死亡数が出生数を上回った

 何かを心配しているのではなく、数字を眺めているだけです。昔からデータを読む、見るのが趣味になっていました。黙って長時間眺めていると、いろいろなことが思い浮かんでくるのが興味深いからでした。もちろん、官公庁によって「公式」に発表される数字(データ)がいつも事実を表しているとは限りませんから、その点は割引きしなければなりません。シレっと文書改竄したり、データを捏造するのは、官僚たちの「得意技」で、官僚になるんは必須科目ですね。政治家が嘘を吐を吐(つ)くのも、生来備わっている資質。この「人口動態(人口推計)」は国勢調査に基づいて出てきた数値ですから、大きく現実を歪めているとは考えられません。おおむね、人口の動静を示していると思われます。さまざまな報道がなされていますから、事あらためてここで、素人が何かを言う必要性もありません。ただ、人口減少のこの傾向は早まる(加速する)ことはあっても、緩慢にでも回復(増加)することはなさそうだという点は指摘できるでしょう。(右図「明治維新以降、日本の人口は急激に増加。2008年にピークの1.28億人となり、11年に完全な人口減少社会に入った。50年に1.02億人、2100年に0.75億人と、今後も急速に減少する見込み(国立社会保障・人口問題研究所「主要国の人口および人口増加率」、総務省統計局「世界の統計2021」を基に編集部作成)」(日経クロスウーマン=https://woman.nikkei.com/atcl/column/21/070200024/070500001/?P=2

 「人口ピラミッド」と呼ばれるデータを見ていて、いわゆる1971年~1973年生まれの人々(戦後の第2次ベビーブーマー)が70歳を超えるころ、15歳~64歳(いわゆる生産労働人口)の人々の総数は先細りで、社会福祉などのインフラを支える状況が今とあまり変わらないとすると、おそらく制度的には破綻をきたす恐れが多分に考えられるでしょう。少子高齢化は、年々歳々厳しい状況に移行してることがわかります。教育機関(幼稚園や学校)の統廃合は、今以上に急激に進む。仮に100人で支えていた制度や組織のメンバーが半分以下になると、インフラを維持することは極度に困難になる。あるいは支えきれなくなるのは当然です。自治体の合併もその窮余策一つの表れです。今後は県単位で「合併」「併合」は起こってくる。主導権争いで、また「人口」が減るかもしれませんね。

 ぼくたちは、「少子高齢化」という言葉をなんとなく使いはしますが、その実態やそれがもたらす各方面の影響については十分に視野に入れていないのではないでしょうか。もちろん、それを心配しても仕方がないのでしょうが、今の三十代の人が、二十年後、三十年後の社会全体の姿や様相がどのように変貌しているかを視野に入れておくことは、自らの生活設計の上でも無意味であるはずもないでしょう。生活なんて、「出たとこ勝負」という人もいるでしょうが、それでも、此の窮地を凌(しの)げるものでもなさそうです。「限界集落」「消滅自治体」などと、あまり楽しくない話題が多い中、それをやり過ごしていると、ある時期には取り返しのつかない事態の中に「自分」が取り込まれていることに気が付いても、手遅れだということになりかねません。大半が「ホームレス」になる、そんな余裕すら失われています。

【水や空】止まらぬ人口減 ずっと前にこの欄で「ニュースとは何か」を語った同僚の名言を紹介したことがある。いわく「読んだ人を笑わせるか、泣かせるか、怒らせるか、びっくりさせるか。それが『ニュース』で、残りの記事はただのお知らせ」▲この説によるならば、少子化や人口減少の記事はもう“ニュース”ではないのかもしれない。何回か読んでも感情には迫ってこないし、どんな数字を見せられても驚かなくなった▲昨日の記事-。総務省が公表した昨年10月1日時点の人口推計によると、日本人の数は1億2029万6千人で、この1年で89万8千人減った。マイナスは14年連続で減少幅は過去最大。都道府県別で人口が増えたのは東京と埼玉だけ▲全ての都道府県で死亡数が出生数を上回った。転入数と転出数の過不足をみる都道府県別の「社会増減」はプラスとマイナスが半々。縮みゆくパイを同じ悩みを抱える者同士が奪い合う図式がくっきり▲ところで冒頭の名言だが「再現が不確実だ」とクレームが付いていたのを思い出した。もう一つ〈読んだ人を考え込ませる〉も言ったはずだ-と発言者。謹んで訂正を▲少子化も人口減少も理由は一筋縄とはいかず、個人の努力には限りがあり、しかし、事態は深刻で…。何人ぐらい考え込んでくれたか、と考え込んでいる。(智)(長崎新聞・2025/04/16)

 人口推計(2024年(令和6年)10月1日現在)   *総人口は55万人の減少、14年連続の減少 日本人人口は減少幅が13年連続で拡大 総人口は1億2380万2千人で、前年に比べ55万人(-0.44%)の減少となり、14年連続で減少しています。 日本人人口は1億2029万6千人で、前年に比べ89万8千人(-0.74%)の減少となり、13年連続で減少幅が拡大しています。                *18年連続の自然減少、減少幅は拡大 自然増減は89万人の減少で、18年連続の自然減少となり、減少幅は拡大しています。 男女別にみると、男性は45万3千人の減少、女性は43万7千人の減少となり、男性は20年連続、女性は16年連続の自然減少となっています。                                                      *日本人は2年ぶりの社会減少、外国人は3年連続の社会増加 社会増減は34万人の増加で、3年連続の増加となっています。 日本人・外国人の別にみると、日本人は2千人の減少で、2年ぶりの社会減少となっています。外国人は34万2千人の増加で、3年連続の社会増加となっています。(総務省統計局人口推計(2024年(令和6年)10月1日現在)(https://www.stat.go.jp/data/jinsui/2024np/index.html

 今から半世紀も前(1970年代前後)までだったら、二世帯家族(親子)は言うまでもなく、三世帯家族(祖父母・両親・孫)も当たり前にみられていたでしょう。家制度というものが旧来に復することはあるはずもないと思われますから、核家族化の急激な展開の結果、今では最少単位にまで「核分裂」して親一人子一人世帯が珍しくもない事態にあります。この問題は福祉や介護の領域の問題として見られがちですが、そこにおいても「少子高齢化」は、社会現象としては、国の制度組織を維持するという観点においても厳しい一面は否定しようもないでしょう。社会全体の人口構成を見ても、15歳以下が間もなく全体の1割を切る傾向がみられます。いわゆる生産労働人口(15~64歳)も5割にまで低下する、そのような社会が十年もしなうちに現実のものになるのです。

 この問題に明るい未来展望もなければ、画期的な政策(解答)があるとは思われません。減少(縮小)化するのはある種の自然現象であるとみておけば、人の一生、単位家族の運命と同じように、流れる方向は一つです。つまりは「縮小(shrink)」です。逆流させることは不可能だと断言はできないけれど、まず極めて困難だと思われます。近代国家とか、近代社会という社会現象(変化)がみられるようになって2~3百年ほどしか経過していません。その短い歴史を考えれば、国家を運営・維持していくには驚くほど「財政出動」「人的資源」の負荷が大きいということであり、それに耐えられなければ、自然消滅(衰退)するのを待つばかりでしょう。家制度が今日のように核家族化してしまうと、一個の家(家系)が消えてゆくのは当たり前に見られます。後継者が絶えれば、家の消滅は不可避だからです。

