「南無阿弥陀仏」、「やったー!」

 117日ぶり!〝だるま朝日ハンター〟歓喜 中土佐町久礼でぷっくり20秒間【動画】 だるまさん、久礼におかえり―。中土佐町 久礼で長らく見えていなかっただるま朝日が10日、117日ぶりに姿を現した。ふるさと海岸や赤灯台の堤防に集まった20人超の〝だるま朝日ハンター〟たちは、けあらしで揺らぐ水平線から顔を出すだるまに固唾(かたず)を飲んでシャッターを切ると、「やったー!」と喜び合った。/シーズンに30~40回は見られる冬の風物詩だが、今季は昨年11月13日の6回目が最後。3月9日は、久しぶりに美しく焼けたもののだるまの頭を雲が隠して〝不発〟だった。久礼から見えるのは毎年春分の日(20日)まで。11日以降は天気が崩れる予報もあり、写真愛好家たちは「今日」にかけていた。/午前6時24分。水平線に雲はなし。ピンク色の光が差し、みるみる膨れた。まもなく沖合の船の隣で堂々、真っ赤なだるまさんが。20秒足らずの姿にシャッター音が響き、丸の姿に戻ると「やりましたね」と今度は笑顔が輝いた。/約20年間、シーズンになるとほぼ毎日、だるまを見守っている地元の佐竹福馬さん(82)は「だるまが出てこればあみんなで喜んだ日はなかった」と赤いニット帽と上着のだるまさんコーデで感無量。この日は、仕事や家庭の用事で来られない撮影仲間もいた。残念がりつつ、その仲間が手作りした「祝」の旗を手に「出たよ」と報告の記念撮影をした。(以下略)(高知新聞・2025/03/11)(ヘッダー写真も) 

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 もう二十年以上も前、知人たちと岐阜県側から白山(標高2,702m)に昇ったことがあります。ぼくのような素人にもそれほど難しい登山ではなかった。そのせいもあってか、その時も登山者が多かった記憶がある。昇っていると、登山道の脇で休憩している高齢の女性が一人でいた。何気なしに声をかけたところ、「私は毎日昇っている」「今日で何百何十回目です」と、涼しそうな顔をして話されたのには、驚きました。三十年間、一日も欠かさず、どこかしらの山に登り続けていた人がいました。世の中には、さまざまな事柄に、ひたすら挑戦されている人が極めて多いのではないでしょうか。ぼくのような「三日坊主」「飽き性」な人間にはとても足元にも及ばない行動だというほかありません。この「だるま朝日」を二十年も追いかけている久礼の「お父さん」もいるという話。

 土佐の「だるま朝日」をひたすら写し取ろうという「ハンター」がいることは知っていましたし、何年か前にもその「偉業(?)」に触れたことがあります。毎年シーズンになると「弾丸登山」が問題になる富士山。まるで繁華街の人通りのような混雑ぶりに、ぼくなどは顔ををそむけたくなりますが、「大勢いるから、登る」「自分も登ろう」というのでしょうか。「ご来光」ファン(信仰)は古くからいましたし、ぼくなども何度か強いられて「拝んだ」ことがありました。まだ小学生の頃、遠足で出かけた伊勢志摩。その二見浦の「夫婦岩」の間から昇る「朝日」に手を合わせたかどうか忘れましたけれど、わざわざ出かけて「ありがたい」と思わされた「ご来光」を目にした、最初で最後の機会だったと思う。

 今「ご来光」なる言葉を使いましたが、これは山に登って「日の出」を迎えるという意味だそうで、平地や海岸などで眺める「日の出」を「ご来光」とは言わないようです。たぶん、「ご来迎(らいごう)」に準(なぞら)えて、あるいはあやかって言われているんでしょうね。特に俳句の世界では「ご来光」は夏の季語だと言われます。「ご来迎(ごらいごう)=高山の頂上で太陽を背にしたとき、全面の霧に自分の影が大きく映り、その周りに光環が見られる現象。阿弥陀仏が光背を負うて来迎するのになぞらえていう」(デジタル大辞泉)「念仏行者の臨終に、彌陀三尊などがあらわれる事を敬っていう語」(精選版日本国語大辞典)

 「日本の仏教には、人が亡くなる時には阿弥陀如来(あみだにょらい)が西にある極楽浄土から迎えにくる、という考え方があります。日本の古い絵画作品の場合、画面向かって左を西とする空間構成が基本で、この作品も(左写真)、向かって左手から、阿弥陀如来の一行が降りてきています。阿弥陀如来から放たれた光の筋は民家の軒先まで伸び、そこに念仏を唱えながら迎えを待つ人物の姿が見えます」(文化遺産オンライン)(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/579846)(左写真「阿弥陀聖衆来迎図(あみだしょうじゅうらいごうず)」)

 要するに太陽を拝むのは「阿弥陀さん信仰」に連なる、ある種の敬虔な行為とされているんでしょうか。その太陽が、一瞬であるとはいえ、「だるまさん」になるのですから、なおさら目出度い、いや「縁起がいい」と受け止めるんでしょうね。「初日の出」をこよなく大事にするのと同じ心持ちが働いているのかもしれません。こんな時に、思わず顔をのぞかせる「信仰心」は、誰の感性の中にもあるもので、遺伝子(DNA )の如くにインプットされているのでしょう。そんな素朴な「仏心」「信仰心」を失いたくないものです、と一端(いっぱし)のことを言ってみたくもなりました。

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 だるま朝日が出現 蜃気楼の一種 週の始まりは冷え込んだ朝に 北海道 今日3月10日(月)は移動性の高気圧に覆われて、朝からほとんどのところで晴れています。各地で日の出が見られた中、北海道の沿岸部では水平線から昇る太陽の下側がくびれた「だるま朝日」が見られました。これは蜃気楼の一種で秋〜春に見られることが多い現象です。/今回見られた「だるま朝日」は、太陽の光が屈折することで起こる蜃気楼の一種で、「下位蜃気楼」現象によるものです。/通常、光はまっすぐ進みますが、密度の異なった空気を通ると光は曲がって進みます。空気の密度は主に気温によって決まるため、陸上で十分に冷やされた空気の層と、比較的暖かい海面付近の空気の層との間で温度差が大きくなると、光が曲げられます。これにより下側にも太陽の虚像が見えることで、日の出時や日没時に丸い太陽が歪んで、だるまのような形に見えるのです。見える時間は数分もない、一瞬の現象です。/空気と水を比較すると、空気は熱されやすく冷めやすい、水は熱されにくく冷めにくい性質があります。そのため、気温差の大きい秋や冬、春にかけての朝夕には、冷えやすい空気と冷えにくい海水の温度差で「だるま朝日」を見られることが多くなります。/夜中から雲がなく穏やかに晴れていたことで地上付近の熱が上空へと逃げる放射冷却現象が働き、今朝は気温が下がりました。北海道では沿岸部の地域を含めてほとんどのところが氷点下の冷え込みとなり、最も気温の下がった上川地方幌加内町の朱鞠内では−20.9℃を観測しました。温度差が大きくなったことに加えて、晴れて風も弱かったため、日の出時にくびれた太陽「だるま朝日」が見られたと考えられます。(以下略)(2025/03/10 06:58 ウェザーニュース・右写真も)(https://weathernews.jp/s/topics/202503/100055/)

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おそれのなかにおそるべかりけるは

 今から九百五十年ほども前、「方丈記」には「元暦の地震(おおなゐ)」の激甚さが報告されています。(鴨長明という人は、今でいうレポーターで、常に現場に出向いて、事実を確かめていた。それも実に確かな目を持った、歴史のなかに現実を繋ぎとめる慧眼の人でありました)元暦二(1185)年七月九日、昼頃という。ある本の解説によれば、震源は京都盆地の北東部。マグニチュードは七・四と推定されています。因みに関東大震災は七・九、阪神・淡路大震災は七・二、そして東日本大震災は九・〇と報告されています。元暦の大地震の記述は以下の引用通りで、「おびただしく大地震(おおなゐ)振ること侍りき。そのさま、世の常ならず」と、まさしく「天変地異(天災)」というほかないような激しさだった。「おそれのなかにおそるべかりけるは、ただ地震(なゐ)なりけりとこそ覚え侍りしか」と長明さんは書いています。確かに地震ほど怖いものはないのだと、人間(人類)の長い歴史の中では語り継がれてきました。それも、原爆投下や原発爆発事故が出現するまでは。しかし、災害を被るものには、怖さの優劣はないともいえます。

