「軒を貸して母屋を取られる」寸前

 昨日は「穀雨(こくう)」初日でした。「『穀雨』は春の最後の二十四節気で、晩春にあたる時季です。今年は4月20日(日)から5月4日(日)までが穀雨の期間です。穀雨のあとには、夏の始めである『立夏』が続きます。/ 穀雨とは『春雨が降って百穀(ひゃっこく)を潤す』の意で、百穀はいろいろの穀物のことをいいます。つまり、この時季に降る雨はさまざまな穀物を育ててくれる恵みの雨なのです。」(ウェザーニュース)(https://weathernews.jp/s/topics/202504/190145/

 近在の農家さんたちの「田植え」は、一週間程前ですっかり終わったようです。その昔、「田植え」と言えば、一年の最大の農作業・行事で、一家はもちろん、一村が総出で「そろた そろたよ 早苗がそろた」と、まさに一大祭りの如くに賑々しく、かつ豊作への祈りをこめて「田植え」に挑んだものでした。小学校に入りたてのぼくも、よろけながら稲運びをしたもの。自分の前世は弥生人だったことを忘れていません。いまでは、文明の利器というのか、精巧かつ高価な農機具の出番、たった一人で何反もの田植えを、一日限りでこなす。その場面を目の当たりにするのは、実に驚くべき光景です。田んぼに水を張ったのが、三月末頃、そろそろ田植えかと思うのも束の間、気が付いたら、すっかり植え終わっていました。あっけないとは見る者の勝手な言い分で、実は大変な作業なのは言うまでもないことです。(ヘッダー写真「言葉を失うほど美しい、四季折々の『ベトナム棚田絶景』」TABIZINE・https://tabizine.jp/2014/03/10/6975/

 拙宅は市原市と茂原市に隣接していますので、同時に三か所(自治体)の田んぼ(田植え)事情を常に見ることができます。この4月、田植えをしない田んぼが、いずこも相当に増えたという印象を持ち、昨今の米価高騰の状況に、何かおかしい、不可思議なという観察をしています。一年前の二倍は愚か、もはや三倍にも米価が値上がりしている現状は、どこかに明らかな「不正」が存在していることを示しています。あらゆる方面に不正や不正直が瀰漫するのは、なぜかと問うこと自体に、腹が立つのを抑えられません。確かな「法治国」じゃないんですね。どんな悪いことをしても「放置国」だったのだ。農業は儲からないと言われればそれまで。それでいいではないかとは言いません。農家も資金がなければ話にならないのは当たり前ですが、生き馬の目を抜く様な、消費者の裏をかくような「金儲け」が農家・農業にも及んだかとなると、消費者の心も穏やかではないでしょう。五穀豊穣ならぬ護国豊穣、我のみ豊穣など、いかにも殺風景に過ぎますからね。

 「誰がどうしてる、こうしている」と金儲けの算段をなどと、あらぬ噂が耳に入ります。その信憑性は確かめようがないから、放置するとして、その間にも5キロのコメが6千円にも跳ね上がる現実に、ご飯を食べようという気も失われるばかり。一人親世帯の悲鳴が、ぼくのところにも飛び込んできます。いくつかの「しんどい親子・生活苦しい家庭支援NGO」の名ばかりサポーターをしているので、年中米が足りない、食費が足りない、何とかならないかとSOSが届く()。ふんだんにある金ならいざ知らず、なけなしの「金貨銀貨」を食いつぶしている身としては、背に腹は代えられないけれど、「義を見てせざるは勇なきなり」と、これまたなけなしの正義感を振り絞って「ドネーション」に大童(おおわらわ)です。「昨日の我が身」「明日は我が身」の心境・心持ちです。

「お米5kgの平均価格が4000円超えで過去最高となりました。2024年度の食料支援は3月分で終了しましたが、「いただいたものは少しずつ食べること」「食べられることは当たり前ではない」と子どもに言い聞かせているというお母さんからのお手紙に胸が苦しくなりました。子どもたちが、何の心配もなく、お腹いっぱい食べられる日本であってほしいです」しんぐるまざあず https://www.single-mama.com) 

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 そんな気分に襲われている時に【有明抄】の「犬派」「猫派」暇つぶし論に邂逅しました。猫や犬を「飼う」という感覚がぼくには薄い。どちらかというと、「子どもと暮らす」という状況に似ていなくもない。つまりは「ペット」などではないのですよ、ぼくにとって。小さいころから、中断しながら犬や猫と暮らしてきました。現在地に越して以来、目に余る(多すぎて)「猫たち」と暮らしている。だから、ぼくは「猫派」かと訊かれたら、何と答えようか。「犬や猫を飼うことで得られる満足感は、年収が7万ポンド(約1300万円)増えるのに匹敵するとか」など、どこの世界の与太話かと大きな疑いが湧き出てくる。さらには「犬猫がもたらす満足感は年収増ばかりか『結婚と同等の価値』とも」と言ってくれる。何という研究ですか。「結婚と同等の価値」って、どんな価値なんですかと、訊ねたいね。なんとでもいえるさ。

 事のついでに聴きたくなりますね、「子ども一人を飼うと、どれくらいの年収分の増加になります?」と、ね。子どもをペットにする輩もいるし、犬猫にパンツやチョッキを着せる御仁もいる。そこまでするなら、犬や猫も家族だ、「扶養手当」を出してくれと、無粋なことを放言したくもなる。拙宅では、いろいろ取り混ぜて、「ただいま二十匹(前後)」の猫たちが屯(たむろ)し、陋屋を占拠し、湿気った財布を食い破りつつあります。「そういうとこがかわいいんだよね」とは東海林さんだ。いい気なもんだねと、混ぜ返しくなります。ぼくは、犬派・猫派を越えて野良派です。

 (「二十匹前後」というのは、常に出入りがあるからです。我が家が猫の「学校」であるなら、登校拒否もあれば、閉じこもりもいる。飯だけ派もいれば、他家猫もいるという具合で、彼や彼女たちの邪魔にならぬ程度に、ぼくたち夫婦は遠慮しながら、軒下を借りて暮らしている。イノシシはいつでも庭を荒らし回り、最近はアライグマ(狸?)までが出没しだしている。まさに、わが「動物貧国」ですね。

 「軒(庇・ひさし)を貸して母屋を取られる(Give him an inch and he’ll take a yard.)」って、本当に、現実にあるんですよ。

【有明抄】「犬派」「猫派」の価値 わがままで、気まぐれで、ひとの気持ちなどお構いなし。こんな隣人がいたら、誰だって頭にくる。それが猫だとなぜか「そういうとこがかわいいんだよね」となる◆台所のみそしょうゆ並みに、犬猫を家に切らしたことがない、という漫画家の東海林さだおさんが書いていた。犬は日々気をつかって生きている。立場をわきまえ、忠実にまっすぐご主人さまを見つめる…。このあたりの習性に「猫派」「犬派」を分かつ秘密があるのだろう◆英国の研究では、犬や猫を飼うことで得られる満足感は、年収が7万ポンド(約1300万円)増えるのに匹敵するとか。猫は心の健康に効果があり、犬は散歩で運動や他人と交流ができて認知症や筋力の衰えが防げる。そんな医学データもあるから、「お金の方がいい」などと無粋なことを言ってはいけない◆獲物を狙っていて、あと一歩で気が変わり体をなめ始める猫。成果がなければ失敗とされる人間と違い、途中が面白ければいい。そんな生き方がうらやましい、と東海林さん。私たちはペットに「なりたい自分」を重ねているのかも◆ついでながら英国の研究では、犬猫がもたらす満足感は年収増ばかりか「結婚と同等の価値」とも。なに、そりゃ違うだろうって? 家庭の平和を願う研究の信ぴょう性にもかかわることゆえ、これ以上の言及は厳に慎みたい。(桑)佐賀新聞・2025/04/20)