 少子高齢化は人口減少を必然的にもたらすし、この傾向は何処の社会にも見られる現象。よほどの政治力を用いない限り、人口減少に歯止めをかけることはできない相談でもあるとぼくには思われます。生活形態が一定方向に流れ、人口密集地が形成され、それが都市化という状況を生みます。一定・特定地域に人口が集中することで、生活環境が整えられ、それがまた人口増加を促す。しかし、それもある程度の域を超えると、一極集中によって「人口減少」が始まり、やがて都市化が過度の集中に耐えかねて破綻するという、このような過程を多くの世界的には大都市とされた地域で経験した来たのです。世界の「四大文明」はその達成度においては高度なものがありましたが、そのいずれもが消滅してしまいました。その大きな原因は「都市化」と「過度の都市化」だったと言われます。恐らく、ぼくたちの生きている時代もまた、「文明の繫栄と衰退」の道筋を歴史の法則のようにたどっているのでしょう。十年二十年の単位ではなく,五百年千年の単位で、事態は推移しているのではないでしょうか。この問題については、稿を改めて駄弁ってみたいですね。

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変る(変える)前に、本体は消える?

【小社会】改革ならず 橋本大二郎さんが改革派知事として全国に名を響かせていた頃、よく一緒に行動した一人が岩手県知事の増田寛也さんだった。その縁で取材する機会もあり、同じ改革派でも対照的だった印象がある。▶挑戦的でパフォーマンス色も見えた橋本さんに対し、官僚出身でもあった増田さんは実利的で穏健派。だからだろう。増田さんは3期で知事を辞した後、各方面で重宝される。総務相に抜てきされ、東京都知事選に担ぎ出され、人口減少問題の第一人者になり…。▶そして2020年、日本郵政グループのトップとして白羽の矢が立つ。当時、かんぽ生命保険の不正販売で窮地に陥っており、組織改革と信頼回復を託された。▶しかし不祥事は続いた。顧客情報の紛失や不正流用、下請け業者への不当行為。さらに先日は、集配業務での不適切点呼のまん延も分かった。▶小さなことながら増田体制での変化は見えた。元日に配る郵便局のあいさつ状のメッセージが本人の手書きになり、意欲が伝わってきた。昨年のそれにはこう記す。〈地域や社会に貢献していくことが郵便局の目指す姿〉〈進化を続ける日本郵政にご期待ください〉。▶文面がむなしい。増田さんは6月に退く。やはり穏健派には荷が重かったのか。あるいは、この半官半民の巨大組織の風土は変え難いのか。いずれにしても地方には心配な話だ。「〒」は過疎地のよりどころ。健全な組織であってほしいのだが。(高知新聞・2025/04/25)

 時々、郵便局に行く。以前ほどではないけれど、郵便局でなければ済ませられない用事があります。郵政民営化以来、何十年経ったか。まだ三十年も経っていないだろうと思いますが、郵便局の実態は大きく変わったと思う。郵政事業などという大きな話ではなく、近所の郵便局レベルでも、公社時代と名ばかりともいえない「民営化」では様変わりした部分もあるでしょう。細かいことは言うつもりもありませんが、ぼくが利用している郵便局はサービスのレベルが大きく落ちたと思う。それだからに、局員に対して注文を付けることも多くなり(「カスハラ」と紙一重)、我ながらいやななることが多い。つい最近、よく行く局で、旧価格の葉書を新価格の葉書に交換(百枚ほど)してもらったのだが、驚くほど要領が悪く時間ばかりがかかっていたので、「少し急いでくれませんか」と言ったら、局長?と思しき女性局員が「間違えるといけないから、丁寧にやっているので、もう少し待ってくれ」といかにも黙って待っていればいいの、と言わぬばかりの受け答えだった。とても嫌な印象を受けた。

 この郵便局に限らず、二、三の局でも同じ印象を持った。なぜだろうか。郵便配達に関してはそれほどの違いはなく、よくやって下さっていると思う。土日などを除いて、ほぼ毎日何かと配達物があるから申し訳ないと思いつつ、郵便局そのものに対する受け止め方は、我ながら厳しくなったと思っています。いろいろなサービスの点でも劣化してきていることは事実でしょう。ネットや通販万能時代ですから、従来の郵便事業がそのままで存続できなくなっているのは当然でしょう。それでも百年続いた事業を根本から変える、それもよく変えるというのは至難の業だと、誰もがわかる。郵政民政化、国鉄民営化などと時の政治課題として鳴り物入りで導入されたことでしたが、何のこともない、従来の公営公共意識が徐々にか急激にか薄れてゆくのも致し方ないという気もしてます。(これは大きな門だだとぼくには思われるのが、近年の職業意識・プロ精神の著しい退化・劣化です。プロドライバーが交通事故を起こすなど、ぼくには考えられなかったが、時代の偏かも原因しているのでしょうか。あるいは公共事業者の「不正」「犯罪」などの事件の多発などなど。ここにも、職業人意識の腐熟や腐熟があると思う。その背景は原因は何処にあるか、言うまでもないことですね) 

 「小社会」に出てくるお二人の元知事、ぼくは面識はありませんが、どんな仕事をされてきたかは、それなりに理解しているつもり。橋本氏(右写真)は元NHK記者だった。その時代から知っています。元総理の弟だった方。増田さん(左写真)も、知事以前の官僚時代から名前は知っていたし、知事時代、それ以降も「渡り鳥」よろしく公職を中断させることなく続けておられる。「絶滅危惧自治体」を公表したことでも名を知られている方。人それぞれの生き方がありますから、それを云々するつもりはない。このコラムで注目したのは、「改革」「革新」という政治姿勢です。どなたも、「改革」をお題目のように唱えられます。悪いことではないでしょうが、何をどう変えるかという点については、ほとんど成功していないのではないでしょうか。それまで右側通行だったものを左側通行に変えるというのを「改革」というなら、それは容易いこと。仕組みや制度を一新するのは目につきやすい。しかし、いかなる「改革」にも人間の意識や行動が伴うものですから、そこまでを含めて変えるというのは、まずありえないのではないでしょうか。

 「〈地域や社会に貢献していくことが郵便局の目指す姿〉〈進化を続ける日本郵政にご期待ください〉。▶文面がむなしい。増田さんは6月に退く」とコラム氏は厳しい採点をしておられます。橋本氏は元高知県知事だったから、そこはあまり触れないのは「武士の情け」か。(こう書くのは、コラム氏が「男性」と勝手に判断しているからで、もし女性であれば「淑女の嗜み」と言いたいところです)いかなる組織でも、それなりに長年続いているものは、一朝一夕に「改革」「刷新」するのは並大抵ではない、その事例には事欠かないでしょう。毎年何人もが替わるプロ野球やプロサッカーの監督人事を見てもわかります。そこにいるのは機械やロボットではなく、生きた人間なんですね。それも大人たちばかりとなれば、なかなか号令をかけても命令しても無条件に受け入れられるはずもない。ここが学校の教師と違うところ。教師なら、子どもたちよりはるかに心身ともに優っている(かどうか、怪しいものもいる)と自他ともに認める。「組織を変える」というのは、組織の人間の「意識を変える」ことでしょう。一年や二年で変わることはまずない。増田さんは何年やられたか。たかだか五年なら、結果は目に見えています。まして「お抱え」「お雇い」であってみれば、空に向かって空砲を撃つ、あるいは糠に釘をさすような「手応えのなさ」を痛感されていなかったはずはない。

