あなたは言葉を信じていますか

【卓上四季】長田弘さんの問いかけ <今日、あなたは空を見上げましたか。空は遠かったですか、近かったですか。雲はどんなかたちをしていましたか。風はどんな匂いがしましたか。あなたにとって、いい一日とはどんな一日ですか>…▼長田(おさだ)弘さんの散文詩「最初の質問」は全編、こんな問いかけが続く。あわただしい日々を送っていると、ときどき読み返したくなる。そのたび、日常のなかで気づかなかったものごとの多さを知る。空や雲を見上げただろうか。風の匂い? いい一日? 気にも留めていなかった▼長田さんの家を訪ね、お話をうかがったことがある。古今東西の書物を読み、世界中を旅した人である。話題は尽きない。故郷の福島弁が残る穏やかな語りに耳を傾けていると、時間の経過を忘れた▼今年5月で没後10年になる。半世紀に及んだ活動で残した詩はざっと500。生きていくうえで大切にするのはなにか―。だれにでも分かるやさしい言葉を連ねて、問い続けた大きなテーマであった▼耳を疑うようなニュースが国内外にあふれる。どれも大事なトピックだが、振り回されすぎると本質を見失いかねない▼「最初の質問」はこう終わる。<時代は言葉をないがしろにしている―あなたは言葉を信じていますか>。不確かな言葉が満ちているいまだからこそ、確かな言葉を読者の手元へと届けたい。(北海道新聞・2025/04/04)

 「日常(day life)」はまるで底なしの沼のようであります。どんな出来事(自分にとって受け止めかねる物であろうが)が起ころうが、よほどでない限り、人々は「明日」をきっと迎えています。空襲で家を焼かれ、地震ですべてを破壊され尽くしても、「お早う」「お休み」、あるいは「いい天気ですね」「今日は寒いな」と、何でもない言葉が口から出て、ぼくたちが「日常」にとどまっていることを明かしてくれます。日常は非日常を含んでいる。

 もう何十年も前になります。学生のひとりから提出されたレポートを読んでいて、母親を亡くしたばかりだったその人は激しく世の人々を呪い、世の出来事を呪っていた、なぜ、誰も関心を示さないのだと、まさしく呪詛していたのにぼくは不意を打たれた。「どうして誰もが立ち止まらないのか。母が亡くなったというのに、誰もかれも、何もかもが変わらないじゃないか。俺は信じない、こんな世の中を」というようなことが書かれていた。

 何が起ろうが、誰も彼もが知らぬふりをしている、こんな社会に「俺」は我慢できなということだったろう。もっと嘆けよ、もっと悲しまないかという不信の念の吐露でもあったと思います。もう何十年も過ぎた昔の事だから、当人は、今はどうしているでしょうか。まだ「世間」を呪い続けているでしょうか。考えるまでもなく、「日常」がデンと構えているからこそ、「非日常」を生き延びられるともいえます。ぼくたちは「日常と非日常」の境を行き来している、それが生活する、生きているということの実際ではないでしょうか。「去る者、日々に疎(うと)し(Out of sight, out of mind.)」という。「去る者は日に以て疎し、生くる者は日に以て親し」と、中国の6世紀前半に編まれた詩文集「文選(もんぜん)」の中の言葉だとされます。「去る者」とは会わなくなった人、あるいは亡くなった人を指す。時には「人」ばかりを言うのではないこともある。

 今でもこの通りであるかどうか、ぼくには怪しいのですが、押しなべて、ぼくたちは他者への関心を濃厚に持つような、そんな時代・社会に生きているとは思えないのはどうしてでしょうか。どんなことにせよ、いったん忘れるのでなければ、思い出すことはできないのも事実で、そのような曖昧な意識をもって、ぼくたちは生きているのです。長田さんが亡くなられて十年か、もうそんなに経つのかという思いと、まだ十年なのかという、過ぎ去らない時を感じたりします。長田さんについては何度も触れましたから、ここでは余計なことは述べません。

 「あなたにとって、いい一日とはどんな一日ですか」と「時代は言葉をないがしろにしている―あなたは言葉を信じていますか」という二つの言葉を、まるで不思議なものを見るように、ぼくは反芻してみます。「いい一日」と思える日なんか、ただの一度だってないと言えるし、なんとか事なきを得て床につけたら、それが「ぼくにとっていい一日」だと言えなくもありません。つまりは当たり前に陽光に照らされたり、風雨に晒(さら)されたりしたとして、一日の終わりには「お休み」という挨拶を誰かに、あるいは不特定の誰かにかけることができれば、それは「いい一日」だったと思いたいし、思う、ぼくは。

 「あなたにとって、いい一日とはどんな一日ですか」と「時代は言葉をないがしろにしている―あなたは言葉を信じていますか」、この二つの問いはいつだって、誰に対しても投げ出されているのです。もちろん、こと改まって、「いい一日」とはどうだこうだとは言わないでしょうし、「言葉を信じていますか」と問われることもめったにないでしょう。「嘘か真か」ではない、どんな言葉であっても「それを信じるか信じないか」が問われている。いやな時代だなあと、ぼくは慄然とします。しかし、否応なしに、日々の暮らしの中で、ぼくたちはこの二つの問いに対する「返事」を自分流に出しているに違いないのです。つまり、「自問自答」です。ぼくはいつも、物事を考えるとは「自問自答」する姿勢にあるといっています。「いい一日」とは、きわめて個人的な感覚・感情に左右されましょう。さらに言うなら「言葉を信じる」ということも同じこと、誰の言葉、いつ言われた言葉か、それが問題であるし、目の前で言われた言葉だけでもないでしょう。書かれた言葉が「信じられる言葉」として自分に迫ってくることもあります。