 なにが怖いといって地震に比べられるものはないのだと、長明氏は、それこそ自信をもって話していたと思う。しかし、原発爆発事故発生以来、災害に見られる人類の歴史は様相を一変させたのです。もちろん、広島長崎への原爆投下もまた、それに劣らない大災難ではありましたが、同じ轍を人間は二度、三度と踏んだし、これからも踏もうとしているとしか思われない愚劣さを、ただ笑っていていいのでしょうか。「四大種のなかに、水、火、風は常に害をなせど、大地にいたりてはことなる変をなさず」だから、地震ほど怖いものはないと、誰もが言う。これまでも大きな地震は数知れずあったが、今回(元暦の大地震)のものとは比べ物にならないのだと、「人みなあぢきなき事をのべて」、地震に襲われた当座は世の儚(はかな)さ・虚(むな)しさを口々に語るが、「月日重なり、年経にし後は、言葉にかけて言ひ出づる人だになし」となってしまうのは詮方ないことなのでしょうか。このような「記憶喪失症に罹患している世相」もまた、時代の壁を越えて、いつでも見られる現象です。社会そのものが「羹に懲りて鯰を吹く(あつものにこりてなますをふく)」のもほんのしばらくのこと、確かに「人間は忘れる動物」だと言われるゆえんです。忘れなければ生きてはいけないのかもしれません。

 (*「災害は忘れたつもりになっているころにやってくる」)(*「羹(あつもの」(熱い吸い物)を飲んでやけどをしたのにこりて、冷たいなますも吹いてさますという意。前の失敗にこりて必要以上の用心をすることのたとえ」(デジタル大辞泉)「*膾(なます):古くは、魚・貝・獣などの生肉を細かく刻んだもの。のちに、魚・貝や野菜などを刻んで生のまま調味酢であえた料理をさす」(同上)

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 また、同じころとかよ、おびただしく大地震(おおなゐ)振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山はくづれて、河をうづみ、海はかたぶきて、陸地(ろくぢ)をひたせり。土裂けて、水湧きいで、いはほ割れて、谷にまろびいる。なぎさ漕ぐ船は波にただよひ、道行く馬は足の立ちどをまどはす。都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟(たふめう)、ひとつとしてまたからず、或はくづれ、或は倒れぬ。塵灰(ちりはひ)たちのぼりて、さかりなる煙のごとし。地の動き、家のやぶるる音、雷(いかづち)にことならず。家の内に居れば、たちまちにひしげなんとす。走りいづれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ。おそれのなかにおそるべかりけるは、ただ地震(なゐ)なりけりとこそ覚え侍りしか。
 かくおびただしく振ることは、しばしにてやみにしかども、そのなごり、しばしは絶えず、世の常、驚くほどの地震、二三十度振らぬ日はなし。十日、二十日過ぎにしかば、やうやう間遠(まどほ)になりて、或は四、五度、二、三度、もしは一日まぜ、二、三日に一度など、おほかたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。
 四大種のなかに、水、火、風は常に害をなせど、大地にいたりてはことなる変をなさず。
 昔、斉衡(さいかう)のころとか、大地震(おおなゐ)振りて、東大寺の仏の御首(みぐし)落ちなど、いみじき事ども侍りけれど、なほ、このたびにはしかずとぞ。すなはちは、人みなあぢきなき事をのべて、いささか、心の濁(にご)りもうすらぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、言葉にかけて言ひ出づる人だになし。(「方丈記 元暦の大地震」)

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【産経抄】東日本大震災で改めて注目された柳田国男 14年前の今日、東日本大震災が発生してから改めて注目されるようになったのが、今年生誕150年を迎えた民俗学者の柳田国男である。▼岩手県遠野地方の民間伝承を聞き書き、119話からなる『遠野物語』は初期の代表作となった。その第99話は、明治29(1896)年の明治三陸大津波にまつわる幽霊譚(たん)である。田の浜(現山田町)に住む北川福二という男は津波により妻と子を失った。▼1年後の霧の夜に妻と再会する。福二と結婚する前に心を通わせ、やはり津波で命を落とした男といっしょだった。「この人と夫婦になった」と打ち明ける妻を福二は責めた。二人は立ち去り、福二はその後病気になる。▼実は福二の子孫が今も山田町で暮らしており、東日本大震災の被害に遭っていた。玄孫(やしゃご)にあたる男性(65)に取材した朝日、読売両紙の記事によれば、自宅が全壊し、78歳だった母親を亡くした。男性は生前の母親から『遠野物語』に先祖の話が出ていると、知らされていた。現在は、津波の恐ろしさと避難の大切さを伝える講演活動を行っているという。▼柳田は大正12(1923)年に発生した関東大震災の報を、国際連盟委任統治委員として滞在していたロンドンで受け取った。「近頃の人間が軽佻(けいちょう)浮薄(ふはく)に流れていたから、神の罰が下ったのだ」。在留邦人の集まりで耳にした代議士の発言に、激しく反発する。被災者の多くはつましい生活を送ってきた庶民である。彼らが残酷な制裁を受ける理由はない、と。▼その通り。天罰であろうはずがない。われわれの振る舞いに関係なく、今後も日本列島は、ありとあらゆる天災に見舞われるだろう。先人が残してくれた教訓から学んで、備えを万全にするしかない。(產經新聞・2025/03/11)

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「産経抄」では柳田さんの「遠野物語」に触れています。そこにある通り、彼は新渡戸稲造氏のもと、国連委任統治関係の仕事で在英中、関東大震災発生の一報を受けて、緊急帰国したとされます。その当時、英国にあって、「近頃の人間が軽佻浮薄に流れていたから、神の罰が下ったのだ」という一代議士の妄言に激しく反発したとあります。この手の「天罰覿面」発言はいつの時代でも見られます。この代議士がだれであるかと暴くのではなく、他者も他者、同じ劣島に住む同胞の不幸を「面罵」する不届きな振る舞いをこそ、ぼくたちは断じて容認してはならないのです。東日本大震災発生に際しても、時の都知事某は「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」(朝日新聞・2011/03/14)と述べています。後に彼はこの発言を撤回し、表向きは謝罪したことになりますが、根っこの見方は変わらなかったと思う。(「遠野物語」については、どこかで駄弁っています。大きな影響を受けた書物でした)

 今の時代に多くの人に(その中には、もちろんぼくも含まれる)欠けているのが「惻隠の情(compassion)」ではないかと常々、自分ながらに痛感している。他者の痛み・苦しみを我が痛み・苦しみに、他者の不幸を我が不幸に置き換えることができないというのは、当たり前の風潮なのかもしれません。駄弁は弄さないつもり、たった一事だけを言いたい気がしている。回復不能とされる重篤の病に伏している親しい人を見て、自分が健康でよかったという思いが募れば、その「健康であるという意味」が変わることにはならないか。絶望の淵に喘いでいる人を遠目であれ、目にして、自分が幸いにして、そうではないという、偶然に恵まれた状況そのものの捉え方が変わるのではないでしょうか、ぼくの感じていることはそれです。誤解されそうですが、自分が恵まれている偶然の健康は、病に苦しむ人の現実を前にして、「健康」でよかったと、胸をなでおろすだけでは済まなくなりはしないか、ということです。

 よく使う言葉に「相身互い身」という表現があります。「同じ境遇にある者どうしが同情し、助け合うこと。また、その間柄」(デジタル大辞泉)