 いったん出来上がった制度や組織、あるいは法律など、よほどの欠陥や問題点が明らかでなければ、おいそれとは変わらない、変えることは難しいということでしょう。よく「百年河清を俟つ」と言います。「《「春秋左伝」襄公八年から》黄河の水が澄むのを待つように、いつまで待っても実現する見込みのないこと」(デジタル大辞泉)百年とは長い間ということで、なかなか変わらない、変えられないという教訓です。政治の世界は「濁った黄河」であり、「郵便事業」も右に同じということになるでしょうか。変えよう、変えたいとの思いは同じでも、それを担う人間は数年ごとに代わるのですから、何をどこまでが繋がっていない限り、何時だって、誰だって、改革の「序の口」「端緒」についたばかりで、交代するということの繰り返しでしょう。そうは言いますけれど、おそらく「人間の心(意識)」こそが、「停滞」をこよなく愛する「澄まない黄河」なのではないかと思うことしきりです。そしてこの眠ったようなな黄河の流れが、時には荒れ狂って手に負えなくなる程の大災厄を齎すのですから、何とも怖いですね。政治の世界でも起こること。

 「この半官半民の巨大組織の風土は変え難いのか。いずれにしても地方には心配な話だ。『〒』は過疎地のよりどころ。健全な組織であってほしいのだが」とコラム氏は正論政論を吐かれています。その「よりどころ」に悪の為がまかれているとしたらどうしましょう。しかも、もっと危機的なのは、郵便事業が改革される以前に、ご当地、高知県本体が地上から消えてゆく運命にあるのではないですかと、余計なことを言いたくもなるのです。何度も言うことです。「人間の愚かさは完璧です」から、まるで鼬(いたち)ごっこで、あるいは土竜(もぐら)たたきで、やってもやっても、きりがないでしょうね。きりがないところに目・手をつけるかどうか、それが「革新」「改革」の眼目ですな。まさしく「根比べ」、ヴァチカンでは「コンクラーベ」というらしい。ケリが付くまでやるという、新たな「教皇」選びの話です。

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 国交省、郵便局に立ち入り 点呼不適切で「特別監査」  日本郵便で配達員の酒気帯びの有無を確認する法定点呼業務が不適切だった問題を巡り、中野洋昌国土交通相は25日の閣議後記者会見で、郵便局への監査を始めると明らかにした。事案の重大性を考慮して全般的に法令違反の有無を確認する「特別監査」で、国交省の係員が同日午前、東京都港区の高輪郵便局に立ち入った。
 中野氏は、輸送の安全を揺るがす問題だとして「厳正に対処する」と述べた。
 村上誠一郎総務相は、再発防止策の報告などを求める命令を、23日付で日本郵便に発出したと説明。「郵便のユニバーサルサービスに重大な影響を及ぼしかねない不備があったのは大変遺憾だ」と述べた。
 日本郵便によると、集配業務を担う全国の郵便局の75%に当たる2391局で、点呼業務を適切に実施していなかった。(共同通信・2025/04/2)(左写真:特別監査のため、東京都港区の高輪郵便局に立ち入る国交省の係員=25日午前10時1分)

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どこまでも「平凡」を外れない

❶ほぼ毎日、朝食と夕食はかみさんと一緒に食べる。昔から、ぼくは昼食は食べない。まあ、お酒を旨いと思いながら飲むための細やかな工夫だったかもしれない。実際は、勤めていた先の昼休みはあまり時間がなく、反対に近所の食事処はいつも超満員だったから、並んでまで食べたくなかったし、せかされて飲み込むように急いで食べる気がしなくなったのが、そのまま何十年も続くことになっただけ。その朝食や夕食の折には、二人で顔を見合わせて食事を摂ってもうまくなる気遣いもないので、仕方なくテレビのニュース番組を見ることにしている。ニュースかヴァラエティかよく分からないのがほとんど。昨日などは、なんと全曲が同時間帯に、つい先ごろお風呂の中で亡くなった女優の「お別れ会」を報じていた。「まとめて、どこかが代表してやってくれ」と叫びたくなった。まして、飯時にわざわざ、テレビでお葬式を中継(ライブ)するなど、なんという心ない仕業かと、何時だって、見る間もなく、電源を切ることにしている。(ヘッダー写真:「50万点を展示販売」中日新聞)(https://www.chunichi.co.jp/article/397277

 そこで、毎回辟易(ゾッと)するのが「物を食べる」「食べる物を扱う」、そんな番組に出くわす時です。大盛とか大食い、あるいは食べ放題とか、取り放題などという番組が目に余ります。食べ物を粗末にしているなあ、罰当たり目、とつくづく嫌な気分になります。キュウリや玉ねぎを袋いっぱいに詰め込めるだけ詰め込む。それが大売りや安売りの宣伝にもなるのでしょうか。あるいは中華や海鮮料理の食べ放題も、材料を粗末にしているじゃんと見るのも嫌になる。このことと左上の藤原辰史さんの指摘とどうつながるのか、語れば面倒なことにになりそうです。でも、「食」を粗末にする気分や精神が溢れているというところでは、消費行動、それも極めて低劣な消費行動がみられるのは間違いないところでしょう。「農業(食料)」の政治(学)は不在であると、ぼくには感じられてくるのです。目下の喫緊の課題・難問である「米価高騰」も、きわめて不愉快な、コメ・米を粗末に扱う金儲け現象の一端であって、文字通りに「めしのたね」を翻弄している気がするのです。また。今を時めかない「子ども食堂」の現実と「コンビニの食品廃棄」は同じ現実の裏と表ですね。

➋「正義」の大合唱でなくても、「君は悪い」と何人かの前で詰(なじ)られれば、誰だって「立つ瀬」がないことになる。NGやアウトではなく、OKやセーフの「余白」の世界的広がりを訴える木ノ戸さん。「よくぞ言われた」と思います。小さいころ、テレビがだれでも観られる時代の発端で、大変熱心に見た番組に「月光仮面」がありました。「どこの誰かは知らないけれど 誰もがみんな知っている 月光仮面のおじさんは 正義の味方よ 善い人よ」(川内康範・作詞 小川寛興作曲)(放映開始は1958年)本当に手に汗握って観たものでした。後年、「誰でしょう?」という「月光仮面」、こと祝十郎は、女優の高千穂ひづるさんと結婚した大瀬康一さんだった。

 とにかく「正義の味方」は白覆面に白バイク(時速は30キロぐらいが最高)、まるでおまわりさんのような格好でどこからか突如現れ、どんな難問も難事件も、たった30分足らずで解決し、どこへともなく消えて行く。その行き先には必ず「祝十郎」がいたものでした。またがるバイクは「ホンダドリーム号」。よくできた、できすぎた勧善懲悪オンリーのドラマで、ぼくの「正義感」はこの番組で大きく醸成されたようです。まるで宮沢賢治のような思想の持ち主(「どこかで不幸に泣く人あれば かならずともにやってきて…」)だということもわかりました。

