田中・井伏・やなせ・上庄・小砂丘…

  やなせたかしさんが大ファンだった! 井伏鱒二が「月刊高知」に寄せた随筆に挿絵 田中貢太郎と父・清が結んだ縁     
 やなせたかしさんは、作家の井伏鱒二(1898~1993年)の大ファンだった。9日放送のNHK連続テレビ小説「あんぱん」でも、入隊した柳井嵩(北村匠海さん)の愛読書として井伏の詩集が登場した。実はこの2人、ちょっとした縁でつながっていた。/「山椒魚」や「黒い雨」「ジョン万次郎漂流記」などの著作で知られる井伏は広島県生まれ。太宰治の師匠としても知られる。/その井伏が師と仰いだのが高知市出身の人気作家、田中貢太郎(1880~1941年)だ。ともに酒好きで、田中は井伏の才能を無名時代から見抜き、文壇に引き立てた。/井伏は何度も高知を訪れている。戦前には、田中が主宰する同人誌「博浪沙(はくろうさ)」一門として高知新聞社の招きで旅行。40年に、田中が安芸市の旅館で胃潰瘍(かいよう)のため吐血して倒れた際は見舞いに訪れ、容体が落ち着くまで高知に滞在。その間に掌編「へんろう宿」を書いた。/後に旧知の本紙記者に頼まれ、「月刊高知」(47年4月号)に「田中さんのこと」という随筆を寄せている。さまざまな酒席での思い出を振り返り、田中が文学談議より「理屈なくにぎやかに呑むのが好きであったように思われる」と記す。
 この随筆に添えられたイラストを手がけたのが、やなせさんだった。編集後記に「井伏氏が田中貢太郎先生のことを書いてくださった」と感激を隠しきれない様子で書き、「僕が田中先生というのはおかしいようなものだが(中略)自分の師だと決めている」と記す。/加えて、東京の大学でデザインを学んでいた時、挿絵の仕事を融通してもらおうと田中邸を訪れた逸話を紹介。この時、田中は、やなせさんにこう言ったという。「君は死んだお父さんにそっくりじゃ。物の言い方までそっくりじゃ」/どういうことか。
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 やなせさんの父、清は朝日新聞記者として中国に単身赴任していた。/酒豪で知られた田中が、中国での飲み歩きを振り返ったエッセー「屠蘇盆に映る酒徒の顔」(24年)に、広東で「柳瀬五山君が私の行くのを待っていてくれた」とある。これが清だ。/田中は、清らとともにスイカの種を「ぽりぽりと割りながら」「ウイスキーを朝から晩まで飲んでいた」と。書き残されたエピソードはそれぐらいだが、意外と深い交流があったのかもしれない。/ちなみに、清が長男を嵩(たかし)と名付けたのは中国の五大名山の一つ「嵩山(すうざん)」にあやかって、という。
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 やなせさんが、田中と話したのは、自邸を訪れた一度きり。先の編集後記によると、この時、井伏の短編「朽助のいる谷間」を何度も何度も読んだと伝えると「井伏なら、さっきまで来ちょったに。ありゃしょう飲むきにのう」と言われたそうだ。/やなせさんは41年1月に徴兵され、小倉の部隊に入隊。2月1日に田中が亡くなり、編集後記では「戦地で先生の死を聞き暗然とした」「井伏氏が田中先生のことを書いてくださったことについて、妙に感傷的になった。誰にもわかってもらえない感傷である」と書き残している。/ドラマに登場する井伏の本は「厄除(よ)け詩集」。漢詩「勧酒」を、井伏が訳した「ハナニアラシノタトエモアルゾ 『サヨナラ』ダケガ人生ダ」も載っている。(村瀬佐保)(高知新聞・2025/06/10)

(⇦ 左写真:1935年に高知を訪れた井伏鱒二(後列左端)。隣は本山白雲。前列中央が田中貢太郎。中岡慎太郎の銅像の除幕式前日に撮影されたという)(写真右下:井伏が師の田中について書いた随筆。2人が過ごした時間を描いたのか、やなせさんの挿絵は時計だった)

 今では誰も知っている人はいないかもしれない高知の作家の親分格だった田中貢太朗さん。その田中さんが、今頃に記事になって読めるとは。二十年以上も前、ぼくは高知出身の小学校教師たちの事績を追いかけつつ、「高知の生活綴り方」教育者(群像)を調べていたことがあった。その成果らしいものを一冊の本にまとめようとしたのだが、面倒くさくなって放棄してしまった。それはともかく、高知教育界における上田庄三郎(上庄)さん(1894~1958)や小砂丘忠義さん(1897~1937)たちの活躍ぶりと挫折については、わずかながらこの駄文録のどこかで触れています。

 その際、田中さんについても触れているはずだが、確かに若い教師たちの背中を押し続けていたのが田中さんった。特に小砂丘(ささおか)さんを高く評価していて、ぜひとも小説などを書いたらいいのだがと盛んに励ましていたことを思い出します。田中さんも小砂丘さんも共に早く亡くなられて、その仕事ぶりは十分に評価されているとは思われないが、世間にはそんな人がたくさんいるはずだということだけは確かだ。

 井伏さん(1898~1993)についても、この駄文録では何かと駄弁ってみたが、特に「へんろう宿」(昭和15年発表)の執筆が田中さんを見舞う間、高知滞在の折だったとは知らなかった。この短編は「家族の形」を突き出しているという意味でも、とても大事な作品だったと思う。何よりも血縁を不可欠の要素にするのが家族だとされている中で、身寄り頼りという、血縁とはまた違ったつながり(縁)によって「家族」を形成している人々の姿を書いている意味で、ぼくは大きな驚きを受けたし、あらたな「家族の可能性」を教えられた気がしたものだった。

