世の中は三日見ぬ間に桜かな

 左の写真には「1964年3月」とあります。ぼくが大学に入った年でした。その年の秋には「東京五輪」が開かれた。前年3月、ぼくはたった一人で京都から夜行列車に乗りましたが、今から考えても、おそらくいたるところから東京に向かっていた同年代の若者たちは、写真にあるような「集団就職」組の一員だったかもしれないと思うことがあります。この社会の「高度経済成長」が始まり、敗戦時のどん底から急坂を昇り詰める機動力になった人々でした。この1964年が集団就職列車のピークだったという。さすれば、中・高卒業生の大きな塊(かたまり)が、東京という未曽有の「大普請中」の雑踏の中に吸い込まれ、さまざまな「現場」で働きバチに徹してきたことになります。

 「1964(昭和39)年3月18日、集団就職列車で地方から上京する中卒者は「金の卵」と呼ばれ重宝された。高度経済成長期を迎えた都会では働き手が不足していた。この年に井沢八郎が歌った「あゝ上野駅」は、親元を離れて働く彼らへの応援歌でもあった」(左上写真は東京・上野駅に到着した集団就職の一団)(共同通信・2018年03月18日 08時00分)

 その一大群集は、時代を越えて、今また、春三月に「上野の山」に集団(個の集合)で花見に蝟集(いしゅう)し屯(たむろ)する。その多くは集団就職組の末裔たちでもあります。ヘッダー写真がそれです。その中の一員であることを、ぼくたちはどのような感情で認めることができるのでしょうか。(ヘッダー写真:昨年の「上野の山」・https://www.jalan.net/event/evt_320934/

 今から想えば、自身もひとりの「集団就職列車組」として、ぼくは往時を振り返りそうになります。この国の六十年の歴史もまた、「一本の集団就職列車」だったと見えても来るのです。所得倍増といい、「金の卵」と持て囃されて、「東京へ東京へ」と集団疎開宜しく、一極に集住する人の群れでした。それこそ鳴り物入りで急き立てられ、煽られどおしの挙句に、今や自由世界の第2位の経済大国に躍進と知るが早いか、時は巣て、得意満面の頂上から一転して頂上から降っていたことになるのが、三十年前。コラム「有明抄」氏は、そこに中島みゆきさんの「時代」を重ね、「ホームにて」を置く。ぼくなら「別れの一本杉」や「リンゴ村から」を出してみたくなる。「覚えているかい 故郷の村を」「便りも途絶えて 幾年過ぎた」と三橋美智也さんは歌い、「泣けた泣けた 堪えきれずに泣けたっけ」と彼女との別れを嘆きに嘆いたのは春日八郎さんでした。彼らもまた、文字通りの「一旗組」であり、「故郷に錦組」でもありました。劣島は「立身出世」の一大乱気流に翻弄されていたのでした。

 いろいろさまざま、それこそ波乱万丈、順風満帆、悪戦苦闘、得意満面、臥薪嘗胆。(「[名](スル)《「史記」越王勾践世家にある故事から》復讐 (ふくしゅう) を心に誓って辛苦すること。また、目的を遂げるために苦心し、努力を重ねること」デジタル大辞泉)。夢多き、また絶望も数えきれない、人それぞれの人生行路の今は「令和の御代の弥生下旬」です。

【有明抄】旅立ちの春 列車の窓越しに手を振り、泣きじゃくるおかっぱ頭の中学生。ホームからもいくつも手が伸びる。写真は1960(昭和35)年春、国鉄佐賀駅(☚写真)。大都市圏へ向かう集団就職の光景だ。時を重ね、少女はいま傘寿。いかがお過ごしでしょうか?◆小社刊『自分史ノート』の一枚にある。当時、県内の3年生は1万9千人。県外就職は3千人を初めて超え、うち2千百人余が4陣に分かれて故郷を離れた。高度経済成長を支えた「金の卵」である◆中学・高校卒業者を乗せた集団就職列車は64年がピークという。延べ3千本が走り、35道県の7万8千人以上に上った。東海道新幹線開通、東京五輪開催と華々しく沸き立つ世はどう見えていたのだろう。最後の運行はちょうど50年前、75年の3月24日だそうだ◆「旅立ちの春」に変わりはない。その年の中島みゆきさんの歌〈まわるまわるよ時代は回る 別れと出逢(あ)いをくり返し…〉は今なお背中を押してくれる。2年後の『ホームにて』は都会を舞台に〈ネオンライトでは 燃やせない ふるさと行きの乗車券〉。望郷の念を抱きつつ人生の選択、決意をつづる◆進学、就職などで新天地へ。いろんな思いが入り交じるこの週、ソメイヨシノは開花宣言が出た。今、野の緑に揺れる菜の花も鮮やかだ。それぞれが歩んでいく道に、花言葉「小さな幸せ」を重ねる。(松)(佐賀新聞・2025/03/27)

 「そんな時代もあったねと いつか話せる日がくるわ あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ」 「だから 今日はくよくよしないで 今日の風に吹かれましょう」「まわるまわるよ 時代はまわる 喜び悲しみくり返し」(もちろん、これは「恋歌」でしたが、人はきっと何かに恋をする存在ですね。恋の対象は人間であるとは限らない)

 集団就職列車組もこんな時代を送ってきたのでしょう。あんな時代に思いを馳せることもあったでしょう。悲喜こもごもの人生だったが、くよくよしないで、今日の風に吹かれましょう、と歌っているはず。60年前に故郷を出て着いた、ああ上野駅。その駅のすぐ横にある上野(恩賜)公園の桜並木に、人々は「今日の風」に吹かれながらも集団花見に心を奪われているのでしょうか。

 (余談 ぼくは上京して、約十年ほど、文京区本郷に住んだ。徒歩十五分で上野公園に行けた。夕方、明け方、ぼくはどれくらい散歩がてらに上野の山、池之端に出向いたでしょうか。しかし、ただの一度として「花見時」にそこに足を運んだ記憶はない。人通りの絶えた公園内の桜木を見て回ったことは一度や二度ではないけれど)

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【筆洗】「花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ見る物かは」-。桜は満開の時、月は満月の時だけが見ごろだろうか、いや、そうではないと『徒然草』で兼好法師さんはおっしゃる。古文の授業で教わった反語の「かは」が懐かしい▼ご意見はもっともなれど、年に1度の桜となればつい逆らいたくもなるか。なるほど「散り萎(しお)れたる庭などこそ、見所多けれ」かもしれないが、やはり、満開を見逃すのが惜しくて開花の知らせを心待ちにするのは人の情だろう。盛りの桜にひとときでも気鬱(きうつ)な世を忘れたくなる▼おととい、東京都心で桜(ソメイヨシノ)の開花が発表された。時期としては平年並みだそうだ。昨年の開花は少し遅れたと記憶するが、今年の花咲かじいさんは時を違(たが)えず、灰をまいたとみえる▼浮かれついでにこんな戯(ざ)れ歌を。<桜木のもとにみなはや今朝も来も酒や花見に友の気楽さ>。朝から仲間と花見酒とはうらやましい。江戸期の作と聞くが、この歌、上から読んでも下から読んでも同じ「回文」になっている。お見事▼桜の季節にも浮かれてはいられまい。大きな被害が出ている愛媛、岡山両県の山林火災である。現地が心配である▼「花にあらし」「春疾風(はやて)」「春荒れ」。春は強風の季節でもあるが、その風が火の手を強め、消火を妨げる。桜にはかわいそうだが、乾いた山林にまとまった「桜ながし」の雨がほしい。(東京新聞・2025/03/26)

 「三日見ぬ間の桜かな」と誰もが口にしたかもしれません。実は正確には「三日見ぬ間に桜かな」であり、その上句は「世の中は」とある。作者は大島蓼太。それほどに「サクラは咲くのも早いし、散るのも早い」ということ、それは事実ですが、元の句は、自然世界(この中に「世間」も含まれる)の移り変わりも早いものですね、三日も見ないでいたら、もう桜の開花、満開なんですから、ということでした。いろいろな受け止め方ができたから、この句も長い間生き残ったともいえます。

