強請(ゆす)れば強請るほど…

◎週初に愚考する(六十六)~ 「なりふり(形振り)構わず」、今回の米大統領の高関税発動というブラフ(bluff)をみて、経済のド素人である拙者は、この言葉を使いたくなった。その心は、自分をデカく見せたいのとアメリカを大きく強い国であると言い張るだけの「空虚(emptiness)」な去勢(同語反復)の再々現だったと思う。遥か後ろに屯(たむろ)していたと見下し、「惰眠を貪って」安閑としていたツケがここに回ってきたのだ。つまりは「張り子の虎」視していた中国の著しい擡頭ぶりに肝を冷やしたというばかり。国力の指標は経済力と軍事力と見なされてきたが、この二つの目印・目盛りはともに、米中の序列は逆転したとは衆目の一致するところとされる。この国家危機(国難)に臨んで、「一発逆転」を狙ったまではよかったが、何しろ「実力・資質・品性」がない上に準備がまったくなかったのだから、誰だって、実力の伴わない「四番バッター」の足元(馬脚)を見るだろう。「顔を洗って出直します」と、高慢ちきな大統領自らが言ったに等しい構図が描けそうです。(上図表は「エコノミスト」誌」より)(https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20190924/se1/00m/020/024000c

 日米関税交渉(Japan-U.S. tariff negotiations)とはいうものの、何のことはない。二国間の貿易不均衡、貿易構造問題に姿を変えているのは、まさしく、そこに米国の窮状が透けて見えるからだというもの。アメ車が日本で売れないのは、日本の規制が厳しいからであり、それを何とかしろというのは、はたして「関税問題」か。性能が悪い上に、値段が高いからという、当然の欠陥を直視しないのは、アメ車の駄目さ加減を知っているからだろう。もっと農産品の市場開放をと脅迫するが、脅しに屈しては日本の農業はさらに窮状に嵌るだけ。今だって、日本は米国産品を買いすぎている。アメリカ産出エネルギー事業にもっと投資を、もっともっと戦争の武器を買えという、「もっとの連発」の段になると、交渉役は、机をたたき背中を向けて帰国してもいい話ではないか。二国間交渉というのは米国には好都合だし、その一番バッターが日本と来た日には、好き放題の「ブラフ」がかけられると踏んだからである。脅しや強請(ゆすり)には格好の相手と見透かされたもの。強請れば強請るほど、思い通りに「言いなりになった」元総理大臣もいたしなあ、と。

 そこへ来て、追加関税発動の90日間停止とは、つまりは「この話はなかったことにする」というチャラすぎる結末。中国に145%の関税賦課を実施すると、驚くなかれ、米国内ではアイフォン一台が50万超(円)になると聞かされて、驚き、慌てて「訂正」「修正」「取り繕い」に奔るあたり、Tが愚かなら、取り巻き(entourage)までもが愚かしいことが判明したというお粗末加減だった。関税はかけられた国が払うのだと、信じていた節があるとは、お粗末以下の以下、なんというべきか、底なし沼の馬鹿さ加減です。そして、今次の大騒動に関する、いくつもの論評を見たり読んだりしていると、多くは「トランプは終わった(賭けは済んだ)」(Trump is over. (the cards are done.)とある。虎の威を借りる「狐」は腐るほどいるけれど、猫に鈴をつける輩(鼠)は何処にもいないのか。そうだろうな、そして思う、「岩盤支持層」は、本当に「岩盤」だったのかどうか、と。多くの支持層は逃げ出す算段に忙しい。

 そういうことなのだろうか。こうなると、「急いては事を仕損じる(Hurrying makes a mistake)」となるのは目に見えている。我が邦の交渉役も、揉み手をし、腰をかがめて、ご機嫌を取る卑屈な態度をを辞めなけれぼ。乾坤一擲、今こそ「弱り目に祟り目」とばかり、相手国に、少しは反旗を翻したらどうか。きっと「飼い犬に手を噛まれた」と悔しがるだろうに。国王(独裁者)に逆らうものはただでは置かぬとばかり、並みいる高学費「大学」に「制裁」「お仕置き」を喰らわせるというのも、ご愛敬。何をしているか、自分でもわからないのだろう。大統領になれば、二日間で「ロシア侵略戦争」を終わらせると強弁(ハッタリ)していた件、とても簡単には終わりそうにないから「手を引く」と泣き言を垂らす。「和平」や「休戦交渉」に真剣味がなかったことが、改めて明らかになっただけ。ぼくは何度でも言いたい、ここがチャンス。アメリカの「ケツを舐める(Licking ass)」(大統領自身が、記者たちの前で使った「卑猥・下品この上ない言葉」)、舐め続ける恥辱・愚行を今こそ、この国は漱(すす)ぐ時が来たのだ。

 敗戦後、八十年というけれど、言葉を変えれば「アメリカ(米軍駐留)支配)八十年」ということと同義となる。隷属(subordination)八十年を止める、千載一遇の好機到来だと思う。右に行こうが、左に行こうが、いずれにしても進退谷(きわ)まる事態は避けられないなら、自ら選んだ道で「谷まろう」ではないか、と拙者は愚考している。いやなこと夥しいが、この先、大変な「事変」が起る予感がする。

Trump says countries are “kissing my ass” to make trade deals U.S. President Donald Trump on Tuesday (April 8) said countries are “kissing my ass” to secure trade deals hours before increased tariffs were levied on China.(Reuters・2025/04/08)(https://jp.reuters.com/video/watch/idRW541209042025RP1/

【大観小観】▼トランプ関税に対する交渉が、日本が先頭バッターで始まった。しかし、いったい何を交渉するのか? ホワイトハウスの庭でトランプ大統領が得意気に掲げたボードの数字は、ノーベル賞学者も驚く根拠レス。着地点が全く見えてこない▼すでに自動車関税25%、鉄鋼・アルミ関税25%、相互関税10%は発動中だ。相互関税の日本上乗せ分14%を下げられればいいのか? そのために手土産を献上する。それで何が得られるのか?▼日本の後ろには、日本以上に上乗せされたベトナム、タイなどの東南アジア諸国、報復をいったん中止したEUなどが控えている。下手な妥協をすれば、世界の自由貿易体制は崩壊し、他国の恨みを買ってしまう▼トランプ大統領がやっているのは、「アンカリング効果」を狙った交渉術。ビジネススクールならどこでも教えている単純な方法だ。要するに、最初に大きくふっかけて、それを引き下げて相手にうまくいったと錯覚させる方法。ヤクザのやり口と同じだ。無意味な譲歩などせず、のらりくらりで交渉を引き伸ばすのはどうか。いずれ、トランプ大統領は失権し、関税政策は破綻する。(伊勢新聞・2025/04/19)
【あぶくま抄】この道 ♪この道はいつか来た道―。すり切れそうな心を、かつて歩んだいとおしい風景が優しくなでる。北原白秋の詩に、山田耕筰が曲を付けた。「日本の歌百選」に選ばれた童謡の至宝と言えよう▼この道をたどるのも、初めてではなかろう。関税引き上げを巡る日米交渉が始まった。米国側は自動車やコメの対日輸出の増加をもくろむ。為替が議題に上れば、円高ドル安への誘導も現実味を帯びる。「輸出の減速を見据え、国内で消費や投資を増やすべき」と、わが国では早くも内需拡大論が飛び出す▼40年前になる。5カ国の蔵相らがニューヨークの老舗ホテルに顔をそろえた。米国の輸出を増やし、貿易赤字を減らす各国の合意が整った。円高が進み、日本国内では内需拡大へ景気刺激策が取られた。一夜の宴のようなバブルは、デフレという名の凍土に化ける。国民生活が震え続けた歴史に、政府はいまだ「終焉[しゅうえん]」を告げてはいない▼「アカザワ、フー(赤沢って誰なの)」。ホワイトハウスは、相手の交渉役に戸惑いを隠さないとも伝わる。童謡の歌詞は続く。♪あかしやの花が咲いている―。さて、国の浮沈をかけた協議の行方はいかに。あだ花は二度と咲かさぬよう。(福島民報・2025/04/19)