 井伏さんについても、書くべきことはたくさんありそうだが、まだ果たしていない。蛇足になるが、上田庄三郎氏の子息には上田耕一郎、不破哲三さん兄弟がおられる。件のテレビ小説を見ないし、やなせたかしさんに関しても高知県で育ち(生まれは東京だったが、父親が早くに亡くなったので、父の郷里に移住し、父の弟の郷里で暮らしたことがある)、「アンパンマン」の生みの親という程度のことしか知らないが、それでも高知に遊んだ折、やなせさんが育った香美市を訪れたことがあったのを思い出す。いくらでも切れ切れの思い出が出てくるが、そんなものを引き出してもあまり気持ちがいいものでもないような気もする。つまりは、人それぞれがそれぞれの生活の歴史とそこに紡がれた感情をたくさん膨らませながら生きていたということで、それを実感できれば、ぼくには十分なのだ。(本日は思わぬ「ひろいもの」をした、その余得を駄弁ってみたまで)(数字うt前から拙宅の軒下にいた子猫が、昨日の夜から家に入っている。三月くらいに生まれたのだろうか。それが、この駄文を書いている間、ずっとぼくの膝の中で眠ったり遊んだり)

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 「月刊高知」を復刻 高知新聞社は18日、国民的キャラクター「アンパンマン」の生みの親で、高知県出身の漫画家、やなせたかしさんと最愛の妻、暢(のぶ)さんの歩みをひもとくムックを発売しました。/放送中のNHK連続テレビ小説「あんぱん」のモデルになった二人は1946年、高知新聞社の総合雑誌「月刊高知」編集部で運命的に出会います。硬軟さまざまな企画を一緒に手がけ、終戦直後の世相を切り取りつつ、同じ時を駆け抜けました。/本書では、当時の二人の仕事に始まり、「おいが知る暢さんの素顔」「秘書が語る夫妻の姿」など、独自の特集記事で二人の足跡を掘り下げたほか、月刊高知の表紙や誌面を解説入りの「復刻版」として再録しました。それを読み返すと、月刊高知でのやなせさんの仕事は、アンパンマンにつながる創作の原点だった―ということが分かります。/やなせさんは取材や執筆だけでなく、作家の小説やエッセー、読者投稿などの挿絵を数多く描いており、空きスペースができると編集責任者から「やなせ君、ここに小さなカットを」と頼まれたそうです。オリジナルキャラクターを生み出す瞬発力は、月刊高知で鍛えられたのかもしれません。/「逆転しない正義」のヒーローが誕生するまでの物語を、ぜひドラマとともにお楽しみください。(高知新聞・2025/04/18)(https://www.kochinews.co.jp/article/detail/851867

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戦争と平和は互いに絡みあっている

 「戦争の反対は平和」であり、「平和の反対は戦争」だと考えるのは正しいでしょうか。この二つ(戦争と平和)の言葉が著そうとするのは、相対立する場面を言うのではないでしょう。「戦争」と呼ばれる状況の中にも、必ず「平和」な部分は認められるし、その反対もある。一切の「戦闘・闘争」の側面・要素を持たないのが平和ではないと思う。だからその反対もありえると言えるでしょう。「へいわってどんなこと?」と問われて、「せんそうをしない」「ばくだんをおとさない」、そして「おもいっきりあそべる」「あさまでぐっすりねむれる」と、当たり前の日常が並べられるという。たしかに、そうでもあるが、でも、そうでもないようにもぼくには思われます。

 「せんそうをしない」「ばくだんをおとさない」のが平和であったというけれど、それでも「おもいっきりあそべる」「あさまでぐっすりねむれる」ことができない多くの人がいますから、その意味ではそのような人たちは平和ではないと言えませんか。だから、そのような日常は「せんそう」状態にあるというべきでしょうか。「戦時」と「平時」という表現があります。実にはっきりしていますね。でも、よく考えてみれば、あらゆる状況が「すべて戦時状態」にあるということはないでしょうし、「平時」においてもすべてが太平楽であることもないでしょう。同じ時期にあって、ある人々は平時を満喫していて、他の人たちは戦時だという事態だってあり得ます。(ヘッダー写真は東京新聞)

【天風録】戦争と平和 〈せんそうをしない〉〈ばくだんなんかおとさない〉。浜田桂子さんの絵本「へいわってどんなこと?」は題名の答えが並ぶ。やがて〈おもいっきりあそべる〉〈あさまでぐっすりねむれる〉と、当たり前の日常へ▲イメージしにくい「平和」を子どもに分かるよう具体的に表現したという。では「戦争」ってどんなこと? 戦後80年の私たちに無関係だといえるだろうか。きのう広島市中区で始まった報道写真展「戦争と平和」の会場で、そんな思索に誘われた▲本紙紙面や写真パネルが被爆80年の歩みを伝える。続いて迫ってくるのは、通信社が太平洋戦争前夜からの歴史的瞬間を捉えた107枚。盧溝橋事件や真珠湾攻撃、学徒出陣や銃後の軍事教練…。戦争一色に染まっていくさまが切り取られる▲米軍による空襲や原爆投下、そして敗戦。物言わぬ報道写真が伝えるのは無謀な戦争と行き着く果てだ。さらに自国の戦争が終われば平和なのかと問うてくる。朝鮮半島やベトナムは戦場に。米国との同盟で間接的に支えた戦後日本もあらわにする▲今も戦火が絶えない世界。平和ってどんなこと? 自問しながら、歴史の一ページに生きる者として責任をかみしめる。(中國新聞・2025/06/13)

 ぼくは屁理屈を言いたいのではありません。適切な事例かどうか判断を読者に委ねますが、「健康と病気」について考えてみたらどうでしょう。病気のないのが健康で、健康を害しているのが病気だというのは、循環話法(AでないのがB、BでないのがA)のようで、ぼくにはうまく理解できません。「私は健康です」というのは、どういう状態を指して言われることか。心身のあらゆる面で、病的な部分がないことを意味しているのでしょうか。そんな「完璧な健康人」をぼくは想像できません。いかに健康良好を誇る人の裡にも、きっと病的な部分はある、それに気が付かないこともあるでしょうが、それなら「健康」と言って構わないのでしょうか。重篤な病気の人においても、損なわれない健康の部分はあるのでしょう。誤解されそうですが、健康と病気というのは「相対的なもの」だと言えないかという問題提起をしたいのです。健康でなければ病気なのではなく、病気でなければ健康なのでもないということ。病気の中にも健康な部分が、健康な状態にも病的な部分がある。同様に、「戦時」にも「平時」はあるだろうし、「平時」にも「戦時」は宿るんですよ。「戦時」にはお武力が横行するというのは、「平時」にその根があるからでしょう。また多くの戦争では男が支配することが目に付きますが、それは平時が極度に拡大化されただけだともいえるでしょう。

