「『226』って知っている?」。ほとんどの学生は「電話番号ですね」と答えたという。▼岡山には「086―226―××××」の地域があり、学生はその数字を思い浮かべた。渡辺さんが亡くなった、9年前の文芸春秋誌にそんな話が載っている。▼1936(昭和11)年2月26日早朝、雪の東京で起きた旧日本陸軍の青年将校らによるクーデター事件。渡辺さんの父、錠太郎陸軍大将は自宅で殺された。当時9歳の渡辺さんは物陰から惨状を見ていた。事件後、軍部の政治介入は強まり日中戦争、太平洋戦争へと突き進む。▼戦後80年。記憶の継承という言葉をよく耳にする。体験者の話を直接聞く機会が少なくなる中、戦争被害だけでなく加害の実態を含めて次の世代にどう伝えていくか。▼「若い人が知らないのは当たり前」。教育者として渡辺さんは、そんなふうに考えたのではないか。繰り返し学生に同じ質問をする。「知らない」ことをきっかけに自ら学んで―。そうした思いがあったのかもしれない。▼事件の50年後。自宅を襲撃した兵士の家族と渡辺さんは対面する。「相手を知り、理解しようとしなければ、いつまでたっても憎しみは消えません」。別の回想記にそんな言葉がある。ウクライナなど各地で紛争が続く。思いを伝えたい。(高知新聞・2025/02/26)

 「『若い人が知らないのは当たり前』。教育者として渡辺さんは、そんなふうに考えたのではないか」「『知らない』ことをきっかけに自ら学んで―。そうした思いがあったのかもしれない」とコラム氏は推測しています。そうだったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。渡辺さんの書かれた「置かれたところで咲きなさい」を想うと、ぼくにもいろいろな場面が浮かんできます。「神の配材(an act of Providence)」、「模範的なキリスト教徒」という印象を強く抱かされました。(この本がベストセラーになったことに、ある種の「怖さ」を感じてもいました)

 「226」は電話番号だと無邪気に反応する学生のどこが悪いのか。悪いところは何もない。無知は罪ではない、知らなければいけなことを知らないのがよくないのだと、世間では訳知り顔で言うでしょう。では「226」は電話番号ではないと、この学生たち(渡辺和子さんが学長だった大学の学生たち)は、どうして知る(気が付く)ことができるのだろうか。渡辺さんの履歴から、事の真相を知ることがあっただろうし、渡辺さんもそう願ったでしょうか。

 では、それ以外の「無知」「無関心」の人たちはどうするのか。もちろん学校教育の不作為もあるでしょう。もっと言うなら、この社会を構成している誰彼の意図的な「歴史の忘却」、「歴史の書き変え(捏造)」もあるかもしれない。ある時期にくぐもった声になっていた「新しい歴史を作る」人々の活動や、その派に属する人々が唱導していた「自虐史観」の否定と、現行「歴史教育」を改訂して生まれた学校の歴史教科書や、歴史教育の「成果」もあるのかもしれません。それを含めて、人間集団が「歴史健忘症」に罹患したらどうなるのか。そのこともまた、「歴史の教えるところ」なんですね。記憶するとか、記憶が曖昧だとか、ぼくたちはいとも簡単に言いますが、「記憶する」とは、約束すること、まずは「自分と約束する」ことであり、次いで「他者と約束する」のです。パスカルという哲学者は、「腕のない人間」を想定できるけれど、「頭を持たない人間」は私には考えられないといっています。「頭」とは「考える」であり、その根底には「記憶する」働きというものがあります。

 「記憶」を持たない人間は、誰かと約束することはできない人かもしれないと、ぼくは時々考えます。意図して「歴史」を否定する、無視する人間もいるでしょう。歴史というのは「史観」「観察」などではない。それは「体験(経験)」です。だからこそ、「226は電話番号です」と言って済ませる人は、「頭のない人間」なのかもしれないといいたくなります。渡辺さんが語るところをコラム氏は引かれている「事件の50年後。自宅を襲撃した兵士の家族と渡辺さんは対面する。『相手を知り、理解しようとしなければ、いつまでたっても憎しみは消えません』」と。

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 「教育の現場」から離れて十数年が経過しました。だから、「今の教育は云々」というのではありません。学校という場所は「国家の犯罪」「国家の悪事」を明らかにしてはいけないところでしたし、今だってそうでしょう。「公教育」というものが陥っている大きく、深い「陥穽(trap)」です。「過ちは繰り返しません」と言えるのは、「過ちを犯した」という「確かな記憶」がある限りにおいてのこと。国家を動かすような人々には、そんな「確かな記憶」はないと言っておきたい。寧ろ「今度はもっと上手にやる」という、歴史否定の姿勢しか見られないとしたら、この社会には展望もなければ、未来もないというほかありません。

 昔も今も、この国ではいたるところで「あとかくしの雪」が降り続いているのかもしれない。どんなに面倒であろうと、雪下ろしや雪かきをし、除雪をしなければ、ぼくたちは「降り積もる雪の重さ」で押し潰されてしまうでしょう。屋根の雪下ろしは、歴史の(再)発見であり、歴史を忘れない作業に通じている。「この雪の下に人間の生活があった」と知るのは、雪下ろしの結果であり、その記憶をとどめる限りにおいてです。

(蛇足 2月26日生まれの友人がいます。恐らくかみさんとの付き合い時間よりも古い友人で、若いころは本当に出鱈目をしたものでした。ぼくよりも2歳年上。憲法・政治学の学徒でした。同じ職場にいた同僚で、ぼくは自分の誕生日を忘れても、彼の誕生日は忘れたことはなかった。名前も、なんだか因縁めいていますね、「渡邉某」さん。このところ音信が絶えているので、この渡辺和子さんに触れたコラムを読んだのをきっかけに、近況を訊ねようとしていたところ)

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● 渡辺錠太郎(わたなべじょうたろう)(1874―1936)= 大正・昭和期の陸軍軍人。愛知県出身。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業後、歩兵第三六連隊中隊長として日露戦争に出征、戦傷を負う。その後山形有朋(やまがたありとも)元帥付副官となり、1907年(明治40)には軍事研究のためドイツに駐在した。ついでドイツ大使館付武官補佐官、オランダ公使館付武官を経て、帰国後は参謀本部第四部長、陸軍大学校長、第七師団長、台湾軍司令官、軍事参議官などの要職につき、1935年(昭和10)には、皇道派の巨頭真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)の後任教育総監に就任した。天皇機関説の支持者として知られ、統制派の頭目とみなされた彼の教育総監就任は、真崎を支持する皇道派青年将校をいたく刺激し、1936年二・二六事件で襲撃目標の1人とされる遠因となった。事件当日の早朝、私邸で反乱軍により射殺された。(日本大百科全書ニッポニカ) 

