春高楼の花の宴 天井影は替わらねど

⦿ 週初に愚考する(六拾)~ 寒の戻りというのか、昨日は肌寒い一日でした。夜に入ると雪も降り出しました。今年二回目の降雪で、深夜も降り続き、早朝には屋根や道路は白くなっていました。4時前に起きて、猫に食餌を与え、当方はお茶を飲みましょうと準備をしたが、お湯が出ない。ガス操作盤には警告音と同時に「警告ランプ」が点灯する始末。きっと気温の低下で水道管ではなく(水は出る)、ガス管が凍結したのだと、家の外にあるメーター設置場所と湯沸かし器のところに出向いた。警告ランプは消えないままだったので、外気温上昇を待つほかないと、日の出を待つことにしました。(注意・ただ今午前9時、警告ランプは止まらず、どうも経年劣化のための故障のように思われてきました。本日は日曜。明日以降に善処方を考えるほかなし)当地では、めったに雪は降らない。多くて年に二回程度。しかし、坂道が多いので、凍結した道路はきわめて危険なので、まず乗らないことにしています。

 (ただ今、午前11時過ぎ。念のためにと、ガス温水器の操作盤をいじったら、なんとお湯が出るではないか。新たな湯沸かし器の購入を考えていたが、なんとかまだいけそう。しかし、それも時間の問題で。まるでわが夫婦の「寿命」に似ていなくもないと、あまりいい感じはしなかったな)

+++++++++

 昨日の長崎新聞コラム「水や空」に土井晩翠の逸話が書かれていました。「雨の降る日は天気が悪い」と。彼は仙台の生まれで、苦学して二高にはいり、やがて東京帝大に進みます。漢学を修めた詩人でもありました。「一世を風靡」とまではいかなかったか。彼の名を高からしめたのは早世した作曲家・滴廉太郎(1879~1903)とのコンビで発表された「荒城の月」でした。おそらくぼくは中学校の音楽で習った(歌わされた)と思われます。「雨の降る日は…」は脇において、「荒城の月」について触れてみます。当時、新体詩なるものが大流行で、その代表格は藤村でした。だから、明治中頃は、誰言うとなく「藤(村)晩(翠)」時代と評判があったといいます。いくつかの理由で、ぼくは藤村さんはそれほど好きではなかった。

 (ヘッダー写真は鶴ヶ城側の歌碑・https://monument.sakura.ne.jp/file/koujyounotsuki.html

 「荒城の月」の、その「城」は何処かと議論があります。作詞家自身が後年明かしているように、それは「鶴ヶ城(会津若松城)」だという。加えて「仙台青葉城」を訪れて詩想をえたともいう。彼の「詩(詞)」は、明治維新によって完膚なきまでに否定された奥羽諸藩の落剝無念の表白であり、旧身分体制の廃止も相まって、今は見る影もない「栄華」と、そこに現れた「没落」の形相。まさしく「栄枯は移る世の姿」と、過ぎ去った過去の影を想い、「むかしの光 いまいずこ」とひたすら旧跡に思いを馳せます。

 作曲した滝廉太郎は東京で生まれましたが、親たちは大分出身。幼児期、彼は大分に住んだ。だから、彼に因んで、「荒城」のモデルは「大分竹田城」だという指摘がなされてきました。「お城争い」にぼくには興味はない。土井晩翠という、今は忘れられたかと思われる先学の学恩や遺された詩文に思いを寄せて、殺伐とした「今生(こんじょう)の春」に惜別の感を抱くささやかな感想を述べてみたい気がするのです。(いつの日か、滝廉太郎という日本生まれで、初の西洋音楽作曲家たらんとした人についても駄文を弄したいと思っている。彼はドイツ留学を敢行しますが、病(結核)をえて挫折。帰国船上でさらに重くなり、帰国上陸を果たしてなくなります。その後継者を任じたのが山田耕筰(1886~1965)。今では山田氏の編曲による「荒城の月」が普及しています。ほぼ同時期に、漱石はイギリスに留学、重篤な鬱病を患う。後年の丸善創業者の早矢仕有的(1837~1901)、味の素の創業の道を開いた池田菊苗(1864~1936)、この二人の手厚い友情に恵まれて、事なきを得たのでした)

◎ 土井 晩翠(ドイ バンスイ)明治〜昭和期の詩人,英文学者 第二高等学校名誉教授。生年明治4年10月23日(1871年) 没年昭和27(1952)年10月19日 出生地宮城県仙台市北鍛冶町 本名土井 林吉(ツチイ リンキチ) 学歴〔年〕東京帝大文科大学英文科〔明治30年〕卒 主な受賞名〔年〕文化勲章〔昭和25年〕,仙台市名誉市民 経歴 質商を営む旧家に生まれ、幼時より「八犬伝」「太閤記」「日本外史」等に親しむ。立町小学校教師佐藤時彦に漢籍を教わった後、家業に従事しつつ書籍を耽読、「新体詩抄」や自由民権思想の影響を受ける。21年、仙台英語塾から第二高等中学校(のち二高)に編入卒業、27年上京。帝大在学中の29年、「帝国文学」第2次編集委員として漢語を用いた叙事詩を発表、藤村と併び称される詩人となった。30年郁文館中学の教師。31年「荒城の月」を作詞。32年処女詩集「天地有情」を出版。外遊後、37年二高教授となり、大正13年には東北大講師を兼任し、英語・英文学を講じ、昭和9年退官。一方、カーライルやバイロンの翻訳を発表、またギリシャ文学に興味を持ち、15年ホメーロスの「イーリアス」「オヂュッセーア」を全訳出版。この間家族を次々に失い、心霊科学に興味を持つ。20年7月空襲で蔵書3万冊余を焼く。ほかの代表作に「星落秋風五丈原」「万里長城の歌」、詩集に「暁鐘」「東海遊子吟」「曙光」「天馬の道に」がある。25年文化勲章受章。没後、45年顕彰会が晩翠賞と晩翠児童賞を制定した。(20世紀日本人名事典)
◎ 荒城の月(こうじょうのつき)= 唱歌の曲名。土井晩翠(つちいばんすい)作詞、滝廉太郎(れんたろう)作曲。1901年(明治34)3月刊の『中学唱歌』(東京音楽学校発行)に初めて掲載された。「荒城」については、土井は仙台の青葉城ないし会津若松の鶴ヶ城(つるがじょう)を想定したが、滝は少年期を過ごした大分県竹田の岡城や富山県の富山城にイメージを求めたという。短調のゆったりした曲調になっており、海外にまで知られた日本の名曲の一つである。なお『中学唱歌』には、滝の作曲になる『箱根八里』(鳥居忱(まこと)作詞)も収められている。(日本大百科全書)(註 「土井」を「つちい」としています。本名は「どい」だが、多くの人が間違えて「つちい」と読んだり書いたり。それをいちいち訂正していたが、やがて切りもなくなったので放置することにしたと、晩翠自身がどこかで書いています)