◎ プラザ合意(Plaza Accord)= 1985年9月 22日にニューヨークのプラザホテルで開催された先進5ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議 G5で討議されたドル高是正のための一連の合意事項をいう。当時,アメリカは巨額の財政赤字や高金利を背景にドルの独歩高を通じて膨大な貿易収支の赤字を発生させ,世界的な対外不均衡が問題となっていた。さらにアメリカ国内で台頭してきた保護貿易主義に対抗することもあって,ドルの独歩高の修正を通じて対外不均衡を為替レート調整で是正しようとするものであった。この合意に基づき各国はドル売りの協調介入に乗出し,円・ドルレートでみれば1ドル=240円台となっていたが,85年末には1ドル=200円まで一気に修正された。その後も一貫してドル安が続いたため,今度は過度のドル安がアメリカのインフレ圧力を増すとの懸念が台頭し,87年2月のルーブル合意へといたった。このプラザ合意は,(1) 経常収支の赤字国・黒字国が双方の責任として政策協調を行う,(2) 変動相場制度を継続するものの,ミスアラインメント (実質レートの均衡価からの乖離) の発生時には協調介入を行うという点で,その後の国際通貨制度を方向づけるものであった。(ブリタニカ国際大百科事典)

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自作自演ではなく、自問自答をこそ

 それこそ、何十年にもわたって、「いい授業とは?」という、雲をつかむような問題に首を突っ込んできました。その挙句、勤めを辞めた今でも、その問題から足が抜けなくなりました。「いい授業」がどんなものであるかわからずじまいという恥ずかしいことになってしまった。授業に限らず、「いい」「わるい」をいうときの「いい」は、それこそ時や場所に応じて、いくらでも内容や姿を変えれるんでしょうね。それでもなお、いくらでも姿や内容を変えるような、個々無数の教師による「授業(主観)」に共通する「(こどもにとっての)よさ(客観)」とはなにかということです。果たして、そんなものがあるかと訊き返されれば、返答に窮しますけれど、やはり、どこかにあるような気もするし、なければおかしいということにもなります。それこそが「雲」なんですね。人それぞれという意味は、万人に評価される(評価されない」教師はいないということ、誰もが誰かの教師になれるということでしょう。

 まさに「雲烟変態(うんえんへんたい)」、つかみどころ、とらえどころのないのが「授業」でしょうね。あるいは同じことですが、「雲烟縹渺(うんえんひょうびょう)」、実につかまえることすらできない、はるかかなたには「ある」のでしょうが、そんな「雲」か「霞(かすみ)」かの如くです。あるけれど、手に入れられない、それが「いい授業」なんでしょうね。つかんだと思った途端に姿も形もない、あると思ったのは錯覚、どこかに消える。

 これまでに、ぼくはしばしば教室にいる人たちに向かって「いい人って?」と尋ね続けました。「いい人」は何処にでもいそうで、いない、いざ答えるとなると、とても面倒、なかなか面倒な質問でもあったのでしょう。たくさんの学生たちは、ほとんどが即答できませんでした。それぞれが、自分流の「いい人」を持っていても不思議ではないのに、いざ問われると答えられない。かなり時間をかけても、出される返答は陳腐だったことが多かったと記憶しています。それほど、「いい」というものの尺度が定まっていない社会もまた、考えようによれば、息苦しいのかもしれません。ぼくに素晴らしい答えがあるはずもありませんが、このような曖昧そのままの「質問」には、間髪を入れずに答えられるようでありたいと、ぼくはいつも願っていましたから、自分流の「いい人」論を語ったりしたものでした。問われたことに応えるのは「記憶された知識」であって、それがないと、返答に窮する。つまり、「考える」という働きが極度に苦手なんでしょうか。「学ぶ」は「覚える」でいいのですけれど、覚える前に、「考える」がなければ、それは(言葉の)暗記でしかないんですがね。thinkすることから、thoughtが生まれる。それを知識と言ったり思想と言ったりしていますね。「考えられたこと」です。

 「いい人って、こういう人なんだよ」、それを言うと、「なあんだ」という顔をされたり、実際にそのように口にする人もいました。流行歌の歌詞にある「(わたしの)いい人」は、自分にとっての「彼氏」や「彼女」かもしれないが、さて、ぼく自身が誰かの彼氏(彼女)であったとして、それはどういう「人間か」ということです。勿体ぶっているようですが、なに、応えるのが恥ずかしいだけです、あまりにも単純素朴だから。ぼく自身、できればいつでもこういう人でありたいと念じて来ました。まあ「月光仮面」みたいな人物ですね。「いい人」と、ぼくが思うのは、「身近に困っている人がいたら、何とかして助ける・助けようとする人」でした。自分にできる範囲で助ける算段を、何時だってする・しようとする、そんな人間でありたいと考えてきました。「なあんだ」という顔をされそうですが、どんな顔をされも構わない、ぼくは「そんな自分」でありたいと思うばかりでした。もちろん「助ける」の内容もさまざまです。それを言えば際限がありませんけれど、その場で、少しでも「困った」人が「助けられた(助かった)」と感じ取れるような「助ける」を実践したいというのが、ぼくの宿願だった。雨に降られた人に傘を差しかけてやれるというような、そんな程度のことですよ。