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「徒然に日乗」(722~728)

〇2025/04/20(日)昼前に買い物で茂原まで。予報では本日も高温だと言われていたが、今にも降りそうな曇天が続いた。▶帰宅後、鎌倉のAさんから電話。昨日、当方から二度ばかり携帯に電話をしたが、繋がらなかった。送っていただいた論文のお礼を。久しぶりだったこともあり、長々と話した。何年ぶりか。曖昧な記憶だが、おそらく東日本大震災発生時以来だという。その際には、都内上野辺りで逢った記憶がある。その後、彼は宮城県の国語教師業を定年で退職し、鎌倉に転居したと思う。父親の旧居に住むことになったという。細かいことは聞かなかったが、5月の連休明けくらいに再会しよういう話になった▶小一時間ほど、庭の草取りをした。蒸し暑い日で、あまり長くは続けたくなかった。スローペースで、気長に草木と戯れようと思う。(728)

〇2025/04/19(土)午前中、ほんの一時間ほど庭作業。驚くほどの高温で、早々に引き上げることにした。隣の市原市地区では30℃直前まで上昇。4月段階で30℃の記録も出る気配。この先が思いやられる。群馬県の舘林では午後に30度を超えたという。明日も同じように真夏日級の高温が記録されそう▼米大統領はFRBの議長の首を切ろうとしている。関税政策の出鱈目で、株価下げ、ドル安、国債投げ売りと「トリプルパンチ」を浴びたのは、関税問題ではなく議長が「金利を下げないからだ」と放言し、全能の神宜しく、彼の解雇を主張しだしている。まるで我が邦の故元総理の政策紛いと同じ。日銀総裁の首を挿げ替え、国債は無際限に増刷し(その大半を日銀が買いとる)、株価をひたすら上げることに専心。企業に多大な利益をもたらした、その結果、今日の惨状を招いたのだが、米大統領も同じ轍を踏むのか。アメリカ売りがさらに助長されるだろう。この馬鹿殿に文句の一つも言えない愚者の取り巻き、それがアメリカ政治権力の中枢にいるのだ。日米関税交渉とは何だろうと、あらためて根っこにある問題を考えてみる▶卒業生のAさん(鎌倉在住)からレターパック。現代韓国に関する二本の論文が入っていた。(727)

〇2025/04/18(金)お昼前に目医者に。大変な混雑。しかし、意外に早く診察の順番が来た。ほとんど治癒したようで、「やはり虫刺されだったか」と医者。「あるいは皮膚科に行くべきだったね」とも。「今からでも行かれるか」と訊かれて、「結構です」と。また、この後「一般の目の検査をしますか」と訊かれたが、「今回は止めておきます。いずれ、少し目が悪くなったら」と答えて、今回の診察を終えたことにする。これでまずは、目医者の診療は終了▼T氏からメール。21日の件、予定通りに午後一時前の電車で、茂原駅に来るという。小沢氏も同じ電車か、とも(726)

〇2025/04/17(木)陽射しもあり、好天に恵まれる▼午前中に買い物で茂原に。物価高騰が収まる気配がないのは、政治不在が厳然と存在しているからだ。ガソリンも、当地では1㍑当たり180円を超えている。未曽有の高止まり状態。それぞれが絡みながら、何時までも続く物価高を当然視している用紙が伺える。紛れもない「増税」に手を貸しているとしか思われないのだ▶庭作業をするつもりだったが、本日は中止。体力の消耗えを防ぐため。少し気温が高く、20℃程度で、大量の汗が出てくる。体力の消耗を防ぐことの方が、草取りをするよりも、現段階では、わが身にとってはるかに重要。(725)

〇2025/04/16(水)午前6時過ぎに「ビン・カン回収」(月一・第3水曜日)に合わせて、袋に詰めて回収(収集)所に持っていく。少しは猫缶の数量が減った気がする。同じ種類のものに飽きてきたのだろう。代わって、最近、外にいる猫が、増えてきている。始めは一つ、やがて二つになり、今では三つにまで。いずれも近所の猫(野良同然の扱われ方)と純野良君たちである。家の猫たちと同じものを食べるので、全体としての分量は変わらないのだ。気候が暖かくなってきたこともあり、冬季の間は中断していた「フロントライン(蚤・マダニ等の駆除溶液)」を始めた。この薬も値上がりしている。18本で一万五千円弱。これを年間(約10カ月)続ける。大変な費用になる。四日ほど帰ってこなかっ♂が戻ってきた。あちこちに怪我(喧嘩だろう)をしている。この時期、♂だからということもあるだろう。真夜中であれ、早朝であれ、喧嘩の声が聞こえたら飛び出すことになる。大怪我をされては大変だからだ▶久しぶりに庭作業。主に草取り。時期が遅れたが、百日紅(さるすべり)の枝落としなど。かみさんもやってくれていた。(724)

〇2025/04/15(火)朝方少し雨が残っていたが、午前中からは快晴。ごみを焼却し、少しばかり庭の草取りをした。この数日間は晴れと雨の代わりばんこで、庭の草たちが思い切り成長した。その伸長力の勢いは驚くべき。桜も一段落で、東側の竹藪の山桜は、おとなしく満開を迎えている。樹齢は何年ぐらいだろうか。少なくとも百年どころでないことは確かだと思う。本当に少しずつ、庭作業を始めたい▶明日は「ビン・カンの収集日」、例によって猫缶とペットボトルの運び出しの準備をした。小さなペットボトルが相当数溜めてあったので、それも一気に準備(ラベルはがしと踏み潰す)した。これらを明朝早く、備え付けの収集ネットに詰めるので、朝一番に袋を取りに行く予定▶夜9時ころだったろうか、猫が変えるのを待って居間にいると、暗い中でもそもそ動く影が見えた。ひょっとして、と思ったら案の定だった。去年の秋ごろだったか、同じような時間帯に、小さな影がガラス戸越しに映る。よく見ようと戸を開けた途端、鼻さきに小さな狸が。相手も驚いたが、当方もびっくり。今夜来たのも、同じ一俗のものだったろうか。外猫用に「ドライフード」を軒下にたまに置くことがあり、それを目当てにしたのだろうか。このうえ、狸とまで付き合う気にはならないのだが。「狸」ではなく「アライグマ」かもしれないとも思っている。買われていたのが野生化し、繁殖したと県の報道には出ていたので。なかなかに獰猛らしい。(723)

〇2025/04/14(月)昨日の雨天から一転、穏やかな陽光に恵まれた▼午前中に眼科医に行く。虫に刺された傷口から黴菌が入って化膿したのか。土曜日の診察後に帰宅して、それがはっきりしたと思う。二日経過し、腫れも引いたし、目の痒みも薄れた感じがする。その旨を医者に話し、処方された薬(点眼薬と塗り薬)を続け、今週末の金か土に再度診察の段取り。このままで治癒してくれることを願う▼午後3時ころ、元同僚のI さん(数量経済・統計経済学者)から電話。彼は熊本の人。現在は千葉の柏市に居住。21日(来週月曜日)に昔の仲間(同僚)で集まる会、残念ながら急用でキャンセルとのよし。早速、Tさんに連絡しておく。T さん、寿司屋の予約は取れたのかどうか。(722)