*鮫島由美子歌「荒城の月」(https://www.youtube.com/watch?v=wKykXN7c7wA)                                                                        *佐藤しのぶ「荒城の月」(https://www.youtube.com/watch?v=-p1Iir5vQ7g

【水や空】雨の降る日は… 「荒城の月」を作詞した詩人、土井晩翠(ばんすい)が昭和の初めに書いた随筆は、タイトルを「雨の降る日は天気が悪い」という。当たり前のことを書き連ねたにすぎないと、謙遜を込めて名付けたらしい▲晩翠はこのタイトルについて触れた文で、しかしながら…と書いている。〈アラビアで雨が降ったら「天気無類」と呼ばれはしないか〉。日照りばかりの土地ではなるほど、雨空を仰ぎ「この上ない、いい天気だね」と喜ぶことだろう▲テープ材製造のニチバンが募集した「花粉症川柳」のかつての入選作に〈晴れよりも雨がうれしい花粉症〉という一句がある。同じ悩みを持つ一人として“同憂の士”の気持ちは分かる▲かつては干天の慈雨を喜ぶことはあっても、雨に胸をなでおろすことは少なかったろう。今どきの春先は、自明のはずの「雨の降る日は天気が悪い」が必ずしもそうではない▲春一番の季節だが、雨にまつわる辞典に「雨一番」という言葉を見つけた。立春のあと、初めて雪を交えずに雨だけが降ることをいうらしい。冬空から雪ばかりが降る北国では、雪が雨になり、春が訪れる▲岩手県大船渡市の山林火事は、懸命の消火活動や降雨で火勢が弱まっているという。雨一番にも勝るほどの“いい天気”の雨に違いない。「鎮火」の報が待ち遠しい。(徹)(長崎新聞・2025/03/08)

**********

 「雨の降る日は天気が悪い」とばかりも言えないではないかというのも「一理」ですね。ことのほか、今春、ぼくは「花粉症」に痛めつけられています。目は痒(かゆ)いし、鼻水はとめどなく出る、嚏(くしゃみ)はひっきりなし。昨年の程度がどうであったかは忘れていますから、気分としては「今年は最悪」などと決め込んでいるのかもしれません。それにしても「なんとかしたい」のと「なんともならない」の「二律背反」というか、今風に言うと「利益相反」というべきか。本来あるはずもないことが、当たり前に発生するのですから、長く生きているのもいいことづくめではないのでしょう。

 これまでは本格的な春の到来を告げる南風を「春一番」と呼んできました。その伝でいうと「雨一番」は何物の到来を告げ知らせるのでしょうか。長く燃え続けていた大船渡の「山火事」もほぼ鎮火したらしい。多くの人が家屋敷を失っておられる。単純に「雨一番」とばかり喜べない事情も人間の世界にはあるのでしょうね。

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

「自由からの逃走」は終わらない

【明窓】なぜ彼らにならなかったのか? 地下鉄サリン事件から30年 30年前の1995年は年明けから惨事が続いた。1月17日の阪神大震災で気持ちが沈み、3月20日にオウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした。14人が死亡し、重軽症は6千人以上。「この国は大丈夫か」と暗々とした。▼都心で猛毒ガスをまく凶行に憤ったが、教団幹部の人となりが伝わると異界の人とも思えなくなった。中でも2018年に53歳で刑が執行された土谷正実元死刑囚に目が留まった。サリン製造の中心人物だ。▼大学になじめず入信。人に認められたい欲求が強かったという。教祖・麻原彰晃(松本智津夫元死刑囚)と出会い、難解な化学式を操る頭脳を認められ、研究に没頭できる環境を得た。▼他の幹部も高学歴者が多かった。受験のように正解を出せば上に行ける世界が生きやすい人は珍しくない。やがて白黒が不明確な社会で困惑する。そんな時に甘い言葉で褒められ入信するなら誰にも可能性がある。拘置所で土谷元死刑囚と面会を続けた作家の大石圭さんは書籍『オウムと死刑』の中で「なぜ、僕は彼らにならなかったのか? 答えは簡単。たまたまだ」と記した。▼事件後テレビは連日、麻原教祖らが出馬し、落選した1990年衆院選の選挙運動の様子を流した。教祖をたたえる歌も運動員のかぶり物もセンス皆無で幼く、高度な化学研究との落差は異様。宗教本来の癒やしや情操もなく突っ走る危うさは、現代も教訓にしていい。(板)(山陰中央新報・2025/03/07)(地下鉄サリン事件に遭い、路上で手当てを受ける乗客ら=1995年3月20日午前、東京都中央区築地・下写真)

+++++++++++++++++++

 「地下鉄サリン事件」発生当日のことは鮮明に記憶しています。路線は違っていましたが、ぼくは東京メトロの東西線に乗車していて、発生時刻には日本橋付近を通過していたことになります。隣の路線で大惨事が生じていたのでした。職場について、事情が分からないままで、大変な事態が発生していたと、報道で知りました。やがて、時間の経過とともに、何が起こったのかが、明らかになりつつありました。教師になりたての頃、70年代になってから、勤務先の大学では、日米安保闘争(運動)後の「学生運動」の余波は続いていましたし、その中に、いわゆるサークル活動の集団で、これまでとは異なった集団が目立ち始めました。いわゆる既成宗教集団の学生サークル活動化です。

 それは今日にもつながるものでありましたが、その時代に初めて活動を開始するグループもありました。「原理研究会」という名称で、徐々に学生会員を獲得して、運動力を増していった、今でいう「統一教会」の学生運動体でした。学生たちから、ぼくは何冊かの「原理購読」(?)なるテキストを貰った、と負いうか、研究室に置いていかれた。この「カルト」サークルに強引に勧誘されたり、抜け出ることを拒否されて誘拐まがいの隔離を受けた学生たちもいました。学生の親たちの申し出もあって、この問題に否応なしにぼくは関わらざるを得なくなったこともありました。