● 二・二六事件【ににろくじけん】= 1936年2月26日未明,皇道派青年将校22名が下士官・兵1400名余を率いて起こしたクーデタ事件。皇道派青年将校は北一輝に接近,昭和維新の実現をはかり,武力による国家改造を計画,真崎甚三郎教育総監罷免,相沢事件など統制はの台頭に反発し皇道派の拠点であった第1師団の満州派遣を機に蜂起(ほうき)を決意。斎藤実内大臣,高橋是清蔵相,渡辺錠太郎教育総監を射殺し,鈴木貫太貫侍従長に重傷を負わせ,陸軍省,参謀本部,国会,首相官邸などを占拠,陸軍首脳に国家改造の断行を要請した。陸軍首脳は戒厳令をしいたが,海軍,財界がクーデタに反対であるのをみて弾圧に転換,反乱軍の規定も〈決起〉〈占拠〉〈騒擾〉〈叛乱〉と四転。29日反乱軍を鎮圧。首謀者や理論的指導者の北一輝らを死刑,皇道派関係者を大量に処分,統制派が実権を掌握。岡田啓介内閣は倒れ,軍の政治的発言権が強化された。(日本大百科全書ニッポニカ)

 撃ち込まれた弾は43発、父が絶命する様を見て…二・二六事件「わずか9歳の目撃者」の“忘れられない記憶”「300万部を超えるベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』で知られる渡辺和子。修道女であり、ノートルダム清心女子大学で初めての日本人学長となった彼女の父は、二・二六事件で命を落とした軍人・渡辺錠太郎だった。/わずか9歳のとき、歴史に残る事件で父の最期を目撃することになった彼女の生涯に、父の死はどう影響を与えたのか? 女性の物書きとその父との関係に焦点を当てた、梯久美子さんのノンフィクション『この父ありて 娘たちの歳月』(文藝春秋)より一部抜粋して紹介する。(全2回の1回目/島尾ミホ編を読む)(以下略)(文春オンライン:https://bunshun.jp/articles/-/58210

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質問する、それが教師の仕事だね

 大学を卒業したのが1968年月でしたから、もう60年近く前になります。田舎に帰って中学校(歴史)の教師をやろうとずっと思っていました。しかし、もう少し勉強しなければとても「でもしか教師」にさえなれないという自覚はあって、同じ大学の大学院に進んだのが、結果的には大きな過ちだったかもしれない。学部時代と同じ教員がいて、ぼくは驚愕し、かつ落胆したものだった。だから、なおさら中学校の教師になるという道を進まなかったという点ではたしかに過ちでしたね。その後、あまり考えもしないで大学の教師のようなものになってしまったが、それは「惰性」だったと正直に言っておきます。特に研究したいテーマがあったわけでもなく、大学に就職(所属)して生きて行こうという強い考えも微塵もありませんでした。ぼくが所属したのは「教育学部」だったのは、卒業後の仕事を考えてのことだったから、そこ(入学する)までは間違いではなかったでしょうが。

 教師稼業の発端から「教職課程」というコースの授業をたくさん担当しました。大まかに言うなら、学校教育にかかわるさまざまな問題を包摂するような、問題山積の授業群だったと言えます。実に古めかしい科目名が教育や学校教育への古臭い、百年前と少しも変わらない、いわば古色蒼然とした印象を与えていた。もちろん、その内容だって、ほとんど「化石(fossil)」に似ているという代物でした。教育原理・道徳教育・生活指導・教授法(教科教育法)などなど、そのどれもが、せんぜんそのままに「観念」の被り物をつけられて、その古さと重さで喘いでいたといっていいでしょう。この「古色蒼然」は今も続いていると思う。昔の名前で出ています、そんな日本画が額にかかっていた気がします。ぼくはシガナイ学校教師の末端席に、最初から最後まで、自分の居場所がどこにもないという感覚をただの一度も忘れないで、ほぼ半世紀ほど過ごしたことになります。壮大な無駄だった気がします。

 教育とは何か、こんな問題を飽きもせず、その間には繰り返していました。いつだって「自問自答(self-questioning)」していた。教育とは「右側通行」だと考えてみたり、いや「左側通行」なのだと考えなおしたり。今に至るまで、正解など得られるはずもなかったのは、ぼくにはさいわいでした。どのみち、考えることをよそにして、何物も始まらないのが教育という問題だったと思い至ったからです。さらに問い続けてきたのは、教師とは誰のことかという、一見すると自明に見える問題でした。学校教師の使命は「教えること」だと誰もが考えるし、それで間違いはないでしょう。でも、いったい「何を教えるのか」となると、ぼくには自明ではなかった。ここに、ぼくたちの躓きの石が転がっていたんですね。「教科書を教える」「教えたところをテストする」、その結果、「誰ができて、誰ができないか」を自他に明らかにすること、それが教師の仕事だと、大半は了解しているはずです。その程度なんですね。今日の多くの医者がするように「病名診断」を下すのが職業になっている、そんな「優劣判断」決定人、それが教師の仕事みたいに思われてきます。

 何を教えるか、「徳川幕府を開いたのは誰か」とか「ハムレットの作者はだれか」、そんな問題を何千何百提出しようが、あるいは答えようが、何処に値打ちがあるのか、わからない人にはわからないでしょう。そのような愚問提示が子どもの生活や精神(知性)の成長にどのようなかかわりがあるのか、おそらく何もないともいえるでしょう。教師は教える人、生徒は教えられる人(学ぶ人)という約割分業が成り立っているから、学校の役割・機能は自明だと考えられてきました。ぼくは自分が小・中・高にいたころから、とにかく学校は嫌いだったし、教師も好きではなかった。どの教師も「教える」病に罹患していると考えていました。隙あらば「教えよう」とする、実に異質な存在に思えました。廊下の歩き方から、手の洗い方、食事時の箸の持ち方まで、何でも教えたがる人種だとみなしていた。「これが正しい」「それは間違いだ」と、いかにも自信をもって断定している、その姿勢が大嫌いだった。つまり疑問の余地がない領域に住んでいるつもりの人種に見えたのです。架空(虚)の世界の住人だったと思う。

 自分が教師の真似事をしだして、何よりも「教えることができない」という自分の無能さ加減と、問題の不可解さに気が付きました。「イギリスの首都はロンドンです」と伝える(覚えさせる)ことが教えることなのか。そんなことはないのであって、いつ、どのような事情で「ロンドン」がイギリスの中心になったか、その歴史がわからなければ「イギリスの首都はロンドンです」を学んだことにも教えたことにもならないということです。どんな事柄にも「歴史」(「意味」「内容」)があるのであって、そこに至らない、触れない何事も、それは単なる言葉遊びにすぎないではないか、そんな当たり前のことに気が付いたともいえます。また、教育は教室の中で始まり、その中で完結するものではないことも分かった。教室を越えて、学校を越えて、教育(子どもと教師の付き合い)は続くのではないか。そんなことに気が付きだすと、学校というところの狭さ、理不尽さ、意味の浅さが大いに気になりだした。