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強請(ゆす)れば強請るほど…

◎週初に愚考する(六十六)~ 「なりふり(形振り)構わず」、今回の米大統領の高関税発動というブラフ(bluff)をみて、経済のド素人である拙者は、この言葉を使いたくなった。その心は、自分をデカく見せたいのとアメリカを大きく強い国であると言い張るだけの「空虚(emptiness)」な去勢(同語反復)の再々現だったと思う。遥か後ろに屯(たむろ)していたと見下し、「惰眠を貪って」安閑としていたツケがここに回ってきたのだ。つまりは「張り子の虎」視していた中国の著しい擡頭ぶりに肝を冷やしたというばかり。国力の指標は経済力と軍事力と見なされてきたが、この二つの目印・目盛りはともに、米中の序列は逆転したとは衆目の一致するところとされる。この国家危機(国難)に臨んで、「一発逆転」を狙ったまではよかったが、何しろ「実力・資質・品性」がない上に準備がまったくなかったのだから、誰だって、実力の伴わない「四番バッター」の足元(馬脚)を見るだろう。「顔を洗って出直します」と、高慢ちきな大統領自らが言ったに等しい構図が描けそうです。(上図表は「エコノミスト」誌」より)(https://weekly-economist.mainichi.jp/articles/20190924/se1/00m/020/024000c

 日米関税交渉(Japan-U.S. tariff negotiations)とはいうものの、何のことはない。二国間の貿易不均衡、貿易構造問題に姿を変えているのは、まさしく、そこに米国の窮状が透けて見えるからだというもの。アメ車が日本で売れないのは、日本の規制が厳しいからであり、それを何とかしろというのは、はたして「関税問題」か。性能が悪い上に、値段が高いからという、当然の欠陥を直視しないのは、アメ車の駄目さ加減を知っているからだろう。もっと農産品の市場開放をと脅迫するが、脅しに屈しては日本の農業はさらに窮状に嵌るだけ。今だって、日本は米国産品を買いすぎている。アメリカ産出エネルギー事業にもっと投資を、もっともっと戦争の武器を買えという、「もっとの連発」の段になると、交渉役は、机をたたき背中を向けて帰国してもいい話ではないか。二国間交渉というのは米国には好都合だし、その一番バッターが日本と来た日には、好き放題の「ブラフ」がかけられると踏んだからである。脅しや強請(ゆすり)には格好の相手と見透かされたもの。強請れば強請るほど、思い通りに「言いなりになった」元総理大臣もいたしなあ、と。

 そこへ来て、追加関税発動の90日間停止とは、つまりは「この話はなかったことにする」というチャラすぎる結末。中国に145%の関税賦課を実施すると、驚くなかれ、米国内ではアイフォン一台が50万超(円)になると聞かされて、驚き、慌てて「訂正」「修正」「取り繕い」に奔るあたり、Tが愚かなら、取り巻き(entourage)までもが愚かしいことが判明したというお粗末加減だった。関税はかけられた国が払うのだと、信じていた節があるとは、お粗末以下の以下、なんというべきか、底なし沼の馬鹿さ加減です。そして、今次の大騒動に関する、いくつもの論評を見たり読んだりしていると、多くは「トランプは終わった(賭けは済んだ)」(Trump is over. (the cards are done.)とある。虎の威を借りる「狐」は腐るほどいるけれど、猫に鈴をつける輩(鼠)は何処にもいないのか。そうだろうな、そして思う、「岩盤支持層」は、本当に「岩盤」だったのかどうか、と。多くの支持層は逃げ出す算段に忙しい。

 そういうことなのだろうか。こうなると、「急いては事を仕損じる(Hurrying makes a mistake)」となるのは目に見えている。我が邦の交渉役も、揉み手をし、腰をかがめて、ご機嫌を取る卑屈な態度をを辞めなけれぼ。乾坤一擲、今こそ「弱り目に祟り目」とばかり、相手国に、少しは反旗を翻したらどうか。きっと「飼い犬に手を噛まれた」と悔しがるだろうに。国王(独裁者)に逆らうものはただでは置かぬとばかり、並みいる高学費「大学」に「制裁」「お仕置き」を喰らわせるというのも、ご愛敬。何をしているか、自分でもわからないのだろう。大統領になれば、二日間で「ロシア侵略戦争」を終わらせると強弁(ハッタリ)していた件、とても簡単には終わりそうにないから「手を引く」と泣き言を垂らす。「和平」や「休戦交渉」に真剣味がなかったことが、改めて明らかになっただけ。ぼくは何度でも言いたい、ここがチャンス。アメリカの「ケツを舐める(Licking ass)」(大統領自身が、記者たちの前で使った「卑猥・下品この上ない言葉」)、舐め続ける恥辱・愚行を今こそ、この国は漱(すす)ぐ時が来たのだ。

 敗戦後、八十年というけれど、言葉を変えれば「アメリカ(米軍駐留)支配)八十年」ということと同義となる。隷属(subordination)八十年を止める、千載一遇の好機到来だと思う。右に行こうが、左に行こうが、いずれにしても進退谷(きわ)まる事態は避けられないなら、自ら選んだ道で「谷まろう」ではないか、と拙者は愚考している。いやなこと夥しいが、この先、大変な「事変」が起る予感がする。

Trump says countries are “kissing my ass” to make trade deals U.S. President Donald Trump on Tuesday (April 8) said countries are “kissing my ass” to secure trade deals hours before increased tariffs were levied on China.(Reuters・2025/04/08)(https://jp.reuters.com/video/watch/idRW541209042025RP1/

【大観小観】▼トランプ関税に対する交渉が、日本が先頭バッターで始まった。しかし、いったい何を交渉するのか? ホワイトハウスの庭でトランプ大統領が得意気に掲げたボードの数字は、ノーベル賞学者も驚く根拠レス。着地点が全く見えてこない▼すでに自動車関税25%、鉄鋼・アルミ関税25%、相互関税10%は発動中だ。相互関税の日本上乗せ分14%を下げられればいいのか? そのために手土産を献上する。それで何が得られるのか?▼日本の後ろには、日本以上に上乗せされたベトナム、タイなどの東南アジア諸国、報復をいったん中止したEUなどが控えている。下手な妥協をすれば、世界の自由貿易体制は崩壊し、他国の恨みを買ってしまう▼トランプ大統領がやっているのは、「アンカリング効果」を狙った交渉術。ビジネススクールならどこでも教えている単純な方法だ。要するに、最初に大きくふっかけて、それを引き下げて相手にうまくいったと錯覚させる方法。ヤクザのやり口と同じだ。無意味な譲歩などせず、のらりくらりで交渉を引き伸ばすのはどうか。いずれ、トランプ大統領は失権し、関税政策は破綻する。(伊勢新聞・2025/04/19)
【あぶくま抄】この道 ♪この道はいつか来た道―。すり切れそうな心を、かつて歩んだいとおしい風景が優しくなでる。北原白秋の詩に、山田耕筰が曲を付けた。「日本の歌百選」に選ばれた童謡の至宝と言えよう▼この道をたどるのも、初めてではなかろう。関税引き上げを巡る日米交渉が始まった。米国側は自動車やコメの対日輸出の増加をもくろむ。為替が議題に上れば、円高ドル安への誘導も現実味を帯びる。「輸出の減速を見据え、国内で消費や投資を増やすべき」と、わが国では早くも内需拡大論が飛び出す▼40年前になる。5カ国の蔵相らがニューヨークの老舗ホテルに顔をそろえた。米国の輸出を増やし、貿易赤字を減らす各国の合意が整った。円高が進み、日本国内では内需拡大へ景気刺激策が取られた。一夜の宴のようなバブルは、デフレという名の凍土に化ける。国民生活が震え続けた歴史に、政府はいまだ「終焉[しゅうえん]」を告げてはいない▼「アカザワ、フー(赤沢って誰なの)」。ホワイトハウスは、相手の交渉役に戸惑いを隠さないとも伝わる。童謡の歌詞は続く。♪あかしやの花が咲いている―。さて、国の浮沈をかけた協議の行方はいかに。あだ花は二度と咲かさぬよう。(福島民報・2025/04/19)