 いい・悪い、信じられる・信じられないというのは、きわめてあいまいであり、人それぞれの感受性やその言葉に接した場の情景・雰囲気にも左右されるでしょう。「不確かな言葉が満ちているいまだからこそ、確かな言葉を読者の手元へと届けたい。」と、決め科白を吐くのはコラム氏です。確かに、言葉にならない、言葉以前の語彙の集積のような単語軍(群)が飛び交っています。このところ、Google で検索すると、ほとんどは「AIによる概要」と断りが付いています。その「断り」があるだけまともであって、人が口にする言葉であっても、まったく「AI」によるものか、「辞書」によるものかが判然としない場合がほとんどかもしれません。「辞書」も、一種のAIであることは疑えないことだし、それがよくないのだということにはならない。

 だからこそ、いたずらに「あなたは言葉が信じられますか」と言わない方がいいのでしょう。極端に言うなら、目の前の人間が口にした言葉だけと限定したくなります。それだって、怪しいと思えば、いくらでも疑える。つまり「言葉」に対する姿勢で大事なのは「疑う」ということ、疑問に思うことです。そこから、すべてが始まるといっていいでしょう。逆に言うと、疑わなければ、何事も始まらない(自分の問題にはならない)のです。「我思う、ゆえに我あり」は、フランスの哲学者ルネ・デカルトが著書『方法序説』で記した命題です。ラテン語では「Cogito, ergo sum」といいます」(AIによる概要)(デカルトの原文は「Je pense,donc je suis」です。「私は考える、ゆえに私は 存在する(と証明できるのだ)」)

 深く信じるには、それと同じ程度に深く疑わなければならないと思う。もっとも強く信じられるものをこそ、ぼくたちは激しく疑うことができるからです。

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

見よ! いずこも「議会は安眠室」だ

【国原譜】2507。前回の奈良市議選で土田敏朗氏が獲得した票数である。3月28日の市議会本会議で議案採決の際、土田氏の席の賛否ボタンを隣席の北良晃氏が押した。土田氏が居眠りしていたからだという。▼奈良市議会には37人の議員がおり、いずれも有権者の一票を託されて当選した。その重みが分かっていれば、隣席のボタンに手は伸びないはずだ。「重大なこととは思わなかった」という北氏の言葉も耳を疑う。▼市議会は採決時に居眠りしていた土田氏も問題とし、両氏に対する懲罰特別委員会を設置した。提案理由の説明で述べられた通り、北氏の行為は民主主義の根幹を揺るがす。▼両氏とも議長経験のあるベテランで、長年の議員生活で有権者の負託に対する意識が緩んでいたとしか思えない。▼1日には就任半年を迎えた石破茂首相の記者会見があった。商品券配布について「国民の感覚からかけ離れていた」とし、「自分を見失っていたところがあるかもしれない」と分析した。▼有権者と乖離(かいり)して政治は成り立たない。奈良市の問題と首相会見が重なって見えた。(増)(奈良新聞・2025/04/03)

(ヘッダー写真「奈良市議会の採決で隣席の卓上にある投票ボタンを押した直後の北良晃市議(右)と目を閉じている土田敏朗市議(左)=2025年3月28日午後6時4分、奈良市、富岡万葉撮影」(朝日新聞・2025年3月30日)(https://www.asahi.com/articles/AST3Y457QT3YPOMB00DM.html)                                          「31日の本会議で懲罰動議があり、可決された。報道陣の取材に対し、土田氏は『疲れていた。弁明の余地がない』、北氏は『思慮が足らず軽率だった』と話した」(產經新聞・2025/03/31)

 奈良市議、議案採決で隣席の投票ボタン押す 数時間後に賛否数を修正 奈良市議会3月定例会で28日にあった本会議採決で、北良晃市議(81)=自民党・無所属の会=が隣席で同じ会派の土田敏朗市議(79)の投票ボタンを代わりに押し、数時間後に投票結果が修正された。市議会は懲罰動議の提出を視野に対応を協議している。/この日は複数の議案が電子採決された。最初にあった特別会計など5議案の一括投票で、北市議が自分の投票ボタンを押した後に目を閉じている土田市議を振り返り、代わりにボタンに手を伸ばした。土田市議には市職員が駆け寄り、その後の採決が続けられた。市議会は数時間後に賛否数を修正し、議案の可決は有効とした。/北市議は朝日新聞の取材に対して、「寝ていたが、同じ会派なので賛否はわかっていた。(本人に押させる対応を)するべきだった」と話した。(朝日新聞・同上)

・あをによし奈良の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり(「万葉集・巻3-328・小野朝臣老)
・あをによし奈良には阿修羅麦の秋 (高橋紀子)

+++++++++++

 2057票を獲得、悠々の当選でしたね。次点者の得票は2169票(令和3年7月11日実施)。まあ、危なげなく当選したともいえますから、居眠り議員さんは有権者の手厚い支持を受けていたといえる。ぼくは、これをもって「けしからん」「議会をなんと心得ている」と叱責することはしないし、「よくやった」と褒めてあげたいとも思わない。「まあ、こんなもんですよ」というほかない。同じ会派で、隣同士、言わずと知れた仲だから「代返」、否、「代筆」、正確には「代押」をしたまで。「重大なこととは思わなかった」というのは「代押」(同僚)議員で、正直というべきか。バカというべきか。どなたか、議場で居眠りをするとは「民主主義の根幹を揺るがす」と大上段に振りかざしています。とっくに「根幹は揺らいでいる」のに、さ、とぼくは議会当局に言いたいですな。あえて言うなら、「馴れ合い民主主義」で、それで悪いわけもない。もちろん、いいわけでもない。