 世の中にあって、単純な問題ほど難しいでしょうね。簡単と思うから、深く考えないで済ましてしまうからです。ぼくは、そんな単純だと受け取られるような問題ばかりに躓(つまづ)いてきました。「いい授業」「いい教師」など、何時まで経っても答えに窮するばかりだったと白状しておきます。このような問題については、この駄文録の一番根っこにある問題であるし、あったような気がしますから、手を変え品を変えて、ぼくは駄弁ってきたようにも思われます。多くの人が答えに窮するというのも、あるいは「質問の仕方」がよくないからだと言われるかもしれない。あまりにも漠然としているからです。たしかにその要素はあります。それでもなお、飽きもしないで「いい授業」「いい教師」と問い続けてきました。その時々で、出てくる答えのようなものは違っていたかもわかりませんが、よくよく見れば、みんながいい授業、いい教師などというものとは大違いであったことだけは確かです。「いい教師とは、教えない教師さ」という具合に。「教えるから学ばない」というのは本当ですね。その反対に「あの教師は教えなかったから、(自分は)自分で学んだ」というのは事実ですよ。

 林竹二さんの「まごまごする能力が教師には必要です」という問いかけはどうでしょう。林さんはギリシャ哲学の研究者、ことにプラトンの研究者でした。同時に、田中正造や新井 奥邃に関する優れた著作も遺されています。ぼくも大きな影響を受けた方だった。若いころは必至で林さんの姿を追っかけていたことを思い出します。同じような時期、灰谷さんからも多くを学んだ。後に一、二度お会いしたこともある。元小学校教師、作家文学者として多くの作品を残されています。二人に関しては、この駄文集録で何度も触れていますので、ここではこれ以上は触れない。

 「まごまごする能力」、それが教師には必要だと林さんは言われる。授業実践者としての教師は、もちろん授業研究の担い手でもあります。その「授業」には、古くからの伝統的「授業論(観)」があります。詳しくな述べないが、何よりも先に求められるのは、教師が授業を実践する際に必要とされるさまざまな目的や目標達成に必要な授業計画を作ることです。日々の授業にはそれぞれに応じた「授業案(学習指導案)」が作られるのが一般的なのでしょうか。

 どんな芝居(舞台)でも、必ず「脚本」(「台本」「シナリオ」)がありますでしょう。よく、「事実」は筋書きのないドラマなどと言われますが、演技者が演じる芝居には必ず「脚本」があって、それに基づいて芝居は展開されます。そして「迫真の演技」などと言われて賞賛されもするし、その反対だったりもします。たぶん、授業もまた「脚本(台本)」のある芝居に擬せられるかもしれない。教師と子どもたちによる「一場の芝居」です。そこには筋書きがあり「起承転結」がなければならないともいわれる。そこで、改めて「まごまごする教師の能力」とは何かと問いなおします。「教師の力量」などと、えんえんと議論されています。その「力量」の中にもいろいろな要素があるでしょう。林氏の言う「まごまごも」、その一つです。

 授業の核心は「問答」です。究極は「自問自答(ask oneself)」でしょうが、授業の中で、どれだけそれが行われるか、教師自身も「自問自答」の道を歩く。「まごまご」というのは、そのような「自問自答」が限りなく続く過程で生じる、「問いが答えを生み、その答えが新たな問いを引き出す」という一連の意識の流れでもあるでしょう。予定調和として授業を捉える人には「破綻」も「混乱」も起こらないでしょう。それをして、ぼくは「自作自演(self-made)」という。でも子どもといっしょに「まごまご(自問自答)」する教師にはきっと「立ち往生する」ことがあるはずです。林さん言うところの「まごまごする能力」はそれを指しているともいえそうです。子どもといっしょに考える、迷う。疑う、問い直す。そんな授業こそが、教師にも子どもにも、何かを齎(もたら)す授業だと、ぼくは思うのです。だから、教師は「これ判る人?」、「これできる人?」などとは言わないことです。子どもの持ち合わせの「知識」に頼るなんて、とぼくは言いたい気がします。持ち合わせの知識を壊すことこそ、実は授業の狙いなんですね。

 つまるところ、「一つの問いには必ず正解は一つ」という教師の描く筋書きこそ、授業のいのちを奪ってしまう。その「正解」は教師自身が決める(知っている)というのは、当たり前の事柄として受け取られるでしょうが、それこそ破綻もない代わりに、展開(緊張)もない授業になってしまうのではないでしょうか。教師が持ち合わせている既存の知識に依拠する授業なんて、さぞかしつまらないでしょうね。

 (今はまったく観なくなりましたが、映画やテレビの「教師もの」「教育もの」は、これまで見た者数は少しばかりでしたが、概してつまらないものだと思いました。まともに授業が成り立っている場面は皆無だったからです。具体例を出したいのですが、今は止めておく。そこには厳密な「筋書」「脚本」が幅を利かせているからでしょうか。授業にも筋書きはあって当然ですが、その筋書きに縛られては授業は生命を失います。その「筋書」は、多くは「授業案(学習指導案)」とされるもの。展開から時間配分まで丁寧に設定されていては、「まごまごする能力」が磨かれないのは当然ですね。その余地(「遊び」ともいう)がないのが「授業」、教師主体の授業なんですから。

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 (以下に「金口木舌」が触れている問題は、後日改めて考えることにします。(とても大きな問題、「教育の質」にかかわる問題ですね)

【金口木舌】社会で子を育てる 教育は「未来への投資」か。哲学者の朱喜哲(ちゅひちょる)さんは問いかける。「社会という単位で考えたとき、それはリターンを計測して『最大化』するような営みなのだろうか」(4月15日付本紙)▼今春から来年にかけて公立、私立ともに所得制限なしで高校授業料が無償化される。歓迎の一方、15年前から実施する大阪で進む公立離れや統廃合、教育格差などの懸念もある▼沖縄は私立が少なく各地で公立の伝統も強いが、影響を注視したい。大前提は経済事情によらず進学先を選べる学びの自由の保障。日本の教育への公費支出は国際水準からほど遠い▼石垣市議会与党などが「日本人優先」を求めて可決した外国人学校への無償化見直しの意見書に「差別助長」の批判が上がる。阿部俊子文部科学相は広く世に還元される高校教育の教育費は社会で支えるもので、「国籍問わず対象」と述べた▼市議会野党による公立への支援拡充を求める意見書は否決された。「リターンの最大化」を教育現場に持ち込むとき、子どもたちの顔がかすんでいく。それで良いのか。知恵を絞り、社会で子を育てる営為を放棄してはならない。(琉球新報・2025/04/18)