 「安易に振りかざす正義」はやがて自分の首を絞めることになると、施設長さんは言われる。ぼくは長いこと学校みたいなところにつとめていたので「安易に振りかざされる正義」や「これ見よがしの正義感」に辟易していました。学生時代から、大人は「二枚舌」であり「表裏のあるのが人間」とたくさんの実例を通して学びました。もちろんぼくも「二面性人間」だということです。悪いところを責めるのではなく、「いいところ(セーフ)」という「余白」を広げるのがいいのではないですかという指摘に、とても感じ入った次第です。。

どこかで不幸に 泣く人あれば
かならずともに やって来て
真心こもる 愛の歌
しっかりしろよと なぐさめる
誰でも好きに なれる人
夢を抱いた 月の人
月光仮面は 誰でしよう
月光仮面は 誰でしょう
Source: https://animesongz.com/lyric/3945/19936

➌高校生の頃だったか、三島由紀夫という流行作家の箴言 (maxim)を読んで、とても感心したことがあった。「人は非凡を目指して平凡になる」というものだった。非凡も平凡も、当時はよく分からなかったが、その言葉の綾だけで、「三島さんは格好いいことを言うものだ」と気に入ったのでした。その三島さんはどうだったか、ぼくには判らない。彼は非凡だったのではなく、いきなり異常な境地に飛び込んだのかもしれないと思った。言う必要もないのですが、三島さんを「介錯(かいしゃく)」した森田某は三重県出身、ぼくの大学時代の一年後輩、友人でした。

 平凡・非凡に関して、そこへ行くと柳宗悦さんの表現は柔らかくもなく、易しくもありません、ただひたすら辛辣だなあと、これにも感じ入った。「非凡なものにでなくば」というのは「非凡」と衆目の一致するもの以外に、ということでしょうか。誰もが「あれは非凡だ」というのは、しかし、とても平凡でしょ。奇抜とか、奇を衒うというのは、実に陳腐であって、平凡ですらないとぼくには思われてきます。それを世の中では「芸術」とか「音楽」「文学」などと、言っているんじゃないですか。現代建築、あるいは木造リンクなど、陳腐以下でもあるといいたいですね。高名を誇る建築家(だけではないが)、芸術的建物を建てる(設計する)と言われるけれど、内部には雨水をためるバケツ置き場まである、だなんて芸術を食い物にしているという気もするのです。アントン・チェーホフだったか、雨が降ったら「雨が降った」と(当たり前のこととして)書くばかりですと言ったそうです。知識人は、そこに美しい形容詞を加えたいのですね。

 一人の人間にあっても、そこに「人間がいる」という、そのことで十分で、その人が何をした、かにをしたなどというのは、「雨がざあざあ」とか「小雨がぽつぽつ」などという余計なものを加えて「雨」を台無しにするのと同じ。

 「非凡なものにしか非凡を見いだせない」、それはなんという平凡なことだろうか、と柳さんは言う。ここで「非凡」と「平凡」を並べる・比べるのは能のないこと、実に陳腐ですね。「あの人はいかにも平凡である」という評価こそ、そう評した人が気付いているかどうかは別にして、「なんとも『平凡』なこと、そのことこそ『非凡』」だという、とても大事な指摘ではないでしょうか。柳さんは、京都に住んでいた時代、しばしば東寺に出向いた。そこでは毎月の決まった日に瀬戸物市(弘法市)が立っていたからでした。並べられている「瀬戸物」はすべて、近在の婦人(かみさん)たちが普段使っているような雑器ばかり。売主本人たちが「これは下手物(げてもの)」と言っているのを耳にして、柳さんは「民芸」の核心をつかんだと、どこかで書かれていました。「並の品。粗雑で安物の工芸品」(デジタル大辞泉)にもまた、「人々の無数の痛い経験と忍耐と工夫が沈殿している」と鷲田さんは(柳さんに倣って)指摘(解説)します。

 人間についても同じようなことが言えませんでしょうか。こう解釈(解説)した上で、だからぼくは「下手物だ」というのも、なんだか気不味(まず)いというか気恥ずかしいというか。下手物の反対は上手物(じょうてもの)です。多くの人間は何とかして「上手物」になろうと努力し、教育を重ね経験を積みますね。でもその多くは「下手物」にすらなれないと言ったら、罵りの雨嵐が襲うでしょうか。

 今でも出版されているんでしょうか。「平凡」という雑誌がありました。あるいは「平凡社」と呼ぶ出版社(1914年創業)、これは今も健在です。創業者は下中弥三郎さん。彼についてはどこかで触れています。丹波の出身、途中まで教師をしていた。この方は決して「平凡」などではなく、むしろ「怪物」然とした存在でした。この社名や雑誌名に込められた「平凡であること」への「思い」(「想い」)を知りたいところですが、それは稿を改めて。

➍(おまけ) (河合隼雄さんのジョークはできすぎですね。ずいぶん若いころ、ある学会で河合さんが講師になって「教育と心理」について話をされたことがあった。その際、彼が提出したレジュメは半分印刷され、半分は白紙でした。そのことについて、河合さんはユング研究者の異能をいかんなく発揮され、実に驚くべき冗談を述べられた。座布団十枚以上、そんな感動があった。その完璧な「ジョーク」に関して、どこかでぼくは書いています。もう半世紀以上も前の出来事です)

 (河合さんや柳さんについて、何かと思い出話を書いてみたいのですが、本日は止めておきます。柳さんに関して言うなら、戦時(占領)下の朝鮮半島に渡って、韓国陶磁器のすばらしさを発見し、また当時の政治状況のの中で、日本帝国に対して、精一杯の批判精神を文章にしたためた点、今なお、特筆大書すべきではないでしょうか。いろいろと批判はあります。けれども、その状況下で、誰がそれほどの姿勢を示しえたか、まあ、せいぜいが金子文子さんくらいのものだったでしょう。だから、その評価は大きくされなければならぬとぼくは考えています。河合さんに関しては、別の機会に。彼自身は教育学者でもあった方ですから、十分に論じられてしかるべきだと思う。)

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今は昔 竹取の翁 といふものありけり

 昨夜来の雨が降り続いています。場所によってはさらに激しく降り、暴風も吹き荒れるという予報です。ただ今は朝の6時半過ぎ。数日間の好天続きで、わが荒れ庭でも何種類もの花々が咲き出しています。しばらく前からは山吹、さらには石楠花(しゃくなげ)、あるいは躑躅(つつじ)、遅咲きの桜などなど、草花というように、とりどりの草や花がのびのびと育っている。ぼくたちは、その隙間を使わせてもらっているという塩梅。数日前からは、タケノコが地上に頭を出し、掘りだされるのを待っているようです。夫婦二人だけの生活(所帯)で、一本あれば十分と、このところ、ほとんどとらないままでしたから、家の敷地の中と言わず外と言わず、びっくりするほど密集状態、まるで竹林の高齢夫婦と猫多数、そんな林間生活が続きます。(・山吹の咲きたる野辺のつぼすみれこの春の雨に盛りなりけり 高田女王)

