
やなせたかしさんが大ファンだった! 井伏鱒二が「月刊高知」に寄せた随筆に挿絵 田中貢太郎と父・清が結んだ縁
やなせたかしさんは、作家の井伏鱒二(1898~1993年)の大ファンだった。9日放送のNHK連続テレビ小説「あんぱん」でも、入隊した柳井嵩(北村匠海さん)の愛読書として井伏の詩集が登場した。実はこの2人、ちょっとした縁でつながっていた。/「山椒魚」や「黒い雨」「ジョン万次郎漂流記」などの著作で知られる井伏は広島県生まれ。太宰治の師匠としても知られる。/その井伏が師と仰いだのが高知市出身の人気作家、田中貢太郎(1880~1941年)だ。ともに酒好きで、田中は井伏の才能を無名時代から見抜き、文壇に引き立てた。/井伏は何度も高知を訪れている。戦前には、田中が主宰する同人誌「博浪沙(はくろうさ)」一門として高知新聞社の招きで旅行。40年に、田中が安芸市の旅館で胃潰瘍(かいよう)のため吐血して倒れた際は見舞いに訪れ、容体が落ち着くまで高知に滞在。その間に掌編「へんろう宿」を書いた。/後に旧知の本紙記者に頼まれ、「月刊高知」(47年4月号)に「田中さんのこと」という随筆を寄せている。さまざまな酒席での思い出を振り返り、田中が文学談議より「理屈なくにぎやかに呑むのが好きであったように思われる」と記す。
この随筆に添えられたイラストを手がけたのが、やなせさんだった。編集後記に「井伏氏が田中貢太郎先生のことを書いてくださった」と感激を隠しきれない様子で書き、「僕が田中先生というのはおかしいようなものだが(中略)自分の師だと決めている」と記す。/加えて、東京の大学でデザインを学んでいた時、挿絵の仕事を融通してもらおうと田中邸を訪れた逸話を紹介。この時、田中は、やなせさんにこう言ったという。「君は死んだお父さんにそっくりじゃ。物の言い方までそっくりじゃ」/どういうことか。
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やなせさんの父、清は朝日新聞記者として中国に単身赴任していた。/酒豪で知られた田中が、中国での飲み歩きを振り返ったエッセー「屠蘇盆に映る酒徒の顔」(24年)に、広東で「柳瀬五山君が私の行くのを待っていてくれた」とある。これが清だ。/田中は、清らとともにスイカの種を「ぽりぽりと割りながら」「ウイスキーを朝から晩まで飲んでいた」と。書き残されたエピソードはそれぐらいだが、意外と深い交流があったのかもしれない。/ちなみに、清が長男を嵩(たかし)と名付けたのは中国の五大名山の一つ「嵩山(すうざん)」にあやかって、という。
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やなせさんが、田中と話したのは、自邸を訪れた一度きり。先の編集後記によると、この時、井伏の短編「朽助のいる谷間」を何度も何度も読んだと伝えると「井伏なら、さっきまで来ちょったに。ありゃしょう飲むきにのう」と言われたそうだ。/やなせさんは41年1月に徴兵され、小倉の部隊に入隊。2月1日に田中が亡くなり、編集後記では「戦地で先生の死を聞き暗然とした」「井伏氏が田中先生のことを書いてくださったことについて、妙に感傷的になった。誰にもわかってもらえない感傷である」と書き残している。/ドラマに登場する井伏の本は「厄除(よ)け詩集」。漢詩「勧酒」を、井伏が訳した「ハナニアラシノタトエモアルゾ 『サヨナラ』ダケガ人生ダ」も載っている。(村瀬佐保)(高知新聞・2025/06/10)

(⇦ 左写真:1935年に高知を訪れた井伏鱒二(後列左端)。隣は本山白雲。前列中央が田中貢太郎。中岡慎太郎の銅像の除幕式前日に撮影されたという)(写真右下:井伏が師の田中について書いた随筆。2人が過ごした時間を描いたのか、やなせさんの挿絵は時計だった)
今では誰も知っている人はいないかもしれない高知の作家の親分格だった田中貢太朗さん。その田中さんが、今頃に記事になって読めるとは。二十年以上も前、ぼくは高知出身の小学校教師たちの事績を追いかけつつ、「高知の生活綴り方」教育者(群像)を調べていたことがあった。その成果らしいものを一冊の本にまとめようとしたのだが、面倒くさくなって放棄してしまった。それはともかく、高知教育界における上田庄三郎(上庄)さん(1894~1958)や小砂丘忠義さん(1897~1937)たちの活躍ぶりと挫折については、わずかながらこの駄文録のどこかで触れています。