 なにも、ことは奈良市議会だけではない。あらゆる自治体の「議場は安眠室」、あるいは「仮眠室」、縁起でもないけれど、時には「霊安室」と化す。ぼくは自らの経験を思い起こしています。長い就学期間。一貫して真面目ではなく、授業には集中などできなかった。せめて「睡眠」を邪魔されたくはないと思っていました。当時の授業時間は一時間もなかったろう。それでも「爆睡」「熟睡」は日常茶飯事でした。「眠くならない授業をしてくれ」といったところで、無理というもの。ならば、せめて「安眠妨害だけはしてくださるな」と願うばかり。大学に入ったら授業時間は90分。まるで殺人行為、あるいは拷問攻めに思われるほど、えげつない授業が多かった。普通にやれば面白くなるものを、例としては「歴史」など、わざわざ努力してつまらないものにしている、教師の知性や能力といもののお里が知れましたね。三十人や五十人クラスばかりではない。なかには数百名という大教室もあった。教室中に「鼾(いびき)」が轟いていたものでした。ひどい授業とは何か、安眠を妨げる授業(=人権侵害)である、とはぼくの「授業論」の第一歩でしたよ。

 立場交替で、教師の役割を務めた時から、ぼくは一つの「哲学」を持つようになりました。聴き手が「ぐっすり眠れるのが、いい授業なんだ」というもの。「いい授業は眠くならない」というのは正しくない。自らが興味を持たなければ、何事もつまらないという話でしょう。さすれば、並みいる議員さんたちも「議事内容」には興味も関心もないというわけです。これは議会や教室だけに限りません。これはどこかで触れたこと。

 もう何十年も前、都内上野文化会館だったかに、スペイン出身の(メゾソプラノ歌手)テレサ・ベルガンサ氏(右下写真)の「リサイタル」を聴きに行きました。隣の席に座っていたお父さんが演奏会を通して「爆睡」したまま、迷惑に思ったが、それでも彼女の音楽に耳を傾けていた。終わったところで、お父さんの友人が「せっかくの演奏、高い入場料を払って眠っていては仕方なかろう」と詰(なじ)ったら、ご当人はさも意外というように「あんな美人の美声を聴きながら、ぐっすり眠れるなんて、至福の時だったよ」と宣った。ぼくは感心したね。当日の演奏はあまりよくなかったので、ベルガンサさんに、その旨の伝言を関係者に頼んだ、「もっとまじめに歌ってください」とね。後日、返信が来ました。彼女いわく、「最高だったわ」と。一気に彼女への「熱」は冷めました。

 「自分が今していることに関心(意識)を失えば」、運転中だって眠るのだ、よくそんな怖いことができるものと、傍(はた)のものはひやひやするが、当人は、どこ吹く風。外から、誰かが「興味・関心」を植え付けることは不可能です。わが国会の醜態を見てほしいともいわない。「そんなところだから」と諦めているのではない。そもそも、議会や議員という場や地位を舐(な)めている輩が「議員」になりたがるし、そんな輩を議員にしたがる、それがこの国や社会の「民主主義の現実」です。「民主主義の根幹を揺るがす」などと大仰・大袈裟なことを言いなさんな。最初の段階(選挙)から自壊か瓦解か。端(はな)から「揺るがされているんですよ」。みんなそれを知っているくせに、とぼくは減らず口を叩くね。投票率が3割や4割程度で、選挙されるんですから、居眠り議員を生んでいるのは、議会ではなく、選挙民ですね。

 ごく当たり前の感覚や感情を持っている(備えている)人が政治家であってほしいと願うだけ。偉くある必要はないし、偉そうに見せびらかす人でなくていい、平凡で、他者に対するいささかの尊敬心があればいい。そんな人が、驚くほど少ないとすれば、この社会はかなり酷いということになるでしょう。他人の悲しみや苦しみがわかる人間が、どうしてこんなに少ないのでしょうか。過度に競争主義を煽り、一番病に罹患する人間を造って来た学校教育の「取り返せない失敗」と言えるかもしれない。

石破茂首相は1日の記者会見で、自民党衆院1期生への商品券配布を巡り、「国民の感覚からかけ離れたということは率直に認めなければならない。自分を見失っていたところがあるかもしれない」と陳謝した。
首相は商品券配布は私費によるものだと重ねて説明し、「議員本人や家族に慰労したい、ねぎらいたいという思いで届けたが、長年『人付き合いが悪い』『会食が足りない』『ケチだ』とずっといわれてきており、それを気にする部分が相当にあったのだと思っている」と述べた。「各方面から『石破らしさを忘れるんじゃない』とお叱りを受けた」とした上で、「深く反省をし、国民の信頼を得られるよう、誠心誠意取り組んでいく」と強調した。(產經新聞・2025/04/01)

 一年生議員に「商品券」を配っていたと指摘され、責任を追及された現首相。これは「私費(ポケットマネー)」からであって、と言い逃れ、「官房機密費」で、慣習に従ったまでとは口が裂けても言えぬから、すべてが弁解にしかならないのは醜悪であり醜態ですね。なに、この男が、こんな「公選法違反」行為を自らの判断でできるはずもない。麗しき伝統に則(のっと)ったまで、とは言えない。だから言い訳そのものが見苦しいし、聞き苦しいんですね。総理の資格・資質は十分に持っているよ。「嘘つきは首相の資格」です。

 「『自分を見失っていた』石破首相が商品券配布を陳謝 新年度予算成立受け記者会見」(產經新聞・2025/04/01)酷(ひど)さが凄いですよ。「正直の頭(こうべ)に神宿る」といいますね。この石破某も「正直者」と言っていいでしょうか。うすみっともない、とぼくは悲しくもなる。この程度(自分を見失っている者)の人間が総理大臣だという。まるで「夢遊病」にかかっていて、まともな感覚で政治ができる気遣いはありません。「居眠り運転」は何処にでも蔓延・横行しているのですから、危なくて、おちおち散歩することもできませんな。

