昨日は寒かった。関東各地でも積雪があったほど。当地では、ほんの一瞬、雪が舞い降りてきたが、すぐに雨に変わった。すでに春の彼岸に入ったのに(3月17日~3月23日)、寒さの洗礼を受けている気持ちでした。それに因(ちな)んで、ある時期の親子の会話。「もう彼岸なのに、まだ寒いね」「毎年よ、彼岸の入りの寒いのは」と。誰あろう、正岡子規と母との会話らしいが、それがそのまま一句になったのです。俳句は写生であり、写生の心が俳句を生む、一例でしょうか。俳句とは、そんなものですか。「毎年よ彼岸の入りの寒いのは」(「母の詞自ずから句となりて」と、子規の詞書きがある)「暑さ寒さも彼岸まで」と、誰が言ったものか、誰もが感じたままの季節感が、まだ壊されないままに表現されていた時代があったということでしょう。
ここで言われる「暑さ」とは「残暑」(9月20日ころまでを指す)のことで、「寒さ」とは「余寒」(3月20日ころまで)ですね。本日の駄文も、「春分、二題」というところでしょうか。まことに珍しいことで、昨日に続いて「いばらき春秋」です。コラムの中をモンシロチョウが飛んでいます。「〈初蝶来(く)何色と問ふ黄と答ふ〉。高浜虚子が妻との会話をそのまま詠んだとされる」とあって、師弟の阿吽の呼吸」なのか、師の後塵を拝したのだったか。次は、あえて言わなくてもいいことです。ぼくはある時期まで虚子さんはとても好きな俳人でした。今でも、その句のいくつもを数え上げることができるほど。
そうだったのに、あることがきっかけで以前よりも同情が湧かなくなったんですね。理由というのもつまらぬこと、彼は子規に学んで句作を始めた、余命を知っていた子規は、虚子(⇦)を後継にと望んでいたが彼はそれを断った。有名な「(都内」道灌山の別れの一夜」があります。(どこかで触れている)なぜ俳句を止めたのか、虚子は小説を書きたかったんですね。時は、いわば「自然主義小説」の黎明期でした。詳細は省きます。ぼくは彼の小説をいくつか読もうとしたが、読み通せなかった。この程度のものを書くために、虚子は情熱を燃やしたのかと、一気に興ざめがした。通俗小説にもなっていないと思いました。
時期は忘れましたが、もう一つの理由らしきものを経験しました。どういう会合だった。ある時、虚子と(「ホトトギスの)弟子たちが集まって談笑する機会があった。その座には荻原井泉水さん(1884~1976)もいた。その一場の「情景」を井泉水氏が書いていたのを読んだことがあった。その小文は「虚子、その人となり」だったように思います。確か「虚子全集」の月報に乗っていたものだったかもしれない。それを読んで、「これが虚子さんですか?」と、ぼくは怪訝に思ったのでした。内容はつまらぬこと、むしろ弟子の井泉水氏の方に、一種の悪趣味があったのだろうけれど、虚子の実像(というほどでもない)が出ていると勘繰ったんですね、ぼくは。それやこれやで、虚子への思い入れが消えた。その途端に、子規の句まで、物足りないというか、強引であり、書き足りない写生だとまで思うようになったんですね。それまでの「熱病」が止んだのでした。(これはこれで、一つの主題ですから、子を改めて愚考します)
「寒さで縮こまった羽に日の光を受け、体温を上げてひらりと飛び立つ。初蝶は春の訪れと共に、日なたぼっこの効果も教えてくれる」とコラム氏。もちろん、ぼくもそんな穏やかな春の訪れを希望するものです。今年は、もうモンシロチョウを見たような、あるいは夢だったか、記憶が定かではありません。史上、古くから「孤蝶の夢」という美しい逸話が残されています。荘周(そうしゅう)の逸話です。「夢か現か幻か」という、ある種の人生論、生命論でもありました。
また、作家の司馬遼太郎さん(1923~1996)にも同名の小説「孤蝶の夢」(1979年)があります。明治維新期の、この国の「医学の曙光時代」を横切った何人かの俊才(将軍奥医師だった松本良純・順天堂開祖の関寛斎・佐渡出身の語学の天才であり医師でもあった司馬俊海など)の、まさに胡蝶の夢のような、鮮やかな生き方を描いています。ぼくの、大好きな作品でした。
◎ そう‐しゅう〔サウシウ〕【荘周】=中国、戦国時代の思想家。宋国の蒙(河南省)の人。老子とならぶ道家思想の中心人物で、個々の事物の価値や差異は見かけ上のものにすぎず、根元的にはすべて平等であるとし、自然にまかせる生き方を説いた。後世、南華真人と尊称された。荘子。生没年未詳。(デジタル大辞泉)
◎ こちょう【胡蝶】 の 夢(ゆめ)=(中国の荘周が胡蝶となった夢を見、さめて後、自分が夢で胡蝶となったのか、胡蝶が今夢の中で自分になっているのか疑ったという「荘子‐斉物論」の故事から ) 夢と現実とがさだかでないことのたとえ。その区別を超越するたとえ。また、人生のはかないたとえ。《 季語・春 》(精選版日本国語大辞典)