 「われわれの振る舞いに関係なく、今後も日本列島は、ありとあらゆる天災に見舞われるだろう」(「産経抄」)

 今はあの人たちが被災したが、今度は自分の番であるかもしれないと想像することができれば、自分が今は被害者ではないのは「偶然」の結果であるということです。誰も彼もが、「偶然」の触れ方ひとつで、あからさまな幸不幸の境を別にしてしまうのでしょう。他者の「病気」という現実に直面して、自分が「健康」である、その意味が変わらざるを得ないのです。ぼくはそのように考えてきました。今回の大船渡の「山火事」という災難に遭遇した人たちの現実を見せられて、偶然にもぼくは被災者にはならなかったという事実の意味は、変化せざるを得ないのではないでしょうか。そして今、それに対して、ぼくにできることは何かと思い至るのです。「相身互い」は、大きく見るなら、誰であれ、ぼくたちは仲間であり、同胞ではないかという「事実」に気づくことです。本日は、その「事実」に新たな「関心」「注意」を寄せる日となるのではないでしょうか。

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春と聞かねば知らでありしを

 昨日は「荒城の月(「春高楼の花の宴…」)」でした。その流れで、どうしても触れておきたくなるのが「早春賦」です。確かめてはいませんが、ぼくは毎年、この時期に「春は名のみの…」と密かに(ブログの中で)歌っているはずです。得意でもないし、誰かに聞かせるほどのものでもありませんが、小学校唱歌には特別の思い入れがあると言っておきます。ぼくが小学校に在学し、そこを卒業した、たった一つの資格証明になるもの、それが「唱歌」だと言いたくなるほどに、それはぼくには特別のものだった。唱歌は教室を越えて、何時だってぼくのものでしたね。

 小学校だけでも、ぼくは三度ばかり転校しています。親父の無責任な姿勢(子どもの教育には無関心・無干渉だった)がもたらしたものだったと思う。今ではその当時の自分の気持ちはわからなくなりましたが、新しい環境に対して不安だったろうという気がします。言葉遣いがまったく違う環境(能登半島の田舎弁社会から京都弁の世界)に飛び入りしたのですから、ぼくには大きな「文化ショック」「言語衝突」だったでしょう。そのことで、今でいう「いじめ」のような仕打ちを受けたこともあるけれど、それには負けなかった。理由は分からないままでしたが、おとなしく、馬鹿者の言うことが聞けなかったんですね、きっと。この小さな「正義漢」とでもいうものはついに変わらないままで、理不尽な物事には、黙認したくなかった、少しでも抵抗したかったんでしょうね。

 昔話をするのではありません。環境が変わると、そこに適応するために、個々、それぞれでしょうが、人によってはかなり危機に陥ることもあると思う。その点で、ぼくは教室や学校にはあまり関心が湧かなかった、教室にいても心はそこにはなかった。京都市内の中心部(堀川中立売)に一時期住んだことがあります。親父の友人の二階に間借りしていた。その時は、ほとんど毎日のようにおふくろと御所に行っていた。今はどうなっているか知りませんけれど、七十年以上も前は入ることは自由だったと思う。その当時の記憶もあまり残っていないが、御所という場所はどんなところだったか、何も考えないで遊んでいた。また、御所とは反対方向にあった北野天満宮(天神さん)にもよく通った。要するに、他人の二階に間借りするような生活だったから、寝に帰るばかりの住まいだったのでしょう。(左写真・京都市立嵯峨小学校)

 そこに二か月ほどいて(一学期間)、夏休みを利用して京都の北西部の右京区嵯峨に移りました。嵐山が近く、古い寺社も多くあったが、やがて、それらはぼくの遊び場になった。下校後はほぼ家の近くの野山を一人で駆け回っていた。そんな遊び場所は、数え上げればきりがありません。そこに住んでしばらくして、その近所にまた引っ越しをし、高校を卒業するまではそこにいました。卒業と同時に、ぼくは京都を離れ、風来坊のような生活を続けていました。小学校在校寺は嵐山、天竜寺、大覚寺などの古いお寺などが遊び場だったし、中学校は映画会社がそろってあった太秦(うずまさ)が近かったい。当時は日本の映画産業の黄金期だったかもしれません。東映・大映・松竹の撮影所がほぼ固まっており、特に小学校時代は近所のおじさん(映画会社の職員)に誘われて、当時は「エキストラ(その他大勢)」と呼ばれていた、ちょい役にずいぶんと駆り出されたことがありました。映画に出て(出されて)いたんです。(右写真・京都市立蜂が岡中学校)

 つまらないことを書き殴っています。言いたいことはたった一つ、ぼくには決して恵まれた家庭環境ではなかったが、それだからこそ、ぼくは家に閉じこもることなく近所の野山を歩き回る癖がついたのでした。「学校の勉強」に心を煩わせたことはまずなかった。宿題をした記憶がないのです。勉強も、あの程度なら身を入れてやればできただろうとは思うが、身の入れどころが違っていたんですね。室内より室外、たったひとりで。それがいつとは知れずに、ぼくの性格や人間性を固める(歪める)のに大きな影響を及ぼしたのだと思う。学校の成績などには、ほとんど関心を持たなかったのは、親が「放任」してくれていたからだと思う。その点では感謝していますね。「ああしなさい」「そんなことはダメだ」などと、決して指図はしなかった、されなかったのは、長い目で見れば、ぼくには幸いだったと言えますね。(左写真・京都府立嵯峨野高校)

 (上に、心ならずも小・中・高の現在の校門風景の写真を出しましたが、ほとんどぼくにも無意味です。懐かしいとも、思い出深いとも感じないままで、ぼくは生きてきました。「学校」というところは、まるで軍隊みたいなもので(さしづめ、生徒は「兵隊」ですな、もちろん教師も、です)、行かなければそれに越したことはないという、嫌なところでした。だからぼくは我が子どもに対しても、勉強ができなければだめ、成績がよくないのはまずいなどと、ただの一度も言ったことはなかった。中学校までは仕方がないけれど、その先は行かないことを含めて、自分で考え、決めればいいさ、そんな無責任な親でした。親父譲りだった)

 おそらく、ぼくは幼いなり、子どもなりに「優劣の対岸」に自分を位置させておこうと愚かにも考えていたのだ。「学校の勉強なんて」「その気になれば」と早くから感じていたけれど、その気になることはついになかった。大学に入り、やがて就職してからも「その気」になるなんて、自慢するのではありませんけれど、一度だってなかったでしょう。そんなものは他人と競争するものでもなく、自分一個の「背中に背負う」「腹に収める」ものだと考えていましたから。他人が羨ましくなるということはまずなかったですね。「何のための教育?」「何のための教師?」ってね。さて、「早春賦」です。

 「春と聞かねば知らでありしを」「聞けば急(せ)かるる胸の思いを」とあるように、ぼくは学校という場所がどんなところか知ろうとはしなかったし、知ったところで気持ちは動かなかったんですね。学校という窮屈極まる空間、そこは、ぼくにとっては「今日も明日も雪の空」、そんな重苦しいところだったという印象は、遂に消えることはなかった。(その重苦しい印象の在り処を探ることが、その後のぼくの仕事(テーマ)みたいになったのですかね)

 (余話です 右上に大村はまさんの仕事を調べた方の書物(「優劣のかなたに」)を挙げておきました。その大村さんは、最初の赴任地が信州諏訪で、そこで、教職の核心部を学んだと、後年に自身の口から繰り返し語られています。諏訪湖畔などももいいところでしたね。ぼくは若いころ、北アルプスに何度か登り、せせこましい世間から突き抜ける意気(心持ち)のようなものを学んだと思う。その裾野になる安曇野(あずみの)も忘れ難い土地で、作詞家吉丸さんに倣ったように、そこは、ぼくの「早春賦」の地になりました)