◎ おおしま‐りょうた〔おほしまレウタ〕【大島蓼太】=[1718〜1787]江戸中期の俳人。本名は吉川陽喬。信濃の人。別号、雪中庵。桜井吏登(さくらいりとう)に師事。江戸俳壇の実力者で、芭蕉への復帰を唱え、東西に吟行し、門人の数三千といわれた。編著「雪おろし」「蓼太句集」など。(デジタル大辞泉)

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 さて、兼好さんの登場です。コラム氏は、桜の盛りをこそ愛でたいと、よくよく願っておられるようです。

 「花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ見る物かは」を引いて、コラム氏は、いやそうではなく、花は盛りが一番と、「やはり、満開を見逃すのが惜しくて開花の知らせを心待ちにするのは人の情だろう。盛りの桜にひとときでも気鬱(きうつ)な世を忘れたくなる」とおっしゃる。いかがでしょう。ぼくは兼好さんに手を上げますね。満開よりもその数歩前、花なら蕾(つぼみ)、人間だってそうではないですか。人生の花盛りは人それぞれですから、一概には言えませんが、これからという時期がいいようにぼくは思う。

 「哀れに情け深し」「男・女の情も、偏に逢ひ見るをば言ふ物かは。逢はで止みにし憂さを思ひ、徒なる契りを託ち、長き夜を一人明かし、遠き雲井を思ひやり、浅茅が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ」と、さも兼好さんは自らの経験に裏打ちされた「男女の仲」の奥行きの深さを語ります。ぼくにも、数少ないとはいえ、かかる経験らしいものはありました。「偏に逢ひ見るをば言ふ物かは」というのは兼好氏。「逢はで止みにし憂さを思ひ」とは、さては兼好さん、思いを寄せる「愛しき人」がいたのですね。「浅茅が宿に昔を偲ぶ」とは、「いよっ、この色男」と言いたくもなりませんか。

 花は盛りに、月は隈無(くまな)きをのみ見る物かは。雨に向ひて月を恋ひ、垂れ籠めて春の行方知らぬも、猶、哀れに情け深し。咲きぬべき程の梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書にも、「花見に罷(まか)れけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障る事有りて、罷(まか)らで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣れる事かは。花の散り、月の傾(かたぶ)くを慕ふ習ひは、然る事なれど、殊に頑(かたく)ななる人ぞ、「この枝、かの枝、散りにけり。今は見所無し」などは言うめる。
 万(よろづ)の事も、始め終はりこそ、をかしけれ。男・女(おとこ・おんな)の情(なさけ)も、偏(ひとへ)に逢ひ見るをば言ふ物かは。逢はで止みにし憂さを思ひ、徒(あだ)なる契りを託(かこ)ち、長き夜を一人明かし、遠き雲井を思ひやり、浅茅(あさぢ)が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ。
 望月の隈無きを、千里(ちさと)の外まで眺めたるよりも、暁近く成りて待ち出でたるが、いと心深う、青みたる様(やう)にて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、打ち時雨たる叢雲(むらぐも)がくれの程、又無く、哀れなり。椎柴(しいしば)・白樫(しらかし)などの、濡れたる様なる葉の上に煌(きら)めきたるこそ、身に沁みて、心有らん友もがなと、都恋しう覚ゆれ。
 すべて、月・花をば、然のみ目にて見る物かは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨(ねや)の中(うち)ながらも思へるこそ、いと頼もしう、をかしけれ。(「徒然草 百三十七段)

  「すべて、月・花をば、然のみ目にて見る物かは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨(ねや)の中(うち)ながらも思へるこそ、いと頼もしう、をかしけれ」と兼好節は冴えています。わざわざ雑踏を彷徨(さまよ)わなくてもいいではないか。自分の眼で見てからでなければとは、いかにも無粋な、と言いたかったかもしれません。「百聞は一見に如かず」と世間は真らしくいうけれど、「百聞」があってこそ「一見」の価値が生まれるのであって、それがなければ、…。そのように兼好さんは言いたそうです。「花は盛りに、月は隈無(くまな)きをのみ見る物かは。雨に向ひて月を恋ひ、垂れ籠めて春の行方知らぬも、猶、哀れに情け深し」と、事の初めに戻ります。「哀れに情け深し」、これが奥行きですね。

 (追伸 なただ今延焼中という、岡山や愛媛さらには宮崎の山火事の鎮火が一瞬でも早く進むことをひたすら祈ります。サクラだ、花見だと浮かれるのもいいけれど、そんな気分の世間にあって、「花粉」と「黄砂」と突風に、僻地(へきち)の住人も泣かされているのです。夜中早朝を問わず、家の外では猫が喧嘩をしている。どこの猫であれ、怪我をされてはたまらないので、「喧嘩両成敗」とばかり、ぼくは飛び起きては蹴散らしに出かけます。これもまた「我が春の風物詩」かいな。本日は零時過ぎにしばらく、また三時ころに、もう一度起こされて、喧嘩の仲裁にと、熟睡も爆睡もできませんでしたから、こんな駄文に、とは言わない)

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水いたって清ければ則ち魚なし

<あのころ>スターにあこがれ 宝塚歌劇への試験 2010年03月26日 08時06分共同通信   1933(昭和8)年3月26日、宝塚音楽歌劇学校の入学試験風景。14年に桃太郎の歌劇「ドンブラコ」の初演以来、宝塚少女歌劇の人気が上昇。小夜福子、葦原邦子の男役コンビが支えるレビュー黄金時代を迎え、劇団員は300人を超えた。翌年には東京宝塚劇場もオープン。(日本電報通信社撮影)(「日本電報通信社」は、現在の「電通」の前身で、満州事変で生まれ、今日の,貪欲な企業精神の片鱗を見せた。恐ろしい会社ではあります)

 左上の写真は92年前の3月、宝塚音楽歌劇学校の入試風景だという。第何次試験かに合格した受験女性の表情も、試験官の食い入ような眼差しも、いまでは見られない風景でしょうか。それとも、時代は変われど、似たような景色は何処にもあるのだといえるようにも思われてきます。これを男尊女卑とは言わないでしょうが、「男社会」の一コマであることには変わりはないようで、それなら、いつでも見慣れた景色ということにもなるでしょう。二年前のタカラヅカ歌劇団員の団員に対する「いじめ」が発端となった一人の女性の自死事件、大変な騒動にはなりましたが、その後の経緯はよく分からなままで、報道もすっかり止んでしまいました。事の経緯はともかく、上級生の下級生へのさまざまな対応の、かなりな部分が「いじめ」「パワハラ」と認定され、劇団側は事件の発端となった事実に対し、それを認め、遺族側にに謝罪したと報じられています。(詳細は報じられているのでしょうか)

 まさか、いまの入学試験で、百年近く前の「入学試験風景」がみられるとは考えられませんが、果たしてどうでしょうか。小学生のころは、しばしばテレビ中継されていたこともあって、ぼくは相当にタカラヅカを観劇したものでした。上の記事に名前が出てくる「小夜福子」「芦原邦子」をはじめ、かなりの数の宝塚出身の映画俳優を贔屓にしていました。それだけ、女性の役者やスターと呼ばれる存在を供給していたのが宝塚だったということの証明だったでしょう。その一方で、「団員の団員による団員へのいじめ」にまつわる楽しくない話もたくさん聞きました。今でもテレビなどで活躍している多くの女性タレントや女優さんからの、その種(加害・被害)の経験談話も耳にしました。閉じられた集団における暴力事件の事例には事欠かないのです。