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漂白・孤独は「身に纏った法衣」だ

【有明抄】孤独な旅人 米国にも俳句をたしなむ人はいるらしい。いちばん親しまれているのは、やはり松尾芭蕉かと思えば、さにあらず。種田山頭火だという。〈うしろすがたのしぐれてゆくか〉の漂泊の托(たく)鉢(はつ)僧である◆英訳で暗唱されているのが〈まっすぐな道でさみしい〉。何でもない風景に深い孤独がにじむ、この俳人らしい一句である。はた迷惑な自国主義を掲げ、世界に背を向ける大国の一人旅と重なって見えなくもない◆孤独といえば、足元にも気がかりはある。自宅で誰にもみとられず、死後8日以上発見されなかった「孤立死」は昨年、全国で推計2万1856人。8割が男性で高齢者が多かった。仕事中心で人づきあいは同僚とだけ。定年後に周りを見渡せば、心許せる友はいない…。そんなケースを想像してしまう◆ひとり暮らしが全世帯の4割を占めるいま、孤独や孤立を「自己責任」だと片づけていいものか。その対策は水難事故にたとえられる。自分で備える救命胴衣、万一のときに駆けつける救助隊というプロも大切だが、水温が高ければ生きながらえることができる。水温とは「人のつながり」である◆山頭火が亡くなる直前に詠んだ句がある。〈もらうて食べるおいしい有りがたさ〉。清廉なイメージとは異なり、酒好きでだらしなかった孤独な旅人も、人の世のぬくもりを実感したのだろう。(桑)(佐賀新聞・2025/04/18)

 「壺中 の 天地」という言葉が残されています。あるいは「壺中天」ともいう。ぼくは店に入ったことはありませんが、日本橋、高島屋の隣には老舗古美術商の「壺中居」があります。この屋号にぼくは興味をもって、若いころに調べたことがあった。学生になりたての頃、文京区本郷や湯島に何軒かの「古美術商」があり、しばしば暇つぶしに立ち寄っていましたから、いつかは「壺中居」にもと想いつつ、遂に入らずじまいでした。その「壺中の天地」という謂われは、下の辞書の通り。「壺中居」についても、少しは喋りたいことがありそうですが、今日は止めておきます。

◎ こちゅう【壺中】 の 天地(てんち) = 後漢の長房が市の役人をしていたとき、店先に壺を掛けて商売をしていた薬売りの老人が売り終わると壺の中にはいったのを見、頼んで壺の中に入れてもらったところ、りっぱな建物があり、美酒、嘉肴(かこう)が並んでいたので共に飲んで出てきたという「後漢書‐方術伝下・費長房」の故事から ) 俗世界とはかけ離れた別天地。酒を飲んで俗世間のことを忘れる楽しみ。仙境。壺中の仙。壺中の天。壺中。(精選版日本国語大辞典)

 いまでもなお、山頭火という自由律句の俳人を高く評価する向きが少なくないのはご同慶の至りだが、ぼく自身は、ある時期から「世評」には背を向けてきたと思っています。今さらに「孤独な旅人」などと勿体ぶってコラムを書かれると、きっと泉下の山頭火は苦笑いをしているかもしれません。漂白とか孤独というのは、まるで「枕詞」のように山頭火に付されます。もちろん、その意味如何でなんとでも語れますから、どうということではないのですけれども、果たして種田山頭火は「孤独な旅人」であったろうか、そんな疑問や不満がぼくには付きまとっています。「まっすぐな道でさみしい」と詠み、旅籠(はたご)で酒に酔いつぶれて一夜を過ごす。金が無くなれば、「行乞(ぎょうこつ)」と唱えて托鉢して回る。いよいよ金に困ると、ごくごく親しい友人知友に工面方を依頼する手紙を書く。直ちに願いはかなえられることが多かった。語るべき友、頼るべき先輩は彼には当たり前に存在していました。だから「法衣(袈裟)」は「別乾坤」、あるいは「壺中」への制服だったんですね。

 細かくは書かないが、山頭火という人は「自意識過剰」の仁だったと思う。「うしろすがたのしぐれていくか」と、まるで自らの尾羽打ち枯らした後ろ姿にまで意識が及ぶ。コラム氏は「何でもない風景に深い孤独がにじむ」と評価するのも、まるまる山頭火に誑(たぶら)かされているんですね。心底から孤独に魅入られた人、孤独の壺に自堕落してしまった人は「世間の目」「評判」を気にするでしょうか。「孤独」な俳人を言うなら、同時代の尾崎放哉の方がまだしも、「無頼漢」的ではあったでしょう。その放哉にして、彼の生きざまをしみじみと心配する何人もの知己・友人がいたのです。「孤独」を売り物にするといえば言葉が過ぎますが、孤独に襲われていた人が句を詠み、句集を編んで、その評価を社会に求めたりするでしょうか。するかもしれないし、しないかもしれない。ぼくには、「孤独」漂白」は山頭火が背負った「看板」だったと思いつつ、彼を耽読するんですね。

 山頭火に限らず、「世捨て人」と言われるほとんどの人は「世を捨てた」のではなく、いわば「壺中の天地」に活路(生き甲斐・楽しみ)を求めたんではないですか。若山牧水もまた、酒で身を滅ぼしました。「仙境」に遊ぶと言えば語弊があるかもしれませんけれど、「酒を呑んで俗世間を忘れる」、そんな時間や場所を求めるのは、誰彼にもありそうな、珍しくもない心境ではないですか。山頭火を批判するのではなく、きわめて「人間臭い」として高評価するものですが、その観点は「孤独の人」ではなく「孤独を詠み込んだ人」として、ぼくは評価するのです。彼の生き死にした「乾坤(天地)」と、孤独とか孤愁との間にはいくらも距離があったでしょう。

 「自宅で誰にもみとられず、死後8日以上発見されなかった『孤立死』は昨年、全国で推計2万1856人」、この数字を見て、ぼくは驚愕を覚えている。一人で生まれて、ひとりで死ぬのは世の習いでしょうが、でも、それにしても、と我が身に置き換えてこの事態を捉えようとします。しかし、とらえきれない自分がそこに入るのです。こんな死を迎えるために生きて来たのではないと思わなかったか。それすらも、誰にも伝えられずに死地に赴く、「語(ら)れない・語りようのない寂しさ」「腹に応える寂寥感」かもしれない境地をぼくは深く思ってみます。言葉を失うほどの事態にあるのがぼくたちの現実の社会の姿です。「ひとり暮らしが全世帯の4割を占めるいま、孤独や孤立を『自己責任』だと片づけていいものか」、コラム氏の指摘は何を言っても詮方のない誰彼の「生の終わり」に抱く、せめてもの「惻隠の情」の表白の一つでもあるのでしょうか。「家族」「家庭」が壊れ、地域社会が繋がりを失いつつあるのもまた、厳然として「少子高齢化」がもたらす社会相の一側面です。はたして、ぼくたちに何ができるのか、死を前にして。座して死を俟(ま)つ、のか。