*「早春賦・ 斎藤昌子」(https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=-wOIXi8QzBw)                                   *「佐藤しのぶ・早春賦 Ode to Early Spring」(https://www.youtube.com/watch?v=H76qxMgoVzg

◎ 早春賦=『尋常小学唱歌』の作詞委員会代表であった吉丸一昌が、自作の75編の詞に新進作曲家による曲をつけ、『新作唱歌』全10集として発表した中の一作で、第3集に収録されている。/長野県大町市から安曇野一帯の早春の情景をうたった歌とされ、旧制長野県立大町中学(長野県大町高等学校の前身)の校歌の制作のために訪れた吉丸が、大町、安曇野の寒さ、そして春の暖かさを歌った歌詞でもある。/大町実科高等女学校(長野県大町北高等学校の前身)では愛唱歌として歌われていた。大町文化会館、穂高川河川敷に歌碑が建てられている。題名の「賦」とは漢詩を歌うこともしくは作ることを指し、「早春に賦す」が原義である。(Wikipedia)

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「徒然に日乗」(680~686)

〇2025/03/09(日)昨夜から降っていた雪も日付をまたいでは降り続かなかったようだ。早朝には少しばかり積雪の後も残っていたが、日差しを受けて間もなく消えた。▶朝方(4時ころ)、台所の水道を使うために温水を出そうとしたら、給湯器の操作盤から警告音が鳴り、警告ランプが点灯。一瞬考えたのが、低温で水道ではなくガス管が凍結したかと考えた。外に出ていろいろと器具をいじってみたが回復しない。「警告」の番号「651」が表示欄に出たので、調べたら、水量調節の部分がイカレタ(凍結)かも、とあった。陽射しが強くなるのを待って、なんどか試しているうちに、幸いにも「回復(復旧)」した。恐らく器具の設置もかなり古いもの、二十年以上は経過しているので、間もなく取り換える必要があるだろう。▶お昼前に買い物。ついでに猫のドライフードも。日中は陽光もあってかなり暖かかった。但し、いくらかは風が出ていたようだった。間もなく「春一番」の登場か。▶大船渡の山火事は、新たな発火は見られないということで、避難指示が解除されつつある。大変な災難だったと思う。不思議なのは、これまでの報道では「出火原因」にはまったく触れられてこなかったこと。背景事情があるのかどうか。夜になって、「完全鎮火」との報道があった。(686)

〇2025/03/08(土)終日肌寒い日だった。これをして「寒の戻り」というのかどうか。三寒四温のリズムも崩れ、まさしく、春と夏の「二季」の併存という感じだった。▶昼頃に買い物で茂原まで。今夜は雪だという予報もあったので、二日分の食材を買った。当地は坂道が多いので、少しの降雪(凍結)でも車には難儀。予報では雪はなさそうだが、さて。決して油断はできない(685)

〇2025/03/07(金)やや風が強かったが、好天気に恵まれたといえる。▶十時ころに猫缶購入のためにあすみが丘へ。帰宅後、天然水を購入のために緑ヶ丘へ。(2㍑×6)×10ケース。この店は業務用スーパーで、大きなカートで駐車場まで10ケースを運んでくれるので大助かり。その足で、役場まで。確定申告用の書類等を貰う。また添付する必要のある「後期高齢者医療保険料」払い込み証明書を作成してもらう。夕方のニュースで大船渡の山火事の延焼がみられないとの報道。しかし山林地帯全体で鎮火が確認されていないので、最終判断には時間がかかるという。発生以来十日が経過したが、まだ油断できないのだ。(684)

〇2025/03/06(木)終日自宅に。昨日とは打って変わって、穏やかな陽気が続いた。寒気団も一段落らしいが、また数日後には寒くなるという。▶大船渡の山火事は昨日のまとまった降雨のおかげで消火したかに観られていたが、十分に消えてはおらず、風が強く吹けば再出火の恐れがあるという。このまま、とにかく鎮火してくれることを祈るばかり。▶確定申告が今月の17日(月)まで、そろそろ準備をしておく時期が迫っている。大方の書類は揃えてあるが、役場から出してもらうものが数点残っている。今週中か来週の初めころまでに揃えておきたい。(683)

〇2025/03/05(水)昨夜来の小雨が朝まで残った。雪を想定していたので、なんだか儲けものをした気分。終日自宅内に。小雨は間断なく続いたが、大きな変化はなく、寒さも厳しくはなかった。▶気になっていた大船渡市の天気。午後には少し降ったようだが、山火事を消す程の大降りではなかった。関係者は油断することはないと思うが、まだ完全に消火(鎮火)していないと思われるので、気を付けてほしい。被害はさらに広がりを見せているし、避難者も増加している。発生以来一週間が経過。大津波で家を流され、安全を期して高台に新築して、今回の山火事の被害に遭った人が何人かおられる。「いったい、どこに住めばいいのやら」(682)

〇2025/03/04(火)午前6時半過ぎに「ゴミ出し」。雨模様だった。▶昼前に茂原まで買い物。帰途に近所のH.C.で猫用のドライフード購入。▶午後からは気温が下がり、雨が降り出してきた。夕方からも降り続いている。都内などでも降雪があったという。ただ今午後10時前だが、雨が続いているし、気温は下がっている気がする。夜半には雪が降るのだろうか。▶アメリカがウクライナへの軍事援助を一時停止と発表。自分の言うことを聞かないZを潰す算段でもしているのだろうか。Pの手下になり下がったままで我慢できるとは思われないし、アメリカ国民がこのままでTの言動を看過するだろうか。▶全米各地で、政府機関や国立機関で働く人々、働いていた人々の「解雇反対」の抗議行動(デモ)がみられた。燎原の火の如くに、これら、反T、反Mに賛同する行動が起こるのではないだろうか。▶いずれにしても、「アメリカを再び偉大な国に」するために「賽は投げられた」のだ。「丁」と出るか「半」と出るか。すっかり理性も両親も臼なってしまった米国は、どこまで漂流するのだろうか。▶卒業生のIさんから手紙が届いた。先日の拙宅訪問の礼状だった。(681)

〇2025/03/03(月)終日続いた降雨だった。気温はそれほど低くはならなかったのはさいわい。何日ぶりだろうか、一日中の雨降りは。そのために一歩も外には出なかった。▶大船渡の山火事はまだ燃え続けており、被害も増えている。この先、消火に資する雨量があるだろうか。▶本日から明日に架けて、関東甲信地域に降雪予報。ところによっては大雪警報が出ているし、都心にも雪の予報。「春は名のみの風の寒さや」▼乾燥続きだったこともあって、花粉症の程度がひどくなっているのがよく分かる。果たして、この雨で少しは症状も収まってくれるのか。(680)

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春高楼の花の宴 天井影は替わらねど

⦿ 週初に愚考する(六拾)~ 寒の戻りというのか、昨日は肌寒い一日でした。夜に入ると雪も降り出しました。今年二回目の降雪で、深夜も降り続き、早朝には屋根や道路は白くなっていました。4時前に起きて、猫に食餌を与え、当方はお茶を飲みましょうと準備をしたが、お湯が出ない。ガス操作盤には警告音と同時に「警告ランプ」が点灯する始末。きっと気温の低下で水道管ではなく(水は出る)、ガス管が凍結したのだと、家の外にあるメーター設置場所と湯沸かし器のところに出向いた。警告ランプは消えないままだったので、外気温上昇を待つほかないと、日の出を待つことにしました。(注意・ただ今午前9時、警告ランプは止まらず、どうも経年劣化のための故障のように思われてきました。本日は日曜。明日以降に善処方を考えるほかなし)当地では、めったに雪は降らない。多くて年に二回程度。しかし、坂道が多いので、凍結した道路はきわめて危険なので、まず乗らないことにしています。

 (ただ今、午前11時過ぎ。念のためにと、ガス温水器の操作盤をいじったら、なんとお湯が出るではないか。新たな湯沸かし器の購入を考えていたが、なんとかまだいけそう。しかし、それも時間の問題で。まるでわが夫婦の「寿命」に似ていなくもないと、あまりいい感じはしなかったな)