 西の宝塚が「女の闇の園」だとすれば、東には角界という「男社会の闇の世界」があります。言わずと知れた大相撲(相撲部屋)です。これもある時期までは、ぼくはかなり熱中したものでしたが、中学を卒業するころからはほとんど関心が消えました。いろいろと自分でやることが増えたのも理由の一つでした。巷間囁かれているのが「八百長相撲」、相撲協会はこの言葉を忌み嫌って、「無気力相撲」と言い換えていますが、同じことです。ほとんどの元力士が「八百長経験者」だと囁かれているのを知ると、宝塚と同様に、興味も関心も雲散霧消してしまう。「見世物(興行)」、「プロレス(ショウ)」なのだと思えば、どうにか面白く見られるのかもしれません。加えて、大相撲の社会(角界)には「暴力」が蔓延っている事実は否定できません。八百長・暴力・博打などなど、堅気の社会ではとっくに「ご法度」になった諸々の悪行がいまなお行われている社会が、世間の強い支持(贔屓・ファン)で栄えているとするなら、この社会はどんなに暗い社会だろうという気もします。(高校野球などにも、いつだって同じような「暴力」事件が絶えないのは、集団の性質によるのでしょう。上下関係が主となっています。信賞必罰という「制裁」の横行も)

 (集団内における優勢派の体質が徐々に集団の性格や特質を造る。それがさらに進むと、個々人の体質は集団の伝統(慣習)となり、決定的な力を発揮するのでしょう。それが、ある時期までは集団を格付ける「順風美俗」と称賛されていたのかもしれません。しかし、時代の進展は、そのような「蛮行風俗」を看過しなくなったともいえます。軍隊のイロハを見れば、特定の集団に、その特色が色濃く反映されているのがわかります。学校における「いじめ」も、大なり小なりこのような特質があるのではないでしょうか。と同時に「村八分」的な歴史にも影響されているはずです。集団を維持するための防衛本能のようになっているでしょうね)

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<速報>「劇団に全て責任」宝塚劇団員急死で遺族側が合意書を締結、阪急HDが謝罪 宝塚劇団員急死 宝塚歌劇団(兵庫県宝塚市)の宙組劇団員の女性(25)が昨年9月に急死した問題で、阪急阪神ホールディングス(HD)と傘下の歌劇団が28日、大阪府豊中市内で記者会見し、パワハラにより心理的負荷を与えたことを認め、遺族側と最終合意したと発表した。遺族に対して、角和夫会長ら阪急阪神HD幹部が直接面会し、謝罪したことも明らかにした。/会見した阪急阪神HDの嶋田泰夫社長は「亡くなられた劇団員に心より哀悼を申し上げますとともに、ご遺族に深くおわび申しあげます。取り返しのつかないことをしました。劇団に全て責任がある」と頭を下げた。/遺族側が主張する上級生らからの15件のパワハラについて、これまで歌劇団側は半分を認める姿勢を示すにとどまっていた。歌劇団側は具体的にどの行為を認めるのかも明らかにせず、合意時の公表方法について否定的な姿勢を示したことなどから、両者の協議が続いていた。(產經新聞・2024/3/28 16:14)

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 現役の勤め人の頃、しばしばいろんな人から質問を受けました。「学校からいじめをなくするにはどうしたらいいか?」「いじめがなくなることはあるか?」と。もちろんぼくには「答え」などはありませんでしたから、いつだって「ノーコメント」を通していました。そうしてたどり着いたのは「いじめをなくすには、学校をなくせばいいではないか」と放言するに至った。嘲笑されたのがオチでしたけれど、中(あた)らずといえども遠からずで、「いまある学校が、学校の表情(姿)を変えればいいではないか」と言いたかったのです。暴力の雰囲気をなくするためには、教師の権威主義、点取り競争、詰め込み教育、そして何よりも結果主義(序列化)という学校の心棒を変えることしかないように思った。その気持ちは今も変わっていない。(ということは、学校からいじめもパワハラもセクハラも、いささかも変わらずにほとんどが従前どおりということです)小さな空間に閉じ込められ、競争を強いる、そして分類(「できる・できない」)のために篩い分ける、こんな学校の堅苦しい、狭苦しい、度し難い価値観を捨てればいいではないか、そんなことを盛んに言いふらしてきました。

 残念ながら、どんな集団にあっても「いじめ」「暴力」はある。上下関係が明らかであればあるほど、「いじめ」は熾烈を極めるでしょう。極端なことを言えば、一つ家の中でも「いじめ(虐待)(暴力)」は絶えないのですから、逆に、それに向かうには正攻法では負けますので、「いじめ」や「暴力」を往(い)なす・去(い)なす「知恵」「本能」をつけることでしょう。「攻撃を簡単にあしらう。また、自分に向けられた追及を言葉巧みにかわす」(デジタル大辞泉)要は、取り合わないだけの体力(胆力)と知力(防御力)を育てておくことは極めて大事。無防備では、一面において弱肉強食である、この社会にあって他者と伍して生きるのは辛すぎるでしょう。

 ぼくに処方箋があるわけではないのは、自分でも先刻承知しているけれど、現実の「いじめ」や「暴力」に無関心を装うことは、無力な人間であるぼくでも潔しとはしないのです。「半グレ」や「暴力団」には、まず太刀打ちできないけれど、それなりの防御力を備えておけば、少々の「いじめ」「暴力」にはなんとか相向かうことができるかもしれない。

 「考(かんが)える」というのは「か・むかう」です。「か」は接頭辞ですから、相手(対象)に向かうことが原義。つまりは「いなす」「うっちゃる」というのも、相手に対する一方法であり、攻撃には攻撃という以上に、あるいは奥の手になるかも。大きな勢力をバックに攻めてくるような場合もあります。そんな時は、…。「君子(も淑女も)、危うきに近寄らず」に限ると思う。君子や淑女とは、危うきに近寄らない判断(決断)ができる人のこと。相手は「泣く子と地頭」かどうかの見極めは大切ですよ。

 「水清くして魚住(棲)まず」といいます。あまりにも水がきれい(純粋)であれば、そんなところに魚は住めないというのでしょう。この「諺」のような表現にはいろいろと出典もありそうですが、その本意は「純粋な水(H2O)のように、高潔すぎるような人には、誰も寄ってこないというのが本当らしい。だから、少しばかり汚れている方が、他者も近寄りやすいというのでしょうか。もっと言うなら、純粋に水素と酸素だけで成り立つ「水」が、現実の生活裡には存在しないように、どんなにきれいだ、純粋だとみられている人にも「汚れ」や「欠陥」があるということのようです。つまりは「弱み」「短所」です。お互い「弱みを持った人間同士」という感情がそこに流れていれば、生きるのはいくらか楽になるかもしれない。一点を争い、一秒を競うなどというのは、下等・下劣な競争・闘いではないですか。(もっと言いたいことがあるのですが、ここまでに。チャンスがあれば続きを。風が出てきました。花粉が飛び交っている。ただ今、午前7時過ぎ)

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老樹の味わいは尽くしがたし

【余録】歌川広重の浮世絵、名所江戸百景「千駄木団子坂花屋敷」には満開の美しい桜が描かれている。東京都文京区の団子坂には植木屋が「花屋敷」を構え、春は桜、秋は菊人形の名所だった▲植木屋の拠点だった駒込の染井村(現豊島区)から一部が移った。英植物学者のフォーチュンは団子坂や染井を見て回り「世界のどこへ行っても、こんなに大規模に、売物の植物を栽培しているのを見たことがない」と記している(幕末日本探訪記)▲大名屋敷が並ぶ江戸では壮麗な庭園で植木職人が腕を振るい、庶民も花や盆栽を楽しんだ。江戸末期に染井の職人たちが売り出した新種とされる桜がソメイヨシノ。桜の名所、奈良・吉野の名を取り、人工交配で作り出されたという説が有力だ▲高知、熊本に続き、東京でも桜の開花宣言が出された。ソメイヨシノは通常実がならず、接ぎ木で広まるため、どの木も遺伝子が同じクローン。同じ地域なら一斉に開花する。開花宣言や桜前線が成立するのもそれゆえという▲江戸で隆盛した植木屋の一部は関東大震災で被害を受けて埼玉に移った。インバウンド客にも人気の高い「大宮盆栽村」だ。4月に開村100年を迎える街には景観を考えて植栽されたけやき通りやもみじ通り、さくら通りがある▲「日本人の国民性のいちじるしい特色は……みな生来の花好きであるということだ」。フォーチュンは貧富の差なく園芸を楽しむ姿を称賛した。桜シーズン到来で気持ちが高まるのも自然なことかもしれない。(毎日新聞・2025/03/25)