 やがて、学内で大きな話題を集めるようになったのが「オウム真理教」でした。ぼくが担当している授業の履修学生たちの中から、その活動に参加するもの(「信者」)が何人も出てきました。後年、この集団が政界進出を狙って、「教祖」を筆頭に衆議院選挙に出馬するというので、いわば選挙運動なるものを学内で画策していた。ぼくは全学部学生対象の授業をいくつも担当してたので、受講者の中から、大学内で集会を開くための会場(教室)を借りたいと依頼があり、何人もの学生がぼくのところにやってきた。教職員の署名捺印がなければ教室の使用はできなかったからでした。もちろんぼくは断ったが、その後も、問題を抱えていた何名かの学生(集団からの脱退を図った学生、行方不明になったりした学生たちの仲間)、そして「信者」になっていたものも含めて、拙宅まで来て、それぞれの実情を訴えたこともありました。もちろん、ぼくの知りうる範囲は極めて狭かったし、その集団がいかなるものであったか、その段階では十分に理解はしていなかった。

 そこへ「地下鉄サリン事件」が起こった。上で述べた学生たちの何名かはその事件にかかわっていたり、そのために国外(ロシアなどと聞いた)に逃亡した者もいたなどと、後に耳にしたことがありました。しかし、サリン事件の衝撃は大きかった。その後のことはここでは省きますが、どうして若者(に限らずだが)は怪しい、反社会的「カルト集団」に引き付けられるのか、そんな問題がぼくにも現実の課題となってくるのでした。新興宗教にかぶれ、過激な学生運動サークルに入り込むなど、所属した大学では、この手の問題には事欠かなかったのです。問題となるような過激な活動を、どうして「あの人たちは取るのだろうか」と深い疑問が消えませんでした。要するに「信じる(妄信する)」ことの怖さ、「疑わないこと」のもたらす結果について、ぼくは長く考え続けることになるのです。「信じること」は「疑うこと」を放棄する結果生まれます。

 ここでは、そのごく一部だけしか述べられないが、「全体主義」「集団主義」「偶像崇拝」などの問題を考えるのに大きな影響を受けた一冊の本について、少しだけ語ることにします。それが、エーリッヒ・フロム著「自由からの逃走」(1941年刊)でした。

◎ 自由からの逃走(じゆうからのとうそう)Escape from Freedom ドイツ生まれのユダヤ人、社会学者・精神分析学者E・フロムが亡命地アメリカで書いた代表作。1941年刊。ナチズム台頭の因を社会、経済的側面からだけではなく社会心理学的側面から分析する必要を論じて注目された。人間やある社会階層が政治、経済的危機状況に置かれたときにおこる「権威主義的性格」をマゾ・サド的側面から解明。ファシズム運動を、一方ではヒトラーの権威に従いその犠牲になることに喜びを感じ、他方では自分より劣った者たとえばユダヤ人を蔑視(べっし)・虐待し、欲求不満や劣等感を解消しようとした心理や行動の現れとして描いている。個性の喪失と画一化が進行している現代社会に対しても示唆に富む。(日本大百科全書)
◎ 自由からの逃走(じゆうからのとうそう)Escape from Freedom 新フロイト派の精神分析学者 E.フロムの主著。 1941年刊。本書の主題は「近代社会は,前近代的な社会の絆から個人を解放して一応の安定を与えたが,同時に個人的自我の実現,すなわち個人の知的,感情的,また感覚的な諸能力の表現という積極的な意味における自由は,まだ獲得できず,かえって不安をつくり上げた」ということである。本書の特筆さるべきは,第1に歴史の原動力として社会経済的条件ならびにイデオロギーと並んで,心理的な社会的性格の概念を新しく提出したこと,第2にサド=マゾヒズムとして説明される権威主義的パーソナリティの概念を使用して,ファシズムの温床たるドイツ下層中産階級に潜在する自由と平等を否定する性格構造を指摘したことである。(ブリタニカ国際大百科事典)

 ぼくが大学に入学したのは1964年でした。その当時、都内のこの私立大学に入学する学生の構成は、大まかに言うと、いわゆる首都圏出身が2~3割、残りが地方出身でした。都内の他私立大学も事情は似ていたと思う。難しい理屈は抜きにして、大学に入ったら何でも好きなことができる、好きなことをしよう、したいという気分が多くの学生たちにあったでしょう。そのような学生たちの期待や飢渇を満たすものは大学の提供する「授業」などにはなかったと思われます。それ以前の学校や家庭からの「束縛」から解放された思いで入学した大学で、多くの学生は満たされないものを抱えることになった。それに応じて、同好会や学生サークルにエネルギーを割くことになるのです。「束縛からの自由」だけでは、人間は自らを律しえないことが後に明らかになります。「責任への自由」と側面に気が付かなかった人が大半だったと思う。(このような事態は、今日でも。原型は変わらないままで、広く深く生じているのではないでしょうか)

 それまでの束縛状態から解放されることを求めていたにもかかわらず、いざ解放されたとなると、寄る辺ない不安、頼りなさ、身を寄せる者のない孤独などに襲われるのはよくあることです。希求していた「自由」とは、「不安」「孤独」「頼りなさ」の別名だったことを知らされて、いっそう不安に苛(さいな)まれることになるでしょう。その隙間に忍び寄ったり、強引に割り込んでくるものが「信仰(妄信)」「絶対(帰依)」する、人間の弱さが生み出す「暗闇」だったともいえます。「恋は盲目」という一面は、「絶対的信頼」を寄せる存在に対しても、事の是非が見えなくなるのです。一面では、もっと不自由な状態に留まることを(当人の中から当人に)強いる対象へののめり込みがあったと思う。つまりは「自由を求めて」彷徨しつつ、やがては「自由から逃れて」権威にしがみつくようになったのではなかったか。ぼく自身も、そのような雰囲気を抱えた「大学(という群集の中で)」の経験を持ったものだけに、「自由からの逃走」を図る学生たちの挙措・行動は手に取るようにわかっていたと思う。

 不安(anxiety )や寄る辺なさ(helplessness )に苛まれる、そのことが「自由」だと、ぼくたちには認めることが難しいでしょう。自由であることは自分の足で立ち、自分の頭で考えることです。フロム(写真 ➡)という思想家が書いた「自由からの逃走」は全体主義の吹き荒れる嵐(ナチの時代)の中で、多くの民衆は絶対的権威、あるいは宗教的権威に、自らにじり寄ることで「不安から逃れて自由に」なったと錯覚した。安心を得たと錯覚したのでした。その当時のドイツの民衆の心理は、その時代に特有のものではなく、いわば普遍性を持った人間の不安心理(弱さ)(不完全性)の存在証明であったともいえます。フロムの指摘に正当性があったというべきです。いつの時代でも「不安」を恐れて「権威」に依存する人間は圧倒的多数です。今日の時代にもあからさまに生じている現象でしょう。自分の頭で考えるより、権威の頭を借りたなら、自分にも権威があると錯覚するからでしょう。