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 昨日の長崎新聞コラム「水や空」に土井晩翠の逸話が書かれていました。「雨の降る日は天気が悪い」と。彼は仙台の生まれで、苦学して二高にはいり、やがて東京帝大に進みます。漢学を修めた詩人でもありました。「一世を風靡」とまではいかなかったか。彼の名を高からしめたのは早世した作曲家・滴廉太郎(1879~1903)とのコンビで発表された「荒城の月」でした。おそらくぼくは中学校の音楽で習った(歌わされた)と思われます。「雨の降る日は…」は脇において、「荒城の月」について触れてみます。当時、新体詩なるものが大流行で、その代表格は藤村でした。だから、明治中頃は、誰言うとなく「藤(村)晩(翠)」時代と評判があったといいます。いくつかの理由で、ぼくは藤村さんはそれほど好きではなかった。

 (ヘッダー写真は鶴ヶ城側の歌碑・https://monument.sakura.ne.jp/file/koujyounotsuki.html

 「荒城の月」の、その「城」は何処かと議論があります。作詞家自身が後年明かしているように、それは「鶴ヶ城(会津若松城)」だという。加えて「仙台青葉城」を訪れて詩想をえたともいう。彼の「詩(詞)」は、明治維新によって完膚なきまでに否定された奥羽諸藩の落剝無念の表白であり、旧身分体制の廃止も相まって、今は見る影もない「栄華」と、そこに現れた「没落」の形相。まさしく「栄枯は移る世の姿」と、過ぎ去った過去の影を想い、「むかしの光 いまいずこ」とひたすら旧跡に思いを馳せます。

 作曲した滝廉太郎は東京で生まれましたが、親たちは大分出身。幼児期、彼は大分に住んだ。だから、彼に因んで、「荒城」のモデルは「大分竹田城」だという指摘がなされてきました。「お城争い」にぼくには興味はない。土井晩翠という、今は忘れられたかと思われる先学の学恩や遺された詩文に思いを寄せて、殺伐とした「今生(こんじょう)の春」に惜別の感を抱くささやかな感想を述べてみたい気がするのです。(いつの日か、滝廉太郎という日本生まれで、初の西洋音楽作曲家たらんとした人についても駄文を弄したいと思っている。彼はドイツ留学を敢行しますが、病(結核)をえて挫折。帰国船上でさらに重くなり、帰国上陸を果たしてなくなります。その後継者を任じたのが山田耕筰(1886~1965)。今では山田氏の編曲による「荒城の月」が普及しています。ほぼ同時期に、漱石はイギリスに留学、重篤な鬱病を患う。後年の丸善創業者の早矢仕有的(1837~1901)、味の素の創業の道を開いた池田菊苗(1864~1936)、この二人の手厚い友情に恵まれて、事なきを得たのでした)

◎ 土井 晩翠(ドイ バンスイ)明治〜昭和期の詩人,英文学者 第二高等学校名誉教授。生年明治4年10月23日(1871年) 没年昭和27(1952)年10月19日 出生地宮城県仙台市北鍛冶町 本名土井 林吉(ツチイ リンキチ) 学歴〔年〕東京帝大文科大学英文科〔明治30年〕卒 主な受賞名〔年〕文化勲章〔昭和25年〕,仙台市名誉市民 経歴 質商を営む旧家に生まれ、幼時より「八犬伝」「太閤記」「日本外史」等に親しむ。立町小学校教師佐藤時彦に漢籍を教わった後、家業に従事しつつ書籍を耽読、「新体詩抄」や自由民権思想の影響を受ける。21年、仙台英語塾から第二高等中学校(のち二高)に編入卒業、27年上京。帝大在学中の29年、「帝国文学」第2次編集委員として漢語を用いた叙事詩を発表、藤村と併び称される詩人となった。30年郁文館中学の教師。31年「荒城の月」を作詞。32年処女詩集「天地有情」を出版。外遊後、37年二高教授となり、大正13年には東北大講師を兼任し、英語・英文学を講じ、昭和9年退官。一方、カーライルやバイロンの翻訳を発表、またギリシャ文学に興味を持ち、15年ホメーロスの「イーリアス」「オヂュッセーア」を全訳出版。この間家族を次々に失い、心霊科学に興味を持つ。20年7月空襲で蔵書3万冊余を焼く。ほかの代表作に「星落秋風五丈原」「万里長城の歌」、詩集に「暁鐘」「東海遊子吟」「曙光」「天馬の道に」がある。25年文化勲章受章。没後、45年顕彰会が晩翠賞と晩翠児童賞を制定した。(20世紀日本人名事典)
◎ 荒城の月(こうじょうのつき)= 唱歌の曲名。土井晩翠(つちいばんすい)作詞、滝廉太郎(れんたろう)作曲。1901年(明治34)3月刊の『中学唱歌』(東京音楽学校発行)に初めて掲載された。「荒城」については、土井は仙台の青葉城ないし会津若松の鶴ヶ城(つるがじょう)を想定したが、滝は少年期を過ごした大分県竹田の岡城や富山県の富山城にイメージを求めたという。短調のゆったりした曲調になっており、海外にまで知られた日本の名曲の一つである。なお『中学唱歌』には、滝の作曲になる『箱根八里』(鳥居忱(まこと)作詞)も収められている。(日本大百科全書)(註 「土井」を「つちい」としています。本名は「どい」だが、多くの人が間違えて「つちい」と読んだり書いたり。それをいちいち訂正していたが、やがて切りもなくなったので放置することにしたと、晩翠自身がどこかで書いています)

*鮫島由美子歌「荒城の月」(https://www.youtube.com/watch?v=wKykXN7c7wA)                                                                        *佐藤しのぶ「荒城の月」(https://www.youtube.com/watch?v=-p1Iir5vQ7g

【水や空】雨の降る日は… 「荒城の月」を作詞した詩人、土井晩翠(ばんすい)が昭和の初めに書いた随筆は、タイトルを「雨の降る日は天気が悪い」という。当たり前のことを書き連ねたにすぎないと、謙遜を込めて名付けたらしい▲晩翠はこのタイトルについて触れた文で、しかしながら…と書いている。〈アラビアで雨が降ったら「天気無類」と呼ばれはしないか〉。日照りばかりの土地ではなるほど、雨空を仰ぎ「この上ない、いい天気だね」と喜ぶことだろう▲テープ材製造のニチバンが募集した「花粉症川柳」のかつての入選作に〈晴れよりも雨がうれしい花粉症〉という一句がある。同じ悩みを持つ一人として“同憂の士”の気持ちは分かる▲かつては干天の慈雨を喜ぶことはあっても、雨に胸をなでおろすことは少なかったろう。今どきの春先は、自明のはずの「雨の降る日は天気が悪い」が必ずしもそうではない▲春一番の季節だが、雨にまつわる辞典に「雨一番」という言葉を見つけた。立春のあと、初めて雪を交えずに雨だけが降ることをいうらしい。冬空から雪ばかりが降る北国では、雪が雨になり、春が訪れる▲岩手県大船渡市の山林火事は、懸命の消火活動や降雨で火勢が弱まっているという。雨一番にも勝るほどの“いい天気”の雨に違いない。「鎮火」の報が待ち遠しい。(徹)(長崎新聞・2025/03/08)

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 「雨の降る日は天気が悪い」とばかりも言えないではないかというのも「一理」ですね。ことのほか、今春、ぼくは「花粉症」に痛めつけられています。目は痒(かゆ)いし、鼻水はとめどなく出る、嚏(くしゃみ)はひっきりなし。昨年の程度がどうであったかは忘れていますから、気分としては「今年は最悪」などと決め込んでいるのかもしれません。それにしても「なんとかしたい」のと「なんともならない」の「二律背反」というか、今風に言うと「利益相反」というべきか。本来あるはずもないことが、当たり前に発生するのですから、長く生きているのもいいことづくめではないのでしょう。