 最近の歴代首相を見れば、この程度の仁でしか、総理にはならないのが決まりみたいなもの。どうです、議場で居眠りする議員がいるから、「民主主義の根幹が揺るがされる」のではありませんね。自覚も反省もない、飛び切りの「選良ならぬ選悪」しか議員にならないという、そのところに、すでに「根幹は危殆に瀕している」と、ぼくは断言しておきます。さて、アカンのは「選ばれた議員」だけですか、「選んだ選挙民」もアカン程度はちょぼちょぼ。それがこの社会の「民主主義のレヴェル」だからと言っても、これ以上は悪くならなないでしょう。もう十分すぎるほど「悪い状態」にありますから。「いや、君は甘いね。破滅まで行くよ」という「天の声、人の語」が聞こえます。

 左上写真は兵庫県知事の某。新入職員に訓示を垂れたそうです。「風通しのいい職場づくりに向けて、皆さんの県庁生活を支えていきたい」「みなさんと一緒に働けるのを楽しみにしている」と恐ろしいことをおっしゃっている、まるで「ゾンビ‐クラスター(zombie cluster)」(「ボット‐ネット(bot net)」)の如し。早速「退職代行」に奔ったのは、県庁の新入職員だったかも。

+++

 菜の花や月は東に日は西に(蕪村)安永3(1774)年春、六甲は摩耶山で詠んだ句。ぼくの大好きな一句です。雄大でしょ。地球大の景観・景色を一瞬のうちに俯瞰しています。ぼくにとっても、播州はとても懐かしい歴史を持った土地でしたね。

=======================

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII 

「ケイガニタヘズ」「雨ニモマケズ」

【有明抄】ほんとうの理由は… とても喜ばしいことを社交辞令で「慶賀に堪えない」という。大正7(1918)年8月、神戸の商社・鈴木商店が焼き討ちされた。直後、会社に電報が届いた。「ケイガニタヘズ」。送り主は同商店のロンドン支店長◆日本屈指の売り上げを誇りながら、前近代的な経営を続ける組織の変革を求めるものだった。当時、富山から発した米騒動はまたたく間に全国へ飛び火。米価高騰は鈴木商店の買い占めが原因という根も葉もない風評で民衆が暴徒化したのを、いいきっかけとみたのだろう◆現下のコメ高騰も、農家や小規模の集荷業者が「値上がりを見越して抱え込んでいる」とされてきたが、どうやら違うらしい。農林水産省の在庫調査では、生産者から直接買い付ける小規模業者の増加など競争激化が原因だと見立てが変わった◆ではいったい、どこで流通の目詰まりが起きているのか。もともとコメ供給に余裕がなかったのではないか。値上がりが続くほんとうの理由が知りたい。こんな頼りない見立てで「備蓄米放出で価格は安定する」との言葉を信じていいだろうか。だれか組織に直言してほしいものである◆〈米びつの底の見えすく夜寒かな〉。昭和初めの音曲師、柳家小半治のわびしい一句が身にしみる。「慶賀に堪えず」と庶民が実感できる価格に落ち着くのは、いつになることやら。(桑)(佐賀新聞・2025/0/4/03)

 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない(賢治)

 数日前から近在の農家さんは田んぼの「代掻き」を始めています。間もなく「田植え」が始まるのかと思うと、わくわくする、という農家さんは多いかもしれません。想定以上の高い値段で「お米」が売れること請け合いだと確信しているからでしょうか。もはや死語になったかと思っていた「青田買い」はしぶとく生き残っていたと、ぼくは実に嫌な気分に襲われています。最近のコメ高騰の主因はいろいろに指摘されています。でも、誰が悪いというのではなく、同じ品物が「高く売れるなら」、だれだってそれを期待し、その方向で「コメ」の横流しをするのは「道理」(と言えば、語弊があります)、正確には「道理に反する」というべきです。つまりは「反道理」と言いなおします、なんですよ。従来、少なくとも一千万トンは収穫可能な国全体の稲作収量を、農林省(農水省)は、名代の悪政だった「減反政策」を長年にわたり維持し続け、米を作らない農家には報奨金を、指導に背(そむ)いて「コメ生産」を図った農家には罰則(罰金?)を課してきた、その結果、現在の生産高は700万トン(内外)という。その悪政の帰結が、今回の質の悪い「コメ騒動」を生んだというのが正しいでしょう。

 コメ消費量の減少が進んだから、減反は政治判断としては「正しい」と言い募るが、今日の急騰米価をみれば、理由の如何を問わず「ノー政」の責任は免れないというべきです。その「青田買い」です。この語本来の意味を取り戻した感がありますね。「ケイガニタヘズ」と言ってみたくなります。売り手市場と買い手市場。この引力・押力がバランスを失すれば、難問が顕現するのでしょう。

+++

あおた‐がい〔あをたがひ〕【青田買い】1 稲の収穫前に、その田の収穫量を見越して先買いすること。→青田売買企業がが人材確保のため、卒業予定の学生の採用を早くから内定すること。卒業前の学生を実る前の稲に、能力を収穫量にたとえた語。(デジタル大辞泉)

(*昨夕のニュースで「退社代行」会社が始動したという。就職2日目で、「退職したい」という新採用者の「退社代行」を引き受けた。昨日段階で、ある一社では「8名」の依頼があったと話している。この国の「前途多難」がこんなところにも如実に表れていませんか。「こんなはずではなかった」と、まるで意に反した、創外の「雨降り」に遭遇したような気分での仕事(会社)選びです)

あおた‐がい(あをたがひ)【青田買】〘 名詞 〙水稲の成熟前に、その田の収穫量を見越して先買いすること。転じて、学校の卒業見込みがまだ立たないうちに、会社、事務所などが、卒業後の採用を決めること。青田刈り。⇔青田売り。(精選版日本国語大辞典)

➂青田買い(あおたがい)企業が卒業前の学生を採用すること。農家が現金欲しさに収穫期前の水田作物を先物売りする「青田売り」の転用として 1960年代から使われるようになり,労働力の逼迫化した時代には「早苗買い」「籾買い」のことばも生まれた。「青田買い」を防ぐ就職協定は第2次世界大戦前からあり,戦後も 1952年,1972年などに締結されたが協定破りが続出し,有名無実化した。(ブリタニカ国際大百科事典)