◎ エーリッヒ フロム(Erich Fromm)= 1900.3.23 - 1980.3.18 米国の精神分析学者。 元・ニューヨーク大学教授。 フランクフルト生まれ。 精神分析の中での社会的要因を強調し、新フロイト主義の指導的役割を担ったユダヤ系精神分析学者。1930年より3年間フランクフルト社会学研究所に勤務し、その後コロンビア大学、ベニントン大学、’51年からメキシコ国立大学で教壇に立つ。’62年にはニューヨーク大学教授となる。「自由からの逃走」(’41年)や「正気の社会」(’55年)などの著書がある。(20世紀西洋人名事典)

 自分はそうではないという、明確に「権威への依拠」を否定する人が「名門」や「一流」を求めることはいくらでもある。実に恥ずかしい勘違いですけれど、それを全面的に否定できないという「弱さ」はどんな人間にも備わっている。教会・教派や集団(学校や企業など)、あるいは政党などの政治的権威から自由になることは、ある意味で、ほとんどの人間にはできない相談なのかもしれない。しかし、人間(自分)の弱さを自分に隠さない人もいる。ぼくは常々、「自分の弱さを自分に隠さない、その程度に応じてしか人間は強くなれない」と言ってきました。自分は弱い人間であると認めれば、それだけで強くなれるのではないのです。どこまで行っても「弱い存在」であることから逃げない、その限りでしか人間の強さは測れないと考えてきました。

 不安や孤独化から解放されて、そのような孤独や不安を全く感じさせない「絶対的権威」に帰依することによって、人間の「不自由」「完全なる被支配」は完結します。オウムに奔る、統一教会に奔る、そのような「盲目的信仰」に示される多くの若者たち(だけではない)の心的状況を、今この段階で考えてみても、「自由」であることを捨てて「不自由」に逃げ込む、その人間の弱さの「絶対性」をぼくは否定できないのです。これまでも、そしてこれからも「集団的狂気(mass madness)」は多くの人を捉えて放さないないでしょう。集団に自らを隠すことで、不安から逃れられたと思い込む、その怖さはいつでもどこでも生まれます。  

 人間が求めている自由は、鎖(リード)に繋がれている犬のもの、鎖(リード)の長さだけの自由ではないでしょうか。

 学生時代に読んだサマセット・モームの「人間の絆」、とても長いもので、ていねい読んだかどうだか怪しいのですが、「人間の絆(Of human bondage)」というタイトルに惹かれていました。鎖でつながれた状態、それを「絆」という。夫婦関係もまた、ある人々には「絆」でしょうか。その「絆」があれば安心が得られるか、得られないにもかかわらず「離れがたい」、そんな人間の「腐れ縁」「優柔不断」がテーマだったかもしれない。ぼくには理解できないものでしたが、「絆」という言葉はそれ以降、染みついて離れなくなりました。犬と飼い主を結ぶ「絆」が首輪とリードによります。人間と神を結ぶのも「教会の仲立ち」によります。

 今でも言われているのでしょうか。「教会の外に救いなし(Extra ecclesia nullus salus)」と。絶対者と人間(個人)が教会の仲立ちによる「絆(しがらみ)」で結ばれるということ。人間に自由はあるとは思われない関係、それが「信仰」であり、時には「妄信」でもあります。また、他者を排除すること、外部と絶縁すること、それが「宗教(religion)」という語の原義でありました。まさに不自由であり、妄信する境地でしか、人間は救われないという状況を示すのが宗教なら、それは「カルト(cult)」そのものでしょう。「(カルトとは)宗教的崇拝。転じて、ある集団が示す熱烈な支持」(デジタル大辞泉)絶対的な従属こそ、敬虔な信者の条件になっているとみなされる、そんな宗教(教派)がほとんどだと思う。(しかし、「自らの信仰」に懐疑的である人も決して少なくないのが実際ではないでしょうか) 

 今もなお、世界のいたるところで、大小を問わす狂い咲いているのが「集団的発狂(Collective Madness)」だと思われます。「人間の弱さ」が集まると、脅威や恐怖が生まれるのだと思う。その恐怖や脅威が一変して、絶対的な自己過信に陥るのでしょうね。自由を失う、自由から逃げ出す人々は、何時まで経っても尽きる気遣いはなさそうです。

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

日付が変わって、3月7日零時台…

【国原譜】「深夜放送」といえばラジオ。中学・高校時代、試験勉強のかたわら、お気に入りの番組をよく聴いた、筋金入りの“ながら族”である。/中1の時「ABCヤングリクエスト」に、ジェームス・ディーン主演の映画「エデンの東」のテーマ曲をはがきでリクエストし、名前を呼ばれたことは一生の思い出だ。/歌謡曲、洋楽、フォークソング、イージーリスニング、映画の主題歌…、昭和の夜はいろいろな音楽に彩られていた。当時のDJは、さまざまな薀蓄(うんちく)を披露してくれて、雑学を学ぶ場でもあった。/最近は、高齢者の人気が高いNHK「ラジオ深夜便」を毎日1時間ぐらい聴いている。日替わりで出演するベテラン・アンカーたちの語り口は個性豊か。/午前零時前の「明日の日の出」は、主要都市の日の出の時刻を、ただ読み上げるだけなのだが、日本列島の長さを再認識できる。「地名と時刻」を1回で読み終える人もいれば2回繰り返す人もいる。時報までの“尺合わせ”が楽しい。/時報の後の「日付が変わって…」と言うニュースアナのフレーズも気に入っている。(恵)(奈良新聞・2025/03/06)

 奈良新聞のコラム「国原譜」は長い間の読者のつもりです。コラムの内容はともかく、何といっても「国原(くにはら)」~広々とした平原(土地)~という語感が好きで、いかにも奈良に相応しいと勝手に思っています。「譜」はいくつかの解釈・解説がありますが、つづきもの、あるいはひとまとまりの「語録」「譜」などを指す。「「花譜・画譜・棋譜・局譜・図譜・年譜・家譜・譜代」などなど。歌に特化した例に「早春賦」などがありますね。「詩や歌」を指します。「コラム」「プロポ」なども「(言の葉)譜」として、その仲間と理解してはどうでしょう。その「国原の譜」、つまりは「奈良」ですが、凹凸のある土地を「たいらに均(なら)す」から来ているともいわれています。「平城京」という命名などにも、その歴史の事情が映されているとも思えます。三木露風の詩句、「春尚淋しくして国原に人稀れなり」が、いつも愛好(利用)している辞書の解説に引かれています。