【あぶくま抄】教師 名物教師は、どの学校にも一人はいる。昭和の終わりごろ、県北地方の進学校に長く在籍した国語の先生も、そうだった。ぎょろりとした目が愛らしい。物言いにはユーモアがあった▼クラスや学年の垣根を越えて生徒と接した。学校になじめず、やんちゃな子とは特に親しく。教科書を閉じたままの文学少年には、「東京には文豪の行きつけの店がある。都内の大学に進学し、巡ってみればいい」。未知なる世界への憧れを誘い、机に向かわせた▼最近の「聖職」はとかく忙しく、管理職になるのを望まない傾向もあるという。小中学校の教頭は朝早くに出勤し、学校の門を開ける。帰りは連日、ほぼ最後。責任も重くのしかかる。生身の人間なれば、愚痴の一つも出てこよう。働き方改革が叫ばれて久しいが、事務作業などが増え、ゆとりが失われているとの声も聞く。昇進を目指す意欲は、いつしかしぼんでしまうのだろうか▼給与アップや労働時間削減など処遇改善に向けた国の検討が進む。熱血教師がいても今や孤軍奮闘、孤立無援では立つ瀬がない。改めるべきは、今すぐ改めて。陰に日なたに見守ってくれる、あの優しい目を学び舎から絶やさぬように。(福島民報・2025/02/25)

 どこにだって教師は存在するし、どんな境遇にあっても、何処にだって学校(「教育の場」という意味)はあるということの発見だったでしょう。コラム「あぶくま抄」氏の言い分は分からないでもない。どんなところにも「優れた教師」はいるでしょうし、「名物教師」もいると思う。問題は、何において「優れ」、何において「名物」かということ。そして、「誰にとっても教師であること」は不可能だろうし、どんな人間でも誰かの教師にはなっているともいえます。つまり、万人にとっての教師はいない、その代わりに「誰かの教師」であることは大いに想像できます。教師の仕事は教えることではない。この点を踏まえれば、「日本の教師」という偶像(idol・image)はきわめて観念的に過ぎるにもかかわらず、その過剰な観念に支配されて、驚くほど窮屈だと、ぼくには思われてきます。もっと破天荒(unprecedented)であってもいいじゃないか、羽目を外したらどうか。四角四面の教師像をこそ突き破ろう、そんな思いがぼくの中に溢れて来たともいえます。

 今日、現場で奮闘している教師の境遇というか、教育環境は、実に息苦しいものだという実感もあるし、経験から学んだところもある。四角四面というか杓子定規というか、あるいは形式主義でもあり官僚風でもあると言ったらどうでしょう。驚くべきことですが、工夫する余地もなければ、自由に振る舞う範囲がほとんどないのです。少子化が進んでいく中で、さらに教師のなりては払底するのは目に見えています。教職に魅力があるかないか、その決め手は「学校・教育(授業)の自由の雰囲気いかん」にかかっているでしょう。

 ぼくは長い間の「教師(まがい)業」において、徹底して「教えないで問い続ける」ことを一貫してきたと思う。教えないで質問する、それが教師の仕事だといい続けてきたし、自分でもそれを実践しようとしてきた。だから「成績」「点数」「席次」などは二の次に置いていたと思う。洒落た言葉を使うなら「優劣の彼方」にまで子ども(生徒・学生)たちと共に歩くことを目指していたともいえます。学校教育は子どもたちといっしょに山に登るようなもの。ある種の冒険であり、未知への挑戦だと思っていました。予定調和ではなく、いつ難問に遭遇するか、そこで休憩もし長考もできる、そのような判断力を身につける。そこに見られる「教育の可能性」を開いていきたいと念じていたのです。

 結論ではありませんが、教育(授業)を通じて、子どもの考える力が育つ、もちろん教師自身の思考力も。それがぼくの憧れの「教育」であり「授業」でしたし、そんな力を育てられる学校(教室)こそ、ぼくたちの居場所(meeting room)だと思っていました。教室は「考える練習場」だったと思う。子どもたちの輪の中にいる教師。その人は何をするためにそこにいるのか。「問題を出し続ける意志を持つ」、それが「教える」なんだ。だから、彼や彼女のすることというのは、「教えないで質問する」ことばかり、それが教師という存在の仕事だ。子どもたちが「自分流に考える力」を育てるのを支える、サポーターなんだね。

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 あるきっかけがあって、ぼくはメキシコで作られた映画「型破りな(radical)教室」を知りました。2023年につくられ、日本でも公開されました。ぼくな未見ですが、今なお上映しているところがあります。なんとしても観ておきたいとと思っています。いろいろなデータや情報を見た限りでは、「教えないで、問う」教師がそこにいたと思われます。「麻薬と殺人が日常と化した国境近くの小学校。子供たちは常に犯罪と隣り合わせの環境で育ち、教育設備は不足し、意欲のない教員ばかりで、学力は国内最底辺。しかし、新任教師のフアレスが赴任し、そのユニークで型破りな授業で、子供たちは探求する喜びを知り、クラス全体の成績は飛躍的に上昇。そのうち10人は全国上位0.1%のトップクラスに食い込んだ!/アメリカとの国境近くにあるマタモロスの小学校で2011年に起きた実話を描いた本作は、本国で300万人を動員し、2023年No.1の大ヒットを記録。更にアメリカでも限定公開かつスペイン語作品にも関わらず初週5位の快挙をとげ、絶賛の嵐は北米まで広がった。『コーダ あいのうた』に続いての教師役ながら、新たな魅力を発揮したエウヘニオ・デルベスにも注目。/未来を望むことさえしなかった子供たちが、可能性や夢に出会い、瞳がきらきら輝きだす光景に、心打たれる奇跡の感動作が誕生した」(https://katayaburiclass.com/

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「『型破りな教室』公式サイト」(https://katayaburiclass.com/)                                                        「『型破りな教室』予告」(https://www.youtube.com/watch?v=H6BicE5iUvk)                                                (上映中・新宿武蔵野館https://shinjuku.musashino-k.jp/movies/43601/

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「分捕り・山分け(M&A)」の世界史

 どこの「国(邦)」でもおそらくは「国生み」「国造り」物語(神話・myth)があるはずです。この東海の小島にもある。神代の昔、この島の世界には「天津神」「国津神」「海神(わたつみ・わだづみ)」のそれぞれが支配する境界(天・地・海)があった。やがて、「天孫降臨」が起こり、天地を支配する神々の闘いがあって、天神(天照大神の後裔)が勝利をおさめ、それ以降、紆余曲折を経ながら、その皇孫の権力が途切れなく(実際にはそうではなかったが)、今に続くという「神話」を夢想する歴史家や政治家、その他が後を絶ちません。「皇紀二千六百年(「神武天皇」即位の皇紀元年は西暦紀元前660年にあたる)」をはるかに超える歴史の、その大半は「国盗り物語」が占めているといっても過言ではないでしょう。たとえ三十坪ばかりの狭い敷地であっても、狭いがゆえに境界線を巡って隣家同士が争う「(土地・領土争い)裁判」が絶えないというのも、「土地(一国)を所有したい」という、ある種の「天性・天然の所有欲」が人間には備わっているのだということもできます。