 桜にも自ずからなる歴史があるということ~荘川桜(樹齢約450年と推定)雑感(序)

 「開花宣言」など、ぼくに言わせれば「狂気の沙汰」ですね。わざわざ、気象庁などが確認して、「咲きました」「もう少しです」などと、誰が言い出したことか。いらぬお節介です。また、それを黙って受け入れる方も「狂気」に近い。自分の目で確かめればいいではないか。いちいち「お上」の御託宣を待つ必要などないのに、さ。散々書き散らしてきましたから、もうこれ以上はいう必要もないのですけれど、ぼくは小学生のころから、大の桜好きだった。「散り際の潔さ」を信奉して、のことではありません。まだ固い蕾(つぼみ)の時から、葉桜になるまで、それこそ自己流に堪能していました。家の周囲には桜の見物場所には事欠かなかった。何十か所とあったものですから、われしらず、桜狂いになったかと、恐ろしくなったほどです。

 物心がついてから、桜に関してものの本を読んだり、桜守(全国各地にいました)について学んだり。佐野藤右衛門さんについてもしばしば言及してきたし。笹部新太郎さんには桜の神髄を学んだ気がしています。ぼくたちは知らないだけで、この島社会には、どれくらいの桜守がいたことか、それを想うと、空恐ろしくなるほどに、さまざまな樹木、とりわけ「山桜」の神秘性(大げさではないつもり)に並ぶものはないのではないかと言いたいほど、その美しさや幽玄な佇まいに、ぼくは自分を忘れてしまいます。それにしても、笹部さんのような「超奇特」な御仁がいてこそ、後代のぼくたちは「桜がどうのこうの」と論うことができるのでしょう。日本が文明的に開化するのは、自然環境を破壊しなければありえないことだったし、それが環境に満足できない人間という存在には宿命であったかもしれません。と、同時に、この社会にひとりの笹部新太郎さんがいたということは、それ以前には無数の「ササベサン」さんがいたことの証明にもなるでしょう。

◎ 笹部 新太郎(ササベ シンタロウ)昭和期の桜研究家 生年明治20(1887)年 没年昭和53(1978)年12月19日 出生地大阪・堂島 学歴〔年〕東京大学法学部卒 経歴 生涯をかけて桜の品種改良や普及・保存にとりくみ、“桜博士”と呼ばれた。昭和34年岐阜県の御母衣(みほろ)ダム建設の際埋没の運命にあった桜を移植して話題になり、水上勉の小説「桜守」のモデルになった。晩年は神戸の自宅630平方メートルに各地の桜の種子を集めて栽培、山桜の「ササベザクラ」は兵庫県の天然記念物に指定された。没後自宅は「桜守公園」として開放されている。(20世紀日本人名事典) (註 「荘川桜とJ-POWER」:https://www.jpower.co.jp/sakura/slide/)(ヘッダー写真は、移植後の「荘川桜」岐阜県高山市)

 久しぶりに笹部さんのことに触れるとなると、あれもこれもと書きたくなって収拾がつかなくなります。多くの日本人が桜好きであるという事実はまぎれもないことですが、どうしてそうなったかと問えば、まだ言葉も知らない時期から、いつでも身近にあった桜に親炙(しんしゃ)していたからということに尽きるでしょう。季節を問わず、桜の花の得も言われぬ美しさに夢うつつの中で突き動かされていたのかもしれません。春のうららかな陽光の下、あるいはそぼ降る春雨に濡れた桜花、散る音もなくひらひらと地に降る花びら。ぼくが屋外で写生をしたのは小学校に2年生頃だったと記憶している。能登中島の小学校の校庭の桜を描いた。その桃色の色濃い花びらの具合を今でも鮮明に記憶しているといいたいほど、強烈な印象が刻まれているのでした。(下の写真:https://www.jpower.co.jp/sakura/slide/

 (註 この駄文の続きは、次回以降に)

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「花は半開を看、酒は微酔に飲む」

 本日もコラム二題。昨日は各地で気温が二十五℃を超え、真夏日。そうなれば、サクラだって否も応もなく綻(ほころ)ぶほどの、季節外れの暑さでした。拙宅のある町の隣り市原市では26.9℃だったという。小生の家は市原市と二面(北と東)で接しているから、その煽(あお)りを受けたように汗ばむほどの陽気でした。久しぶりに箒(ほうき)や鎌(電動のこぎりも)を持ち出して、一瞬の庭掃除に。悲しいかな、驚くべき体力劣化に忽ちのうちに休憩に入る始末。

 「日報抄」(03・23日付)には新潟県が「信号機のない横断歩道での停止率」の悪さに一言も二言もされていました。ぼくはまったく同感ですね。コラム氏と様子が違うのは、ぼくは歩行者となって、停止してくれた運転手(車)に頭を下げる機会はあまりないということでした。たまに、そんな機会もないわけではありません。止まってくれた車に、ぼくはきっと会釈をすることにしている。時に新潟県は全国ワーストワンのこともあったそうで、隣県長野は9年連続ベストワンだという。家の近くで、近所の小学生が、数人で渡っている。停止していると、全員が頭を下げる。教師の指導よろしくを得たなと気づくが、その下げ方はさまざま。とにかく事故がないことばかりを願うのだ。「多数派が支持する選択は、さらに支持が広がるという行動心理学の現象も紹介していた」。

 一方で決していい事例ばかりはなさそうで、間道から大通りに出るときなどの「一旦停止」をほとんどしない車が目立つ。あるいは ガソリンスタンドから通りに入る時なども、例外なくといいたいほど、勝手気ままな運転が目に立つほど。「多数派が支持する選択は、さらに支持が広がるという行動心理学の現象」が機能しているということでしょうか。運転歴半世紀を超えた者からすれば、車社会の「道義」の乱れ(頽廃)は、おそらく運転する側の「道義」の未熟や腐熟・不熟に連動していると、大いに心を痛めてもいるのです。

【日報抄】最近、心がけていることがある。信号がない横断歩道を歩いて渡る際、走ってきた車が止まってくれたら、ドライバーにしっかりと謝意を示すのだ。今までよりも深く頭を下げたり、車の方を見て手を挙げたり。最初は少し気恥ずかしかったが、慣れてきた▼きっかけは、信号がない横断歩道での車の停止率に関する12月の本紙記事だ。日本自動車連盟(JAF)による毎年の調査では本県の結果は芳しくない。停止率が低く、全国ワースト1位になった年もある▼一方、お隣の長野県は9年連続全国1位。なぜ長野は停止率が高いのか。その背景を同僚記者が探っていた。現地では、大半の車が一時停止していた。人がいなくても徐行する車もあった▼歩行者は横断歩道を渡り終えた後などにお辞儀をしたり、帽子を取って会釈したり。車に感謝を伝える姿が印象的だったという。「ドライバーも『止まって良かった』と思うのだろう」という長野県庁の担当者の見立ても記されていた▼JAFの調査地点は各都道府県で2カ所。地域全体の傾向を包含しているとはいえないけれど、本県を含め全体の順位が毎年変動する中で、不動の1位の良い点はまねしてみたい。そう考えて冒頭の行動に至った▼記事は、多数派が支持する選択は、さらに支持が広がるという行動心理学の現象も紹介していた。自分の行動で「止まって良かった」と感じるドライバーがじわじわ増えて、交通安全の輪が広がってほしい。こっそり壮大な願いを抱いている。(新潟日報・2025/03/23)