 奈良は曾遊の地、というにはあまりにも近すぎました。奈良公園に遠足で行ったのはいつだったか。以来、たびたびの訪問で、法隆寺や東大寺、樫原神宮や春日大社をはじめとするたくさんの社寺、そして若草山や猿沢の池などの行楽の地などなど、本当によく遊んだものでした。学校の遠足などで赴いたのでしょうが、たった一人で方々を歩き回ったという感覚しかぼくには残っていません。どうしてですかね。

 奈良に所縁(ゆかり)の深い人にも、それぞれに親しんだものでした。ここに数え上げればきりがなくなりますので、それはしません。ぼくの同僚だった先輩は吉野の出身、自らは「吉野の山賤(やまがつ)」などど卑称しておられたが、なかなかどうして、とてもプライドの高い人だった。源氏物語や、中世・平安時代における日記文学の研究者として多くの仕事されましたが、惜しくも七十を前に急逝された。また、卒業生には橿原に一人、教師を続けておられた方がいました。ある時期から連絡が絶えたのは残念でした。まだお元気で過ごされているでしょうか。

 「国原」に因(ちな)んでなら、何よりも、ぼくの好きな俳人、阿波野青畝(あわのせいほ)(1899~1992)さんですね。氏の句集の書名にもとられています(第二句集「国原」1942年刊)。青畝さんは奈良高取郡出身。早くから「ホトトギス」に参加。「国原」の中から一句。「水澄みて金閣の金さしにけり」 戦前の作ですから、金閣寺が焼ける前の情景。もちろん、ぼくは戦後に再建なった金閣寺しか見ませんでしたが、その往時の「金」の輝きはどういうものだったか。以下、さらに氏の句をいくつか。

・葛城の山懐に寝釈迦かな ・なつかしの濁世の雨や涅槃像 ・居酒屋の灯に佇める雪だるま ・水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首

***********

 その「国原譜」氏が「ラジオ深夜便」の愛聴者であるという。同好の士ならぬ、同聴の士ですか。ぼくも氏と同じように、若いころは「(ラジオの)深夜放送」を聞いたものでしたが、あまりにも騒々しくて、長続きはしませんでした。もう60年も前のこと。その当時、いまでいうパーソナリティをしていた何人もの方々が、今なお現役(active service)だというのですから、驚異ですね。この世界には「マンネリ」という名の「惰性」はないのでしょうか。

 よほど暇なのかと問い詰められそうです。ぼくは、この「ラジオ深夜便」の最初期からの聴取者で、もう三十五年も続いています。勤め人時代は、ほぼ午前3時起きだったから、「深夜便」の流れは掴んでいましたし、今は午後11時にはベッドに入るようにしていますので、最初から番組を聴いている。何がいいのかと聞かれれば、応えに困るけれど、時計代わりであり、ニュース速報に即座に対応できるということくらいが、「深夜便」に耳を傾ける理由でしょうか。つまりは「悪習」「悪癖」ですな。この番組のことはどこかで、一度ならず書いているが、発端は昭和天皇重篤の際の病状変化に備えての放送だった。その後、幾多の経緯がありつつ、今のようになったのは1992年からだったと思う。寝ながらの聴取ですから、一種の睡眠導入剤(眠り薬)の役割を果たしていると言えます。

 番組の内容構成も、それこそ手探り状態がしばらく続き、今あるような「マンネリ(mannerism)」、「代わり映えのしないもの」になったのは2000年になってからでしょうか。担当者は午後11時5分の開始時から翌朝午前5時までの6時間弱、基本は一人。そのほとんどは某放送局の「定年退職者」が当たっていると思う。その多くはテレビのアナウンサーで「ニュースの顔」だったりした方が担当者になっていることが多く、テレビ視聴の誼(よしみ)から徐々に聴取者が増えて行ったのでしょうか。細かく言えばきりはないが、ぼくはその時々の放送内容を、かなり正確に記憶している。「明日への言葉」はテレビでもやっていたが、画面なしで聞くと、夾雑物がなくなる分、深く聴きとることができたと思う。内容に好き嫌いがあるのは当然で、何でこんな夜中にと批判されたものもありました。真夜中に料理番組宜しく、実際にスタジオで作って、食べて、おしゃべりしてという、ぼくなんかは特に嫌いなものでした。また一人の担当者(「アンカー」というらしい)が「夜中にジャズ」鑑賞を始めた時も批判や非難があった。ぼくは、寝ながら往年の名演奏を楽しんだものでしたが。これは今も続いています。

 (今でも気になる表現に、アンカーが自分のことを指して、「今晩のご案内は…」「ご担当は~」という。聞いている者に対する丁寧語のつもりだと思うが、違いますねと言っておきたい。尊局では、言葉研究の大家がおられる、その上での表現・言い方なんですかと、質問したい)

 つまらないことを書いているという自覚がありますので、この辺りで止めておきます。地震速報や、大きな事件・事故には番組の途中でも割り込み報道をするのも当たり前のこととして、とてもいいことだとぼくは受け止めています。聞くに堪えないという個人の判断が働けば、直ちにラジオを消す。というわけで、聞いているような寝ているような曖昧模糊としたまま、ぼくは毎晩イヤフォンを耳にして横になる。猫たちが深夜の時間帯をかまわず起こしに来るので、零時過ぎであれ、2時であれ、3時になろうが、ぼくは律儀に起きて、猫の相手をする。そんな時もイヤフォンは耳に、です。

 時代の雰囲気でしょうか。間髪を入れず、SNSを使って聴取者からの反応が届けられる。一種の「交流会」あるいは「高齢者・昔語りの会」、どうかすると「ラジオ老人ホーム」の趣があるのは、それはそれでいいですね。「一人じゃないって」いうことですか。ぼくは四十代から聴き始めて、今は傘寿。これまでに、たったの一度も番組にハガキや感想を送ったことはない。ただ耳を傾けるだけ。時にはアンカー(担当者)(ディレクター)の間違いがあって気になることもありますが、その多くは番組内で訂正されるので、気づいてよかったと、安心します。そのミスを考えると、担当者(アンカー)の多くは書かれた原稿を読んだり読み違えたりしているのが一耳瞭然。悪習は直してほしいと願いますね。(「知らないこと」には謙虚になって、ですね)

 番組終了直前に「今日の誕生日の花と花ことば」の時間があります。本日(3月7日)は「パンジー(三色スミレ)」で、「花言葉」は「物思い」「私のことを忘れないで」だという。いい加減な、適当なことを、勝手な言い草と、何時だってばかばかしくなりますが。それも愛嬌でしょうか。(「誕生日の花」には、業界ごとに(?)いくつもの花々があります。だから、この「深夜便では、パンジー」ということ)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