◎ プラザ合意(Plaza Accord)= 1985年9月 22日にニューヨークのプラザホテルで開催された先進5ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議 G5で討議されたドル高是正のための一連の合意事項をいう。当時,アメリカは巨額の財政赤字や高金利を背景にドルの独歩高を通じて膨大な貿易収支の赤字を発生させ,世界的な対外不均衡が問題となっていた。さらにアメリカ国内で台頭してきた保護貿易主義に対抗することもあって,ドルの独歩高の修正を通じて対外不均衡を為替レート調整で是正しようとするものであった。この合意に基づき各国はドル売りの協調介入に乗出し,円・ドルレートでみれば1ドル=240円台となっていたが,85年末には1ドル=200円まで一気に修正された。その後も一貫してドル安が続いたため,今度は過度のドル安がアメリカのインフレ圧力を増すとの懸念が台頭し,87年2月のルーブル合意へといたった。このプラザ合意は,(1) 経常収支の赤字国・黒字国が双方の責任として政策協調を行う,(2) 変動相場制度を継続するものの,ミスアラインメント (実質レートの均衡価からの乖離) の発生時には協調介入を行うという点で,その後の国際通貨制度を方向づけるものであった。(ブリタニカ国際大百科事典)

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自作自演ではなく、自問自答をこそ

 それこそ、何十年にもわたって、「いい授業とは?」という、雲をつかむような問題に首を突っ込んできました。その挙句、勤めを辞めた今でも、その問題から足が抜けなくなりました。「いい授業」がどんなものであるかわからずじまいという恥ずかしいことになってしまった。授業に限らず、「いい」「わるい」をいうときの「いい」は、それこそ時や場所に応じて、いくらでも内容や姿を変えれるんでしょうね。それでもなお、いくらでも姿や内容を変えるような、個々無数の教師による「授業(主観)」に共通する「(こどもにとっての)よさ(客観)」とはなにかということです。果たして、そんなものがあるかと訊き返されれば、返答に窮しますけれど、やはり、どこかにあるような気もするし、なければおかしいということにもなります。それこそが「雲」なんですね。人それぞれという意味は、万人に評価される(評価されない」教師はいないということ、誰もが誰かの教師になれるということでしょう。

 まさに「雲烟変態(うんえんへんたい)」、つかみどころ、とらえどころのないのが「授業」でしょうね。あるいは同じことですが、「雲烟縹渺(うんえんひょうびょう)」、実につかまえることすらできない、はるかかなたには「ある」のでしょうが、そんな「雲」か「霞(かすみ)」かの如くです。あるけれど、手に入れられない、それが「いい授業」なんでしょうね。つかんだと思った途端に姿も形もない、あると思ったのは錯覚、どこかに消える。

 これまでに、ぼくはしばしば教室にいる人たちに向かって「いい人って?」と尋ね続けました。「いい人」は何処にでもいそうで、いない、いざ答えるとなると、とても面倒、なかなか面倒な質問でもあったのでしょう。たくさんの学生たちは、ほとんどが即答できませんでした。それぞれが、自分流の「いい人」を持っていても不思議ではないのに、いざ問われると答えられない。かなり時間をかけても、出される返答は陳腐だったことが多かったと記憶しています。それほど、「いい」というものの尺度が定まっていない社会もまた、考えようによれば、息苦しいのかもしれません。ぼくに素晴らしい答えがあるはずもありませんが、このような曖昧そのままの「質問」には、間髪を入れずに答えられるようでありたいと、ぼくはいつも願っていましたから、自分流の「いい人」論を語ったりしたものでした。問われたことに応えるのは「記憶された知識」であって、それがないと、返答に窮する。つまり、「考える」という働きが極度に苦手なんでしょうか。「学ぶ」は「覚える」でいいのですけれど、覚える前に、「考える」がなければ、それは(言葉の)暗記でしかないんですがね。thinkすることから、thoughtが生まれる。それを知識と言ったり思想と言ったりしていますね。「考えられたこと」です。

 「いい人って、こういう人なんだよ」、それを言うと、「なあんだ」という顔をされたり、実際にそのように口にする人もいました。流行歌の歌詞にある「(わたしの)いい人」は、自分にとっての「彼氏」や「彼女」かもしれないが、さて、ぼく自身が誰かの彼氏(彼女)であったとして、それはどういう「人間か」ということです。勿体ぶっているようですが、なに、応えるのが恥ずかしいだけです、あまりにも単純素朴だから。ぼく自身、できればいつでもこういう人でありたいと念じて来ました。まあ「月光仮面」みたいな人物ですね。「いい人」と、ぼくが思うのは、「身近に困っている人がいたら、何とかして助ける・助けようとする人」でした。自分にできる範囲で助ける算段を、何時だってする・しようとする、そんな人間でありたいと考えてきました。「なあんだ」という顔をされそうですが、どんな顔をされも構わない、ぼくは「そんな自分」でありたいと思うばかりでした。もちろん「助ける」の内容もさまざまです。それを言えば際限がありませんけれど、その場で、少しでも「困った」人が「助けられた(助かった)」と感じ取れるような「助ける」を実践したいというのが、ぼくの宿願だった。雨に降られた人に傘を差しかけてやれるというような、そんな程度のことですよ。

 世の中にあって、単純な問題ほど難しいでしょうね。簡単と思うから、深く考えないで済ましてしまうからです。ぼくは、そんな単純だと受け取られるような問題ばかりに躓(つまづ)いてきました。「いい授業」「いい教師」など、何時まで経っても答えに窮するばかりだったと白状しておきます。このような問題については、この駄文録の一番根っこにある問題であるし、あったような気がしますから、手を変え品を変えて、ぼくは駄弁ってきたようにも思われます。多くの人が答えに窮するというのも、あるいは「質問の仕方」がよくないからだと言われるかもしれない。あまりにも漠然としているからです。たしかにその要素はあります。それでもなお、飽きもしないで「いい授業」「いい教師」と問い続けてきました。その時々で、出てくる答えのようなものは違っていたかもわかりませんが、よくよく見れば、みんながいい授業、いい教師などというものとは大違いであったことだけは確かです。「いい教師とは、教えない教師さ」という具合に。「教えるから学ばない」というのは本当ですね。その反対に「あの教師は教えなかったから、(自分は)自分で学んだ」というのは事実ですよ。

 林竹二さんの「まごまごする能力が教師には必要です」という問いかけはどうでしょう。林さんはギリシャ哲学の研究者、ことにプラトンの研究者でした。同時に、田中正造や新井 奥邃に関する優れた著作も遺されています。ぼくも大きな影響を受けた方だった。若いころは必至で林さんの姿を追っかけていたことを思い出します。同じような時期、灰谷さんからも多くを学んだ。後に一、二度お会いしたこともある。元小学校教師、作家文学者として多くの作品を残されています。二人に関しては、この駄文集録で何度も触れていますので、ここではこれ以上は触れない。

 「まごまごする能力」、それが教師には必要だと林さんは言われる。授業実践者としての教師は、もちろん授業研究の担い手でもあります。その「授業」には、古くからの伝統的「授業論(観)」があります。詳しくな述べないが、何よりも先に求められるのは、教師が授業を実践する際に必要とされるさまざまな目的や目標達成に必要な授業計画を作ることです。日々の授業にはそれぞれに応じた「授業案(学習指導案)」が作られるのが一般的なのでしょうか。

