
⦿ 週初に愚考する(六拾)~ 寒の戻りというのか、昨日は肌寒い一日でした。夜に入ると雪も降り出しました。今年二回目の降雪で、深夜も降り続き、早朝には屋根や道路は白くなっていました。4時前に起きて、猫に食餌を与え、当方はお茶を飲みましょうと準備をしたが、お湯が出ない。ガス操作盤には警告音と同時に「警告ランプ」が点灯する始末。きっと気温の低下で水道管ではなく(水は出る)、ガス管が凍結したのだと、家の外にあるメーター設置場所と湯沸かし器のところに出向いた。警告ランプは消えないままだったので、外気温上昇を待つほかないと、日の出を待つことにしました。(注意・ただ今午前9時、警告ランプは止まらず、どうも経年劣化のための故障のように思われてきました。本日は日曜。明日以降に善処方を考えるほかなし)当地では、めったに雪は降らない。多くて年に二回程度。しかし、坂道が多いので、凍結した道路はきわめて危険なので、まず乗らないことにしています。
(ただ今、午前11時過ぎ。念のためにと、ガス温水器の操作盤をいじったら、なんとお湯が出るではないか。新たな湯沸かし器の購入を考えていたが、なんとかまだいけそう。しかし、それも時間の問題で。まるでわが夫婦の「寿命」に似ていなくもないと、あまりいい感じはしなかったな)
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昨日の長崎新聞コラム「水や空」に土井晩翠の逸話が書かれていました。「雨の降る日は天気が悪い」と。彼は仙台の生まれで、苦学して二高にはいり、やがて東京帝大に進みます。漢学を修めた詩人でもありました。「一世を風靡」とまではいかなかったか。彼の名を高からしめたのは早世した作曲家・滴廉太郎(1879~1903)とのコンビで発表された「荒城の月」でした。おそらくぼくは中学校の音楽で習った(歌わされた)と思われます。「雨の降る日は…」は脇において、「荒城の月」について触れてみます。当時、新体詩なるものが大流行で、その代表格は藤村でした。だから、明治中頃は、誰言うとなく「藤(村)晩(翠)」時代と評判があったといいます。いくつかの理由で、ぼくは藤村さんはそれほど好きではなかった。
(ヘッダー写真は鶴ヶ城側の歌碑・https://monument.sakura.ne.jp/file/koujyounotsuki.html)
「荒城の月」の、その「城」は何処かと議論があります。作詞家自身が後年明かしているように、それは「鶴ヶ城(会津若松城)」だという。加えて「仙台青葉城」を訪れて詩想をえたともいう。彼の「詩(詞)」は、明治維新によって完膚なきまでに否定された奥羽諸藩の落剝無念の表白であり、旧身分体制の廃止も相まって、今は見る影もない「栄華」と、そこに現れた「没落」の形相。まさしく「栄枯は移る世の姿」と、過ぎ去った過去の影を想い、「むかしの光 いまいずこ」とひたすら旧跡に思いを馳せます。
作曲した滝廉太郎は東京で生まれましたが、親たちは大分出身。幼児期、彼は大分に住んだ。だから、彼に因んで、「荒城」のモデルは「大分竹田城」だという指摘がなされてきました。「お城争い」にぼくには興味はない。土井晩翠という、今は忘れられたかと思われる先学の学恩や遺された詩文に思いを寄せて、殺伐とした「今生(こんじょう)の春」に惜別の感を抱くささやかな感想を述べてみたい気がするのです。(いつの日か、滝廉太郎という日本生まれで、初の西洋音楽作曲家たらんとした人についても駄文を弄したいと思っている。彼はドイツ留学を敢行しますが、病(結核)をえて挫折。帰国船上でさらに重くなり、帰国上陸を果たしてなくなります。その後継者を任じたのが山田耕筰(1886~1965)。今では山田氏の編曲による「荒城の月」が普及しています。ほぼ同時期に、漱石はイギリスに留学、重篤な鬱病を患う。後年の丸善創業者の早矢仕有的(1837~1901)、味の素の創業の道を開いた池田菊苗(1864~1936)、この二人の手厚い友情に恵まれて、事なきを得たのでした)