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 野球に興味が湧かなくなってから久しい。自分がやらなくなったから、なおさら関心が持てなくなったのかもしれません。ただ、このところの大リーガー、O 選手をめぐる騒動は何だろうと、いささか訝しく思います。文句なく、これまでの和製メジャー選手の中でも比類のない選手であることは言うまでもなく、メジャー級においてさえ、超一流と評価されるのも不思議ではないでしょう。だからといって、年甲斐もなく熱中する気もない。コラム氏が書いている村上さん(マッシ―)(右下写真)のことはよく覚えています。ぼくが大学に入った年でしたから、それこそ、こんなことがあるものかという驚きがありました。なかなかの好投手(軟投型)で、小さな体を更に小さく曲げて投げる、まるで海老そりのようなフォームが目に焼き付いている。その後に陸続と続く後輩たちの先導役を果たした彼に、ひそかな敬意すら覚えたものでした。

 例えは悪いのですが、JPBはMBLの「二軍」のような気がして、いささかも興味を持てないでいるのです。それはそれで、実態でしょうと思えば、高校野球や大学リーグの選手たちは三軍か四軍に見えてきます。何事にも「ランク付け」があるの致し方ありませんが、等級付のない「野球」があってもいいような気も盛んにする。なんだか、野球においても、この国(社会)は「明治維新」(舶来尊重)を経験しているような錯覚に陥ります。

 以前は相撲に関して、田舎相撲の横綱は大相撲の番付では三段目とか言われて揶揄されました。その昔は各地に「好角家(角力 (すもう) の好きな人)」がたくさんいて、土俵を盛り上げていた時代がありました。そんな地方の横綱でも角界では「幕下以下」と言われるほどに実力に差があったというのです。それでいいではないですか、楽しく相撲が取れるなら。なんでも一本の尺度(物差し)で測るという風潮を、ぼくはあまり好まない。要するに、何でもかんでも「一番」と言いたがる・言われたがるのは劣等感の裏返しのようでもあり、それこそ多様性や多元性を受け付けない気分は、やがて間違いなしに「覇権主義」(勝ち負けでしか物事の値打ちを図らない姿勢)に嵌(はま)り混んでしまうと思う。もうそうなっているという声も聞こえます。一流があれば、五流もあっていい。それは「流儀」であって、序列ではないんだな。

【小社会】球春 日本人の大リーガー第1号といえば、「マッシー」こと村上雅則投手になる。東京五輪が開かれた1964年。プロ野球・南海に入団して2年目の左腕が野球留学で海を渡った。▶マイナー球団で活躍していた初秋、メジャーのジャイアンツに呼ばれた。契約書の調印は試合開始の15分前。初登板はその日のうちにきた。それまで500人だった観客は4万人。足が震えないよう、坂本九さんの「上を向いて歩こう」を口ずさみながらブルペンを出た―。▶何となく、まだ牧歌的な時代を感じる。村上さんは翌65年まで大リーグで投げた。続く日本人選手は30年後。阪神大震災、地下鉄サリン事件、経済も後退と暗い世相の95年に、光を差す快投を見せた野茂英雄投手になる。▶さらに30年後。東京で開かれた大リーグ開幕2連戦は日本選手が5人も出場した。ドジャース大谷翔平選手の存在感。米国内の市場拡大が頭打ちの大リーグは国際戦略の柱に日本を据えたというが、まずは成功なのだろう。▶高知が生んだ藤川球児・新監督の阪神も忘れてはいけない。練習試合とはいえ、かつて自ら在籍したカブス、昨季のワールドシリーズを制したドジャースを連破。媒体には「阪神世界一」の文字が躍った。好投した投手の一言が笑える。「まだ開幕していないので」▶きのう高知城の桜も開花して、球春も本番へ。明るいとはいえない世相であっても、上を向きたくなる話題を願う。(高知新聞・2025/03/24)

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「徒然に日乗」(694 ~ 700

「花は半開を
、酒は

すい
に飲む。此の
うち
に大いに

しゅ
有り(花は五分咲きを眺め、酒はほろ酔いで止めておく。そういう中にこそ、深い趣があるものだ)」(「菜根譚―後」に出て来ることばから」(故事成語を知る辞典)(「開きつくした花を眺め、深酒に酔いつぶれて何の風情」があるものか。なにもかも満ち足りた人ほど、その事をよく知って欲しいものだ」(「今月の法話」・https://touyouji.jp/howa/

〇2025/03/23(日)快晴というべき陽気だった。気温は20度を超えていたかもしれない。隣の市原市はほぼ27℃もあったという。▶終日自宅に。庭の掃除もほとんどしていなかったので、枯葉や枯れ枝が散乱している。陽気に誘われて、ほんの少しばかり掃除をした。いまのところは「雑草」は目立つほどではないけれど、植木がかなり伸びている。時期的には問題なしとはしないが、少しは剪定をする必要があろう。また、新芽が伸びる時期でもあるのか、このところイノシシが庭の土を掘り返し、相当に表土が凸凹になっているので、これもならす必要がある。いっときにはできないが、天候と体力の様子を見ながら、気長に作業が続けられるといいのだが、びっくりするほど、体力が衰えているのに愕然としている。このところの運動不足が応えているに違いない。▶各地から「桜開花」の便りが届いている。拙宅の庭の「啓翁桜」も、鮮やかとは言えないが、いくつかの花びらを綻(ほころ)ばせている。どれくらい咲くか、他の桜木ともども楽しみだ。(700)

〇2025/03/22(土)昼前に猫缶購入のためにあすみが丘へ。家に入ることもなく、純粋に外猫として、食事だけをとりに来る猫が2匹になった。一度も触ったこともない子たちで、おそらくらしい。できれば去勢手術をしたいのだが、さてどうなるか、どうするか。▶かなり風が強く、ために花粉が大量に飛び回っているようだ。目や鼻が痒いし、詰まるし。目薬は購入したが、鼻詰まり処方の薬が必要かもしれない。今年はかなり激しい「花粉症」に悩まされている。(昨年の症状の程度は忘れている)(699)

〇2025/03/21(金)終日自宅に。昨日とは一転して好天が続いた。▶午後にT君から電話。学年末の多忙も終わった段階での連絡だった。「4月から職場を代(替)わることになった。新たな学校はT大教育学部付属の中・高校です」ということだった。大体の予測・予感はあったので驚かなかった。以前にも付属校の校長はK君だと聞いていたが、改めて電話で確認した塩梅であった。十年も現在の学校に勤続していたことには敬意を払いたい。いい仕事(子どもに大きなプラスの影響があるような)をされていたのだと判断してきたが、新たな現場でさらに進化した「授業実践」を期待したいと思う。他人に自分を誇るような軽薄さを持たない、他者に対するわずかばかりであっても尊敬心を欠くことのない、爽やかな青年たちが育つといいな。K校長にも再会したいもの。(698)

〇2025/03/20(木)本日は「立春」(の中日)。17日が彼岸の入り。暑さ寒さも彼岸までというが、果たして今節はどうか。季節外れ(にも似た)大雪が降ったところもある。一年を通して、どこかにキット集中して災厄が発生する。このような「災害の積み重ね」が、この劣島の歴史を造って来たともいえよう。▶お昼過ぎに買い物。本日は休日だったせいもあり、かなりの人出があった(と思うようになった。以前の住まい近くの繁華街でなら、どうということのない休日風景だったが)▶今から52年前の「春分の日」に、都内で我々夫婦は結婚式を挙げた。(正確には1973年3月21日)(697)