 どんな芝居(舞台)でも、必ず「脚本」(「台本」「シナリオ」)がありますでしょう。よく、「事実」は筋書きのないドラマなどと言われますが、演技者が演じる芝居には必ず「脚本」があって、それに基づいて芝居は展開されます。そして「迫真の演技」などと言われて賞賛されもするし、その反対だったりもします。たぶん、授業もまた「脚本(台本)」のある芝居に擬せられるかもしれない。教師と子どもたちによる「一場の芝居」です。そこには筋書きがあり「起承転結」がなければならないともいわれる。そこで、改めて「まごまごする教師の能力」とは何かと問いなおします。「教師の力量」などと、えんえんと議論されています。その「力量」の中にもいろいろな要素があるでしょう。林氏の言う「まごまごも」、その一つです。

 授業の核心は「問答」です。究極は「自問自答(ask oneself)」でしょうが、授業の中で、どれだけそれが行われるか、教師自身も「自問自答」の道を歩く。「まごまご」というのは、そのような「自問自答」が限りなく続く過程で生じる、「問いが答えを生み、その答えが新たな問いを引き出す」という一連の意識の流れでもあるでしょう。予定調和として授業を捉える人には「破綻」も「混乱」も起こらないでしょう。それをして、ぼくは「自作自演(self-made)」という。でも子どもといっしょに「まごまご(自問自答)」する教師にはきっと「立ち往生する」ことがあるはずです。林さん言うところの「まごまごする能力」はそれを指しているともいえそうです。子どもといっしょに考える、迷う。疑う、問い直す。そんな授業こそが、教師にも子どもにも、何かを齎(もたら)す授業だと、ぼくは思うのです。だから、教師は「これ判る人?」、「これできる人?」などとは言わないことです。子どもの持ち合わせの「知識」に頼るなんて、とぼくは言いたい気がします。持ち合わせの知識を壊すことこそ、実は授業の狙いなんですね。

 つまるところ、「一つの問いには必ず正解は一つ」という教師の描く筋書きこそ、授業のいのちを奪ってしまう。その「正解」は教師自身が決める(知っている)というのは、当たり前の事柄として受け取られるでしょうが、それこそ破綻もない代わりに、展開(緊張)もない授業になってしまうのではないでしょうか。教師が持ち合わせている既存の知識に依拠する授業なんて、さぞかしつまらないでしょうね。

 (今はまったく観なくなりましたが、映画やテレビの「教師もの」「教育もの」は、これまで見た者数は少しばかりでしたが、概してつまらないものだと思いました。まともに授業が成り立っている場面は皆無だったからです。具体例を出したいのですが、今は止めておく。そこには厳密な「筋書」「脚本」が幅を利かせているからでしょうか。授業にも筋書きはあって当然ですが、その筋書きに縛られては授業は生命を失います。その「筋書」は、多くは「授業案(学習指導案)」とされるもの。展開から時間配分まで丁寧に設定されていては、「まごまごする能力」が磨かれないのは当然ですね。その余地(「遊び」ともいう)がないのが「授業」、教師主体の授業なんですから。

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 (以下に「金口木舌」が触れている問題は、後日改めて考えることにします。(とても大きな問題、「教育の質」にかかわる問題ですね)

【金口木舌】社会で子を育てる 教育は「未来への投資」か。哲学者の朱喜哲(ちゅひちょる)さんは問いかける。「社会という単位で考えたとき、それはリターンを計測して『最大化』するような営みなのだろうか」(4月15日付本紙)▼今春から来年にかけて公立、私立ともに所得制限なしで高校授業料が無償化される。歓迎の一方、15年前から実施する大阪で進む公立離れや統廃合、教育格差などの懸念もある▼沖縄は私立が少なく各地で公立の伝統も強いが、影響を注視したい。大前提は経済事情によらず進学先を選べる学びの自由の保障。日本の教育への公費支出は国際水準からほど遠い▼石垣市議会与党などが「日本人優先」を求めて可決した外国人学校への無償化見直しの意見書に「差別助長」の批判が上がる。阿部俊子文部科学相は広く世に還元される高校教育の教育費は社会で支えるもので、「国籍問わず対象」と述べた▼市議会野党による公立への支援拡充を求める意見書は否決された。「リターンの最大化」を教育現場に持ち込むとき、子どもたちの顔がかすんでいく。それで良いのか。知恵を絞り、社会で子を育てる営為を放棄してはならない。(琉球新報・2025/04/18)

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漂白・孤独は「身に纏った法衣」だ

【有明抄】孤独な旅人 米国にも俳句をたしなむ人はいるらしい。いちばん親しまれているのは、やはり松尾芭蕉かと思えば、さにあらず。種田山頭火だという。〈うしろすがたのしぐれてゆくか〉の漂泊の托(たく)鉢(はつ)僧である◆英訳で暗唱されているのが〈まっすぐな道でさみしい〉。何でもない風景に深い孤独がにじむ、この俳人らしい一句である。はた迷惑な自国主義を掲げ、世界に背を向ける大国の一人旅と重なって見えなくもない◆孤独といえば、足元にも気がかりはある。自宅で誰にもみとられず、死後8日以上発見されなかった「孤立死」は昨年、全国で推計2万1856人。8割が男性で高齢者が多かった。仕事中心で人づきあいは同僚とだけ。定年後に周りを見渡せば、心許せる友はいない…。そんなケースを想像してしまう◆ひとり暮らしが全世帯の4割を占めるいま、孤独や孤立を「自己責任」だと片づけていいものか。その対策は水難事故にたとえられる。自分で備える救命胴衣、万一のときに駆けつける救助隊というプロも大切だが、水温が高ければ生きながらえることができる。水温とは「人のつながり」である◆山頭火が亡くなる直前に詠んだ句がある。〈もらうて食べるおいしい有りがたさ〉。清廉なイメージとは異なり、酒好きでだらしなかった孤独な旅人も、人の世のぬくもりを実感したのだろう。(桑)(佐賀新聞・2025/04/18)

 「壺中 の 天地」という言葉が残されています。あるいは「壺中天」ともいう。ぼくは店に入ったことはありませんが、日本橋、高島屋の隣には老舗古美術商の「壺中居」があります。この屋号にぼくは興味をもって、若いころに調べたことがあった。学生になりたての頃、文京区本郷や湯島に何軒かの「古美術商」があり、しばしば暇つぶしに立ち寄っていましたから、いつかは「壺中居」にもと想いつつ、遂に入らずじまいでした。その「壺中の天地」という謂われは、下の辞書の通り。「壺中居」についても、少しは喋りたいことがありそうですが、今日は止めておきます。

◎ こちゅう【壺中】 の 天地(てんち) = 後漢の長房が市の役人をしていたとき、店先に壺を掛けて商売をしていた薬売りの老人が売り終わると壺の中にはいったのを見、頼んで壺の中に入れてもらったところ、りっぱな建物があり、美酒、嘉肴(かこう)が並んでいたので共に飲んで出てきたという「後漢書‐方術伝下・費長房」の故事から ) 俗世界とはかけ離れた別天地。酒を飲んで俗世間のことを忘れる楽しみ。仙境。壺中の仙。壺中の天。壺中。(精選版日本国語大辞典)

 いまでもなお、山頭火という自由律句の俳人を高く評価する向きが少なくないのはご同慶の至りだが、ぼく自身は、ある時期から「世評」には背を向けてきたと思っています。今さらに「孤独な旅人」などと勿体ぶってコラムを書かれると、きっと泉下の山頭火は苦笑いをしているかもしれません。漂白とか孤独というのは、まるで「枕詞」のように山頭火に付されます。もちろん、その意味如何でなんとでも語れますから、どうということではないのですけれども、果たして種田山頭火は「孤独な旅人」であったろうか、そんな疑問や不満がぼくには付きまとっています。「まっすぐな道でさみしい」と詠み、旅籠(はたご)で酒に酔いつぶれて一夜を過ごす。金が無くなれば、「行乞(ぎょうこつ)」と唱えて托鉢して回る。いよいよ金に困ると、ごくごく親しい友人知友に工面方を依頼する手紙を書く。直ちに願いはかなえられることが多かった。語るべき友、頼るべき先輩は彼には当たり前に存在していました。だから「法衣(袈裟)」は「別乾坤」、あるいは「壺中」への制服だったんですね。

 細かくは書かないが、山頭火という人は「自意識過剰」の仁だったと思う。「うしろすがたのしぐれていくか」と、まるで自らの尾羽打ち枯らした後ろ姿にまで意識が及ぶ。コラム氏は「何でもない風景に深い孤独がにじむ」と評価するのも、まるまる山頭火に誑(たぶら)かされているんですね。心底から孤独に魅入られた人、孤独の壺に自堕落してしまった人は「世間の目」「評判」を気にするでしょうか。「孤独」な俳人を言うなら、同時代の尾崎放哉の方がまだしも、「無頼漢」的ではあったでしょう。その放哉にして、彼の生きざまをしみじみと心配する何人もの知己・友人がいたのです。「孤独」を売り物にするといえば言葉が過ぎますが、孤独に襲われていた人が句を詠み、句集を編んで、その評価を社会に求めたりするでしょうか。するかもしれないし、しないかもしれない。ぼくには、「孤独」漂白」は山頭火が背負った「看板」だったと思いつつ、彼を耽読するんですね。

 山頭火に限らず、「世捨て人」と言われるほとんどの人は「世を捨てた」のではなく、いわば「壺中の天地」に活路(生き甲斐・楽しみ)を求めたんではないですか。若山牧水もまた、酒で身を滅ぼしました。「仙境」に遊ぶと言えば語弊があるかもしれませんけれど、「酒を呑んで俗世間を忘れる」、そんな時間や場所を求めるのは、誰彼にもありそうな、珍しくもない心境ではないですか。山頭火を批判するのではなく、きわめて「人間臭い」として高評価するものですが、その観点は「孤独の人」ではなく「孤独を詠み込んだ人」として、ぼくは評価するのです。彼の生き死にした「乾坤(天地)」と、孤独とか孤愁との間にはいくらも距離があったでしょう。

 「自宅で誰にもみとられず、死後8日以上発見されなかった『孤立死』は昨年、全国で推計2万1856人」、この数字を見て、ぼくは驚愕を覚えている。一人で生まれて、ひとりで死ぬのは世の習いでしょうが、でも、それにしても、と我が身に置き換えてこの事態を捉えようとします。しかし、とらえきれない自分がそこに入るのです。こんな死を迎えるために生きて来たのではないと思わなかったか。それすらも、誰にも伝えられずに死地に赴く、「語(ら)れない・語りようのない寂しさ」「腹に応える寂寥感」かもしれない境地をぼくは深く思ってみます。言葉を失うほどの事態にあるのがぼくたちの現実の社会の姿です。「ひとり暮らしが全世帯の4割を占めるいま、孤独や孤立を『自己責任』だと片づけていいものか」、コラム氏の指摘は何を言っても詮方のない誰彼の「生の終わり」に抱く、せめてもの「惻隠の情」の表白の一つでもあるのでしょうか。「家族」「家庭」が壊れ、地域社会が繋がりを失いつつあるのもまた、厳然として「少子高齢化」がもたらす社会相の一側面です。はたして、ぼくたちに何ができるのか、死を前にして。座して死を俟(ま)つ、のか。

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「泣く子と地頭には勝てない」のか

 おそらく、この大統領の頭の中では「朕は全知全能である(I am omniscient and omnipotent)」という信じられないほどの高揚感(Euphoria)があるはずです。自分にできないものやことはないのだという「全能感(omnipotence)」です。「余の辞書には不可能という語はないのだ」とね。何度も触れてきましたが、程度の悪い権力者は、きっと「全能感」に浸ります。自分の言うことを聞けないものは許さないという権力行使は、行きつくところまで行く。「何とかに刃物」という脅威です。その結果は、「カタストロフ(Catastrophe)」に終わるのが通例です。ところが、この大統領は根っからの「強請(ゆすり・extortion)屋」だから、大惨事(取り引き破綻)は願わない。いわば「落としどころ」を求めるのです。自分が「立てられている」「持ち上げられている」「損をしない」結果を、大向こうが認めるような「取り引き」を成し遂げたいだけ。だから目立つこと、注目を集めることなら、何にでも飛びつく。今回の大学統制策は、彼に始まったことではなく、今に始まったことではないけれど、彼ならきっと手を入れるだろうという予測はついていた。「自分に盾突く」相手を遣り込めるのに、全米最古の大学は格好の目標だったでしょう。「相互関税」もその類でした。「自分を売る」パフォーマンス。(だから、各地で<Hnds Off(「手を出すな!」)>運動や行進が起っています)

 細かいことは省きます。このH大学が「抵抗」するのは当然でしょう。特定の大学という「砦(とりで)」は反権力、あるいは非権力であることに存在意義を見出そうとする。それが権力にとっては目障りだからこそ、「補助金」を締め上げる。このH大学はこれまた世界一の金持ちだから、少々の締め上げでは音を上げない。だから余計に権力からすると「腹が立つ」のです。いつの時代でも、時の権力と対峙することに存在意義を求める大学はあるし、それがまた大きな魅力となって協賛の大きな波が寄せるのですが、逆にそれに対して快く思わない「敵」も、大学の内にも外にもにいる。島社会の大学でも、戦前戦後、大学を管理・支配しようとする国家権力との戦い、いわば「大学の自治」をめぐる攻防が起ったし、いわでものこと、そのほとんどは権力側の支配権が勝っている。それが当然ともいえるのは、国が作った大学(国立)、国が認可した大学(私立)だからでした。補助金(助成金)を止めれば、一瞬で死命を制せられる(今日の「大学自治」の実態は、実に惨憺たるもの(「無」そのもの)と言えますね、この国では)

 「学問研究の自由」「大学の自治」などという「錦の御旗」がこの社会に、現にあるかどうか、ぼくは大いに疑わしいと思ってきました。権力の手下には喜んでなる・なりたがるのですが、それに反旗を翻す根性は、残念ながらほとんど持ち得ていない大学(人)ばかりが棲息しているからです。「国庫助成」とか「科学研究費」という名目で、権力への従順度を測る装置を国は作り上げてきました。(「金は貰って文句を言う」とは、いかにも身勝手に過ぎるよ)アメリカも同じ。さまざまな葛藤・闘争を経て、今日、大学は驚くほどの「特典」「恩典」や「優遇措置」を国から得ています。大学の存在理由(研究・教育の公共性)からして当たり前でもありますが、権力者の側からすれば、それほど優遇しているにもかかわらず、「政治批判」「反権力活動」を白昼堂々と行っているのは、断じて許されないと、牙をむく。この「対峙状況」は米国だけの問題ではありません。

 ぼくには「対立」「対峙」の帰趨(落としどころ)は見えているように思われますが、それはまた別の機会に駄弁る。H大学に支持を与える大学は無数にあります。「明日は我が身」と思えばこそ、この「無謀」「無知」な権力者に断固として「盾突く(defy)」ことを喜びとしているかもしれない。大統領、「藪から棒」紛(まが)いの思い付きだったね、となるか、たぶん「藪蛇」になったのかも。(大方の見るところは、結局は、「長い物には巻かれろ(Go with the flow)」ということになる、いずれ「権力の軍門に降る」と。ぼくは違う見方をする。<Hands Off>、さもなければ、…

トランプ大統領、ハーバード大学は「政治団体として課税すべき」...23億ドルの資金提供凍結後 トランプ米大統領は15日、米ハーバード大学が教育省の一連の要求を拒否したことを受け、同大の免税資格が取り消され、政治団体として課税される可能性があると述べた。/トランプ氏は「ハーバード大学が政治的、イデオロギー的、かつ『テロリスト』に触発された『病』を押し進め続ける場合、免税資格を取り消し、政治団体として課税するべきかもしれない」と自身の交流サイト(SNS)「トゥルース・ソーシャル」に投稿した。/ハーバード大学のアラン・ガーバー学長は14日付の公開書簡で、教育省の一連の要求について「私立の教育機関として学問の追究、創出、普及に専念する当大学の価値」を脅かすとして、拒否する姿勢を表明。この数時間後にトランプ政権は同大への連邦政府からの23億ドルの資金提供を凍結すると発表した。/ホワイトハウスのレビット報道官は、トランプ大統領がハーバード大学の免税資格をはく奪する可能性を検討しているかという記者団からの質問に対し、トランプ大統領はハーバード大からの謝罪を望んでいると応じた。/レビット報道官は「ハーバード大が連邦法に従う必要があると、大統領は非常に明確にしてきている」とした上で、「トランプ大統領はハーバード大が謝罪することを望んでいる。大学キャンパス内でユダヤ系米国人学生に対し行われた悪質な反ユダヤ主義について謝罪すべきだ」と述べた。[ロイター](NEWSWEEK JAPAN・2025年4月16日(水)(ヘッダー写真も:トランプ米大統領は15日、米ハーバード大学が教育省の一連の要求を拒否したことを受け、同大の免税資格が取り消され、政治団体として課税される可能性があると述べた。写真は抗議デモの参加者たち。ケンブリッジのケンブリッジ・コモンで12日、撮影(2025年 ロイター/Nicholas Pfosi)(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2025/04/546970.php)
トランプ氏、ハーバード大の非課税資格剥奪ほのめかす投稿 (前略)ブルームバーグ・ニュースの分析によると、ハーバード大の23年度の税控除額は、少なくとも4億6500万ドルに上ると推定される。/社会への貢献を理由に、米国では約1700校の私立大学が非営利団体として運営されている。 ハーバード大学は、教育が免税の対象となるという税法の規定に基づき、非営利団体として登録されている。/タフツ大学国家政策分析センターのエグゼクティブ・ディレクター、エヴァン・ホロウィッツ氏は「これは、ほとんどの大学の現在の財務体制にとって大きな脅威だ。大学は非課税資格を頼りに収支のバランスを取っている。もし連邦政府がこの問題に介入するとなれば、それは寄付金に対する課税強化であり、大学財務の根幹を揺るがすものになる」と述べた。(以下略)(Bloomberg/2025/04/16)(上・ハーバード大学:Photographer:Wangkun Jia/Alamy・Photo/www.alamy.comwww.alamy.com)

◎赤狩り(あかがり)red hunting・red-baiting=共産主義者や進歩的自由主義者を社会的に追放すること。このことばの語源は、中世末期のヨーロッパにおいて行われた魔女狩りwitch-huntにある。アメリカ合衆国における赤狩りの歴史は有名で、19世紀以来、社会主義運動に対し「非アメリカ的」であるという理由でさまざまな迫害が加えられた。とくに第一次世界大戦中から戦後にかけて、ロシア革命への危機感などから、パーマー司法長官のもとで、共産主義者はもとより無政府主義者や労働運動指導者に対する大々的な取締りが実行された。その後、第二次世界大戦中に、1940年の外国人登録法などによって共産主義活動への規制が強化され、戦後、下院に非米活動委員会が常設されるに及んで赤狩りは活発化した。そしてマッカーシズムの出現で一つのピークを迎え、自由の擁護の名のもとに自由の抑圧が進行した。なお日本では、戦前、治安維持法などにより、社会主義運動のみならず自由主義者に対しても激しい弾圧が加えられた。(日本大百科全書ニッポニカ)

◎ 泣く子と地頭には勝てぬ=道理の通じない子供や権力者とは、争ってもどうにもならない。[使用例] 泣く子と地頭にゃ勝てないというが、将棋界は、スポンサーである新聞社には勝てません。組織の一員にすぎない私が、どんなにわめき立ててみても、しょせんはゴマメの歯ぎしりです[升田幸三*名人に香車を引いた男|1980][解説] 「泣く子」と「地頭」が並列され、いずれも手に負えないものですが、主眼は後者にあります。江戸時代の「地頭」は、幕府や各藩が家臣に与えた知行(領地)の領主のことで、地域の徴税や司法に強い権限を持ち、「地頭に法なし」ともいわれました。(ことわざを知る辞典)

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全方位で危機は深まっています

 深刻極まる事態が深く静かに進行しているとみるか、いや、現下の国の状況から見ると、長年にわたり、それこそ親方日の丸でその日暮らしを謳歌して生きてきたのだから、内外多端な折から、こんなこともあるだろうが、いずれ何とか持ち直す、そんな「能天気な」気風・気配が相変わらず横溢しているとみるか。ぼくは、現下の事態を「茹でガエル」状態、つまりは座して(微温湯(ぬるまゆ)に浴して)「死を待(俟)つばかり」どんなものにも、と見ています。少子高齢化は、半世紀も前から分かっていた現象(現実)でしたが、五十年経過して、どれほどの、みるべき行政政策や政治主導がみられたでしょうか。どんなものにも「始めあれば、終わりあり」で、こればかりは逃れようはないのです。

 現段階でもっとも深刻な課題は、この社会の老人介護(保険)体制です。介護に携わる人材が払底して、もはや現状維持はおろか、訪問介護は解体しているとまで見られています。理由や原因は、無数にあると思う。それぞれの局に当たるべき要路に立つ任(の職責)が果たされてこなかったということに尽きる。いまさらの感がありますね。介護に身を置く若者は言うまでもなく、中高年者の姿も消えたのです。「介護難民」という事態は悲惨の一途をたどっているが、ここまで来てもなお、はかばかしい「政治」「行政」の登場はそこには見られません。「おひとりさま」のゆくえは暗いトンネルに続いている。

 また、地方・中央を問わず、公務員のなり手が著しく減少している。魅力のない職場環境、ともすれば「上下(職位職階)関係」ばかりが硬直したまま残されている、まるで軍隊組織のような暗い、鬱陶しい「規律・規則」が張り巡らされた職場に、若い人が魅力や希望を見いだせないのは当然かもしれません。介護保険制度が始まって20年。耐用年数が二十年も持たなかったという計画(政治政策)の杜撰(ずさん)さが、ここにきて露呈しているにもかかわらず、なす術がないのです。「介護」問題だけではない、いたるところで「閉塞」ではなく、絶体絶命の窮迫事態が発生しているのです。