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【いばらき春秋】春は行きつ戻りつやって来る。寒さが続いた後で急に暖かくなった日、ふいにモンシロチョウを見かけることがある。青い空、黄色い菜の花。そのはざまで小さな白い羽がひらひらと自由に舞う▼1年で初めて見るチョウはしばしば俳句の世界に現れる。季語「初蝶(ちょう)」には冬の寒さから解放される喜びが込められてきた▼〈初蝶来(く)何色と問ふ黄と答ふ〉。高浜虚子が妻との会話をそのまま詠んだとされる。「今年初めての蝶が来たよ」「何色かな」「黄色」。終戦直後の不自由な暮らし。世情にお構いなく飛んできた春の使者に接し、心身の温まる様子が伝わってくる▼初蟬(せみ)、初霜、初鰹(がつお)…。日本人は古来、初めての出合いに感動を寄せてきた。水戸地方気象台の統計では、モンシロチョウの平年の初見日は4月3日という▼きのう県内で舞ったのは雪。一方、春分の日のきょうを過ぎると、気温は上昇し、初夏の陽気と予報される。目まぐるしい寒暖差や新生活で体調を崩しやすくなる時季。専門家は「春バテ」の対処法の一つとして、朝の日差しを浴びることを勧める▼寒さで縮こまった羽に日の光を受け、体温を上げてひらりと飛び立つ。初蝶は春の訪れと共に、日なたぼっこの効果も教えてくれる。(拓)(茨城新聞・2025/03/20)
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【国原譜】17日の月曜日は「彼岸の入り」だったが、あす20日(春分の日)から週末にかけて、墓参りのラッシュになるはずだ。昨秋のお彼岸以来だから、墓掃除も「時間をかけて念入りに」という人が大半だろう。▶気になるのは仏花の値段。通常でも、春と秋の彼岸とお盆の時期は割高になるが、諸物価高騰の折、“高値の花”となるのは避けられない。▶一方で、最近は「墓じまい」が静かに進行している。昨秋の墓参りで、実際に隣の区画から墓石が消え、地面が黒いシートで覆われているのを目撃した。ご先祖さまが安らかであるように、と祈らざるをえなかった。▶日本社会の大きな変化を受けて、生まれた土地で進学、就職、結婚、定年、そして老後―というパターンは、とっくに崩れている。両親が亡くなっても遠隔地に住む子や孫は、なかなか墓参りには行けないという現実がある。▶そのため、先祖供養を今後どうするのかという、悩ましい選択を迫られることになる。お寺も檀家制度維持に苦悩しているという。▶遠いふるさとが、さらに遠くなっていくような感じがして寂しさが募る。(恵)(奈良新聞・2025/03/19)
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ぼくは「葬式」も要らない、「戒名」も不要にと思っている人間(まだ、「遺言」は書いていませんが)ですから、当然のこと「墓」も無用としているものです。とても小さいころから、そのように思っていました。葬式(人生の幕引き)は、この社会の諸宗派に乗っ取られたようなもの。葬式宗教と揶揄されるほどの、業者との癒着ぶりです。葬式も、今ではよほどでないと行かなくなりました。ぼくには無意味に思われる事柄に大枚をはたくのが解せないのです。また、集まって笑い興じる人たちもいるのには耐えられないから。その伝でいうと、御墓も同じこと。墓を造るのに何百万とは、これ如何に。父親が亡くなったとき、おふくろが算段して御墓を造った。菩提寺は京都市右京区嵯峨にある。もう何年も墓参りに行っていません。御墓の管理はお寺任せ。なんとも親不孝であり、不信心ですが、仕方がない。その代わりというか、自宅の自室に小さな仏壇を置き、そこに位牌(両親と祖父母の)を据えて、毎朝線香とお水を上げている。時には「供花」をも。その程度で、何か足りないものがあるとは思わないんですね。
奈良新聞「国原譜」氏が書かれているのはその通りで、それではさて、どうしますかといっても思案投げ首。「生まれた土地で進学、就職、結婚、定年、そして老後―というパターンは、とっくに崩れている。両親が亡くなっても遠隔地に住む子や孫は、なかなか墓参りには行けないという現実がある」のですけれども、その現実に打つ手がないとすれば、あとはそれぞれが「形見」を用意して、先祖や父母の遺徳を偲ぶことができれば上々だという思いがします。「遠いふるさとが、さらに遠くなっていくような感じがして寂しさが募る」と心侘びしいことを書かれるが、おいそれとは行けない火星や金星に御墓があるわけでもない。その気になれば、日帰りで、まさに「孤蝶の夢」「蝶夢」の如くに感じられれば、何時だって亡き人たちと再会も語らいもできようというもの。
(これを書いている今(朝7時)も、隣の竹林からは鴬がだれかに呼びかけている。ぼくにはそうは思われないが、ある人にとって、鴬は亡きおっかさんであるかもしれないでしょう。どんよりとした空の下、ギターが奏でるBGMを聴きながら、駄文を綴りながら、ぼくは「孤蝶の夢」を見ているのでしょうか)
表題句は西山宗因作。[1605〜1682]江戸前期の連歌師・俳人。談林派の祖。肥後の人。名は豊一 (とよかず) 。別号、西翁・梅翁など。里村昌琢に連歌を学び、主家加藤侯没落後、大坂天満宮の連歌所宗匠となった。俳諧では自由軽妙な談林俳諧を興し、門下に井原西鶴などを輩出。編著「宗因連歌千句」など。(デジタル大辞泉)
あえて「句意」を探る必要もないでしょう。「蝶々、蝶々、菜の葉にとまれ、菜の葉に飽いたら、桜にとまれ」と、まあ世間というのはまるで蝶々の如くに動いていればいいのではないかいな。いたって、軽々しいんですね、それでいいと。
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