〇2025/03/19(水)早朝5時ころに「ビン・カン回収用」の袋を取りに集積所まで。自宅に戻って猫缶やその他の缶類とペットボトルを別々の袋に収めて、再度集積所に持っていく。この段階ではかなり強い雨が降っていた。夜半からは相当に激しく降っていたのだから、この時間にはやや小降りという状況ではあったが、それでもそれなりの雨脚だった。▶お昼過ぎに茂原まで買い物。いつも通りの食材等を購入して、帰宅。昨夜はネット番組で在アメリカの町山智弘氏の「現地報告」を聞いた。聞き手は独文学者・翻訳家の池田香代子さん。とても面白かった。「独裁者トランプへの道」という昨年末に出された町山氏の著作をめぐる対談。早速、その本を注文しておいた。「アメリカは南アフリカに占拠されている」という実に興味津々たる視点からのトランプ亜米利加論。イーロン・マスク、ピーター・ティール、デイヴィッド・サックスのトリオ(何れも南ア生まれか、南ア育ち)、この三人組を、世間では「PayPalマフィア」と呼ぶ。いずれもトランプ政権の重要なポストについており、三人に共通するのはファシストであり、ナチズムの信奉者、人種差別主義者だということ。五十代のナチ狂信者はトランプを突き動かしてアメリカをどこに持っていくのだろう。米国では、その過激人種主義者の振る舞いを止める者はいないのだろうか。そろそろ、トランプも焼きが回ったというべきだろう。「1 焼き入れの際の火が行き渡りすぎて、かえって刃物の切れ味が悪くなる。2 頭の働きや腕前が落ちる。年をとるなどして能力が鈍る」(デジタル大辞泉)(696)        

〇2025/03/18(火)天気は快晴。風もあまり吹かなかった。花粉の飛散がとても多く、おちおち屋外に出られないほど。▶お昼前に買い物、茂原まで出かける。人出は多かった。もう学校は春休みに入ったのだろうか。▶町役場に証明書を出してもらいに行く。毎年、当該住所に、死なないで住んでいることの証明である。企業年金受給のための「存在」確認のため。いわば「生存証明」書の発行。▶次に灯油を、いつも利用しているGSで。18㍑×2缶の購入(2142円×2)。さらに茂原のSM(スーパーマーケット)へ。毎日の食材等の購入。物価高騰が収まる気配のないのが大いに気になる。大したものを買ったわけでもないのに、5千円の出費。帰路、近所のHC(ホームセンター)で猫のドライフードとトイレ用紙等で。同じく5千円。あっという間に一万円が飛んでいく。▶帰宅後、明日の「ビン・カン」回収の準備。予報では明日はかなりの降雨があるそうだ。ところによれば「春の嵐」になるとか(695)

〇2025/03/17(月)昨夜の雨が残っており、激しくはなかったが、午前中いっぱい降り続いた。風はあまりなく、予想されていた花粉の飛散量も少なめだったが、時間の経過とともに激しくなった。夜に入って、目が空けられないほどの激しい痒みに苦しめられた。▶本日は午前1時半過ぎに起こされ、そのまま起き続けていた。このところ、しばしば、日付が変わった段階で起こされてしまう。「春眠暁を覚えず」は、猫に関しては通じないのだな。たくさんいるので、誰かに影響されて、どうしても外に出たがるようである。猫的付和雷同か。▶終日自宅内に。(694)

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さよならだけが 人生ならば

「週初に愚考」(第六十弐)~ 終わりと始まり、 について。高知新聞が二日続きで「さよならの季節」と「サクラの季節」と題したコラム「小社会」を掲載しています。まるで「春先の珍事(椿事)」というべきか。「さよならとサクラ」が同じ季節に重なるのも、何かの因縁。「散り際の潔さ」などと強弁する向きもあり、「さよならだけが人生」という人あれば、それに反旗を翻す人もいる。「サクラとさよなら」が二重写しになる「コラム」など、めったに読めないことだったし、そのテーマはよく考えられるべきものだと思いましたので、ぼくは誘惑に駆られたのでした。二つの「小社会」は、いずれもが、よく言えば、なかなかに「イミシン(意味深)」な人生の深度(変転)を物語っているとぼくには思われましたので、屋上屋の無駄や煩瑣を厭わずに引用かつ愚考する次第です。

 一昨日の「小社会」は大学の合否を知らせる「電文」です。「クジラガツレタ」とは高知大学に合格、つまりは高知大学は鯨だということですね、それにしても大袈裟な。ぼくは貰ったことも出したこともないのですが、今では歴史の遺物になった感があります。電報はたった一度だけ、受け取ったことがある。入学式や卒業式をサボっていたので、学部当局から「シュッセキサレタシ」とかいうのものを。さすがの、「オコトワリシマス」との返信は出さなかったが。「電報文」にはそれぞれの大学の地域性が出ていて、悲喜こもごもの「サクラチル」「サクラサク」でしたね。進学率が高止まりしている今では、多くの若者にとって「大学の門」は、まことに有り難くない「青春の門」となった感がありますが、よくよく見ると、「門」(「裏門」も含めて)があるようで、実際には「錯覚」だったということに入学後に気付く人も多くいるのではないでしょうか。昨日のコラム氏は、例の唐の于武陵(うぶりょう)の「勧酒(「お酒をどうぞ」)を出しました。本家よりも物真似(翻訳)の方が有名になった、まことに井伏鱒二さんは見事な邦訳をされたものでしたね。この「勧酒」については、駄文製造者も何度か取りあげています。

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【小社会】サクラの季節 「クジラガツレタ」。年配の方ならピンとくる方も多いはず。かつて高知大の入試で合格者に送られた電文だ。昭和の時代、合格発表を見に来られない受験生に、大学の学生自治会などが請け負った合格電報の一つ。▶中でも最も有名な電文は、「サクラサク」か。諸説あるが1956年、早稲田大で初めて使われた。「アカモンヒラク」(東京大)、「マリアノカネガナル」(長崎大)、不合格では「ミチノクノユキフカシ」(東北大)、「ゲンカイノナミハアラカッタ」(九州大)…。地域の風土も感じさせるさまざまな電報が各地から打電された。▶それが平成も半ばになると、インターネットの普及で大半の大学がホームページに合格の受験番号を掲載。2005年の本紙記事には「高知大学でも十年ほど前から電報の請負が姿を消した」とある。▶氏名発表から番号発表、電報からインターネットへ。時代は移ろい、キャンパスの掲示板前で先輩学生が合格者を胴上げする姿も消えつつある。▶ただ合格発表の光景は変わっても、受験生の「明暗」は今も変わることはない。デジタル空間には10代の切ないつぶやきがあふれる。「全部自分のせい。どうすればいいのか」「頭が真っ白で全然わかんない」▶そんな若者たちにことしの桜はまぶし過ぎるかもしれない。が、サクラが咲いた人にも、散った人にも芽吹きの季節はまた同じように巡ってくる。来年は満開の笑顔を。(高知新聞・2025/03/22)

 (時代の推移とともに消えてゆくものは多いが、そのかなりな部分を「換骨奪胎」とはいえ、きっと復活(ルネサンス)するでしょうね。「復古」がなければ、行き先も消えると思うんでしょうね。人間社会の進展など、あまりあてにはできないですね)