 「戦時」と「平時」は、何時だって通底(common)しているのですよ。平時(通常)の極悪化戦時」と「平時」は、何時だって通底(common)しているのですよ。平時(通常)の極悪化(extremely worse)が戦時(war time)だと言えなくもない。「戦争と平和」は互いに浸食しあっているのだと思っている。

 一時期、「一国平和主義」(「非武装中立」論)の主張は大いに非難され、揶揄されました。隣国が戦時下にありながら、自国は平和を維持しているのだというのは、理屈としてはあり得ても、政治的道義的に「それは許容されますか」という批判は消えないでしょうし、仮にそんな事態が想定できたとしても「利己主義」「自国第一主義」であるという批判は免れないでしょう。コラム氏は問う。「では「戦争」ってどんなこと? 戦後80年の私たちに無関係だといえるだろうか」「さらに自国の戦争が終われば平和なのかと問うてくる。朝鮮半島やベトナムは戦場に。米国との同盟で間接的に支えた戦後日本もあらわにする」他国の戦争もまた、自国の「戦時」に繋がっているのです。

 今もなお、この国から離れた遠い国でいくつもの戦争が戦われている。さいわいなことに、ぼくたちの国は「戦争状態にない」(と見られている)から、「私たちは平和です」と、果たして言えるのでしょうか。戦争当事国から、この島に来て住んでいる人々がある。あるいは日本国籍を得ている人もいる。だからこの国は戦争中と言えるとは思えないという人はいるだろうし、戦争と無関係かとも言い切れない。それほどに複雑なかかわり方を、否応なくぼくたちはこの地上においてせざるを得ないのででしょう。「今も戦火が絶えない世界。平和ってどんなこと?」とコラム氏の心情は、単純な戦争も素朴な平和も考えることはできても、現実にはあり得ないことを教えているのではないでしょうか。

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 いつも報道されながら、「平時(平和)」の圧倒的優位性にかき消されて、何時しか忘れ去られているのが、他国との「出会い頭」「一瞬の危機」状態です。これをして、ぼくは「平時の中の戦時」と言いたい。大事に至らないための努力はしなければならないのは、早期発見、早期治療が「健康を大きく損なわない最善策」だとするなら、平時の「他国との危機」もまた、あらゆる方策を尽くして大事に至らないために行動すべきでしょう。「爆弾を落とさない」ことが「平和」であることの保障にならない例はいたるところにあるでしょう。

 自衛隊トップ「深刻な行為」 中国機異常接近に危機感 太平洋上、距離45メートル 太平洋上で中国空母などの警戒監視中だった海上自衛隊機に中国軍戦闘機が異常接近した問題で、自衛隊制服組トップの吉田圭秀統合幕僚長は12日の定例会見で「深刻な行為だ。警戒監視を緩めれば、一方的な現状変更を既成事実化させる可能性は十分ある」などと述べ、危機感をあらわにした。
 その上で「(一方的な現状変更を)抑止する態勢を示していきたい」と説明。23年に開設した日中防衛当局間のホットライン(専用回線)については、「相手国との関係がある」として使用の有無を明かさなかった。
 中谷元防衛相は同日の衆院安全保障委員会で、「偶発的な衝突を誘発する可能性があることから深刻な懸念を表明し、再発防止を厳重に申し入れた。警戒監視活動などに万全を期していく」と述べた。
 防衛省によると、7日午前11時ごろまでの約40分間と、8日午後3時ごろまでの約80分間、太平洋上の公海上空で、警戒監視中の海自機P3C哨戒機に対し、中国軍の空母「山東」搭載のJ15戦闘機が追尾するなどした。高度差のない状態で複数回急接近し、一時約45メートルまで迫った。(時事通信・2025/06/13) 

 戦争と平和は、まるで「双生児」のように、離れがたく結びついています。「一国平和主義」が成り立たない、そんな時代にぼくたちは生きているともいえそうです。この国でも盛んに「国防強化(狂歌)」「敵基地攻撃」論議が盛んになされているばかりか、いかにも来るべき「敵国との戦争」に備えるための準備が着々と整えられています。勇ましいことではあるが、一体どこの国と、何のために「戦端を開こう」とするのか、ぼくにはよく理解できない。戦争をする準備よりも、戦争をしない準備にこそ智慧と体力・資力を使うべきです。

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雨は今何を思いて降ってるか…

 現在地に移住する直前、入居予定の拙宅に、これまでに溜め込んだ書物を整理するための「書庫」を新たに作ってもらった。床から天井までかなりの分量(二、三万冊くらいか)を確保することができるだけの棚を予定している部屋(別棟)の四囲に作った。もちろん、数日がかりで大工さんに依頼したのだった。ようやく完成し、自宅や大学の研究室や貸倉庫などに保管しておいた書物を苦労して棚に収めたころ、おそらく、十年前の今頃のことだったと記憶しているが、激しい豪雨に見舞われた。今なら「線状降水帯」というべき集中豪雨だった。整理がまだ終わっていなかった書庫を見に行ったところ、なんと「床上浸水」状態だった。床はコンクリートの打ちっぱなしで、その上に作り付けの書棚を設けていたのだ。幸いに、書物が水に濡れるような被害はなかったが、しばらくはコンクリートの床は水分を含んだままだった。