 これまでは本格的な春の到来を告げる南風を「春一番」と呼んできました。その伝でいうと「雨一番」は何物の到来を告げ知らせるのでしょうか。長く燃え続けていた大船渡の「山火事」もほぼ鎮火したらしい。多くの人が家屋敷を失っておられる。単純に「雨一番」とばかり喜べない事情も人間の世界にはあるのでしょうね。

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「自由からの逃走」は終わらない

【明窓】なぜ彼らにならなかったのか? 地下鉄サリン事件から30年 30年前の1995年は年明けから惨事が続いた。1月17日の阪神大震災で気持ちが沈み、3月20日にオウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした。14人が死亡し、重軽症は6千人以上。「この国は大丈夫か」と暗々とした。▼都心で猛毒ガスをまく凶行に憤ったが、教団幹部の人となりが伝わると異界の人とも思えなくなった。中でも2018年に53歳で刑が執行された土谷正実元死刑囚に目が留まった。サリン製造の中心人物だ。▼大学になじめず入信。人に認められたい欲求が強かったという。教祖・麻原彰晃(松本智津夫元死刑囚)と出会い、難解な化学式を操る頭脳を認められ、研究に没頭できる環境を得た。▼他の幹部も高学歴者が多かった。受験のように正解を出せば上に行ける世界が生きやすい人は珍しくない。やがて白黒が不明確な社会で困惑する。そんな時に甘い言葉で褒められ入信するなら誰にも可能性がある。拘置所で土谷元死刑囚と面会を続けた作家の大石圭さんは書籍『オウムと死刑』の中で「なぜ、僕は彼らにならなかったのか? 答えは簡単。たまたまだ」と記した。▼事件後テレビは連日、麻原教祖らが出馬し、落選した1990年衆院選の選挙運動の様子を流した。教祖をたたえる歌も運動員のかぶり物もセンス皆無で幼く、高度な化学研究との落差は異様。宗教本来の癒やしや情操もなく突っ走る危うさは、現代も教訓にしていい。(板)(山陰中央新報・2025/03/07)(地下鉄サリン事件に遭い、路上で手当てを受ける乗客ら=1995年3月20日午前、東京都中央区築地・下写真)

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 「地下鉄サリン事件」発生当日のことは鮮明に記憶しています。路線は違っていましたが、ぼくは東京メトロの東西線に乗車していて、発生時刻には日本橋付近を通過していたことになります。隣の路線で大惨事が生じていたのでした。職場について、事情が分からないままで、大変な事態が発生していたと、報道で知りました。やがて、時間の経過とともに、何が起こったのかが、明らかになりつつありました。教師になりたての頃、70年代になってから、勤務先の大学では、日米安保闘争(運動)後の「学生運動」の余波は続いていましたし、その中に、いわゆるサークル活動の集団で、これまでとは異なった集団が目立ち始めました。いわゆる既成宗教集団の学生サークル活動化です。

 それは今日にもつながるものでありましたが、その時代に初めて活動を開始するグループもありました。「原理研究会」という名称で、徐々に学生会員を獲得して、運動力を増していった、今でいう「統一教会」の学生運動体でした。学生たちから、ぼくは何冊かの「原理購読」(?)なるテキストを貰った、と負いうか、研究室に置いていかれた。この「カルト」サークルに強引に勧誘されたり、抜け出ることを拒否されて誘拐まがいの隔離を受けた学生たちもいました。学生の親たちの申し出もあって、この問題に否応なしにぼくは関わらざるを得なくなったこともありました。

 やがて、学内で大きな話題を集めるようになったのが「オウム真理教」でした。ぼくが担当している授業の履修学生たちの中から、その活動に参加するもの(「信者」)が何人も出てきました。後年、この集団が政界進出を狙って、「教祖」を筆頭に衆議院選挙に出馬するというので、いわば選挙運動なるものを学内で画策していた。ぼくは全学部学生対象の授業をいくつも担当してたので、受講者の中から、大学内で集会を開くための会場(教室)を借りたいと依頼があり、何人もの学生がぼくのところにやってきた。教職員の署名捺印がなければ教室の使用はできなかったからでした。もちろんぼくは断ったが、その後も、問題を抱えていた何名かの学生(集団からの脱退を図った学生、行方不明になったりした学生たちの仲間)、そして「信者」になっていたものも含めて、拙宅まで来て、それぞれの実情を訴えたこともありました。もちろん、ぼくの知りうる範囲は極めて狭かったし、その集団がいかなるものであったか、その段階では十分に理解はしていなかった。

 そこへ「地下鉄サリン事件」が起こった。上で述べた学生たちの何名かはその事件にかかわっていたり、そのために国外(ロシアなどと聞いた)に逃亡した者もいたなどと、後に耳にしたことがありました。しかし、サリン事件の衝撃は大きかった。その後のことはここでは省きますが、どうして若者(に限らずだが)は怪しい、反社会的「カルト集団」に引き付けられるのか、そんな問題がぼくにも現実の課題となってくるのでした。新興宗教にかぶれ、過激な学生運動サークルに入り込むなど、所属した大学では、この手の問題には事欠かなかったのです。問題となるような過激な活動を、どうして「あの人たちは取るのだろうか」と深い疑問が消えませんでした。要するに「信じる(妄信する)」ことの怖さ、「疑わないこと」のもたらす結果について、ぼくは長く考え続けることになるのです。「信じること」は「疑うこと」を放棄する結果生まれます。

 ここでは、そのごく一部だけしか述べられないが、「全体主義」「集団主義」「偶像崇拝」などの問題を考えるのに大きな影響を受けた一冊の本について、少しだけ語ることにします。それが、エーリッヒ・フロム著「自由からの逃走」(1941年刊)でした。

◎ 自由からの逃走(じゆうからのとうそう)Escape from Freedom ドイツ生まれのユダヤ人、社会学者・精神分析学者E・フロムが亡命地アメリカで書いた代表作。1941年刊。ナチズム台頭の因を社会、経済的側面からだけではなく社会心理学的側面から分析する必要を論じて注目された。人間やある社会階層が政治、経済的危機状況に置かれたときにおこる「権威主義的性格」をマゾ・サド的側面から解明。ファシズム運動を、一方ではヒトラーの権威に従いその犠牲になることに喜びを感じ、他方では自分より劣った者たとえばユダヤ人を蔑視(べっし)・虐待し、欲求不満や劣等感を解消しようとした心理や行動の現れとして描いている。個性の喪失と画一化が進行している現代社会に対しても示唆に富む。(日本大百科全書)
◎ 自由からの逃走(じゆうからのとうそう)Escape from Freedom 新フロイト派の精神分析学者 E.フロムの主著。 1941年刊。本書の主題は「近代社会は,前近代的な社会の絆から個人を解放して一応の安定を与えたが,同時に個人的自我の実現,すなわち個人の知的,感情的,また感覚的な諸能力の表現という積極的な意味における自由は,まだ獲得できず,かえって不安をつくり上げた」ということである。本書の特筆さるべきは,第1に歴史の原動力として社会経済的条件ならびにイデオロギーと並んで,心理的な社会的性格の概念を新しく提出したこと,第2にサド=マゾヒズムとして説明される権威主義的パーソナリティの概念を使用して,ファシズムの温床たるドイツ下層中産階級に潜在する自由と平等を否定する性格構造を指摘したことである。(ブリタニカ国際大百科事典)