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【小社会】さよならの季節 お彼岸に入っても寒い日が続いていたので、春もやや慌てたか。高知市はきのう、日中の最高気温が25・8度まで上がり、初夏を思わす陽気になった。街では半袖姿の人も見かけた。▶これには桜も大慌てに違いない。高知城の標本木は平年の開花がちょうど3月22日。訪れると、一輪も咲いていなかったが、つぼみがずいぶんと膨らんで、開花が近そうだった。▶慌ただしいといえばいま、人の世も同じだろう。転勤や就職、進学などで引っ越し準備に追われている人が少なくない。長年住み慣れた土地や親しい人たちとの別れの季節でもある。この時季によく取り上げられる漢うぶ量唐の于武陵(うぶりょう)の作品「勧酒」がある。▶別れを惜しんで「花発多風雨 人生足別離」とつづった。花の咲く頃は風雨が多いように、人の一生には別ればかりが多い。現代語に訳せば、そんな意味になるだろう。作家の井伏鱒二はかつて、「人生足別離」にこんな訳を付け注目された。「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」▶無常感が一層広がり、なんとも切なくなるものの心に残る。どうせなら友人や同僚、家族を満開の桜とともに、華やかに、にぎやかに送り出したいものだが、間に合うだろうか。▶桜前線はまだだが、もう一つの春の使者は続々と北上している。きのうの朝、自宅の前でツバメがさえずっていた。新年度入りまであとわずか。さよならだけでなく、出会いの季節も迎えている。(高知新聞・2025/03/23)

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 「別れに一盃 吞もうじゃないか」「注いでおくれよ なみなみと」(無骨流)。「勧君金屈巵 満酌不須辞 花発多風雨 人生足別離」、これを「ハナニアラシノタトエモアルゾ」「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」(井伏著「厄除け詩集」)と、井伏さんは武士(もののふ)もどきの「今生の別離」の潔さに移し替えました。コラム氏いわく「無常感が一層広がり、なんとも切なくなるものの心に残る」と。果たしてどうでしょう。ここに感傷や別離の愁いを読むのは間違いではないでしょうが、ぼくはもっと積極的に「交わり(厚誼・厚情)」の深さを感じ取るのです。唐代の詩人の「想い」がぼくに分かるはずもありませんけれど、また逢う日まで、逢える日まで、互いに無事で生きようじゃないか、と言いたいくらいのものです。<Let’s meet again in good health>

 この井伏調に対して、若かった寺山修司さんは「さよならだけが 人生ならば 人生なんかいりません」と反抗しました(「「幸福が遠すぎたら」・「ポケットに名言を」に所収 1973年)。いわでものことと、後年には詩(詞)のこの部分を削除しましたが、気持ちは変わらなかったでしょう。ぼくには、いかにも寺山さんらしくない情緒が漂う詩情であると思われますけれど、いやいや、むしろ、ここにこそ寺山さんの「思想(本領)」があるのだとも直感している。「さよならだけが 人生ならば また来る春は何だろう はるかなはるかな地の果てに 咲いている野の百合何だろう」(「幸福が遠すぎたら」寺山修司)、「感傷過剰」、陰々滅々の真情溢れんばかり。この詩は「さよならだけが人生ならば」というタイトルで「六文銭」がレコードを出しました、作曲は小室等さん。ほぼ同時期には、寺山さんの秘蔵っ子だった(と思われた)カルメン・マキさんも。(いずれも「他に換えがたい」出来具合だと思う)

(「さよならだけが人生ならば」六文銭 19743年:https://www.youtube.com/watch?v=YWgmRZSLkfU)                                         (「さよならだけが人生ならば」カルメン・マキ 1969年:https://www.youtube.com/watch?v=TDy_axc7Jd0

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 駄文の主旨は「終わりは始まり」であるということです。、同じことのようで「始まりには終わりが」潜んで(埋め込まれて)いると。どんなものでも「始原」「発端」がありますね。始まりがなければ始まらない。始原とは原始のことで、ぼくたちは何も考えないで「原始時代」などという。何かが終わったからの「原始」だったのではないですか。そこには尽きない、自然現象の条理や事情が無際限に含まれているのですが、それはさておいて、終わりの源は始まりだと、誰もが、あるいは動物・植物(生命一般)はすべからく、自らの終わりを知っているから、次代に自分のなかの何者・何事かを遺す定めにあるのだと思う。生命全体だって、その中には「終焉」が刻印されている、そのことの微かな直感が「サヨナラダケガ人生だ」と言いたくもあり、「さよならだけが 人生ならば 人生なんかいりません」と言ってみたくなるのではないでしょうか。井伏さんも寺山さんも、この「科白」を吐いたのはまだ、三十代だった気がします。

 大学に合格しようが、不合格であったにせよ、そのことで人生の重量も値打ちも少しも変化はないのだと、気が付くことはとても大切ではないですか。仮に「人生の意味」「人生の価値」という言葉を使うとして、大学への合格・不合格によって、意味や価値が増したり減ったりすると考えてしまう、そんな世間流通の軽薄さ・通念をぼくたちはいつとは知れず自らの中に持ち込んでしまう。学校・社会教育の賜物と言っておきます。人生において、あるいは人生を営む場としての社会において、当たり前に大学が存在し始めたのはたかだか百五十年前。大学の存在しなかった歴史は無限ですね。今もなお、半数の人は大学には足を踏み入れていません。この事実は重くはないですか。大学の湯無で測られる人生って、どれほどのものですかとぼくは問たいですね。

 コラム氏は「(大学入試に不合格だった)そんな若者たちにことしの桜はまぶし過ぎるかもしれない。が、サクラが咲いた人にも、散った人にも芽吹きの季節はまた同じように巡ってくる」という。どうあっても「合格」が人生に不可欠のように言いたそうですが、視野狭窄ですね。ぼくも人並みに「大学」(だと公認されていた)に入った、だから、そこを出た。入る時になかったもので、出るときに得たものは何だったか。反対に、入る時に持っていて、出るときに失っていたものは何だったか、それを考えると、ぼくにとっての大学とは、必要不可欠なものではなかったと断言できます。二十歳前のぼくに欠けていたのは、見知らぬ幻だった「大学」に対する幻想・妄念を、自分の手で壊さなかったことだったと思います。「大学」について云々できるのは「大学に在学した経験」があったからですから、その意味で、ぼくには「(大学は)他山の石」だったと言えます。

◎ 「他山の石」とは「よその山から出た、つまらない石。転じて、自分の修養の助けとなる他人の誤った言行」(デジタル大辞泉)「自分の石をみがくのに役にたつほかの山の石の意。転じて、自分の修養の助けとなる他人の言行。自分にとって戒めとなる他人の誤った言行」(精選版日本国語大辞典)(「詩経―小雅(しょうが)・鶴鳴(かくめい)」の一節。「他山の石、以て玉を攻(みが)くべし」から)

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「孤愁」を救うか、ラジオ流の語り

【有明抄】ラジオ放送100年 西欧で庶民が自分の時計を持ち始めたのは18世紀の産業革命のあと。工場で働くようになり、工場主が大時計の針をごまかして余計に働かせようとするのを防ぐためだったとか。日本では大正時代、腕時計が普及した。近代化とは時間にとらわれることでもあった◆そのころ、うぶ声を上げたのがラジオである。ちょうど100年前の大正14(1925)年3月22日、関東大震災の爪痕が残る東京で放送が始まった。「ただいまから11時30分をお知らせいたします。50秒前、40秒前、30秒前、20秒前、10秒前、あと5秒」…鐘がカーン◆それまで多少のズレは当たり前だった「時刻」が家庭で正確にわかるようになった。いつでも好きに読める新聞とは違い、そのときにしか聞けない放送番組は、人びとの時間感覚を大きく変えた(竹山昭子『ラジオの時代』)◆スマホで全国のラジオが繰り返し聴けるようになった今、もう時間にとらわれることもない。テレビの登場でお茶の間から遠のいたラジオは「みなさん」から「あなた」へ語りかける存在に変わった◆ラジオタレントを自認した永六輔さんは書いている。〈この声を信じよう、この人は嘘をつかないという頼られ方ができるように、毎日のラジオを続けてきた〉。そんな頼れる言葉を届けているか。同じ歴史の長いメディアとして、ちと耳が痛い。(桑)(佐賀新聞・2025/03/22) 