備えあっても憂いあり、それでも…

 火災発生以来八日目。ようやく待望の雨が降り、鎮火、消火の目途が付いたといっていいのかどうか。山林地帯だけに消火活動も思うに任せず、空陸からの活動には限界があろう。消火のために海からの水を確保するのに8キロもホースをつないでいるという。焼失家屋も数を増しているし、避難者の生活も、先行きの不安は残る。全国各地からの応援隊が消火や避難者の安全確保のために活動、「相身互い身」ということだ。

+++++

 唐突ですが、鴨長明の生きた時代、それこそ「安元の大火」(1177年)から、「治承の辻風」「養和の飢饉」「元暦の大地震」(1185年)まで、と十年ほどの間に息つく間もなく、大災厄(天変地異)が生じている。長明さんは言う、「すべて、世の中のありにくく、我が身と栖(すみか)との、はかなく、あだなるさま、また、かくのごとし。いはむや、所により、身の程にしたがひつつ、心を悩ます事は、あげて計(かず)ふべからず」(「方丈記」)ここに九百年を隔てる「世の有様」を持ってきても無意味かもしれぬ。それほどに、この小さな島に住む者には「災害」は不可避(運命)であり、時代や場所が変ろうとも、その「あだなるさま」は尽きることなく永遠であり、不変(普遍)であると、後世から読めば、長明さんはいっているようにも聞こえてきます。

 九百年、千年の時間が「歴史」という名でぼくたちに与えられてきた意味は何処にあるのかと、今さらに問いだす始末に、われながら言葉を失うのだ。「世に従へば、身、苦し。従はねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき」(同上)(既出・浅見校訂・訳:ちくま学芸文庫版)

 延焼拡大ないか警戒継続 岩手・大船渡山火事 岩手県大船渡市の大規模山林火災で、消防などは6日、延焼が広がっていないか警戒を続けた。これまでに市面積の9%に当たる約2900ヘクタールが焼失。5日にまとまった雨が降り、地元消防は地上の調査では延焼拡大が見られなかったと明らかにしていた。天候状況を見ながら、ヘリコプターによる偵察を行う。
 市によると、火災は2月26日に発生し、三陸町綾里の6地区と赤崎町外口地区で住宅や作業場など計78棟が焼失。1896世帯4596人に対する避難指示が続き、5日午後6時時点で避難所に1239人、親戚宅などに3055人が身を寄せている。(共同通信・2025/03/06)

 早ければ早いほど、救われるもの(人命ばかりではなく、多くの動植物の「いのち」も含まれる)が多くなるのは当たり前。自衛隊出動も早い段階から見られた。人力、機械力による消火活動以上に、自然の恵みである多くの降雨量が期待されるところ。新年もはや三月。安心して走行していた道路が突然陥没、いまなお運転者の身体確認が達成されていない、埼玉県の八潮市の事故から、各地で道路陥没事故が相次ぐ。記録的な豪雪による家屋の損害や人命の損失も後を絶ちません。

 「災害劣島」と言われるゆえんは、地理的な位置によるところ大だが、それ以上に「人災」の側面も決して見逃しにはできないと思う。この段階でとやかく言う暇はないけれど、国土保全、いや国土強靭化などと言っては巨額財源を傾けてきたのに、さていったん、事態が急変すれば、ほとんど予防的備えすらなかったことがあからさまになる、それはなぜか。

 「延焼拡大見られず」鎮圧に向け“残火処理”急ぐ 大船渡・山林火災8日目に待望の雨 日に日に拡大を続けてきた岩手県大船渡市の山林火災。発生から8日目を迎えた5日は、地元にとって待望の雨となり、炎は目視で確認できない状態にまで収まりました。大船渡市は、雨による効果があったとしていて、「地上隊からの報告では延焼拡大は見られない」と述べています。(テレ朝NEWS2025/03/06 01:49)(ヘッダー写真も)(https://news.goo.ne.jp/article/tvasahinews/nation/tvasahinews-900019886.html)

 言うまでもなく、政治(家)だけに責任を負わせることは無理だとしても、それにしても、事件や事故、災害が発生して初めて、「無防備」「無策」が指摘されるのであっては国民はたまらない。「備えあっても憂いあり」の時代、官民挙げて、「生命への脅威」を取り除くために、かかる方面への政治や経済の活力移譲を特に求めたいと思う。「備えあっても憂いあり。にもかかわらず、なお備えよう」もちろん、国民のすべき事柄(責任)も小さくないことを忘れたくない。

 大船渡市の山林火災、延焼拡大は見られず 空中消火は見合わせ 大船渡市の大規模山林火災は5日、悪天候のためヘリによる空中消火活動は見合わせた。地上部隊が活動し、同隊によると延焼の拡大はみられない。市は避難指示の解除、一部解除について6日以降に判断する。/建物被害については、延焼地域の上空偵察の映像や現地調査(一部地域)により、少なくとも三陸町綾里の小路16棟、石浜9棟、田浜9棟、港19棟、岩崎下4棟、宮野東3棟、赤崎町外口18棟の焼失が確認されたと発表した。/市によると、5日午前11時現在、市内の12避難所に1227人(避難車両655台)、親戚・知人宅などに2924人が身を寄せている。/県によると、6~10日に県災害派遣福祉チーム(DWAT)5人程度を派遣する。(岩手日報・2025/03/05)

 (ただ今、3月6日、午前7時半。今の今、今春初めて鴬(うぐいす)の啼き声を聞いた。拙宅横の竹藪からの第一声、ぼくにとって)

鶯や籔の隅には去年の雪(子規) ・ほがらかに鶯啼きぬ風の中日野草城) ・遠ければ鶯遠きだけ澄む深山(蛇笏)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

啓蟄や心の虚洞を如何にせむ

 本日は二十四節季でいう「啓蟄(けいちつ)」です。一気呵成に季節は移ると言いたくもあり、言いたくもなし、ですね。「蟄居屏息」「蟄居閉門」、どちらも息をひそめて閉じこもるという意です。江戸時代の処罰にもなっていました。「蟄」は「チツ」「チュウ」(音読み)。「かく(れる)」「とじこ(もる)」(訓読み)です。この節季をぼくは待ち望んでいたといえばおかしいでしょうが、少し気を揉みながらの「節季」迎え、それがこの地に越して以来、十年余の「習い」になっています。「冬ごもりの虫が地中からはい出るころ。太陽暦で3月6日(~3月9日)ごろ。《 春》」(デジタル大辞泉)間もなく庭中にアリが満ち満ちることになる。