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「泣く子と地頭には勝てない」のか

 おそらく、この大統領の頭の中では「朕は全知全能である(I am omniscient and omnipotent)」という信じられないほどの高揚感(Euphoria)があるはずです。自分にできないものやことはないのだという「全能感(omnipotence)」です。「余の辞書には不可能という語はないのだ」とね。何度も触れてきましたが、程度の悪い権力者は、きっと「全能感」に浸ります。自分の言うことを聞けないものは許さないという権力行使は、行きつくところまで行く。「何とかに刃物」という脅威です。その結果は、「カタストロフ(Catastrophe)」に終わるのが通例です。ところが、この大統領は根っからの「強請(ゆすり・extortion)屋」だから、大惨事(取り引き破綻)は願わない。いわば「落としどころ」を求めるのです。自分が「立てられている」「持ち上げられている」「損をしない」結果を、大向こうが認めるような「取り引き」を成し遂げたいだけ。だから目立つこと、注目を集めることなら、何にでも飛びつく。今回の大学統制策は、彼に始まったことではなく、今に始まったことではないけれど、彼ならきっと手を入れるだろうという予測はついていた。「自分に盾突く」相手を遣り込めるのに、全米最古の大学は格好の目標だったでしょう。「相互関税」もその類でした。「自分を売る」パフォーマンス。(だから、各地で<Hnds Off(「手を出すな!」)>運動や行進が起っています)

 細かいことは省きます。このH大学が「抵抗」するのは当然でしょう。特定の大学という「砦(とりで)」は反権力、あるいは非権力であることに存在意義を見出そうとする。それが権力にとっては目障りだからこそ、「補助金」を締め上げる。このH大学はこれまた世界一の金持ちだから、少々の締め上げでは音を上げない。だから余計に権力からすると「腹が立つ」のです。いつの時代でも、時の権力と対峙することに存在意義を求める大学はあるし、それがまた大きな魅力となって協賛の大きな波が寄せるのですが、逆にそれに対して快く思わない「敵」も、大学の内にも外にもにいる。島社会の大学でも、戦前戦後、大学を管理・支配しようとする国家権力との戦い、いわば「大学の自治」をめぐる攻防が起ったし、いわでものこと、そのほとんどは権力側の支配権が勝っている。それが当然ともいえるのは、国が作った大学(国立)、国が認可した大学(私立)だからでした。補助金(助成金)を止めれば、一瞬で死命を制せられる(今日の「大学自治」の実態は、実に惨憺たるもの(「無」そのもの)と言えますね、この国では)

 「学問研究の自由」「大学の自治」などという「錦の御旗」がこの社会に、現にあるかどうか、ぼくは大いに疑わしいと思ってきました。権力の手下には喜んでなる・なりたがるのですが、それに反旗を翻す根性は、残念ながらほとんど持ち得ていない大学(人)ばかりが棲息しているからです。「国庫助成」とか「科学研究費」という名目で、権力への従順度を測る装置を国は作り上げてきました。(「金は貰って文句を言う」とは、いかにも身勝手に過ぎるよ)アメリカも同じ。さまざまな葛藤・闘争を経て、今日、大学は驚くほどの「特典」「恩典」や「優遇措置」を国から得ています。大学の存在理由(研究・教育の公共性)からして当たり前でもありますが、権力者の側からすれば、それほど優遇しているにもかかわらず、「政治批判」「反権力活動」を白昼堂々と行っているのは、断じて許されないと、牙をむく。この「対峙状況」は米国だけの問題ではありません。

 ぼくには「対立」「対峙」の帰趨(落としどころ)は見えているように思われますが、それはまた別の機会に駄弁る。H大学に支持を与える大学は無数にあります。「明日は我が身」と思えばこそ、この「無謀」「無知」な権力者に断固として「盾突く(defy)」ことを喜びとしているかもしれない。大統領、「藪から棒」紛(まが)いの思い付きだったね、となるか、たぶん「藪蛇」になったのかも。(大方の見るところは、結局は、「長い物には巻かれろ(Go with the flow)」ということになる、いずれ「権力の軍門に降る」と。ぼくは違う見方をする。<Hands Off>、さもなければ、…

トランプ大統領、ハーバード大学は「政治団体として課税すべき」...23億ドルの資金提供凍結後 トランプ米大統領は15日、米ハーバード大学が教育省の一連の要求を拒否したことを受け、同大の免税資格が取り消され、政治団体として課税される可能性があると述べた。/トランプ氏は「ハーバード大学が政治的、イデオロギー的、かつ『テロリスト』に触発された『病』を押し進め続ける場合、免税資格を取り消し、政治団体として課税するべきかもしれない」と自身の交流サイト(SNS)「トゥルース・ソーシャル」に投稿した。/ハーバード大学のアラン・ガーバー学長は14日付の公開書簡で、教育省の一連の要求について「私立の教育機関として学問の追究、創出、普及に専念する当大学の価値」を脅かすとして、拒否する姿勢を表明。この数時間後にトランプ政権は同大への連邦政府からの23億ドルの資金提供を凍結すると発表した。/ホワイトハウスのレビット報道官は、トランプ大統領がハーバード大学の免税資格をはく奪する可能性を検討しているかという記者団からの質問に対し、トランプ大統領はハーバード大からの謝罪を望んでいると応じた。/レビット報道官は「ハーバード大が連邦法に従う必要があると、大統領は非常に明確にしてきている」とした上で、「トランプ大統領はハーバード大が謝罪することを望んでいる。大学キャンパス内でユダヤ系米国人学生に対し行われた悪質な反ユダヤ主義について謝罪すべきだ」と述べた。[ロイター](NEWSWEEK JAPAN・2025年4月16日(水)(ヘッダー写真も:トランプ米大統領は15日、米ハーバード大学が教育省の一連の要求を拒否したことを受け、同大の免税資格が取り消され、政治団体として課税される可能性があると述べた。写真は抗議デモの参加者たち。ケンブリッジのケンブリッジ・コモンで12日、撮影(2025年 ロイター/Nicholas Pfosi)(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2025/04/546970.php)
トランプ氏、ハーバード大の非課税資格剥奪ほのめかす投稿 (前略)ブルームバーグ・ニュースの分析によると、ハーバード大の23年度の税控除額は、少なくとも4億6500万ドルに上ると推定される。/社会への貢献を理由に、米国では約1700校の私立大学が非営利団体として運営されている。 ハーバード大学は、教育が免税の対象となるという税法の規定に基づき、非営利団体として登録されている。/タフツ大学国家政策分析センターのエグゼクティブ・ディレクター、エヴァン・ホロウィッツ氏は「これは、ほとんどの大学の現在の財務体制にとって大きな脅威だ。大学は非課税資格を頼りに収支のバランスを取っている。もし連邦政府がこの問題に介入するとなれば、それは寄付金に対する課税強化であり、大学財務の根幹を揺るがすものになる」と述べた。(以下略)(Bloomberg/2025/04/16)(上・ハーバード大学:Photographer:Wangkun Jia/Alamy・Photo/www.alamy.comwww.alamy.com)

