昨日の午後はどんなことをしていたか、今朝の朝飯は何を食べたか、いくらも時間が経っていないのに、まったく記憶が消えていることがあります。一日前のことすら覚えていない人間が、しかし、五十年も八十年も昔(過去)のある場面や出来事を鮮明に覚えているのはなぜでしょうか。自分が見聞したことは細大漏らさず、一端は記憶の倉庫(海馬・hippocampus)に保存します。そして、その中から、ぼくたちは必要に応じて、あるいは思いもかけずに倉庫の中の「記憶(貯蔵)品」からいろいろなものを取り出しては検査・確認するのでしょう。どんな些細なことでも必ず記憶の倉庫にしまうことは、おそらく誰もが、ひろくは動物一般がすること(記憶の把持・保存)です。(*海馬=大脳辺縁系の一部で、側脳室の近くにある部位。古皮質に属し、本能的な行動や記憶に関与する。形がタツノオトシゴに似ることから、16世紀にイタリアの解剖学者アランティウスが命名した。アンモン角」「補説 形が神話の海馬ヒッポカンパスに似るところからいうという説もある」(デジタル大辞泉)
しかし、そこから今の自分にとって極めて意味のある事柄、大切な思い出などは、少なくとも「現在」にかかわりがあるかぎりは、それを取り出すことができる。それを想い出(recollection・reminiscence)として必要に応じて「追想」「想起」します。本年が「昭和百年」であり、「戦後八十年」と追想されるのは、その「出来事」や「事実」が、今の社会や個々人の成り立ちに小さくない働き(要因・要素)をなしているからだと考えられます。では、「百年」「八十年」にかかわる自らの経験がまったくなければどうするか。手がかりがないことの「記憶」や「経験」に縋(すが)ることはできない相談だとするなら、自分を超える「出来事」(歴史)にいかにしてかかわるか、それが公正に生きる人間の課題であり、優れて教育の問題であるといえるでしょう。
今は2月27日(木)の午前五時前です。昨日の出来事の記憶をたどりながら、この駄文を書こうとしている。連れ合いが、この数日、首や肩の痛みを訴えている。本人は「寝違えた」と言っているが、それだけなのか。激しく痛みが襲うらしい。昨日と一昨日は、先ず症状の具合を知ろうと近所の整骨院に出かけた。二回の治療で、院長いわく「病院の整形外科で一度検査してもらったら」と。ぼく自身も「痛みの重さ」の訴えから、おそらくそうなるだろうと想定していたし、事前に、これも近くにある総合病院に連絡はしてある。そして、本日九時には出かけようとしている。かみさんはこの病院に一度、数日間だったが入院したこともあるし、それ以外にもかなり継続して通院していたので、症状の把握のためには必要だろうと、その準備(心づもり)はしていたのです。
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いま、新聞コラム「二題」を引用して書こうとするのは、「記憶すること」と「記憶(したもの)を取り出すこと」のギャップについてです。「有明抄」は「佐賀空襲」の際に投下された焼夷弾の残骸が保管されていることを示して「語り継ぐ世代が少なくなる中、戦争の現実を知る」、その縁(えにし・きっかけ)になるものにどれだけぼくたちは関心を持っているかと問う。「戦後80年。不発弾のニュースもいまだに届く。過ちを繰り返すなと語りかけているようである」と結ぶが、この「空襲」の経験を持たないものはどうするか。どこに手がかりを見出せばいいのでしょうか。問題の核心部分はここにあるでしょう。他人の体験を、自らの経験にまで昇華させようとする作業、それが「教育」、殊に「歴史教育」の核になるのかもしれない。だれかの「体験」を、自分なりに「追体験」することが、です。
【有明抄】空襲の記憶を刻むもの きのうの本紙に「佐賀空襲」の焼夷(しょうい)弾の残骸が佐賀市の北川副公民館に保管されているという記事が載った。太平洋戦争末期の1945年は佐賀だけでなく日本各地で空襲があった。3月10日の「東京大空襲」では約10万人の命が奪われた◆作家の向田邦子さんが「その夜」を振り返っている。三方を火に囲まれもはやこれまでという時に風向きが変わり助かった。一夜明け、「次は必ずやられる。最後にうまいものを食べよう」と父が言い、とっておきの白米を炊いて家族で食べた思い出のエッセーは何かもの悲しい◆黒柳徹子さんが通った「トモエ学園」も東京大空襲で焼失した。昨年3月に亡くなった鈴木健二さんはもっと悲惨な記憶を『最終版気くばりのすすめ』に記す◆あの空襲の夜、人々は近くの小学校に避難した。だが、校舎に入りきれなかった人が多数。それでも中に入ろうとすると校舎が火事になり、外に逃げようとする人で焼死体の山が学校いっぱいに築かれた。赤ちゃんを抱いて逃げてきた母親の死体もあった。その光景に鈴木さんはただ、「人は母と生まれ故郷を大切にして生きていけばよい」と思ったという◆語り継ぐ世代が少なくなる中、戦争の現実を知る一文は貴重。戦後80年。不発弾のニュースもいまだに届く。過ちを繰り返すなと語りかけているようである。(義)(佐賀新聞・2025/02/26)