++++

 とにかく、昨今の「高騰米価」には各方面の算段が合致したのか、利害や打算が互いに背理・背反したのか、いずれにしても消費者ばかりが「泣きを見る」事態が今なお続いています「出し惜しみ」に「売り惜しみ」、そして挙句の果ての高騰ぶりに、否応なくの「買い惜しみ」。かかる現況に、農業政策・政治に至っては「無い知恵は絞れない」という一点張り。儲けに奔走することが、農業だと言わぬばかりの地に堕ちた職業倫理の横行でしょうか。誰が悪いといっているのではありません。大なり小なりみんなが悪い。もちろん正しい営農に励む農家も多くいる、仲買にも正義を貫く業者はいる。官僚にも適切な農政のために知恵を絞り身体を張る能吏がいることを疑わない。それでも、少しばかりの「貪官汚吏(どんかんおり)」や「衆愚政治家」の存在は、たちまちのうちに国民の生活を危機にさらすのです。

 生産能力をいたずらに削るのは悪政の常道(品不足を生み、高値を維持して、値段を吊り上げる、恥知らずの愚策そのものです。世界的に食糧不足が蔓延している今日、収穫量の幾許かを支援に回すことはいくらもできるはず。誰にもわかる、公明正大な「農業政策」を取り戻してほしいし、どさくさに紛れて、姑息にも米価高騰の一翼を担うような「悪徳」に染まる人間どもは、法テラス、つまりは法に照らして処罰するべし。

 現状を放置するばかりの「政治」を排除するために何が為されるべきか。可能な限りで、「農政不在」の真因を探り、その責任を果たさない連中はだれだれであるか、早急にステークホルダーを排除した「第三者委員会」を設置し、適切妥当な報告を求めるべきではないか。「農政審(ノーセーシン)」は解体・廃止すべし。「味噌汁にねずみ」だとか、黙っていると、何を食わされるか、「一杯食わされた」では済まないよ。

……われらはいっしょにこれから何を論ずるか……

おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である(宮沢賢治「農民芸術概論綱要」
(校本宮澤賢治全集 第十三巻(上)覚書・手帳 本文篇」筑摩書房1997)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

違法を看過、道義頽廃は不可避です

 昨夜来の雨が一層激しくなってきました。ただ今午前6時です。本日は3時過ぎに起こされ、猫の世話。雨が降っているので、外に飛び出すのを迷いつつ、用を足しに出る子、家のトイレ(猫専用)を使う子と、それぞれの判断で分かれるのが面白い。自由に出入りする環境にいるので、他の多くの飼い猫とは異なって、自分の好き嫌いに従うようすが伺えます。いわゆる「しつけ」に類することは一切しない。だから結構ないたずらもする。障子や襖を破るなどは困りものだが、まあ張り替えれば済むことと、意外に鷹揚になってきている自分に驚き、赤面するほど。今一つ、新入りの「外猫」が食事を摂りに来るのだが、これがとても乱暴者で、手を焼いていますね。飛び切りのというのかどうか、喧嘩早く、家の子たちを蹴散らす勢いがあるのだ。気長に付き合えるかどうか。もう一ついる「外猫」とも喧嘩をする。なかなかに難しい場面が続くようです。

+++++++++++++++

 本日のコラム「卓上四季」氏は異なことを書いておられます。「いつも注目を集め、多くの人が憧れる人気の仕事はなにか。まず思い浮かぶひとつが放送局のアナウンサーだろう」という。どこの国(社会)の話ですかと目や耳を疑ってしまいます。あるいはおかしいのはぼくの方で、この時代では当たり前の感覚だとコラム氏は語っているのでしょうか。「気が遠くなるほどの難関を越え、夢を実現できる人は毎年ほんのひと握りだ」ともいわれる。そうでしょうか。満更事情を知らないわけではありませんが、「気の遠くなるほどの難関」とは何を指しているのか、ぼくには思いつきません。「アナウンサー」というけれど、男か女か、それも問われるべきだし、何処の社会にも通じる「アナウンサー」観があるとも思われません。

 コラム氏、さては「女子アナ」がお好みなのか。第一に「女子アナ」呼ばわりはいただけないですな。(問題が発覚したのが今だという意味は、これまでは等閑視、当然視されていた「性加害」ということだったとしたら、まるでそれは「イニシエーション(入会式)」のようで、誰もは一度は潜るべき「試練」だったといことでしょうか。是非とも経験者は語ってほしい)

 「彼女もきっとそうだったに違いない。努力を重ね、胸いっぱいの夢とともにフジテレビへ」と、何処の社会の「フジテレビ」のことを言っているのか。良識や見識を疑います。もし「お台場」とにある、例の「フジテレビ」のことを指すなら、それはまったくの間違いでしょう。この手の醜聞は、ぼくのような世捨て人のところにまで届いていましたよ、何年も前から。聞くところによれば「コネ入社」が蔓延、セクハラも蔓延。情実入社は五万と数えられる会社だという評判は誰もが知っています。それをして、第三者委員会オフ酷暑は「企業風土」と断じています。凄いテレビ局があったもの、国家(政府)公認ですからね。「性被害を受けた」方も、当然のこととして、そのような危ない、ヤバい「企業」だと知っておられたんじゃないですか。「まさか、これほどひどいとは?」ということだったでしょうか。 

 ぼくは、このテレビ会社のある番組が、勤め先の職場(大学学部)に対して起こした問題で、当時の会社幹部に来てもらって、事情を聴き、二度とこんな不真面目なことをしてもらっては困ると強く叱責したことがあります。(この件についてはどこかで書きました)要するに、入学試験を舞台にあるタレントが受験生になって、その受験ぶりを番組で流すということでした。今も活躍しているタレントOさん、京都出身。