◎ 土井 晩翠(ドイ バンスイ)明治〜昭和期の詩人,英文学者 第二高等学校名誉教授。生年明治4年10月23日(1871年) 没年昭和27(1952)年10月19日 出生地宮城県仙台市北鍛冶町 本名土井 林吉(ツチイ リンキチ) 学歴〔年〕東京帝大文科大学英文科〔明治30年〕卒 主な受賞名〔年〕文化勲章〔昭和25年〕,仙台市名誉市民 経歴 質商を営む旧家に生まれ、幼時より「八犬伝」「太閤記」「日本外史」等に親しむ。立町小学校教師佐藤時彦に漢籍を教わった後、家業に従事しつつ書籍を耽読、「新体詩抄」や自由民権思想の影響を受ける。21年、仙台英語塾から第二高等中学校(のち二高)に編入卒業、27年上京。帝大在学中の29年、「帝国文学」第2次編集委員として漢語を用いた叙事詩を発表、藤村と併び称される詩人となった。30年郁文館中学の教師。31年「荒城の月」を作詞。32年処女詩集「天地有情」を出版。外遊後、37年二高教授となり、大正13年には東北大講師を兼任し、英語・英文学を講じ、昭和9年退官。一方、カーライルやバイロンの翻訳を発表、またギリシャ文学に興味を持ち、15年ホメーロスの「イーリアス」「オヂュッセーア」を全訳出版。この間家族を次々に失い、心霊科学に興味を持つ。20年7月空襲で蔵書3万冊余を焼く。ほかの代表作に「星落秋風五丈原」「万里長城の歌」、詩集に「暁鐘」「東海遊子吟」「曙光」「天馬の道に」がある。25年文化勲章受章。没後、45年顕彰会が晩翠賞と晩翠児童賞を制定した。(20世紀日本人名事典)

◎ 荒城の月(こうじょうのつき)= 唱歌の曲名。土井晩翠(つちいばんすい)作詞、滝廉太郎(れんたろう)作曲。1901年(明治34)3月刊の『中学唱歌』(東京音楽学校発行)に初めて掲載された。「荒城」については、土井は仙台の青葉城ないし会津若松の鶴ヶ城(つるがじょう)を想定したが、滝は少年期を過ごした大分県竹田の岡城や富山県の富山城にイメージを求めたという。短調のゆったりした曲調になっており、海外にまで知られた日本の名曲の一つである。なお『中学唱歌』には、滝の作曲になる『箱根八里』(鳥居忱(まこと)作詞)も収められている。(日本大百科全書)(註 「土井」を「つちい」としています。本名は「どい」だが、多くの人が間違えて「つちい」と読んだり書いたり。それをいちいち訂正していたが、やがて切りもなくなったので放置することにしたと、晩翠自身がどこかで書いています)
*鮫島由美子歌「荒城の月」(https://www.youtube.com/watch?v=wKykXN7c7wA) *佐藤しのぶ「荒城の月」(https://www.youtube.com/watch?v=-p1Iir5vQ7g)

【水や空】雨の降る日は… 「荒城の月」を作詞した詩人、土井晩翠(ばんすい)が昭和の初めに書いた随筆は、タイトルを「雨の降る日は天気が悪い」という。当たり前のことを書き連ねたにすぎないと、謙遜を込めて名付けたらしい▲晩翠はこのタイトルについて触れた文で、しかしながら…と書いている。〈アラビアで雨が降ったら「天気無類」と呼ばれはしないか〉。日照りばかりの土地ではなるほど、雨空を仰ぎ「この上ない、いい天気だね」と喜ぶことだろう▲テープ材製造のニチバンが募集した「花粉症川柳」のかつての入選作に〈晴れよりも雨がうれしい花粉症〉という一句がある。同じ悩みを持つ一人として“同憂の士”の気持ちは分かる▲かつては干天の慈雨を喜ぶことはあっても、雨に胸をなでおろすことは少なかったろう。今どきの春先は、自明のはずの「雨の降る日は天気が悪い」が必ずしもそうではない▲春一番の季節だが、雨にまつわる辞典に「雨一番」という言葉を見つけた。立春のあと、初めて雪を交えずに雨だけが降ることをいうらしい。冬空から雪ばかりが降る北国では、雪が雨になり、春が訪れる▲岩手県大船渡市の山林火事は、懸命の消火活動や降雨で火勢が弱まっているという。雨一番にも勝るほどの“いい天気”の雨に違いない。「鎮火」の報が待ち遠しい。(徹)(長崎新聞・2025/03/08)
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「雨の降る日は天気が悪い」とばかりも言えないではないかというのも「一理」ですね。ことのほか、今春、ぼくは「花粉症」に痛めつけられています。目は痒(かゆ)いし、鼻水はとめどなく出る、嚏(くしゃみ)はひっきりなし。昨年の程度がどうであったかは忘れていますから、気分としては「今年は最悪」などと決め込んでいるのかもしれません。それにしても「なんとかしたい」のと「なんともならない」の「二律背反」というか、今風に言うと「利益相反」というべきか。本来あるはずもないことが、当たり前に発生するのですから、長く生きているのもいいことづくめではないのでしょう。
これまでは本格的な春の到来を告げる南風を「春一番」と呼んできました。その伝でいうと「雨一番」は何物の到来を告げ知らせるのでしょうか。長く燃え続けていた大船渡の「山火事」もほぼ鎮火したらしい。多くの人が家屋敷を失っておられる。単純に「雨一番」とばかり喜べない事情も人間の世界にはあるのでしょうね。
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