<あのころ>「山びこ学校」刊行 無着成恭氏指導の文集 1951(昭和26)年3月5日、無着成恭編「山びこ学校」が出版され反響を呼んだ。山形県・山元中学校の生徒43人が貧村に生きる家族を克明に記録した「生活つづり方」文集。戦後民主主義教育の典型と評価されベストセラーに。映画にもなったが、地元の恥をさらしたと批判され無着氏は村を去った。(共同通信・2022年03月05日 08時00分)(ヘッダー写真も)
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無着成恭【むちゃくせいきょう】 教育家,僧侶。山形県生れ。山形師範学校,駒沢大学仏教学部卒業。1948年山形県山元村立山元中学校教師となり,生徒の生活記録文を編集した《山びこ学校》を1951年に刊行し,生活綴方の再興と評された。1956年私立明星学園勤務,1970年《続・山びこ学校》を刊行した。1983年千葉県の曹洞宗福泉寺住職。〈新教育〉に基づく社会科学習の非現実性を批判するなど独特な教育評論でも知られ,著書に《無着成恭の詩の授業》(1982年),《無着成恭の昭和教育論》(1989年)などがある。(百科事典マイペディア)











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「山びこ学校」編者で僧侶、無着成恭さん死去…96歳 文集「山びこ学校」の編者で僧侶の無着成恭(むちゃく・せいきょう)さんが21日午前、敗血症性ショックのため千葉県多古町の病院で亡くなった。96歳。山形県出身。葬儀は27日午前11時、多古町一鍬田292の福泉寺で。喪主は長男の成融(せいゆう)さん。/無着さんは戦後まもない1948年、山形県山元村(現・上山市)の山元中学校(廃校)に教員として赴任し、中学生たちに 綴 り方を指導。51年には、綴り方をまとめた文集「山びこ学校」を世に出した。作品は、自分の考えをしっかりと生徒へ書かせる手法をとるという当時としては画期的な教育方法として、戦後の教育界に大きな影響を与えた。/また、ラジオの「全国こども電話相談室」の回答者として長年親しまれた。/教員を引退後は僧侶となり、千葉県や大分県などの寺で住職を務めた。(読売新聞・2023/07/25 00:32)(右写真は無着成恭さん・2020年6月22日撮影)
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この社会の学校教育150年史のなかで、最も評価され、同時に批判されたのは、無着さんの「山びこ学校」ではなかったかと、ぼくは考えます。どんな事柄にも「毀誉褒貶(きよほうへん)」はあるもので、むしろないほうがおかしいとも言えます。それは当然のこととして、それでもなお、「山びこ学校」は教育実践の記録としては秀逸だった、あるいは白眉といってもいいくらいの「仕事」だったと考えています。いうまでもなく、戦後直後の山形県の山元村という寒村で起こりえた、たった一回限りの教師と子どもたちとの「出逢いの記録」でもありました。信じられないことですが、教育が人を育て、育てられた人々が生み出す社会を、今以上により良い方向に導くだけの可能性を持っていたと思われていた、そんな時代に身を挺して生きた教師と子どもたち。発表からすでに75年の時間が流れています。この過ぎ去った時間は、あるいはこの社会を根底から覆して、再生不能にしてしまうのに十分な時間であったかもしれません。まさに「遠い山びこ」というべきでしょう。 (上の写真「当時の山元中学校で教壇に立つ無着成恭さん」朝日新聞・2022/09/21)(https://www.asahi.com/articles/DA3S15423393.html?iref=eve_articlelink01)