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 後日、施工した工務店の経営者が来たときにも見てもらったが、「嵩上(かさあ)げをしておいてよかったな」と言われた。床上十センチほどの嵩上げをしたがために、書物の被害はなかったのだ。それ以来、幸いなことにあの時ほどの激しい降雨には遭遇していません。劣島の各地が「梅雨入り」したと報じられた途端に、それを待っていたかのように激しい雨が各地を襲っています。熊本県など、九州方面では、五年前にも壊滅的な被害・打撃を受けた地域があったが、今回はどうだったろうか。拙宅からは遥かに離れた地域だが、天気図を見ながら肝をつぶす日が続く。「九州北部では梅雨に入ったばかりのところで末期を思わせるような激しい雨に見舞われた」(新生面)とコラム氏は書く。

【新生面】入梅 きのうは暦の上の「入梅」。文字の読めない人たちのために作られた江戸時代の絵暦には、荷物を担いで逃げる盗賊が描かれていたという。荷奪い↓にうばい↓入梅のしゃれ。気象キャスターの草分け、倉嶋厚さんの『季節の366日話題事典』に紹介されている▼1カ月半にも及ぶ長雨は、人に害を及ぼす悪者とイメージされていたのかもしれない。梅雨の降り方にはシトシトの陰性、ザアザアの陽性の2タイプがあり、特に終盤は激しく降ってカッと照る陽性型になりやすいとされる▼なのにどうしたことか、九州北部では梅雨に入ったばかりのところで末期を思わせるような激しい雨に見舞われた▼海面水温の高さから、暖かく湿った空気が日本に流れ込みやすくなっていて、今年は雨が多くなると予想されている。シトシト↓中休み↓ザアザアという順序もあやしく、最初から大雨に警戒が必要だとか。台風の出現も例年になく遅く、きのう南シナ海上に1号が発生した▼浸水や土砂災害がいつ起きてもおかしくない。過去のデータから、熊本の大雨は「人の寝静まっている時間帯に多い」とされている。とりわけ1人暮らしのお年寄りなどは要注意だ。周囲の人たちが見守り、早めの避難を促したい▼しっとりと降る雨は、人の心を落ち着かせもする。本紙の読者文芸欄に自分の内面に目を凝らすような歌があった。〈雨は今何を思いて降ってるか夜の雨音静かに静かに 原田詩音〉。雨の降り方に、耳目を集中させなければならない時期が続く。(熊日新聞・2025/06/12)

 「降れば土砂降り(It never rains but it pours)」という常套句が真実味をもって劣島各地に迫ってきている。昨日に続いて、「雨降り」についての駄文です。各紙コラムでもいくつかが「入梅」「梅雨入り」「集中豪雨」などをキーワードに、これからの「長雨季節」について注意喚起を呼びかけ、しかし適量の降雨の必要も説いています。学生時代、地理学の授業で「北海道には梅雨はありません」と学んだ。今もそれは変わらないのでしょうか。梅雨はないかもしれないけれど、「線状降水帯」「集中豪雨」はいつだって、場所を選ばず発生しているのです。

◉ 線状降水帯(せんじょうこうすいたい)= 次々と発生する発達した複数の積乱雲が並ぶことで形成される、線状の積乱雲の集合体。厳密な定義はないが、気象庁では「次々と発生する発達した雨雲(積乱雲)が列をなした、組織化した積乱雲群によって、数時間にわたってほぼ同じ場所を通過または停滞することでつくりだされる、線状に延びる長さ50~300キロメートル程度、幅20~50キロメートル程度の強い降水をともなう雨域」と説明している。日本で起きた集中豪雨のうち、台風によるものを除いて、約3分の2が線状降水帯によるものであるとの調査もある。気象庁では、警報や注意報、天気予報等で用いる予報用語に指定していないが、報道発表資料や予報解説資料で用いる解説用語としている。/線状降水帯は、暖候期に発生し、大きな災害や集中豪雨が発生する要因となる。1990年代から日本の集中豪雨発生時に線状の降水域がしばしばみられることが指摘されていたが、この用語が頻繁に用いられるようになったのは、2014年(平成26)8月の豪雨による広島市の土砂災害以降である。/線状降水帯は、日本全国で発生しているが、なかでも九州と四国に多い。発生メカニズムは解明しきれていないものの、次のように考えられている。(1)多量の暖かく湿った空気が、およそ高度1キロメートル以下の大気下層に継続的に流入する。(2)前線や地形などの影響により、大気下層の暖かく湿った空気が上空に持ち上げられ、水蒸気が凝結し積乱雲が発生する。(3)大気の成層状態が不安定ななかで、発生した積乱雲が発達する。(4)上空の強い風により、個々の積乱雲が風下側へ移動して帯状に並ぶ。このメカニズムが持続すると、線状降水帯は長時間にわたってほぼ同じ場所に停滞することとなり、一つの積乱雲では50ミリメートル程度の雨しか降らせないのに対し、結果として数百ミリメートルの雨をもたらす。(日本大百科全書ニッポニカ)

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 「しっとりと降る雨は、人の心を落ち着かせもする。本紙の読者文芸欄に自分の内面に目を凝らすような歌があった。〈雨は今何を思いて降ってるか夜の雨音静かに静かに 原田詩音〉。雨の降り方に、耳目を集中させなければならない時期が続く」(新生面)劣島は、その位置や形状によって、いわば「線状降水帯」の絶好の宿り場であるし、台風の寄り道(はしご)として機能しているのでしょうか。ようやくにして田植えが終わった段階で、集中豪雨に見舞われては、敷島の瑞穂の国の「早苗」といえども一たまりもないでしょう。水没して、長く水が引かなければ根が腐ることにもなるし、その先の成長も見込めない。それを知ってか知らずか、古古米だの古古古米だのが、多分に侘しさを漂わせながら、息苦しい時を送る劣島上を席捲しています。昨年は、穀倉地帯のどこかが特段の災害に見舞われたのではなかったにもかかわらず、「コメ不足」が突然変異のごとく発生したというのは、天災ではなく人災だったという話です。米そのものが博打(相場)のネタになっているとしたら、敷島の瑞穂の国の、掛け値なしの終わりであるでしょうか。そして、遂には「MA米」という「切り札」(アメリカからすれば)を、事情を知らない農水大臣は切ってしまったようです。(敷島の瑞穂の国の「コメ不足」に、アメリカはどう動いたか)