 来てもらった会社幹部は、はっきり言えば「チャラい」のが三人。いずれも大学出でしたが、それが今回の事案に関わった幹部たちと同窓のW大学出身だというから、腐りきった大学から、腐りきった企業に入社はあり得ることだと、嫌な気分になったことを覚えています。ぼくが担当していた「ゼミ」の卒業生で、何人かはマスコミ(テレビ界)に就職しましたが、特に相談を受けたわけではないので、ぼくは関知しなかった。中には相談を受けて、「それは辞めた方がいいと思う」「言わずとも、理由は分かるでしょ」と言っただけでした。「楽しくなければテレビじゃない」と、この会社を私物化していたかと思われる人物は、ぼくが卒業した学部の何年か前の先輩だと、ある時期に教えられて、またしても嫌な気がしたものでした。後年、ぼくはこの人物と何度かすれ違いましたが、口を利く気にもならなかったし、向こうも「この野郎」という感情があったかもしれません。

 「卓上四季」氏は、あるいは冗談を言われたのでしょうか。「多くが憧れる人気の仕事」がアナウンサーだというのは「嘘」だと、おそらく事情を知っていて書かれたのだったら、ある種の「老婆心」「他山の石」だったかもしれない、女性アナウンサーは「軽薄な」とは言わないが、この件の会社における女性アナウンサーの扱われ方はどうでしょう。まるで「置き屋」か「お茶屋」の「品物(玉)」並みの扱いではなかったか。この問題が週刊誌で報じられた際、ぼくは「女衒(ぜげん)」という言葉を使って、テレビ局男性職員を言い当てようとしました。その通りだったではないか。書くほどに反吐が出てきます。

 「公共性の高い放送事業者として適格か。疑わざるを得ない」と真っ当染みたことを書かれている。それはその通りですが、当の「道新」だって、他人のことを言えた義理ですかい、と茶化したくなる。警察とぐるになって、「治安を維持」しようとしたことはなかったか。つまり、この社会のマスメディアは、大なり小なり、「脛に傷もつ身」だということでしょう。この社会が「悪徳の栄え」を待望するような頽廃の極致を目指してしまったのも、「第四の権力」と自恃の気を持っていたと思われたメディアが、実は第四の(権力の端っこの席に座る)、第一の権力の「提灯持ち」に成り下がっていたことと無関係ではないでしょう。ぼくは、このテレビ局の放送免許を剥奪すべきだと強く思っている。限りなく視聴者を愚弄する番組を作るしか能のない企業、女性差別や性犯罪に等しい行為を見逃すような会社は、即刻に市場からは退場すべきです。(新聞は、消費税に関して「著作物再販制度維持」のためとか語らって、権力に阿り、特権を与えられてきた、由々しいまでの「権力との馴れ合い」を反省すべきです)

【卓上四季】奪われた夢 いつも注目を集め、多くの人が憧れる人気の仕事はなにか。まず思い浮かぶひとつが放送局のアナウンサーだろう。どんな場面でも正確かつ冷静に伝え、親しみやすさを兼ね備えている。気が遠くなるほどの難関を越え、夢を実現できる人は毎年ほんのひと握りだ▼彼女もきっとそうだったに違いない。努力を重ね、胸いっぱいの夢とともにフジテレビへ。職業人としても人間としても、未来へ向かって大きく伸びようとしていた。その矢先、希望は打ち砕かれる▼だれもが知る大物タレントから<業務の延長線上>で性暴力を受けた。なのに会社は救済に動かず、むしろ加害者の側に立つような対応を続ける。被害女性の痛みはどれほどか。第三者委員会が明らかにした調査結果は読むのがつらくなる▼組織全体の根腐れも露呈した。さまざまなハラスメントが横行し、被害の訴えには向き合わない。発端となった今回の事案は氷山の一角だ。公共性の高い放送事業者として適格か。疑わざるを得ない▼<私が受けた被害は一生消えることはなく失ったものが戻ってくることはありません>。女性のコメントはさらに続く。こうしたことが<社会全体から無くなることを心から望みます>▼フジは重い十字架を背負った。同時にあらゆる組織が、彼女の痛切な願いを受け止めなければならない。(北海道新聞・2025/04/02)

 「性加害者タレント」を守る会があるそうです。ファンはありがたいというべきですか。「贔屓の引き倒し」を地で行っている風がありますな。こうなれば、一種のカルトめいてきます。いま世界同時流行の「陰謀論(conspiracy theories)」ですか。奇怪というべきか、奇特というべきか。例のジャニーズ一族の「性家族」問題が今なお続行中ということです。タレントの好き嫌いはあるでしょうが、「性加害」だと、ある組織から認定された以上は、その事実は認めるべきではないか。本来は「刑事事件」として訴えられるべき事案だったと思う。そうでなければ、「性加害者」と特定されたタレントは「名誉棄損」で、反対に裁判を起こすべきです。この嫌な問題を繰り返して扱いたくありません。これを限りに、この問題には再び触れないつもり。触れたくなんかないのです。だからこそ、当事者は、やるべきことをしてほしいと希望を持つ。企業は組織ぐるみで「常習的性加害者」をいろいろな面で擁護し続けてきたという意味では、極めて「反社会的行為」だったと認めるべき。改革も再生もあり得ない、何よりも解散を、とぼくは願いつつ確信しています。

 最後に、今からでも、酷薄非情と思われるかもしれませんが、性暴力(性被害)を受けた被害者(複数人いるとされます)は「告訴」して裁判を起こすことが大事でしょう。(つい最近ではI.S.さんの「民事裁判」事例があります)今のままなら、「泣き寝入り」です。また腐ったとはいえテレビ会社ですし、その会社が、有力かつ有害タレントの行為により「莫大な損害を与えられた」と判断するなら、当のタレントに対して「損害賠償」を起こすべきではないですか。それをしない、できないなら、企業幹部連は「背任」にあたるでしょうから、株主は会社を相手にして裁判に訴えるべきです。この社会や国が「法治の国」「法治の社会」であるなら、それを避けるべきではないでしょう。「法の正義」が貫かれない限り、「道義(道徳の正義)」は地に堕ちるばかりです。