◎赤狩り(あかがり)red hunting・red-baiting=共産主義者や進歩的自由主義者を社会的に追放すること。このことばの語源は、中世末期のヨーロッパにおいて行われた魔女狩りwitch-huntにある。アメリカ合衆国における赤狩りの歴史は有名で、19世紀以来、社会主義運動に対し「非アメリカ的」であるという理由でさまざまな迫害が加えられた。とくに第一次世界大戦中から戦後にかけて、ロシア革命への危機感などから、パーマー司法長官のもとで、共産主義者はもとより無政府主義者や労働運動指導者に対する大々的な取締りが実行された。その後、第二次世界大戦中に、1940年の外国人登録法などによって共産主義活動への規制が強化され、戦後、下院に非米活動委員会が常設されるに及んで赤狩りは活発化した。そしてマッカーシズムの出現で一つのピークを迎え、自由の擁護の名のもとに自由の抑圧が進行した。なお日本では、戦前、治安維持法などにより、社会主義運動のみならず自由主義者に対しても激しい弾圧が加えられた。(日本大百科全書ニッポニカ)

◎ 泣く子と地頭には勝てぬ=道理の通じない子供や権力者とは、争ってもどうにもならない。[使用例] 泣く子と地頭にゃ勝てないというが、将棋界は、スポンサーである新聞社には勝てません。組織の一員にすぎない私が、どんなにわめき立ててみても、しょせんはゴマメの歯ぎしりです[升田幸三*名人に香車を引いた男|1980][解説] 「泣く子」と「地頭」が並列され、いずれも手に負えないものですが、主眼は後者にあります。江戸時代の「地頭」は、幕府や各藩が家臣に与えた知行(領地)の領主のことで、地域の徴税や司法に強い権限を持ち、「地頭に法なし」ともいわれました。(ことわざを知る辞典)

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全方位で危機は深まっています

 深刻極まる事態が深く静かに進行しているとみるか、いや、現下の国の状況から見ると、長年にわたり、それこそ親方日の丸でその日暮らしを謳歌して生きてきたのだから、内外多端な折から、こんなこともあるだろうが、いずれ何とか持ち直す、そんな「能天気な」気風・気配が相変わらず横溢しているとみるか。ぼくは、現下の事態を「茹でガエル」状態、つまりは座して(微温湯(ぬるまゆ)に浴して)「死を待(俟)つばかり」どんなものにも、と見ています。少子高齢化は、半世紀も前から分かっていた現象(現実)でしたが、五十年経過して、どれほどの、みるべき行政政策や政治主導がみられたでしょうか。どんなものにも「始めあれば、終わりあり」で、こればかりは逃れようはないのです。

 現段階でもっとも深刻な課題は、この社会の老人介護(保険)体制です。介護に携わる人材が払底して、もはや現状維持はおろか、訪問介護は解体しているとまで見られています。理由や原因は、無数にあると思う。それぞれの局に当たるべき要路に立つ任(の職責)が果たされてこなかったということに尽きる。いまさらの感がありますね。介護に身を置く若者は言うまでもなく、中高年者の姿も消えたのです。「介護難民」という事態は悲惨の一途をたどっているが、ここまで来てもなお、はかばかしい「政治」「行政」の登場はそこには見られません。「おひとりさま」のゆくえは暗いトンネルに続いている。

 また、地方・中央を問わず、公務員のなり手が著しく減少している。魅力のない職場環境、ともすれば「上下(職位職階)関係」ばかりが硬直したまま残されている、まるで軍隊組織のような暗い、鬱陶しい「規律・規則」が張り巡らされた職場に、若い人が魅力や希望を見いだせないのは当然かもしれません。介護保険制度が始まって20年。耐用年数が二十年も持たなかったという計画(政治政策)の杜撰(ずさん)さが、ここにきて露呈しているにもかかわらず、なす術がないのです。「介護」問題だけではない、いたるところで「閉塞」ではなく、絶体絶命の窮迫事態が発生しているのです。

 「人生百年時代の到来」と、いかにも晴れ晴れしいことのように喧伝されて、いくらも経過しないままで、悲惨な結末が見えてきたような気がします。便利さや効率の追求が時代の「符牒」になり、世を挙げて、不便さや非効率を排除してきたのではなかったか。子どもを生む、育てる、老人(高齢者)を介護する、実に時間と手間がかかる作業です、時代の風潮にはは相反すると忌み嫌われてきた結果に、ぼくたちは慌てふためいています。その昔、「教育は国家百年の計」などと重々しく語られたが、その中身は何だったでしょうか。つまらない「点取り競争」「席次争い」「競争教育」が社会の上下を問わず横行したのでした。教師の世界を見れば、一目瞭然。猫も杓子も「役職」にありつこうとしているとは思わないけれど、役職者にあらずば教員ではないと言わぬばかりの「上意下達社会」に成り下がっています。誰が好き好んで、、こんな息苦しい職場に入りたがるのでしょうか。子どもも教師も「息苦しさ」に喘いでいる。窒息寸前、窒息死してしまう人も後を絶たず。学校は本当に機能しているんですか、校長さん、教育長さん、文科大臣よ。

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 兵庫県の県庁採用者の4割以上が採用辞退と、先般ニュースになりました。高知県の小学校教員採用試験合格者の7割以上が採用辞退したと、驚きをもって報じられました。これは大変と、採用試験を一層早くする動きがあります。大学3年生の段階で受験機会を設けるところもある。このままでは、高校段階で「青田買い」が始まるでしょう(既に始まっている)。いずれ大卒者は「金の卵」と持て囃されることは必至です。どんなことをしても、金(札束)をどれだけ「ぶら下げても」、事態の悪化は避けられないとぼくは確信しています。理由は単純。国の姿・形が否応なく変わらざるを得ないにもかかわらず、「古い背広」や「時代遅れ」の意匠を踏襲している、その無感覚さにあるのです。「明治の皮袋に令和の酒を」、そんなスカタンの錯誤が瀰漫していませんか。「青田買い」が嵩じると、「苗床買い」、「種籾(たねもみ)買い」が横行するに違いありません。子どもと見れば、誰彼構わず「唾をつける(kidnapping)」という風潮が蔓延するでしょう。至るところで「売り手市場(seller market)」が出現する時代。

 そしてまたぞろ「産めよ増やせよ」という号令(命令)がかかる。この国は、例えはよろしくないけれど、いわば「絶滅危惧国(レッドリスト国)」に該当します。一面で、それは心穏やかではありませんが、他面では滅びるのもまた自然ともいえます。栄枯盛衰は「歴史の道」でもあります。ぼくが住んでいる「町」、十一年前に移住してきたとき、町の人口は約7500人でした。現在(2025年3月)、6201人。凡そ年平均100人減。この先、加速度的に人口減少は続くとなると、やむなく近隣自治体と合併して余命を保つのでしょう。「弱と弱の野合」が何を齎(もたら)しますか。それもかなわなくなると、多くの自治体は消滅不可避。これはすでに方々で生じている事態です。これを止めることはできないのも「歴史の道」でしょう。国の人口はおそらく、平均すると年間で百万人減少状況がしばらく続く。その後は、よほどのことがない限り減少数は加速します。この状況で、人口増が画期的に図れなければ、百年以内に「国」は消滅します。もちろん、人間はいくらか残ってはいるでしょうが。まあ、縄文時代への先祖返りです。物の本が教えるところによると、縄文中期(紀元前2000~3000年)には劣島全体で25~30万人だとされる。(根拠薄弱ですが)

 今この段階で、国や社会は何をしなければならないのでしょうか。答えはあるようで、実はどこにもない、ないようで、どこにでもある? 金をばらまくことでもなければ、減税をすることでもありませんね。「国家百年の計」とは何か、そんな問題に迫られているんですが。残念ながら、そんな大問題に取り組む必要性を認め、実際に取り組んでいた政治家・行政官は皆無でしたな。

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 「採用予定者の「辞退」が4割超の兵庫県…斎藤元彦知事のゴタゴタに嫌気?理由は他にもありそうで  兵庫県が本年度新規採用した150人の総合事務職(大卒程度)のうち、46%に当たる69人が辞退したことが明らかになった。採用方式の変更があるとはいえ、辞退率は前年度より約20ポイント上がった。同県では昨年来、斎藤元彦知事のパワハラなどを巡るゴタゴタが収まる様子を見せない。入庁予定者もさすがに嫌気が差したのか」「少子化や人手不足の影響もあり、大学生の就職活動は売り手市場が続いている。総務省のデータによると、2023年度の地方公務員一般職員の受験者数は約39万9000人で、10年前の約58万4000人から20万人近く減少した。競争率も7.9倍から4.6倍に減った。/自治体職員の仕事は多様で、必ずしも希望する仕事を任せてもらえるとは限らないことや、採用活動の時期の関係で、民間と掛け持ちで就職活動が難しいことなどが、志望者が減少する要因との指摘がある。近年は、人材確保のために新卒給与を引き上げる企業も相次ぐ一方で、公務員の給与は基本的に年功で決まる。住民からの過度な苦情を受けるといったハラスメントも問題となっている」(東京新聞・2025/04/12)

 「小学教員合格者280人中204人辞退 大学3年生の『青田買い』に踏み切る高知県の現実」「高知県は令和7年度採用(6年度実施)の1次試験を他の地域より約1カ月早く実施したものの、合格者の約7割が辞退。12月に実施した2次募集で何とか例年並みの人数を確保した。全国的にも6年度の採用倍率は2・2倍と過去最低を記録。文部科学省は今年度から試験日の基準を民間並みの5月11日に前倒しするよう各教育委員会に要請し、一部では試験を1年前倒しして大学3年生に内定を出す制度を創設するなど試行錯誤が続く」(產經新聞・2025/04/06) 

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 教員なり手不足 採用試験前倒し進まず 国が要請も… NHK調査 教員のなり手が不足。文部科学省は、ことしの教員採用試験を民間企業の採用面接が始まる前の5月に前倒しして実施するよう各自治体に要請しています。しかし、応じたのは全国5つの自治体と、わずかにとどまっていることが分かりました。(中略)/しかし、NHKが全国の都道府県や政令市など68の教育委員会に実施状況を調べたところ、国の要請に応じて今年度前倒しして試験を行うのは▼新潟県、▼島根県、▼山口県、▼長崎県の4県と、政令市の▼新潟市のあわせて5つの自治体にとどまることがわかりました。/昨年度5月に試験を実施していた4つの自治体をあわせても今年度、国が要請する5月11日前後に試験を行うのは9つの県と市のみで、多くの自治体が試験の前倒しを見送った形です。(中略)

 公立学校 教員4700人以上不足 調査も 教職員組合の調査で全国の公立学校では、去年少なくとも4700人以上の教員が不足しているとされています。/全日本教職員組合は毎年、教員不足の状況を調査していて、去年10月時点の教育委員会もしくは組合員から回答が得られた都道府県と政令市のあわせて45の教育委員会の結果をまとめています。/それによりますと、各教育委員会の計画に対し不足している教員の数は、▼小学校で2241人、▼中学校で1294人、▼高校で383人、▼特別支援学校で506人などと全国の公立学校で少なくとも4714人に上るということです。/前の年の調査でも回答した34の教育委員会に限定して比較すると、不足は3125人となり1年で1.2倍に増えています。/現場の教員からは「教員が未配置のため、ドミノ倒しのように病気休職者が出ている」といった声や、「欠員が出ないように教育委員会が責任をもって採用してほしい」などといった意見が寄せられたということで、教員をどう確保していくかが課題となっています。(以下略)(NHK・2025年4月15日)(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250415/k10014779661000.html

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突き上げた拳は何を壊したか

【余録】米国で黒人差別に抗議する「公民権運動」の母と呼ばれたのがローザ・パークスだ。1955年に公営バスで白人に席を譲るように指示されたが動かず、逮捕された▲それより早い大戦中、米陸軍のバスで運転手の指示を拒否し、軍法会議にかけられた黒人少尉がいた。無罪判決を受けて除隊後にドジャース入りし、黒人初の大リーガーになったジャッキー・ロビンソンである▲3月に国防総省のホームページからジャッキーの写真やプロフィルが突然、姿を消して論議を呼んだ。ミスという釈明で復活したものの、軍の学校図書館からも伝記排除の動きが伝えられる▲DEI(多様性、公平性、包摂性)見直しに動くトランプ政権の意向が背景にあるという。きょう15日に変化はあるのか。デビューの日にちなみ、大リーグ選手たちが永久欠番の42をつける「ジャッキー・ロビンソン・デー」である▲昨年のワールドシリーズ優勝を記念した大谷翔平選手らドジャース一行のホワイトハウス訪問をめぐっても議論が起きた。ジャッキー以来の伝統でDEIを信条とする球団。記念日を前にしたトランプ氏表敬を批判する論調もあった▲「白人の坊やが上げた金切り声を一生忘れることはない」。72年の死の直前、自伝に記した。差別意識が強かった南部の街での試合。「すごいぞ、ジャッキー」という叫び声に緊張した雰囲気がやわらぎ、「勝った」と思った。その後も長く積み上げられてきた反差別の歴史である。簡単に揺らぐことはあるまい。(毎日新聞・2025/04/15)(ヘッダー写真:1956年の日米野球で来日したブルックリン・ドジャース(当時)のジャッキー・ロビンソン選手=東京都文京区の後楽園球場で1956年10月、東京本社写真部員撮影)