その観点で、次の「小社会」の記事はぼくには衝撃だった。渡辺和子さんのことを多くの方はご存じでしょう。だから詳細は省きます。彼女が九歳の時、東京の中心部で「二・二六事件」が勃発。今から九十年前の「2月26日」のことでした。当時の警視総監だった渡辺錠太郎氏が射殺され、和子さんは父親の襲撃される場面をつぶさに凝視していたという。岡山にあるノートルダム清心女子大学の学長だった渡辺和子さんの語られる「体験談」に、ぼくは深く打たれた。「『226』って知っている?」という渡辺さんの問いかけに、「ほとんどの学生は『電話番号ですね』と答えた」らしい。歴史を知らない学生の「無知」を怒るのでも、叱るのでもない、「知らないなら教えてあげましょう」というのでもない、その「学生たち」に直面した渡辺和子さんの深い「当惑」が嫌でも伝わるように、ぼくは感じるのです。「歴史感覚」の欠落は、今日病でもあるでしょう。はたして「歴史(過去の出来事)」は教えられるのか。
【小社会】二・二六事件 岡山市のノートルダム清心女子大学の学長を長く務め、シスターでもあった渡辺和子さんは、学生によく尋ねた。「『226』って知っている?」。ほとんどの学生は「電話番号ですね」と答えたという。▼岡山には「086―226―××××」の地域があり、学生はその数字を思い浮かべた。渡辺さんが亡くなった、9年前の文芸春秋誌にそんな話が載っている。▼1936(昭和11)年2月26日早朝、雪の東京で起きた旧日本陸軍の青年将校らによるクーデター事件。渡辺さんの父、錠太郎陸軍大将は自宅で殺された。当時9歳の渡辺さんは物陰から惨状を見ていた。事件後、軍部の政治介入は強まり日中戦争、太平洋戦争へと突き進む。▼戦後80年。記憶の継承という言葉をよく耳にする。体験者の話を直接聞く機会が少なくなる中、戦争被害だけでなく加害の実態を含めて次の世代にどう伝えていくか。▼「若い人が知らないのは当たり前」。教育者として渡辺さんは、そんなふうに考えたのではないか。繰り返し学生に同じ質問をする。「知らない」ことをきっかけに自ら学んで―。そうした思いがあったのかもしれない。▼事件の50年後。自宅を襲撃した兵士の家族と渡辺さんは対面する。「相手を知り、理解しようとしなければ、いつまでたっても憎しみは消えません」。別の回想記にそんな言葉がある。ウクライナなど各地で紛争が続く。思いを伝えたい。(高知新聞・2025/02/26)
「『若い人が知らないのは当たり前』。教育者として渡辺さんは、そんなふうに考えたのではないか」「『知らない』ことをきっかけに自ら学んで―。そうした思いがあったのかもしれない」とコラム氏は推測しています。そうだったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。渡辺さんの書かれた「置かれたところで咲きなさい」を想うと、ぼくにもいろいろな場面が浮かんできます。「神の配材(an act of Providence)」、「模範的なキリスト教徒」という印象を強く抱かされました。(この本がベストセラーになったことに、ある種の「怖さ」を感じてもいました)
「226」は電話番号だと無邪気に反応する学生のどこが悪いのか。悪いところは何もない。無知は罪ではない、知らなければいけなことを知らないのがよくないのだと、世間では訳知り顔で言うでしょう。では「226」は電話番号ではないと、この学生たち(渡辺和子さんが学長だった大学の学生たち)は、どうして知る(気が付く)ことができるのだろうか。渡辺さんの履歴から、事の真相を知ることがあっただろうし、渡辺さんもそう願ったでしょうか。
では、それ以外の「無知」「無関心」の人たちはどうするのか。もちろん学校教育の不作為もあるでしょう。もっと言うなら、この社会を構成している誰彼の意図的な「歴史の忘却」、「歴史の書き変え(捏造)」もあるかもしれない。ある時期にくぐもった声になっていた「新しい歴史を作る」人々の活動や、その派に属する人々が唱導していた「自虐史観」の否定と、現行「歴史教育」を改訂して生まれた学校の歴史教科書や、歴史教育の「成果」もあるのかもしれません。それを含めて、人間集団が「歴史健忘症」に罹患したらどうなるのか。そのこともまた、「歴史の教えるところ」なんですね。記憶するとか、記憶が曖昧だとか、ぼくたちはいとも簡単に言いますが、「記憶する」とは、約束すること、まずは「自分と約束する」ことであり、次いで「他者と約束する」のです。パスカルという哲学者は、「腕のない人間」を想定できるけれど、「頭を持たない人間」は私には考えられないといっています。「頭」とは「考える」であり、その根底には「記憶する」働きというものがあります。
「記憶」を持たない人間は、誰かと約束することはできない人かもしれないと、ぼくは時々考えます。意図して「歴史」を否定する、無視する人間もいるでしょう。歴史というのは「史観」「観察」などではない。それは「体験(経験)」です。だからこそ、「226は電話番号です」と言って済ませる人は、「頭のない人間」なのかもしれないといいたくなります。渡辺さんが語るところをコラム氏は引かれている「事件の50年後。自宅を襲撃した兵士の家族と渡辺さんは対面する。『相手を知り、理解しようとしなければ、いつまでたっても憎しみは消えません』」と。