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

明白な放送法違反、免許取り消しを

 第三者委員会の報告書をつぶさに読んだわけではないが、おおよその内容は理解したし、同委員会の記者会見も観たうえで、この放送会社は、すべての点で放送法等の趣旨や目的に不適合であり、これを看過して、存続を図るなどもってのほかであると思います。企業ぐるみというべき企業体質は、この先、なまなかな改革では再生できないほどの腐敗に至っているというべきです。一企業を数十年にわたって壟断し続けてきたことは、それを許す企業体質が出来上がっていたということの証明であり、企業の私物化の極致にあったというほかないでしょう。企業そのものの市場からの断固たる退場を希(こいねが)うものです。

 企業そのものに人権尊重の精神が著しく欠けており、多くの点で社会に対する正常な意識は麻痺、もはや本体は壊死寸前であるとみる。奇貨居くべし、第三者委員会の報告書(判断)を貴重な指針・材料として、総務省は「免許取り消し」を決定すべきです。(あろうことか、総務省自体から、この会社に何名もの天下り官僚がいたこと自体、何をかいわんや。李下に冠を正すなと言っても始まらない。同省は、関係者の処分を断行すべきだろう)(腐敗の要因には事欠かない見本の企業だといいたいね)

 「正義なきものは去れ」「去らずば、天に代わって成敗してくれる」という仮面の騎士が現れるだろうか。これは偶発事件ではなく、一企業と雖も、愚か者が寄り集まれば、巻き起こる頽廃や堕落は防げないという見本を歴史は示したのです。加えて、腐臭が漂う「ゾンビ企業」に多くの広告費を投入していた各社もまた、ことの始末をつけるべきではないか。寄ってたかって、この社会の企業や官僚・政治(トリオ)による恥辱の徒花が、一つの企業とはいえ、その任に堪えずに潰える時を迎えた、そのあからさまな一局面をぼくたちは関心をもって凝視しようではないか。(蛇足 性暴力の加害者が被害者に「和解金」も支払いを申し出たと報じられた際、その額は9000万とされた。実際は100万だったと報告書は示した、その真相は分からない。その最初の週刊誌報道の段階で、この事件にかかわる金銭のすべてはテレビ局が負担しているはずと、ぼくは推断していたが、その通りだったようです)(テレビ局は「置き屋」「お茶屋」でしたか、今どきも)

 「企業の体なしてない」 第三者委報告書に業界衝撃 元タレント中居正広氏の女性に対する「性暴力」を認定し、フジテレビの人権意識の低さを糾弾した3月31日公表の第三者委員会の調査報告書は、フジ社内からも「企業の体をなしていない」と声が上がるほど放送界に衝撃を与えた。企業CMの再開だけでなく、事態の沈静化も見通せない。
 「性暴力に対して無理解」「ハラスメントに寛容な体質」―。調査報告書の数々の指摘に、フジ幹部の一人は「厳しい内容は予想していたが…ここまでとは」と驚きを隠さない。取締役相談役だった日枝久氏らの退任を含む数日前の刷新人事発表を受け、CMの再開も期待していたが「スポンサーが戻るどころではない。もはや企業の体をなしていない」と自嘲気味に話した。
 別の幹部は「普通の会社はこんなにハラスメントがまん延することはない」とあきれつつも「これで(再出発の)第一歩は踏み出せるのではないか。今後はスポンサー行脚をし、戻ってきてもらう努力をしなければ」と自分に言い聞かせた。(共同通信・2025/04/01)
 「必要な対応検討」と総務相 フジ第三者委報告書で 元タレント中居正広氏と女性とのトラブルを「性暴力」などと認定したフジテレビの第三者委員会の報告書に関し、放送事業を所管する村上誠一郎総務相は1日の閣議後記者会見で「報告内容の確認を進め、必要な対応を速やかに検討したい」と語った。
 第三者委の報告書では「(フジテレビの)人権意識の欠如や内部統制の不備など複数の指摘がなされているものと承知している」とし、400ページ近くある内容の確認を急ぐとした。
 総務省はこの問題を受け、フジテレビに対して視聴者やスポンサーの信頼の回復に向けた「適切な対応」を求めていた。(共同通信・2025/04/01)
放送局一斉再免許 2028年10月末までの5年間 
総務省は10月26日、民放とNHKなど196社・団体に11月1日付再免許の免許状を交付した。地上基幹放送局は195社・団体で、このうち民放は中波単営16、短波1、FM50(51局)、テレビ単営96、ラ・テ兼営31。民放連に加盟する全ての地上基幹放送局が再免許を受けた。免許期間は2028年10月末までの5年間。(中略)/再免許にあたり、ラジオ・テレビ各放送事業者に総務大臣名で要請が行われた。内容は▽放送法・番組基準の順守▽人権と児童・青少年への配慮▽放送番組審議機関や考査機構の機能の発揮▽近年、激甚化する気象災害や大規模地震等の災害を想定した災害放送の充実▽新技術の活用等によるサービスの充実――など。(以下略)(日本民間放送連盟のウェブマガジン 民放online・編集広報部 2023/11/01)(https://minpo.online/)
第一条 この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。
一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。(放送法・目的)

◎輪違屋(わちがいや)は京都に残る最古の公許の花街・島原の地に建つ,元禄年間(1688~1704)の創業と伝える置屋である。建物は安政4年(1857)に再建された後,明治4年(1871)に改造が加えられ,ほぼ現在の形になったと考えられている。置屋とは太夫や芸妓を抱える店を指し,輪違屋は現在も置屋兼御茶屋として営業している。(以下略)「京都市指定有形文化財」(https://kyoto-irodoru.city.kyoto.lg.jp/shimogyo/wachigaiya-n.html)(⇧左右2枚の写真)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

