
<あのころ>「山びこ学校」刊行 無着成恭氏指導の文集 1951(昭和26)年3月5日、無着成恭編「山びこ学校」が出版され反響を呼んだ。山形県・山元中学校の生徒43人が貧村に生きる家族を克明に記録した「生活つづり方」文集。戦後民主主義教育の典型と評価されベストセラーに。映画にもなったが、地元の恥をさらしたと批判され無着氏は村を去った。(2022年03月05日 08時00分 共同通信)(写真➡:右側地図の前には無着先生。「学級会」の教室風景)
「国語科」における「作文」という分野は明治初期の学校開始以来、しばしば名前を変えながら、今に続いています。その中で、「生活綴方」が公教育の中で、教科書のない教科として、教師側の工夫や創意を十分に生かせるものとして、時代と共に広く普及してきました。「生活を見つめ直す」授業として、特に東北地方で大きな教育運動を伴った実践が積み重ねられてきました。その嚆矢(こうし)は「北方(性)教育」だったと思われます。生活の貧しさを直視するという実践の狙いは、大きな成果を生んできましたが、やがてそれは国家権力の「忌諱(きい・きき)」に触れるものとして多くの実践教師の弾圧にまで及んだのでした。無着氏の実践は、北方教育の流れを汲むものであり、彼自身の記録にもその傾向は色濃く反映されていました。
+++

「教育は芸術である」といった教師がいました。その真意はぼくの理解を超えていましたが、絵画や彫刻、あるいは音楽や文学などと同じように、長い研鑽・精進を必要とする尊い仕事だということだったかもしれないと考えてきました。その教師はまた、「教育(授業)は儚(はかない)いものだ」という意味のことも言われていた。教師と子ども、子どもたちとの一瞬の出会いが生み出す共同の作業が授業(教育)であって、それはいつまでも遺されるものではないということだったと思う。ごく当たり前に「(ある事柄を)教え、記憶させ、それをテストする」という意味での「儚さ」を指摘したものではないでしょう。そんなものは儚いどころの話ではないからです。
一人の教師(それを無着さんだとすれば)と四十三人の中学生の、三年間に及ぶ「交流記録」「実践記録」は残されましたし、教師とそれぞれの子どもたちの「教室における出会い」は記憶され、思い出されるべきものとして理解はされましょうが、一瞬間で終わるほかない「やり取り」「出会い」はたちまちのうちに消え去ります。素晴らしい授業が行われたなら、その「よさ」は後々までも残り続けるといえるかどうか。言えるようでもあり、言えないようにも思われてきます。その瞬間に感じる思いや実感は、スマホで切り取ることはできない相談で、辛うじて、一人一人の記憶の中で発酵し続けて初めて、生きているともいえるのでしょう。

これはどんなことにも言えるのであります。教室で行われた授業という「実践」に関する残された記憶は教師だけのものであり、生徒一人のものである、というべきではないでしょうか。全員で成し遂げた「授業の達成」は、一瞬で消え去るものです。ここまでくると、教育とは? 授業とは? そんな問題に正面から衝突せざるを得なくなる。無着さんと43人の子どもたちとの「授業」という共同作業は、一冊の書物にはなり、多くの人に受け入れられましたが、それは「記録」であって、教室の一瞬における「達成」、その都度に生じた「感慨」の、いわば「抜け殻」のようなものです。名人の落語高座を聴いて感動するのは、寄席における落語家とそれに聞き入る一人の好事家の間に、一瞬に起こる事柄(飛び交う火花)です。それを感動といってもいいでしょうか。その感動(火花)は消えものであって、辛うじて記憶の中で(擬似感動として)生き続けるかもしれないものでしょう。
________________

「毀誉褒貶(きよほうへん)」という語があります。「ほめることとけなすこと。または、ほめる人もいればけなす人もいるという意味から、世間の評判のこと。『毀』と『貶』はどちらも欠点を悪く言う、非難するという意味。『誉』と『褒』はどちらもほめるという意味。同じような意味の言葉を重ねて強調した言葉」(四字熟語辞典ONLINE)いささか勇み足の謗りは受けるかもしれませんが、この言葉は無着成恭という存在によく似合っているとぼくは思います。無着さんが教師になったのは、戦後の学校教育の再出発点であり、山形師範を卒業して生家の隣村だった「山元村」の中学校社会科教師としてでした。新制(新生)中学校の発足と同時の、戦後生まれの新しい教科「社会科」担当教師だった。時に、無着成恭青年、十九歳の春だった。

無着さんについて、「やまびこ学校」について、ぼくはたくさんの文章を書いてきました。このベストセラーを何度読んだかわかりません。読んだ回数は数えられないのですけれど、それでは一冊の「やまびこ学校」はこの社会の学校教育に何を齎したか、となると簡単には語れない。「生活綴方」は戦前からありましたし、戦後も継続して大きなうねりを持った運動のようにたくさんの実践が重ねられてきました。いま、その歴史についてぼくは語る気はしません。誤解を承知で言うなら、「生活綴方」も、無着成恭という教師の実践も、時代が降るとともに、「経済成長」という生活(豊かさの追求)至上主義の荒波にかき消されたと思われます。当時の「山元中学校」の子どもたちの生活は「貧乏」「貧困」「生活苦」という日々の生活との戦い方に明け暮れていたといえるでしょう。その「戦いの記録」こそが「教育実践の核心」であり、「教えて、教えられて、それで終わり」では手の施しようもない、ある面では教室に収まり切れない教育の仕事がそこに発見されるはずです。
「やまびこ学校」刊行以来、もう七十数年も経過したのかという、いいようのない淋しさだけがぼくの中で湧いています
無着成恭【むちゃくせいきょう】(1927~2023)教育家,僧侶。山形県生れ。山形師範学校,駒沢大学仏教学部卒業。1948年山形県山元村立山元中学校教師となり,生徒の生活記録文を編集した《山びこ学校》を1951年に刊行し,生活綴方の再興と評された。1956年私立明星学園勤務,1970年《続・山びこ学校》を刊行した。1983年千葉県の曹洞宗福泉寺住職。〈新教育〉に基づく社会科学習の非現実性を批判するなど独特な教育評論でも知られ,著書に《無着成恭の詩の授業》(1982年),《無着成恭の昭和教育論》(1989年)などがある。(百科事典マイペディア)
******

「山びこ学校」無着成恭さん死去 生活綴方を実践、ラジオでも人気 生活綴方(つづりかた)の記録「山びこ学校」の編者で、TBSラジオ「全国こども電話相談室」の回答者を長年務めた、僧侶で教育者の無着成恭(むちゃくせいきょう)さんが21日、敗血症性ショックのため死去した。96歳だった。通夜は26日午後5時、葬儀は27日午前11時から千葉県多古町一鍬田292の福泉寺で。喪主は長男で同寺住職の成融(せいゆう)さん。
山形県生まれ。1948年に赴任した同県山元村(現・上山市)の中学校で、子どもたちが生活のありのままを作文に書く教育「生活綴方」を実践。生徒43人の詩や作文を収めた学級文集を編集した「山びこ学校」を51年に出版し、ベストセラーになった。その後、明星(みょうじょう)学園(東京)で教諭や教頭を務め、64年からは「全国こども電話相談室」の回答者を約30年続けた。大分県国東市の泉福寺の住職を経て、過去に住職を務めた福泉寺で暮らしていた。(宮崎亮)朝日新聞デジタル2023年07月24日掲載(ヘッダー写真も含む)(https://book.asahi.com/article/14965021)
IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII
