 ぼくが大学に入学したのは1964年でした。その当時、都内のこの私立大学に入学する学生の構成は、大まかに言うと、いわゆる首都圏出身が2~3割、残りが地方出身でした。都内の他私立大学も事情は似ていたと思う。難しい理屈は抜きにして、大学に入ったら何でも好きなことができる、好きなことをしよう、したいという気分が多くの学生たちにあったでしょう。そのような学生たちの期待や飢渇を満たすものは大学の提供する「授業」などにはなかったと思われます。それ以前の学校や家庭からの「束縛」から解放された思いで入学した大学で、多くの学生は満たされないものを抱えることになった。それに応じて、同好会や学生サークルにエネルギーを割くことになるのです。「束縛からの自由」だけでは、人間は自らを律しえないことが後に明らかになります。「責任への自由」と側面に気が付かなかった人が大半だったと思う。(このような事態は、今日でも。原型は変わらないままで、広く深く生じているのではないでしょうか)

 それまでの束縛状態から解放されることを求めていたにもかかわらず、いざ解放されたとなると、寄る辺ない不安、頼りなさ、身を寄せる者のない孤独などに襲われるのはよくあることです。希求していた「自由」とは、「不安」「孤独」「頼りなさ」の別名だったことを知らされて、いっそう不安に苛(さいな)まれることになるでしょう。その隙間に忍び寄ったり、強引に割り込んでくるものが「信仰(妄信)」「絶対(帰依)」する、人間の弱さが生み出す「暗闇」だったともいえます。「恋は盲目」という一面は、「絶対的信頼」を寄せる存在に対しても、事の是非が見えなくなるのです。一面では、もっと不自由な状態に留まることを(当人の中から当人に)強いる対象へののめり込みがあったと思う。つまりは「自由を求めて」彷徨しつつ、やがては「自由から逃れて」権威にしがみつくようになったのではなかったか。ぼく自身も、そのような雰囲気を抱えた「大学(という群集の中で)」の経験を持ったものだけに、「自由からの逃走」を図る学生たちの挙措・行動は手に取るようにわかっていたと思う。

 不安(anxiety )や寄る辺なさ(helplessness )に苛まれる、そのことが「自由」だと、ぼくたちには認めることが難しいでしょう。自由であることは自分の足で立ち、自分の頭で考えることです。フロム(写真 ➡)という思想家が書いた「自由からの逃走」は全体主義の吹き荒れる嵐(ナチの時代)の中で、多くの民衆は絶対的権威、あるいは宗教的権威に、自らにじり寄ることで「不安から逃れて自由に」なったと錯覚した。安心を得たと錯覚したのでした。その当時のドイツの民衆の心理は、その時代に特有のものではなく、いわば普遍性を持った人間の不安心理(弱さ)(不完全性)の存在証明であったともいえます。フロムの指摘に正当性があったというべきです。いつの時代でも「不安」を恐れて「権威」に依存する人間は圧倒的多数です。今日の時代にもあからさまに生じている現象でしょう。自分の頭で考えるより、権威の頭を借りたなら、自分にも権威があると錯覚するからでしょう。

◎ エーリッヒ フロム(Erich Fromm)= 1900.3.23 - 1980.3.18 米国の精神分析学者。 元・ニューヨーク大学教授。 フランクフルト生まれ。 精神分析の中での社会的要因を強調し、新フロイト主義の指導的役割を担ったユダヤ系精神分析学者。1930年より3年間フランクフルト社会学研究所に勤務し、その後コロンビア大学、ベニントン大学、’51年からメキシコ国立大学で教壇に立つ。’62年にはニューヨーク大学教授となる。「自由からの逃走」(’41年)や「正気の社会」(’55年)などの著書がある。(20世紀西洋人名事典)

 自分はそうではないという、明確に「権威への依拠」を否定する人が「名門」や「一流」を求めることはいくらでもある。実に恥ずかしい勘違いですけれど、それを全面的に否定できないという「弱さ」はどんな人間にも備わっている。教会・教派や集団(学校や企業など)、あるいは政党などの政治的権威から自由になることは、ある意味で、ほとんどの人間にはできない相談なのかもしれない。しかし、人間(自分)の弱さを自分に隠さない人もいる。ぼくは常々、「自分の弱さを自分に隠さない、その程度に応じてしか人間は強くなれない」と言ってきました。自分は弱い人間であると認めれば、それだけで強くなれるのではないのです。どこまで行っても「弱い存在」であることから逃げない、その限りでしか人間の強さは測れないと考えてきました。

 不安や孤独化から解放されて、そのような孤独や不安を全く感じさせない「絶対的権威」に帰依することによって、人間の「不自由」「完全なる被支配」は完結します。オウムに奔る、統一教会に奔る、そのような「盲目的信仰」に示される多くの若者たち(だけではない)の心的状況を、今この段階で考えてみても、「自由」であることを捨てて「不自由」に逃げ込む、その人間の弱さの「絶対性」をぼくは否定できないのです。これまでも、そしてこれからも「集団的狂気(mass madness)」は多くの人を捉えて放さないないでしょう。集団に自らを隠すことで、不安から逃れられたと思い込む、その怖さはいつでもどこでも生まれます。  

 人間が求めている自由は、鎖(リード)に繋がれている犬のもの、鎖(リード)の長さだけの自由ではないでしょうか。

 学生時代に読んだサマセット・モームの「人間の絆」、とても長いもので、ていねい読んだかどうだか怪しいのですが、「人間の絆(Of human bondage)」というタイトルに惹かれていました。鎖でつながれた状態、それを「絆」という。夫婦関係もまた、ある人々には「絆」でしょうか。その「絆」があれば安心が得られるか、得られないにもかかわらず「離れがたい」、そんな人間の「腐れ縁」「優柔不断」がテーマだったかもしれない。ぼくには理解できないものでしたが、「絆」という言葉はそれ以降、染みついて離れなくなりました。犬と飼い主を結ぶ「絆」が首輪とリードによります。人間と神を結ぶのも「教会の仲立ち」によります。

 今でも言われているのでしょうか。「教会の外に救いなし(Extra ecclesia nullus salus)」と。絶対者と人間(個人)が教会の仲立ちによる「絆(しがらみ)」で結ばれるということ。人間に自由はあるとは思われない関係、それが「信仰」であり、時には「妄信」でもあります。また、他者を排除すること、外部と絶縁すること、それが「宗教(religion)」という語の原義でありました。まさに不自由であり、妄信する境地でしか、人間は救われないという状況を示すのが宗教なら、それは「カルト(cult)」そのものでしょう。「(カルトとは)宗教的崇拝。転じて、ある集団が示す熱烈な支持」(デジタル大辞泉)絶対的な従属こそ、敬虔な信者の条件になっているとみなされる、そんな宗教(教派)がほとんどだと思う。(しかし、「自らの信仰」に懐疑的である人も決して少なくないのが実際ではないでしょうか) 

 今もなお、世界のいたるところで、大小を問わす狂い咲いているのが「集団的発狂(Collective Madness)」だと思われます。「人間の弱さ」が集まると、脅威や恐怖が生まれるのだと思う。その恐怖や脅威が一変して、絶対的な自己過信に陥るのでしょうね。自由を失う、自由から逃げ出す人々は、何時まで経っても尽きる気遣いはなさそうです。

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日付が変わって、3月7日零時台…

【国原譜】「深夜放送」といえばラジオ。中学・高校時代、試験勉強のかたわら、お気に入りの番組をよく聴いた、筋金入りの“ながら族”である。/中1の時「ABCヤングリクエスト」に、ジェームス・ディーン主演の映画「エデンの東」のテーマ曲をはがきでリクエストし、名前を呼ばれたことは一生の思い出だ。/歌謡曲、洋楽、フォークソング、イージーリスニング、映画の主題歌…、昭和の夜はいろいろな音楽に彩られていた。当時のDJは、さまざまな薀蓄(うんちく)を披露してくれて、雑学を学ぶ場でもあった。/最近は、高齢者の人気が高いNHK「ラジオ深夜便」を毎日1時間ぐらい聴いている。日替わりで出演するベテラン・アンカーたちの語り口は個性豊か。/午前零時前の「明日の日の出」は、主要都市の日の出の時刻を、ただ読み上げるだけなのだが、日本列島の長さを再認識できる。「地名と時刻」を1回で読み終える人もいれば2回繰り返す人もいる。時報までの“尺合わせ”が楽しい。/時報の後の「日付が変わって…」と言うニュースアナのフレーズも気に入っている。(恵)(奈良新聞・2025/03/06)