 「人生百年時代の到来」と、いかにも晴れ晴れしいことのように喧伝されて、いくらも経過しないままで、悲惨な結末が見えてきたような気がします。便利さや効率の追求が時代の「符牒」になり、世を挙げて、不便さや非効率を排除してきたのではなかったか。子どもを生む、育てる、老人(高齢者)を介護する、実に時間と手間がかかる作業です、時代の風潮にはは相反すると忌み嫌われてきた結果に、ぼくたちは慌てふためいています。その昔、「教育は国家百年の計」などと重々しく語られたが、その中身は何だったでしょうか。つまらない「点取り競争」「席次争い」「競争教育」が社会の上下を問わず横行したのでした。教師の世界を見れば、一目瞭然。猫も杓子も「役職」にありつこうとしているとは思わないけれど、役職者にあらずば教員ではないと言わぬばかりの「上意下達社会」に成り下がっています。誰が好き好んで、、こんな息苦しい職場に入りたがるのでしょうか。子どもも教師も「息苦しさ」に喘いでいる。窒息寸前、窒息死してしまう人も後を絶たず。学校は本当に機能しているんですか、校長さん、教育長さん、文科大臣よ。

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 兵庫県の県庁採用者の4割以上が採用辞退と、先般ニュースになりました。高知県の小学校教員採用試験合格者の7割以上が採用辞退したと、驚きをもって報じられました。これは大変と、採用試験を一層早くする動きがあります。大学3年生の段階で受験機会を設けるところもある。このままでは、高校段階で「青田買い」が始まるでしょう(既に始まっている)。いずれ大卒者は「金の卵」と持て囃されることは必至です。どんなことをしても、金(札束)をどれだけ「ぶら下げても」、事態の悪化は避けられないとぼくは確信しています。理由は単純。国の姿・形が否応なく変わらざるを得ないにもかかわらず、「古い背広」や「時代遅れ」の意匠を踏襲している、その無感覚さにあるのです。「明治の皮袋に令和の酒を」、そんなスカタンの錯誤が瀰漫していませんか。「青田買い」が嵩じると、「苗床買い」、「種籾(たねもみ)買い」が横行するに違いありません。子どもと見れば、誰彼構わず「唾をつける(kidnapping)」という風潮が蔓延するでしょう。至るところで「売り手市場(seller market)」が出現する時代。

 そしてまたぞろ「産めよ増やせよ」という号令(命令)がかかる。この国は、例えはよろしくないけれど、いわば「絶滅危惧国(レッドリスト国)」に該当します。一面で、それは心穏やかではありませんが、他面では滅びるのもまた自然ともいえます。栄枯盛衰は「歴史の道」でもあります。ぼくが住んでいる「町」、十一年前に移住してきたとき、町の人口は約7500人でした。現在(2025年3月)、6201人。凡そ年平均100人減。この先、加速度的に人口減少は続くとなると、やむなく近隣自治体と合併して余命を保つのでしょう。「弱と弱の野合」が何を齎(もたら)しますか。それもかなわなくなると、多くの自治体は消滅不可避。これはすでに方々で生じている事態です。これを止めることはできないのも「歴史の道」でしょう。国の人口はおそらく、平均すると年間で百万人減少状況がしばらく続く。その後は、よほどのことがない限り減少数は加速します。この状況で、人口増が画期的に図れなければ、百年以内に「国」は消滅します。もちろん、人間はいくらか残ってはいるでしょうが。まあ、縄文時代への先祖返りです。物の本が教えるところによると、縄文中期(紀元前2000~3000年)には劣島全体で25~30万人だとされる。(根拠薄弱ですが)

 今この段階で、国や社会は何をしなければならないのでしょうか。答えはあるようで、実はどこにもない、ないようで、どこにでもある? 金をばらまくことでもなければ、減税をすることでもありませんね。「国家百年の計」とは何か、そんな問題に迫られているんですが。残念ながら、そんな大問題に取り組む必要性を認め、実際に取り組んでいた政治家・行政官は皆無でしたな。

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 「採用予定者の「辞退」が4割超の兵庫県…斎藤元彦知事のゴタゴタに嫌気?理由は他にもありそうで  兵庫県が本年度新規採用した150人の総合事務職(大卒程度)のうち、46%に当たる69人が辞退したことが明らかになった。採用方式の変更があるとはいえ、辞退率は前年度より約20ポイント上がった。同県では昨年来、斎藤元彦知事のパワハラなどを巡るゴタゴタが収まる様子を見せない。入庁予定者もさすがに嫌気が差したのか」「少子化や人手不足の影響もあり、大学生の就職活動は売り手市場が続いている。総務省のデータによると、2023年度の地方公務員一般職員の受験者数は約39万9000人で、10年前の約58万4000人から20万人近く減少した。競争率も7.9倍から4.6倍に減った。/自治体職員の仕事は多様で、必ずしも希望する仕事を任せてもらえるとは限らないことや、採用活動の時期の関係で、民間と掛け持ちで就職活動が難しいことなどが、志望者が減少する要因との指摘がある。近年は、人材確保のために新卒給与を引き上げる企業も相次ぐ一方で、公務員の給与は基本的に年功で決まる。住民からの過度な苦情を受けるといったハラスメントも問題となっている」(東京新聞・2025/04/12)

 「小学教員合格者280人中204人辞退 大学3年生の『青田買い』に踏み切る高知県の現実」「高知県は令和7年度採用(6年度実施)の1次試験を他の地域より約1カ月早く実施したものの、合格者の約7割が辞退。12月に実施した2次募集で何とか例年並みの人数を確保した。全国的にも6年度の採用倍率は2・2倍と過去最低を記録。文部科学省は今年度から試験日の基準を民間並みの5月11日に前倒しするよう各教育委員会に要請し、一部では試験を1年前倒しして大学3年生に内定を出す制度を創設するなど試行錯誤が続く」(產經新聞・2025/04/06) 

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 教員なり手不足 採用試験前倒し進まず 国が要請も… NHK調査 教員のなり手が不足。文部科学省は、ことしの教員採用試験を民間企業の採用面接が始まる前の5月に前倒しして実施するよう各自治体に要請しています。しかし、応じたのは全国5つの自治体と、わずかにとどまっていることが分かりました。(中略)/しかし、NHKが全国の都道府県や政令市など68の教育委員会に実施状況を調べたところ、国の要請に応じて今年度前倒しして試験を行うのは▼新潟県、▼島根県、▼山口県、▼長崎県の4県と、政令市の▼新潟市のあわせて5つの自治体にとどまることがわかりました。/昨年度5月に試験を実施していた4つの自治体をあわせても今年度、国が要請する5月11日前後に試験を行うのは9つの県と市のみで、多くの自治体が試験の前倒しを見送った形です。(中略)

 公立学校 教員4700人以上不足 調査も 教職員組合の調査で全国の公立学校では、去年少なくとも4700人以上の教員が不足しているとされています。/全日本教職員組合は毎年、教員不足の状況を調査していて、去年10月時点の教育委員会もしくは組合員から回答が得られた都道府県と政令市のあわせて45の教育委員会の結果をまとめています。/それによりますと、各教育委員会の計画に対し不足している教員の数は、▼小学校で2241人、▼中学校で1294人、▼高校で383人、▼特別支援学校で506人などと全国の公立学校で少なくとも4714人に上るということです。/前の年の調査でも回答した34の教育委員会に限定して比較すると、不足は3125人となり1年で1.2倍に増えています。/現場の教員からは「教員が未配置のため、ドミノ倒しのように病気休職者が出ている」といった声や、「欠員が出ないように教育委員会が責任をもって採用してほしい」などといった意見が寄せられたということで、教員をどう確保していくかが課題となっています。(以下略)(NHK・2025年4月15日)(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250415/k10014779661000.html

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