 世上、何かと物情騒然で、狭くなった世界(地球)であってみれば、はるか遠方の暴君の圧政や悪政が、たちまちのうちに我が陋屋にも響くのですから、おちおちと構えてはおられないというありさま。アメリカが崩落寸前の政治経済の惨状を見せています。その昔なら、「対岸の火事」と見物を決め込めたかもしれないが、朝にアメリカが嚏をすれば、翌日当方が高熱を発するという始末。効き目抜群の風邪薬も払底して、数日間は寝込んでしまうような情けなさ。これは政治経済に限らず、人心惑乱の混沌は、直ちに極東の島社会にも波及するから始末に悪い。本日は、しっとりと濡れた草花に託(かこ)つけて、駄句をいくつか披露しようとしているのですが、余計ないたずらは災いの元と、それは止めて名句秀句に席を譲りたいと思います。(・ほろほろと山吹ちるか瀧の音 芭蕉)

 昨日のコラム「小社会」もまた、何かとやり切れない世情を写しています。辺鄙な田舎暮らしをしていると、先ずお目にかからないのが「路上生活者」、いわゆる「ホームレス」というのでしょうが、都会から離れたこの十年余、困窮の度は深まりつつあるのですから、減ることはないのでしょう。そしてまた、いきなり暴力沙汰に及ぶ窃盗、強盗、空き巣ばやりの当節です。「鳶に油揚げ」とは言ううもの、「不労者に現ナマ」とは聞き捨てならないけれど、これがまた横行に横行を重ねているのはどうしたことか。「人口減少と過疎高齢化が進めば、孤立や孤独死がさらに増えかねない」というのはお説の通りですが、都会のど真ん中で起こっている現実でもあることを想えば、背筋も心臓も凍りつつ縮みあがります。(・石楠花の紅ほのかなる微雨の中  飯田蛇笏 )

 あらゆる場面で「縮小(shrink)」「削減(reduction)」が止まらないとなると、これまでの生活様式(カルチャー)そのものの修正・訂正が求められる。しかし「習い性」となったものは一朝一夕には変更がきかないから、身の丈に合わない不細工な生活のままで、精魂が尽きてしまうのも致し方ないというべきでしょうか。たった一人で没するもよし、身元不明の死者になるもまたよし、すべては歴史の淵に沈みゆく「無縁仏」という人知の及び難い摂理が幅を利かせます。こうなれば、そうでも言っておくより仕方がないではないですか。「人情紙風船」という映画が半世紀以上も前にありましたが、紙風船の質がさらに劣悪化しているのが、都会生活であり、それに追いつかんとばかりに劣化の一途をたどる田舎暮らしです。(・雨に咲き石楠花雨に終りけり 小島延介)

 「折しも県人口の65万人割れが報じられた」とコラム氏は高知の現状に触れておられます。この先、高知県は存在し続けられるのかと、他人事のように気を揉んでは見ますが、何、明日は我が身であり、我が国の身です。高知は愛媛や徳島と合併するか。四国は三国になり、やがて二国から一国になるのかもしれません。いずれ、元四国という「一国」は文字通りに独立国として厳しい道を歩くのでしょう。「改めて幸せな縮み方を考えさせられる」と記者氏。その一大杞憂を他所事のように、国会や政府政党は、やれ「関税だ」「減税だ」、いまこそ「現金給付だ」「参議院選挙だ」と能天気な暇論議(空論に等しい)に現(うつつ)を抜かしています。死ぬまで、この事態は変わらないでしょうねえ。(・帰り咲くつつじやさしや紅さして 山口青邨)

【小社会】飽食の裏側 バス停の前を通ると、いつも思い出して胸が締め付けられる事件がある。東京勤務だった2020年、ちょうどコロナ下で、人混みを避け、深夜のジムでよく汗を流していた。
 終わる時間帯には電車もなく、20分ほど歩いて自宅へ。すると途中のバス停にいつも60代ぐらいの女性が1人、座って寝ていた。路上生活者らしく、大きな荷物を抱えて。
 犯罪に巻き込まれないかと気になりつつも、東京に路上生活者は珍しくない。声もかけずに通り過ぎていたが、秋のある日を境に姿が見えなくなる。代わりに白い花束が。女性は亡くなっていた。あろうことか男に殴られて。
 「痛い思いをさせれば、いなくなると思った」と男。女性は日雇い労働をしていたが困窮し、所持金はたったの8円だったという。これほど人の多い街で、誰からも救いの手が差し伸べられず、見ず知らずの男に殺される。冷酷な大都会が、自分自身が嫌になった。
 殺人でなくても幸せな最期とは言い難い例が全国で増えている。生前、社会的に孤立し、そのまま誰にもみとられずに自宅で亡くなる人が年2・1万人を超えるとの推計が発表された。
 人口減少と過疎高齢化が進めば、孤立や孤独死がさらに増えかねない。所得の二極化、都会と地方の格差拡大も指摘されて久しい。これが飽食日本の裏の一面だ。折しも県人口の65万人割れが報じられた。改めて幸せな縮み方を考えさせられる。(高知新聞・2025/04/23)

(ヘッダー写真:「山裾を鮮やかに 日野・滝山公園、ミツバツツジ見頃」日本海新聞・2025/04/22)(https://www.nnn.co.jp/articles/-/512899)

 改めて、わが拙庭を見ます。と、雨に濡れながら、山吹は一層鮮やかな「黄金色」を光らせています。また透き通るような白と桃色の花びらが雨に濡れて、石楠花はその色彩を輝かせている。わが「別天地」とも言いたくなる荒れ庭です。そして、雨後の筍(竹の子)宜しく、眺めている目の前で、ぐんぐんと背丈を伸ばしている。ひょっとして、その一節(ひとふし)には「かぐや姫」が隠れて居はしまいかと、まるで「竹取の翁」の心境になっている。

 この人を今日風に「路上生活者」というべきでしょうか。希代の「放浪の出家風流人」は、どこにいるのか、気楽を旨にして(実は、死の苦しみを抱えていたのでした)、今日も歩いているようです。まるでこちらは、昭和戦前の「良寛さん」のようでもあります。

(・お寺の竹の子竹になつた 種田山頭火)

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志を果たして いつの日にか帰らん

 昨日、かつての同僚だった友人(二人)が拙宅近くまで、東京と神奈川から足を延ばしてくれ、茂原駅近くの寿し屋で何年ぶりだったかで他愛(たわい)もない話に時間を忘れて興じたことでした。一人は宗教学(日独両国の宗教思想)の大家で、彼の前ではぼくは口がきけないほど。彼とはこの二年、ごく短時間だが、話していました。この人には夏休みに、一家で御宿だったかに遊ぶ習慣があって、その帰りに声をかけてくれたのでした。もう一人とは、それこそ二十年以上も会わなかったかもしれない、実に久闊を叙すの体で、いろいろと昔話に耽(ふけ)った。好漢・好青年でしたが、今は好老人か。信州諏訪の出身で、それこそ、家代々だったろう農業(家業)の跡は継がずに、東京に出てきて、大学に入り、素敵な女性と出会い、可愛い娘さんに恵まれ、すっかり故郷(古里)とは縁切り生活で、今は川崎市内に住んでおられる。英語学かつ英文学の研究者で、元はクラシックギター(だったと思う)の演奏家として生きて行こうと思われたほどの玄人(演奏家)だった。(五歳か六歳ほど、ぼくより年下の「男の子」です。はたして、次回の「再会」はあるだろうかと、いやなことを想っている)