 戦後の国民作家とも称された司馬遼太郎さん(1923~1996)のほとんどの作品もまた、多様多彩を極めた「国盗り物語」であったといっていいでしょう。誰のものでもなかった土地(そういうものがあったとして)、それを最初に「これは俺(私)の土地だ」と宣言したら、誰もがその宣言を認めたということだったでしょう。やがて、政治や経済の必要から、他人の所有地が欲しくなり、手段を択ばずに「土地争い」を仕掛け、武力や巧緻・姦計に総力を挙げては「国盗り」に励んできたものが多かったともいえます。今に例えるなら、企業の「吸収・併合」、つまりは「M&A(merger and acquisition)」、弱肉強食です。企業ならまだしも、これが独立した国の「他国による吸収・合併」となると、それこそいきおい、戦争になることは避けられない。この劣島の試みた韓国併合(朝鮮侵略)、「満州事変」などは、少なくとも計画段階では「侵略」であり、「土地奪取」であったことは事実です。その後始末は今に及んで、始末はついていないのです。

 そして今、ロシア侵略に端を発した「ウクライナ戦争」の「和平交渉」という名の、「分け前談義」が画策されている。ウクライナの土地は誰のものだったか、そこから問題の泉を掘り当てようとするなら、おそらく世界のいたるところで「蜂の巣騒動」が起こることになるでしょう。少なくとも「ロシア侵略」時点の土地(領土)境界線を基準(起点)に話が始まるのが筋であり、政治判断としての妥当性はそこにあると思う。それを無視して(そのうえ、当事者の一方を排除して)、分け前の相談を大国だけで行うというのはいかに考えても「正義に悖(もと)る」というほかない。(情けないことに「ヤルタ会談」を気取っている連中がいるのも確か)

 この東海の小国にも、いくつもの「領土」問題がある。北方領土や南西諸島、あるいは韓国との争いになっている竹島(独島)などなど。「侵略」戦争の爪痕を長年にわたり舐めてきた歴史を有しています。「日本海」は「東海」であると称する国もあります。(両方併記でいいのではないか)いままた、沖縄は「我が領土」と言い出している国もあるし、日本本土は何処であっても「我が領有地」と実行支配権(治外法権所有)をわが物顔で行使している国もあります。

 ウクライナ問題は決して「対岸の火事」視はできないはず。イスラエル・パレスチナ(ガザ)問題もまた、大国の植民地放棄後の積み残し(課題)を放置してきた報いであって、パレスチナの責任が問われるべき問題ではなかったはず。今も昔も「国盗り(領土拡張)物語」を演じたがる権力者はごまんと存在してきたが、そこに住む人民(民衆)の側に立って、問題を凝視し続けるものは皆無だったと言えます。「持つものはさらに持ちたくなる」とでもいうように、好き放題に大国はさらに大国になろうとして、結局は肥満症、拡大病の結果、他国を巻き込んだ大災厄を引き起こすのです。(左上写真「北方領土生んだヤルタ会談、ウクライナで再現狙うロシア トランプ政権誕生で期待論高まる」北海道新聞デジタル・2025/02/05)(https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1119927/

 「国盗り物語」などとまるでお伽噺を語るようにぼくたちは、暢気に見做していますが、何のことはない、人殺し戦争であり、無辜の民の殲滅行為でもあるということを忘れてはならない。居間でテレビを見ながら、あるいは飲酒しながら、ミサイル発射命令を出し、挙句には「核のボタンを押す」、それがやりきれないほどの頽廃した現代の「戦争」です。「世界」はいつだって試されている。ならず者の天下、唯我独尊(傍若無人)の振る舞いを傍観するな、放置するな、見逃すな、見て見ぬふりをするなと、房総の一老人は暴走気味に叫んでいるのだ。叫ばずにはおられない

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【小社会】一枚の紙切れ 英国の首相チャーチルは第2次大戦中の1944年秋、モスクワにソ連の指導者スターリンを訪ねている。「ナチス後の世界」の交渉が目的。英宰相は小さなメモ用紙に手書きでこう書いた。▼ルーマニアは「ロシア90% 他国10%」。ギリシャは「英国90% ロシア10%」。ハンガリー50%ずつ。ブルガリアは「ロシア75% 他国25%」…。ソ連の独裁者は紙の右上に大きく印をつけ、同意を示した。▼情報開示の考え方が進んだ英国は公文書館にこのメモを残す。2カ国の指導者だけで、さらさらと鉛筆で書いた1枚の紙切れ。在英ジャーナリスト、小林恭子さんは「何百万人の将来がこれで左右されたのか」と言葉が出なかったという(「英国公文書の世界史」)。▼1枚の紙切れは、翌年2月のヤルタ会談以降にもつながったようだ。会談では当事国抜きで、ドイツの分割統治や中・東欧の政治体制が決まる。戦後の人々の運命や世界の構図を方向づけた。▼ロシアのウクライナ侵攻から、きのうで3年が過ぎた。登場したトランプ米大統領。隣国の人々を惨禍にたたき込んだ為政者におもねる言動に、言葉を失う。当事国抜きの米ロ交渉。ロシアからは「ヤルタの再現」の機運も伝わる。また大国だけの思惑で戦争に傷ついた人々、国の将来は決められるのか。▼交渉はこれからの平和、国際秩序にも関わる。このままでは後世の検証に耐えられるとは、とても思えない。(高知新聞・2025/02/25)

【筆洗】寒い冬、子どもが雪の中に手袋の片方を落としてしまう。その手袋をモグラが最初に見つけて、自分の家にする▼次にウサギがやって来て、モグラの横にもぐり込む。続いてフクロウ、アナグマ、キツネにクマ。みんなが手袋の中に入って暖を取るので手袋はぎゅうぎゅう詰めになる。さまざまなバージョンがあるが、ウクライナ民話の「ミトン(手袋)」の大筋はこうである▼ロシアによるウクライナ侵攻から24日で3年となる。民話にたとえるならばウクライナは平和という暖かな手袋を奪われ、雪の中、かじかむ手に息を吹きかけながら手袋を捜し続けているのだろう。ウクライナの3年の心細さを思う▼奪った手袋の中にわが物顔で入り込んでいるのはロシアに他なるまい。この手袋がいつウクライナのもとへ返り、「平和」の暖を取れるのかがまるで見えない▼米国が手袋を取り戻す仲介をするというが、これがどうも怪しい。トランプ大統領のロシア寄りの姿勢やウクライナに鉱物資源の提供を要求する言葉を聞けば、米国はウクライナの手袋の中でロシアの隣にちゃっかり、もぐり込もうとしているようでさえある▼あの民話では最後に子どもの元に大切な手袋が戻ってくる。その日を信じたいが、米国も絡む複雑な展開の中、ウクライナの手袋はこの3年間で、最も持ち主から遠ざかっているような気がしてならない。(東京新聞・2025/02/24)

⦿ ヤルタ会談(Yalta Conference)= 1945年2月4~11日,クリミア半島のヤルタで行われたアメリカの F.ルーズベルト大統領,イギリスの W.チャーチル首相,ソ連の I.スターリン首相の会議。クリミア会議とも呼ばれる。これが連合国3巨頭の最後の会談となった (ルーズベルトは 1945年4月に死去) 。同会談では戦後のドイツ処理問題や東欧問題などの第2次世界大戦の戦後処理,国際連合の創設やソ連の対日参戦などについて話し合われ,10をこえる各種の協定 (秘密協定を含む) が結ばれた。この会談はそれまでに開かれたカイロ会談などの延長線上に位置する会談であり,戦後の国際秩序の枠組みと基礎を確立した重要な会談であった。このため第2次世界大戦後の国際秩序をヤルタ体制と呼ぶようになった。またソ連の対日参戦を取決めた秘密協定は,千島列島のソ連への帰属を明記したことから,戦後,北方領土問題との関連で,この協定の法的効力をめぐって日ソ間の論争の的となったが,ソ連解体後この問題は日本とロシアの交渉に引継がれている。(ブリタニカ国際大百科事典)

(⇦2025年2月8日、クリミア半島ヤルタのアートギャラリーで「ヤルタ2.0」と題された展覧会が開催。米国のトランプ大統領、ロシアのプーチン大統領、中国の習近平国家主席が並んで座る作品が展示されていた。ここに描かれた3首脳も、1945年のヤルタ会談のように、戦後の国際体制を自分たちだけで決めようと考えているのかも知れない)(写真:ロイター/アフロ)(「「ウクライナに戦争を継続させている指導者がいる」とゼレンスキーを悪者にしたトランプ、侵略者と手を組む腹積もり」JB Press・2025/02/21)

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降る雪やもう止むときぞ春よ来い

 ロシアによるウクライナ侵略からまる三年が経過しました。戦禍は拡大の一途をたどり、ウクライナそのものが地球上から消される危険性さえ出ている。ウクライナに平和をと、誰もが望んでいるにもかかわらず、悲しみと苦悩に沈みながらも、存亡をかけて抵抗している土地とそこに住まう人々に向けて、轟音けたたましいブルドーザー(bulldozer)で乗り込み、そこに刻されている戦争の痕跡(爪痕)を掻き消し、見た目の「平和」を一瞬でも齎(もたら)せられれば勿怪の幸い、自らの手柄に仕立て上げるために恥も外聞もなく躍起になった一人の「亡者」(「金銭や色欲などの執念にとりつかれている人」デジタル大辞泉)がいきりたっている。まさに「権力と名誉」の強欲ボケ大将である。

 そのイカレた亡者を見越して、「この戦争を終わらせることができるのはあなただけだ」と別の亡者が、薄笑いを隠しながら耳元で囁く、いままさに、そんな野放図(「人を人とも思わないずうずうしい態度。横柄なこと。また、そのさま。傍若無人」・デジタル大辞泉)の舞台が展開されようとしています。ウクライナの「戦時状態」を踏み潰してでも、表面的に消去してしまえば、念願の「和平」が生まれるとばかり、この二人の「亡者」はまさに呉越同舟宜しく、自らの権力と名誉の保持のために世界の平和を願う人民を敵に回して、なお恬(てん)として恥じる気もないのです。二日前の読売新聞は「(トランプの)最大のレガシーは停戦の実現(=政治的遺産)」と指摘し、「(その足元を)見透かしつけ込むプーチン氏」と書いた。地獄で手を握り合う「悪の兄弟・不実の双璧」というべきか。今また、ウクライナは大国の玩弄物にならされかけているのです。

 「帝政ロシア期のウクライナの詩人、タラス・シェフチェンコに『遺言』という詩がある。<さあ、わたしを地に埋めて、立ちあがれ。重い鎖を断ち切り、手に入れた自由を圧政者たちの血で洗え><そして、すばらしい新たな家族とともに、自由の民とともに、やさしい言葉でそっと、わたしのことも思いだしてくれ>(「産経抄」)

 「産経抄」のコラム氏にぼくは共鳴します。この東海の小島の政府は「ウクライナへの支持と支援」を断固続けると明言しています。それをどこまで貫けるか。米国の「亡者」に横槍を喰らわせられれば、一瞬にして「態度豹変(ウクライナへの裏切り)」とならないか。米国の片棒を担ぎ、その尻馬に乗ることを国是としている小国が、はたしてその意志を貫けるか。いや、断固として貫くべきです。

【産経抄】ウクライナを忘れない、侵略戦争から3年 人は忘れやすい生き物である。ドイツの心理学者エビングハウスによれば、覚えた事柄の42%は20分後に忘れるという。1時間後には56%、1日後には74%を忘却する。人はそれゆえ繰り返し学び、思い出し、記憶に定着させる。▼ロシアがウクライナへの侵略を始めてから3年になる。露軍の暴虐、苦難に耐えて戦い続けるウクライナ国民の強さを、メディアは繰り返し伝えてきた。罪を負うべきはプーチン露大統領であり、どれほど時間がたとうと、その事実は変わらない。▼避難した先のロンドンで働く通訳の男性は、英首相官邸近くで毎週デモに加わり、ウクライナを忘れるなと訴え続ける。「これはウクライナだけの戦争じゃない…全体主義に対する民主主義の戦いなんだ」(『ウクライナ わたしのことも思いだして』ジョージ・バトラー著)。▼トランプ米大統領はしかし、侵略戦争を「ウクライナが始めた」と難じ、ゼレンスキー大統領を「独裁者」と痛罵する。米露の停戦交渉はウクライナや欧州の頭越しに進みつつある。トランプ氏の記憶力を疑うわけではないが、非難の矛先を誤ったまま決着を急ぐ構図は危うい。▼帝政ロシア期のウクライナの詩人、タラス・シェフチェンコに『遺言』という詩がある。<さあ、わたしを地に埋めて、立ちあがれ。重い鎖を断ち切り、手に入れた自由を圧政者たちの血で洗え>。かの国にとり、解放は血に刷り込まれた願いだ。▼詩には続きがある。<そして、すばらしい新たな家族とともに、自由の民とともに、やさしい言葉でそっと、わたしのことも思いだしてくれ>。祖国を守るため、いまも前線や銃後で戦う人々を見放してはなるまい。小欄もまた、繰り返し書き続けていく。(産經氏新聞・2025/02/24)

 「最大の『レガシー』は停戦実現、功名心で前のめりのトランプ氏…見透かしつけ込むプーチン氏 トランプ氏は昨年秋の大統領選で、ウクライナ支援を続けてきた当時のバイデン政権を批判し、『即時停戦』を公約に掲げて当選した。/トランプ氏が前のめりなのは、停戦実現を大統領としての『最大のレガシー(政治的遺産)』(19日の演説)としたいからだ」「この3年間、米欧の制裁で国際社会で孤立を深めたロシアは、停戦を急ぐトランプ氏の思惑を見透かし、制裁解除を含め最大限つけ込むとみられる。/『この戦争を終わらせることができるのはあなただけだ』。プーチン氏は12日の電話会談でトランプ氏にこう語って持ち上げた。/トランプ氏は交渉相手に厳しい要求を突きつけ、譲歩を引き出す『ディール(取引)』を好む。だが、トランプ氏はウクライナのNATO加盟反対などロシアが重視するカードを早くも切っている。『ロシアに対する交渉のテコを一方的に放棄している』(政治専門紙ポリティコ)との指摘もあり、交渉はいずれ行き詰まる恐れもある(以下略)」(読売新聞オンライン・2025/02/23)(https://news.yahoo.co.jp/articles/0e2794dbe3dcd1af285acfe81d55802e0dbbc0d0?page=2

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【北斗星】「まだもののかたちに雪の積もりをり」。2005年に開かれた本社主催の第78回全県俳句大会で講師を務めた片山由美子さんの代表句だ。降り積もる雪がやがては物の輪郭さえ覆い尽くそうとしている情景を描いた▼17日に積雪ゼロだった秋田市にまとまった雪が降った19日、雪の積もった車を見てこの句を思い出した。今月上旬からの寒波が列島を去った後、半ば過ぎから新たな寒波が居座っている▼同様に積雪がなかった能代市は21日に約60センチ。北秋田市鷹巣は同日の積雪深が141センチと1979年以降の観測史上最大となった。もはや「もののかたち」どころではない。春を目前にして除雪に追われた住民は雪雲を恨みたくもなろう▼寒波は日本海側を中心に大雪をもたらし、中には積雪が5メートルに達した地域があった。石川県には「顕著な大雪情報」も出された。能登半島地震被災地の仮設住宅では高齢者が多く暮らす。その駐車場の車が雪に覆われた。ボランティアが周辺の除雪を始めたと知りホッとした▼ただ高齢化が著しいという事情は本県も同じだ。県北地域では時ならぬ大雪でJRや路線バスまで大混乱。人手不足の昨今、屋根の雪下ろしや除排雪を早急に頼める業者を見つけることは難しい。県内外から専門業者やボランティアが支援に駆け付けてくれるような仕組みが欲しい▼連休中の列島は雪や冷え込みが続く予報だ。屋根雪の落下にも細心の注意をしなくては。春到来まであともう一踏ん張り。(秋田魁新聞・2025/02/23)

 年明けから、再三に及んで「史上最強寒気団」なる、冬の「ならず者」が襲来し、劣島各地に破壊的災厄を齎す大雪、豪雪を積み増しています。ぼくはこれを、不謹慎の謗(そし)りを受けることを覚悟しながら、いったい何のため、誰のための「あとかくしの雪」かと思うのです。昔話に出てくる「旅の僧(弘法大師)」は、善行を施したいがために他人の「ダイコン一本」を盗んだ、貧しい生活を送るお婆さんの「足跡」を消すために雪を降らせたとされます。今、日本の各地で降り積もる大雪は、いったいなんのための「あとかくしの雪」であり、誰の所業をもみ消すための「あとかくしの雪」なのでしょうか。

 雪よ、もう降るな。何をしている、春よ来い!!! (筆者は苛立ち気味です。どうしても降りたいのなら、永田町か霞が関か)

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 『あとかくしの雪』 ― 新潟県 ― 語り 井上 瑤 再話 六渡 邦昭

 とんと昔があったげど。/ある冬の夕方、雪のふりつもった里の村に旅の坊さまがやってきた。/腹(はら)をすかせ、とぼらとぼら歩きながら、一軒(いっけん)一軒訪(たず)ねては、/「どうか一晩(ひとばん)だけ泊めて下され」/と、たのんで廻(まわ)ったと。が、どこの家でもみすぼらしい旅の坊さまの姿を見ると、/「よそに行ってくろ」/というて、泊めてくれなんだ。
 しかたなしに、寒い雪の道をふるえながら歩いていると、村はずれに小(ち)っこい家があった。/坊さまは、またことわられるかもしれんと思いながら、ホトホトと板戸(いたど)をたたくと、中から婆(ばあ)さまが出てきた。 /「宿がなくて困っています。どうか一晩だけ泊めて下され。」/「とめてあげたいども、おらとこは貧乏(びんぼう)でお坊さまに食うてもらうようなもんもないすけ、どうかよその家に行ってくれんかのう。」/「村中の家にたのんでみたが、どこの家でもことわられてしもうた。何もいらんから泊めて下されや。」/「そうかそうか、それは難儀(なんぎ)じゃろう。こんな家でよかったら泊まってくろ」/婆さまはそう言うと坊さまを家に入れ囲炉裏(いろり)に火を焚(た)いて部屋をあっためたんだと。/旅をしてきた坊さまだから、さぞかし腹をすかせているだろうと思ったが、食べさせられるような物は何にも無い。/婆さまは、夜おそうなってから家をぬけ出した。雪の上をあっちへよろよろ、こっちへよろよろしながら、ようやく金持ちの家の大根置き場へ行くと、大根を一本、こそっとぬすんできた。/雪の上には、婆さまの足あとがくっきりとついていたそうな。(以下略)(https://minwanoheya.jp/area/niigata_026/

(ヘッダー写真:「輪島市の仮設住宅では朝から雪かき」https://www.yomiuri.co.jp/national/20250222-OYT1T50061/

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「徒然に日乗」(666~672)

〇2025/02/23(日)午前中に買い物で、茂原まで。牛乳や食パンなどは、ほぼ毎日使うので、必ず補充しておく必要がある。それに、毎日の食料品(夕食用)の選定購入。寒いので、できるだけ身体が温まるものをと考えている。▶東北から山陰にかけて、日本海側の大雪は激しいものだった。強とも歯牙も大雪に見舞われている。石川県では被災地に無情の豪雪といった趣で、高齢者が無理をしてまでも屋根や道路の除雪作業をせざるを得ない状況に、遠くから地団太を踏んで何とかしたい、何とかならないかと切歯扼腕している。▶寒気団の影響は明日以降も続くという。交通事故や除雪中事故、それに異常な乾燥が続いているので、火災の注意も欠かせない。如月も下旬に入って、なお冬季の寒さが各地で続いている。(ヘッダー写真に見られるとおり、それこそ拷問のような無理強いを迫られる雪かきに思える)(672)

〇2025/02/22(土)朝、6時半過ぎにゴミ出しに。車内の気温は-4℃だった。列島日本海側の各地で激しい降雪が続いているのだ。石川県の豪雪には言葉もない。また各地では軒並み、史上最高記録という。「線状降雪帯」の仕業だが、これもまた海水温度の異様な高さによるともいわれている。四季ならぬ二季(夏・冬)の両者に共通して温暖化の負の影響での豪雨と豪雪が発生する。要路の人間たちは何を考えているのだろうか。▶午後3時半頃、小生からT君(都下私立学校教師)に電話。「御機嫌伺」のため。相変わらずの多忙で、くれぐれも健康に留意してほしいと願う。入試も終わったらしい。早速に男女共学の効果が出て、応募者は増えたという。これに、普段の授業等が充実すれば、かなりの展望が持てるのだが。(671)

〇2025/02/21(金)穏やかな日差しに恵まれた日だった。▶午前中に買い物、茂原まで。ついでに、今年度の最後の諸税を払い込むつもりだったが、料金が不足していて、本日は取りやめた。帰宅後、大阪のS君から電話。先日の拙宅訪問を準備してくれたのだったが、その彼がパソコン用のハードの新品を贈ってくれた、その設置具合などを問い合わせてきた。まだ、新規の器械を設定してなかったので、陽気がよくなった段階で、少し大きめのモニター(32型)を購入して、データを移し替えようかと考えている旨を伝えた。すでに一台、32型を使用している。ごく初期のころから(もう二十年以上も)、彼には本当にパソコン関係の設定などには世話になりっぱなし。申し訳ないと思いつつ、感謝している。(670)