常々、教育は教室の中だけで終わるものではないといい続け、それを自らも証明したいと思い続けて、すでに、ぼくは齢・八十を超えました。一人の教師と一人の子どもの出逢い(出会い)は、ある意味では偶然でもあるけれど、それは時には必然に化すということはいくらもあるでしょう。偶然が必然になるとは? 教育は教室で終わらないという意味です。一面では、親子の関係に似ていなくもない。無着さんが教師を始めた当時、心ある教師たちは「生活綴(つづり)方」教育に目覚めつつありました。西に東に、「大正自由教育」の影響を陰に陽に受けながら、困難な時代に直面した学校教育の隙間を狙って、暗い昭和戦前・戦中期に、突然のように花開いたかに見えました。他の強化と異なって、「綴り方」は国定教科書がなかった。教師の裁量工夫に委ねられていたという事情もあったでしょう。もちろん、そこには、それなりに「綴方教育実践の必然性」があったことになります。この国が無謀な戦争に突き進み、亡国の不可避なことを顧みないで英米をはじめとする列強との戦いに明け暮れていた時期、それは「暗い時代」と後に称されますが、学校教育も、その直接の影響と遥かな余燼を避けられないでいたころ、日本の教師たちのいくばくもまた、戦争への加担と軋轢の中で悪戦苦闘を強いられていました。そして、「生活綴方」教師の多くは、やがて「治安維持法」という権力の仕掛けた「罠」、その法網に捉えら、あるいは獄死し、あるいは「教育実践放棄」を余儀なくされたのでした。
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◎ 大正新教育運動(たいしょうしんきょういくうんどう)= 明治末から大正期を通じて展開された教育改革の理論的ならびに実践的な運動。明治中期にヘルバルト派教育理論が定着して,支配的となった注入的,画一的な一斉教授に批判的な立場を共通にもつ。児童の自発性の重視,個性の尊重,生活経験を通じての学習などをうたった諸説が提唱され,実践的に試みられたものもあった。一般に自由主義的とされるこれらの主張は,19世紀以来諸外国で提唱されたものによることが多かったが,当時の教育体制のなかでは,公立学校に広く浸透することは困難で,提唱者の勤務する師範学校付属学校および提唱者が理論の具体化のために創設した私立学校 (たとえば沢柳政太郎の成城小学校,羽仁もと子の自由学園) をおもな実践の場とするにとどまり,かつ児童の編成法や授業の方法など技術改革の域を大きくこえることはなかった。大正末から昭和初めにかけて社会主義的立場からの,より根本的な改革運動も起った。(ブリタニカ国際大百科事典」
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そして敗戦。学校教育の再建・再興もまた、困難を極めた。そんな時期に無着さんは寒村の新米教師として赴任します。その後の三年間の子どもたちとの格闘の記録、それが「やまびこ学校」に結実したのでした。それ故に、この記録文集は教師と生徒の合作だったと言えます。別名「作文教育」とも言われた生活綴方は、子どもたちの独創でもなければ、教師一人の作品でもありません。あくまでも教師と子どもとの合作というべきだし、その「共同(joint)」「協同(cooperation)」こそが教育実践の核となるものでしょう。それ故に、「教える」という教師の仕事が成り立つためには、どうしても子どもたちの「学ぶ」が不可欠になります。そのどちらかが欠けたところ、まっとうな「教育」は成立しないといっても過言ではないと思う。別の表現を使うなら、「教える⇔育つ」という交換作業がないところには「教授(instruction)」はあり得ても、「学ぶ」という子どもの側の意志的行為は抑えられてしまいます。子どもの側の学ぶという「内発するエネルギー・欲求」があって初めて、教師の側の「教える」という作用に意味が与えられるのでしょう。こんなことはわかりきっているのですけれど、実践するとなると、途方もない苦心と時間が求められます。今までに、この駄文収録で、嫌になるほどくり返し駄弁って来たことですから、これ以上、何かを言う必要はないでしょう。

無着成恭とは何者だったか。それを常に問い続けることに、大きな意味があると、ぼくは愚考している。「やまびこ学校」という実践記録は、たった一回、ある時期のある地域の中学校で起こりえた、教師と子どもたち(43人)のかけがえのない出逢いとその持続がもたらしたもので、まさに奇遇であったというほかない記録であり、それ以外ではなかった。「(1対1)✖43」の格闘と共同作業の総合されたもの、それが教室の営み(授業を核とする)の実態ではないでしょうか。たった一回限り、あるいはほんの一瞬の出来事としての創造です。その証拠となるかどうか、あまりにも赤裸々な実践記録を公表したと非難されつつ、無着さんは新たな舞台を求めて東京に出ます。(実際位は、彼は逃げ出したということだったろうか。村を、子どもたちを捨てた、という意味です)もちろん彼、はそこでもまた「(東京における)山びこ学校」を生み出せると考えたはずです。その結果は、無着さんの仕事でしたから、それなりの成果はありましたが、「やまびこ学校」の再来とは似て非なるものだったのは当然だったでしょう。時代も場所も子どもたちも、様変わりしていたのでした。教育環境(学校・教室)が違いすぎていました。その事実は「続・山びこ学校」で証明されています。(ここでも、彼は学校を追われます)
教育の内容や方法は多様でありますから、「これぞ教育!」という決定版はありません。なにを教育とするかも、人それぞれですから、教育という働きを安易に、あるいは流行にかぶれたままで捉えるのも、たしかに「教育」ではありますが、それだけでは賢明な実践とは言えないでしょう。ぼくは極めて単純に「教育は付き合いに尽きる」ということにしてきました。上でも触れたように、親子の結び付きに似たところがあるとも思っている。もちろん、そればかりではありません。まして「個人」の問題である以上に「国民」「日本人」などという、いかがわしいイデオロギー(夾雑物)が混じってくれば、教育そのものは教条主義に毒されてしまいます。無着さんが示した教育実践の唯一無二の達成は、個人の問題を社会との葛藤の中で取り組もうとしたところにあります。その意味では、成績や順位にとらわれすぎている学校教育は、ある点では、「願わしい教育」というものの腐敗、堕落の象徴でもあるでしょう。

無着さんは、教師の第一歩を「ほんものの教育がしたい」と念じて踏み出しました。「ほんもの」とは無着さんにとってはどういうものだったか。それはまた、誰にとっても「ほんもの」であることができたでしょうか。よく人は「本当の教育」といいます。現に自分が行っている教育(授業)が「本当」ではなくて、どこかしらに「本当」はあると考えているのかもしれません。でもそれはどうでしょうか。「自分の鼻は低い(偽物)」けれど、別のところに「もっと高い鼻(本物)」があるんです、と言って、他人に通じますか。無着さんの「山びこ学校」は「ほんもの」であったでしょうし、後に、遠く離れて行われた東京都内の一私立学校の教育・実践もまた、まぎれもなく「ほんもの」だったというべきでしょう。いくつも、一人の人間の中に「ほんもの」があるようでいて、実はたった「一つ」なんですね。「現に、今やっていること」、そこにしか「ほんもの」は顔を出さないでしょう。
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