*ミニマムアクセス‐まい【ミニマムアクセス米】= 《minimum accessは、最低限輸入義務の意》日本が高関税を課して輸入を制限する代わりに、最低限輸入しなければならない量の外国米。政府米として扱われる。平成5年(1993)ウルグアイラウンド農業合意による。MA米。[補説]平成20年(2008)、ミニマムアクセス米中で食用に適さないと判断された事故米の、食用としての転売が発覚して社会問題となった。(デジタル大辞泉)

 「磯城島の大和の国は言霊の助くる国ぞま幸くありこそ(志貴嶋倭国者事霊之所佐国叙真福在与具)」(巻13-3254)(火柿本人麻呂)

 「ま幸くありこそ」、何とか無事であってほしいもの。言霊が生き生きとして輝く国が大和なのだから。その「言霊の助くる国」の「言霊」が無残な扱いを受けている現状には、何人と雖も立つ瀬もないではないかと、人麻呂ならぬ今時の凡人の慨嘆は深く大きいのですよ。ここで、唐突ですが、この梅雨の季節到来に、名言「人は生きているように死んでいる」と呟(つぶや)かれた、小沢信男さんを、なぜだか偲びたくなりました。最もよく知られた(ぼくの大好きな)一句と、宮武骸骨の墓碑に、と刻まれた(反骨を思わせる)一句です。

・学成らずもんじゃ焼いてる梅雨の路地   ・暗き世に爆(は)ぜかえりてぞ曼殊沙華  

*小沢信男(おざわ・のぶお):1927年、東京都芝区(現・港区)新橋に生まれる。作家。日本大学芸術学部卒業。著書『わが忘れなば』(晶文社1965)『若きマチュウの悩み』(創樹社1973)『東京の人に送る恋文』(晶文社 1975)『犯罪専科』(東邦出版社1978/河出文庫1985)『犯罪紳士録』(筑摩書房1980/ちくま文庫1990)『いま・むかし東京逍遥』(晶文社1983)『書生と車夫の東京』(作品社1986)『東京百景』(河出書房新社1989)『あの人と歩く東京』(筑摩書房1993)『全句集 んの字』(大日本印刷ICC本部2000)『裸の大将一代記』(筑摩書房2000/ちくま文庫2008/桑原武夫学芸賞)『悲願千人斬の女』(筑摩書房2004)『通り過ぎた人々』(みすず書房2007)『東京骨灰紀行』(筑摩書房2009/ちくま文庫2012)『本の立ち話』(西田書店2012)『捨身なひと』(晶文社2013)『俳句世がたり』(岩波新書2016)『私のつづりかた』(筑摩書房2017)『ぼくの東京全集』(ちくま文庫2017)ほか。2021年3月3日死去。(右、著書「著者紹介」より)

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万霊の天より圧す梅雨入かな

【小社会】雨の季節 子どもの頃はいまより、雨に親しんでいた気がする。例えば北原白秋作詞の童謡「あめふり」も、「あめあめ ふれふれ かあさんが」と始まる。❖白秋は雨の日の子どもたちの気分を「ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」とも表現した。雨への愛着、感謝も込めたのだろう。雨は稲作など農業や生活に欠かせない天からの恵みである。❖物理学者の寺田寅彦は、雨の別の効果に着目した。随筆「雨の音」にある。ローマ字表記なので改めると、「風のない夜の雨の音を、書斎の机にもたれて、じっと耳を澄まして聞いていると、なんとなく心の底まで落ち着いてくる」。実際、静かに降る雨や波の音などは癒やし効果があるという。❖きょうは暦の雑節「入梅」。それに合わせるかのように、きのうまでに四国を含む各地で梅雨入り宣言が相次いだ。九州などは早くも大雨に見舞われており、悠長に構えてはいられない状況だ。❖「天災は忘れた頃来る」は寅彦の警句とされるが、地球温暖化の影響だろう。近年は豪雨禍が全国で忘れる間もなく繰り返される。気象庁が先月発表した3カ月予報によると、西日本の6~8月の雨は「平年並みか多い見込み」。警戒したい。❖種田山頭火は詠んだ。〈梅雨の月があつて白い花〉。栗の花も雨に映える。災害が増える季節だが、雨の風情に親しむ余裕は失いたくない。それも備えあれば憂いなしを実践してこそだろう。(高知新聞・2025/06/11)(行替えは引用者)(https://www.kochinews.co.jp/article/detail/871495)

 本日は「入梅(にゅうばい)」だという。まさに気象庁の予報通りの当たり日というわけ。「雑節(ざっせつ)」という呼称はあまりなじみはありませんけれど、それぞれの「雑節日」はお馴染みのものばかり。一日の90分間ほど(朝夕食時)のテレビ視聴や、ネットの情報番組を見ていて、つくづく「表層社会」「見世物合戦」化現象が昂進していると感じます。嘘や誹謗、更には限度のない中傷の数々が、まるで空中を浮遊しているような塩梅で、とても気軽には見られないし、興味を持ってみるべき番組などではそもそもないのですね。そんな軽薄な風潮に人は傷つき、命を失うのだ。

 端(はな)から、限界のない中傷の行列がどうして放送網に引っ掛かるのか、そもそも「ネット」社会のある種の無秩序そのものが行方も定められずにあらゆるところに行きつ戻りつ彷徨(さまよ)っている。まるで、何の因果か知りませんが、悪霊の盆踊りよろしく、老いも若きも、男も女も、内外問わずにイカレているように、「時代おくれ」のぼくには感じられてきます。

