
左の写真には「1964年3月」とあります。ぼくが大学に入った年でした。その年の秋には「東京五輪」が開かれた。前年3月、ぼくはたった一人で京都から夜行列車に乗りましたが、今から考えても、おそらくいたるところから東京に向かっていた同年代の若者たちは、写真にあるような「集団就職」組の一員だったかもしれないと思うことがあります。この社会の「高度経済成長」が始まり、敗戦時のどん底から急坂を昇り詰める機動力になった人々でした。この1964年が集団就職列車のピークだったという。さすれば、中・高卒業生の大きな塊(かたまり)が、東京という未曽有の「大普請中」の雑踏の中に吸い込まれ、さまざまな「現場」で働きバチに徹してきたことになります。
「1964(昭和39)年3月18日、集団就職列車で地方から上京する中卒者は「金の卵」と呼ばれ重宝された。高度経済成長期を迎えた都会では働き手が不足していた。この年に井沢八郎が歌った「あゝ上野駅」は、親元を離れて働く彼らへの応援歌でもあった」(左上写真は東京・上野駅に到着した集団就職の一団)(共同通信・2018年03月18日 08時00分)
その一大群集は、時代を越えて、今また、春三月に「上野の山」に集団(個の集合)で花見に蝟集(いしゅう)し屯(たむろ)する。その多くは集団就職組の末裔たちでもあります。ヘッダー写真がそれです。その中の一員であることを、ぼくたちはどのような感情で認めることができるのでしょうか。(ヘッダー写真:昨年の「上野の山」・https://www.jalan.net/event/evt_320934/)

今から想えば、自身もひとりの「集団就職列車組」として、ぼくは往時を振り返りそうになります。この国の六十年の歴史もまた、「一本の集団就職列車」だったと見えても来るのです。所得倍増といい、「金の卵」と持て囃されて、「東京へ東京へ」と集団疎開宜しく、一極に集住する人の群れでした。それこそ鳴り物入りで急き立てられ、煽られどおしの挙句に、今や自由世界の第2位の経済大国に躍進と知るが早いか、時は巣て、得意満面の頂上から一転して頂上から降っていたことになるのが、三十年前。コラム「有明抄」氏は、そこに中島みゆきさんの「時代」を重ね、「ホームにて」を置く。ぼくなら「別れの一本杉」や「リンゴ村から」を出してみたくなる。「覚えているかい 故郷の村を」「便りも途絶えて 幾年過ぎた」と三橋美智也さんは歌い、「泣けた泣けた 堪えきれずに泣けたっけ」と彼女との別れを嘆きに嘆いたのは春日八郎さんでした。彼らもまた、文字通りの「一旗組」であり、「故郷に錦組」でもありました。劣島は「立身出世」の一大乱気流に翻弄されていたのでした。
いろいろさまざま、それこそ波乱万丈、順風満帆、悪戦苦闘、得意満面、臥薪嘗胆。(「[名](スル)《「史記」越王勾践世家にある故事から》復讐 (ふくしゅう) を心に誓って辛苦すること。また、目的を遂げるために苦心し、努力を重ねること」デジタル大辞泉)。夢多き、また絶望も数えきれない、人それぞれの人生行路の今は「令和の御代の弥生下旬」です。

【有明抄】旅立ちの春 列車の窓越しに手を振り、泣きじゃくるおかっぱ頭の中学生。ホームからもいくつも手が伸びる。写真は1960(昭和35)年春、国鉄佐賀駅(☚写真)。大都市圏へ向かう集団就職の光景だ。時を重ね、少女はいま傘寿。いかがお過ごしでしょうか?◆小社刊『自分史ノート』の一枚にある。当時、県内の3年生は1万9千人。県外就職は3千人を初めて超え、うち2千百人余が4陣に分かれて故郷を離れた。高度経済成長を支えた「金の卵」である◆中学・高校卒業者を乗せた集団就職列車は64年がピークという。延べ3千本が走り、35道県の7万8千人以上に上った。東海道新幹線開通、東京五輪開催と華々しく沸き立つ世はどう見えていたのだろう。最後の運行はちょうど50年前、75年の3月24日だそうだ◆「旅立ちの春」に変わりはない。その年の中島みゆきさんの歌〈まわるまわるよ時代は回る 別れと出逢(あ)いをくり返し…〉は今なお背中を押してくれる。2年後の『ホームにて』は都会を舞台に〈ネオンライトでは 燃やせない ふるさと行きの乗車券〉。望郷の念を抱きつつ人生の選択、決意をつづる◆進学、就職などで新天地へ。いろんな思いが入り交じるこの週、ソメイヨシノは開花宣言が出た。今、野の緑に揺れる菜の花も鮮やかだ。それぞれが歩んでいく道に、花言葉「小さな幸せ」を重ねる。(松)(佐賀新聞・2025/03/27)
「そんな時代もあったねと いつか話せる日がくるわ あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ」 「だから 今日はくよくよしないで 今日の風に吹かれましょう」「まわるまわるよ 時代はまわる 喜び悲しみくり返し」(もちろん、これは「恋歌」でしたが、人はきっと何かに恋をする存在ですね。恋の対象は人間であるとは限らない)