 残念ながら、その演奏には一度も接する機会に恵まれなかったが、教員生活を定年退職して、ギター演奏活動(練習)を再開される・されたという。今は、拙宅と同じ、夫婦二人の浪々(老々)生活らしい。そのKさんの話を聞くにつれ、「故郷」(カントリー・ハイマート)というものの来し方行く末を、柄にもなく案じたり懐かしんだりしたのでした。少なくない田畑も家屋敷も、後を継ぐ者がいなければ、積極的に処分するか、時間に任せて人跡(生活の痕跡)が朽ちるのを待つばかりということになるのでしょう。少子高齢化は、もちろんこの国ばかりではありません。でも、もっとも短時間で近代化への舵を切って、一足飛びに「帝国主義」の末席に座を占めた途端に、もはや、この先の展望も見出しがたく、人間と同様、老衰に魅入られ、その終焉を座して待つのみという、厳粛な歴史事実に、ぼくたちは直面しているのです。拙宅まで来て下さった二人を、土気駅まで送った。さらなる健勝を念じる次第。

TAKE ME HOME, COUNTRY ROADS / Olivia Newton-John)(https://www.youtube.com/watch?v=cTcNmPvbaiI&list=RDcTcNmPvbaiI&start_radio=1

 明治以降のおよそ百六十年で、この劣島社会は、御破算(ごはさん)というか、双六(すごろく)なら、「上がり(元に戻る)」になりそうです。山登りなら、さて、標高はどれくらいの頂上を極めたのか、ぼくの感覚では「203高地」(日路線の激戦地)程度であったろうと思うが、それでも国を挙げて昇ることに必死だったが、さて昇りきったら、頂上にはゆとりも時間もなく、瞬時に下山を強いられたという印象を強く持ちます。鎌倉以来の「士農工商」という、まるで中途半端な身分社会を数百年続けてきたが、それも維持しきれなくなり、お題目にせよ「四民平等」「文明開化」を謳った極東の島国が、「脱亜入欧」とお題目を唱えつつ西欧列強の尻尾にしがみつくようにして、アジアの隣人隣国を蹂躙したのは、文字通りに「悪夢」でしたが、今なお、その「悪夢」冷めやらぬ歴々(強面派)が、あわよくば「夢よもう一度」と惰眠の中に寝言を繰り返しています。

 毎日、惰性のままに各紙「コラム」を読みを続けていますが、これまた習慣化された「コラム記事」執筆という、各記者氏の過酷な日常業務に思いを寄せてもいる。その勤勉ぶりに頭が下がるといいたいのですが、まるで新鮮味や冒険心が感じられないから。いささかの同情心が起ってきます。「平野部から周回遅れの桜の開花も味わい深い。至宝の山菜だと確信する木の芽が待ち遠しい。のどかな地域でしか味わえない、ささやかな優越感を覚える」というのも、たしかな肯ける光景です。ぼくも、義母の故郷(西蒲原郡)だった新潟の地には何度も遊んだものですから、コラム氏のご満悦は分からぬでもありませんけれど、コメは高くなり、村や町は過疎化が著しい、そんな故郷にいて、「優越感」に浸っていていいんですかと、少々苦言めいたものも出ないではありません。とまれ、この国の五十年先が丸見えのような、この数年の国情停滞、民心頽落の現実を如何ともしがたく、拱手傍観、することもなく見逃すほかないような「政治不在」の因果の顛末です。この駄文集でも何度も歌った「兎老いしあの山 小鮒死にし彼の川」に思いを馳せる。犀星さんではありませんけれど、「故郷は遠くにありて思うもの」を、今改めて噛み締めています。「国破れて山河あり…」という、いまさらの感情も湧く。

【日報抄】新潟市など県内の平野部は桜の見頃も過ぎた。気温が上がり初夏の装いだが、お忘れなきよう。中山間地では、まだ雪をかぶった農地も少なくない▼雪解けが進むこの時季、豪雪地には特有の空気がある。正確に言えば、あると信じている。匂いもないので言葉ではうまく言い表せない。陽光が降り注ぐ日に、鼻の奥までスーと入り込み、心も体も浄化されるような気持ちになる▼少しひんやりとしたその空気と結びつく景色は、雪が消えかけて土が見える田んぼだったり、雪解け水が勢いよく流れる川の岸だったり。水蒸気が多く含まれているのだろうか。マイナスイオンかもしれない。遠い子どもの頃から体に備わるセンサーが反応する。だから懐かしい▼そんな春の空気をまとう故郷の地を週末に訪ねた。この冬は、何度か雪下ろしで通った。1階の屋根まで届いていた雪の塊は、すっかりしぼんでいた。あの労力は一体何だったのかと、なんだか口惜しくもある▼残雪の脇でスイセンの芽が顔を出していた。山並みに新緑がもえだすのは間もなくだろう。平野部から周回遅れの桜の開花も味わい深い。至宝の山菜だと確信する木の芽が待ち遠しい。のどかな地域でしか味わえない、ささやかな優越感を覚える▼先日の本紙窓欄に、津南町の72歳女性の投稿が掲載された。特産である甘い雪下にんじんを生で味わい「体の中に春を取り込んで元気をもらっています」と弾むようにつづっていた。エネルギー充塡(じゅうてん)。また1年、頑張れますね。(新潟新報・2025/04/22)

(NHK名曲アルバム「唱歌 ふるさと」https://www2.nhk.or.jp/school/watch/bangumi/?das_id=D0005230042_00000

【余録】望郷の詩句として名高い室生犀星(むろうさいせい)の「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」である。実はこれ、遠方にあって故郷を思う歌ではなく、犀星が郷里の金沢に帰郷したおりに作られた詩という▲東京で思うにまかせぬ暮らしを強いられ、懐かしい故郷に帰っても温かく受け入れてもらえない。その悲哀、郷里への愛憎半ばする思いが「遠きにありて……」の言葉となったらしい。故郷とは時に複雑な思いを呼び起こす場所である▲遠きにありて思うか、帰って父母や旧友と親しむか。思いは千々(ちぢ)に乱れる今夏のお盆となる。全国的なコロナ感染拡大局面で迎えた帰省シーズンである。思いが乱れるのは、政府の説明や情報が要領を得ず、判断の基準に迷うからだ▲帰省の是非について高齢者への感染を懸念するコロナ担当の閣僚と、Go Toトラベルを推進する官房長官とで足並みが乱れていた政府である。専門家の提言を受けての政府の姿勢は結局、国民各自の判断にまかせるものとなった▲「帰省」とは郷里に帰り、父母の安否をうかがうことが本来の意味という。高齢の父母や縁者の感染・重症化のリスクをまず初めに考えるのは当然であろう。感染が広がればすぐに危機に陥る地方の医療事情も心にとめねばならない▲人と故郷の事情は千差万別だから、「遠きにありて」を「悲しくうたふ」人ばかりとは限らない。遠く隔たっていても一緒に楽しく歌えるオンライン時代の「帰省」に工夫をこらすお盆も悪くなかろう。(毎日新聞・2020/08/07)

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「軒を貸して母屋を取られる」寸前

 昨日は「穀雨(こくう)」初日でした。「『穀雨』は春の最後の二十四節気で、晩春にあたる時季です。今年は4月20日(日)から5月4日(日)までが穀雨の期間です。穀雨のあとには、夏の始めである『立夏』が続きます。/ 穀雨とは『春雨が降って百穀(ひゃっこく)を潤す』の意で、百穀はいろいろの穀物のことをいいます。つまり、この時季に降る雨はさまざまな穀物を育ててくれる恵みの雨なのです。」(ウェザーニュース)(https://weathernews.jp/s/topics/202504/190145/