【筆洗】「蟄虫啓戸」(すごもりむしとをひらく)。冬の間、地中で眠っていた虫などが春の訪れを知り、穴から出てくるころという。本日の5日は二十四節気の「啓蟄(けいちつ)」である▼「啓蟄」といえど、寒の戻りに虫たちも穴を離れがたかろう。昨日、関東地方に大雪の予報が出て、雪に不慣れな東京は身構えた▼春先の雪の予報にやれやれと思う一方、この雪や雨が東北の火の勢いをいくらかでも弱めてくれることを願った人は多いだろう。岩手県大船渡市で発生した山林火災である。2月26日の発生から1週間となるが、収まる気配が見えぬ。焼失面積は既に同市の8%に及ぶという▼全国から派遣された消防隊員や自衛隊が昼夜を問わず消火にあたるものの、自然との闘いに苦戦しているようだ。雨不足で乾燥した空気と強い風が火の手を強める。避難していらっしゃる方の疲労も心配になる▼同じ岩手県の北上市の神楽保存会が早期の鎮火を願い、雨を降らせると伝えられる「龍神石」の前で神楽を奉納したと聞いた。科学の時代になろうと人の身を案じる神楽の気持ちがありがたい▼奉納のおかげか。大船渡でも雪や雨が期待できるとの予報に少しほっとする。<あめゆじゆとてちてけんじや>-。岩手出身の宮沢賢治の「永訣(えいけつ)の朝」。病にある妹トシの雨雪を口にしたいと求める言葉が悲しいが、大船渡に今、<あめゆじゆ>がほしい。(東京新聞・2025/03/05)

 昨夜来の降雨が続いています。祈るように待っていた降雨、山火事延焼中の大船渡の空からも、雪や雨が落ちていると聞いて、まずは少し安心。しかし、なかなか手ごわいのが火炎です。少しばかりの雨では、かえって酸素を補給することになり、むしろ「藪蛇(やぶへび)」になりかねません。今少し、消火に有効な雨雪量であってほしいと欲を出しているのです。必要以上はいらないが。二日前、久方ぶりに現地では「雨乞神事」が執り行われていました。効果というか、霊験あらたかだったのですね。

 いま「藪蛇」という言葉を使いました。「《「藪をつついて蛇を出す」から》よけいなことをして、かえって自分にとって悪い結果を招くこと」(デジタル大辞泉)拙宅の敷地左右と後ろの三方には「竹藪」が控えています。すでにイノシシは早くから土地を掘り起こして木の根を探している。大変に大きな穴を掘りだしては、一度として「埋め戻し」をした試しがないのには呆れかえる。そして、この季節、いよいよ「蛇」の登場です。ごくたまに庭に侵入してくることがあります。それ以上に困るのが猫が小さなのを咥(くわ)えて家の中に持ち込むのです。それもたった一つの猫だけがそれを得意にしている。昨年は三、四度も家に連れてきた。油断していると、家の中に蛇が籠ることになりかねないので気を使います。

 猫にとって、蛇が天敵だと言われていますが、そうでない猫もいるのでしょうか。当地には、毒を持つのと持たないのがいるといいますが、どちらにしても咬まれれば大事になります。わが家の猫も、これまでに何度も大きく腫らして動物病院に急行したことがある。人間に用いられる「血清」はないようで、ひたすら化膿止めを飲ませて幸運を待つばかりという。重症化して大事に至らなかったのは、ただただ幸運であっただけかもしれません。この地には、猛毒を含め、多くの種類が棲息(生息)している。近所の同年配によれば、「それでも、近頃は少なくなったよ。恐らく猪などが食べたからだろう」ということでした。いろいろな生き物がいる中で、なぜ「蛇」ばかりが嫌われるのか、「旧約聖書」の悪影響かもしれません。

◎ 楽園追放 (らくえんついほう)(Expulsion・Vertreibung aus dem Paradies[ドイツ])楽園追放= アダムとイブの,エデンの園(楽園)からの追放をいう。旧約聖書《創世記》2~3章によると,アダムとイブは苦しみも心配もなくエデンの園に住んでいたが,蛇の誘惑に負けて知恵の木の実を食べた。神の命にそむくこの行為(原罪)のため2人は楽園を追われ,それ以来人間は苦労して働き,ついには死する運命となった。(世界大百科事典)

 信者であるなしにかかわらず、災厄ばかりが降り注ぐというのは、困りものですが、相手は人間どもをよく思っていないのかもしれません。くれぐれも注意するに越したことはありませんね。大船渡の山火事延焼中の報道に、「啓蟄」前の動物たちはどうしているか、とても気が気ではありませんでした。豪州の山火事ではカンガルーやコアラが大火傷(やけど)で死んだり重傷を負うニュースが届けられます。「地上に楽園」は無理な話でしょうが、せめて自然災害の被害には遭わないことを「命あるもの」のためにはぼくは祈りたい。

 今年は、例年とは趣の異なった「啓蟄」初日の気分ではありました。以下掲載の五句の中では、どうですか、第四句が今のぼくの気持ちにもふさわしいというべきか。心の内にも外にも形を成さぬばかりに微塵に砕かれた破壊のさまが昂進している、つまりはわが心にも虚ろな空洞が、寂(さび)しい風を吹かせているのです。その風はどこから来るのか。ずっと吹いているようでもあり、このところ急に感じられるようにも思われる、春の寒い風。

・啓蟄の庭とも畠ともつかず(安住 敦)
・啓蟄のとぐろを卷いてゐる風よ(島田牙城)
・庭上に啓蟄の気の漂へり(相生垣瓜人)
・啓蟄や心の虚洞(うろ)を如何にせむ(林翔)
・啓蟄や吾にものいふ石の蟇(山口青邨) 

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

出会いは束の間、教師の仕事とは?