◎ ジャッキー・ ロビンソン(Jackie Robinson)1919.1.31 – 1972.10.24= 米国の野球選手。ジョージア州生まれ。本名 John Roosvelt Robinson。南カリフォルニア大学中退後、1946年ブルックリン・ドジャースに入団し、’47年一軍入り、アメリカ大リーグ初の黒人選手となる。’49年ナショナル・リーグ首位打者、最高殊勲選手となり、’56年現役引退。’62年黒人選手初の野球殿堂入りを果たす。’56ドジャースとともに来日。陸上競技選手のマシューは兄。(20世紀西洋人名事典)

“リー”ローザ・ルイーズ・マコーリー・パークス(Rosa “Lee” Louise McCauley Parks, 1913年2月4日 – 2005年10月24日)は、アメリカ合衆国の公民権運動活動家。/1955年にアラバマ州モンゴメリーで公営バスの運転手の命令に背いて白人に席を譲るのを拒み[1]、ジム・クロウ法違反の容疑で逮捕されて著名となる。これを契機にモンゴメリー・バス・ボイコット事件が勃発。アフリカ系アメリカ人(黒人)による公民権運動の嚆矢となったことで、ローザは米国史における文化的アイコンと見なされ、米国連邦議会から「公民権運動の母」と呼ばれた。人権擁護運動の共有財産(共有遺産)として、その行動は国際的に高く評価されている。(以下略)(Wikipedia)

 野球の技術が卓越していたという前に、ひとりの人間としての「尊厳」(当たり前に認められるべき「人間性の自覚」といっていい)を自らの内に秘めていたという点で、ロビンソンさんには人間の卓越性が認められるのではないでしょうか。人種や性別、家柄や宗教的心情はそれぞれの固有性を互いに認められて初めて、各個人は社会のなかで併存しうるのです。DEI(多様性・diversity:公平性・equity:包摂性inclusion)を根底から否定する権力が、この時代にアメリカに存在するということ自体、社会倫理というか、道徳的価値そのものが、一直線に向上するものではないということを明らかに示しています。アメリカの現大統領は人種差別・性差別の意義を公言(広言)して憚(はばか)りません。少なくとも、アメリカ社会のかなりの割合が現大統領を支持しているという事実は、今なお根強く「偏見や差別」がアメリカ社会に厳存していることを示しているでしょう。

(上左写真:ドジャースの選手らとホワイトハウスを訪れ、トランプ米大統領と握手する大谷翔平選手(左)=2025年4月7日、AP)

 少年時代、ぼくは一端(いっぱし)の野球少年でした。日本のプロ野球に引き寄せられたのは言うまでもありませんが、アメリカ野球の選手たちの何人もが、いわば大スターとして「異星人」の如く思われていた時代だった。その当時、ヤンキースがやたらに強く、やがて「くたばれヤンキース」という映画まで出来たほど。大リーグチームが何度か来日し、観光気分であったかもしれない遠征だったが、桁違いのスケールで日本のチームを圧倒したのを覚えています。まるでラグビースコアのような試合の連続。もう七十年も前のことになります。

 以来、幾星霜。日本人選手が注目の的である時代が来るとは考えられもしませんでしたが、それでもなお、人種差別が続いていないかどうか。時々、アメリカのスポーツニュースを、現地報道で見ていて、きわめてやわな(一選手に依存した)「日本人選手ブーム」を感じてしまうのです。しばしば、アメリカは「人種の坩堝(るつぼ)(a melting pot of races)」と評されてきた。その意味は「移民によって成り立つ国」であり、「多民族・多人種」の国だということです。その多様性を真っ向から否定する政権が登場したのですから、ぼくにとっては驚天動地の出来事でした。ジャッキー・ロビンソン氏のことはかすかながら記憶している。「黒人第一号」のメジャーリーガーだったことは言うまでもありません。野球のセンスにおいても名選手の域にあったという事実。そして何よりも信念の人だったということです。

(下写真:ワシントン記念塔広場からリンカーン記念堂に至る一帯を埋める「仕事と自由を求める大行進」参加者に向かって手を振るキング牧師(1963年08月28日) 【AFP時事】)

 アメリカ社会が人種差別や性差別に驚くほどほど「寛容」であったというのは、国の成り立ちから来ているのであり、それは歴史の事実です。あらゆる領域で、まず黒人蔑視・差別が法的にも罷り通っていた。今なおその明白な痕跡を残しているところがみられます。Black Lives Matter.の渦潮が巻き起こったのは、その今日的証明でした。差別は黒人に向けられたものだけではないのは言うまでもありません。「公民権法」獲得までに払われた犠牲は、アメリカの暗い歴史として忘れられないものです。「余録」氏は「その後も長く積み上げられてきた反差別の歴史である。簡単に揺らぐことはあるまい」と書く。

 そうでしょうか。今も揺らぎに揺らいでいるのではないですか。いつだって「(人種・民族の)公平・平等」は風前の灯火と言ったらどうでしょうか。有り体に言うなら、「白人以外はアメリカ非国民」と言わぬばかりの「政権」が大手を振っている。その政権を、アメリカ国民の過半数が支持しているのです。「アメリカから移民を排除したら、何が残るのか」と言いたいけれど、そんなことお構いなしに、白人中心主義(white supremacy・white centrism)が傍若無人の振る舞いを見せている。もちろん、アメリカだけの問題でないのは言うまでもありません。極東の小島にだって、いわれのない差別や抑圧・暴力は存在しています。加えて、近年の外国籍の人々に対するヘイト主義の横行も。それを見るにつけて、「差別の無限連鎖」を考えてしまいます。差別と被差別の構造とまではいわないにしても、それに近い状況で生じている民族・人種差別、性差別などなど、枚挙にいとまがないのはなぜか。

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トミー・スミス(米国)=19秒83 メキシコ五輪200メートル表彰式。手袋をはめた手を挙げて米国内での人種差別に抗議するトミー・スミス(中央)とジョン・カルロス(右)。スミスは200メートルで金メダルを、カルロスは銅メダルを獲得した(1968年10月17日) 【AFP=時事】

五輪の表彰台でこぶしを突き上げた黒人金メダリスト 半世紀を経て、BLMを語る 1968年のメキシコ五輪。陸上男子200mの表彰式に、2人の米黒人選手が臨んだ。/金のトミー・スミスと銅のジョン・カーロスが、台に上がった。靴は、はいていなかった。黒い靴下は、貧困を表していた。黒い手袋は、ブラックパワーと差別からの解放を意味していた。/そして、2人とも(訳注=米国歌が演奏され、国旗が揚がると、下を向いて)こぶしを突き上げた。/無言の抗議。「それは、自由を求める叫びだった」と76歳になったスミスは顧みる。/2人の陸上競技人生はその後、(訳注=米オリンピック委員会の処分などで)事実上閉ざされた。しかし、こぶしを突き上げる姿は、最も象徴的な歴史の一場面としてスポーツ史に残った。(以下略)・Globe・更新日:2022.11.29 公開日:2020.08.14)(https://globe.asahi.com/article/13628958)(この問題に関しては、どこかで触れています)

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