集団就職列車組もこんな時代を送ってきたのでしょう。あんな時代に思いを馳せることもあったでしょう。悲喜こもごもの人生だったが、くよくよしないで、今日の風に吹かれましょう、と歌っているはず。60年前に故郷を出て着いた、ああ上野駅。その駅のすぐ横にある上野(恩賜)公園の桜並木に、人々は「今日の風」に吹かれながらも集団花見に心を奪われているのでしょうか。
(余談 ぼくは上京して、約十年ほど、文京区本郷に住んだ。徒歩十五分で上野公園に行けた。夕方、明け方、ぼくはどれくらい散歩がてらに上野の山、池之端に出向いたでしょうか。しかし、ただの一度として「花見時」にそこに足を運んだ記憶はない。人通りの絶えた公園内の桜木を見て回ったことは一度や二度ではないけれど)
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【筆洗】「花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ見る物かは」-。桜は満開の時、月は満月の時だけが見ごろだろうか、いや、そうではないと『徒然草』で兼好法師さんはおっしゃる。古文の授業で教わった反語の「かは」が懐かしい▼ご意見はもっともなれど、年に1度の桜となればつい逆らいたくもなるか。なるほど「散り萎(しお)れたる庭などこそ、見所多けれ」かもしれないが、やはり、満開を見逃すのが惜しくて開花の知らせを心待ちにするのは人の情だろう。盛りの桜にひとときでも気鬱(きうつ)な世を忘れたくなる▼おととい、東京都心で桜(ソメイヨシノ)の開花が発表された。時期としては平年並みだそうだ。昨年の開花は少し遅れたと記憶するが、今年の花咲かじいさんは時を違(たが)えず、灰をまいたとみえる▼浮かれついでにこんな戯(ざ)れ歌を。<桜木のもとにみなはや今朝も来も酒や花見に友の気楽さ>。朝から仲間と花見酒とはうらやましい。江戸期の作と聞くが、この歌、上から読んでも下から読んでも同じ「回文」になっている。お見事▼桜の季節にも浮かれてはいられまい。大きな被害が出ている愛媛、岡山両県の山林火災である。現地が心配である▼「花にあらし」「春疾風(はやて)」「春荒れ」。春は強風の季節でもあるが、その風が火の手を強め、消火を妨げる。桜にはかわいそうだが、乾いた山林にまとまった「桜ながし」の雨がほしい。(東京新聞・2025/03/26)

「三日見ぬ間の桜かな」と誰もが口にしたかもしれません。実は正確には「三日見ぬ間に桜かな」であり、その上句は「世の中は」とある。作者は大島蓼太。それほどに「サクラは咲くのも早いし、散るのも早い」ということ、それは事実ですが、元の句は、自然世界(この中に「世間」も含まれる)の移り変わりも早いものですね、三日も見ないでいたら、もう桜の開花、満開なんですから、ということでした。いろいろな受け止め方ができたから、この句も長い間生き残ったともいえます。
◎ おおしま‐りょうた〔おほしまレウタ〕【大島蓼太】=[1718〜1787]江戸中期の俳人。本名は吉川陽喬。信濃の人。別号、雪中庵。桜井吏登(さくらいりとう)に師事。江戸俳壇の実力者で、芭蕉への復帰を唱え、東西に吟行し、門人の数三千といわれた。編著「雪おろし」「蓼太句集」など。(デジタル大辞泉)
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さて、兼好さんの登場です。コラム氏は、桜の盛りをこそ愛でたいと、よくよく願っておられるようです。