<あのころ>「山びこ学校」刊行 無着成恭氏指導の文集 1951(昭和26)年3月5日、無着成恭編「山びこ学校」が出版され反響を呼んだ。山形県・山元中学校の生徒43人が貧村に生きる家族を克明に記録した「生活つづり方」文集。戦後民主主義教育の典型と評価されベストセラーに。映画にもなったが、地元の恥をさらしたと批判され無着氏は村を去った。(2022年03月05日 08時00分 共同通信)(写真➡:右側地図の前には無着先生。「学級会」の教室風景)

 「国語科」における「作文」という分野は明治初期の学校開始以来、しばしば名前を変えながら、今に続いています。その中で、「生活綴方」が公教育の中で、教科書のない教科として、教師側の工夫や創意を十分に生かせるものとして、時代と共に広く普及してきました。「生活を見つめ直す」授業として、特に東北地方で大きな教育運動を伴った実践が積み重ねられてきました。その嚆矢(こうし)は「北方(性)教育」だったと思われます。生活の貧しさを直視するという実践の狙いは、大きな成果を生んできましたが、やがてそれは国家権力の「忌諱(きい・きき)」に触れるものとして多くの実践教師の弾圧にまで及んだのでした。無着氏の実践は、北方教育の流れを汲むものであり、彼自身の記録にもその傾向は色濃く反映されていました。

+++

 「教育は芸術である」といった教師がいました。その真意はぼくの理解を超えていましたが、絵画や彫刻、あるいは音楽や文学などと同じように、長い研鑽・精進を必要とする尊い仕事だということだったかもしれないと考えてきました。その教師はまた、「教育(授業)は儚(はかない)いものだ」という意味のことも言われていた。教師と子ども、子どもたちとの一瞬の出会いが生み出す共同の作業が授業(教育)であって、それはいつまでも遺されるものではないということだったと思う。ごく当たり前に「(ある事柄を)教え、記憶させ、それをテストする」という意味での「儚さ」を指摘したものではないでしょう。そんなものは儚いどころの話ではないからです。

 一人の教師(それを無着さんだとすれば)と四十三人の中学生の、三年間に及ぶ「交流記録」「実践記録」は残されましたし、教師とそれぞれの子どもたちの「教室における出会い」は記憶され、思い出されるべきものとして理解はされましょうが、一瞬間で終わるほかない「やり取り」「出会い」はたちまちのうちに消え去ります。素晴らしい授業が行われたなら、その「よさ」は後々までも残り続けるといえるかどうか。言えるようでもあり、言えないようにも思われてきます。その瞬間に感じる思いや実感は、スマホで切り取ることはできない相談で、辛うじて、一人一人の記憶の中で発酵し続けて初めて、生きているともいえるのでしょう。

 これはどんなことにも言えるのであります。教室で行われた授業という「実践」に関する残された記憶は教師だけのものであり、生徒一人のものである、というべきではないでしょうか。全員で成し遂げた「授業の達成」は、一瞬で消え去るものです。ここまでくると、教育とは? 授業とは? そんな問題に正面から衝突せざるを得なくなる。無着さんと43人の子どもたちとの「授業」という共同作業は、一冊の書物にはなり、多くの人に受け入れられましたが、それは「記録」であって、教室の一瞬における「達成」、その都度に生じた「感慨」の、いわば「抜け殻」のようなものです。名人の落語高座を聴いて感動するのは、寄席における落語家とそれに聞き入る一人の好事家の間に、一瞬に起こる事柄(飛び交う火花)です。それを感動といってもいいでしょうか。その感動(火花)は消えものであって、辛うじて記憶の中で(擬似感動として)生き続けるかもしれないものでしょう。

________________

 「毀誉褒貶(きよほうへん)」という語があります。「ほめることとけなすこと。または、ほめる人もいればけなす人もいるという意味から、世間の評判のこと。『毀』と『貶』はどちらも欠点を悪く言う、非難するという意味。『誉』と『褒』はどちらもほめるという意味。同じような意味の言葉を重ねて強調した言葉」(四字熟語辞典ONLINE)いささか勇み足の謗りは受けるかもしれませんが、この言葉は無着成恭という存在によく似合っているとぼくは思います。無着さんが教師になったのは、戦後の学校教育の再出発点であり、山形師範を卒業して生家の隣村だった「山元村」の中学校社会科教師としてでした。新制(新生)中学校の発足と同時の、戦後生まれの新しい教科「社会科」担当教師だった。時に、無着成恭青年、十九歳の春だった。

 無着さんについて、「やまびこ学校」について、ぼくはたくさんの文章を書いてきました。このベストセラーを何度読んだかわかりません。読んだ回数は数えられないのですけれど、それでは一冊の「やまびこ学校」はこの社会の学校教育に何を齎したか、となると簡単には語れない。「生活綴方」は戦前からありましたし、戦後も継続して大きなうねりを持った運動のようにたくさんの実践が重ねられてきました。いま、その歴史についてぼくは語る気はしません。誤解を承知で言うなら、「生活綴方」も、無着成恭という教師の実践も、時代が降るとともに、「経済成長」という生活(豊かさの追求)至上主義の荒波にかき消されたと思われます。当時の「山元中学校」の子どもたちの生活は「貧乏」「貧困」「生活苦」という日々の生活との戦い方に明け暮れていたといえるでしょう。その「戦いの記録」こそが「教育実践の核心」であり、「教えて、教えられて、それで終わり」では手の施しようもない、ある面では教室に収まり切れない教育の仕事がそこに発見されるはずです。

 「やまびこ学校」刊行以来、もう七十数年も経過したのかという、いいようのない淋しさだけがぼくの中で湧いています

無着成恭【むちゃくせいきょう】(1927~2023)教育家,僧侶。山形県生れ。山形師範学校,駒沢大学仏教学部卒業。1948年山形県山元村立山元中学校教師となり,生徒の生活記録文を編集した《山びこ学校》を1951年に刊行し,生活綴方の再興と評された。1956年私立明星学園勤務,1970年《続・山びこ学校》を刊行した。1983年千葉県の曹洞宗福泉寺住職。〈新教育〉に基づく社会科学習の非現実性を批判するなど独特な教育評論でも知られ,著書に《無着成恭の詩の授業》(1982年),《無着成恭の昭和教育論》(1989年)などがある。(百科事典マイペディア)

******

 「山びこ学校」無着成恭さん死去 生活綴方を実践、ラジオでも人気 生活綴方(つづりかた)の記録「山びこ学校」の編者で、TBSラジオ「全国こども電話相談室」の回答者を長年務めた、僧侶で教育者の無着成恭(むちゃくせいきょう)さんが21日、敗血症性ショックのため死去した。96歳だった。通夜は26日午後5時、葬儀は27日午前11時から千葉県多古町一鍬田292の福泉寺で。喪主は長男で同寺住職の成融(せいゆう)さん。
 山形県生まれ。1948年に赴任した同県山元村(現・上山市)の中学校で、子どもたちが生活のありのままを作文に書く教育「生活綴方」を実践。生徒43人の詩や作文を収めた学級文集を編集した「山びこ学校」を51年に出版し、ベストセラーになった。その後、明星(みょうじょう)学園(東京)で教諭や教頭を務め、64年からは「全国こども電話相談室」の回答者を約30年続けた。大分県国東市の泉福寺の住職を経て、過去に住職を務めた福泉寺で暮らしていた。(宮崎亮)朝日新聞デジタル2023年07月24日掲載(ヘッダー写真も含む)(https://book.asahi.com/article/14965021

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII