
⦿ 週初に愚考する(五拾四)~ さまざまな議論を経たうえで「大学入試共通テスト」が導入されて、すでに三十五年。今次の受験生は49万人余。その経緯や背景には触れない。大学受験における過当競争の弊害を是正するために導き入れられたのは事実だったが、その効果は、三十数年後にどうなったか。議論もあろうが、「合否判定のための試験」であるかぎり、問題点は残されているだろう。当初は公立大学受験生にのみ適応されていたが、やがて、その範囲は広げられ、今では当たり前に私立大学(受験生)にも適応されている。
本日は「共通テスト」第二日目。今季、最も寒い時期に遭遇しての試験である。もちろん、このテストで「大学入試」は終わりではない。さらに各自が目指す個別大学への入学テストが控えている。この吐露当然のことながら、各紙のコラムも大学入試にまつわる話題を取り上げていた。そのいくつかを読んで、自らの受験経験が思い出されてきた。もう60年も前のことになる。大学入試風景も実態も、一変し感がある。しかし、受験者自身の心持は、それほど変わっているとは言えないだろう。
以下に引用したコラム三題。それぞれの主張や意見は異なるように見えて、その実は「大学入試」に対しては同じような感情(あるいは評価)を持っているようにも、ぼくには読めたのだ。大学入試が「人生の一大事」、簡単に言うと、そのように考えられていないか、と。わざわざそれを否定するものではないけれど、新聞のコラムを書くような人は、それなりに「大学受験」肯定派だと思うことからすれば、いくつかの感慨がわく。
➀「寒烈の季節に耐え、坂を上り切った先には、春の景色が開けているに違いない」(産経抄) ➁「試験が全てではないし、合格がゴールでもない。その時々の目標に全力を尽くせばきっと、春はすぐそこ」(有明抄) ➂「『人生は不条理に満ちている』『敗北をおそれず、勝利に甘えるな』」(談話室)

一つ一つのコラムが言おうとするところは明らかだろう。「試験は大変だけど、最後まで頑張って。その先には、明るい未来が開けてい来る」とでも言いたげな、若者への励ましと助言に意を傾けている。とにかく目指す大学に「合格すること」、それが何よりだけれど、そこに甘んじてはいけないとでも言うようだが、とにかく、人生に占める「大学」の位置は高い、大学で学ぶことを高く評価しているのだろう。本当に、筆者たちはそう考えているのだろうか。何よりも「大卒」が人生の基本条件になるのだ、と。
それを端的に示しているのが灘高の教師の一言だ。三十年前、阪神淡路大震災直後の、神戸の高校生(受験生)は「こんな時に勉強してていいのか」と煩悶した。その生徒に対して教師は「『今こそ学べ』。形あるものは壊れても学んだものはなくならない」と、背中を押したのだという。高校の教師なら、きっとこういうアドヴァイスをするのがほとんどではないかと、ぼくは想っている。それで何が間違っているかと、逆に詰問されるかもしれない。目の前に途方に暮れて、困憊している人々がいる。助けを求めているのだ。自分には今やるべきことがあると思うが、この人たちを放置できない。どうしたらいいか。その生徒に対して、脇目なんか振らないで、「今こそ学べ」と。ぼくは、「エッ、そうだろうか」と率直に疑問を持つ。現実にぼくの目の前に同じ状況が広がっているなら、間違いなしにそう言うだろうか。「学ぶことはいつだってできる」「自分のできる範囲で他人の役立つように行動すべきだ」と、一瞬の間も置かないで言っただろう。

これ以上は言わない。このところ、盛んに叫ばれているのは「助かるいのち」ということである。「あの時、ああしていれば、あの人は助かったのだ」と、届いてくるのは後悔と怨嗟の叫び声であり、激しい嗚咽を伴う怒りのようなものではなかったか。「人生の大事」は、人によって異なるし、時によっても同じものとは限らない。とっさの判断や選択に迫られたとき、ぼくは何を選ぶだろうか、何を選択の優先条件にするだろうか。そんなことを考えてしまう。何はともあれ、今、受験シーズンは始まったばかり。この「人生のシーズン」には「オフ」はないのだと、ぼくは考えてきた。大学入学後も、ずっと同じことを考え続けてきた。「今こそ学べ」というのは、「今やるべきことをせよ」という意味だろう。入試なんて、時と場合によっては投げ捨てても構わない時があるのだ、そうではないか。
作家の五木さんが言われている「人生は不条理に満ちている」とは、単に「戦時中」の「人生」を指しているのではないと思う。「平時」が輪切り(極限化)にされて現出するのが戦時だからだ。戦争には理不尽さや不条理が満ち満ちているのは確かだが、それは「平時」に存在しているのと同じ性質のものであって、きわめて特化されて見えるだけのこと。いまだって、同じことが生じている。ガザやウクライナにだけ「不条理」「理不尽」があるのではなく、ぼくたちが安閑と暮らしている、その地面の上でも「不条理」や「理不尽」は繰り広げられているではないか。遠い他国で起こっていることとは、たしかに表向きの姿は異なるように思えるけれど、それは錯覚にすぎないのだ。どこにだって「暴力(子どもや女性、老人に対する無差別の殺戮行為)」が幅を利かせているのであって、「対岸の暴力」は必ず「此岸の暴力」に通底している、そう考えてみれば、対岸の暴力は、わが日常にもあることを知るだろう。そのような時代や社会、ひいては世界状況の中で、人々の「大学受験」や「就職」や「結婚」、あるいは「困窮」や「病気」が起こっているのではないだろうか。五木さんの言われたという「敗北をおそれず、勝利に甘えるな」というのは何を指しているのだろうか。まさか「(受験)不合格や合格(だけ)」を指しているのではあるまい。

悩める若者に、まるで優しく、念を押すように「胸ポケットに『信』の一字を忍ばせておくことも、お忘れなく」と「産経抄」氏は書く。「信」とは何だろうか。「自信に倍する心の惑い」と書かれているから、それは「(自信の)信」ということかもしれない。とするなら、何とも変なことを言っていると、ぼくなどは読んでしまう。「疑い」と「信」は背中合わせだし、切り離せないもの。いつだって、ぼくの胸には「信と疑」が同居・葛藤しているのだ。「信」の中から疑いが、「疑」の底から「信」が生まれだすのではないか。
【産経抄】「信」の一字胸に、受験シーズン本格化 いつもの地下鉄で家路をたどっていた夜、学生服姿の男の子が隣に立った。手にした本の開いたページに、赤いシートを重ねている。受験生だろうか。大変ですね。胸の内でそっとつぶやくと、長く深いため息が隣から聞こえた。▼窓に映る彼の視線は本の上にない。宙に向け「はぁ~」と2度、3度。余情が尾を引く嘆息だった。「読書もとよりはなはだ必要である、ただ一を読んで十を疑い百を考うる事が必要である」と言ったのは物理学者の寺田寅彦だが、隣の彼は何を疑い、何を考えていたのだろう。▼「疑」という字の左半分は、人が後ろを向いて立ち尽くし、進退を決めかねた姿を表している。地下鉄で聞いたため息は、「疑」の成分が多くの割合を占めているように思われた。自信に倍する心の惑いを、制服の下に抱えていたのかもしれない。▼何が大事か分からなくなるまで参考書に下線を引き、問題集に頭を抱え、模擬試験の合否判定に打ちのめされ…。自分の可能性を疑い、ため息をついた日々は、背丈を上へ上へと伸ばす肥やしになったはずである。あとは自分を信じるのみだろう。▼大学入学共通テストが始まった。コンピューターやネットの基礎知識などを問う「情報Ⅰ」が今年から加わり、受験生の思考力を問う傾向が強まったと聞く。時間内でより多く考え、より多く正答を書き込まねばならない。地下鉄の彼も、試験会場で自分を疑うひまはあるまい。▼折しも、暦は「大寒」が近い。受験生にとってはここからが胸突き八丁、容赦ない北風との勝負である。寒烈の季節に耐え、坂を上り切った先には、春の景色が開けているに違いない。ご健闘を。胸ポケットに「信」の一字を忍ばせておくことも、お忘れなく。(產經新聞・2025/01/19)
【有明抄】頑張れ受験生 作家の故井上靖さんの歴史小説『敦煌』は、主人公が「科挙」の最終試験に臨む場面から始まる。主人公は優秀で試験に落ちることは考えてもいなかったが、待ち時間の間に居眠りしてしまい、試験を受け損ねる。さすがに居眠りはないだろうが、さまざまな理由でそれまでの苦労が水の泡になることもある◆きょうから大学入学共通テストが始まる。インフルエンザが流行中だが、体調は大丈夫だろうか。受験生にとってまず大切なのは、試験会場に無事にたどり着くこと。受験生も、支える家族もつらい時期。最後まで気を抜かないで◆今年は高校の新しい学習指導要領に対応した最初のテスト。これまでの6教科30科目から7教科21科目に再編され、新教科の「情報」が加わる。制度に振り回される受験生は不条理を感じているだろう。でも、30年前はもっと大変だった◆1995年の大学入試センター試験は1月14、15の両日に開催。終わった2日後の17日に阪神大震災が起きた。被災地の受験生は2次試験の勉強どころではなかったろう。頑張れる環境にあるのは幸せなことだ◆冒頭の『敦煌』の主人公は失望して街をさまよううち、一人の女性を助けたことを縁に冒険の旅に出る。試験が全てではないし、合格がゴールでもない。その時々の目標に全力を尽くせばきっと、春はすぐそこ。(義)(長崎新聞・2025/01/18)
【談話室】▼▽高校生と話をしてみませんか。作家五木寛之さんに数年前、依頼が舞い込んだ。相手は有名進学校として知られる神戸市の灘高。内容は「七〇歳年下の君たちへ」として書籍化された。エリート予備軍に何を語ったか。▼▽五木さんは80年前の戦争について話した。外地で敗戦を迎えて、耐え難い経験をして生き延びた記憶だ。若者に「人生は不条理に満ちている」ことを伝えたかったという。それでも、乗り越えていくしかないと。「敗北をおそれず、勝利に甘えるな」。熱いエールを送った。▼▽一方の灘高生も30年前、阪神大震災という不条理に襲われた。センター試験の翌々日だ。学校は遺体安置所に。「こんな時に勉強してていいのか」。動揺する生徒たちを教師はこう後押ししたという。「今こそ学べ」。形あるものは壊れても学んだものはなくならない、と。▼▽歩みをやめなかった当時の若者が復興に携わり、現在の神戸を築いたのだろう。全国各地で頻発している災害は、これからも起きる可能性が高い。乗り越えていくには、若者の知恵や熱意が必要になるだろう。先の教師の教えが痛切に響く中、大学入学共通テストが始まる。(2025/01/18)
「試験が全てではないし、合格がゴールでもない。その時々の目標に全力を尽くせばきっと、春はすぐそこ」というけれど、その「春」には、すでに「夏」「秋」「冬」が用意されていることを忘れないのがいいですね。
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