 近在の農家さんたちの「田植え」は、一週間程前ですっかり終わったようです。その昔、「田植え」と言えば、一年の最大の農作業・行事で、一家はもちろん、一村が総出で「そろた そろたよ 早苗がそろた」と、まさに一大祭りの如くに賑々しく、かつ豊作への祈りをこめて「田植え」に挑んだものでした。小学校に入りたてのぼくも、よろけながら稲運びをしたもの。自分の前世は弥生人だったことを忘れていません。いまでは、文明の利器というのか、精巧かつ高価な農機具の出番、たった一人で何反もの田植えを、一日限りでこなす。その場面を目の当たりにするのは、実に驚くべき光景です。田んぼに水を張ったのが、三月末頃、そろそろ田植えかと思うのも束の間、気が付いたら、すっかり植え終わっていました。あっけないとは見る者の勝手な言い分で、実は大変な作業なのは言うまでもないことです。(ヘッダー写真「言葉を失うほど美しい、四季折々の『ベトナム棚田絶景』」TABIZINE・https://tabizine.jp/2014/03/10/6975/

 拙宅は市原市と茂原市に隣接していますので、同時に三か所(自治体)の田んぼ(田植え)事情を常に見ることができます。この4月、田植えをしない田んぼが、いずこも相当に増えたという印象を持ち、昨今の米価高騰の状況に、何かおかしい、不可思議なという観察をしています。一年前の二倍は愚か、もはや三倍にも米価が値上がりしている現状は、どこかに明らかな「不正」が存在していることを示しています。あらゆる方面に不正や不正直が瀰漫するのは、なぜかと問うこと自体に、腹が立つのを抑えられません。確かな「法治国」じゃないんですね。どんな悪いことをしても「放置国」だったのだ。農業は儲からないと言われればそれまで。それでいいではないかとは言いません。農家も資金がなければ話にならないのは当たり前ですが、生き馬の目を抜く様な、消費者の裏をかくような「金儲け」が農家・農業にも及んだかとなると、消費者の心も穏やかではないでしょう。五穀豊穣ならぬ護国豊穣、我のみ豊穣など、いかにも殺風景に過ぎますからね。

 「誰がどうしてる、こうしている」と金儲けの算段をなどと、あらぬ噂が耳に入ります。その信憑性は確かめようがないから、放置するとして、その間にも5キロのコメが6千円にも跳ね上がる現実に、ご飯を食べようという気も失われるばかり。一人親世帯の悲鳴が、ぼくのところにも飛び込んできます。いくつかの「しんどい親子・生活苦しい家庭支援NGO」の名ばかりサポーターをしているので、年中米が足りない、食費が足りない、何とかならないかとSOSが届く()。ふんだんにある金ならいざ知らず、なけなしの「金貨銀貨」を食いつぶしている身としては、背に腹は代えられないけれど、「義を見てせざるは勇なきなり」と、これまたなけなしの正義感を振り絞って「ドネーション」に大童(おおわらわ)です。「昨日の我が身」「明日は我が身」の心境・心持ちです。

「お米5kgの平均価格が4000円超えで過去最高となりました。2024年度の食料支援は3月分で終了しましたが、「いただいたものは少しずつ食べること」「食べられることは当たり前ではない」と子どもに言い聞かせているというお母さんからのお手紙に胸が苦しくなりました。子どもたちが、何の心配もなく、お腹いっぱい食べられる日本であってほしいです」しんぐるまざあず https://www.single-mama.com) 

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 そんな気分に襲われている時に【有明抄】の「犬派」「猫派」暇つぶし論に邂逅しました。猫や犬を「飼う」という感覚がぼくには薄い。どちらかというと、「子どもと暮らす」という状況に似ていなくもない。つまりは「ペット」などではないのですよ、ぼくにとって。小さいころから、中断しながら犬や猫と暮らしてきました。現在地に越して以来、目に余る(多すぎて)「猫たち」と暮らしている。だから、ぼくは「猫派」かと訊かれたら、何と答えようか。「犬や猫を飼うことで得られる満足感は、年収が7万ポンド(約1300万円)増えるのに匹敵するとか」など、どこの世界の与太話かと大きな疑いが湧き出てくる。さらには「犬猫がもたらす満足感は年収増ばかりか『結婚と同等の価値』とも」と言ってくれる。何という研究ですか。「結婚と同等の価値」って、どんな価値なんですかと、訊ねたいね。なんとでもいえるさ。

 事のついでに聴きたくなりますね、「子ども一人を飼うと、どれくらいの年収分の増加になります?」と、ね。子どもをペットにする輩もいるし、犬猫にパンツやチョッキを着せる御仁もいる。そこまでするなら、犬や猫も家族だ、「扶養手当」を出してくれと、無粋なことを放言したくもなる。拙宅では、いろいろ取り混ぜて、「ただいま二十匹(前後)」の猫たちが屯(たむろ)し、陋屋を占拠し、湿気った財布を食い破りつつあります。「そういうとこがかわいいんだよね」とは東海林さんだ。いい気なもんだねと、混ぜ返しくなります。ぼくは、犬派・猫派を越えて野良派です。

 (「二十匹前後」というのは、常に出入りがあるからです。我が家が猫の「学校」であるなら、登校拒否もあれば、閉じこもりもいる。飯だけ派もいれば、他家猫もいるという具合で、彼や彼女たちの邪魔にならぬ程度に、ぼくたち夫婦は遠慮しながら、軒下を借りて暮らしている。イノシシはいつでも庭を荒らし回り、最近はアライグマ(狸?)までが出没しだしている。まさに、わが「動物貧国」ですね。

 「軒(庇・ひさし)を貸して母屋を取られる(Give him an inch and he’ll take a yard.)」って、本当に、現実にあるんですよ。

【有明抄】「犬派」「猫派」の価値 わがままで、気まぐれで、ひとの気持ちなどお構いなし。こんな隣人がいたら、誰だって頭にくる。それが猫だとなぜか「そういうとこがかわいいんだよね」となる◆台所のみそしょうゆ並みに、犬猫を家に切らしたことがない、という漫画家の東海林さだおさんが書いていた。犬は日々気をつかって生きている。立場をわきまえ、忠実にまっすぐご主人さまを見つめる…。このあたりの習性に「猫派」「犬派」を分かつ秘密があるのだろう◆英国の研究では、犬や猫を飼うことで得られる満足感は、年収が7万ポンド(約1300万円)増えるのに匹敵するとか。猫は心の健康に効果があり、犬は散歩で運動や他人と交流ができて認知症や筋力の衰えが防げる。そんな医学データもあるから、「お金の方がいい」などと無粋なことを言ってはいけない◆獲物を狙っていて、あと一歩で気が変わり体をなめ始める猫。成果がなければ失敗とされる人間と違い、途中が面白ければいい。そんな生き方がうらやましい、と東海林さん。私たちはペットに「なりたい自分」を重ねているのかも◆ついでながら英国の研究では、犬猫がもたらす満足感は年収増ばかりか「結婚と同等の価値」とも。なに、そりゃ違うだろうって? 家庭の平和を願う研究の信ぴょう性にもかかわることゆえ、これ以上の言及は厳に慎みたい。(桑)佐賀新聞・2025/04/20)