〇2025/02/20(木)陽射しはあるが、風が強く、かなり寒い一日だった。▶午前中に、過日拙宅に来てくれた卒業生たちにお礼の葉書を出しておいた。総勢13名(+スマホ電話参加1名)だったが、ゆっくりと話すことはできなかったが、全員で5~6時間も一緒に過ごせたのだから、まさしく「番外ゼミ」の雰囲気があった。三十年の間隔を感じさせないのは、少なくとも二年間、あるいは人によってはそれ以上の時間をともに教室で過ごした恩恵でもあったろう。この後も、元気で過ごされますように。▶茂原緑ヶ丘に昨年開店した「業務用ス―パー」、ごくまれに利用するが、ほとんど「食指」が動かないのに理由がありそう。すべての商品がそうだとは思えないが、分量が多すぎるのだ。特に食品などは夫婦では食べきれないし、何よりも好みが合わないといっておく。天然水などは、助かりはするが、それ以外ではしばしば利用しようという気にならない。(669)

〇2025/02/19(水)朝6時半ころに「ビン・カン」回収日(月一、第3水曜日)のために集積所まで出しに行く。相変わらず、猫缶は収集袋一杯になる。いささかも減らないのが不思議。▶十時過ぎに猫缶を買うためにあすみが丘へのH.C.へ。とても風の強い日であり、気温もあまり上がっていなかったようだ。例の寒気団が劣島上空に陣取って、しこたま雪を降らせているのだろうか。交通事故を含めて、犠牲者が出ないことを祈る。(668)

〇2025/02/18(火)風が強く、そのために気温は低くはないが、とても寒い日だった。▶お昼前に買い物、茂原まで。かみさんは午後、茂原にまで出かける。▶七尾市に依頼していた「寄付金(災害義援金)」の領収書が届いていないので、問い合わせたところ、昨日発送したとか。電話の直後に、郵便配達があった。今回の寒気団居座りの影響でたくさんの降雪があったという。(667)

〇2025/02/17(月)午前十時頃に近所のH.C.まで、猫のドライフードを買うために出かけた。乾燥食品の食害というか、薬害が報道されている中、いささか気にはなるが、かなり好んで食べ続けている商品で、どうしてもそれを選んでしまう。厳密に調べて買うとなると、人間用の食品も同じことだろうが、猫などのペットの食料品となると一層気を付ける必要がありそう。人間用ほどに規制が厳しいとは思えないからだ。▶本日は春の陽気で、17度ほどもあった。明日からは、地域によって再び強烈な寒気団が居座るらしい。風や風邪などには十分に気を付けたい。▶コメの備蓄米放出が決まったそうだが、それが消費者に届く時(三月段階という)の値段が、今よりも下がるとはとても思われないのだ。これまで「コメの仲買」などしていなかったような業者が、せっせと溜め込んでいるという。儲かるならなんだってするという業者の暗躍する状況にぼくたちは住んでいるのだ。さらには、農家そのものが「売り惜しみ」をして溜め込んでいるとも報じられている。何かにつけて、忌まわしい時代になったものだと痛感する。この国では農政は政治に翻弄されてきた。その挙句に「農政」とは「ノー政」のことかという事態に陥っている。(666)

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・ふる雪やすでに深雪の一伽藍 (橋本鶏二)
・樹も橋もこの世にありぬ深雪晴 (清水径子)
・深雪掻く家と家とをつながんと( 西東三鬼)

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今年八十の「生き物係」です

⦿ 週初に愚考する(五拾八)~ まだ小学生の頃、ときどき自宅近くに「野犬狩り」、通称「犬とり」と呼ばれていた人たちが、金属製の輪のついた道具(首を絞めるため)をもっていて「野良犬(飼い主のいない犬)」を掴まえては、檻(おり)のような籠に入れてどこかへ連れて行く場面を何度か目にしたことがあります。以来、「いぬとり」という語感にはとても気味の悪い印象持つようになりました。野犬の取り締まりなのでしょうが、その後はどうするか、どういう処分の仕方をしていたか、当時も今も、「処分方法は一つ」だとするなら、何とも野蛮極まるというべきです。人間を殺害すること(死刑も含めて)が人間の社会では日常的に見られるのですから、ぼくたちは、殺す、殺されるということに関しては著しく不感症になっているのでしょう。戦争における「殺戮行為」は、むしろ誇るべきであるとさえ、見られるのをなんとしますか。

 中学2年生になり、クラス担任は体育の教師だったが、彼は何かあると、きっと生徒に暴力(体罰)を振るうことで有名だった。彼に限らず、男性教師に限らず、時代の風潮は「体罰野放し状態」でしたね。ぼくも一度、担任教師に張り手を喰らったことがある。どこかで触れたと思うが、殴られるほどの悪さをしたのではなかった。ともかく、その教師は生徒たちからはひどく嫌われていたのは事実でした。彼につけられた綽名(あだな)が「いぬとり」あるいは「いぬごろし」でした。この教師とは因縁があり、ぼくの弟も彼の担任クラスに入っていた。十年以上も前に亡くなられたが、晩年は、あるきっかけで年賀状のやり取りをしていました。「中学生」だったぼくのことを、あの S 先生は覚えていたでしょうか。

【国原譜】自宅近所で見かける数匹の野良猫と付き合っている。耳にV字型の切れ込みがあり、その形が桜の花びらのようだから「さくら猫」とも呼ばれる。▶いわゆる「地域猫」である。猫のふんなどで苦情も出ていることから、猫好きの住民らがボランティアで、耳カットをして不妊手術を施したという。▶県内の自治体でも取り組みが行われており、奈良市では野良猫を増やさないための「TNR活動」を実施している。捕獲して不妊手術を行い、元の場所に戻すというものだ。▶当然ながら、地域猫は一代限りだ。強制的な手術で命をつなぐ道を絶つことに、もやもやした思いは残る。もっと別の「共生」の形はないかとも思う。▶奈良公園の鹿は「奈良のシカ」という国の天然記念物。野良鹿とは言わないが野生だ。地域猫とはずいぶん境遇が違うが、人間社会が軸だから仕方ないのかも。▶2月22日は「猫の日」だという。「にゃん・にゃん・にゃん」の語呂合わせ。付き合いといっても、少し懐いてきたので餌をやるぐらいだ。それを快く思わない人もいるだろうが。でも、その命はいとおしい。(北)(奈良新聞・2025/02/22)

 ある時期まで、自宅にはいつも犬がいた。複数ではなく、いつだって「一人(一頭)」だけでした。その後、京都を離れ、大学を卒業し、やがて結婚し、子どもができてから、知らない間に、子どもたちが「野良犬」や「野良猫」を家に連れてきて、以来半世紀、何時もたくさんの猫(時には犬も)といっしょに住む生活を続けてきました。ぼくの感覚では「猫(犬)を飼う」という気持ちになることがないのです。「猫(犬)と暮らす」「子どもと暮らす」ということ。これまでにどれくらいの数の猫たちと暮らして来たでしょうか。記録を残していないが、おそらく50に近いか、それを超えているか。(以下の猫がたくさんいる写真は、各地にある猫島の一つとして有名になった「青島」(愛媛県)の猫たち。https://ontrip.jal.co.jp/tohoku/17578036