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「教育の現場」から離れて十数年が経過しました。だから、「今の教育は云々」というのではありません。学校という場所は「国家の犯罪」「国家の悪事」を明らかにしてはいけないところでしたし、今だってそうでしょう。「公教育」というものが陥っている大きく、深い「陥穽(trap)」です。「過ちは繰り返しません」と言えるのは、「過ちを犯した」という「確かな記憶」がある限りにおいてのこと。国家を動かすような人々には、そんな「確かな記憶」はないと言っておきたい。寧ろ「今度はもっと上手にやる」という、歴史否定の姿勢しか見られないとしたら、この社会には展望もなければ、未来もないというほかありません。
昔も今も、この国ではいたるところで「あとかくしの雪」が降り続いているのかもしれない。どんなに面倒であろうと、雪下ろしや雪かきをし、除雪をしなければ、ぼくたちは「降り積もる雪の重さ」で押し潰されてしまうでしょう。屋根の雪下ろしは、歴史の(再)発見であり、歴史を忘れない作業に通じている。「この雪の下に人間の生活があった」と知るのは、雪下ろしの結果であり、その記憶をとどめる限りにおいてです。
(蛇足 2月26日生まれの友人がいます。恐らくかみさんとの付き合い時間よりも古い友人で、若いころは本当に出鱈目をしたものでした。ぼくよりも2歳年上。憲法・政治学の学徒でした。同じ職場にいた同僚で、ぼくは自分の誕生日を忘れても、彼の誕生日は忘れたことはなかった。名前も、なんだか因縁めいていますね、「渡邉某」さん。このところ音信が絶えているので、この渡辺和子さんに触れたコラムを読んだのをきっかけに、近況を訊ねようとしていたところ)
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● 渡辺錠太郎(わたなべじょうたろう)(1874―1936)= 大正・昭和期の陸軍軍人。愛知県出身。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業後、歩兵第三六連隊中隊長として日露戦争に出征、戦傷を負う。その後山形有朋(やまがたありとも)元帥付副官となり、1907年(明治40)には軍事研究のためドイツに駐在した。ついでドイツ大使館付武官補佐官、オランダ公使館付武官を経て、帰国後は参謀本部第四部長、陸軍大学校長、第七師団長、台湾軍司令官、軍事参議官などの要職につき、1935年(昭和10)には、皇道派の巨頭真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)の後任教育総監に就任した。天皇機関説の支持者として知られ、統制派の頭目とみなされた彼の教育総監就任は、真崎を支持する皇道派青年将校をいたく刺激し、1936年二・二六事件で襲撃目標の1人とされる遠因となった。事件当日の早朝、私邸で反乱軍により射殺された。(日本大百科全書ニッポニカ)
● 二・二六事件【ににろくじけん】= 1936年2月26日未明,皇道派青年将校22名が下士官・兵1400名余を率いて起こしたクーデタ事件。皇道派青年将校は北一輝に接近,昭和維新の実現をはかり,武力による国家改造を計画,真崎甚三郎教育総監罷免,相沢事件など統制はの台頭に反発し皇道派の拠点であった第1師団の満州派遣を機に蜂起(ほうき)を決意。斎藤実内大臣,高橋是清蔵相,渡辺錠太郎教育総監を射殺し,鈴木貫太貫侍従長に重傷を負わせ,陸軍省,参謀本部,国会,首相官邸などを占拠,陸軍首脳に国家改造の断行を要請した。陸軍首脳は戒厳令をしいたが,海軍,財界がクーデタに反対であるのをみて弾圧に転換,反乱軍の規定も〈決起〉〈占拠〉〈騒擾〉〈叛乱〉と四転。29日反乱軍を鎮圧。首謀者や理論的指導者の北一輝らを死刑,皇道派関係者を大量に処分,統制派が実権を掌握。岡田啓介内閣は倒れ,軍の政治的発言権が強化された。(日本大百科全書ニッポニカ)
撃ち込まれた弾は43発、父が絶命する様を見て…二・二六事件「わずか9歳の目撃者」の“忘れられない記憶”「300万部を超えるベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』で知られる渡辺和子。修道女であり、ノートルダム清心女子大学で初めての日本人学長となった彼女の父は、二・二六事件で命を落とした軍人・渡辺錠太郎だった。/わずか9歳のとき、歴史に残る事件で父の最期を目撃することになった彼女の生涯に、父の死はどう影響を与えたのか? 女性の物書きとその父との関係に焦点を当てた、梯久美子さんのノンフィクション『この父ありて 娘たちの歳月』(文藝春秋)より一部抜粋して紹介する。(全2回の1回目/島尾ミホ編を読む)(以下略)(文春オンライン:https://bunshun.jp/articles/-/58210)
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