【卓上四季】長田弘さんの問いかけ <今日、あなたは空を見上げましたか。空は遠かったですか、近かったですか。雲はどんなかたちをしていましたか。風はどんな匂いがしましたか。あなたにとって、いい一日とはどんな一日ですか>…▼長田(おさだ)弘さんの散文詩「最初の質問」は全編、こんな問いかけが続く。あわただしい日々を送っていると、ときどき読み返したくなる。そのたび、日常のなかで気づかなかったものごとの多さを知る。空や雲を見上げただろうか。風の匂い? いい一日? 気にも留めていなかった▼長田さんの家を訪ね、お話をうかがったことがある。古今東西の書物を読み、世界中を旅した人である。話題は尽きない。故郷の福島弁が残る穏やかな語りに耳を傾けていると、時間の経過を忘れた▼今年5月で没後10年になる。半世紀に及んだ活動で残した詩はざっと500。生きていくうえで大切にするのはなにか―。だれにでも分かるやさしい言葉を連ねて、問い続けた大きなテーマであった▼耳を疑うようなニュースが国内外にあふれる。どれも大事なトピックだが、振り回されすぎると本質を見失いかねない▼「最初の質問」はこう終わる。<時代は言葉をないがしろにしている―あなたは言葉を信じていますか>。不確かな言葉が満ちているいまだからこそ、確かな言葉を読者の手元へと届けたい。(北海道新聞・2025/04/04)

「日常(day life)」はまるで底なしの沼のようであります。どんな出来事(自分にとって受け止めかねる物であろうが)が起ころうが、よほどでない限り、人々は「明日」をきっと迎えています。空襲で家を焼かれ、地震ですべてを破壊され尽くしても、「お早う」「お休み」、あるいは「いい天気ですね」「今日は寒いな」と、何でもない言葉が口から出て、ぼくたちが「日常」にとどまっていることを明かしてくれます。日常は非日常を含んでいる。
もう何十年も前になります。学生のひとりから提出されたレポートを読んでいて、母親を亡くしたばかりだったその人は激しく世の人々を呪い、世の出来事を呪っていた、なぜ、誰も関心を示さないのだと、まさしく呪詛していたのにぼくは不意を打たれた。「どうして誰もが立ち止まらないのか。母が亡くなったというのに、誰もかれも、何もかもが変わらないじゃないか。俺は信じない、こんな世の中を」というようなことが書かれていた。
何が起ろうが、誰も彼もが知らぬふりをしている、こんな社会に「俺」は我慢できなということだったろう。もっと嘆けよ、もっと悲しまないかという不信の念の吐露でもあったと思います。もう何十年も過ぎた昔の事だから、当人は、今はどうしているでしょうか。まだ「世間」を呪い続けているでしょうか。考えるまでもなく、「日常」がデンと構えているからこそ、「非日常」を生き延びられるともいえます。ぼくたちは「日常と非日常」の境を行き来している、それが生活する、生きているということの実際ではないでしょうか。「去る者、日々に疎(うと)し(Out of sight, out of mind.)」という。「去る者は日に以て疎し、生くる者は日に以て親し」と、中国の6世紀前半に編まれた詩文集「文選(もんぜん)」の中の言葉だとされます。「去る者」とは会わなくなった人、あるいは亡くなった人を指す。時には「人」ばかりを言うのではないこともある。

今でもこの通りであるかどうか、ぼくには怪しいのですが、押しなべて、ぼくたちは他者への関心を濃厚に持つような、そんな時代・社会に生きているとは思えないのはどうしてでしょうか。どんなことにせよ、いったん忘れるのでなければ、思い出すことはできないのも事実で、そのような曖昧な意識をもって、ぼくたちは生きているのです。長田さんが亡くなられて十年か、もうそんなに経つのかという思いと、まだ十年なのかという、過ぎ去らない時を感じたりします。長田さんについては何度も触れましたから、ここでは余計なことは述べません。
「あなたにとって、いい一日とはどんな一日ですか」と「時代は言葉をないがしろにしている―あなたは言葉を信じていますか」という二つの言葉を、まるで不思議なものを見るように、ぼくは反芻してみます。「いい一日」と思える日なんか、ただの一度だってないと言えるし、なんとか事なきを得て床につけたら、それが「ぼくにとっていい一日」だと言えなくもありません。つまりは当たり前に陽光に照らされたり、風雨に晒(さら)されたりしたとして、一日の終わりには「お休み」という挨拶を誰かに、あるいは不特定の誰かにかけることができれば、それは「いい一日」だったと思いたいし、思う、ぼくは。
「あなたにとって、いい一日とはどんな一日ですか」と「時代は言葉をないがしろにしている―あなたは言葉を信じていますか」、この二つの問いはいつだって、誰に対しても投げ出されているのです。もちろん、こと改まって、「いい一日」とはどうだこうだとは言わないでしょうし、「言葉を信じていますか」と問われることもめったにないでしょう。「嘘か真か」ではない、どんな言葉であっても「それを信じるか信じないか」が問われている。いやな時代だなあと、ぼくは慄然とします。しかし、否応なしに、日々の暮らしの中で、ぼくたちはこの二つの問いに対する「返事」を自分流に出しているに違いないのです。つまり、「自問自答」です。ぼくはいつも、物事を考えるとは「自問自答」する姿勢にあるといっています。「いい一日」とは、きわめて個人的な感覚・感情に左右されましょう。さらに言うなら「言葉を信じる」ということも同じこと、誰の言葉、いつ言われた言葉か、それが問題であるし、目の前で言われた言葉だけでもないでしょう。書かれた言葉が「信じられる言葉」として自分に迫ってくることもあります。

いい・悪い、信じられる・信じられないというのは、きわめてあいまいであり、人それぞれの感受性やその言葉に接した場の情景・雰囲気にも左右されるでしょう。「不確かな言葉が満ちているいまだからこそ、確かな言葉を読者の手元へと届けたい。」と、決め科白を吐くのはコラム氏です。確かに、言葉にならない、言葉以前の語彙の集積のような単語軍(群)が飛び交っています。このところ、Google で検索すると、ほとんどは「AIによる概要」と断りが付いています。その「断り」があるだけまともであって、人が口にする言葉であっても、まったく「AI」によるものか、「辞書」によるものかが判然としない場合がほとんどかもしれません。「辞書」も、一種のAIであることは疑えないことだし、それがよくないのだということにはならない。
だからこそ、いたずらに「あなたは言葉が信じられますか」と言わない方がいいのでしょう。極端に言うなら、目の前の人間が口にした言葉だけと限定したくなります。それだって、怪しいと思えば、いくらでも疑える。つまり「言葉」に対する姿勢で大事なのは「疑う」ということ、疑問に思うことです。そこから、すべてが始まるといっていいでしょう。逆に言うと、疑わなければ、何事も始まらない(自分の問題にはならない)のです。「我思う、ゆえに我あり」は、フランスの哲学者ルネ・デカルトが著書『方法序説』で記した命題です。ラテン語では「Cogito, ergo sum」といいます」(AIによる概要)(デカルトの原文は「Je pense,donc je suis」です。「私は考える、ゆえに私は 存在する(と証明できるのだ)」)
深く信じるには、それと同じ程度に深く疑わなければならないと思う。もっとも強く信じられるものをこそ、ぼくたちは激しく疑うことができるからです。
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