 ぼくが大変に世話になった先輩に耳鼻科の M 医師がおられた。旧制熊本五校から九大医学部を出て、都内で医業を継いだ人でした。ぼくは上京して間もなく、喉に変調をきたしたので、近所の耳鼻科医に診てもらった。その縁でぼくはクラシック音楽を聴き始めたのでした。いわば旧制高等学校卒業者らしい雰囲気のあった人だった。医師夫妻は、ぼくたちの結婚の立会人になっていただいた。その医師が「ぼくは大大正14年生まれで、親が付けた名前が<ラジオ>だったが、あまりにも奇妙な名前なので、「ラ」の上の横線を取って「フジオ」になったんだ」と言われたことがありました。(ある時期から、ぼくには理解できないような事柄があって、ぼくの足はM医師からは遠のいてしまいました。恩知らずだったと、自らを責めています)

 そのラジオが誕生して本日は「百年目」を迎えたという。例によって、昨夜からの「ラジオ深夜便」を聴いていたら、盛んに「ラジオ放送百年」を喧伝し、ついでに「ラジオ深夜便放送開始三十五年」を伝えていました。昨夜から今朝にかけて、ラジオ深夜便は、この二つの「記念日」を合わせた番組編成を取っていたようです。繰り返し駄弁っているように、ぼくはともかく、毎晩イヤフォンを耳に挿んで床に就く。その大半は爆睡しているのですが。昨晩の担当者(アンカー)もよく聞き知っている方でした。日付が変わった時間帯には、以前に「アンカー」を務めていた方が三人も登場された。驚いたのは、その三人のそれぞれが担当されていた当時の番組の内容が、ほぼ正確にぼくの記憶に遺されていたことでした。(三方とも、その前はテレビの「顔」として、重きをなしていたのであり、いわば、第一線から退いてなお、ラジオで活躍の場を持たれていたのだった)

 それを言うなら、ラジオをを聴き始めたころは、田舎から京都に出てきた当時(昭和30年)でしたが、何級スーパーとか言った受信機で電波が、文字通りに波を打って、なかなか波長が合わない聞き苦しい音を我慢し永田の愛聴だった。そんな中で一番最初に聴いたのが、NHKのラジオ劇で「お父さんはお人よし」(左上写真)というものでした。花菱アチャコと浪花千恵子のコンビ一家が織りなすホームドラマ。それを筆頭にいくつもの放送内容を覚えています。さらには落語や浪曲など、演者の語り口までほぼすべてを覚えています。いちいち名前を挙げませんけれど、いずれも名人上手と言われる人たちでした。また、海外からの中継では、メルボルンオリンピック(1956年秋)の競泳の中継放送を熱心に聞いたものです。山中毅(日本)とマレーローズ(豪州)の一騎打ち。という具合に話していけば、際限がなくなりそうです。またその当時は、兄貴に倣って「鉱石ラジオ」を自作し、電波を捉えようと屋根の上って通信電波の具合を合わせたものでした。

【余録】日本の放送は1925年3月22日、東京放送局(NHKの前身)のラジオ仮放送で始まった。アナウンサーの第一声、海軍による演奏に続き同局総裁の後藤新平があいさつで「文化の機会均等」などラジオの機能を説明した▲ただし後藤がまず強調したのは、「極力混乱と誤用を避け、乱用や盗用などの弊害を引き起こさない」戒めだった。関東大震災が23年に起き、内相などの職に就いた後藤は復興行政を担った。震災時の流言飛語などの混乱を踏まえ、正確で迅速な情報を求める社会の要請も受けての船出だった▲戦前から現在まで、100年に及ぶ放送である。53年にテレビ放送が加わり、大衆文化の担い手となった。ラジオは戦時中に情報統制の手段となり、テレビ番組は視聴率至上主義が批判されるなどの陰影も放送史は帯びている▲近年は政治との距離感や、有名タレントの不祥事を巡るフジテレビの対応のように、業界の体質やモラルも問われている。ネット社会の下、テレビ離れが進んでいる▲岐路に立つ放送である。後藤はあいさつで、事業者や聴取者が「自治的自覚」を持つ必要性も説いていた。東京放送局はやがて旧日本放送協会となり、政府は関与を強めた。後藤は新組織の総裁就任を辞退した▲茶の間に据えたテレビを家族そろって楽しむ時代が過ぎても、ネット情報があふれる中、災害などで放送が果たす役割は変わるまい。信頼と自立を失わず、視聴者にどう向き合っていくか。後藤の問いかけは、なお続いている。(毎日新聞・2025/03/22)

 だからというわけでもありませんが、ラジオ放送百年の歴史のうち、およそ4分の3近く(70年程)は聞いてきたことになります。その中でも「ラジオ深夜便」は放送開始から35年聴き続けてきた。もちろん、それは単なる惰性(習慣)であって、注意深く聞き逃すまいという姿勢ではない。それでも時には、物故された方々の「生前の声」を聴くことは楽しみでもあり、得難い学習の機会でさえもありました。ある種の講演会場のひとりの聴衆になったつもりで、たくさんの碩学の話が聞けたことはさいわいでした。その代表格は「明日への言葉」という、テレビでもやっていた番組のラジオ版でした。夾雑物なしに、自由に想像力を働かせて聴いた、非常にいい番組だったと、今では懐かしく思うほどです。現在の「深夜便」について、忌憚なく言えば、ぼくには単なる「時報」「時計」代わりのようなもの。猫に早く起こされるので、ぼくには床に入っている時間はとても貴重なもので、だから少なくとも深夜零時や1時ころまでには絶対に起きないのだと、真っ暗な寝室でラジオの時報を頼りにしているのです。加えて、毎時ごとの天気予報。これも次の日(本日)の予定を考える要素にはなっている。それにしても、NHKのラジオにまで俗悪、軽佻かつ騒々しい限りの番組がたくさん詰め込まれてきているのには驚くばかりです。もちろん、個人の感想ですから、それを何とかしろというのではない。

 文句でもなければ注文でもないのですが、ラジオと言えば「FM放送」もよく聞きました。その大半はクラシック番組やジャズなどでした。音楽番組にはそれなりに貴重なものがあっただけに、今日の若者用番組編成とでもいうのでしょうか、まったく聞くに堪えないもので、まさに昔日の感に堪えないと言っておきます。

 いつも通りに、脈絡のない駄弁に終始しています。要するに、テレビの後塵を拝していたかと思われたラジオにも意外な可能性があったことの発見は嬉しい限りですが、世は深夜ながら族の時代とあれば、ラジオの俗化も不可避であるという、一つの結論(展望)が出せそうではあります。NHKラジオだけのことでしょうか、放送の時間に穴をあけないために、以前に放送された分を再放送する割合が高くなっている。だから、昼の日中に「今晩は、今夜は…」などという語りが四六時中入るのは避けてほしいね。

 それもこれも含めて、ラジオ流の(一人称の)語りかけは、不特定多数に向けてのものではないでしょう。たった一人で耳を傾けている一聴取者(「あなた」)の「孤愁(Solitary)」を救う力があるのでしょうか。それをぼくは大いに願っているのですが。(現在、ラジオ聴取は無料)

 今朝の3時台、「日本の歌 心の歌」では、懐かしの叙情歌・唱歌集でした。明治に作られた古い歌などを聴いていると、「明治は遠くなりにけり」と草田男さんは詠まれたが、何のことはありません、ぼくにとって、いいも悪いも含めて、「明治は指呼(しこ)の間」としか思えないのです。「呼べば答えるほどの近い距離」(デジタル大辞泉)。昨夕のニュースで「西南戦争」を戦った双方の大将(同じ薩摩藩出身の西郷隆盛さんと大久保利通さん)の末裔(曾孫(ひまご)と玄孫(やしゃご)が、田原坂で、敵味方を超えた、百数十年後の握手をしている場面が報じられていました。それにしても「遺伝子とは恐ろしいもの、どちらがどちらと一目瞭然でしょ。左写真)。(西日本新聞・2025/03/21・https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1329233/

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