 奈良新聞のコラム「国原譜」は長い間の読者のつもりです。コラムの内容はともかく、何といっても「国原(くにはら)」~広々とした平原(土地)~という語感が好きで、いかにも奈良に相応しいと勝手に思っています。「譜」はいくつかの解釈・解説がありますが、つづきもの、あるいはひとまとまりの「語録」「譜」などを指す。「「花譜・画譜・棋譜・局譜・図譜・年譜・家譜・譜代」などなど。歌に特化した例に「早春賦」などがありますね。「詩や歌」を指します。「コラム」「プロポ」なども「(言の葉)譜」として、その仲間と理解してはどうでしょう。その「国原の譜」、つまりは「奈良」ですが、凹凸のある土地を「たいらに均(なら)す」から来ているともいわれています。「平城京」という命名などにも、その歴史の事情が映されているとも思えます。三木露風の詩句、「春尚淋しくして国原に人稀れなり」が、いつも愛好(利用)している辞書の解説に引かれています。

 奈良は曾遊の地、というにはあまりにも近すぎました。奈良公園に遠足で行ったのはいつだったか。以来、たびたびの訪問で、法隆寺や東大寺、樫原神宮や春日大社をはじめとするたくさんの社寺、そして若草山や猿沢の池などの行楽の地などなど、本当によく遊んだものでした。学校の遠足などで赴いたのでしょうが、たった一人で方々を歩き回ったという感覚しかぼくには残っていません。どうしてですかね。

 奈良に所縁(ゆかり)の深い人にも、それぞれに親しんだものでした。ここに数え上げればきりがなくなりますので、それはしません。ぼくの同僚だった先輩は吉野の出身、自らは「吉野の山賤(やまがつ)」などど卑称しておられたが、なかなかどうして、とてもプライドの高い人だった。源氏物語や、中世・平安時代における日記文学の研究者として多くの仕事されましたが、惜しくも七十を前に急逝された。また、卒業生には橿原に一人、教師を続けておられた方がいました。ある時期から連絡が絶えたのは残念でした。まだお元気で過ごされているでしょうか。

 「国原」に因(ちな)んでなら、何よりも、ぼくの好きな俳人、阿波野青畝(あわのせいほ)(1899~1992)さんですね。氏の句集の書名にもとられています(第二句集「国原」1942年刊)。青畝さんは奈良高取郡出身。早くから「ホトトギス」に参加。「国原」の中から一句。「水澄みて金閣の金さしにけり」 戦前の作ですから、金閣寺が焼ける前の情景。もちろん、ぼくは戦後に再建なった金閣寺しか見ませんでしたが、その往時の「金」の輝きはどういうものだったか。以下、さらに氏の句をいくつか。

・葛城の山懐に寝釈迦かな ・なつかしの濁世の雨や涅槃像 ・居酒屋の灯に佇める雪だるま ・水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首

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 その「国原譜」氏が「ラジオ深夜便」の愛聴者であるという。同好の士ならぬ、同聴の士ですか。ぼくも氏と同じように、若いころは「(ラジオの)深夜放送」を聞いたものでしたが、あまりにも騒々しくて、長続きはしませんでした。もう60年も前のこと。その当時、いまでいうパーソナリティをしていた何人もの方々が、今なお現役(active service)だというのですから、驚異ですね。この世界には「マンネリ」という名の「惰性」はないのでしょうか。

 よほど暇なのかと問い詰められそうです。ぼくは、この「ラジオ深夜便」の最初期からの聴取者で、もう三十五年も続いています。勤め人時代は、ほぼ午前3時起きだったから、「深夜便」の流れは掴んでいましたし、今は午後11時にはベッドに入るようにしていますので、最初から番組を聴いている。何がいいのかと聞かれれば、応えに困るけれど、時計代わりであり、ニュース速報に即座に対応できるということくらいが、「深夜便」に耳を傾ける理由でしょうか。つまりは「悪習」「悪癖」ですな。この番組のことはどこかで、一度ならず書いているが、発端は昭和天皇重篤の際の病状変化に備えての放送だった。その後、幾多の経緯がありつつ、今のようになったのは1992年からだったと思う。寝ながらの聴取ですから、一種の睡眠導入剤(眠り薬)の役割を果たしていると言えます。

 番組の内容構成も、それこそ手探り状態がしばらく続き、今あるような「マンネリ(mannerism)」、「代わり映えのしないもの」になったのは2000年になってからでしょうか。担当者は午後11時5分の開始時から翌朝午前5時までの6時間弱、基本は一人。そのほとんどは某放送局の「定年退職者」が当たっていると思う。その多くはテレビのアナウンサーで「ニュースの顔」だったりした方が担当者になっていることが多く、テレビ視聴の誼(よしみ)から徐々に聴取者が増えて行ったのでしょうか。細かく言えばきりはないが、ぼくはその時々の放送内容を、かなり正確に記憶している。「明日への言葉」はテレビでもやっていたが、画面なしで聞くと、夾雑物がなくなる分、深く聴きとることができたと思う。内容に好き嫌いがあるのは当然で、何でこんな夜中にと批判されたものもありました。真夜中に料理番組宜しく、実際にスタジオで作って、食べて、おしゃべりしてという、ぼくなんかは特に嫌いなものでした。また一人の担当者(「アンカー」というらしい)が「夜中にジャズ」鑑賞を始めた時も批判や非難があった。ぼくは、寝ながら往年の名演奏を楽しんだものでしたが。これは今も続いています。

 (今でも気になる表現に、アンカーが自分のことを指して、「今晩のご案内は…」「ご担当は~」という。聞いている者に対する丁寧語のつもりだと思うが、違いますねと言っておきたい。尊局では、言葉研究の大家がおられる、その上での表現・言い方なんですかと、質問したい)

 つまらないことを書いているという自覚がありますので、この辺りで止めておきます。地震速報や、大きな事件・事故には番組の途中でも割り込み報道をするのも当たり前のこととして、とてもいいことだとぼくは受け止めています。聞くに堪えないという個人の判断が働けば、直ちにラジオを消す。というわけで、聞いているような寝ているような曖昧模糊としたまま、ぼくは毎晩イヤフォンを耳にして横になる。猫たちが深夜の時間帯をかまわず起こしに来るので、零時過ぎであれ、2時であれ、3時になろうが、ぼくは律儀に起きて、猫の相手をする。そんな時もイヤフォンは耳に、です。

 時代の雰囲気でしょうか。間髪を入れず、SNSを使って聴取者からの反応が届けられる。一種の「交流会」あるいは「高齢者・昔語りの会」、どうかすると「ラジオ老人ホーム」の趣があるのは、それはそれでいいですね。「一人じゃないって」いうことですか。ぼくは四十代から聴き始めて、今は傘寿。これまでに、たったの一度も番組にハガキや感想を送ったことはない。ただ耳を傾けるだけ。時にはアンカー(担当者)(ディレクター)の間違いがあって気になることもありますが、その多くは番組内で訂正されるので、気づいてよかったと、安心します。そのミスを考えると、担当者(アンカー)の多くは書かれた原稿を読んだり読み違えたりしているのが一耳瞭然。悪習は直してほしいと願いますね。(「知らないこと」には謙虚になって、ですね)

 番組終了直前に「今日の誕生日の花と花ことば」の時間があります。本日(3月7日)は「パンジー(三色スミレ)」で、「花言葉」は「物思い」「私のことを忘れないで」だという。いい加減な、適当なことを、勝手な言い草と、何時だってばかばかしくなりますが。それも愛嬌でしょうか。(「誕生日の花」には、業界ごとに(?)いくつもの花々があります。だから、この「深夜便では、パンジー」ということ)

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