その際、田中さんについても触れているはずだが、確かに若い教師たちの背中を押し続けていたのが田中さんった。特に小砂丘(ささおか)さんを高く評価していて、ぜひとも小説などを書いたらいいのだがと盛んに励ましていたことを思い出します。田中さんも小砂丘さんも共に早く亡くなられて、その仕事ぶりは十分に評価されているとは思われないが、世間にはそんな人がたくさんいるはずだということだけは確かだ。
井伏さん(1898~1993)についても、この駄文録では何かと駄弁ってみたが、特に「へんろう宿」(昭和15年発表)の執筆が田中さんを見舞う間、高知滞在の折だったとは知らなかった。この短編は「家族の形」を突き出しているという意味でも、とても大事な作品だったと思う。何よりも血縁を不可欠の要素にするのが家族だとされている中で、身寄り頼りという、血縁とはまた違ったつながり(縁)によって「家族」を形成している人々の姿を書いている意味で、ぼくは大きな驚きを受けたし、あらたな「家族の可能性」を教えられた気がしたものだった。
井伏さんについても、書くべきことはたくさんありそうだが、まだ果たしていない。蛇足になるが、上田庄三郎氏の子息には上田耕一郎、不破哲三さん兄弟がおられる。件のテレビ小説を見ないし、やなせたかしさんに関しても高知県で育ち(生まれは東京だったが、父親が早くに亡くなったので、父の郷里に移住し、父の弟の郷里で暮らしたことがある)、「アンパンマン」の生みの親という程度のことしか知らないが、それでも高知に遊んだ折、やなせさんが育った香美市を訪れたことがあったのを思い出す。いくらでも切れ切れの思い出が出てくるが、そんなものを引き出してもあまり気持ちがいいものでもないような気もする。つまりは、人それぞれがそれぞれの生活の歴史とそこに紡がれた感情をたくさん膨らませながら生きていたということで、それを実感できれば、ぼくには十分なのだ。(本日は思わぬ「ひろいもの」をした、その余得を駄弁ってみたまで)(数字うt前から拙宅の軒下にいた子猫が、昨日の夜から家に入っている。三月くらいに生まれたのだろうか。それが、この駄文を書いている間、ずっとぼくの膝の中で眠ったり遊んだり)
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「月刊高知」を復刻 高知新聞社は18日、国民的キャラクター「アンパンマン」の生みの親で、高知県出身の漫画家、やなせたかしさんと最愛の妻、暢(のぶ)さんの歩みをひもとくムックを発売しました。/放送中のNHK連続テレビ小説「あんぱん」のモデルになった二人は1946年、高知新聞社の総合雑誌「月刊高知」編集部で運命的に出会います。硬軟さまざまな企画を一緒に手がけ、終戦直後の世相を切り取りつつ、同じ時を駆け抜けました。/本書では、当時の二人の仕事に始まり、「おいが知る暢さんの素顔」「秘書が語る夫妻の姿」など、独自の特集記事で二人の足跡を掘り下げたほか、月刊高知の表紙や誌面を解説入りの「復刻版」として再録しました。それを読み返すと、月刊高知でのやなせさんの仕事は、アンパンマンにつながる創作の原点だった―ということが分かります。/やなせさんは取材や執筆だけでなく、作家の小説やエッセー、読者投稿などの挿絵を数多く描いており、空きスペースができると編集責任者から「やなせ君、ここに小さなカットを」と頼まれたそうです。オリジナルキャラクターを生み出す瞬発力は、月刊高知で鍛えられたのかもしれません。/「逆転しない正義」のヒーローが誕生するまでの物語を、ぜひドラマとともにお楽しみください。(高知新聞・2025/04/18)(https://www.kochinews.co.jp/article/detail/851867)
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