 表題句は目迫秩父(めさくちちぶ)作。本名は文雄。神奈川の人(1916~1963)。梅雨入り時の、いかにも重たそうな雲の圧力は、今は亡き、無数の故人たちの、あるいは生霊・精霊たちの息遣いが、今もなお生きている生者への念押しの如くに、雲を通して、ぼくたちの頭上に覆いかぶさるのです。さらにいくつかの句を。

・世を隔て人を隔てゝ梅雨に入る(高野素十)
・生死の果なし坂や梅雨に入る(中川宋淵)
・十薬の花の十字の梅雨入かな(石田波郷)  ⁂十薬=ドクダミの別名
・我が梅雨入万両の実のなほ赤く(相生垣瓜人)

 「入梅」の言葉に違わず、朝から雨模様です。九州南部では、各所が強烈至極の豪雨の洗礼を受けたという。各地の田植えが一段落した、その瞬間にも「入梅」に似つかわしくない集中豪雨が早苗を痛めつけている様を想い、「令和コメ騒動」の笑えない茶番劇に心痛く、悲しみ深く。

 三好達治さんの「大阿蘇」(1939年刊)の前半部分を。「雨が降つてゐる 雨が降つてゐる 雨は蕭々と降つてゐる」

雨の中に馬がたつてゐる
一頭二頭仔馬をまじへた馬の群れが 雨の中にたつてゐる
雨は蕭々(しょうしょう)と降つてゐる
馬は草をたべてゐる
尻尾も背中も鬣(たてがみ)も ぐつしよりと濡れそぼつて
彼らは草をたべてゐる
草をたべてゐる
あるものはまた草もたべずに きよとんとしてうなじを垂れてたつてゐる
雨は降つてゐる 蕭蕭と降つてゐる(中略)

ぐつしよりと雨に濡れて いつまでもひとつところに 彼らは靜かに集つてゐる
もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう
雨が降つてゐる 雨が降つてゐる
雨は蕭々と降つてゐる

ひびの有無に関係なく、骨董は骨董だ

<あのころ>「幻のピアニスト」初来日 1983年6月11日 1983(昭和58)年6月11日、しばしば演奏活動を休止して「幻のピアニスト」と呼ばれたホロビッツ氏が初来日、東京・NHKホールでリサイタルを開いた。当時のクラシック音楽界では破格の平均4万円というチケットは即完売、超満員の聴衆は巨匠の円熟した演奏に聴き入った。86年に再来日し、89年に死去した。(共同通信・2024年06月11日)

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 この時の吉田さんの演奏評はよく覚えています。それ以前から吉田さんの文章は、どんなものでも必死になって探しては読んだものです。戦後の早い段階で存命だったフルトベングラーの演奏をドイツで聴かれたこと、この国でもっとも早くにグレン・グールドの演奏論を、きわめて演奏家に即した筆致で文章化されたこと、当時のラジオ放送でも西洋音楽の「現在地」を確かな感覚と文章で語られたことなどなど、一時期、音楽評論の方向に、などと夢想していた時代、吉田さんは最も確かな導きの糸でした。とても長命を保たれた吉田さんの仕事は、全集などで知ることができますが、同時代に彼の息吹を感じられただけでも、ぼくには幸運なことでした。何度か演奏会でお目にかかったことがりますが、何よりも自分の感覚を研ぎ澄ますかのように、足しげく演奏会場に通われたことだけでも尊敬に値しますし、その多くを文章に遺された功績は小さくなかったと思う。

 ホロビッツについても若干の感想めいたものはありますが、ぼくは一貫してよく聞くことのできなかったピアニストでした。「幻の…」などと言われると、先ず敬遠したくなるのは、ぼくの大欠陥だったかもしれない。あまりにも評判が高かったりするものは極力避けたし、その反対に月並みな論評でまともに扱われなかった演奏家に、ぼくは積極的に近づこうとしたほど。いわゆる「現代的な演奏」というものがあるとして、ホロビッツのそれは二十世紀に相応しい機械的というか、ロマンティックではない硬質の演奏だったでしょうか。彼の岳父だったトスカニーニと共演したチャイコフスキーのピアノコンチェルト(1番)に遭遇して、度肝を抜かれたことを忘れません。こんな演奏があるとうことが信じられなかったのです。若いぼくには「音楽(楽曲)の冒涜」とすら思ったほどの出来事でした。まるで「ロボットの演奏」(今なら、さしずめ「AIによる演奏と言われようか)と思いたくなったほどでした。

(* Tchaikovsky: Piano Concerto No. 1, Horowitz & Toscanini (1941)・https://www.youtube.com/watch?v=hcY0kJ5j6pg

 今でも、何枚もホロビッツのレコードを所持していますが、この何十年、それを聞くことはありませんでした。(その意味でも、「<あのころ>「幻のピアニスト」初来日 1983年6月11日」の記事は、ぼくには梅雨時の「黴に取りつかれた記憶」のように、その謂いえぬニオイにおいさえも感じられてきたのです。もちろん、この親子の演奏を熱狂的に受け入れる聴衆(愛好家)がおられることをぼくは否定しません。ぼくは単なるジレッタントにすぎないんですね)         

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● ホロビッツ(ほろびっつ)(Vladimir Horowitz)(1904―1989)= ロシア出身のアメリカのピアノ奏者。20世紀を代表する巨匠の一人。生地キエフ(現、キーウ)の音楽院を卒業して1922年デビュー、国内で活躍したのち、1925年ベルリンに移って評判を高め、西ヨーロッパ各地に楽旅。1928年のニューヨーク・デビューが大成功を収め、爆発的な人気を博し、早くも不動の地位を築いた。病気のため二度にわたって長期間演奏活動を休止したが、人気はすこしも衰えず、かえって高くなったといわれる。1983年(昭和58)初来日。このときは不調だったが、1986年の再来日で実力の一端を示した。「リストの再来」と称された卓越した技巧に加え、情緒あふれる叙情的表現を得意としており、ショパン、シューマン、スクリャービン、ラフマニノフなどで独自の境地を開いた。(日本大百科全書ニッポニカ)(写真左・トスカニーニと)

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 ひびの入った骨董 吉田秀和の伝説のホロヴィッツ批判 全文を読む 音楽評論家の吉田秀和さんが亡くなって、今月の22日で10年になります。芸術の深淵(しんえん)へと柔らかい言葉で多くの人々を導いてきた巨人であり、音楽にとどまらず、文学、美術、さらには相撲まで、異なる世界が垣根なく結ばれ、新たな表現の可能性を探っていた時代そのもののような存在でもありました。/その名を最も広く知らしめたのが、1983年の「ホロヴィッツ事件」でした。世界最高峰のピアニストの晩年の演奏を「ひびの入った骨董(こっとう)」と評する勇気は、日本のみならず、世界の音楽業界に大きなインパクトを残しました。(右写真・吉田秀和さん=2007年、神奈川県鎌倉市の自宅で:朝日新聞)

 この「事件」には後日談があります。吉田さんの批評を伝え聞いたウラディーミル・ホロヴィッツその人が、「あの時の演奏は本領ではなかった」として、代理人を通じて自身の演奏テープを送ってきたのだそうです。しかし吉田さんは、「生演奏でなければ比較はできません」として聴くのを断りました。こうした芸術という世界に対するシンプルなリスペクトが、自らの心に対する偽りのない、洗練された言葉の源となったのかもしれません。その3年後、ホロヴィッツは日本で再起の名演をきかせました。(左写真・吉田秀和さんの「酷評」が出た3年後に再来日し、再起の名演を聴かせたウラディーミル・ホロヴィッツ=1986年6月21日、東京・三軒茶屋の昭和女子大人見記念講堂:朝日新聞)

 吉田さんの没後10年を機に、その「伝説の原稿」である1983年6月17日の「音楽展望」を、いま一度お読みいただければと思います。これからも随時、吉田さんの「音楽展望」をデジタルにて再掲載していきます。それぞれの芸術の世界に住まう人々と、ことばの世界に住まう人々が接点を持つ機会がかつてほど多くなくなった今という時代において、批評や評論といったものは、社会においてどのようなダイナミズムを持ち得るのか。吉田さんの問いかけは、今なお極めてアクチュアルであるように思えます。(編集委員・吉田純子)(朝日新聞・2022年5月20日 14時00分)(https://www.asahi.com/articles/ASQ5M5WJ9Q5MULZU004.html)

● 吉田秀和【よしだひでかず】= 批評家。日本の音楽評論を批評の域に高める優れた批評的エッセイを残した。東京日本橋生まれ。外科医の父が小樽の病院長に就任したため,少年期を小樽で過ごす。小樽市中学で伊藤整に英語を習う。旧制成城高等学校をへて1936年東京帝国大学文学部フランス文学科卒業。成城高校時代に,中原中也からフランス語の個人教授を受けた。小林秀雄,大岡正平らとも交遊関係があった。1946年,《音楽芸術》に《モーツアルト》を連載,本格的な批評を始める。1948年,斎藤秀雄らと〈子供のための音楽教室〉を開設,初代室長となる。〈子供のための音楽教室〉は後の桐朋学園音楽部となり,小澤征爾ら多くの優れた音楽家を輩出した。1957年,柴田南雄らと20世紀音楽研究所を設立,所長となる。1988年水戸芸術館館長に就任,1990年,すぐれた芸術評論に贈られる〈吉田秀和賞〉(吉田秀和芸術振興基金主催)を創設した。その間,音楽のみならず,和洋の文学,美術についての該博(がいはく)な知見を踏まえて,芸術全般にわたって精力的に批評活動を続けた。独,仏,英語に通じ,翻訳も数多い。《吉田秀和全集》第1期,第2期(全24巻,1975年―2004年,白水社)が刊行されている。文化功労者(1996年),文化勲章受章(2006年)。(日本大百科全書ニッポニカ)

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む可し幾計 秩父殿さへ 寿まふとり

【卓上四季】相撲を愛した 取材した相手の第一印象をずっと覚えていることがある。15年ほど前に初めて話を聞いた元横綱の白鵬もそうだった▼「北海道は涼しくていいですね。(モンゴルと)似てるから」。こちらの記者証を目にすると、声をかけてくれた。猛暑の名古屋場所。厳しい朝稽古を終え、くつろいでいる。綱を張ってしばらくたっていた。やさしい笑顔で穏やかに語る様子は好青年そのものであった▼その後の歩みは言うまでもない。史上最多の優勝45回をはじめ、前人未到の記録を打ち立てた大横綱となる。八百長など大相撲の不祥事が相次ぐなか、一人横綱として土俵を支えた。双葉山ら先人に学ぼうとする姿勢が際立った▼慢心があったか。乱暴な取り口や言動で品格を問われる場面もあった。現役引退後は後進の育成をめざしたものの、弟子の暴力問題を放置し自らの部屋の閉鎖に至る。ついにきのう相撲協会を去った▼「相撲に愛され、相撲を愛した25年でありました」。会見での発言に偽りはなかろう。ジュニア大会「白鵬杯」を成功させ、東日本大震災の被災者を励ました。相撲への強い思いを阻んだ壁はなにか▼平成以降、横綱が幾人も角界を離れた。協会は再び貴重な人材を失ったことになる。組織で力を発揮してもらう道はなかったのだろうか。10年、20年先の角界の姿が気がかりだ。(北海道新聞・2025/06/10)

 相撲は国技だという。柔道も国技だといわれている。そうなんでしょうか。そうでない気もします。「国技」とはどいうものなのか。いかにも相撲は国技らしい風儀を大事にしてきましたが、ぼくの見立てでは「運動版歌舞伎」みたいなもので、型(姿)を大切にした見世物(興行)だという気がします。それがまるで「格闘技」のようになったのも現在の大相撲の、ある種の袋小路にはまり込んだ一因であったかもしれません。何百人もの人間集団が、小さな「相撲部屋」を構成して一門を名乗り、その一門対抗の「はだか歌舞伎」(興行)だといってもいいかもしれない。相撲の歴史は古いのでしょうが、明治以前は「勧進元」が差配した見せ物興行だったでしょう。

 ぼくが小学生の頃、今から七十年ほども前のこと、年に四場所の本場所はラジオ中継が主だったし、それなりに楽しみになっていました。贔屓の相撲取りは何人もいましたね。名前を出せばいくらでも出てきますが、地味なタイプのお相撲さんがほとんどでした。そんな昔から、やはり「八百長」が噂されていました。勝負に「八百長(手加減)」はつきものと言えば、人間のすることですから、時には加減をしたり、腰が引ける(相手に同情する)こともあるでしょうが、その「八百長」が金になるとしたら、いささか事情は異なるでしょう。現在の相撲協会の歴史の中でも「八百長」が理由で相撲協会から追放された力士はいたのです。もちろん、当の協会は「現在、八百長なんか絶対にない」と公式見解を出しています。しかし、それはどうでしょう。力士も生身の人間、ひたすら勝つこと、真剣勝負にいのちを懸けているといいたいところですが、なかなかどうして、…。 

 いつだったか、元関取が「まともに勝負したら、怪我は当たり前、死人も出るよ」と語っていたのが印象に残っています。ここまでが前口上。

 「優勝45回」の元横綱白鵬が相撲協会から身を引いた(引かされた)。理由はいろいろでしょうが、相撲協会の「格式(しきたり)」を厳守できなかったから、それが第一の理由でしょう。この何十年、ぼくは相撲を観なくなっていましたから、今回の「騒動」にもあまり関心は持たなかった。結局は、ある種の「排除の論理」が奏功したということではなかったか。白鵬(にかぎらず)、外国籍関取に対する相撲協会の「人種差別」や「外国人への偏見」がなかったとは思えない。逆に言うと、排除され差別されているという、常日頃の感情が、いざという大事な場面で表に出るということが根底にあったかもしれない。大相撲も「礼に始まり、礼に終わる」という「礼儀」が過度に尊重される。同じ釜の飯を食った同士が、体を張った真剣勝負という「見世物」を興行するものだと、はっきりと割り切ってしまえば、それほど深刻な事態にもならなかったのでしょうが、「国技」が重きをなしているのですから、「お目溢(こぼ)し」はできなかったのかもしれません。「相撲に愛され、相撲を愛した25年でありました」とはご当人の言葉ですが、「相撲」の中身が問われるべきだったでしょうね。

 チームプレーが肝心要のプロ野球においても、過去に何度か「八百長試合」が事件になり問題となった。それに関与した選手で、「球界から永久追放」を受けた者も何人か出ました。勝負事には、おそらく「手加減」というものは避けられないのでしょう。なぜか。それを「材料」にして賭け事が成り立つからです。競馬や競輪、競艇などの「公営ギャンブル」でもしばしば「不正疑惑」が問題になることがあります。有り体に言うなら「八百長」があったということでしょう。そんな勝負の世界でも、大相撲は一種独特の集団生活を「掟」として歴史を重ねてきました。相撲界の人間はすべて男です。「部屋」という独特の共同生活をしながらの「真剣勝負」というものの維持がどれ程困難か、「日本の国技の主体」とされている「相撲社会」を見ているとよく分かる気もします。「国技の国際化」がもたらしている、ある種の「矛盾」というか「不首尾」がいろいろな難題を生み出しており、その一つの表れが「白鵬追い出し」になったのではありませんか。陳腐な結論ですが、大昔の相撲好き(ファン)の岡目八目でした。

*ヘッダー写真「勧進大相撲土俵入之図 歌川国芳画」:東京都立図書館)(https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/sumo/page1-1.html

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◉ 国技=一つの国の特有な武術、または趣味を発揮した技能、芸能のことで、日本では相撲(すもう)をさしていう。しかし近年の日本野球でも「野球を不朽の国技」とすることが野球協約にうたわれているが、野球ファンにもその趣旨は普及していない。日本において「国技」の初出は、江戸時代の化政(かせい)期(1804~30)に隆盛をみた囲碁を武士階級が国技と称したことがある。1909年(明治42)6月、東京・本所両国の回向院(えこういん)境内に相撲常設館が完成した。当時常陸山(ひたちやま)・梅ヶ谷(うめがたに)の両横綱が並び立ち、大相撲は黄金時代の隆盛を迎え、江戸時代からの掛け小屋から、雨天でも興行できるようになった。この開館式の式辞文中に「相撲は日本の国技」とあって、常設館が「国技館」と命名された。以後、相撲は国技という名称でよばれ、『国技』という相撲専門誌も刊行された。/ いま世界各国で国民的競技national sportsの名称でいわれているスポーツは各種ある。アメリカのフットボールと野球、トルコのレスリング、イギリスのサッカー、クリケット、モンゴル(蒙古(もうこ))のモンゴル相撲、スェーデンの体操と徒歩競技、ブラジルやスペインのサッカーなどがあげられよう。しかし、これらが国技といいうるかは明確でない。古代インドでは、格闘技が盛んであったため、一地方では「力士(りきし)国」と称したことが釈迦(しゃか)伝の経本に出ている。古代エジプトでも、水泳が国民各層に広く行われた時代があった。古代ギリシアもレスリングを市民の体育とした。(日本大百科全書ニッポニカ)

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 (表題句は芭蕉。「この翁塚は、荒川総合支所の裏を通るかつての秩父往還沿いにある。安政2年(1855)建立、自然石の碑には「む可し幾計 秩父殿さへ 寿まふとり(昔きけ 秩父殿さへ すまふとり)」と記されている。
 芭蕉句集によると、元禄4年(1691)の作であり、『古今著文集』には秩父殿(畠山重忠)がその頃、関東に名高い「長居」という相撲取りを負かした話があり、これを詠んだものと思われる。」翁塚 芭蕉句碑:秩父市HP:https://www.city.chichibu.lg.jp/4434.html

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