「花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ見る物かは」を引いて、コラム氏は、いやそうではなく、花は盛りが一番と、「やはり、満開を見逃すのが惜しくて開花の知らせを心待ちにするのは人の情だろう。盛りの桜にひとときでも気鬱(きうつ)な世を忘れたくなる」とおっしゃる。いかがでしょう。ぼくは兼好さんに手を上げますね。満開よりもその数歩前、花なら蕾(つぼみ)、人間だってそうではないですか。人生の花盛りは人それぞれですから、一概には言えませんが、これからという時期がいいようにぼくは思う。
「哀れに情け深し」「男・女の情も、偏に逢ひ見るをば言ふ物かは。逢はで止みにし憂さを思ひ、徒なる契りを託ち、長き夜を一人明かし、遠き雲井を思ひやり、浅茅が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ」と、さも兼好さんは自らの経験に裏打ちされた「男女の仲」の奥行きの深さを語ります。ぼくにも、数少ないとはいえ、かかる経験らしいものはありました。「偏に逢ひ見るをば言ふ物かは」というのは兼好氏。「逢はで止みにし憂さを思ひ」とは、さては兼好さん、思いを寄せる「愛しき人」がいたのですね。「浅茅が宿に昔を偲ぶ」とは、「いよっ、この色男」と言いたくもなりませんか。
花は盛りに、月は隈無(くまな)きをのみ見る物かは。雨に向ひて月を恋ひ、垂れ籠めて春の行方知らぬも、猶、哀れに情け深し。咲きぬべき程の梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書にも、「花見に罷(まか)れけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障る事有りて、罷(まか)らで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣れる事かは。花の散り、月の傾(かたぶ)くを慕ふ習ひは、然る事なれど、殊に頑(かたく)ななる人ぞ、「この枝、かの枝、散りにけり。今は見所無し」などは言うめる。
万(よろづ)の事も、始め終はりこそ、をかしけれ。男・女(おとこ・おんな)の情(なさけ)も、偏(ひとへ)に逢ひ見るをば言ふ物かは。逢はで止みにし憂さを思ひ、徒(あだ)なる契りを託(かこ)ち、長き夜を一人明かし、遠き雲井を思ひやり、浅茅(あさぢ)が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ。
望月の隈無きを、千里(ちさと)の外まで眺めたるよりも、暁近く成りて待ち出でたるが、いと心深う、青みたる様(やう)にて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、打ち時雨たる叢雲(むらぐも)がくれの程、又無く、哀れなり。椎柴(しいしば)・白樫(しらかし)などの、濡れたる様なる葉の上に煌(きら)めきたるこそ、身に沁みて、心有らん友もがなと、都恋しう覚ゆれ。
すべて、月・花をば、然のみ目にて見る物かは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨(ねや)の中(うち)ながらも思へるこそ、いと頼もしう、をかしけれ。(「徒然草 百三十七段)

「すべて、月・花をば、然のみ目にて見る物かは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨(ねや)の中(うち)ながらも思へるこそ、いと頼もしう、をかしけれ」と兼好節は冴えています。わざわざ雑踏を彷徨(さまよ)わなくてもいいではないか。自分の眼で見てからでなければとは、いかにも無粋な、と言いたかったかもしれません。「百聞は一見に如かず」と世間は真らしくいうけれど、「百聞」があってこそ「一見」の価値が生まれるのであって、それがなければ、…。そのように兼好さんは言いたそうです。「花は盛りに、月は隈無(くまな)きをのみ見る物かは。雨に向ひて月を恋ひ、垂れ籠めて春の行方知らぬも、猶、哀れに情け深し」と、事の初めに戻ります。「哀れに情け深し」、これが奥行きですね。
(追伸 なただ今延焼中という、岡山や愛媛さらには宮崎の山火事の鎮火が一瞬でも早く進むことをひたすら祈ります。サクラだ、花見だと浮かれるのもいいけれど、そんな気分の世間にあって、「花粉」と「黄砂」と突風に、僻地(へきち)の住人も泣かされているのです。夜中早朝を問わず、家の外では猫が喧嘩をしている。どこの猫であれ、怪我をされてはたまらないので、「喧嘩両成敗」とばかり、ぼくは飛び起きては蹴散らしに出かけます。これもまた「我が春の風物詩」かいな。本日は零時過ぎにしばらく、また三時ころに、もう一度起こされて、喧嘩の仲裁にと、熟睡も爆睡もできませんでしたから、こんな駄文に、とは言わない)
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