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「徒然に日乗」(722~728)

〇2025/04/20(日)昼前に買い物で茂原まで。予報では本日も高温だと言われていたが、今にも降りそうな曇天が続いた。▶帰宅後、鎌倉のAさんから電話。昨日、当方から二度ばかり携帯に電話をしたが、繋がらなかった。送っていただいた論文のお礼を。久しぶりだったこともあり、長々と話した。何年ぶりか。曖昧な記憶だが、おそらく東日本大震災発生時以来だという。その際には、都内上野辺りで逢った記憶がある。その後、彼は宮城県の国語教師業を定年で退職し、鎌倉に転居したと思う。父親の旧居に住むことになったという。細かいことは聞かなかったが、5月の連休明けくらいに再会しよういう話になった▶小一時間ほど、庭の草取りをした。蒸し暑い日で、あまり長くは続けたくなかった。スローペースで、気長に草木と戯れようと思う。(728)

〇2025/04/19(土)午前中、ほんの一時間ほど庭作業。驚くほどの高温で、早々に引き上げることにした。隣の市原市地区では30℃直前まで上昇。4月段階で30℃の記録も出る気配。この先が思いやられる。群馬県の舘林では午後に30度を超えたという。明日も同じように真夏日級の高温が記録されそう▼米大統領はFRBの議長の首を切ろうとしている。関税政策の出鱈目で、株価下げ、ドル安、国債投げ売りと「トリプルパンチ」を浴びたのは、関税問題ではなく議長が「金利を下げないからだ」と放言し、全能の神宜しく、彼の解雇を主張しだしている。まるで我が邦の故元総理の政策紛いと同じ。日銀総裁の首を挿げ替え、国債は無際限に増刷し(その大半を日銀が買いとる)、株価をひたすら上げることに専心。企業に多大な利益をもたらした、その結果、今日の惨状を招いたのだが、米大統領も同じ轍を踏むのか。アメリカ売りがさらに助長されるだろう。この馬鹿殿に文句の一つも言えない愚者の取り巻き、それがアメリカ政治権力の中枢にいるのだ。日米関税交渉とは何だろうと、あらためて根っこにある問題を考えてみる▶卒業生のAさん(鎌倉在住)からレターパック。現代韓国に関する二本の論文が入っていた。(727)

〇2025/04/18(金)お昼前に目医者に。大変な混雑。しかし、意外に早く診察の順番が来た。ほとんど治癒したようで、「やはり虫刺されだったか」と医者。「あるいは皮膚科に行くべきだったね」とも。「今からでも行かれるか」と訊かれて、「結構です」と。また、この後「一般の目の検査をしますか」と訊かれたが、「今回は止めておきます。いずれ、少し目が悪くなったら」と答えて、今回の診察を終えたことにする。これでまずは、目医者の診療は終了▼T氏からメール。21日の件、予定通りに午後一時前の電車で、茂原駅に来るという。小沢氏も同じ電車か、とも(726)

〇2025/04/17(木)陽射しもあり、好天に恵まれる▼午前中に買い物で茂原に。物価高騰が収まる気配がないのは、政治不在が厳然と存在しているからだ。ガソリンも、当地では1㍑当たり180円を超えている。未曽有の高止まり状態。それぞれが絡みながら、何時までも続く物価高を当然視している用紙が伺える。紛れもない「増税」に手を貸しているとしか思われないのだ▶庭作業をするつもりだったが、本日は中止。体力の消耗えを防ぐため。少し気温が高く、20℃程度で、大量の汗が出てくる。体力の消耗を防ぐことの方が、草取りをするよりも、現段階では、わが身にとってはるかに重要。(725)

〇2025/04/16(水)午前6時過ぎに「ビン・カン回収」(月一・第3水曜日)に合わせて、袋に詰めて回収(収集)所に持っていく。少しは猫缶の数量が減った気がする。同じ種類のものに飽きてきたのだろう。代わって、最近、外にいる猫が、増えてきている。始めは一つ、やがて二つになり、今では三つにまで。いずれも近所の猫(野良同然の扱われ方)と純野良君たちである。家の猫たちと同じものを食べるので、全体としての分量は変わらないのだ。気候が暖かくなってきたこともあり、冬季の間は中断していた「フロントライン(蚤・マダニ等の駆除溶液)」を始めた。この薬も値上がりしている。18本で一万五千円弱。これを年間(約10カ月)続ける。大変な費用になる。四日ほど帰ってこなかっ♂が戻ってきた。あちこちに怪我(喧嘩だろう)をしている。この時期、♂だからということもあるだろう。真夜中であれ、早朝であれ、喧嘩の声が聞こえたら飛び出すことになる。大怪我をされては大変だからだ▶久しぶりに庭作業。主に草取り。時期が遅れたが、百日紅(さるすべり)の枝落としなど。かみさんもやってくれていた。(724)

〇2025/04/15(火)朝方少し雨が残っていたが、午前中からは快晴。ごみを焼却し、少しばかり庭の草取りをした。この数日間は晴れと雨の代わりばんこで、庭の草たちが思い切り成長した。その伸長力の勢いは驚くべき。桜も一段落で、東側の竹藪の山桜は、おとなしく満開を迎えている。樹齢は何年ぐらいだろうか。少なくとも百年どころでないことは確かだと思う。本当に少しずつ、庭作業を始めたい▶明日は「ビン・カンの収集日」、例によって猫缶とペットボトルの運び出しの準備をした。小さなペットボトルが相当数溜めてあったので、それも一気に準備(ラベルはがしと踏み潰す)した。これらを明朝早く、備え付けの収集ネットに詰めるので、朝一番に袋を取りに行く予定▶夜9時ころだったろうか、猫が変えるのを待って居間にいると、暗い中でもそもそ動く影が見えた。ひょっとして、と思ったら案の定だった。去年の秋ごろだったか、同じような時間帯に、小さな影がガラス戸越しに映る。よく見ようと戸を開けた途端、鼻さきに小さな狸が。相手も驚いたが、当方もびっくり。今夜来たのも、同じ一俗のものだったろうか。外猫用に「ドライフード」を軒下にたまに置くことがあり、それを目当てにしたのだろうか。このうえ、狸とまで付き合う気にはならないのだが。「狸」ではなく「アライグマ」かもしれないとも思っている。買われていたのが野生化し、繁殖したと県の報道には出ていたので。なかなかに獰猛らしい。(723)

〇2025/04/14(月)昨日の雨天から一転、穏やかな陽光に恵まれた▼午前中に眼科医に行く。虫に刺された傷口から黴菌が入って化膿したのか。土曜日の診察後に帰宅して、それがはっきりしたと思う。二日経過し、腫れも引いたし、目の痒みも薄れた感じがする。その旨を医者に話し、処方された薬(点眼薬と塗り薬)を続け、今週末の金か土に再度診察の段取り。このままで治癒してくれることを願う▼午後3時ころ、元同僚のI さん(数量経済・統計経済学者)から電話。彼は熊本の人。現在は千葉の柏市に居住。21日(来週月曜日)に昔の仲間(同僚)で集まる会、残念ながら急用でキャンセルとのよし。早速、Tさんに連絡しておく。T さん、寿司屋の予約は取れたのかどうか。(722)

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