 しばしば、「猫が好きですか?」と尋ねられ、「猫を飼っているんですか?」と話しかけられる。ぼくはいつだって、それに対して「好きではありませんよ」「飼いネコ(ペット)ではない」と返事をする始末。好き嫌いを越えて、何とかしなければ「猫が困るでしょう」というだけのこと。「誰も面倒を見ないのなら、当方が世話をする」というばかり。一つや二つではなく、たちまちのうちに複数の「野良猫」が我が家に集まるようになりました。十数匹になることもありました。いろいろな理由で猫が亡くなるのですが、最後の「看取り」まで付き合ってきました。具合が悪くなれば動物病院に連れて行く、亡くなればペット霊園で「荼毘(だび(jhāpeti)」に付す、遺骨を持ち帰る。その骨を自宅の庭などに埋めてきましたが、あまりにも数が増えたので、今でも拙宅で骨壺に入れたままで保管している。今住んでいる敷地内にいくつもの、新しい「猫の骨」が埋葬されています。

 (「子どもが好きだから、教師になりたい」という。「嫌いになったから、教師を辞める」というのでしょうか。猫といっしょにしてはいけないでしょうが、「好き・嫌い」を超えたところで付き合うのでなければ、なかなか教師も猫トモも勤まらないと思う。好きなのは当たり前、それを論じますかといいたいですね。ついでに言っておきます。「子どもと付き合うことに自信をなくした」という人もいます。やる前は自信があったんですかと、逆に尋ねたい。今、ペット飼育で大きな問題になっているのは、「好きだから飼いたい」、「嫌いになったから捨てる」、こんな性悪な根性でペットを弄ぶ輩(やから)が多すぎるんですね。人間の付き合い(結婚など、子育ても含めて)にも、同じような「短絡的な」感情のはき違えが横行しているように思う。ペットとの付き合いでも、教師の仕事でも、とにかく「無理をしないこと」です。ゆっくり付き合って初めて、分かり合えることがあるんです。同じ人間と五十年いっしょにいても、もちろん理解ができないところが残るんですから、なんにせよ、生き物同士は謎だらけ)

 今現在、拙宅には二十の猫たちがいる。そのすべてが、おとなしく家に収まっているかといえば、とんでもないというばかり。夜は外にいて(居場所は分からない)、食事だけは必ず家に帰ってきて食べる子もいる。仲間同士で喧嘩して、弱いものを家にいれないこともある(イジメる子は許せないが、なかなか治らない)。そのほとんどは自宅近くの林で生まれた「野性(野良)の子」で、中には拙宅でお産の面倒を見た子もいくつもいます。そのすべては「去勢」「避妊」の手術を施してあります。なかなかの物入りでしたが、何とか工面して今に至っている。もちろん喧嘩をして怪我(けが)をする、あるいは病気になる、そんなときは動物病院に連れて行く。「家の飼い猫」としているのではありませんから、医者に連れて行くにも一苦労。今は少なくなりましたが、噛まれたり引っ掛かれたりと生傷は絶えないことでした。それでも、なんとかいっしょに暮らすことを続けているのです。

 近所の人はこの「猫屋敷」の住人をどう見ているか、わざわざ尋ねないからわからないが、おそらく、猫たちが迷惑をかけていることと思うので、なかなか気が引けるのです。「どうしてそんなにたくさんの猫を」と思われるでしょうが、それには理由(事情)がある、少し離れた隣家(50mほど東)にたくさんの猫がいました。今でもいる。ほとんど面倒を見ていないに等しい状態がずっと続いています。もちろん「手術」などは一切しないから、毎年たくさんの子どもが生まれる。食事も満足に与えられていないから、自然淘汰(餓死・病死)で、極端に増えることはない。この家の住人に、近所の誰もが「何とかしてください」と言わないままでずいぶん時間が経ったと聞く。話にならない、取りつく島がないのですね。ぼくも何度か話をしたが、先ず受け入れない。「あれはうちの猫ではない。野良猫だ」というばかり。キャットフードを与えているような与えていないような。お腹が大きくなっても満足に食事にありつけないので、勢い、少し離れている隣(拙宅)に来る。かみさんがみかねて(見るに忍びなくて)、食事をやりだした。そこから、爆発的に「猫口増」が始まり、今に至っているのです。

 あれこれと書けば、なんだ愚痴を言ってるんじゃないかと受け取られそうですから、これ以上は書きません。やれるならやる、まあ、できる範囲で猫と暮らすというだけのこと。決して見せびらかすのではない、当たり前に泣いたり騒いだりという日常を送りたいし、そうしているつもり。その暮らし方は「同居アリ」「別居アリ」「養子もアリ」「何でもアリ」ですね。猫が家にいると、それもたくさんいると、家を留守にできないのが難点です。夫婦のどちらかはきっと家に残る必要があり、交代で外の用事を済ませることにしています。多くの猫たちは、日中は外で過ごすことが多いので、いつも自由に出入りできるようにしてある。このところいくつかのよそ者(家猫らしい)が家に入ってきて、家の猫の食餌を盗る。喧嘩をすることもあるので、なかなか気が抜けない状態が続きます。

 いつも感心するのは、各地で「地域猫」と称して、野良猫たちの世話をしている人々がたくさんいることです。もちろん、その猫たちには必要な(と人間が感がる)手術や治療を施している。なかには何人もの世話係が付きっ切りで面倒を見ているところも多い。地域全体がそれを理解しているとは限らないので、ご苦労なことに頭が下がります。有名無名含めて、いくつもの団体が「飼い主のいない猫たち」の世話係をしているのです。また、「保護猫」と称して、飼い主を探す(仲介を斡旋する)活動をしているところもあります。もちろん「猫カフェ」なども、近年は多い。

 ただ今は、第何次か知りませんが、「飼い猫ブーム」だそうです。もちろん、地域猫や保護猫の「親」になる人も多いのでしょう。でもブームの大半は「ペットショップ」からの「買い猫」ではないか。拙宅からは少し離れた国道沿いにも「ペットショップ」があります。この業界の陰の事情を少し知るだけでも、身の毛が弥立(よだ)つほどです。「子犬・子猫入荷しました」「値下げします」などと宣伝に努めているのを見るたびに、一日も早く「ペットショップ」を法的には禁止してほしいと願うのです。こんなところにも、ぼくは「人間中心主義(humanism」を見てしまいます。ヒューマニズムとは人間のエゴイズム(egocentrism)でもあるんですね。あらゆる事柄が「人間中心」「人間本意」で動いている、それは無条件に受け入れられることでしょうか。「人間を尊重すること」の「核心」は「いのちを尊ぶ」です。だから、人間の隣にいる「生き物を大事に」という姿勢・態度が育つのでなければ、他人を尊ぶことはまずできない相談でしょう。「我が子」だけ「うちのペット」だけをかわいがるという偏った精神が、社会全体を歪(いびつ)なものにしていると思います。

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