「戦後」は「戦前」と背中合わせ

【金口木舌】追いかけっこ 昨年10月、東京都内に住む那覇市出身の90代男性から自身の戦争体験を記した便りをいただいた。陣地構築の思い出がつづられている。直接会って話を聞くつもりでいた▼今年に入り、男性宅に連絡を入れると電話に出た家族が一言「いろいろとお世話になりました」。男性は昨年末、亡くなっていた。心の中でわび、自分の怠慢を悔いた▼間に合うだろうか、と日々思う。高齢の戦争体験者から証言を得ることが年々難しくなっている。元気でいる間にお会いし、体験をお聞きしたい。時を見ながら体験者と追いかけっこしているかのよう▼間に合うのだろうか、という焦りに駆られる。急激に進む戦争準備の動きを早く止めなければ。さて、何と追いかけっこをすればよいのだろう。政府か、無関心を決め込む国民か▼男性は「昭和19年に入って急に戦況が悪化し、夜間になると県庁大通りを北に向かって移動する軍隊の動きが激しくなった。『小休止』との号令が寝耳を叩(たた)くこともあった」と便りに記した。新たな戦争の始まりを告げる「号令」が迫っていないか。沖縄はきょう、本島米軍上陸から80年の日を迎えた。(琉球新報・2025/04/01)

<あのころ>国会前で麦作り 戦後の食糧難 1947(昭和22)年4月1日、戦後の食糧難は国会議事堂前を麦畑に変えた。限られた配給米だけではとても足りず、誰もが空腹を抱えていた。都会の空き地や道路まで、いたるところが畑や田んぼになり、米や麦、芋などを植え付けて飢えをしのいだ。厳しい取り締まりがあっても農家で闇米を買う人が絶えなかった。(共同通信・2011年04月01日 08時02分。右写真も)(ヘッダー写真は「東京都内・昭和通りの農園」毎日新聞・1944年撮影)

 まだ学生だった頃、評論家のひとりが「いずれ銀座に野菜畑ができる」と書いていたのを怪訝に思いました。室伏高信という人だった。「人口が増えて、食糧増産に追われて、銀座が畑に…」と言ったのだったか、詳しいことは忘れたが、この評論家の記憶には、眼前の事実として、敗戦直前直後、都心が一大農園になっていた景色を払いのけることはできなかったのでしょう。左下の写真は、今日のJR 御茶ノ水駅の神田川土手斜面を開墾しているものです(毎日新聞提供)。何が何でも勝たねばならぬ、そんな戦意高揚気分からのものではなく、「背に腹は代えられぬ」という窮状の発露だったと思う。今はどうか。「窮状」は少しも変わっていないんじゃないですか。

 本日の琉球新報コラム「金口木舌」には、太平楽を通り越した「能天気日本」の無残な現実に刃を突き付ける趣があると、ぼく一人は胸を痛くしながら、繰り返し読んだ。「新たな戦争の始まりを告げる『号令』が迫っていないか。沖縄はきょう、本島米軍上陸から80年の日を迎えた」とあります。「本土」は昨日も今日も、明日も明後日も、「大谷で日も夜も明けぬ」という為体(ていたらく)です。恐らく、国会議事堂も永田町も、茄(なす)はおろか、稲一本も生えてはいない。令和の「越天楽」よろしく、長閑な越天楽今様が奏でられています。国民の窮乏などどこ吹く風、右も左もなく「我が世の春」を謳歌し、その永続を願うばかりで躍起になり、扼腕するのに大童(おおわらわ)という惨状です。五十年前の本日、「大阪万博」が開幕を迎えたとあります。それを見るにつけ、歴史は繰り返しますね。阿呆と馬鹿の絡み合いで、時代は巡る回転木馬か。

 いつまた、議事堂前の畑でジャガイモが作られ、銀座でコシヒカリの苗が植えられないとも限りません。琉球新報のコラム氏は、その時の来たらんことを暗示もし明示もされているのではないでしょうか。「間に合うのだろうか、という焦りに駆られる。急激に進む戦争準備の動きを早く止めなければ。さて、何と追いかけっこをすればよいのだろう。政府か、無関心を決め込む国民か」と。気は急くが、来るものは来る。来ないことに万全を尽くしても尽くしようもないものがあります。いかに原発事故の防止に何千億を費やそうが、地震対策に何兆円を使おうが、起こる時には起こる、来るときには来る。と言えば、大方の叱責を受けることは請け合いでしょうが、万全を尽くして、万策尽きるという、まるでポンチ絵を観る如くです。

 本日は4月1日だから、「あらぬこと」を「さもありなんと」と駄弁るのではありません。今は確かに国会議事堂前には茄もトマトもありません。でも、議事堂内や首相官邸内には、間違いなく「ぺんぺん草」が生えているでしょう。あるいはその屋上は、手のつけようもないくらいに「ぺんぺん草」生え放題の「圃場」になっているに違いありません。でなければ、国会議員の精気のなさや、誠意のなさが説明束ないでしょう。それを食べればもちろん、その臭いを嗅ぐだけで、物が見えず、頭が働かなくなり、先ずは御身大事と自己保身にひたすら奔る。これはぺんぺん草の祟りかもしれない。(ぺんぺん草に謝ります。別名は薺(なずな)で、わが庭にも叢生している)

 これはぼくの創見でも何でもありません。やがて「敗戦後八十年」を迎えると言いますけれど、それは紛れもなく、いつ来るとは誰も知らないであろう、次なる「戦前」だったと、「戦争」が始まって初めて気が付くのでしょう。いや、もうすでに「戦争は始まっている」と、ぼくの意識は察知し、密かに呟いてもいるのです。戦いが始まっているとは、恐らく、第二次対米戦争が、です。 

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII